日本窒素コンツェルンの延岡工場を源流とし、1931年に延岡アンモニア絹糸として設立された。アンモニア合成技術を起点に繊維・火薬へ展開し、戦後に旭化成として独立。1961年に就任した宮崎輝社長のもとで石油化学・住宅・医療機器への多角化を推進し、「健全な赤字部門」の方針で新事業を育成した。1992年の宮崎氏急逝後は食品・酒類・化学繊維からの段階的撤退を進め、2012年以降は米ZOLL・Polypore・Veloxisなど大型M&Aでヘルスケア・電池材料を強化。マテリアル・住宅・ヘルスケアの三本柱体制に移行している。
歴史概略
第1期: アンモニアから繊維・火薬へ(1923〜1961)
日本窒素・延岡工場の設立と化学繊維への展開
1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に工場を新設し、カザレー式アンモニア合成法による硫安の製造を開始した。五ヶ瀬川の水力発電で得た安価な電力が立地の決め手であった。1927年には硫安の年産6万トンに達し、国内最大の硫安製造拠点となった。創始者の野口遵は欧州視察でアンモニア合成とともに化学繊維に着眼し、1922年に旭絹織を設立してビスコース人絹の製造を開始した。
1929年にはドイツから銅アンモニア法を導入した日本ベンベルグ絹糸を設立し、1931年に延岡アンモニア絹糸を設立した。この1931年が旭化成の公式な設立年とされている。1933年に3社が合併して旭ベンベルグ絹糸が発足し、さらに1943年に日本窒素火薬との合併で日本窒素化学工業が発足した。アンモニアという単一の化学技術から肥料・繊維・火薬という複数の事業が派生した構造が、旭化成の多角化の原型となった。
財閥解体による独立と繊維不況の到来
1945年の終戦後、GHQの財閥解体により日本窒素コンツェルンが分割された。延岡の繊維・火薬事業を担っていた日本窒素化学工業は日本窒素から分離され、1946年4月に旭化成工業に商号を変更して独立した。水俣の工場はチッソに引き継がれ、旭化成は後の水俣病の巨額賠償を免れる結果となった。独立後も延岡は事業の中心地であり続け、1977年時点で延岡の社員数は7413名に達した。
1960年前後、ポリエステルなど合成繊維の普及によりレーヨン・ベンベルグの競争力が低下した。アクリル繊維「カシミロン」でも大量の不良在庫が発生し、売上高純利益率は1957年の8.0%から1961年には1.3%まで低下した。社員の一時帰休を決定する事態に追い込まれ、繊維に依存する事業構造の限界が露呈した。この危機が宮崎輝の社長就任と多角化推進の契機となった。
第2期: 宮崎輝の多角化経営(1961〜1992)
石油化学への1000億円投資と「健全な赤字部門」
1961年に社長に就任した宮崎輝は取締役構成を刷新し、副社長と専務を同時に降格させるなどドラスティックな人事を断行した。繊維事業を合理化して年間約70億円の利益を確保し、その範囲内で新規事業の赤字を許容する「健全な赤字部門」の方針を確立した。1968年7月に山陽石油化学を設立し、売上高に匹敵する約1000億円を投じて水島コンビナートを建設した。
石油化学参入の前提として、合弁の旭ダウを通じて樹脂事業の顧客基盤を先行構築していた。旭ダウは1969年時点でポリスチレン樹脂の国内シェア約40%を確保し、家電メーカーとの共同開発で高収益を維持していた。1982年にダウとの合弁を解消して約420億円で旭ダウを完全子会社化し、原料から製品までの一貫体制を確立した。宮崎は「この機を逃せば永遠にチャンスを失う」と社内の反対論を押し切って投資を決断した。
住宅と医療機器への参入
住宅事業は1962年のソ連技術導入の失敗から出発した。シリカリチートは建材として実用性に乏しく累積赤字30億円を計上したが、1965年にドイツのALC技術に切り替え、1967年に「ヘーベル」の生産を開始した。1972年に代理店方式を廃止して直販体制に移行し、1974年に宮崎の秘書であった山口信夫が住宅事業部長に就任すると、3年間で売上高を70億円から370億円に拡大させた。首都圏の高級住宅市場に集中するドミナント戦略が奏功した。
医療機器はベンベルグ繊維の研究過程で発見された中空糸技術を人工腎臓のフィルター材に転用したものである。1974年に旭化成メディカルを設立し、参入から3年で黒字化を達成した。1982年には人工腎臓の国内シェア約30%で首位を確保した。片岡金吉らの研究チームは「技術者がもらえなかった。本当に強引に人を引っ張ってきた」と振り返っており、繊維メーカーの社内で医療分野に人員を配置するには抵抗があった。
宮崎輝31年の帰結と東洋醸造の合併
宮崎は1961年から1992年に急逝するまで31年間にわたり代表取締役として経営に関与し続けた。信頼する人物に新事業を任せる手法で建材に黒田義久、住宅に山口信夫、東洋醸造に小川三男を配置した。東洋醸造では小川が酒類から医薬品への業態転換を主導し、売上高の50%を医薬品に転換させた。1992年1月に旭化成は東洋醸造を合併し、医薬品の事業基盤を取り込んだ。
宮崎の多角化は旭化成に繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類という幅広い事業基盤を残した。しかし撤退には消極的であり、利益率の低さが課題として顕在化していた。1992年4月に宮崎が出張先で急逝すると、後任の弓倉礼一社長は「経営資源が分散し効率が落ちている」と即座に路線転換を表明した。拡大路線の限界は社内で認識されていたが、宮崎の存在が方針転換を阻んでいた構図が浮かぶ。
第3期: 選択と集中、そして海外M&Aへ(1992〜現在)
食品・酒類・化学繊維からの段階的撤退
1997年に就任した山本一元社長は部門別バランスシートを導入しROE経営を開始した。「旭化成は中小企業の寄せ集め。1兆円の会社という意識があるため受け止め方が甘くなる」と意識改革を求め、非中核事業の売却に踏み切った。1999年に食品事業をJTに譲渡、2002年に焼酎・低アルコール飲料をアサヒビールに、2003年に清酒・合成酒をオエノンHDに譲渡した。
創業の源流であった化学繊維も、2001年にレーヨン生産を停止、2003年にアクリル繊維の生産を停止した。石油化学については2016年に水島製作所のエチレンセンターを停止し、宮崎が「社運を賭けた」1000億円投資の設備を閉鎖した。ただし従業員のリストラは原則行わず配置転換で対応し、工場閉鎖も生産品目の変更で対応する方針を維持した。雇用を守りながら事業を入れ替える制約が、整理の速度を規定した。
大型M&Aによるヘルスケア・電池材料の強化
事業整理で生まれた財務余力は2012年以降の海外M&Aに投入された。2012年に米ZOLL(約1807億円)、2014年に米Polypore(約2100億円)、2020年に米Veloxis(約1472億円)、2018年に米Sage(約799億円)、2022年に米Bionova(約428億円)と、10年間で約7000億円規模の買収を実行した。メディカル事業では除細動器のZOLL、移植後免疫抑制剤のVeloxisを取り込み、電池材料ではリチウムイオン電池セパレータのPolyporeを傘下に収めた。
宮崎時代の多角化が自社技術からの派生であったのに対し、現在の成長投資は外部企業の買収が主体であり、成長の手段が変わっている。2024年3月期の売上高は2兆7848億円、営業利益は438億円でマテリアル・住宅・ヘルスケアの三本柱体制に移行した。30年かけて拡大し30年かけて整理し再び拡大に転じるという60年の循環は、多角化経営における拡張と収縮の時間軸の長さを示している。
旭化成の創業過程が示す構造的な特徴は、アンモニア合成という単一の化学技術が肥料・繊維・火薬という異なる事業領域への展開を可能にした点にある。延岡の水力発電で得た安価な電力と、そこから生まれるアンモニアを共通の原料基盤とすることで、一見無関係に見える事業群が有機的に接続された。この「共通基盤型の多角化」は、戦後の旭化成が化学・住宅・医薬品へと事業を広げていく際の思考の出発点になったと考えられる。