綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維の事業縮小をスタート
鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。
繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した
繊維業界の不振を受けて鐘紡の業績も悪化。1975年には経常赤字に転落する。赤字補填のために、鐘紡は大阪の淀川工場跡地を集合住宅地として売却するなど、不動産売却益によって延命を図る。
京都出町柳付近にあった京都工場を閉鎖。跡地は売却されて、東大路高野団地として再開発された
大阪市内に存在した淀川工場の生産機能を、滋賀県長浜工場に移転することを決定。跡地は三井不動産によって売却され、1982年に分譲マンション「ベル・パークシティ」として再開発された。大阪都心部の優良な土地の大規模再開発として注目を集めた、カネボウは土地の売却益によって繊維の赤字を補填した
明治33年に稼働して淡路島の有力工場であったが、老朽化などによる競争力の低下により閉鎖を決定
天然繊維事業の競争力低下に合わせて、カネボウは主力の面紡績の3工場を併載した。閉鎖対象は、長野工場(上田)、松阪工場(三重)、西大寺(岡山)の3箇所。いずれも各地域の大口雇用主であり、地元経済に致命的な打撃となった。
合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。
2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。
利益を重視することを訴えると同時に、労務費の削減にも着手しました。役員の削減や役員報酬のカットはもちろん、グループ企業も含め、労働組合員1万5000人の基本給を3年間、10%減らしたのです。実に厳しい決断でしたが、組合と粘り強く話し合ううちに、人員削減よりも全員で改革に挑もうと従業員は協力すると言ってくれました。