鐘紡 の歴史

更新:

創業 1887年
母体 財界人の出資
創業地 東京都墨田区
創業・決断・現況・競合について
創業
1887年1月、綿花輸入の仲介を担う東京綿商社として設立が認可され、同年5月に東京府南葛飾郡隅田村字鐘ヶ淵での紡績所設立が認可された。取扱量が伸びず2年で行き詰まったため、英国製リング式紡績機を3万錘の工場へ据え、自ら綿糸を紡ぐ製造業へ組み替える。1888年8月に有限責任鐘淵紡績会社へ改称し、1889年1月に東京株式取引所へ株式を上場、同年5月に操業を開始した。ただし大規模工場を扱える技術者が国内におらず赤字が累積し、三井から中上川彦次郎氏、次いで武藤山治氏が送り込まれる。外部経営者の招聘が、以後の人事と規模拡大を方向づけた。
決断
事業を選ぶ基準より、規模を保つことが先に立った。武藤山治氏は紡績大合同論を掲げ、1899年以降に経営難の中小紡績を買収しては英国製設備へ入れ替え、1933年には全業種で売上首位の日本最大企業となる。天然繊維の地位が崩れると1961年10月にグレーターカネボウ計画で多角化へ転じし、1967年には繊維・化粧品・食品・住宅・薬品を並べるペンタゴン経営へ再編した。30を超える工場と数万人の雇用そのものが誇りとなり、規模の維持を存続の前提とみなす内部論理がここで定着する。1990年代に祖業の繊維が崩落しても縮小へは動かず、「低稼働」と呼ぶ会計処理と押し込み販売が積み上がった。
現況
法人は残らず、事業だけが別々の買い手のもとで続いている。2003年9月に粉飾決算が発覚して630億円規模の債務超過へ転落し、2004年3月に産業再生機構へ支援を要請した。再生計画は化粧品を中核とする独立再建案を採らず、事業を単位ごとに売却する方式を基本方針に据える。化粧品は約4,100億円で花王へ譲渡され、繊維はセーレン、食品・日用品・薬品はクラシエへ移った。本体は2005年6月に東証・大証の両一部で上場を廃止し、2007年に海岸ベルマネジメントへ商号を変更して法人格を終えている。最終期となる2007年3月期の連結売上高68億円は、ピークだった1992年3月期6,813億円の1%まで縮んだ。
競合
同じ紡績から出た各社との差は、祖業から撤退した時期にある。日東紡績は1998年に綿紡績をやめてガラス繊維専業へ移り、富士紡ホールディングスは2005年に持株会社化して研磨材へ経営資源を集中した。抱え続けたユニチカは2024年に繊維から全面撤退し、870億円の金融支援要請と経営陣の総退陣に至っている。鐘紡は1961年から多角化を広げながら繊維の側を減らさず、両方を抱えたまま粉飾で時間を延ばした。化粧品という高収益の事業を持っていたことが、かえって縮小の判断を遅らせている。産業再生機構が独立再建案を採らなかったのも、その化粧品が債権者への弁済原資として最も高く売れる資産だったからである。
長期業績の推移 1949〜2007年
鐘紡:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1978年4月期2007年3月期

1886年〜 綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論

1886年〜東京綿商社から鐘淵紡績会社への業態転換

1886年11月、東京繰綿問屋組合に属する三越大丸・白木・荒尾・奥田の五軒が相寄り、三越得右衛門氏を頭取として資本金10万円の東京綿商社を設立した。当時の東京には繰綿問屋と称するものが九軒あり、三越・白木屋・大丸などの前身がその主なものだった。設立の目的は綿花の定期取引にあり、翌1887年2月に定期売買を開始した。しかし綿花を紡績して糸として売るほうが有利との結論を得て、同年4月に資本金を100万円へ増やした。武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵には3万余錘の紡績工場を建設し、東京綿商社鐘淵紡績場と名づけた。西洋の城廓を想わせる華麗な建物を、世評は"紡績大学校"と呼んだ

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [1]東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒による出資
    • [2]三越得右衛門氏を頭取とする資本金10万円の東京綿商社の設立
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [3]当時の東京の繰綿問屋九軒と三越・白木屋・大丸などの前身との連なり
    • [4]綿花の定期取引を目的とする設立と1887年2月の定期売買の開始
    • [5]綿花を糸として売るほうが有利との判断にもとづく資本金100万円への増資
    • [6]武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵への3万余錘の紡績工場の建設
    • [7]工場建物に対する「紡績大学校」という世評

綿花の売買は1888年8月にやめて紡績専業へ転じ、社名も鐘淵紡績会社へ改めた。1889年1月には東京株式取引所へ株式を上場し、同年5月に操業を開始した。もっとも開業が不況期に重なったため、経営は当初から行き詰まった。三井家の事業相談役兼監督だった井上馨氏の援助で、三井家専務理事の中上川彦次郎氏が再建に入った。中上川氏は1892年1月に三井工業部理事の朝吹英二氏とともに取締役へ就任し、翌1893年1月には三越得右衛門氏のあとを受けて社長に就任した。同じ1893年には東京第二工場を1万錘で増設し、綿糸の初輸出も果たした

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [8]1888年8月の紡績専業への転換と鐘淵紡績会社への社名変更
    • [15]1893年の東京第二工場1万錘の増設と綿糸の初輸出
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [9]東京株式取引所への株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [10]1889年5月の操業開始
    • [11]不況期と重なった開業による経営の行き詰まり
    • [12]井上馨氏の援助による三井家専務理事中上川彦次郎氏の招請
    • [13]1892年1月の中上川彦次郎氏と朝吹英二氏の取締役就任
    • [14]1893年1月の中上川彦次郎氏の社長就任

中上川氏は支那大陸の市場開拓を見据えて神戸に兵庫支店工場を建設し、設備4万錘・用地3万8000余坪の規模を与えた。建設の一切を委ねる支配人には、三井銀行神戸支店で手腕を示していた武藤山治氏を抜擢した。時に武藤氏は28歳だった。買収と合併によって住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場が綿糸製造工場に加わり、1897年には織布の兼営へも進んだ。資本金は1907年5月に1160万6800円となった。東京と兵庫の二拠点による生産で綿糸の産出は伸び、明治後期にかけて社業は広がった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [16]兵庫支店工場の設備4万錘・用地3万8000余坪
    • [17]三井銀行神戸支店にいた武藤山治氏の兵庫支店支配人への抜擢
    • [18]兵庫支店支配人に抜擢された当時の武藤山治氏の年齢28歳
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [19]住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場の綿糸製造工場化
    • [20]1897年の織布兼営への進出
    • [21]1907年5月の資本金1160万6800円
    • [22]東京と兵庫の二拠点による生産の拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [1]東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒による出資
    • [2]三越得右衛門氏を頭取とする資本金10万円の東京綿商社の設立
    • [10]1889年5月の操業開始
    • [11]不況期と重なった開業による経営の行き詰まり
    • [12]井上馨氏の援助による三井家専務理事中上川彦次郎氏の招請
    • [13]1892年1月の中上川彦次郎氏と朝吹英二氏の取締役就任
    • [14]1893年1月の中上川彦次郎氏の社長就任
    • [19]住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場の綿糸製造工場化
    • [20]1897年の織布兼営への進出
    • [21]1907年5月の資本金1160万6800円
    • [22]東京と兵庫の二拠点による生産の拡大
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [3]当時の東京の繰綿問屋九軒と三越・白木屋・大丸などの前身との連なり
    • [4]綿花の定期取引を目的とする設立と1887年2月の定期売買の開始
    • [5]綿花を糸として売るほうが有利との判断にもとづく資本金100万円への増資
    • [6]武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵への3万余錘の紡績工場の建設
    • [7]工場建物に対する「紡績大学校」という世評
    • [8]1888年8月の紡績専業への転換と鐘淵紡績会社への社名変更
    • [15]1893年の東京第二工場1万錘の増設と綿糸の初輸出
    • [16]兵庫支店工場の設備4万錘・用地3万8000余坪
    • [17]三井銀行神戸支店にいた武藤山治氏の兵庫支店支配人への抜擢
    • [18]兵庫支店支配人に抜擢された当時の武藤山治氏の年齢28歳
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [9]東京株式取引所への株式上場

1901年〜紡績大合同論による買収と規模の拡大

1901年10月に中上川氏が世を去ったのち、その理想は武藤山治氏へ引き継がれた。武藤氏は群小紡が乱立する状態を国家的な不利と見て"紡績大合同論"を提唱し、経営体力の乏しい中小紡績を買収したうえで設備を更新し運営を改める再建の型を示した。鐘紡が合併買収した相手は明治大正の両期だけでも上海紡績以下15社26工場に及んだ。1906年には絹業へ進出して京都支店工場を建設し、続いて日本絹綿紡織と絹糸紡績を合併して絹糸布の製造を開始した。鐘紡の製糸進出は当時の家内工業を近代工業へ移し、国産資源の活用によって絹業立国を目指した武藤氏の理想を形にしたものだった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [23]1901年10月の中上川彦次郎氏の死去と武藤山治氏への継承
    • [24]武藤山治氏による「紡績大合同論」の提唱
    • [25]明治大正両期における上海紡績以下15社26工場の合併買収
    • [26]1906年の絹業進出と京都支店工場の建設
    • [27]日本絹綿紡織と絹糸紡績の合併による絹糸布製造の開始
    • [28]家内工業を近代工業へ移した製糸進出と絹業立国という武藤山治氏の理想

1916年には淀川工場を建設し、綿糸布の漂白染色と捺染加工を始めた。1921年以降は製糸業にも進出し、絹業関係の工場は昭和初期に23を数えた。武藤氏は1921年7月に社長へ就任し、1930年1月の退任まで事業の拡大を指揮した。昭和初期には彦根・長浜・丸子の各工場を新設し、合併買収も綿部門で3社、製糸部門では1931年以降にさらに10社を加えた。外地への進出は1911年の上海製造絹糸の合併に始まり、第一次世界大戦を機に本格化して、1922年以降は上海・青島・天津で公大第一廠から第九廠までを新設または合併した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [29]1916年の淀川工場建設と綿糸布の漂白染色・捺染加工の開始
    • [31]1921年7月の武藤山治氏の社長就任と1930年1月の退任
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [30]1921年以降の製糸業進出と昭和初期における絹業関係23工場
    • [32]昭和初期の彦根・長浜・丸子各工場の新設
    • [33]綿部門3社と1931年以降の製糸部門10社の合併買収
    • [34]1911年の上海製造絹糸の合併による外地進出
    • [35]1922年以降の上海・青島・天津での公大第一廠から第九廠までの新設・合併

1936年、鐘紡は半官半民の日本製鉄を除けば売上高で日本一の企業となった。武藤氏の退任後は長尾良吉氏を挟んで、1930年7月に津田信吾氏が社長へ就任した。津田氏は多角経営へ進み、1934年から毛糸と化学繊維の製造を開始して麻製品の分野も開拓した。原料の国策に沿って緬羊の飼育、葦の栽培、亜麻の製繊、石炭の採掘までが事業に加わった。化繊部門への本格的な進出は、1934年の高砂人絹工場と防府人絹工場の建設から始まった。羊毛部門も1934年から工場を新設して準備に入り、1936年には毛織工業の6工場の経営を受託した。

  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [36]半官半民の日本製鉄を除いた売上高での日本一
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [37]長尾良吉氏を挟んだ1930年7月の津田信吾氏の社長就任
    • [38]1934年からの毛糸・化学繊維の製造開始と麻製品分野の開拓
    • [39]原料国策に沿った緬羊飼育・葦栽培・亜麻製繊・石炭採掘
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [40]1934年の高砂人絹工場・防府人絹工場の建設による化繊部門への本格進出
    • [41]1934年からの羊毛部門の準備と1936年の毛織工業6工場の経営受託
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [23]1901年10月の中上川彦次郎氏の死去と武藤山治氏への継承
    • [24]武藤山治氏による「紡績大合同論」の提唱
    • [25]明治大正両期における上海紡績以下15社26工場の合併買収
    • [26]1906年の絹業進出と京都支店工場の建設
    • [27]日本絹綿紡織と絹糸紡績の合併による絹糸布製造の開始
    • [28]家内工業を近代工業へ移した製糸進出と絹業立国という武藤山治氏の理想
    • [30]1921年以降の製糸業進出と昭和初期における絹業関係23工場
    • [32]昭和初期の彦根・長浜・丸子各工場の新設
    • [33]綿部門3社と1931年以降の製糸部門10社の合併買収
    • [34]1911年の上海製造絹糸の合併による外地進出
    • [35]1922年以降の上海・青島・天津での公大第一廠から第九廠までの新設・合併
    • [40]1934年の高砂人絹工場・防府人絹工場の建設による化繊部門への本格進出
    • [41]1934年からの羊毛部門の準備と1936年の毛織工業6工場の経営受託
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [29]1916年の淀川工場建設と綿糸布の漂白染色・捺染加工の開始
    • [31]1921年7月の武藤山治氏の社長就任と1930年1月の退任
    • [37]長尾良吉氏を挟んだ1930年7月の津田信吾氏の社長就任
    • [38]1934年からの毛糸・化学繊維の製造開始と麻製品分野の開拓
    • [39]原料国策に沿った緬羊飼育・葦栽培・亜麻製繊・石炭採掘
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [36]半官半民の日本製鉄を除いた売上高での日本一

1937年〜 戦時の事業膨張と敗戦、繊維専業への縮退

1937年〜鐘淵実業の分離と鐘淵工業への統合

1937年には平壌人絹工場を建設し、人絹とスフの製造に加わった。受託していた毛織工業の6工場は1941年に正式合併し、続いて荻原毛糸紡績と東洋紡織工業も合併した。満州では康徳毛織の経営にも当たり、朝鮮でも各地に工場を建設した。日華事変から第二次世界大戦の終結までの8年間、繊維事業は産業の軍需化に伴って極端に縮小され、代わって鉱業・重化学・航空機まで業種が広がった。1938年には別会社の鐘淵実業を資本金6000万円で設立し、繊維以外の事業を担わせた。鐘淵実業は旧鐘紡の分身として創設された会社だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [42]1937年の平壌人絹工場建設と人絹・スフの製造
    • [43]1941年の毛織工業6工場の正式合併と荻原毛糸紡績・東洋紡織工業の合併
    • [44]満州での康徳毛織の経営と朝鮮各地での工場建設
    • [45]日華事変から第二次世界大戦終結までの8年間における繊維事業の縮小と鉱業・重化学・航空機への拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [46]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円
    • [47]旧鐘紡の分身として創設された鐘淵実業

鐘淵実業は鐘紡が営んでいた繊維以外の事業を継承して鉱・化・農・牧の各分野へ広げ、鐘紡所属の繊維工場の転用や諸工場の新設買収によって重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業へ進んだ。鐘淵紡績は1941年11月に資本金7000万円となり、綿紡機131万錘・綿織機1万3700台、梳毛機22万5000錘、絹紡機13万2000錘という設備を抱えた。スフの日産は81屯、人絹は35屯に達していた。毛織機1200台、カタン糸676錘、麻精練2セットも備えていた。旧外地の満州・蒙古・華北・華中・南方にも直営事業と投資を広げていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [48]鐘淵実業による繊維以外の事業の継承と鉱・化・農・牧分野への拡大
    • [49]繊維工場の転用と諸工場の新設買収による重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業への進出
    • [50]1941年11月の資本金7000万円
    • [51]綿紡機131万錘・綿織機1万3700台・梳毛機22万5000錘・絹紡機13万2000錘の設備
    • [52]スフ日産81屯・人絹日産35屯の化繊部門の生産能力
    • [53]毛織機1200台・カタン糸676錘・麻精練2セットの設備
    • [54]満州・蒙古・華北・華中・南方での直営事業と投資
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [42]1937年の平壌人絹工場建設と人絹・スフの製造
    • [43]1941年の毛織工業6工場の正式合併と荻原毛糸紡績・東洋紡織工業の合併
    • [44]満州での康徳毛織の経営と朝鮮各地での工場建設
    • [45]日華事変から第二次世界大戦終結までの8年間における繊維事業の縮小と鉱業・重化学・航空機への拡大
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [46]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円
    • [47]旧鐘紡の分身として創設された鐘淵実業
    • [48]鐘淵実業による繊維以外の事業の継承と鉱・化・農・牧分野への拡大
    • [49]繊維工場の転用と諸工場の新設買収による重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業への進出
    • [50]1941年11月の資本金7000万円
    • [51]綿紡機131万錘・綿織機1万3700台・梳毛機22万5000錘・絹紡機13万2000錘の設備
    • [52]スフ日産81屯・人絹日産35屯の化繊部門の生産能力
    • [53]毛織機1200台・カタン糸676錘・麻精練2セットの設備
    • [54]満州・蒙古・華北・華中・南方での直営事業と投資

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1887〜2007年

鐘紡の沿革1887〜2007年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1886〜1936年綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論東京綿商社を創業
鐘淵紡績会社に組織変更
東京株式取引所に株式を上場
中上川彦次郎氏が社長就任
紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化★★
総合繊維メーカーを志向
鐘紡が日本企業で売上高1位へ
1937〜1960年戦時の事業膨張と敗戦、繊維専業への縮退鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立
武藤絲治が鐘紡の社長に就任
東京証券取引所の再開にともない株式を上場
化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立★★
朝鮮特需で好調
紡績工場の一部休止を決定
博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖
1961〜1992年多角化への転進と化粧品事業への収益集中グレーターカネボウ計画を掲げ、繊維・化粧品など5事業を柱に据える組み替え

1961年、鐘紡が武藤絲治社長の主導でグレーターカネボウ(GK)建設計画を公表し、ナイロン・化粧品・食品への多角化に着手、1967年には伊藤淳二社長のもとで繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の五本柱によるペンタゴン経営へ再編した経営判断。

詳細を読む
★★★
化粧品事業に新規参入★★
午後3時の綿業論を否定
食品事業に参入
ペンタゴン経営を提唱★★
伊藤淳二国内5工場を閉鎖
伊藤淳二商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更
伊藤淳二無配転落★★
伊藤淳二国内4工場を閉鎖
伊藤淳二国内2工場を閉鎖
伊藤淳二国内4工場を閉鎖
1993〜2007年祖業の崩落と粉飾決算の露呈、そして解体伊藤淳二防府工場の閉鎖撤回
伊藤淳二債務超過に転落★★
中嶋章義粉飾決算の発覚と、自主再建を断念して公的枠組みに委ねた選択

繊維事業の慢性赤字を化粧品の利益で穴埋めし続けた鐘紡は、1990年代に"低稼働"と呼ぶ不適切な会計処理を常態化させ、2003年9月に629億円の連結債務超過へ転落した。唯一の高収益事業である化粧品を花王へ売却して再建する構想は労組の反発と経営陣の内部対立で2004年2月に破談し、帆足隆・会長兼社長は産業再生機構に支援を要請、3月10日に支援が正式決定した。

詳細を読む
★★★
小森哲郎化粧品事業を花王に売却★★
小森哲郎残る全事業の切り売りによる解体と、法人としての幕引き

2004年に産業再生機構の支援下に入った鐘紡(カネボウ)は、企業体そのものの再建ではなく事業単位での切り売りによる再生方針のもとで解体された。唯一の高収益事業だった化粧品事業は約4,100億円で花王へ譲渡され、2005年6月に上場廃止、2007年2月には株主総会で解散を決議して商号を"海岸ベルマネジメント"に改めた経営判断。

詳細を読む
★★★
出典・参考 4件
出典・参考
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号

免責事項およびポリシー