歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1907年、綿糸の輸入代替が国策とされた明治後期の紡績勃興期に、平沼専蔵を初代会長として日清紡績が東京・亀戸で生まれた。資本金1,000万円(払込250万円)を元手に第一期紡機約5万9千錘を建てて翌年操業し、綿糸・綿布の専業会社として歩み始める。大正期には専務から社長へ進んだ宮島清次郎が高岡・岡崎などの紡績を買収し、青島・名古屋に工場を構えて六工場・紡機23万錘の一大メーカーへ育て上げ、輸入品を国産で置き換える需要を背に紡績の技術を蓄えていった。
決断紡績で蓄えた糸づくりの技術は、石綿から摩擦材を作る工程に転用でき、自動車ブレーキへ業態を広げた。石油危機後の繊維不況で「紡績だけでは将来がない」と見た経営陣は化成品・精密機器・自動車部品へ多角化を積み上げ、2009年に持株会社制へ移り各事業を独立会社に切り分けた。事業を入れ替えやすいこの体制のもとで、日本無線・TMD・日立国際電気と買収を重ね、主軸を綿紡績から欧州ブレーキ、さらに無線・通信へと約30年ごとに組み替えてきた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ紡績会社の日清紡が自動車ブレーキへ業態を広げられたのか
- A 紡績で長年蓄えた糸づくりの技術が、石綿から摩擦材を作る工程にそのまま転用できたためである。村上雅洋氏は2021年2月の事業構想オンラインで「石綿から摩擦材を作る際に、紡績技術が転用できるというのが受注の理由でした」と語っている。1907年に綿糸・綿布の専業会社として東京・亀戸で生まれた日清紡績は、第一次石油危機後の繊維不況で「紡績だけでは将来がない」と見て、この技術系譜を足がかりに自動車ブレーキへ業態を広げた。
- Q なぜ2009年に持株会社制へ移ったのか
- A 2005年の新日本無線をめぐる買収で投資ファンドと争い、事業を機動的に入れ替えられる器が要ると経営陣が判断したためである。同年12月の公開買付で新日本無線を子会社化した日清紡績は、村上雅洋氏が「2005年に新日本無線のTOBをめぐり、あるファンドとのバトルがあったのが一つの刺激になっています」と振り返るとおり、これを機にホールディングス化の検討を始めた。2009年4月、商号を日清紡ホールディングスへ改め、ブレーキ・化成品など5社を新設分割で独立事業会社に切り分けた。
- Q なぜ2023年に12年保有したTMDを手放し無線・通信へ移したのか
- A 電動車化と欧州の環境規制で欧州ブレーキ事業が先細ると村上雅洋社長(当時)が見て、12年保有したこの事業を損切りしたためである。2023年11月、日清紡HDは2011年に約500億円で取得したTMD FRICTIONの全株式を譲渡し、同氏は「自動車のxEV(電動車)化と欧州での粉じん規制に伴う、将来の事業リスクを見越した損切り」と説明した。ブレーキ事業自体は世界首位の銅レス・銅フリー摩擦材に絞って残し、同年子会社化した日立国際電気とあわせ無線・通信を主力に据えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1907年〜1999年 渋沢栄一系列の紡績会社から複合事業会社への助走
平沼専蔵会長の創業と宮島清次郎による基礎固め
日露戦争後の明治40年(1907年)2月、日清紡績株式会社が東京の亀戸に誕生した[1][2]。設立年月日は1907年2月5日、資本金1,000万円(払込250万円)で、初代会長には平沼専蔵氏が就任している[3][4]。綿糸の輸入代替が国策とされた明治後期の紡績勃興期にあって、同社は会社設立後ただちに第一期紡機59,028錘を建設し、翌41年6月に操業を開始した[5]。43年3月には京都の帝国製絲(13,000錘)を買収して拡大策をとったが、第一次大戦後の反動期には関東地方の大洪水で本社工場が被害を受け、創業まもない同社は早くも苦境に立たされた[6][7]。
苦境を脱する転機となったのが、大正3年(1914年)8月に専務として迎え入れた宮島清次郎氏である[8]。宮島氏は大正4年に高岡紡績(10,000錘)、大正8年には岡崎紡績(16,000錘)を買収し、同年に青島工場(20,000錘)・名古屋工場(110,000錘)を新設、大正10年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁する一大紡績メーカーへ育てた[9][10]。大正8年9月に社長へ昇格した宮島氏は、昭和8年2月に人造糸へ進出するため日清レイヨンを創設して糸から綿布加工までの一貫体制を築いている[11]。もっとも昭和10年以降の戦時体制のもとで保有機の供出や外地への設備移駐を命ぜられて設備が激減し、太平洋戦争の敗戦により同社は設備の約80%を喪失、終戦時には紡機17万9,000錘にまで減少した[12]。宮島社長は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20年12月に桜田武氏へ引き継がれた[13]。
終戦後の日清紡績は戦前の保有設備の回復に努め、昭和30年(1955年)までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へと復興拡大した[14]。さらに繊維部門にとどまらず化成品・工作・製紙・印刷といった非繊維部門にも進出し、経営の多角化を推し進めている[15]。1958年6月の徳島工場(現・徳島事業所)新設、1961年10月の東京証券取引所市場第一部への指定、1966年1月の藤枝工場(現・藤枝事業所)新設と、生産拠点の拡張を続け、1972年12月にはブラジルにNISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立して海外生産拠点の確保にも着手した[16][17]。1973年10月の第一次石油危機を境に、原油高と韓国・台湾勢の台頭で日本繊維業界が構造的な競争力低下に直面すると、日清紡績は繊維以外の領域を拡げた。1981年11月に館林化成工場(現・館林事業所)を新設して化成品事業を本格化、1986年4月に美合工機工場、1987年1月に浜北精機工場を新設して精密機器事業を始めるなど、「紡績」を社名に冠しながらも化成品・精密機器・自動車関連へ業域を分散させる構造変化が1980年代後半までに進んだ[18][19]。
自動車ブレーキ事業の海外展開と新日本無線・日本無線への布石
1989年1月のKOHBUNSHI(THAILAND)LTD.(タイ、後にNISSHINBO MECHATRONICS(THAILAND)LTD.へ改称)設立から、海外子会社の連続設立が始まった[20]。1992年7月に千葉工場(現・旭事業所)を新設、1993年4月に本社を東京都中央区日本橋人形町二丁目に移転、同年7月には浦東高分子(上海)有限公司を中国に設立した[21][22][23]。1996年6月にはNISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO., LTD.をタイに設立、1997年3月にはNISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を米国に設立、1998年4月にはPT.GISTEX NISSHINBO INDONESIA(後にPT.NISSHINBO INDONESIA)をインドネシアに設立、1999年3月にはSAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを韓国に設立した[24][25][26][27]。
1990年代後半に集中した海外子会社設立は、自動車ブレーキ事業のグローバル供給網構築を主目的とした投資である。日清紡績は戦前から自動車向け摩擦材を製造しており、村上雅洋氏は2021年2月の事業構想オンラインインタビューで「一見、紡績とブレーキは何ら関係性がないように思えますが、石綿から摩擦材を作る際に、紡績技術が転用できるというのが受注の理由でした」と語っている。紡績の技術蓄積が摩擦材製造に転用されるという技術系譜が、日清紡績を綿紡績会社から自動車部品メーカーへと業態変化させる土台となった。1990年代を通じて、繊維事業の縮小と自動車ブレーキ事業の拡大が並行する形で事業構造の組み替えが進んだ。
2000年12月にはコンチネンタル・テーベス株式会社を設立し、ドイツの自動車部品大手コンチネンタル社との合弁でブレーキ事業の競争力強化を狙った[28]。2000年12月にはPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRY(インドネシア)の株式追加取得も実施し、繊維事業の海外生産拠点も並行して整備した[29]。1990年代から2000年代初頭にかけての日清紡績は、繊維・自動車ブレーキ・化成品・精密機器という4本柱で構成される複合事業会社へと変貌を遂げた。創業から1世紀近くを経た同社にとって、綿紡績の専業企業から複合企業へという構造変化は、繊維不況への対応策として進めた多角化が逐次的に蓄積された結果だった。
戦後経営者の系譜と多角化の意思決定
大正8年9月に社長へ昇格した宮島清次郎氏は、機械設備の近代化と糸から綿布加工までの一貫体制づくりで日清紡績の事業基盤を固めた。宮島氏は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20年12月に桜田武氏へ受け継がれている[30]。概略書『企業の歴史 : 明治百年』は、戦後の日清紡績が「徹底した自由主義経済理念による経営と経営の合理化」を最大の特色とし、その合理主義経営が宮島清次郎・桜田武・露口達の各社長によって推し進められてきたと記している[31]。同社は斜陽といわれた紡績業界にあって異色の高収益と堅実性を誇り、昭和39年10月期以降は配当14%を継続し、業績不安から減配したことはなかった[32]。この時期の日清紡績は、綿紡績の収益で足場を固めながら、財界に重きをなす経営者を輩出し、紡績会社の枠を超えた地位を維持していた。
桜田氏の系譜を継いだ露口達氏が社長を担った時期、日清紡績は繊維にとどまらない多角化を一段と進めた[33]。昭和41年(1966年)末には東邦レーヨンの再建に着手し、自社常務であった真船清蔵氏を同社社長に送り込んでいる[34]。同社設立から60年を数えた創立60周年時点の概略書によれば、戦後9回の増資を経て資本金は40億円、年間売上高は約480億円・利益約15億円、13工場に従業員約1万名を擁し、紡績会社から出発しながら合理的な多角経営会社へ脱皮した姿が描かれている[35]。露口氏は1975年の日経ビジネスで「首切りなどしてなくても済むように、いつも不況を頭に入れた経営をやってきました」と語っており、好不況を通じて堅実を貫く経営方針が高度成長期にも維持されたことがうかがえる[36]。1973年の石油危機以降に繊維業界全体が構造不況へ陥るなかで、日清紡績の経営陣は「紡績だけでは将来がない」という認識を共有し、1980年代以降に化成品・精密機器・自動車関連へ業域を拡張した。
1980年代半ばに社長を担った望月朗宏氏、1990年代に社長を務めた指田禎一氏、2000年代に社長を務めた岩下俊士氏が順次経営を引き継ぐなかで、日清紡績の事業ポートフォリオは組み替えられた。1981年の館林化成工場、1986年の美合工機工場、1987年の浜北精機工場と、1980年代に立て続けに新設された工場群は、いずれも繊維以外の事業領域に属する生産拠点である[37]。同社の多角化は、繊維事業の縮小と非繊維事業の拡張を逐次的に積み重ねる形で進められたが、その意思決定の背後には戦後の歴代経営者が共有していた「複合化への必要性」という認識があった。1907年の創業から100年を迎える前後の時期に、日清紡績は綿紡績の枠を超える複合企業へと変貌するための基盤を整えた。
2000年〜2017年 持株会社化と日本無線・TMD買収による事業領域の大改編
新日本無線TOBから持株会社制移行へ
2005年10月、SAERON AUTOMOTIVE CORPORATION(韓国)が韓国取引所に上場、同年12月には公開買付により新日本無線株式会社の株式を追加取得し、新日本無線を連結子会社化した[38][39]。新日本無線は通信用半導体・電子部品を主力とする会社で[40]、村上雅洋氏は2018年8月のマールオンライン対談で「2005年に新日本無線のTOBをめぐり、あるファンドとのバトルがあったのが一つの刺激になっています」と振り返っている。新日本無線をめぐるファンドとの攻防がきっかけとなって、日清紡績の経営陣はホールディングス化と事業ポートフォリオの抜本的な組み替えを検討し始めた。
2009年4月、日清紡績株式会社は持株会社制に移行し、商号を日清紡ホールディングス株式会社に変更した[41]。同時に新設分割により日清紡ブレーキ株式会社・日清紡メカトロニクス株式会社・日清紡ケミカル株式会社・日清紡テキスタイル株式会社・日清紡ペーパープロダクツ株式会社の5社を設立し、繊維・自動車ブレーキ・化成品・精密機器・紙製品を独立した事業会社として再編した[42]。初代社長には鵜澤静氏が就任し、2013年6月まで4年余り在任した。村上雅洋氏は2018年のマールオンライン対談で「ホールディングス(持株会社)に移行して2019年4月で10年になります。2006年ごろ、ホールディングス化を考えはじめたときが変化点だったと思います」と語っており、2005年の新日本無線TOBを機に持株会社化の検討が始まった経緯がうかがえる。
2010年12月、公開買付により日本無線株式会社の株式を追加取得し、日本無線および長野日本無線株式会社を連結子会社化した[43]。日本無線は1915年創業の老舗無線通信機器メーカーで、船舶向け無線・防災行政無線・気象観測機器などを主力とする会社である。日清紡HDは2010年から日本無線・長野日本無線を傘下に取り込み、無線通信事業を新たな主力事業領域として育成する方針を定めた。FY10(2011年3月期)の連結売上高3,255億円のうち、エレクトロニクス事業(日本無線関連を含む)が1,128億円・営業利益61億円を占め、持株会社化2年目で早くも事業ポートフォリオの構造変化が業績数字に表れた。
TMD Friction買収と紙製品事業譲渡
2011年11月、ルクセンブルク籍のTMD FRICTION GROUP S.A.の全株式を取得した[44]。TMD Frictionは欧州を主力市場とする世界的なブレーキ摩擦材メーカーで、買収によって日清紡HDのブレーキ事業はグローバル展開を本格化した[45]。鵜澤社長は買収資金について「手元資金とブリッジローンを活用」と日本経済新聞2011年9月27日付で語っている。買収価格は当時の発表ベースで約500億円規模で、日清紡HDにとって最大級のM&A案件となった。同年2月には日清紡ブレーキとSAERON AUTOMOTIVEの合弁会社・日清紡賽龍(常熟)汽車部件有限公司を中国に設立、9月にはNISSHINBO SINGAPORE PTE.LTD.とNISSHINBO MECHATRONICS INDIA PRIVATE LTD.をそれぞれ設立するなど、買収と並行してアジア地域のブレーキ事業基盤を整えた[46][47]。
2013年6月、河田正也氏が第13代社長(日清紡HD体制では第2代)に就任した。河田社長は2015年3月の日刊工業新聞インタビューで「多角化で成長路線」を経営方針として表明し、TMD買収で取得した欧州拠点の収益性改善と、新日本無線・日本無線を軸とした無線通信事業の拡張を並行課題に据えた。2014年5月には日清紡大陸精密機械(揚州)有限公司を中国に設立、同年10月には日清紡テキスタイルが日清デニムを吸収合併、2015年5月には東京シャツ株式会社の全株式を取得、同年10月には南部化成株式会社の全株式を取得、2016年3月には日本無線が長野日本無線および上田日本無線を株式交換により完全子会社化と、グループ内再編とM&Aを継続した[48][49][50][51][52]。
2017年4月、日清紡ペーパープロダクツ他4社が営む紙製品事業を大王製紙株式会社へ譲渡した[53]。1907年の創業以来、綿紡績と並んで日清紡績の事業領域だった紙パルプ事業から、110年を経て撤退する判断である。紙製品事業は1990年代以降に構造的な需要減退に直面しており、紙パルプ業界の構造変化への対応として大王製紙への事業譲渡が選ばれた。同年10月には日本無線株式会社を株式交換により完全子会社化、2017年4月の紙製品事業譲渡と並行して無線通信事業の取り込みを進めた[54]。紙製品撤退と日本無線完全子会社化を同年内に決行した点で、河田社長期は事業ポートフォリオの集約方針を明確化した時期にあたる。
M&A手順の蓄積と海外子会社網の整備
2010年代の日清紡HDが進めたM&Aは、日本無線・TMD Friction・東京シャツ・南部化成・Alphatron Marine等、無線通信から衣料・化成品・海洋機器に及んだ。2013年12月にはAlphatron Marine社(オランダ)を連結子会社化し、海洋向け無線通信機器の販売・サービス網を欧州で取得した。2014年2月にはCHOYA社の営業を譲渡、同年5月に日清紡大陸精密機械(揚州)を中国に設立、同年10月には日清紡テキスタイルが日清デニムを吸収合併し吉野川事業所を新設するなど、買収と統合を並行させた[55][56]。FY15(2016年3月期)の中期経営計画「NEXT 2015」2年目では、TMD買収に伴うのれん償却費が利益を圧迫する一方、Alphatron Marine買収(海洋開発)、長野日本無線新工場計画など事業再編を進展させた。
ブレーキ事業は買収後のTMD統合で苦戦し、FY11(2012年3月期)のブレーキセグメントが営業利益42億円だったのに対し、TMD買収通期寄与のFY12(2013年3月期)は▲43億円の赤字に転落した。TMDは欧州市場での競争激化と原料高騰の影響を受け、買収価格の正当化に必要な収益貢献を実現できない期間が続いた。FY14(2015年3月期)のブレーキセグメント営業損失21億円、FY15のセグメント営業損失9億円、FY16の営業損失7百万円と、買収後5年間にわたってTMD関連の収益悪化がブレーキ事業全体の業績を押し下げた。河田社長は2015年3月の日刊工業新聞インタビューで「多角化で成長路線」を表明していたが、TMD買収案件の整理は次期経営陣に持ち越された。
2016年3月には日本無線が長野日本無線および上田日本無線を株式交換により完全子会社化し、無線通信事業の組織再編を進めた[57]。同年10月にはニッシン・トーア株式会社が岩尾株式会社を吸収合併し、社名をニッシントーア・岩尾株式会社へ変更した[58]。1990年12月に東亜実業株式会社から社名変更したニッシン・トーアは、繊維関連の商社機能を担う子会社で、岩尾との合併で繊維商社の機能集約を進めた形である[59]。2017年4月の紙製品事業譲渡、2017年10月の日本無線完全子会社化、2018年3月のリコー電子デバイス株式取得という連続した事業再編により、河田社長期は集約方針を総仕上げした[60]。河田社長は2017年1月の日刊工業新聞「経営ひと言」で「持続的な視点」と語っており、短期業績に左右されずに事業ポートフォリオを組み替える方針を持ち続けた経緯がうかがえる。
2018年〜2025年 決算期変更と事業ポートフォリオの最終再編
12月期移行・リコー電子デバイス取得・TMD譲渡
2018年3月、リコー電子デバイス株式会社の株式を取得した[61]。同年4月にはJRCモビリティ株式会社を設立、9月には新日本無線株式会社を株式交換により完全子会社化と、エレクトロニクス領域での集約を進めた[62][63]。同時に2018年4月にはドラムブレーキ(ファウンデーションブレーキ)事業の譲渡を実施し、ブレーキ事業内での選択と集中を進めた。決算期も同年3月から12月へ変更し、2018年12月期は9ヶ月決算となった[64]。FY18(2018年12月期、9ヶ月決算)の連結売上高は4,162億円・営業損失25億円となり、決算期変更とTMD関連の損失計上で短期的には収益が悪化したが、ポートフォリオの集約方針は維持された。
2019年6月、村上雅洋氏が第14代社長(日清紡HD体制では第3代)に就任した。村上社長は2019年2月のニュースイッチ/日刊工業新聞インタビューで「モノづくりだけに固執せず、作った物から生み出される価値を活用したサービスの領域でも事業を広げたい」と表明し、無線通信事業を中核とした事業構造への組み替えを進める方針を示した。2019年7月にはNJコンポーネント株式会社の全株式を取得、2022年1月には新日本無線株式会社がリコー電子デバイス株式会社を吸収合併し、社名を日清紡マイクロデバイス株式会社へ変更した[65][66]。アナログ半導体・電子部品事業の母体となる事業会社が新日本無線とリコー電子デバイスの統合で発足した形である。
2022年4月、東京証券取引所の市場区分の見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行、同年9月にはNISSHINBO COMPREHENSIVE PRECISION MACHINING (GURGAON) PRIVATE LTD.をインドに設立した[67][68]。2023年11月、TMD FRICTION GROUP S.A.の全株式を譲渡した[69]。2011年の買収から12年、欧州を主力市場とするブレーキ摩擦材事業からの撤退判断である。村上社長は2024年1月の繊研新聞インタビューで「自動車のxEV(電動車)化と欧州での粉じん規制に伴う、将来の事業リスクを見越した損切り」と説明し、続けて「ブレーキ事業をやめるわけではありません。日清紡ブレーキの強みである、世界トップシェアの銅レス・銅フリー摩擦材のような強くて将来的に明るい領域に、より集中するということ」と語っている。TMD譲渡に伴いFY23(2023年12月期)の連結純利益は▲200億円の赤字となったが、ブレーキ事業セグメントは銅レス・銅フリー摩擦材という付加価値領域に集約する方針が明示された。
日立国際電気買収と無線・通信事業の主柱化
2023年12月、HVJホールディングス株式会社の全株式を取得し、これに伴い株式会社日立国際電気も子会社化した[70]。日立国際電気は2024年12月に株式会社国際電気へ社名変更している[71]。日立国際電気は防災行政無線・公共安全無線・放送機器等を主力とする会社で、日清紡HDが既に傘下に持つ日本無線・JRCモビリティとあわせて、官公需向け無線通信事業の中核を担う体制が整った。FY23(2023年12月期)の連結売上高5,412億円のうち、無線・通信セグメントが1,581億円、ブレーキセグメントが1,785億円、マイクロデバイスが800億円となり、無線・通信とブレーキの2本柱に化学品・繊維・精密機器・不動産が並ぶ構造が定着した。
FY24(2024年12月期)には日立国際電気の連結子会社化通期寄与により、無線・通信セグメントが売上2,345億円・営業利益76億円へ拡大、連結営業利益166億円のうち最大の稼ぎ手となった。村上社長は2025年1月の繊研新聞インタビューで「エレクトロニクスの会社へ」と語り、無線通信・マイクロデバイス事業を主軸とする事業構造への移行方針を明確化した。同年3月、村上社長は代表権のない会長へ移り、石井靖二氏が第15代社長(日清紡HD体制では第4代)に就任した。石井社長は2024年12月のFASHIONSNAPインタビューで「無線・通信事業に大きなポテンシャルがあり、来年以降引き上げていく」と語り、続けて「官公需ビジネスに向け、日本無線と日立国際電気の高度な技術を組み合わせ、シナジーを生み出していく」と方針を示している。
2025年9月にはコンチネンタル・テーベス株式会社がオモビオ株式会社へ社名変更、恩佳升(連雲港)電子有限公司が欧摩威汽車電子(連雲港)有限公司へ社名変更と、傘下子会社の商号刷新が進んだ[72][73]。FY25(2025年12月期)の連結売上高は5,023億円、営業利益264億円、純利益139億円となり、無線・通信セグメントが売上2,518億円・営業利益177億円で連結営業利益の約3分の2を占める構造が固まった。一方マイクロデバイスは売上624億円・営業損失55億円と苦戦が続き、構造改革費用約60億円を特別損失で計上した。中期経営計画2026の2年目進捗報告では無線・通信/マイクロデバイス事業を軸とした成長加速を掲げる一方、マイクロデバイス事業と無線・通信事業の双方で構造改革が進行中である。石井社長は祖業の繊維事業について2024年12月のFASHIONSNAPインタビューで「祖業として天然繊維のコットンを扱ってきた。しかし天然繊維という領域だけでは限界がある。衣料業界の動向を見極める必要がある」と発言しており、1907年の創業以来120年近く事業領域として保持してきた繊維部門の位置づけも再検討の対象である[74]。
環境・エネルギー・モビリティ・無線通信の三領域構造
日清紡HDは2016年5月の中長期経営戦略発表以来、「環境エネルギー・モビリティ・無線通信・スマートライフ」の4つの戦略的事業領域を提示してきた。村上社長期にはこの4領域を「環境エネルギー・モビリティ・無線通信」の3領域へ整理し、同社の自己定義を「環境・エネルギーカンパニーグループとして、超スマート社会を実現する」へと言い換えた。村上氏は2023年4月の週刊エコノミストインタビューで「社会課題の解決に必要な事業が成長事業であると考えています」と語り、続けて「環境・エネルギーカンパニーグループとして超スマート社会を実現する」を掲げた。化学品セグメントは事業規模では小さいものの、燃料電池用カーボン・セパレータや電気二重層キャパシタを成長軸とし、3戦略領域のうち「環境エネルギー」を担う事業会社として再定義されている。
ブレーキ事業はTMD譲渡後の2024年・2025年に売上規模が縮小したが、銅レス・銅フリー摩擦材という付加価値領域での収益性は維持された。村上社長は2023年4月の週刊エコノミストインタビューで「世界の大型商船の3割に当社の無線が搭載されています」と日本無線グループの市場シェアに言及し、無線通信事業の競争力を強調した。同氏は2021年2月の事業構想オンラインインタビューで「事業は借り物、人が本物」と語り、続けて「多様化した経営を束ねて導くには、多様性の中での団結が欠かせません。その支柱となるのが企業理念です」と述べた。多角化グループ経営の組織論として、事業領域は時代とともに組み替えるが、組織を束ねる軸は企業理念に置くという考え方が、村上社長期の経営判断の基盤に置かれていた。
石井社長は2024年11月の就任発表時点で、技術者出身として日本無線・日立国際電気の高度な技術を組み合わせる方向性を示した。電波新聞デジタル系のインタビューでは「打診されたのは今年の夏。驚かないと言ったら嘘になる」と就任の経緯を語っている。1907年の綿紡績会社として創業した日清紡HDは、繊維→ブレーキ→無線・通信と主軸を約30年単位で組み替えてきた[75]。創業から120年近くを経た同社にとって、無線・通信を中核に据えた現在の事業構造は、官公需向けの安定収益と民需領域の成長性をどう両立させるかという新たな論点を提示している[76]。石井社長は2024年12月のFASHIONSNAPインタビューで「喫緊の課題は〝稼ぐ力〟を付けること」と語り、続けて「物事をグレーにしておくことは好まない。熟考したうえで明確な答えを出すタイプ」と自己評を述べている。事業領域の選別と収益性の確保という二つの課題を、技術者出身の新社長がどう束ねていくかが、次期中期経営計画の論点となる。