東レの歴史

旧商号:東洋レーヨン
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1926
1月

東洋レーヨン株式会社を設立

三井物産の子会社として設立

1926年1月に東洋レーヨン(現・東レ)が資本金1000万円で設立された。当時最先端の繊維として注目された化学繊維(レーヨン)の製造を行うことを目的としたが、すでに国内では帝人が先行しており、東レは後発参入に相当した。

会社設立時点において、東レは三井物産の子会社であり、実態としては三井グループにおける化学繊維部門を担当する企業であった(出資比率は不明)。三井物産としては、第一次世界大戦によって巨額の利益を確保しており、これらの利益を「化学繊維の研究開発および量産」に投資する意図があった。

すでに、1925年に三井物産において「特別室」を設置し、東レの設立準備に入っていた。

商号に「三井」を用いなかった理由

会社設立の時点で、社名を「三井レーヨン」にしなかった理由は、労働争議への警戒が理由であった。繊維産業は労働集約産業であり、ストライキの発生時に三井財閥に飛び火しないよう、あえて「東洋レーヨン」の商号を採用した。

滋賀工場の新設

東洋レーヨンの設立にあたって、1926年4月からレーヨンの製造工場の建設を開始。生産拠点としては「滋賀県(大津)」を選定し、滋賀工場として稼働した。生産品目はレーヨン(紡糸)であり、親会社である三井物産向けに出荷された。

滋賀県大津を選定した理由は、レーヨン製造にあたって技術採用した「二重送法」に最適な水質と判断したためであった。創業前に三井物産は国内20箇所以上の河川の水質調査を行った結果、最終的に「吉井川(岡山県西大寺)・庄内川(愛知県名古屋)・琵琶湖(滋賀県大津)」などを候補に選定。このうち、滋賀県は工場新設に対して財源の観点から協力的であったことや、庄内川の水質が再試験によって「不可」と判断されたことで、最終的に滋賀県大津に決定した。

技術者の育成

レーヨンへの参入を決定したものの、最先端の技術であり、技術者が不在という問題に直面した。東レとしては独自技術を志向した為、他社からの引き抜きも避ける方針を取り、大学を卒業したての若い技術者を育成する方針を決定。不足する技術については、外国からレーヨンの技術者を招聘し、外国人技師から若手技術者に継承する形をとった。

技術者の育成には三井グループが全面的に協力した。1925年に三井物産は4名の留学生を欧州に派遣し、1926年からは三井鉱山目黒試験所にて無機物の分析を開始するなど、三井系の各社が協力した。

滋賀工場におけるレーヨンの生産開始

1927年8月15日23時40分に滋賀工場の南紡糸室1号機から「最初の1本の糸」が出て、レーヨンによる紡糸の試作に成功した。その後、量産の準備に着手し、1928年1月に紡糸機40台を稼働させて滋賀工場におけるレーヨンの量産を開始した。

滋賀工場では、レーヨンの需要増大に合わせて増産を実施。1931年には国内のレーヨン生産において「シェア20%」を確保するに至った。

1925年
7月
三井物産に特別室を設置
1926年
1月
東洋レーヨン株式会社を設立
三井物産の出資比率 50 %超
1927年
4月
滋賀工場第1工場を竣工
1927年
8月
滋賀工場で紡糸の試作成功
1928年
1月
滋賀工場で紡糸の量産開始
紡糸機 40
1929年
6月
滋賀工場の完工
1931年
レーヨンで国内シェア確保
生産量シェア 20 %
証言
東レ・技術者の回想

今思い出すと、機械の前にいたものは、スターレー、アーダン、ボルトと私の4人。他の人々は第5号機や第6号機のブリーデングに一生懸命準備を急いでいた。まもなくボルト氏の手から繰り出された糸は、ボットムガイドからトップガイドへ、そこからさらにゴデットファンネルを通って、ボットの中に吸われていく。

出た!出た!待望の糸が。時まさに昭和2年8月15日午後11時40分。南紡糸室第1号機スピンドルナンバー第76号から、当社最初の1本の糸は出たのだ。コンディションは最上。16日の午前0時を期して、外人総出で第1号機に一斉に糸掛けされた。平田専務をはじめ、重立つ人々が現場にみえ、皆隠しきれぬ喜びを満画にたたえていた。

1938
2月

瀬田工場を新設

化学繊維レーヨンの紡織に参入するため、滋賀県内に瀬田工場を新設

1941
7月

国内2社を合併

戦時下における企業統合により、庄内川レーヨンおよび東洋絹織を買収

1949
5月

東京証券取引所に株式上場

1951
6月

米デュポンとナイロンの技術提携契約を締結

ナイロンに関する技術導入

1951年6月に東レ(田代茂樹・会長)は、合成繊維に本格参入するため、米国の大手化学メーカーであるデュポン社より合成繊維「ナイロン」に関する技術導入の契約を締結した。

東レは戦前の1927年に、デュポンがナイロンの開発を行っていることを認知し、自社でも研究開発を開始した。だが、戦時中に技術的に立ち遅れたため、技術提携を決定した。ただし、契約内容は特許実施権のみであり、ナイロンの製造に関しては独自技術を開発する必要があった。

なお、1951年の時点で合成繊維は国内では普及しておらず、衣服向けの繊維用途として適格であるかは未知数であり、繊維メーカー各社はナイロンの将来性に懐疑的であった。このため、東レによるナイロンの技術導入の決定は、繊維業界における異色の意思決定となった。

技術提携にあたって、東レはデュポンに対して技術提携料として10.8億円の支払いを決定。当時の東レの資本金は7.5億円であり、資本金を超過する投資を意味しており、技術導入に失敗すれば東レの財務体質が悪化することを意味した。

名古屋工場の新設(ナイロン製造)

東レはナイロンの量産を本格化するために、1950年5月に旧三菱重工大江工場(戦時中に航空機生産に従事)を取得した。ナイロンの製造は既存のレーヨン工場に併設する形ではなく、新工場の新設によって量産体制を素早く確立することを目論んだ。

東亜合成と提携(カプロラクタムの仕入れ)

ナイロンの製造にあたって、原料に「カプロラクタム」を使用することから、東レは安定的に原材料を調達するために、1949年に東亜合成と提携した。東亜合成は、カプロラクタムについて「亜硫酸ソーダ・亜硝酸ソーダ・亜硫酸ガス」を用いて製造し、そのために名古屋に工場を新設して、東レへの供給体制を整えた。

証言
田代茂樹(東レ・代表取締役会長)

東レの会長としての初仕事はナイロンの工業生産を実現すること、これに関連して米国デュポン社からライセンスを譲り受けることであった。東レはすでにナイロン日産5トンの工場建設を計画していた。用地は名古屋の三菱の旧飛行機組み立て工場を譲り受けることに話を決めた。デュポンの方は何度手紙を書いてもとんと返事がない。たまたまニューヨーク時代のボスだった手島知健さんが、ローアリークラブの用件で渡米されることを辛島さんからきき、手島さんに頼むことになった。

7月中旬、手島さんからデュポンの返事を伺った。「ノウハウはださぬ。特許譲渡しは考えよう。計画書を出してくれ・・・」ということであった。そこで関係者を集め計画書を作成して送った。11月12日の夕、九州からの帰途、芦屋の寮でデュポンのオファーを入手した。ロイヤリティーの前払いとして300万ドルを要求している。1ドル360円のレートで、10.8億円となる。資本金7.5億円をかなり上回る金額で、ウーンと思わずため息が出た。ビールを飲んでぐっすり眠った翌朝、手紙を再読していると、分割払いの考えが浮かんできた。これでいうと社長の袖山君にも話して、在米の岩永常務(現三井石油化学会長)に詳細を書き送り、デュポン社に伝えさせた。

1957

英国ICI社ポリエステルに関する技術提携契約を締結

1957年
英国ICI社ポリエステルに関する技術提携契約を締結
1958年
三島工場を新設(ポリエステル)
1961
4月

PNC法でプロラクタムの生産開始

ナイロン原料であるかプロラクタムの内製を開始

1962
9月

基礎研究所を新設

1970
1月

商号を東レ株式会社に変更

非繊維事業を拡大するために、商号を東洋レーヨンから東レに変更

1970
1月

樹脂・フィルムへの投資

千葉工場を新設

ABS樹脂生産のために千葉工場を新設

東海工場を新設

PPフィルム生産のために東海工場を新設

岐阜工場を新設

PEフィルム生産のために岐阜工場を新設

1970年
7月
千葉工場を新設
1971年
3月
東海工場を新設
1971年
7月
岐阜工場を新設
1971
8月

炭素繊維「トレカ」の生産開始

1975
1月

石川工場を新設(ポリエステル繊維)

1982
4月

B767向けに炭素繊維を供給

1982年4月に米ボーイング社は、12年ぶりに発表した新型旅客機B767(1981年8月4日に1号機を披露)について、胴体部分の炭素繊維材料メーカーとして3社「東レ・東邦レーヨン・米UCC(ユニオンカーバイト)」を指定。B767の登場に伴って、東レはボーイング向の航空部材として、炭素繊維の供給を本格化。

日経産業新聞:米ボーイング、炭素繊維メーカーに東レ・東邦レと米3社指定――航空機用複合材に。 , 1982/4/17
1985
7月

繊維部門の人員配置転換

日経新聞:東レ、繊維部門200人削減――新規事業に配転, 1985/7/12
1985

インターフェロン-β製剤の製造承認を取得

1987

前田勝之助氏が社長就任

1990
4月

B777向けに炭素繊維を供給

ボーイングB777向け部材を受注

1990年4月に東レはボーイングから次期新型機「B777」向けの炭素繊維部材を受注。尾翼を含めた主要構造材に採用され、炭素繊維の適用箇所が広くなり注目を集めた。

10年で800億円の受注計画

1990年の時点で、将来10年間にわたるB777向けの炭素繊維は受注額を800億円を予定。

日経新聞:東レ、新素材800億円納入――ボーイング社の次期機種用。, 1990/4/13
2006

B787向けに炭素繊維を供給

2010
3月

2期連続の最終赤字に転落

2014
2月

Zoltek Companiesを買収

風力発電翼向け炭素繊維材料

2014年に米Zoltek Companiesを買収。風力発電翼用途の炭素繊維複合材料を展開する企業であり、炭素繊維の販売先の拡大を意図した買収であった。

買収による株式の取得価額は1009億円であり、Zotekが保有する現預金を控除した「取得のための支出」は913億円となった。また、買収による「のれん」として232億円を計上した。東レとしては、1000億円弱の大規模な買収を決断した。

のれん減損へ

東レの意図に反して、2020年代を通じて風力発電所向けの需要が低迷。2024年3月期東レはZoltek社関連の「のれん」について全額減損(約139億円の減損)を決定した。

2014年
2月
Zoltek Companiesを買収
取得のための支出 913 億円
2024年
3月
Zoltek関連で減損計上
のれん減損 139 億円
2018
7月

TCACを買収

2018年にTenCate Advanced Composites HD(通称TCAC・オランダ本社)の買収を決定。同社は欧米において炭素繊維(熱可塑性樹脂・高耐熱硬化性樹脂材料)を展開しており、航空宇宙分野における納入実績が存在する企業であった。東レとしては航空機材料として炭素繊維を拡大するために、TCACの買収を決定した。

買収による取得原価は1171億円であり、「のれん」として657億円を計上した。東レとしては、Zotekに次ぐ1000億円前後の規模の大型買収を決断した。

2020
6月

米国で人員解雇

ボーイング向けの炭素繊維部材の販売低迷を受けて、東レの米国子会社において25%の人員削減を決定。

日経新聞:東レ、米炭素繊維事業で25%解雇, 2020/6/16
2023
4月

中期経営課題PJ「AP-2025」を開始

2023年に東レは3カ年の中期経営課題プロジェクト「」AP-2025を策定。成長領域として「繊維・機能化成品」を選定し、自動車市場(人工皮革・エアバッグ)・電子材料向けへの部材供給に注力する方針を打ち出した。なお、炭素繊維複合材料については、低迷していた航空機向け需要の取り込みを課題に掲げた。

2024
3月

政策保有株式の順次売却を公表

2025 (c) Yutaka Sugiura, Author
売上
東レ:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
24,645億円
売上収益:2024/3
利益
東レ:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
0.8%
利益率:2024/3
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