歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1896年、毛織物の本格メーカーが国内に不在で半製品を輸入に頼っていた貿易港・神戸で、石炭石油問屋を営む川西清兵衛が27名の出資を募り日本毛織を創業した。最初の加古川工場は赤毛布の品質が欧米産に届かず4年連続で赤字に沈んだ。これを救ったのが1905年の日露戦争で、軍に毛織物を納める販路を得て黒字へ転じた。輸入品に代わって軍の制式需要を引き受けたことが、国産毛織物を商売として成り立たせた。
決断戦後、天然繊維が合成繊維に置き換わり、日本毛織は1974年に創業初の最終赤字を出し、1979年には700名を人員削減した。ここで選んだのは、閉鎖した工場の土地を売らず自ら商業施設に変えることだった。1982年に閉じた中山工場跡をニッケコルトンプラザに、創業の地・加古川の用地をニッケパークタウンに転じ、賃料を生む資産へ作り替えた。祖業の縮小を立地という別の資産で受け止めた判断が、高採算の人とみらい開発事業につながった。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1896年に毛織物専業で創業した日本毛織は、赤毛布で4年続いた赤字を乗り越えられたのか
- A 毛織物の本格メーカーが国内になく半製品を輸入に頼っていた神戸で、川西清兵衛が国産化の商機を見込んで1896年に創業したためである。だが加古川工場の赤毛布は欧米産に手触りが届かず、輸出も振るわず稼働から4年連続で赤字に沈んだ。これを救ったのが1905年に勃発した日露戦争で、軍に毛織物を納める販路を得て黒字へ転じ、「1割5分」の高配当を実現した。輸入品に代わって軍の制式需要を引き受けたことが、国産毛織物を商売として成り立たせた。
- Q なぜ1982年に閉鎖した中山工場の跡地を、日本毛織は売らずに商業施設へ変えたのか
- A 合成繊維への代替で1974年に創業初の最終赤字を出し、1979年には700名を削減した日本毛織が、縮小する祖業を立地という別の資産で受け止めようとしたためである。1982年に閉じた千葉県市川市の中山工場は立地が良く、跡地を売らず再開発し1988年にニッケコルトンプラザを開業した。創業の地・加古川の用地も1984年にニッケパークタウンへ転じ、賃料を生む資産へ作り替えた。この判断が、後年に高採算の人とみらい開発事業へつながった。
- Q なぜ2026年に日本毛織は成長投資を使い切れず、その分を自己株式取得と増配へ回したのか
- A 買収で事業を継ぎ足して規模を広げてきた日本毛織が、投じ先の足りない資金を株主還元へ振り向けたためである。創業130周年にあたる2026年、第3次中期経営計画の成長投資500億円枠は約430億円の見通しにとどまり、残る約70億円を2026年1月に上限40億円・200万株の自己株式取得へ充てた。あわせて配当方針を累進配当・DOE2.5%へ切り替え、過去5年で政策保有株を57銘柄整理し、資本効率の改善を前面に置く経営へ移した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1896年〜1979年 神戸発・毛織物国産化の先駆と戦時統合から繊維不況までの繊維専業期
川西清兵衛による国産毛織物事業の立ち上げと加古川工場の苦戦
1896年12月、神戸で石炭石油問屋「座古清」を営んでいた川西清兵衛(当時32歳)が中心となり、27名の出資により日本毛織株式会社が神戸市内で設立された[1][2]。資本金は50万円で、用途は「機械13万円」「土地建物6万円」「予備資金25万円」と設定された。明治期の神戸は外国人居留地を抱える貿易港として毛織物の輸入取引が活発で、原料の羊毛を国内で自給することが難しいなか、半製品の毛織物輸入が主流となっていた。生糸・綿のメーカーは国内に存在したものの、毛織物の本格メーカーは存在せず、日本毛織は毛織物業界の先駆的存在として船出した[3]。川西の家業「座古清」が軌道に乗っていたことが、参入時の出資者募集における信用となった。
1897年に兵庫県加古川市内への工場新設方針を決定し、1899年5月に加古川工場(第1工場)を竣工して稼働を開始した[4]。加古川を選んだ理由は、山陽本線による鉄道輸送が可能で、加古川の水質が硬度1.2〜2.0の軟水で毛織物製造に適していた点にあった。稼働時から150名を採用し量産に備えたが、当初手掛けた「赤毛布」は欧米産と比べて手触りが劣り品質が安定せず、想定していた輸出も軌道に乗らず、稼働から4年連続で赤字を計上した。日本毛織は創業から数年で繊維製造の品質管理という構造課題に直面し、経営の安定化は後年まで持ち越された。
1905年に勃発した日露戦争で軍向け毛織物の需要が拡大し、日本毛織は黒字転換とともに「1割5分」の高配当を実現した。軍需は毛織物の国産化を後押しする最大の需要源となった。第一次世界大戦下では毛織物の輸出販売がさらに拡大し、1919年6月には加古川市内に2拠点目となる印南工場を新設した[5]。同年中には日本毛糸紡績会社を合併し、姫路工場および岐阜工場を取得、愛知県名古屋市岩塚にも名古屋工場を新設して毛糸・トップの生産性向上を図った。大正11年(1922年)には従業員数が10,138名と1万名を突破し、創業から約30年で日本毛織は日本を代表する大企業へと成長した。
戦時下の事業転換と1942年昭和毛糸紡績合併による主力工場の獲得
1927年10月、合成繊維への進出を見据えて名古屋工場内に「人絹工場」を新設し、レーヨンの製造を開始した。天然繊維専業からの最初の事業多角化であり、1920年代後半に台頭しつつあったレーヨン需要に応じた動きであった。1941年には共立モスリンを買収して中山工場(千葉県市川市)および館林工場(群馬県館林市)を取得、1942年3月には昭和毛絲紡績株式会社を合併して弥富工場(愛知県弥富市)および一宮工場(愛知県一宮市)を取得した[6]。一宮事業所はその後の主力拠点として継承される位置付けで、戦時統制経済下の同業合併が日本毛織の生産拠点を一気に拡張させた[7]。
戦時体制への移行に伴い、日本毛織は所有工場の一部を航空機生産用に売却した。1942年に姫路工場を閉鎖して川西航空機に売却し、1943年には岐阜工場・館林工場・名古屋工場を閉鎖し、それぞれ川西機械製作所・中島航空機・三菱重工に売却した。創業者・川西清兵衛は川西航空機の経営にも関与しており、川西財閥として航空機事業と毛織物事業の双方を所有する立場にあったが、戦時下では繊維生産設備が航空機生産へ転用される構造に組み込まれた。1947年7月、川西清兵衛は日本毛織の名誉職を退任、同年11月19日に83歳で逝去した。創業者の退場をもって、川西財閥の中核企業としての日本毛織の創業期は終わりを告げた。
1949年5月、日本毛織は東京証券取引所に株式を上場した[8]。戦後復興期の繊維需要拡大を捉える資本基盤を整えた節目であり、1950年ごろには梳毛紡績(毛糸生産)で国内シェア27%、国内1位の毛織メーカーとなった[9]。主力4工場(加古川・印南・中山・弥富)では1951年度時点で1,800〜2,900名が業務に従事した。1956年には南米アルゼンチンに現地生産会社を設立し海外展開を試みたが、本格的な海外拠点拡大は後年を待つこととなった。
合成繊維の台頭と1975年経常赤字転落・人員削減への構造改革
1950年代を通じて帝人と東レの2社がデュポン社から合成繊維の技術を導入し、日本国内に合成繊維が普及した。生糸(絹織物)・毛糸(毛織物)・綿といった天然繊維の大半が合成繊維に代替される情勢のなか、繊維業界では合成繊維メーカーによる天然繊維メーカーの下克上が頻発した。日本毛織もこの流れに対応するため、1958年9月に鵜沼工場(現・岐阜工場)を新設し、合成繊維と天然繊維の混紡糸の生産を開始した[10]。混紡糸は主にスクールユニフォーム(学生服)向けに採用され、日本毛織は1960年から学生服分野の強化に踏み込んだ。同じ頃、1964年4月には日本でのウールマーク使用認可第1号を取得し、毛織物専業メーカーとしてのブランドを再定義する動きを取った[11]。
事業多角化に向けた最初の本格的な施策が1961年から始動した。1961年1月にニッケ不動産株式会社を設立し、加古川市内の自社所有地を不動産事業として収益化する道筋を作った[12]。同年5月には信成商事株式会社(現・ニッケ商事)の経営に参加し、繊維販売以外の商事機能を持つ子会社を取り込んだ[13]。1967年11月にはアカツキ商事を設立し、繊維周辺商材の取扱いを開始した[14]。1970年4月には機械製作所を設置し、毛織物製造機械の自社開発を始めた(1978年12月に株式会社ニッケ機械製作所として独立)[15]。1960年代から1970年代前半にかけての日本毛織は、繊維事業を主軸としながらも、商事・不動産・機械という3方向に子会社を伸ばし、繊維専業からの脱却に布石を打った時期にあたる。
1971年8月のニクソンショックと1973年10月の第一次石油危機は、日本毛織を含む繊維業界全体を直撃した。原油価格の高騰で合成繊維の原料コストが上昇し、急速な円高ドル安の進行で輸出採算が悪化、韓国・台湾の繊維産業の追い上げも本格化した。1974年11月期に33億円、1975年11月期に52億円の経常赤字に転落し、1974年11月期は14億円の最終赤字となった。創業以来初の本格的な赤字転落であり、毛織物の国際競争力が構造的に低下した節目だった。1979年7月には700名の人員削減を実施し、国内における毛糸・毛織物の生産縮小に対応した。創業から80年を経て、日本毛織は繊維専業の構造を保つことの困難に直面した時期だった。
1980年〜2012年 工場跡地の商業施設化と4セグメント体制への多角化深化
1982年中山工場閉鎖と1984年ニッケパークタウン開業による不動産事業の柱化
1982年3月、千葉県市川市の中山工場を閉鎖した。創業期に共立モスリン合併で取得した工場であり、戦後復興期から1970年代まで稼働した主力生産拠点の一つだった。立地条件が良かったため工場跡地は売却せず、商業施設として再開発を決定し、1988年11月に「ニッケコルトンプラザ」として開業した[16]。ショッピング・飲食・スポーツなどの複合施設として、市川市の中規模商業集積を形成する施設となった。1984年2月には加古川市にショッピングセンター「ニッケパークタウン」を建設して賃貸を開始した[17]。創業の地である加古川工場の不動産を有効活用するため、土地を売却するのではなく賃貸モデルとして運営する方針であり、長期賃料収入を生む資産へと工場跡地を転換する経営判断だった。
工場跡地の商業施設化は、繊維専業メーカーから不動産事業を持つ多角化企業への移行を象徴する施策となった。1987年10月には株式会社ニッケレジャーサービス(2020年10月に株式会社ニッケウエルネスに商号変更)を設立し、商業施設に併設するスポーツ・レジャー事業を立ち上げた[18]。1991年4月には大阪市中央区瓦町に現本社ビルが完成し、神戸創業の毛織物メーカーから大阪本社の多角化企業へと本社機能を移した[19]。1995年11月には双洋貿易を子会社化(現・ニッケ商事)、1996年12月には創立100周年を迎えた[20][21]。創業100周年の節目において、日本毛織は加古川と市川の2つの商業施設を核とする不動産事業、繊維周辺商社、機械製作所、レジャーサービスを抱えるグループ企業へと変貌を遂げていた。
繊維事業の海外展開も並行して進んだ。1998年5月には中国・青島市に青島日毛織物有限公司を設立し、毛織物の現地生産を開始した[22]。1999年11月には株式会社ニッケインドアテニス(2020年10月にニッケウエルネスへの吸収合併で消滅)を設立し、コルトンプラザ・パークタウンを基盤としたスポーツ施設運営を拡張した[23]。創業100周年前後の日本毛織は、繊維事業を縮小しつつも、不動産・商事・スポーツ・機械という多角化軸への投資を持続させ、繊維専業からの脱却を緩やかに進めた。
2002年アンビック子会社化と2006年ゴーセン・ナカヒロ買収による不織布・スポーツ用品の取り込み
2002年6月、株式会社ニッケ・ケアサービスを設立し、介護事業に新規参入した[24]。2000年に始まった介護保険制度に伴う需要拡大期に対応する動きで、繊維・不動産以外の第3の事業領域として介護を選択した。同年8月には不織布・フェルト製造のアンビック株式会社を子会社化した(現・株式会社エフアンドエイノンウーブンズ)[25]。不織布は産業資材として自動車・建材・濾過材などの用途を持ち、繊維事業の高機能化につながる買収だった。2006年8月にはスポーツ用品・釣糸・産業資材製造・販売の株式会社ゴーセンを子会社化、同年12月には繊維商社の株式会社ナカヒロを子会社化した[26][27]。短期間に不織布・スポーツ用品・繊維商社の3社を相次いで取り込み、繊維関連事業の幅を一気に広げた時期に相当する。
連結業績への効果は明確で、FY05(2005年11月期)の連結売上高758億円から、FY07(2007年11月期)には1,027億円へと2年間で35%拡大した[28]。経常利益もFY05の62億円からFY07の70億円へ伸長した[29]。M&Aによる事業領域拡大が連結数字を押し上げる構造に転じ、日本毛織は繊維専業時代とは異なる「複数事業の連結会社」としての性格を強めた。一方、2008年9月のリーマンショック後の景気後退でFY09(2009年11月期)の売上高は825億円・経常利益24億円へと縮小し、買収による拡大期の後にFY09で業績が一時調整した[30]。
2010年代に入ると、日本毛織は事業領域をさらに拡張した。2012年1月に日毛(上海)管理有限公司を設立し、中国市場の本格対応を進めた[31]。同年2月には南海毛糸紡績株式会社を子会社化し、現在の株式会社ニッケテキスタイルとして衣料繊維事業の生産基盤を補強した[32]。2002年から2012年までの10年間に取り込んだ買収・子会社設立は、繊維事業を縮小しつつも周辺事業群を補強するという、攻守両様の戦略を体現する施策群となった。
衣料繊維/産業機材/人とみらい開発/生活流通の4セグメント体制構築
2013年1月にはスタンプインク製造・販売の株式会社ツキネコを子会社化、2013年10月にはニッケ・タイランドを設立して東南アジアの生産・販売拠点を整え、同月「ニッケまちなか発電所明石土山」を開業して再生可能エネルギー事業に参入した[33][34][35]。2014年10月には寝具・寝装品製造・販売の株式会社ナイスデイを子会社化し、生活雑貨の領域に新たな足場を作った[36]。2002年のアンビック子会社化以降、約12年間にわたって日本毛織が買収してきた子会社群は、繊維関連にとどまらず、寝具・スタンプインク・スポーツ用品・釣糸・タイ生産・再エネへと領域を広げる結果となった。
セグメント情報の開示にも変化が現れた。FY11(2011年11月期)時点では「衣料繊維/資材/開発/コミュニティサービス/生活流通/エンジニアリング」の6セグメント体制であり、衣料繊維事業(売上394億円)・開発事業(売上77億円・利益33億円)の2軸が連結業績を牽引していた。FY13(2013年11月期)には「衣料繊維/コンシューマー/人とみらい開発/産業機材」の4セグメントに再編し、子会社群の事業特性に合わせた区分を採用した。人とみらい開発事業(FY13売上172億円・利益42億円)は不動産賃貸・介護・スポーツ・教育を束ねる収益源として位置付けられ、衣料繊維事業(売上416億円・利益14億円)よりも利益率の高い構造であった。
FY15(2015年11月期)の連結売上高は1,028億円、経常利益77億円となり、4セグメント体制での収益構造が明確化した[37]。人とみらい開発事業の売上329億円・利益55億円は、連結営業利益73億円の大半を稼ぐ柱として確立し、衣料繊維事業の売上417億円・利益22億円を利益率で上回った。創業の祖業である衣料繊維事業よりも、加古川・市川の商業施設運営や介護・スポーツ事業の方が連結利益への寄与度が大きい構造は、1984年のニッケパークタウン開業以来30年で経営構造が変容した結果だった。
2013年〜2025年 RN130ビジョンと産業機材バリューチェーン拡大による次世代成長への布石
2016年RN130ビジョン策定と「リニューアル・ニッケ130」10年計画
2016年、日本毛織は創業130周年を迎える2026年に向けた10年計画として「リニューアル・ニッケ130(RN130)」ビジョンを策定した。同年は会長・富田一弥が社長に就任した節目の年で、第1次中期経営計画(2017〜2019)を始動させた[38]。4事業区分(衣料繊維/産業機材/人とみらい開発/生活流通)への再編とシナジー創出を掲げ、減配しない安定配当方針を表明、自己株式取得を含む総合的株主還元の充実方針を定めた。FY16(2016年11月期)の連結売上高1,009億円、経常利益76億円という業績規模は、RN130ビジョン始動時の出発点となる数字であった[39]。
第1次中計期には産業機材バリューチェーンの拡張を狙ったM&Aが相次いだ。2016年3月に家具卸売のミヤコ商事を、2017年10月に産業用資材・機器貿易商社の株式会社エミーを、2018年3月に家具・インテリア通販サイト運営の株式会社AQUAをそれぞれ子会社化した[40][41][42]。エミーの取得は産業機材事業の販売チャネル拡張を、AQUAの取得はEC領域への足場づくりを意図したものだった。FY19(2019年11月期)の連結売上高は1,264億円、営業利益104億円、経常利益111億円と、RN130第1次中計の目標値(売上高1,200億円・営業利益90億円)を上回って達成した[43]。同時に統合報告書「ニッケグループ統合報告書2017」を初発行し、CSR報告書から統合報告書への移行を実施した。
第2次中期経営計画(2021〜2023)期には、4基本戦略として「成長事業拡大」「グローバル拡大」「資本効率改善」「事業部内再編によるシナジー創出」を掲げた。2019年4月に医療機器販売の株式会社京都医療設計を子会社化、2020年3月には繊維製品製造販売の第一織物を子会社化、2020年5月に株式会社フジコーと資本業務提携、2020年7月には建築工事業の株式会社中田工務店を子会社化(現・ニッケみらい建設)、2021年9月には株式交換によりフジコーを完全子会社化、同月に服飾雑貨企画・開発・販売の株式会社ワイワイを子会社化、2022年11月には消費者向け家電・ECのサンコー株式会社を子会社化、2023年6月には家具・インテリア企画開発の株式会社インテリアオフィスワンを子会社化した[44][45][46][47][48][49][50][51]。第1次中計から第2次中計を経て、買収・資本業務提携の件数は2桁を超え、産業機材・人とみらい開発・生活流通の3事業領域に幅広く新規企業を取り込んだ。
M&A攻勢による産業機材事業の急成長とFY20代の業績拡大
第2次中計期の業績拡大は産業機材事業の伸びに牽引された。FY19(2019年11月期)の産業機材事業の売上257億円・利益18億円は、FY24(2024年11月期)には売上308億円・利益19億円、FY25(2025年11月期)には売上351億円・利益28億円へと拡大し、5年間で売上が約37%、利益が約57%増加した。アンビック・フジコー統合(2023年12月、F&A Nonwovens Corporation/FANS発足)と旧フジコー伊丹工場跡地の再開発検討、2024年4月の集塵機器フィルター製造販売の株式会社カンキョーテクノ子会社化、2024年8月の不織布製造販売の呉羽テック株式会社子会社化が、産業機材セグメント、特に不織布事業の集中投資を象徴する施策となった[52][53]。
連結業績の拡大は2020年代を通じて持続した。FY20(2020年11月期)の連結売上高1,049億円・経常利益126億円、FY21(2021年11月期)の売上高1,066億円・経常利益97億円、FY22(2022年11月期)の売上高1,090億円・経常利益117億円、FY23(2023年11月期)の売上高1,134億円・経常利益116億円、FY24(2024年11月期)の売上高1,154億円・経常利益120億円、FY25(2025年11月期)の売上高1,193億円・経常利益129億円と、5年間で売上は約13%拡大、経常利益は過去最高圏で推移した[54][55]。親会社株主に帰属する当期純利益はFY25で90億円に達し、創業以来の業績水準を更新する局面が続いた[56]。総資産はFY25で1,897億円、自己資本は1,316億円となり、自己資本比率は69%と高位安定の財務構造を維持した[57]。
長岡豊社長(2022年2月就任、第15代)は、不織布事業を「第3の収益の柱」として位置付ける方針を繊研新聞(2025年1月28日)で表明している。衣料繊維事業(FY25売上303億円・利益26億円)と人とみらい開発事業(FY25売上267億円・利益68億円)に加えて、産業機材事業(FY25売上351億円・利益29億円)が連結業績の柱を担う構造に移行した。創業の祖業である衣料繊維事業の比重低下と、不織布を主体とする産業機材事業の成長軸への移行がFY25時点で並行して進んだ。
第3次中計とRN130ビジョン最終フェーズに向けたメディカル事業100億円構想
2023年12月に開始した第3次中期経営計画(2024〜2026)は、RN130ビジョン最終フェーズを位置付けるものとなった。成長投資500億円枠を掲げ、産業機材バリューチェーンの再構築と、不織布を軸とする事業領域拡大を継続している。2025年1月には東京都中央区八丁堀1丁目2番8号(八重洲通フィルテラス3F)に現支社ビルが完成し、東京拠点の機能を強化した[58]。同年10月には鉄道車両用・変電所用その他社会インフラ向け制御装置の製造を行う株式会社カコテクノスを子会社化し、産業機材事業のバリューチェーンに鉄道インフラ機器を取り込んだ[59]。
統合報告書2025では、配当性向35%・DOE2.5%目標と政策保有株式の直近5年で57銘柄縮減を開示するとともに、「第5の柱としてメディカル事業100億円規模」を構想として提示した。京都医療設計の取得(2019年)以来育成してきた医療機器販売事業を、衣料繊維/産業機材/人とみらい開発/生活流通の4事業に続く第5の柱へと育てる構想であり、創業以来の繊維事業を起点にしつつ、繊維周辺の不織布事業(産業機材)と、繊維とは異なる医療機器事業(メディカル)の双方を成長軸として位置付ける方針が示された。
2026年1月発表のFY26決算では、RN130ビジョン第3次中計の進捗を提示し、産業機材でカコテクノスグループの株式取得を発表した。第3次中計成長投資500億円枠に対し約430億円見通しで、差分70億円を機動的な自己株式取得(2026年1月に200万株・上限40億円決定)に充当する方針を示した。累進配当・DOE2.5%目標を前倒し達成し、2025年度配当47円(2円増配)を予定している[60]。RN130ビジョンの最終年度である2026年に向けて、創業130周年を機にM&Aを軸とした多角化経営の到達点を示す段階にあり、第5の柱であるメディカル事業100億円構想が次の10年計画の足場となる位置付けに収まっている。1896年の創業以来約130年の歴史において、日本毛織は神戸発の毛織物国産化メーカーから、戦時統合期の同業合併による主力工場拡張、1970年代の繊維不況による事業転換、1980年代の工場跡地商業施設化、2000年代の不織布・スポーツ用品・介護への多角化、2010年代以降のM&A攻勢と統合報告書による経営の見える化、2020年代の不織布事業の第3の柱化とメディカル事業の第5の柱化構想へと、繊維専業の枠を超えて約130年にわたり事業領域を継ぎ足した。創業者・川西清兵衛が見出した「軍需向け毛織物の国産化」という初期の事業機会は、戦後の繊維不況を経て解体された一方、加古川と市川の工場跡地は商業施設として現存する不動産収益源に再生され、買収した不織布・スポーツ用品・家具・EC・医療機器の各社が連結業績を支える構造が、創業130周年を迎える日本毛織の姿である。