1886年11月、東京繰綿問屋組合に属する三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五軒が相寄り、三越得右衛門氏を頭取として資本金10万円の東京綿商社を設立した。当時の東京には繰綿問屋と称するものが九軒あり、三越・白木屋・大丸などの前身がその主なものだった。設立の目的は綿花の定期取引にあり、翌1887年2月に定期売買を開始した。しかし綿花を紡績して糸として売るほうが有利との結論を得て、同年4月に資本金を100万円へ増やした。武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵には3万余錘の紡績工場を建設し、東京綿商社鐘淵紡績場と名づけた。西洋の城廓を想わせる華麗な建物を、世評は"紡績大学校"と呼んだ。
綿花の売買は1888年8月にやめて紡績専業へ転じ、社名も鐘淵紡績会社へ改めた。1889年1月には東京株式取引所へ株式を上場し、同年5月に操業を開始した。もっとも開業が不況期に重なったため、経営は当初から行き詰まった。三井家の事業相談役兼監督だった井上馨氏の援助で、三井家専務理事の中上川彦次郎氏が再建に入った。中上川氏は1892年1月に三井工業部理事の朝吹英二氏とともに取締役へ就任し、翌1893年1月には三越得右衛門氏のあとを受けて社長に就任した。同じ1893年には東京第二工場を1万錘で増設し、綿糸の初輸出も果たした。
中上川氏は支那大陸の市場開拓を見据えて神戸に兵庫支店工場を建設し、設備4万錘・用地3万8000余坪の規模を与えた。建設の一切を委ねる支配人には、三井銀行神戸支店で手腕を示していた武藤山治氏を抜擢した。時に武藤氏は28歳だった。買収と合併によって住道・中島・洲本・三池・久留米・熊本・中津・博多の諸工場が綿糸製造工場に加わり、1897年には織布の兼営へも進んだ。資本金は1907年5月に1160万6800円となった。東京と兵庫の二拠点による生産で綿糸の産出は伸び、明治後期にかけて社業は広がった。
1901年10月に中上川氏が世を去ったのち、その理想は武藤山治氏へ引き継がれた。武藤氏は群小紡が乱立する状態を国家的な不利と見て"紡績大合同論"を提唱し、経営体力の乏しい中小紡績を買収したうえで設備を更新し運営を改める再建の型を示した。鐘紡が合併買収した相手は明治大正の両期だけでも上海紡績以下15社26工場に及んだ。1906年には絹業へ進出して京都支店工場を建設し、続いて日本絹綿紡織と絹糸紡績を合併して絹糸布の製造を開始した。鐘紡の製糸進出は当時の家内工業を近代工業へ移し、国産資源の活用によって絹業立国を目指した武藤氏の理想を形にしたものだった。
1916年には淀川工場を建設し、綿糸布の漂白染色と捺染加工を始めた。1921年以降は製糸業にも進出し、絹業関係の工場は昭和初期に23を数えた。武藤氏は1921年7月に社長へ就任し、1930年1月の退任まで事業の拡大を指揮した。昭和初期には彦根・長浜・丸子の各工場を新設し、合併買収も綿部門で3社、製糸部門では1931年以降にさらに10社を加えた。外地への進出は1911年の上海製造絹糸の合併に始まり、第一次世界大戦を機に本格化して、1922年以降は上海・青島・天津で公大第一廠から第九廠までを新設または合併した。
1936年、鐘紡は半官半民の日本製鉄を除けば売上高で日本一の企業となった。武藤氏の退任後は長尾良吉氏を挟んで、1930年7月に津田信吾氏が社長へ就任した。津田氏は多角経営へ進み、1934年から毛糸と化学繊維の製造を開始して麻製品の分野も開拓した。原料の国策に沿って緬羊の飼育、葦の栽培、亜麻の製繊、石炭の採掘までが事業に加わった。化繊部門への本格的な進出は、1934年の高砂人絹工場と防府人絹工場の建設から始まった。羊毛部門も1934年から工場を新設して準備に入り、1936年には毛織工業の6工場の経営を受託した。
1937年には平壌人絹工場を建設し、人絹とスフの製造に加わった。受託していた毛織工業の6工場は1941年に正式合併し、続いて荻原毛糸紡績と東洋紡織工業も合併した。満州では康徳毛織の経営にも当たり、朝鮮でも各地に工場を建設した。日華事変から第二次世界大戦の終結までの8年間、繊維事業は産業の軍需化に伴って極端に縮小され、代わって鉱業・重化学・航空機まで業種が広がった。1938年には別会社の鐘淵実業を資本金6000万円で設立し、繊維以外の事業を担わせた。鐘淵実業は旧鐘紡の分身として創設された会社だった。
鐘淵実業は鐘紡が営んでいた繊維以外の事業を継承して鉱・化・農・牧の各分野へ広げ、鐘紡所属の繊維工場の転用や諸工場の新設買収によって重工業・金属鉱業・木材工業・航空工業へ進んだ。鐘淵紡績は1941年11月に資本金7000万円となり、綿紡機131万錘・綿織機1万3700台、梳毛機22万5000錘、絹紡機13万2000錘という設備を抱えた。スフの日産は81屯、人絹は35屯に達していた。毛織機1200台、カタン糸676錘、麻精練2セットも備えていた。旧外地の満州・蒙古・華北・華中・南方にも直営事業と投資を広げていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1886〜1936年綿商社から紡績業への転換と紡績大合同論 | 東京綿商社を創業 | ★ | ||
| 鐘淵紡績会社に組織変更 | ★ | |||
| 東京株式取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 中上川彦次郎氏が社長就任 | ★ | |||
| 紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化 | ★★ | |||
| 総合繊維メーカーを志向 | ★ | |||
| 鐘紡が日本企業で売上高1位へ | ★ | |||
| 1937〜1960年戦時の事業膨張と敗戦、繊維専業への縮退 | 鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立 | ★ | ||
| 武藤絲治が鐘紡の社長に就任 | ★ | |||
| 東京証券取引所の再開にともない株式を上場 | ★ | |||
| 化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立 | ★★ | |||
| 朝鮮特需で好調 | ★ | |||
| 紡績工場の一部休止を決定 | ★ | |||
| 博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖 | ★ | |||
| 1961〜1992年多角化への転進と化粧品事業への収益集中 | グレーターカネボウ計画を掲げ、繊維・化粧品など5事業を柱に据える組み替え 1961年、鐘紡が武藤絲治社長の主導でグレーターカネボウ(GK)建設計画を公表し、ナイロン・化粧品・食品への多角化に着手、1967年には伊藤淳二社長のもとで繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の五本柱によるペンタゴン経営へ再編した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 化粧品事業に新規参入 | ★★ | |||
| 午後3時の綿業論を否定 | ★ | |||
| 食品事業に参入 | ★ | |||
| ペンタゴン経営を提唱 | ★★ | |||
| 伊藤淳二 | 国内5工場を閉鎖 | ★ | ||
| 伊藤淳二 | 商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更 | ★ | ||
| 伊藤淳二 | 無配転落 | ★★ | ||
| 伊藤淳二 | 国内4工場を閉鎖 | ★ | ||
| 伊藤淳二 | 国内2工場を閉鎖 | ★ | ||
| 伊藤淳二 | 国内4工場を閉鎖 | ★ | ||
| 1993〜2007年祖業の崩落と粉飾決算の露呈、そして解体 | 伊藤淳二 | 防府工場の閉鎖撤回 | ★ | |
| 伊藤淳二 | 債務超過に転落 | ★★ | ||
| 中嶋章義 | 粉飾決算の発覚と、自主再建を断念して公的枠組みに委ねた選択 繊維事業の慢性赤字を化粧品の利益で穴埋めし続けた鐘紡は、1990年代に"低稼働"と呼ぶ不適切な会計処理を常態化させ、2003年9月に629億円の連結債務超過へ転落した。唯一の高収益事業である化粧品を花王へ売却して再建する構想は労組の反発と経営陣の内部対立で2004年2月に破談し、帆足隆・会長兼社長は産業再生機構に支援を要請、3月10日に支援が正式決定した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小森哲郎 | 化粧品事業を花王に売却 | ★★ | ||
| 小森哲郎 | 残る全事業の切り売りによる解体と、法人としての幕引き 2004年に産業再生機構の支援下に入った鐘紡(カネボウ)は、企業体そのものの再建ではなく事業単位での切り売りによる再生方針のもとで解体された。唯一の高収益事業だった化粧品事業は約4,100億円で花王へ譲渡され、2005年6月に上場廃止、2007年2月には株主総会で解散を決議して商号を"海岸ベルマネジメント"に改めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(鐘紡)