1907年に発起人76名により日清紡績株式会社を設立。全65名の出資者の内訳は、根津嘉一郎(東武鉄道を経営)、馬越恭平(ビール会社を経営)、平沼専蔵(横浜の資産家)など、事業家として蓄財していた人物が紡績業の将来性を期待し、日清紡への出資を決めた。
発起人の中心的な人物は、東京日本橋で綿糸布商を営む日比谷平左衛門氏であった。国内の繊維ブームにより蓄財を果たし、製造業に参入するために共同出資者と発起人を集い、日清紡績を設立した。
なお、商号に「日清」の名称を採用した理由は、当時の日本は日露戦争後の好景気に湧き、中国大陸への企業進出の機運が高まったことから「日清」を企業名に冠することが流行したためであった。
日清紡績は会社設立にあたって、東京に紡績工場の新設を決定。当時は水田地帯であった亀戸への工場新設を決定し、1908年に亀戸工場を新設した。
亀戸への工場設置の決め手は、日清紡績への出資者の一人(日比谷氏)が相場よりも安い価格で工場用地として売却したためであった。日比谷氏が割安で土地を提供した理由は、日清紡績の早期黒字化を目指し、土地取得による償却負担を抑えるためであったという。
日清紡の設立直後から経済不況に直面して製品の輸出が低迷。加えて、日清紡への出資は「商業出身者」が主体であり「製造業出身者」に乏しかったことから、メーカーとしての経営近代化が遅れる状態となっていた。
加えて、紡績工場の操業にあたって各工程より同業他社より技師のスカウト採用を実施。これらの技術者を全体としてまとめる人物が不在となり、各工程において不和が発生した。
この結果、創業直後から日清紡の業績は悪化。当時は「瀕死の日清紡績」と言われ、存続が危ぶまれる事態に陥った。
経営再建のために、元東京紡績出身の宮島清次郎(みやじま・せいじろう)氏が日清紡の専務として入社。会社再建12条の考えに従って、工場内の組織改革を実施。その後、第一次世界大戦の勃発による特需もあり、日清紡の経営再建に寄与。1919年から1940年までの約21年にわたって社長を歴任し、戦前の日清紡の業績拡大を担った。
終戦による公職追放を受けて、1945年に桜田武氏(当時41歳)が日清紡績の社長に就任。1964年まで社長を歴任し、1965年から1970年までは会長、1970年から1984年までは顧問に就任し、社内では日清紡の経営、社外では経団連などの財界活動に注力した。
朝鮮戦争による特需景気(ガッチャマン景気)により、1952年2月期に日清紡は売上高225億円に対して計上利益25億円(利益率11.1%)を計上して高収益を達成した。確保した収益について、日清紡は設備投資の面では「島田工場の新設」に回しつつ、上場企業の株式保有を実施。これらの政策保有株式が1970年代までに値上がりしたことにより、紡績業界の不振の中で日清紡は株式の配当収入を確保。繊維業の縮小と、自動車用ブレーキへの投資の原資となった。
経営難に陥っていた通信機器メーカーの日本無線(上場企業)に15億円の投融資を決定。日本無線は大倉財閥系列の会社であり、日清紡は戦前に大蔵財閥の支援を受けていた縁があった。このため、大倉財閥の要請を受けて、日清紡績は繊維業とは無関係であった日本無線に対する出資を決定した。
1967年に日清紡績は創業地である亀戸工場を日本住宅公団に売却。工場跡地は「亀戸野球場・亀戸2丁目団地」として再開発された。
戦時中に日清紡は石綿(アスベスト)を応用した製品であるブレーキに着眼。1943年に陸軍から「航空機向けブレーキライニング」の製造を推奨されたことを受けて、日本ブレーキライニングを設立してブレーキの生産を開始した。
終戦後は陸軍の航空機向けのブレーキ需要が喪失したため、日清紡は自動車向けブレーキライニングの生産に切り替えて事業を継続。1960年代までに日本国内の大手自動車メーカー(スズキ自動車を除く)へ納入した。
この結果、1968年時点で日清紡はブレーキライニングで国内シェア2位(25%)を確保した。なお、業界トップは曙ブレーキであり、日清紡は二番手企業としてブレーキの生産に従事した。
日清紡はブレーキ部品(ライニング・ブレーキシュー)の製造を行なっていたが、自動車市場の発展を受けて最終製品であるブレーキ機器への進出を決定。最新鋭のディスクブレーキに参入するために、欧州の自動車部品メーカーであるアルフレッド・テーベス社と技術提携を締結した。
設備面では1968年に美合工場のブレーキ設備を名古屋工場に移設し、20〜30億円の設備投資で生産設備を刷新。その上で、自動車メーカーからのコストダウン要請に対応できる事業展開を目指した。ブレーキ機器への参入に先立って、日清紡は顧客として「ホンダ、日野自動車・プリンス自動車(日産自動車)」の3社に納入する契約を取り付けた。
今の部品メーカーは百姓みたいにどうしてもやらなければならない状態になっている。しかも、他のメーカーとの競争は品質、値段で勝負する以外にない。(略)自動車メーカーから年2回のディスカウントが要求され、今までそれに応えているが、限界に来ているようだ。それに部品メーカーでは開発費とか試験費などといった膨大な費用をかけているが、それを認めてくれないし、またそのほかにも目に見えないところに金がかかる(略)今後、部品メーカーが遅行していくには技術革新と、技術を支える資本力の問題である
1973年10月のオイルショックにより、FY1974〜FY1977にかけて同業他社の繊維企業が赤字に転落する中、日清紡は最終黒字を確保。固定費を増やさない経営に徹した成果が現れ、業界内で相対的に高収益な繊維会社として注目を集めた。
好、不況を問わず、ベスト・コンディションを望むのは無理でしょう。たしかに好況時には「日清紡は人も増やさず、いったい何をしているのか」と言われ、不況時になると「紡績の伝統を守っているのは日清紡だけだ」と褒められるという具合です。首切りなどしてなくても済むように、いつも不況を頭に入れた経営をやってきましたから、伸び切るときに人手が足りないと言ったデメリットがあります。高度成長期にはこの点は痛感させられましたが、経営方針はそう簡単に変えるべきではないという原則を守ってきたわけです。
自動車向けブレーキ部材の量産のために、群馬県に館林工場を新設。館林工場でライニングなどの部材を生産し、名古屋工場で最終製品であるブレーキ機器を製造する分業体制を整えた。従来の関東地区では東京工場(西新井)でブレーキの生産を行っていたが、生産効率を高めるために館林工場に設備を移管した。1981年に第一工場(1期工事)、1984年に第一工場(2期工事)、1990年に第二工場、1994年に第3工場をそれぞれ館林工場内に新設し、ブレーキの主力生産拠点として活用した。
自動車向けブレーキ事業への設備投資(館林第3工場の新設)のために転換社債の発行を決定。年間の営業キャッシュフロー140億円に対して、日清紡の年間投資予定額(ブレーキ事業への投資・繊維事業の合理化)が160億円を予定したため、不足分を社債発行で充当する狙いがあった
日清紡は「繊維・自動車ブレーキ」に次ぐ主力事業を展開するために、エレクトロニクス業界の新日本無線の買収を決定した。ただし、当時、新日本無線の株価が保有資産に比べて割安だったため、村上ファンドと日清紡HDの2社が、新日本無線のTOBに名乗りを上げた。最終的に日清紡は、新日本無線の株式53%を175億円で取得に成功して議決権を確保した。
ホールディングス(持株会社)に移行して2019年4月で10年になります。2006年ごろ、ホールディングス化を考えはじめたときが変化点だったと思います。企業として何を目指すのか、長期的な戦略・方針が必要で、企業にとって大事なことは常に変化していくことだと考えました。当時、まだ繊維、ブレーキが主力事業でした。成功しているわけですから過去の成功体験に囚われています。しかし、世界の社会・経済が激変するなかで、ビジネスモデルの変革を拒み続けると、社会のニーズに対応できない事業構造になり、収益力を喪失する。それではもう手遅れになるということで着手しました(略)
2005年に新日本無線のTOBをめぐり、あるファンドとのバトルがあったのが一つの刺激にはなっています。経営はできなくても、言っていることはある面、正しいところがあると当時のトップは語っていました。マール2007年10月号でインタビューしていただいた岩下俊士です(略)。ファンドとの戦いの後ぐらいに社長になっていますが、そのころに方針を決めて、ホールディングス化することにしました。しかも、できるだけ早く、1年、2年で仕上げるようにと言われました。そこからM&Aをしていくことが始まりました。なかなか先見の明があると思います
自動車向けブレーキ製造の名古屋工場について、周辺の宅地化により拡張が困難なことから閉鎖を決定。愛知県内における自動車向けブレーキ製造を豊田工場(2005年新設)に移転
2011年11月29日に日清紡HD(鵜澤静・社長)は、欧州の自動車部品メーカーTMD FRICTION S.A.を買収。同社はブレーキ用摩耗材の製造販売に従事しており、主に欧州や南米に拠点を置く完成車メーカーに対する販路を確保していた。
このため、日系メーカーや韓国系メーカーが顧客の中心であった日清紡としては、ブレーキ摩耗材のグローバル展開を通じて、欧州の完成車メーカーを顧客として確保するため、TMD社の買収を決定した。なお、TMD社の生産拠点はドイツを中心に、英国、中国、ブラジルなど世界各地に分散していた。
日清紡としては事業ポートフォリオのうち、自動車向けブレーキに資本投下を集中する形をとった。
買収直前の2010年12月期におけるTMD社の業績は、売上高約651億円・営業利益約36億円・従業員数4200名であった。なお大株主は投資ファンド(Pamplona Capital Partners)であり、日清紡はファンドから株式を取得する形でTMD社を買収した。これは、TMD社が2008年のリーマンショックにより巨額赤字を計上して経営破綻したことから、ファンド傘下で再生されたことによる。
買収にあたって、日清紡HDはTMD社の株式100%を461億円(取得原価)で取得し、のれんとして230億円・その他無形固定資産として93億円を計上した。買収資金に関しては、自己資金と借入金にて充当した。
ブレーキ摩耗材のシェアはTMDの買収前の時点で、日清紡が5%、TMDが10%であり、日清紡としては合計15%のシェアを確保。このため、買収後は曙ブレーキを抜き、日清紡HD(日清紡ブレーキ+TMD)が世界シェアトップに立つ見通しとなった。
経営難に陥っていたブレーキ摩耗材を生産する完全子会社TMD(2011年買収)について、2023年8月に日清紡HDは取締役会においてドイツのAEQUITA社への売却を決議。売却を受けて、減損損失285億円および事業整理損失引当金67億円を計上し、TMD売却関連で合計357億円の特別損失を計上した。
2017年4月に日清紡HDは「紙製品事業」からの撤退を決定。紙製品事業を運営する4つの子会社について、大王製紙に200億円で譲渡した。
FY2018とFY2019の2期連続で最終赤字に転落。FY2018は当期純損失71億円、FY2019は同66億円。FY2019は買収したドイツTMD社の「自動車用ブレーキ用摩耗材製造資産」について140億円の減損損失を計上したことが主要因。投資有価証券の売却による特別利益34億円を計上して損失の一部をカバー。
ボトムラインで純損失を計上したのは、TMD社で減損損失を計上したからです。現在、TMD社は新しいCEOのもと、日清紡ブレーキ(株)からも多数の人員を送り込み、事業再構築を進めています。その一環として、製造ライン・設備の抜本的見直しを行っており、収益回復が遅れている新車組み付け用摩擦材の生産ラインについて固定資産の減損処理を実施しました。