東京に亀戸工場を開設し、根津財閥として紡績業に参入。ところが不景気により日清紡の業績は悪化した。このため「瀕死の日清紡績」と呼ばれるなど、創業期は厳しい状況であった
経営再建のために、元東京紡績出身の宮島清次郎(みやじま・せいじろう)氏が日清紡の専務として入社。会社再建12条の考えに従って、工場内の組織改革を実施。その後、第一次世界大戦の勃発による特需もあり、日清紡の経営再建に寄与。1919年から1940年までの約21年にわたって社長を歴任し、戦前の日清紡の業績拡大を担った。
第1に常に相手の立場に立つこと(略)
第2は争議の解決は正々堂々と行うべきこと。(略)
第3は事業は腹八部目でなければならないこと。宮島さんは、住友鉱山は2年足らずで退き、岳父経営の東京紡績の債権のため、若く専務となったが、これは3万錘の旧工場ならどうにか不況到来に対処できたのに、無理に6万錘以上の新工場を建てたため、ついに他社に身売りしなければならなくなった。
第4は被合併会社は哀れなこと。これは前記の東京紡績が尼崎紡績(今日の大日本紡)に合併されたが、合併した側の優越感に対し、被合併側の連中は、合併後、数年足らずで大半が転出を余儀なくされたのである。この体験から、宮島さんは、日清紡の社長になっても他社を強制合併するというようなことはしなかった。
第5は、外部に評判の悪い者を使う事。(略)まず、再建は会社内部からと、要所要所の人員を見回したところ、物品・倉庫係の連中に、外部の出入り商品等から評判の良い者、悪い者を見て、評判の良い者は左遷ないし退社、逆に評判の悪い者を重要視した。その結果、対商人関係は非常に改善され、業績はメキメキ向上した(注:業者へのリベート・裏金の撲滅と思われる)
第6は、自ら体験すること。紡績会社は、事業の性格上、多数の女子従業員を寄宿舎で起居させ、朝・昼・夜の食事を供したが、宮島さんの入社前の日清紡では、出入りの米屋の言うままになっていた。そこで、宮島さんは、直接、米をはかるマスをもち、厳重な検査を行った結果、これまで一人当たり5合の食料が、いささかも実量を減ずる事なく、四合で済まされることになったのである。(注:業者が曖昧にしていた点を突き、値下げ交渉に成功したと思われる)(略)
第7は、技術者気質に惑わされるなである。宮島さんは同様の目で工場内を見回したところ、たとえば粗紡の道具が、時々、変化していることを発見した。これは、一種の技術者気質で、前任者のやったことを、新任者は、いわゆる偏狭なる技術者気質で換えたがる者である。その場合、目新しく若干の効果をもたらすこともあるが、大勢として大したことはないからである。むしろ、目先の小道具をいじくることで彼らの派閥意識を助長していたが、それも許されないものと、改善され、一挙両得となったのである。(略)
第8は、長いことは内輪に評価すること。これは、大正7、8年、当時は第一次欧州大戦争で、日清紡に限らずあらゆる業者はウケに入っていたが、宮島さんの親しい某糸屋は盛んに成金風をふかしていた。そこで、問うたら、この糸屋は手持ちの商品、有価証券類をことごとく暴落した時価で見込んで有頂天になっていたのである。その結果、やがて来た反動で、スッテンテンになってしまったのである。
第9は、商業益よりも工業益に重点を。紡績は、綿という1年草の買い付けいかんで業績が決定的に左右されるものと見られていたのを、宮島さんは、これの工業化に格別の努力を傾注した。もとより、原綿の買い付け、思惑にも十二分の配慮を払ったが、そのいかんで百万円の利益を上げるより、工業化、つまり原価低減、合理化経営によってもたらされる十万円の利益により重点をおいたのである。(略)
第10は、イザという時に勇気を。(略)
第11は、非常時には率先すること。(略)
第12は、これは、宮島哲学で仕事は生涯の道楽と思え、趣味と思え(略)宮島さんは「仕事を、自分の道楽、趣味と思えばこそできたので、だからこそ、全部自分で責任を持ったのだ。ひと様の仕事と思っては、何もできないヨ・・・」
戦後の公職追放もあり、桜田氏は当時41歳での社長抜擢。1945年〜1964年までは社長、1964年〜1970年までは会長、1970年〜1984年までは顧問をつとめ、日清紡の実質的な経営トップを約40年にわたって歴任した。
日清紡はブレーキ部品(ライニング・ブレーキシュー)の製造を行なっていたが、自動車市場の発展を受けて最終製品であるブレーキ機器への進出を決定。最新鋭のディスクブレーキに参入するために、デーベス社と技術提携を締結した。設備面では1968年に美合工場のブレーキ設備を名古屋工場に移設し、20〜30億円の設備投資で生産設備を刷新。その上で、自動車メーカーからのコストダウン要請に対応できる事業展開を目指した。ブレーキ機器への参入に先立って、日清紡は顧客として「ホンダ、日野自動車・プリンス自動車(日産自動車)」の3社に納入する契約を取り付けた。
今の部品メーカーは百姓みたいにどうしてもやらなければならない状態になっている。しかも、他のメーカーとの競争は品質、値段で勝負する以外にない。(略)自動車メーカーから年2回のディスカウントが要求され、今までそれに応えているが、限界に来ているようだ。それに部品メーカーでは開発費とか試験費などといった膨大な費用をかけているが、それを認めてくれないし、またそのほかにも目に見えないところに金がかかる(略)今後、部品メーカーが遅行していくには技術革新と、技術を支える資本力の問題である
1973年10月のオイルショックにより、FY1974〜FY1977にかけて同業他社の繊維企業が赤字に転落する中、日清紡は最終黒字を確保。固定費を増やさない経営に徹した成果が現れ、業界内で相対的に高収益な繊維会社として注目を集めた。
好、不況を問わず、ベスト・コンディションを望むのは無理でしょう。たしかに好況時には「日清紡は人も増やさず、いったい何をしているのか」と言われ、不況時になると「紡績の伝統を守っているのは日清紡だけだ」と褒められるという具合です。首切りなどしてなくても済むように、いつも不況を頭に入れた経営をやってきましたから、伸び切るときに人手が足りないと言ったデメリットがあります。高度成長期にはこの点は痛感させられましたが、経営方針はそう簡単に変えるべきではないという原則を守ってきたわけです。
自動車向けブレーキ部材の量産のために、群馬県に館林工場を新設。館林工場でライニングなどの部材を生産し、名古屋工場で最終製品であるブレーキ機器を製造する分業体制を整えた。従来の関東地区では東京工場(西新井)でブレーキの生産を行っていたが、生産効率を高めるために館林工場に設備を移管した。1981年に第一工場(1期工事)、1984年に第一工場(2期工事)、1990年に第二工場、1994年に第3工場をそれぞれ館林工場内に新設し、ブレーキの主力生産拠点として活用した。
ABSに対応したブレーキの製造拠点として、浜北精機工場を新設
自動車向けブレーキ事業への設備投資(館林第3工場の新設)のために転換社債の発行を決定。年間の営業キャッシュフロー140億円に対して、日清紡の年間投資予定額(ブレーキ事業への投資・繊維事業の合理化)が160億円を予定したため、不足分を社債発行で充当する狙いがあった
1980年代の館林工場の新増設により日清紡はブレーキ事業の売上高を拡大。1991年にはブレーキ事業の売上高が約320億円を記録した
日清紡は「繊維・自動車ブレーキ」に次ぐ主力事業を展開するために、エレクトロニクス業界の新日本無線の買収を決定した。ただし、当時、新日本無線の株価が保有資産に比べて割安だったため、村上ファンドと日清紡HDの2社が、新日本無線のTOBに名乗りを上げた。最終的に日清紡は、新日本無線の株式53%を175億円で取得に成功して議決権を確保した。
ホールディングス(持株会社)に移行して2019年4月で10年になります。2006年ごろ、ホールディングス化を考えはじめたときが変化点だったと思います。企業として何を目指すのか、長期的な戦略・方針が必要で、企業にとって大事なことは常に変化していくことだと考えました。当時、まだ繊維、ブレーキが主力事業でした。成功しているわけですから過去の成功体験に囚われています。しかし、世界の社会・経済が激変するなかで、ビジネスモデルの変革を拒み続けると、社会のニーズに対応できない事業構造になり、収益力を喪失する。それではもう手遅れになるということで着手しました(略)
2005年に新日本無線のTOBをめぐり、あるファンドとのバトルがあったのが一つの刺激にはなっています。経営はできなくても、言っていることはある面、正しいところがあると当時のトップは語っていました。マール2007年10月号でインタビューしていただいた岩下俊士です(略)。ファンドとの戦いの後ぐらいに社長になっていますが、そのころに方針を決めて、ホールディングス化することにしました。しかも、できるだけ早く、1年、2年で仕上げるようにと言われました。そこからM&Aをしていくことが始まりました。なかなか先見の明があると思います
名古屋市内の名古屋工場を閉鎖し、ブレーキ製造を2005年に新設した豊田工場に移転。工場の耐震性や周辺宅地化の影響を加味し、旧名古屋工場の閉鎖を決定
日清紡(鵜澤静社長)は、ドイツのブレーキ摩耗材メーカーの買収を決定。株式100%を約400億円で取得し、日清紡としては大型投資となった。TMD社の取り込みで、欧州向けの自動車メーカーの製造拠点および販路確保を目論む
FY2018とFY2019の2期連続で最終赤字に転落。FY2018は当期純損失71億円、FY2019は同66億円。FY2019は買収したドイツTMD社の「自動車用ブレーキ用摩耗材製造資産」について140億円の減損損失を計上したことが主要因。投資有価証券の売却による特別利益34億円を計上して損失の一部をカバー。
ボトムラインで純損失を計上したのは、TMD社で減損損失を計上したからです。現在、TMD社は新しいCEOのもと、日清紡ブレーキ(株)からも多数の人員を送り込み、事業再構築を進めています。その一環として、製造ライン・設備の抜本的見直しを行っており、収益回復が遅れている新車組み付け用摩擦材の生産ラインについて固定資産の減損処理を実施しました。