直近の経営方針: 2024年3月期 2026年3月期
帝人グループ 中期経営計画 2024–2025

計画策定の背景

帝人は戦後、レーヨンを起点として合成繊維、アラミド繊維、炭素繊維複合材料、ヘルスケアへと事業領域を拡張してきた。各局面における事業選択は、その時点の技術連続性や市場環境に照らせば合理的であり、高機能素材を軸とする企業としての技術基盤を形成してきた。一方で、事業領域の拡大とともに低収益事業を内包したポートフォリオが固定化し、売上規模に対して資本効率が十分に改善しない構造が長期にわたり温存されてきた。

2010年代以降、マテリアル事業における市況悪化や操業トラブル、ヘルスケア事業の構造転換の遅れなどが重なり、収益力とキャッシュ創出力は低下した。過去にも構造改革は断続的に実施されてきたが、個別事業単位での対応にとどまり、事業ポートフォリオ全体を入れ替える水準には至らなかった。こうした反省を踏まえ、帝人は成長戦略を描く前提として、まず収益基盤と資本効率を立て直す必要性を明確に認識し、2024–2025年を構造改革の集中期間と位置づけた中期経営計画を策定した。

経営の基本方針

本中期経営計画では、「収益性改善の完遂による基礎収益力の回復」と「事業ポートフォリオ変革」を経営の両輪と位置づけ、成長のための前提条件を整えることを最優先課題としている。モビリティ、インフラ、ヘルスケアといった注力分野に経営資源を集中する一方で、収益性や成長性が見込めない事業については、縮小、再編、撤退を含む戦略的オプションを検討対象とする姿勢を明確にした。

財務面ではROICを経営管理の中核指標とし、投下資本と利益の対応関係を可視化することで、事業ごとの成立条件を再定義する。事業利益500億円、ROIC4%以上、ROE6%以上の達成を通じて、次期中期経営計画以降の成長投資に耐えうる基礎収益力を回復させることを目的とする。本計画は完成形を示すものではなく、帝人が再び成長軌道に乗るための前段階として、経営の土台を立て直す転換点に位置づけられている。

Author’s Questions

  1. これまでの帝人の改革は、なぜ企業価値の改善として積み上がらなかったのか?

    これまでの中計では、アラミドや複合材料、ヘルスケアといった事業を次の成長ドライバーと位置づけ、収益化が遅れても次期中計での改善や環境好転を前提に継続投資が選択されてきた。その結果、売上規模や事業領域は拡張したものの、ROICやROEといった指標を通じた企業価値の改善には結びつきにくかった。今回の中計は、こうした過去の意思決定と比較して、企業価値の観点で何を変えようとしているのだろうか。

  2. 今回の中期経営計画では、本当に「やり切る」ために判断の前提が切り替わったと言えるのか?

    過去の中計では、収益未達が生じた場合でも、市況回復や事業環境改善を前提とした計画修正によって事業継続が選択されてきた。時間を与えることで立て直すという判断が繰り返されてきた中で、今回の中計では同じ対応を取らない前提が置かれているようにも見える。この前提の切り替えは、どの過去の結果や反省を踏まえたものなのか、また途中で後退しない設計になっているのだろうか。

  3. もし今回の中計が想定通りに進まなかった場合、本当にこれまでと違う選択を取れるのか?

    過去の意思決定では、事業再定義や体制見直しによって時間を与える選択が繰り返されてきた。今回の中計では、同じ道に戻らないために、どの事業で、どの指標を下回った場合に縮小や撤退といった判断に進むのかが、これまでの中計と比べてどこまで具体化されているのだろうか。

洞察
なぜ帝人は、合理的な判断を続けながら低収益体質になったのか?

帝人の歴史を振り返ると、個々の経営判断は、その時点の環境に照らして合理的であったものが多い。戦後の合成繊維分野では、技術の連続性を重視した素材選択を行い、1960年代後半には成長余地の縮小を見据えて新規事業探索に踏み出した。1970年代には医薬品分野という新たな収益源も育てている。結果だけを見れば、誤った判断の連続とは言い難い。

しかし、問題は判断の「正しさ」ではなく、その積み重ね方にあった。帝人では、参入判断は迅速に行われた一方で、撤退や資本回収を前提とした検証の仕組みが弱かった。未来事業本部のもとで多数の新規事業が立ち上がったが、事業間の関連性やROIに基づく整理は後回しにされ、経営資源は広く分散した。部分的な成功は生まれたが、全社として利益率を押し上げる構造には至らなかった。

加えて、長期にわたり形成された経営スタイルも影響した。トップ判断を前提とした意思決定は、環境変化への初動対応を早める一方、判断の妥当性を継続的に問い直す圧力を弱めた。株主による監視や牽制が十分に機能しない中で、事業ポートフォリオ全体の最適化よりも、個別事業の存続が優先されやすい体制が続いた。

結果として帝人は、「誤らない経営」を続けながらも、「勝ち切る経営」には移行できなかった。合理性を重ねるほどにリスクテイクは抑制され、撤退判断は遅れ、収益性の改善よりも安定運営が優先される構造が固定化した。低収益体質は単一の失策によって生まれたのではなく、合理的判断の累積がもたらした帰結であったと位置付けられる。

2026-02-03 | by author
洞察
なぜ帝人は、高収益事業を横展開できなかったのか?

帝人は、事業単体で見れば成果を上げた分野を複数持っていた。繊維では量産体制を築き、化成品では技術蓄積を重ね、医薬品では高収益事業を育てた。にもかかわらず、これらの成功が全社の競争力や利益率の改善にはつながらなかった。その背景には、事業部間の予算配分が分散する構造があった。

すでに各事業部が一定の収益を維持している限り、予算配分は大きく見直されにくかった。成功事業が生まれても、そこに経営資源を集中させる判断は限定的であり、他事業の維持投資や延命投資が並行して続いた。結果として、成長分野への「集中投資」ではなく、全事業への「均等配分」に近い資源配分が常態化した。

この構造では、成功事業は「強化される対象」ではなく、「全社を支える安定装置」として扱われやすい。医薬品分野が収益を生んでも、その余力は次の成長投資ではなく、他事業の維持や新規案件の試行に吸収された。成功事業の利益が、会社全体の攻めの原資になる前に、分散されていく仕組みが出来上がっていた。

結果として、帝人は「高収益事業を持つ会社」ではあっても、「高収益事業で企業価値を高める会社」にはならなかった。事業部単位では成果が確認できても、全社レベルでは選択と集中が働かず、競争優位を一気に押し広げる局面を作れなかった。成功事業を武器に変えるためには、どの事業にどれだけ賭けるかを明確にする必要があるが、その判断を支える予算配分の構造が、帝人では十分に機能しなかったと整理できる。

2026-02-03 | by author
売上
帝人:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
10,496億円
売上高:2025/3
利益
帝人:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
0.7%
利益率:2025/3
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1918

帝国人絹を設立

背景:鈴木商店による新事業探索と人造絹糸への着目

20世紀初頭、日本では絹製品への需要が強かった一方、蚕を原料とする供給体制は高コストで、供給量にも制約があった。鈴木商店で事業運営を担っていた金子直吉は、外国人居留地で目にした人造絹糸(レーヨン・通称人絹)に着目し、化学的製法によって絹と同様の用途を持つ繊維を供給できる可能性を見出していた。人造絹糸は蚕に依存せず、原料を国産パルプに求められる点が特徴だった。

当時の鈴木商店は、貿易・製造・資源関連など幅広い事業を手がけており、新たな成長分野を模索していた。綿花のように輸入原料への依存度が高い事業と比べ、人造絹糸は原材料調達の面で条件が異なっていた。金子は、商社主導で研究成果を事業に転換する余地があると判断し、人絹技術を独立事業として成立させる構想を描いていた。

決断:1918年の帝国人造絹糸設立と量産化を見据えた判断

金子直吉は、鈴木商店の立場から、米沢高等工業学校講師で人造絹糸研究を行っていた秦逸三と、その同窓で皮革研究者の久村清太の研究を支援した。金子は資金調達と事業設計を担い、秦と久村が技術開発を担う形で、1918年に米沢で帝国人造絹糸が設立された。この設立は、研究段階にあった人絹技術を商業生産へ移行させる明確な意思決定だった。

設立当初の米沢工場は試験的な生産拠点であり、量産を前提とした設備ではなかった。そのため設立時点から、生産規模拡大を前提とした次の工程が想定されていた。1919年前後に進められた広島工場の新設は、帝国人造絹糸設立時に織り込まれていた量産化への延長線上に位置づけられ、同社は短期間で試験生産から本格生産へ移行していった。

概要
先行者優位を維持できず
後発の競合である東レの台頭を許した

帝人はレーヨンの国内先駆企業として事業化を進め、市場形成の初期段階を担った。一方で、需要拡大局面では量産体制の構築が競争軸となり、後発の東レが設備投資を通じて生産規模を拡大した。結果として、先行技術の優位は維持されたものの、供給能力の差が市場シェアに影響を与える局面が生じた。

1915年
鈴木商店が繊維工場跡を買収
1918年
帝国人絹を設立
1921年
広島工場の新設(レーヨン量産)
1926年
岩国工場の新設(レーヨン量産)
1926
2月

広島工場を新設

背景:広島工場後の供給制約と量産規模の再設計

帝国人造絹糸は、広島工場の稼働によって人造絹糸の量産に一定の手応えを得ていたが、需要の拡大に対して供給能力はなお制約を抱えていた。既存工場では設備の増設や工程改善が進められていたものの、生産規模の引き上げには限界があり、設備の集約と規模拡大を前提とした次の生産拠点が検討対象となっていた。

とくに人造絹糸は設備投資比率が高く、工程の連続性と稼働率が生産性を左右する事業であった。分散した工場配置では、工程管理や設備更新の面で効率が低下しやすく、需要増加局面において供給の伸びが制約される懸念があった。このため、従来の延長ではなく、生産能力を大きく引き上げる新拠点の構想が現実的な選択肢として浮上していた。

決断:岩国工場新設による大規模量産体制への移行

こうした状況を受け、帝国人造絹糸は岩国に大規模な近代式工場を新設する判断を下した。岩国は用地の確保、水資源、輸送条件の面で量産工場に適した条件を備えており、従来工場を上回る設備規模が計画された。これは単なる生産能力の上積みではなく、工程を集約した量産体制へ移行するための意思決定だった。

岩国工場の建設では、将来的な設備増設を見込んだ設計が採られ、生産規模は段階的ではなく一気に引き上げられる前提で構築された。この新設によって、帝国人造絹糸は人造絹糸事業を試行的拡張の段階から脱し、供給量を軸に競争する局面へ踏み出した。岩国工場は、その後の事業展開を支える中核拠点として位置づけられた。

1927

鈴木商店から独立

背景:鈴木商店傘下で拡大した帝人と金融不安の波及

帝人は設立以降、鈴木商店の事業グループの一角として運営され、資金調達や事業展開の面で同商店の信用力に依存していた。レーヨン事業は需要拡大を背景に生産規模を拡大しており、岩国工場をはじめとする大規模投下資本を伴う設備投資が進められていた。これにより帝人は化学繊維分野で存在感を高めていたが、その一方で財務構造は鈴木商店との関係性に強く影響される状態が続いていた。

1927年、昭和金融恐慌の発生により、鈴木商店は資金繰りの悪化に直面し、事業継続が困難となった。鈴木商店の信用不安は取引先や金融機関に波及し、傘下企業にも影響を及ぼした。帝人もその例外ではなく、株主構成と経営体制の見直しを迫られる局面に入っていた。

決断:大株主異動による独立企業体制への移行

鈴木商店の倒産を受け、帝人は従来のグループ依存型の経営を継続できない状況となった。一方で、レーヨンは衣料用途を中心に需要増大が見込まれており、事業そのものの継続性は市場から評価されていた。こうした状況のもと、帝人は一部株主や金融関係者の支援を受け、大株主の異動を通じて経営基盤を再構成する判断を下した。

この異動により、帝人は鈴木商店の影響下から離れ、独立した企業として運営される体制へ移行した。資本関係の整理は経営の自由度を高める一方、投下資本の回収や事業継続に対する責任を自社で負うことを意味していた。1927年の大株主異動は、帝人にとって単なる資本構成の変更ではなく、レーヨン事業を軸に独立企業として成長を目指す転換点となっていた。

1927年
鈴木商店が倒産
1933年
東京証券取引所に株式上場
1934
三原工場の新設
1945

大屋晋三氏が社長就任

終戦直後の1945年に大屋晋三が帝人の社長に就任した。以後、1980年に逝去するまで社長を歴任

1955
11月

アセテートに参入

背景:合成繊維拡大局面における技術選択の分岐

1950年代半ば、日本の繊維産業では合成繊維が急速に普及し、衣料用途を中心に市場が拡大していた。東レはナイロンの量産を進め、供給能力の拡大を通じて売上成長とシェア獲得を進めていた。一方、帝人はレーヨンを主力事業としており、合成繊維への本格的な移行は経営上の論点として残されていた。

ナイロン分野では、すでに先行企業による集中投資が進んでおり、後発参入は投下資本の増大と価格競争の激化を伴う状況だった。帝人は、同一素材での正面衝突を避ける選択肢を検討し、競合が量産していなかった素材を通じて合成繊維市場への参入余地を探っていた。

決断:松山工場新設によるアセテート量産開始

1955年11月、帝人は松山工場を新設し、木材パルプを原料とする化学繊維であるアセテート繊維の量産を開始した。ナイロンとは異なる技術路線を選択し、競合の少ない分野で売上拡大を狙う集中投資だった。この判断は、レーヨン事業で蓄積してきた原料調達や工程運営との連続性を意識したものでもあった。

しかし、量産開始後もアセテートは用途が限られ、市場は拡大しなかった。量産開始から3年が経過した時点で、半期売上高は9億円にとどまり、全社売上に占める割合は小さい水準だった。加えて、主力であったレーヨンは合成繊維の普及により市場が縮小し、1950年代を通じて帝人の売上高は低迷した。

証言
経済展望30(9)

大屋氏が政界でウロウロしている間に、帝人もウロウロしてしまった。戦後の第二次産業革命は怒涛の如く、日本産業界の岸にひた押してきた。繊維業界の革命も次第にその波頭を高めた。

ところが、帝人は人絹という王座にあぐらをかいて、居眠りをして、この繊維革命の実態を鋭く検討し、それに対応する態勢をとることに完全に立ち遅れた。その間に東洋レイヨンはナイロンで強力な足場を築き上げたし、倉敷レイヨンの大原総一郎社長のごときは、その生命をビニロンの製造にかけて、悪戦苦闘の末、ついに今日の栄冠を勝ち得た。(略)

大屋氏が、戦後台頭した繊維革命期に政界に遊んでいたと言っては失礼千万であるが、とにかく帝人から離れていたことは、帝人自体にとっても、日本産業界にとっても大きなマイナスであったといえよう。帝人は繊維革命の後塵を配してアセテートに乗り出したが、これは焦りの結果で、大阪駅近くに巨大な広告塔の存在を裏付けるような成績はあげていない。

1955年
松山工場の新設(アセテート繊維の量産)
1957年
レーヨンで大幅減収
1957
1月

ポリエステルに参入

背景:東レに劣後した合成繊維の挽回

1950年代半ば、日本の繊維産業はナイロンに続く合成繊維の拡大局面に入っていた。東レはナイロンで先行し、量産と販売網を通じて売上成長を実現していた。一方、帝人はアセテートへの集中投資が売上拡大に結びつかず、合成繊維分野での立て直しが課題となっていた。

海外ではポリエステルが衣料用途を中心に拡大しつつあり、特許は英国ICIが保有していた。後発参入となる日本企業にとって、単独での技術導入は交渉力や投下資本の面で制約があった。このため、技術導入の方法そのものが、将来のシェアと利益率を左右する論点として整理されていた。

決断:ICIとの技術提携と東レとの共同参入

1957年1月、帝人はICIと技術提携を結び、ポリエステル繊維への新規参入を決定した。この提携には東レも参加し、両社はICIの技術を共同で導入する形を選択した。単独交渉ではなく2社共同とすることで、特許技術の利用条件を安定させ、日本市場での供給体制を早期に構築する狙いがあった。

帝人にとってこの決断は、アセテート投資の停滞を受けた事業ポートフォリオの見直しでもあった。ナイロンでは後発となった反省を踏まえ、次の合成繊維では技術導入段階から主導権を確保し、東レと並ぶ形で市場形成に関与する選択を取った。競争ではなく、初期段階での技術独占に近い状態を目指した判断であった。

結果:ポリエステルによる売上拡大と立て直し

1958年6月、帝人は松山工場でポリエステル繊維の量産を開始し、「テトロン」の商標で販売を始めた。ポリエステルは染色性と耐久性の点で衣料用途に適しており、市場は拡大した。1960年代前半を通じて、帝人はポリエステルを軸に合成繊維メーカーとしての売上を伸ばした。

その結果、アセテートで停滞していた収益構造は改善し、合成繊維分野での存在感が回復した。東レと並ぶ形でポリエステル市場を形成したことで、帝人は技術導入の遅れを取り戻し、売上成長の軌道に復帰した。技術提携の設計と参入タイミングが、業績回復に直結した事例となった。

帝人:生産拠点の状況(1962年度)
工場名 生産品目 従業員数 簿価
三原工場 レーヨン 4786名 22億円
岩国工場 レーヨン 4153名 50億円
名古屋工場 レーヨン・合繊紡績 749名 10億円
松山工場 テトロン・アセテート 2766名 311億円
小松工場 織物 310名 1億円
出所:会社年鑑
証言
大屋晋三(帝人・社長)

調べて行ったら、英国のICIが特許を持っていることがわかったので、1954年にICIに交渉してみた。ところで、この時も田代君(東洋レーヨン会長)の偉さに感服したんだ。1954年にICIに行って色々交渉をし始めたときに、田代君はすでにICIに4、5本手紙を出して、テリレンの技術を譲る意志があるかどうかと交渉をやっているんです。最初私はそんなことは何も知らずに、テリレンのエクスクルーシブのライセンスをくれないかというと、ミスター大屋、実はあなたの国のミスター田代のところからもう申し込みが来ているということなのです。なるほど、田代君はナイロンの経験から早くもこの繊維の優秀さを見抜いている。さすがに偉いなと思って、改めて見直した。結局、東洋レーヨンと共同で仲良くやるということになったのです。

概要
共同参入による技術主導権確保

1957年、帝人はICIと技術提携を結び、東レと2社共同でポリエステルに参入した。単独参入ではなく共同とした点が特徴であり、特許技術を安定的に確保し、日本市場での供給を主導する狙いがあった。ナイロンで後発となった経験を踏まえ、次の合成繊維では初期段階から技術の利用条件を押さえる選択が、売上成長の回復につながった。

1957年
ICI社と技術提携を締結
1958年
松山工場で量産開始(ポリエステル)
1968年
徳山工場で量産開始(ポリエステル)
1962
7月

ナイロンに参入

背景:先発企業が市場を主導していたナイロン分野

1960年代初頭、国内の合成繊維市場ではナイロンが衣料用途と産業用途の双方で普及していた。東レは1950年代前半からナイロンの量産を進め、長期間にわたり市場供給を主導していた。ナイロンは耐摩耗性や汎用性を背景に用途が拡大し、合成繊維の中でも需要規模が大きい分野として認識されていた。

一方で、合成繊維全体の市場拡大を受け、1960年代に入ると後発企業にも参入余地が生じていた。帝人はポリエステル事業を展開する中で、ナイロン未参入という事業ポートフォリオ上の偏りを認識していた。ナイロン参入は補完的な選択肢として検討されたが、先発企業が量産設備と販売網を構築していたため、競争激化を伴う判断となっていた。

決断:アライドケミカル社との提携による後発参入

1962年7月、帝人は米国アライドケミカル社と技術提携を結び、合成繊維ナイロンへの参入を決定した。東レのナイロン量産開始から約10年遅れの参入であり、技術導入によって量産体制を短期間で構築する方針が採られた。量産拠点には既存の三原工場が選ばれ、レーヨン生産に用いられていた設備を活用しつつ、ナイロン製造設備が導入された。

同時期、帝人以外の大手繊維企業もナイロン事業への参入を進めていた。東レに続き、帝人、鐘紡、呉羽紡(東洋紡)、旭化成が量産設備を相次いで整備した。結果として、国内ナイロン市場は短期間で複数企業が並立する状態となり、参入段階から供給能力の増加と競争激化が同時に進行していた。

結果:市場拡大と競争激化による収益性の悪化

帝人のナイロン事業は、参入初期には売上を拡大した。1965年にはナイロン売上高が92億円に達し、量産開始後の立ち上がりとしては速いペースで事業規模を拡大した。しかし、その後は売上成長が鈍化し、全社業績に対する貢献はポリエステル繊維「テトロン」を下回る水準にとどまった。

背景には、1960年代前半に集中した参入による供給能力の増加があった。各社はシェア拡大を目的に投下資本を積み増し、設備増設を進めた結果、価格競争が常態化した。ナイロンは市場規模こそ拡大したものの、最新技術を導入しても利益率の改善は難しく、合成繊維分野全体が儲かりにくい事業環境に移行していった。

繊維各社のナイロン生産設備(1963年時点)
企業名 生産量(千トン) 主な生産拠点
東レ 161 名古屋工場
日本レイヨン 74 宇治工場
旭化成 14 延岡工場
呉羽坊(東洋紡) 14 敦賀工場
帝人 14 三原工場
鐘紡 22 防府工場
証言
経済展望「ナイロンに社運を賭けた4社の意地」

ナイロンは、これまで東レ、日レの寡占体制がくずれ、帝人、鐘紡、呉羽紡、旭化成の4社が明年春から生産開始することとなった。ナイロンに社運を賭けた後発4社にとっては、不利な条件を持つだけに、シャニムに先発2社の市場に割り込まざるを得ず、猛烈な販売合戦を展開しそうである。

しかも、各社ともシェア拡大のため、設備増強意欲は極めて強く、このままでは生産過剰になる心配もあるので、早くも自主調整が大きな課題となってきた。

概要
最新技術の追求による過当競争

1960年代前半、ナイロン分野では先発企業に続き後発各社が相次いで参入した。帝人も最新技術を導入し量産に踏み切ったが、同時期に複数社が投下資本を積み増したことで供給能力が急拡大した。市場は拡大したものの価格競争が常態化し、合成繊維は技術水準の高さに反して利益率を確保しにくい分野へと移行していった。

1962年
アライドケミカル社と技術提携を締結(ナイロン6)
1963年
三原工場で量産開始(ナイロン)
1962
帝人に商号変更
1967
タイに現地法人を新設
1968

未来事業本部を発足

背景:合成繊維市場の競争激化と成長余地の縮小

1960年代後半、国内の合成繊維市場ではポリエステルとナイロンの生産能力が拡大し、各社の参入が相次いでいた。市場規模は拡大していたものの、供給能力の増加により価格競争が進み、利益率の改善は難しくなっていた。帝人においても、繊維事業での売上成長は鈍化し、既存事業だけでは中長期の成長を描きにくい状況にあった。

当時の社長であった大屋晋三氏は、戦後の帝人を率いてきた経営者であり、繊維依存からの脱却を経営課題として認識していた。合成繊維が成熟局面に入りつつある中で、帝人は事業ポートフォリオを広げる必要に迫られていた。新規事業へのリスクテイクは、繊維に代わる収益源を探索する手段として位置付けられていた。

決断:未来事業本部の新設と新規事業への集中投入

1968年、帝人は社内組織として「未来事業本部」を新設し、新規事業を推進する体制を整えた。この方針は大屋社長によるトップダウンで打ち出され、社内人材に加えて社外から約100名を中途採用し、専属組織として新規事業開発に投入した。未来事業本部は、既存事業とは切り離された形で、多数の事業立ち上げを担う役割を与えられていた。

新規事業の対象分野や撤退基準は明確に定められず、子会社設立や海外企業との合弁を通じて、幅広い分野への参入が進められた。食品、農薬、化成品、資源開発、輸入車販売、電子機器、教育、牧場運営など、事業内容は多岐にわたった。1970年には石油・天然ガス分野に対応するため石油資源開発本部が設置され、さらに1977年には医薬品領域を重視する方針のもと医薬事業部が新設された。

結果:創薬以外の新規事業整理と方針転換

1970年代を通じて、未来事業本部のもとで50を超える新規事業が展開されたが、多くは業績貢献に至らなかった。事業間の関連性は乏しく、経営資源が分散したことで、全社としての売上成長やROIの改善には結びつかなかった。一方で、化成品分野と医薬品分野では一定の事業継続が図られ、特に医薬品は繊維で培った化学合成技術を応用できる領域として位置付けられた。

1980年に大屋晋三氏が社長在任中に逝去した後、帝人は未来事業本部を解体し、新規事業の整理に着手した。1980年代を通じて、医薬品と一部化成品を除く大半の新規事業から撤退が進められた。結果として、未来事業本部を軸とした多角化の試みは、創薬分野を除き失敗に終わり、帝人は事業ポートフォリオの再構築を迫られることになった。

帝人:新規事業の展開(1973年時点)
参入年 事業内容 子会社
1969 食肉加工 マダガスカル食品
1971 資源開発 イラン石油・ナイジェリア石油
1972 除草剤 帝人アグロケミカル
1972 眼科用委託品 帝人アルコン
1972 医薬品 帝人製薬
1972 電子部品輸入 帝人アドバンスド
1973 化粧品 帝人パピリオ
1973 教育 帝人教育システム
1974 牧場(ブラジル) 帝人農牧開発
1974 資源開発 帝人マレーシア石油開発
1974 資源開発 海洋石油
1974 輸入車販売 帝人ボルボ
1977 油井管加工 帝人ラッカー
1977 検査分析 帝人バイオサイエンス
1977 IT 帝人技術情報
1978 フロッピーディスク 帝人メモレックス
証言
日経ビジネス

では、どこでどう間違えたのだろうか。根本原因は、大屋社長のワンマン体制が年を経るに従って、時代錯誤の度を増し、ついには老害の代表に挙げられるまでになったことに尽きる。大屋型ワンマン経営は、日常業務については極めて分権的で、部下に任せきりだったと言われる。

しかし、こと新規事業に関しては、自分でこうと思ったらどんどん推し進めなければ気が済まなかった。(略)

未来事業の展開にあたって、同社も当然のことながら、どのような種を取り上げるべきか、また捨てるならどう見切るか、きちんと検討する体制を取っていた。ところが社長が「よし、やれ」といったプロジェクトは素通りだ。これが高じて、社長の鶴の一声をかさに着て仕事を進める人間も出てきた。

1980/10/20 日経ビジネス「帝人・未来事業戦略を再構築、攻めの経営へ」
概要
創薬以外は失敗に終結

1968年に設置された未来事業本部は、50を超える新規事業を生み出したが、創薬と一部化成品を除き業績貢献には至らなかった。参入分野が広範に及び、投下資本が分散したことで売上成長とROIの改善は難しかった。最新分野を追う姿勢自体が問題ではなく、選択と集中を欠いたことが過当な試行錯誤を招いた事例である。

1968年
未来事業本部を新設
1970年
石油開発事業本部を新設
1977年
医薬事業部を新設・未来開発本部に変更
1979年
未来開発本部を解散
1968
徳山工場を新設
1970
愛媛工場を新設
1971
岐阜工場を新設
1971
レーヨン生産から撤退
1978

約2600名の人員削減

背景:繊維需要低迷と為替変動による競争力低下

1970年代後半、国内の繊維産業は長期的な需要低迷局面に入っていた。1973年のオイルショック以降、衣料需要は伸び悩み、天然繊維・化学繊維・合成繊維のいずれも生産調整を迫られていた。加えて、1971年のニクソンショック以降は円高ドル安が進行し、国内生産を前提としてきた日本の繊維メーカーは価格面で不利な立場に置かれていた。

その結果、労働集約度の高い繊維事業では、韓国・台湾・中国など新興国メーカーとの競争が一段と厳しくなった。帝人においても、繊維事業の利益率は低下し、生産能力の維持そのものが収益を圧迫する状況となっていた。既存工場の稼働維持と雇用維持を同時に続けることは難しく、事業規模の見直しが避けられない局面に入っていた。

決断:名古屋工場閉鎖と大規模な人員削減の実施

1978年、帝人は繊維の生産調整を目的として名古屋工場の閉鎖を決定した。同工場は名古屋市南区、JR笠寺駅前に立地しており、長年にわたり繊維生産を担ってきた拠点であった。工場閉鎖後、跡地は再開発され、のちに名古屋市総合体育館として利用されることとなった。

あわせて帝人は全社的な人員削減を実施した。1978年4月から10月までの半年間で、単体ベースで約2650名が削減され、社員数の約4分の1に相当した。この過程では転職援助制度の拡大や自然減も活用されたが、削減の速度と規模は社内外に大きな影響を与えた。人員削減の進行と前後して、経営姿勢を批判する匿名文書が社内に出回るなど、経営と現場の緊張関係が表面化する局面でもあった。

1978年
名古屋工場を閉鎖
1980
2月

新薬「ベニロン」を発売

背景:繊維収益悪化と新規事業整理の同時進行

1970年代後半、帝人の繊維事業は需要低迷と価格競争の影響を受け、売上成長が利益率の改善につながりにくい状態が続いていた。合成繊維では参入企業が増え、生産能力の増強が販売競争を招き、投下資本に見合う収益を確保しにくくなっていた。

同時期、未来事業本部が主導した多数の新規事業は、分野が広がり過ぎたことで管理負荷が増し、業績貢献が小さい案件の整理が論点となっていた。帝人は事業ポートフォリオを見直し、研究開発費と人員をどこに集中させるかを再設定する局面に入っていた。

決断:医薬品を中心に据えた研究開発投資の集中

1980年前後、帝人は未来事業の展開方針を見直し、医療・医薬分野を中心に据える方針を固めた。当時の社長であった徳末智夫氏は、未来事業の進め方について重点主義を掲げ、研究開発中心で進める考えを示していた。

医薬品は研究着手から長期間を要し、研究開発費と販売網整備で資金負担が増える分野であるため、同社は「あれもこれも」とせず医薬品に投下資本を寄せる判断を採った。必要に応じて海外技術も導入し、自社技術との組み合わせを試す方針も併記された。

結果:ベニロン発売による医薬品事業の事業化

1980年2月、帝人は新薬「ベニロン」を発売した。医薬品研究は約10年に及んでおり、ベニロンは研究開発投資が販売に結びついた案件となった。繊維中心だった収益源に対し、医薬品という別の収益機会が追加されることになった。

一方で、医薬品は上市後も追加の研究開発と販売体制整備が必要で、短期の売上だけで投下資本を回収しにくい事業である。結果として帝人は、未来事業の整理を進めながら、医薬品を中核の投資領域として扱う方向へ移っていった。

証言
徳末智夫氏(帝人・社長)

未来事業をこれからどう展開して行くかについては、方針が固まりつつある。基本的には重点主義を前提に、研究開発中心で行く考えた。5年程度はこの線に沿って展開し、成果を期待したい。また必要があれば、並行して海外の技術も導入して、自社技術との組み合わせも試みるつもりだ。

向こう5年は医療、医薬関係を中心にやっていかなければならない。医薬は研究に着手してから約10年になるが、研究開発費して膨大な資金を投じた。今後も新薬の開発や販売網の整備で、大変な負担がかかる。だから、あれもこれもというわけにはいかない。

1980/10/20 日経ビジネス「帝人・未来事業戦略を再構築、攻めの経営へ」
概要
帝人初の選択と集中

1980年のベニロン発売を契機に、帝人は医薬品を重点分野として位置付け、他の新規事業を整理する判断を進めた。未来事業本部で広がった多角化から、研究開発と投下資本を医薬品に集中させる方向へ転換した点は、同社にとって初めて明確に示された選択と集中の局面であった。

1978年
帝人医薬株式会社を設立(独ベーリンガー社と合弁)
1980年
重症感染症治療剤「ベニロン」の販売開始(藤沢薬品に販売委託)
1983
帝人システムテクノロジーを設立
1985
宇都宮工場を新設
1989
岩国工場で医薬品の生産開始
1995
ナイロンをデュポン合弁に移管
1999
4月

アドバイザリーボードを導入

背景:株式市場での低評価と経営監督への問題意識

1990年代後半、帝人は株式市場での評価低下に直面していた。1997年以降、株価は低迷し、株価純資産倍率(PBR)は0.3倍まで下落した。これは企業価値が解散価値を下回る水準であり、経営のあり方そのものが問われる局面だった。社内分析では、投資家向け情報発信の弱さに加え、環境変化に対する対応が市場に十分伝わっていない点が整理された。

同時に、社員に対しては目標設定と業績評価の仕組みが導入されていた一方、社長自身の評価は制度上存在していなかった。サラリーマン経営者である以上、トップも例外なく評価されるべきだという問題意識が社内外で共有され、経営監督の透明性を高める仕組みが論点として浮上していた。

決断:社外有識者によるアドバイザリーボードの設置

1999年4月、帝人はアドバイザリーボードを導入した。前デュポン会長のジョン・クロール氏や、キッコーマン社長の茂木友三郎氏など、社長経験者を中心とする6名で構成され、社長の業績評価や経営方針について意見を述べる役割を担った。評価の結果次第では、社長解任勧告も行い得る仕組みであり、日本企業としては踏み込んだ試みだった。

このボードは年数回開催され、経営改革の進捗や中期計画について事前資料をもとに議論が行われた。経営判断を社内論理だけで完結させず、外部の視点を継続的に取り入れることで、資本効率や資産の使い方を含めたマネジメント改革を進める狙いがあった。結果として、帝人は経営の説明責任を明確化し、市場との対話を重視する姿勢を打ち出すことになった。

1999
6月

東邦レーヨンに資本参加

背景:炭素繊維分野での出遅れと技術取得の必要性

1990年代後半、帝人は高機能素材として注目されていた炭素繊維分野で、東レに後れを取っていた。航空機用途を中心に需要拡大が見込まれる中、既存の繊維事業とは異なる成長領域として炭素繊維は事業ポートフォリオ上の課題として認識されていた。一方で、ゼロからの新規立ち上げには設備投資、顧客開拓、技術蓄積の面で時間と投下資本を要する状況だった。

この時点で東邦レーヨンは、日清紡績の子会社として炭素繊維の生産と技術を見据えた事業基盤を保有していた。帝人にとっては、自社単独での研究開発よりも、既存プレイヤーへの資本参加を通じて生産設備と技術を同時に取得する選択肢が現実的な対応として整理されていた。

決断:資本参加から完全子会社化による炭素繊維事業の獲得

1999年6月、帝人は親会社である日清紡績から株式を取得し、東邦レーヨンに資本参加した。目的は炭素繊維の生産能力と技術の獲得であり、東レとの差を短期間で縮める意図があった。2000年2月には株式の過半数を取得し、経営関与を強めた。2001年7月には社名を東邦テナックスに変更し、炭素繊維事業を中核事業として位置付けた。

その後、2006年には三島事業所および米国拠点で合計200億円超の設備投資を実施し、生産能力の拡張を進めた。2007年8月には382億円で完全子会社化し、事業の一体運営に移行した。ただし、事業拡大に伴う投下資本は大きく、2013年には炭素繊維関連ののれんを中心に294億円の減損損失を計上する結果となった。

2000年
東邦レーヨンの株式過半数を取得
2001年
同社の商号を東邦テナックスに変更
2006年
同社三島事業所で設備投資
設備投資計画額 129 億円
2006年
同社米国拠点で設備投資
設備投資計画額 85 億円
2007年
東邦テナックスを完全子会社化
取得原価 382 億円
2013年
炭素繊維(のれん)を中心に減損計上
減損損失 294 億円
2000
10月

アコーディス社のアラミド繊維事業を買収

背景:高機能繊維における世界シェア再編局面

1990年代後半、帝人は繊維事業の中でも汎用分野の収益性低下に直面していた。一方で、アラミド繊維や炭素繊維など高機能素材は、ITインフラや自動車安全部材向けを中心に需要拡大が見込まれていた。ただし、これら分野では先行企業が生産能力と顧客基盤を押さえており、後発での設備新設による参入は投下資本と時間の面で不利だった。

帝人は既存技術としてアラミド繊維「テクノーラ」を有していたが、生産規模は限定的で、量産用途では競争力に課題を抱えていた。とくに光ファイバー被覆材やシートベルト用途では、米デュポンや欧州メーカーが市場を先行していた。高機能繊維で世界上位に位置付けられるか否かが、今後の事業ポートフォリオを左右する状況にあった。

決断:アコーディス社アラミド繊維事業の買収

2000年10月、帝人はオランダのアコーディス社からパラ系アラミド繊維「トワロン」事業を買収した。自社増設ではなくM&Aを通じて生産能力と顧客基盤を取得する判断であり、短期間で世界シェア上位に位置付くことを狙った。買収対象には既存工場、技術、人材、販売網が含まれていた。

当時、トワロンはデュポンに次ぐ生産規模を持ち、買収によって帝人のアラミド繊維生産能力は大幅に拡大した。交渉は複数年に及び、価格や事業切り出し条件を巡って調整が続いた。買収後には税務処理を巡る見解の相違から訴訟に発展したが、2006年に和解が成立している。

結果:世界上位ポジション獲得と統合リスクの顕在化

トワロン事業の取得により、帝人はアラミド繊維で世界一、二位を争う位置に立った。光ファイバー、自動車安全部材などの用途で販売拡大が進み、高機能繊維は同社の重点事業として位置付けられた。既存設備を活用できた点は、投下資本回収の時間短縮につながった。

一方で、買収後の統合にはコストと時間を要した。税務問題や組織運営の調整が発生し、M&A特有のリスクが顕在化した。それでも帝人は、高機能素材で世界上位に入るという目標に対し、M&Aを主要な手段として用いる方向を明確にした。本件は、同社の選択と集中を象徴する事例となった。

2001
フィルムをデュポン合弁に移管
2003
4月

杏林製薬の買収を撤回

株式統合比率で折り合いがつかず、買収を撤回へ

2003
帝人製機をナブテスコに移管
2011
5月

痛風・高尿酸血症治療剤「フェブリク」を発売

背景:高尿酸血症という未開拓領域と創薬テーマの位置付け

1980年代当時、高尿酸血症や痛風は患者数が多いにもかかわらず、医薬品開発の優先度が高い疾患ではなかった。既存治療薬が長年使用されており、新規作用機序による創薬テーマとしては注目度が低かった。帝人ファーマにおいても、研究テーマとしての優先順位は高くなく、限られた研究資源をどの領域に配分するかが常に議論されていた。

一方で、食生活の変化や高齢化を背景に、高尿酸血症患者は潜在的に増加する可能性が指摘されていた。尿酸値の上昇は痛風だけでなく、腎障害や心血管疾患との関連も知られており、将来的な医療ニーズの拡大が見込まれていた。競合が少ない疾患領域である点も含め、長期的視点では研究対象として検討する余地があった。

決断:少人数体制による創薬研究の継続

帝人ファーマでは、高尿酸血症治療薬の研究を期限付きプロジェクトとして開始した。当初の研究体制は極めて小規模で、担当研究者は1名に近い状態であった。多数の化合物を検証する中で有効性の高い候補が得られない期間が続き、研究継続の是非が問われる局面もあった。

それでも、社内外の研究者が自主的に協力し、共同実験や検討を重ねた結果、1991年に高い活性を示す化合物フェブキソスタットの合成に成功した。その後、安全性や品質を確認する前臨床試験を経て、1996年に臨床試験へ移行した。研究開始から約8年をかけて、承認取得を目指すプロセスが本格化した。

結果:フェブリク発売と医薬品事業の収益柱化

2011年5月、帝人ファーマは高尿酸血症・痛風治療薬フェブリク錠を発売した。従来薬と比べて尿酸値を低下させる効果が確認され、痛風だけでなく高尿酸血症そのものを適応症として承認を取得した点が特徴であった。これにより、処方対象は痛風患者に限られず、潜在患者層まで拡大した。

フェブリクは国内外で販売が進み、医薬医療事業の売上と利益に大きく寄与した。最盛期には帝人の医薬品事業における最大製品となり、繊維事業に代わる収益源として位置付けられた。日本発の新薬として海外導出も進み、創薬からグローバル展開までを含む事業モデルを確立する結果となった。

2009年
痛風・高尿酸血症治療剤「ULORIC」を米国発売
2011年
痛風・高尿酸血症治療剤「フェブリク」を日本発売
2013年
フェブリク国内売上高
FY2012 55 億円
2022年
フェブリク国内売上高
FY2021 388 億円
2015
3月

最終赤字に転落

電子材料・化成品(シンガポールおよび岐阜)を中心とした減損損失と、不採算事業撤退による構造改革費用により、巨額特損を計上

2017
1月

米CSP HDを買収

背景:自動車軽量化需要と素材メーカーの成長戦略

2010年代半ば、自動車産業では環境規制の強化を背景に、車体軽量化への要求が高まっていた。燃費規制や電動化の進展により、金属代替素材として複合材料の活用が注目されていた。ガラス繊維や炭素繊維を用いた部材は、構造部品や内外装用途での採用拡大が見込まれていた。

帝人は炭素繊維を中核素材としつつも、自動車分野では素材供給にとどまり、完成部品レベルでの顧客接点が限定的だった。自動車メーカーとの直接取引や量産対応力を持つ部品メーカーを取り込むことで、素材から部品までを一体で展開する構想が整理されていた。自動車向けマテリアルは、次の成長領域として位置付けられていた。

決断:CSPおよびBrink HDの買収による部品事業参入

2017年1月、帝人は米国の自動車部品メーカーであるContinental Structural Plastics社を約850億円で買収し、全株式を取得した。CSP社は北米の自動車メーカーを主要顧客とし、ガラス繊維複合材を用いた構造部品を量産していた。帝人は同社の販路を活用し、自社の炭素繊維材料を展開することで売上拡大を狙った。

続いて2018年には、ドイツの自動車内装材メーカーであるBrink HD社を約95億円で買収した。吸音材など内装部品を手掛ける同社の取得により、帝人は米国と欧州に自動車部品の製造拠点を持つことになった。素材から部品までをカバーする体制を構築し、自動車向けマテリアル事業への集中投資を進める判断であった。

結果:想定以上の追加投資と減損計上

買収後、帝人は自動車部品事業を統合し、2021年に海外マテリアル事業をTeijin Automotive Technologiesに集約した。管理体制とブランドの統一を進め、自動車メーカー向け事業の拡大を図った。しかし、米国拠点を中心に工場の生産性低下や労働力確保の難航が顕在化した。

とくに、買収時点で想定していた以上に、設備更新や工程改善への投資が必要となった点が収益を圧迫した。既存設備の老朽化や運営面の課題は、買収後に本格的な投下資本を要する局面となり、当初のROI想定との乖離を生んだ。結果として、2023年3月期には米国マテリアル事業で153億円の減損損失を計上した。自動車向け材料市場は拡大したものの、部品事業の維持・強化に必要な投資負担を十分に織り込めていなかったことが、収益課題として残る結果となった。

証言
鈴木氏(帝人・社長)

(注:従来は巨額買収をしてこなかったが、CSPの買収にあたって)考え方が変わったわけではない。自動車向け材料を強化していくと前々から言っていた。一番シナジーが生み出せる相手を探すなかで、今回いい案件が出てきた。今後の買収は必要があればためらわずにやる(略)

シート・モールディング・コンパウンドという技術を使った複合材料では世界シェアの50%以上を占めている。主な納入先はクライスラー、フォード、ゼネラル・モーターズ(GM)、それから北米トヨタなど。かなりの競争力を持つ会社だ

概要
買収前の投資抑制の反動

CSPは買収前、PEファンドの下で利益確保を優先し、設備更新や人材投資を抑制していた可能性が高い。帝人は買収後、その反動として老朽設備の刷新や生産性改善への投下資本を負担する立場となった。結果として、買収時点で内在していた運営リスクと追加投資の必要性が顕在化し、想定していたROIとの乖離を生む要因となった。

2017年
米CSP HDを買収(ガラス繊維複合材)
取得原価 850 億円
2018年
Brick HDを買収(内装材)
取得原価 95 億円
2021年
自動車事業をTeijin Automotive Technologies(TAT)に集約
2023年
TATで減損計上
減損損失 152 億円
2017
ポリエステルフィルムを事業譲渡
2021
4月

武田薬品から4製品の販売権を買収

背景:フェブリク特許切れと医薬品売上構成の歪み

2010年代を通じて、帝人の医薬品事業における最大製品は高尿酸血症治療薬フェブリクであった。最盛期には年間売上高約380億円を計上し、ヘルスケア事業全体の収益を支えていた。一方で、同製品は2022年に特許切れを迎えることが見込まれており、後発医薬品の参入による大幅な減収が避けられない状況にあった。

当時の帝人は、有力な新薬パイプラインを欠いており、フェブリクに代わる大型製品の創出は短期的には困難であった。医薬品販売事業では営業体制の維持が不可欠であり、売上規模の急減は組織・販促の両面でリスクとなっていた。このため、他社製品の導入を含めて、売上規模を補完する手段を検討する必要があった。

決断:武田薬品から糖尿病治療薬4製品の販売権取得

2021年4月、帝人は武田薬品から糖尿病治療薬4製品の国内販売権を取得した。対象はネシーナ錠、リオベル配合錠、イニシンク配合錠、ザファテック錠であり、取得額は約1330億円であった。帝人の医薬品事業においては過去最大規模の投下資本となった。

武田薬品は、シャイアー社買収後の財務改善を進める中で、糖尿病治療薬を注力領域から外す方針を示していた。研究開発から撤退済みであった同領域について、販売権の譲渡先を探していたところ、帝人が引き受ける形となった。帝人は生活習慣病領域を重点分野と位置付け、既存営業網を活用できる点を踏まえて取得を決断した。

結果:フェブリク減収の補填と売上規模の維持

販売権取得後、帝人は糖尿病治療薬4製品により年間248〜275億円規模の売上高を確保した。これは、フェブリクの特許切れによって見込まれていた減収額と概ね同水準であり、売上ベースでは減収影響を相殺する結果となった。医薬品販売事業における急激な規模縮小は回避された。

一方で、糖尿病治療薬市場は将来的な縮小も予想されており、取得製品はいずれも成熟期にある製品群であった。今回の投資は、創薬による成長ではなく、営業基盤の維持を目的とした性格が強かった。帝人の医薬品事業は、売上の安定確保には成功したものの、中長期の成長戦略については引き続き検討課題を残す形となった。

2011年
フェブリクの販売開始
2022年
フェブリクの後発薬が発売
2021年
武田薬品から糖尿病治療薬4剤を取得
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