2007/3 売上高68億円YoY▲95.1%
2007/3 営業損失▲15億円YoY▲2296.7%
FY06 単体平均給与675万円前年度比+170万円
創業1887-(創業者)
創業地東京都墨田区
上場未上場

筆者所感 鐘紡の源流は、1887年に三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五社が共同で出資して東京日本橋に設立した合資会社東京綿商社にある。綿花輸入の仲介業として出発したが取扱量が思うように伸び悩み、早い段階で商社から製造業への転換を決めた。英国から輸入したリング式紡績機を、隅田川沿いの鐘ヶ淵にある3万錘規模の工場へ据え付け、1889年8月に鐘ヶ淵紡績会社として発足した。三井財閥から送り込まれた中上川彦次郎と武藤山治のもとで紡績大合同論を推し進めた結果、1933年には全業種を対象とする売上高ランキングで日本一に立ち、王子製紙や大日本製糖を抑えて日本最大の企業にのし上がった。

戦後の鐘紡は、化粧品事業の高収益が全社を支える独特の収益構造に陥った。繊維事業の構造的な赤字はペンタゴン経営の看板のもとで長期にわたり延命され、1975年4月期にはついに無配へ転落した。以後、販売子会社への押し込み販売と「低稼働」と呼ぶ不適切な会計処理が社内で常態化し、外部の監視をかいくぐる数字の操作が複数年度にわたり続いた。2003年9月の粉飾決算の発覚によって630億円規模の債務超過に陥り、産業再生機構の介入を受けた。2006年には主力の化粧品事業を花王へ約4100億円で譲渡し、残る繊維事業はセーレンへ売却された。2007年2月の株主総会で会社解散が決議され、120年の歴史に幕が下りた。

鐘紡:売上高の長期推移(純利益率)
売上高(億円)純利益率(%)
化粧品事業を花王に売却2006
債務超過に転落2003
防府工場の閉鎖撤回1996
国内4工場を閉鎖1992
国内2工場を閉鎖1982
歴代社長
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2010
中嶋章義
取..
取..
歴代社長
FY05
FY06
中嶋章義
取締役兼代表執行役会長
中嶋章義
取締役兼代表執行役会長兼社長

歴史概略

1887年〜1951紡績大合同論と日本最大の繊維企業への到達

東京綿商社から鐘ヶ淵紡績への業態転換

1887年、三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五社が出資する形で、合資会社東京綿商社が東京日本橋に設立された。当初の主業である綿花輸入の仲介業は取扱量が思うように伸びず、早い段階で商社から製造業への転換が経営方針として定まった。英国から輸入したリング式紡績機を、隅田川沿いの鐘ヶ淵にある3万錘規模の工場へ据え付け、1889年8月に鐘ヶ淵紡績会社として発足した。しかし、3万錘という当時としては大規模な工場を適切に管理できる紡績技術者は国内にはおらず、操業開始の直後から赤字が累積した。創業期の人材不足が、後の経営介入を呼び込む下地となった。

1893年、三井財閥の中上川彦次郎が鐘ヶ淵紡績の社長に就任し、増資と費用削減によって経営を立て直す方針を打ち出した。兵庫県和田岬には、中国向け輸出の前線基地となる新工場を建設し、その責任者に三井銀行出身で当時28歳の武藤山治を抜擢した。東京と兵庫の二拠点による生産体制の確立によって綿糸の生産量は拡大し、解散寸前とまで評された鐘紡の経営は立て直された。中上川の介入は、会社の存続を確定させると同時に、規模拡大路線への転換を決定づける転機でもあった。以後の買収路線は、この時期に固まった経営の安定を土台に進められた。三井側から送り込まれた経営者が短期間で会社の方向性を書き換えた事実は、以後の鐘紡の人事の伝統を決める源流となった。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 鐘紡社史
  • ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10
  • 歴史を作る人々 1967

紡績大合同論が生んだ日本一企業への道

武藤山治は紡績大合同論と称する業界統合構想を対外的に打ち出し、経営体力の乏しい中小紡績会社を買収したうえで、設備の更新と運営方法の改善によって再建する事業モデルを業界の内外に示した。1899年以降は紡績会社の買収を重ね、1911年には絹糸紡績の買収にも踏み切った。国内9か所以上の主要工場を一つの企業体の傘下に束ねる垂直的な事業体制が、こうして形づくられた。規模の拡大は原料綿花の大量一括調達を可能にし、購買条件の改善を通じて生産コストの引き下げにも効いた。1964年のダイヤモンド臨時増刊は鐘紡の不況対策を、武藤山治が掲げた「万事人間本位」の経営理念の所産として評価した(ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10)。業界の価格支配力を握る基盤が、この過程で形成された。

  • 1953年時点の鐘紡は綿・毛・絹・スフの34工場を全国に擁し、洲本3,076名・淀川2,385名・防府1,895名を筆頭に従業員は数万人規模に達した。
  • 1899年以降の紡績大合同論による連続買収が、綿だけでなく絹糸繰糸・毛織・スフまで含む垂直的な工場群として姿を現した段階である。
工場名従業員数敷地面積生産品目所在地
洲本3,076名6.3万坪綿・絹兵庫県洲本市塩屋
淀川2,385名10.6万坪綿・スフ・合繊大阪府都島区
西大寺1,998名4.2万坪綿岡山県上道郡西大寺町
中津1,201名2.5万坪綿大分県中津市島田
中島1,142名2.4万坪綿大阪市東淀川区柴島町
住道1,757名4.6万坪綿・毛大阪府北河内郡
長野1,525名6.6万坪綿長野県長野市若里
東京1,776名6.2万坪綿東京都墨田区隅田町
博多871名1.6万坪綿福岡市住吉町
松坂1,294名3.8万坪綿三重県松坂市
高砂1,475名10.6万坪綿兵庫県加古郡高砂町
静岡561名3.3万坪綿静岡県静岡市東若松町
■川0.9万坪綿島根県出雲市大津町
勝間田197名0.9万坪岡山県勝田郡勝間田町
四日市1,320名5.0万坪三重県四日市市日永
京都1,823名5.6万坪京都市左京区高野東開町
大垣918名2.9万坪岐阜県大垣市
練馬534名1.7万坪東京都練馬区南町
彦根836名2.7万坪滋賀県彦根市長曾根町
相馬275名0.3万坪絹(繰糸)福島県相馬郡
結城246名1.5万坪絹(繰糸)茨城県結城郡
岡部256名1.2万坪絹(繰糸)山梨県東山梨郡岡部
松本262名1.7万坪絹(繰糸)長野県東筑摩郡島内村
福知山227名2.4万坪絹(繰糸)京都府福知山市笹尾
八幡浜193名0.7万坪絹(繰糸)愛媛県八幡浜市五反田
菊池223名0.8万坪絹(繰糸)熊本県菊池郡
大淀194名1.4万坪絹(繰糸)宮崎県宮崎市南町
甲佐219名1.4万坪絹(繰糸)熊本県上益城郡
新町1,812名5.3万坪絹(繰糸)群馬県多野郡新町
丸子1,541名5.4万坪絹(繰糸)長野県小県郡丸子町
長浜1,591名5.0万坪絹(繰糸)滋賀県長浜市南呉服町
山科1,541名4.8万坪綿・絹京都市東山区山科
防府1,895名15.6万坪スフ山口県防府市東佐波令
高岡1,340名6.7万坪スフ富山県高岡市上関

1933年、鐘紡は全業種の売上高ランキングで首位に立ち、王子製紙や大日本製糖を上回る日本最大の企業となった。全国に30を超える工場を抱え、従業員は数万人規模に達した。しかし、この過剰な大規模化は後年の経営課題の下地にもなった。全国に分散した工場群と大量の雇用は、事業環境が急変したときの縮小や撤退を難しくする硬直性を内側に抱えていた。戦後も30を超える工場と数万人の従業員を抱えたまま朝鮮特需を迎え、1951年4月期には利益率約24パーセントを記録した。ただしこれは市況上昇による一過性の好業績にすぎず、高雇用と多工場を支え続ける収益力が定着したわけではなかった。1967年に社長就任後の武藤絲治が「失敗の深い谷があり、険しい山があって、成功の山の頂にのぼることの容易ならぬことを知りました」(歴史を作る人々 1967)と述懐したのは、この時期の危うい繁栄を指していた。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 鐘紡社史
  • ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10
  • 歴史を作る人々 1967

1952年〜1992多角化の試行と化粧品事業による収益の偏在

グレーターカネボウとペンタゴン経営の構想

1958年前後、鐘紡は博多・中津・中島といった基幹工場の閉鎖に追い込まれ、繊維事業の先行きに対する危機感が経営陣で強まった。社長に返り咲いた武藤絲治はイタリアのスニア・ビスコーザ社へ自ら飛び、化繊各社が狙うナイロンの新技術導入に成功した。当時の読売新聞は、社運を賭けたナイロンへの進出に武藤が全生涯を賭けていると報じた(読売新聞 1961/4/26)。1961年にはグレーターカネボウ建設計画を公表し、天然繊維への偏重を改めたうえで、ナイロン・化粧品・食品という3つの成長分野を戦略領域として前面に据えた。防府工場ではナイロン事業へ約200億円を投じて合成繊維市場に本格参入し、1962年には鐘淵化学工業から化粧品事業を買収、販売会社の設立に累計約100億円を投下した。天然繊維依存からの脱却を図る規模先行の多角化だった。

1967年には5事業体制を掲げるペンタゴン経営を打ち出し、繊維・住宅・食品・化粧品・医薬品という5本柱へ全社を再編した。1967年のダイヤモンドは、鐘紡がGK計画により1964〜1965年の繊維不況下でも業界で抜きん出た好業績を記録したと報じた(ダイヤモンド 1967/9/4)。ただし安定的に利益を出し続けたのは実質的に化粧品事業のみで、本業の繊維事業は慢性的な構造赤字を抱え、住宅・食品・医薬品の3事業も十分な収益力を持たなかった。多角化は売上構成の分散に寄与したが、利益の面では化粧品事業への一極依存が固まった。看板としての5本柱と、実態としての化粧品一本足──この乖離が以後の経営判断を縛る前提となった。1975年には週刊東洋経済が「ペンタゴン経営はどこへ行くか」(週刊東洋経済 1975/11/8)と特集を組み、鐘紡の構造的弱さを指摘した。

参考文献
  • 鐘紡社史
  • 読売新聞 1961/4/26
  • ダイヤモンド 1967/9/4
  • 週刊東洋経済 1975/11/8
  • 日経ビジネス 1985/9/30

化粧品事業の成功が招いた構造改革の先送り

化粧品事業は鐘紡グループの中でもっとも高い利益率を誇る事業へ育ち、1976年時点で売上高544億円・利益64億円を計上し、全社利益の過半を単独で支える特異な収益構造が社内で完成した。競争力の主な源泉は、チェーン店方式を軸とする独自の販売組織と、100パーセント直営で運営する販売子会社による密着型の販売体制にあった。全国津々浦々の小売店との長期的で強固な関係が、他社の模倣を拒む参入障壁として機能した。1985年時点でも、日経ビジネスは鐘紡の利益構造を、化粧品が100億円以上を稼ぎ、そのほぼ半分を繊維の赤字が食い、残りはわずかな黒字だけという一本足構造であると指摘した(日経ビジネス 1985/9/30)。成功した事業が、むしろ会社全体の構造改革を遅らせる。鐘紡の経営を縛ったのはこの逆説だった。

1975年4月期、鐘紡はついに無配に転落し、その後5期連続で経常赤字を計上した。化粧品が稼ぎ出した利益は繊維事業の赤字補填に消え、将来の成長投資へ回せる資源の余力はわずかしか残らなかった。販売不振への対応として本社部門から販売子会社への押し込み販売が常態化し、「低稼働」と呼ぶ不適切な会計処理が社内で黙認される状態へ移った。繊維工場の閉鎖は1970年に5工場、1975年に4工場、1982年に2工場、1992年に4工場と、断続的にしか進まなかった。1985年の日経ビジネスは、鐘紡が1974年度以後の11年間で都島地区を中心に約900億円の不動産を売却し、切り売りで糊口をしのいだと報じた(日経ビジネス 1985/9/30)。収益力の差が明らかなほど撤退の決断が鈍る副作用が、この間の数字に表れていた。

参考文献
  • 鐘紡社史
  • 読売新聞 1961/4/26
  • ダイヤモンド 1967/9/4
  • 週刊東洋経済 1975/11/8
  • 日経ビジネス 1985/9/30

1993年〜2003債務超過と粉飾決算の露呈に至る崩壊過程

粉飾決算の露呈と630億円の債務超過

1990年代を通じて、鐘紡の繊維事業と多角化事業はいずれも構造的な不振から抜け出せず、販売不振への対応として本社から販売子会社への押し込み販売が一段と常態化した。「低稼働」と呼ぶ不適切な会計処理は、単年度の一時的な調整の域を超え、複数年度にわたる組織的で継続的な会計操作へ姿を変えた。連結ベースの実態収益と、外部へ報告される収益とのあいだに、構造的な乖離が静かに積み上がった。外部の監視をかいくぐる形で数字が操作され続けたことが、後に発覚する粉飾規模の大きさの直接的な原因となった。本業の苦境が会計処理の苦境を呼び、さらにそれを隠すための操作が重なるという、典型的な経理不祥事の連鎖がこの時期に進んだ。

2003年9月、鐘紡の粉飾決算が外部に発覚し、会社は630億円規模の債務超過に陥った。粉飾は単年度の会計調整にとどまらず、複数年度にわたって続けられた組織的な会計操作の累積であったことが、外部調査によって明らかになった。長年にわたり維持してきた財務諸表数値の信頼性は根本から崩れ、証券市場と主要取引先の双方からの信用を失った。2005年4月の日本経済新聞は、事件の全貌を「カネボウ粉飾2000億円」(日本経済新聞 2005/4/13)という見出しで報じ、粉飾の累計規模が債務超過額の水準をはるかに上回ることを明らかにした。同じ2003年のうちに浜松・大垣・彦根・出雲の4主要工場が閉鎖対象に選ばれ、繊維事業の縮小が破綻への序曲として加速した。粉飾発覚から工場閉鎖までの時間の短さが、経営判断の余地がすでに失われていた事実を物語っていた。

参考文献
  • 鐘紡社史
  • 日本経済新聞 2005/4/13
  • 産業再生機構関連開示

産業再生機構の介入と事業切り売りの決定

2004年2月、鐘紡の主力取引銀行は、産業再生機構の枠組みを使った経営再生の方向を決めた。会社の自力再建を断念するという重い経営判断だった。再生計画では化粧品事業の売却を前提にした事業の切り売り方式が基本方針に据えられ、鐘紡は120年にわたり一つの企業体のもとで束ねてきた事業群を一つずつ切り離し、単独企業としての組織的な実体を失っていった。化粧品事業を中核に据え直して独立企業として再建するという選択肢は、最後まで採られなかった。債権者への弁済原資を優先する再生機構の論理が、企業体としての存続よりも上位に置かれた。

2000年代初頭の鐘紡が抱えた課題は、繊維事業の不採算性と多角化戦略の行き詰まりが複合するかたちで表面化したものだった。長年にわたる工場閉鎖の繰り返しでも繊維事業の赤字体質は解消されず、化粧品事業が稼ぎ出す利益の大半が赤字補填に消える悪循環を断ち切れなかった。産業再生機構は会社全体を一体として再生するよりも、事業単位での売却を通じて債権者への弁済原資を確保する方針を優先し、鐘紡という企業体そのものの存続は、事業再生の目的の範囲外に置かれた。120年の歴史を持つ企業が、事業の切り売りを通じて静かに解体されていく道筋が、ここで確定した。

参考文献
  • 鐘紡社史
  • 日本経済新聞 2005/4/13
  • 産業再生機構関連開示

直近の動向と展望

化粧品事業の花王譲渡と繊維事業のセーレン売却

2005年7月、鐘紡は長年にわたり経営資源を投じてきた繊維事業を、福井県を本拠とする繊維メーカーのセーレンへ売却する契約を結び、残存していた不採算の繊維工場はセーレンの判断のもとで順次閉鎖された。2006年2月には主力事業として育ててきた化粧品事業を花王へ約4100億円で譲渡する取引が成立し、40年以上かけて築いた販売網とブランド資産の対価として、会社に資金が入った。全社で唯一、継続的に利益を生んでいた事業を手放したことで、鐘紡という企業体の存続基盤は失われた。譲渡金額の大きさは、そのまま解体規模の大きさでもあった。約4100億円という金額は、粉飾発覚で失われた信用と、戦前に日本一だった企業が120年の歴史を畳む清算原資を、同時に示す数字となった。

食品・日用品・薬品の各事業はクラシエホールディングスへ順次営業譲渡され、投資ファンドの傘下で新たな運営体制へ移された。化粧品部門は花王の傘下にカネボウ化粧品の名で残り、鐘紡時代に蓄積されたブランド価値と販売網は、別資本の経営のもとで生き延びた。事業の一つひとつが独立した別会社として残る一方で、それらを束ねていた鐘紡本体は実質的な事業を失い、空洞状態の持株会社としてのみ形式上は存続した。戦前に日本一の座にあった企業が、事業単位の譲渡を積み重ねることで本体を失うという特異な解体構造が、この時期にかたちづくられた。

参考文献
  • 花王 カネボウ化粧品事業譲受関連開示
  • セーレン プレスリリース
  • 鐘紡解散関連開示

会社解散決議と上場廃止に至る最終局面

2005年6月、東証一部への株式上場が廃止され、資本市場における鐘紡の存在そのものが公式に終わった。2007年2月、定時株主総会で会社解散が決議され、商号は海岸ベルマネジメント株式会社という清算専用の名称に変更されたうえで、清算手続きに入った。1887年の東京綿商社としての創業から数えて120年にわたる歴史に正式に終止符が打たれ、戦前期に日本最大の民間企業としての地位を誇った企業が、歴史の舞台から静かに退いた。日本繊維産業の戦後転換のなかでも最大級の解体事例として、鐘紡の終わり方は後年の経営史で繰り返し参照された。戦前の頂点と戦後の失速、そして粉飾決算を経ての解体までが、一つの企業の時間軸のなかで連続していた点が、鐘紡の事例を教訓として際立たせている。

鐘紡の歩みが残した教訓は、化粧品という高収益の事業を育てる組織的な能力を持ちながらも、その優良事業に経営資源を集中する仕組みを社内に築けなかったという点にある。繊維事業の構造的な赤字の継続と、それを長期にわたり覆い隠すために発生した粉飾決算の連鎖から、最後まで抜け出せなかった経緯は、日本の伝統企業における事業ポートフォリオ改革の難しさを示す歴史的な事例として、業界関係者や経営学の研究者のあいだで繰り返し参照されてきた。鐘紡の解体は、日本繊維産業の構造転換期における最大級の出来事として記録に残った。成功した事業が会社の未来を救うとは限らず、むしろ構造改革を遅らせる足枷になり得るという事実を、鐘紡はその120年の最後に示した。

参考文献
  • 花王 カネボウ化粧品事業譲受関連開示
  • セーレン プレスリリース
  • 鐘紡解散関連開示

重要な意思決定

1887

東京綿商社を創業

鐘紡の出発点は綿花輸入の仲介業務であった。取引量の伸び悩みから、付加価値が製造工程に偏在する構造を認識し、自ら紡績メーカーに転じる判断を下した。商社機能を捨てて製造に専念する選択は不可逆であり、以後の鐘紡が大規模工場と企業買収を軸に拡大する経営モデルの前提条件を形成した。注目すべきは、技術者不足という致命的な制約を認識しつつも参入に踏み切った点であり、「まず規模を確保し技術は後から蓄積する」という発想が鐘紡の原型を規定した。

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1893

中上川彦次郎氏が社長就任

中上川彦次郎の経営介入は、財務・費用・技術の三領域を同時に手当てする再建手法であり、初年度から黒字化を実現した。しかしより注目すべきは、紡績未経験の28歳の銀行員を大型工場の責任者に据えた人材登用にある。技術力より経営管理能力を優先するこの判断は、武藤山治という後の鐘紡を規定する経営者を生み出した。再建と拡張を同時に構想し、人材配置で実行力を確保する手法は、三井財閥の経営介入の一つの型を示している。

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1900

紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化

武藤山治の紡績大合同論は、業界の淘汰局面を自社の規模拡大に転化する明確な戦略であった。原料の大量調達による購買力の確保と、買収先の設備更新による生産効率の向上を同時に狙う構想は合理的であり、実際に鐘紡を国内売上首位に押し上げた。しかしこの戦略は、全国に分散した大規模工場群と数万人の雇用を固定費として抱え込む構造を生んだ。繊維市況が悪化した際に「縮小する自由」を持たない企業体質は、ここに原型が形成された。

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1951年4月

朝鮮特需で好調

朝鮮特需による利益率24%は鐘紡の戦後最高水準であった。しかしこの数字は、天然繊維の一時的な価格上昇がもたらしたものであり、全国30超の工場を維持する固定費構造の問題を覆い隠した。特需が去った後に露呈したのは、価格調整の手段を持たないまま数万人の雇用を抱える事業構造の脆弱性であった。好況期の成功体験は工場網の維持を正当化し、繊維不況下での構造改革の遅れと多角化への依存を準備する結果となった。

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1961年10月

グレーターカネボウ建設計画を策定

グレーターカネボウ計画は、天然繊維依存からの脱却という方向性において合理的であった。化粧品やナイロンを成長領域に据える構想は、実際に売上構成の改善をもたらした。しかしこの計画は繊維事業の縮小ではなく新規事業の上乗せで構成比を変えようとするものであり、不採算部門の整理には踏み込まなかった。雇用維持を前提とした多角化は、後のペンタゴン経営における「化粧品の利益で繊維の赤字を補填する」構造の出発点となった。

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1962

化粧品事業に新規参入

化粧品参入の本質は、カネカからの事業買収と販売網への集中投資という二段構えにあった。製造ではなく流通に100億円を投じたのは、化粧品が販売接点の密度で勝負する事業であることを見抜いた判断であり、3年で売上10倍という結果がこれを裏付けた。しかし化粧品が唯一の高収益源となったことで、不採算事業の延命を可能にする資金供給装置としても機能した。「強い事業が弱い事業を支える」構造が固定化した起点がここにある。

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1967

ペンタゴン経営を提唱

ペンタゴン経営は繊維依存からの脱却と雇用維持を同時に達成するための構想であった。しかし五事業のうち利益を生んだのは化粧品のみであり、繊維の余剰人員を新規事業に配置する運営は各事業の自立的成長を妨げた。事業構成の複雑化は収益実態の把握を困難にし、計画と実績の乖離を是正する仕組みは機能しなかった。粉飾決算は個人の逸脱ではなく、雇用維持を最優先とする意思決定構造が長期にわたり積み重なった帰結として整理できる。

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1975

無配転落

1975年の無配転落はペンタゴン経営の構造的欠陥を数字として露呈させた局面であった。五事業のうち利益を生むのは化粧品のみであり、繊維は年間100億円の赤字を計上していた。しかし化粧品が稼ぐほど不採算事業を維持する余地が生まれ、撤退判断は先送りされ続けた。工場跡地の売却益で純利益を整え、販社への押し込みで数字を作る慣行がこの時期に定着した点は、後年の粉飾決算の組織的な前提条件を形成した。

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2003年9月

債務超過に転落

鐘紡の債務超過は単年度の業績悪化ではなく、数十年にわたる構造問題の帰結であった。五事業体制のもとで化粧品が繊維の赤字を補填し続けた相互もたれあいの構造は、撤退判断を先送りし会計処理の歪みを許容する組織風土を形成した。産業再生機構による再建は鐘紡を事業単位で解体売却する方針を採用し、総合メーカーとしての歴史に終止符を打った。強い事業を生む力とそれに資源を集中させる仕組みの乖離が、120年の名門を消滅させた。

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2006年2月

化粧品事業を花王に売却

化粧品事業の花王への売却は、鐘紡が単独企業として存続する選択肢を放棄した瞬間であった。化粧品は40年以上にわたりグループ唯一の安定収益源であり、事業の競争力は売却時点でも健在であった。しかし鐘紡は強い事業を育てながらもその事業に経営資源を集中させる仕組みを持てなかった。高収益事業が全社を救う武器ではなく換金資産として処分された事実が、多角化経営の帰結を象徴している。

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歴史的証言

失敗の深い谷があり、険しい山があって、成功の山の頂にのぼることの容易ならぬことを知りました

武藤絲治

歴史を作る人々 1967

万事人間本位

武藤山治

ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10

カネボウ粉飾2000億円

日本経済新聞

日本経済新聞 2005/4/13

ペンタゴン経営はどこへ行くか

週刊東洋経済

週刊東洋経済 1975/11/8

参考文献・出所

有価証券報告書
鐘紡社史
ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10
歴史を作る人々 1967
読売新聞 1961/4/26
ダイヤモンド 1967/9/4
週刊東洋経済 1975/11/8
日経ビジネス 1985/9/30
日本経済新聞 2005/4/13
産業再生機構関連開示
花王 カネボウ化粧品事業譲受関連開示
セーレン プレスリリース
鐘紡解散関連開示
ダイヤモンド臨時増刊
歴史を作る人々
読売新聞
ダイヤモンド
週刊東洋経済
日経ビジネス
日本経済新聞