戦時経済下の1941年に、綿華紡績(佐賀県)、日出紡織(和歌山県)、出雲製織(島根県)、和歌山紡織(和歌山県)の4社が合併して大和紡績を発足した。「大和紡績」という社名の由来は、合併した各社が一致団結するために「大和」の文字が採用された。
1950年代を通じて大和紡績は繊維の好景気という恩恵を受けて業容を拡大。1952年には大阪の一等地である御堂筋に近代的な自社ビルを竣工し「十大紡績」の1社として認識され、日本を代表する企業に発展した。
ニクソンショックおよびオイルショックにより日本経済が苦境に陥ると、繊維業界も合成繊維を含めて大きな打撃を受けた。このため、大和紡績は1975年に29億円の経常赤字を計上。1976年には無配に転落した。
大和紡績は情報分野に進出するために「ダイワボウ情報システム」を設立し、当時、日本国内で普及しつつあったパソコンやOA機器などの販売事業を立ち上げた。
ダイワボウ情報システムは、佐賀や金沢など、大和紡績の主力工場が存在する地方に支店を設置し、主に地方における販売網を充実させた。競合の大塚商会が都心部への直販を主体にするのに対して、ダイワボウは地方の卸売というポジションを確保し、両社の棲み分けにつながった。
ダイワボウ情報システムは日本電気(NEC)との特約店契約を締結し、同社の主力製品であるPC-9800を販売する体制を構築する。ダイワボウは繊維業界では当たり前であった「大量の在庫を持つ」という常識をパソコン・OA機器の業界にも取り入れて、顧客に対して「素早く納入できる」体制を売りにして業容を拡大する。このため、ダイワボウ情報システムは在庫リスクを抱えて利益を確保するビジネスモデルに特色があった。
オフィスにおけるパソコンの普及とともにダイワボウ情報システムは業容を拡大。1996年には売上高1,411億円を達成し、1997年には東京証券取引所第2部への株式上場を果たす。この時点で、ダイワボウ情報システムは、親会社の大和紡績の単体売上高(571億円・1995年4月期)を凌駕している。
1990年代を通じてダイワボウは全国各地に物流センターを新設して在庫の即納体制を確立し、1999年には埼玉に2か所の物流拠点を新設した。2007年時点で営業所67か所、物流拠点11か所(札幌、仙台、埼玉加須3拠点、静岡袋井、愛知小牧、大阪茨木、神戸須磨、岡山、福岡筑紫野)を擁しており、同社の武器となっている。
親会社の大和紡績は繊維業界における業績不振によって経営が行き詰まる一歩、子会社のダイワボウ情報システムはオフィスのIT化という市場拡大の追い風を受けて順調に業容を拡大した。このため、親会社の企業価値が、子会社の企業価値を下回る状況になった。このため、機関投資家のエフィッシモはダイワボウ情報システムの株式42.98%を取得して企業価値の是正を促した。