茨城県で本田材木店を営む家に生まれた本田昌也氏は、専務として経営に従事しており、北米で木材の買い付けなどを行なっていた。1960年代には年商50億円を突破して県内有数の材木商に育て上げたものの、1973年のオイルショックによって業績が悪化した。
本田材木店は、兄が経営を継ぐことになり、本田昌也氏は独立するために商売の種を探すことになった。ペット販売など様々なビジネスを試したのちに、材木商時代に北米出張で見かけたホームセンターに照準を合わせた。1974年に静岡県の遠藤木材店がホームセンターを開業したことを聞きつけて、この分野に進出することを決意し、遠藤木材店に頼み込んで店舗の運営を学んだ。
そして、父が残した土地を活用して、1975年に茨城県土浦市にてジョイフル本田を設立した。社名の由来は「楽しさ」を意味するJYOFULに、自身の苗字を組み合わせた「ジョイフル本田」とし、米国で流行していたホームセンターのトレンドを意識した。
そもそも実家が木材の商売をしておりまして、私も買い付けでアメリカなどには行っておりました。アメリカのホームセンターなどでは色々資材を売っているからそれと同じような売り方はできないものかなあ、と思って独立して始めたわけです。
最初は、本当に普通のホームセンターという感じのもので、当時は人並みに資金繰りの心配もいたしました。実家の材木屋と競合してはいけないですから、必然的に材木屋では売っていないようなものを売るということになります。それで次第に妙なもの(笑)をどんどん売るようになったというわけです。
1970年代にジョイフル本田は、売上高150億円という目標を掲げて「売り場面積4万平方メートル、アイテム数22万点、駐車場収容台数3500台」というロードサイド型の大型店舗の新設計画を立案した。
このため、開業当初は「商品が棚に埋まらない」ことも考えられたが、それでも本田昌也氏は品揃えが重要と考え、地道に取引先を開拓して品揃えを充実させる道を選択した。本田昌也氏は、ジョイフル本田の品揃えを充実するために、大規模店舗を開店する先行投資型の経営を「ガマンの経営」と呼んだ。
店舗拡大は大型店への一点集中投資を実行し、北関東のうち「茨城・千葉」をのロードサイドの郊外を中心に、ホームセンターの新設を本格化した。特定地域に特化することによって、地域内で顧客から認知を獲得することや、物流の効率化を図ることが狙いであった。
なお、北関東のうち2000年代まで群馬県に進出しなかったが、その理由は、群馬県にはベイシアグループがホームセンターの展開を進めており、強力な強豪の存在があったことが背景にある。
ジョイフル本田が1970年代から1990年代にかけて、北関東地区に新設したホームセンターは下記の通りである。
・茨城・荒川沖店(1976年〜)
・茨城・古河店(1977年〜)
・茨城・守谷店(1993年〜)
・埼玉・幸手店(1978年〜)
・千葉・八千代店(1977年〜)
・千葉・市原店(1982年〜)
・千葉・君津店(1987年〜)
・千葉・千葉店(1990年〜)
・千葉・富里店(1995年〜)
売れ筋商品だけ買ってきて並べるから売れないのであって、「こりゃ、絶対に売れんわ」と担当者が思うようなものも買ってきて並べると、その周りの商品がガンガン売れるわけです。「売れないモノを並べる」というのが一つのコツ。ここらへんが輸入品を捌いていく秘密だと思います。
次に売れない話じゃなくて売れる話をいたしましょう。「住まいと暮らしに関する物は何でも置く」というのが基本コンセプト。安さと品揃えがコンセプトです。ですからプロが買いに来るというコンセプトです。
例を出しますと、北欧フィンランドから輸入している建材があります。これは本当に当たりました。ウッドデッキなどが簡単に自分でも組み立てられて値段は格安。いわゆる開発輸入です。発注しても船で3〜4ヶ月かかりますから、必然的に大量の在庫を持つことになります。どれくらい売れるか計算して余裕のある在庫を持つ。ですから春からのシーズン前の昨年秋から冬に大量の在庫を積み上げておき、それをガンガン売っていくわけです。巨大なストックヤードになっています。本当にストックだけで巨額の資金がかかっています。
大量仕入れ、大量販売が価格的魅力の根源ですし、一方でなんでも揃えておかないといけないという宿命もある。その両方ができる当社は非常に幸せだと思っております。
1980年代の店舗増設を通じて、ジョイフル本田は業容を拡大。1987年6月期の決算では、売上高275億円に対して申告所得22億円という高収益を達成し、非上場企業ながらも優良企業として注目を集めた。
特に、主力店舗であったジョイフル本田「荒川沖店」は、1店舗だけで年間売上高100億円を突破しており、この水準はホームセンター業界の店舗で当時の売上高No.1であった。
このため、少数の大型店舗がジョイフル本田の業績を支えるビジネス構造が、1980年代の時点で完成されていたと言える。
1987年時点で、1店舗あたりのアイテム数は6万点を超え、競合の1万〜2万点を大きく凌駕することで独自の地位を確立していた。売れ筋ではない商品をあえて置くことによって、競合との差別化になることから、ジョイフル本田は「効率」ではなく「品揃え」にこだわることによってニッチな顧客から支持され、結果として価格競争からは一線を画す存在となった。
1980年代から1990年代を通じて、POSを活用した発注システムが注目を集めて、小売業が相次いで導入した。特に、イトーヨーカ堂がPOSを導入したことで注目を集めていた。
一方、ジョイフル本田はPOSは不要と考え、あくまでも発注は店舗主体で行う体制を継続した。
この理由は、そもそも品揃えが膨大であることが付加価値であるために、売れ筋商品に絞るというPOSは、ジョイフル本田の存在意義からして不要と考えたためであった。
大手GMSは一見、なんでも揃っているように見えるが、いざ買い物をしようと思うと、何も買うものがない。ジョイフル本田は、住まいの分野に扱い商品を限定しているが、その分野に関しては深い品揃えを徹底している。大手GMSとの競合は全く怖くないし、関係ない。
ビックストアは、お客さんの立場から見ると、あまりに効率を追求しすぎたために無味乾燥な、楽しくもなんともない店になってしまっています。Yシャツが欲しくてビックストアに買い物に行っても、袖が短いとか、襟が小さいとかいったことばかりで、自分にぴったりのYシャツは見つからないことがほとんどです。要するに、標準サイズしか置いていないですからね。
そしてまた、ビックストアは、POSに頼りすぎるからおかしくなるのです。昨日100個売れたからといって今日100個仕入れても、今度は、300個欲しいというお客さんが来るかもしれない。また、昨日売れた100個は、100個しかなかったからという100個かもしれないですよ。だいたいPOSは売っていない商品のデータは絶対に出してこない。それに頼って売れ筋を追いかけると、店はどんどんつまらないものになっていきますよね。
1990年代後半から大店法の改正によって大規模商業施設の建設が可能になったことで、ショッピングセンターを開業できる条件が整った。
そこで、ジョイフル本田は、1990年代から2000年代にかけて「敷地面積10万平方メートル」を超える超大型店舗を北関東に相次いで開業した。
なかでも、2002年にジョイフル本田が開業した「千葉ニュータウン店」は、ジョイフル本田最大の敷地面積となる13.5万平方メートルを確保し、駐車場の収容台数は5000台の超大型店であった。
なお、大型店舗1つあたりの投資額は100億円程度であったという。ジョイフル本田が1990年代後半以降に新設した大規模店舗は下記の通りである。
※大型店(敷地面積5万㎡〜 売場面積3万㎡〜)
・1993年 守谷店(茨城県)
・1995年 富里店(千葉県)
・1998年 ニューポートひたちなか店(茨城県)
※超大型店(敷地面積10万㎡〜 売場面積5万㎡〜)
・2000年 新田店(群馬県)
・2002年 千葉ニュータウン店(千葉県)
・2004年 宇都宮店(栃木県)
・2007年 瑞穂店(東京都西多摩郡)
ジョイフル本田の敷地面積は3万~4万坪。売場面積は3万~4万㎡。建設業者から物件が引き渡され、売場を一瞥すると、これが本当に埋まるのか、とぞっとしますよ。だけど、埋まるはずだと、信じるのです。
たとえば、2002年に開業した千葉ニュータウン店(千葉県)では駐車場を3200台用意しました。しかし、それではきっと足らなくなるはずだと考え、そのほかに800台の駐車場を用意したのです。普通なら3200台の駐車場など埋めきれないという考えが先にいってしまうのでしょうが、そうじゃないのです。仮に3200台と考えてしまうと、売場も3200台用の売場になってしまう。それじゃあダメなんです。広すぎると思った瞬間、それだけの品揃えしかしなくなってしまうからです。
でもそうじゃない。新しい店にお客様が来てくださるのかと不安に感じることはあります。恐怖すら感じます。しかし、大切なのはガマンの経営であり、ガマンのマーチャンダイジングだと思うのです
ジョイフル本田は、非上場企業として創業者の本田昌也氏によって経営され、2009年度時点で売上高約1700億円の大企業となっていた。だが、創業者自身が高齢になったことを受けて、事業承継を模索して丸の内キャピタル(投資ファンド)に話を持ち込んだ。
そして、2009年にジョイフル本田は、三菱商事系の投資ファンド「丸の内キャピタル第一号投資事業有限責任組合」と資本提携を実施した。資本提携を受けて、ジョイフル本田は第三者割当増資によって、丸の内キャピタルから99億円を資金調達し、丸の内キャピタルはジョイフル本田の株式を33.4%保有した。
ジョイフル本田の創業者・本田昌也が83歳にて逝去した。
ジョイフル本田の経営陣は、2011年時点で三菱商事の出身者(丸の内キャピタルの関係者)であり、本田家は経営から退いたと推察される。
2014年にジョイフル本田は株式上場を決定した。上場直前の筆頭株主は、丸の内キャピタル(保有比率31.51%)であり、その他の株主には本田昌也氏の親族が名前(いずれも保有比率0.77〜3.63%)を連ねた。
なお、株式上場に際しては、丸の内キャピタルは株式を保有(比率31.42%)し続けて、この時点では売却を実施しなかった。
丸の内キャピタルはジョイフル本田の株式売却を決定した。なお、保有していた株式は、保有比率31.42%と多く、市場への影響が考えられたため、機関投資家向けにまとめて売却した。
最終的に、丸の内キャピタルは、ジョイフル本田の保有株式を389億円で、ベアリング・プライベート・エクイティ・アジア系の投資ファンド「ビーピーイージャパン」に売却した。
この結果、丸の内キャピタルは、単純計算で、約290億円の売却益を確保したものと推察される。
2014年の株式上場後、ジョイフル本田は一貫して売上高を低迷させていった。上場直前は東日本大震災の復興特需(主にガゾリン販売の好調)が業績を嵩上げしていたが、2010年代後半を通じてガソリンの販売が低迷したことが影響した。
この理由は、仕入れ先の石油元売各社の業界再編にある。ジョイフル本田は東燃ゼネラルの「余剰ガソリン」という仕入れルートを確保することで、格安ガソリン(通称:業転玉)を提供することで好評を博していた。
しかし、東燃ゼネラルが業界再編によってJX HDと経営統合したことにより、低価格による仕入れが難しくなり、ジョイフル本田の優位性が失われた。
そこで、2018年にジョイフル本田は構造改革チャレンジを開始し、オペレーション改善による販管費の削減や、ネット販売の強化を打ち出した。
この一環として、2020年には不採算のガソリン・灯油事業を出光興産に譲渡するなど、事業整理を断行。売上高の減少を許容しつつ収益の改善を試みた。