1887年、東京の有力な綿商社および百貨店5社の出資により、合資会社「東京綿商社」が日本橋で設立された。出資者は三越、大丸、白木、荒尾、奥田であり、三越の参加によって三井系商社として位置づけられた。資本金は10万円で、創業当初は中国から綿花を輸入し、国内で販売する貿易商社として事業を開始した。
当時、綿花は紡績業の主要原料であり、輸入取引は取扱量の拡大が見込まれる分野であった。他方で、対中取引は制度面や実務面の制約を受け、調達は安定しなかった。取扱数量が伸び悩むなか、売買仲介に限定した事業構造では収益の拡張に限界が生じ、原料取引の先にある工程を自社で担う選択肢が検討される局面に至っていた。
東京綿商社は、商社から製造業へ移行する方針を定め、紡績業への参入を決断した。これは原料の取引から生産工程へと事業領域を移す判断であり、商社機能に依存した収益構造を変更することを意味した。参入にあたっては、イギリスからリング式紡績機を輸入し、新工場を建設する計画が採用された。
工場用地には水運の利便性を見込み、隅田川沿いの鐘ヶ淵が選定された。同地は旧隅田御殿跡で、工場建設に必要な敷地を一体で確保できた点が理由とされた。さらに、製造業への専念を明確にするため、東京綿商社は解散され、三井系資本のもとで「鐘ヶ淵紡績会社」が発足した。こうして鐘紡は、貿易商社の枠組みから離れ、紡績メーカーとしての事業運営に踏み出した。
このような経営難を招来したのは、工場経営上もっとも肝要な「機械と人間の調和」を欠いたためである。この実例を見ると、当時紡績業の本山であるイギリスにおいてすら、ようやくリング式紡機が、旧来のミュール式紡機にとってかわろうとする過渡期であった。我が国では、我が社が据え付けたリング式紡機は、まさにその草分けともいうべき時代のうえ、この洋式紡機の技術に関する書籍のごときは、イーヴンレイの著述の原書が1冊あるくらいで、当時3万錘という大工場を十分に運営管理しうる技術家はいなかった。
1893年、鐘ヶ淵紡績は深刻な経営難に直面するなかで、三井財閥の実質的な財務責任者であった中上川彦次郎が社長に就任した。創業期の同社は、設備投資と運営体制が先行する一方で、技術者不足やコスト管理の不備により赤字を計上し、会社解散の可能性も取り沙汰される状況にあった。
中上川は就任直後から、財務、費用構造、技術の三点に手を付けた。まず増資によって資本金を100万円から150万円に引き上げ、資金繰りの安定を図った。同時に、工場経費の削減を進めて損失幅を抑制した。さらに、技術面では吉田技師長を欧州に派遣し、現地で紡績技術を習得させる体制を整えた。これらの施策により、再建初年度には8万5千円の黒字を計上し、鐘ヶ淵紡績は解散を回避した。
中上川社長は、経営の安定化を受けて、紡績の増産による事業拡張を構想した。その中核として、東京工場に加えて兵庫県和田岬に新たな紡績工場を建設し、中国向け輸出を行う計画を策定した。東西に工場を配置することで、生産量の拡大と販路の広域化を同時に進める狙いがあった。計画に先立ち、資本金は250万円へと引き上げられた。
兵庫工場の建設にあたっては、人材面での刷新も行われた。三井銀行神戸支店に勤務していた28歳の武藤山治が、兵庫工場の責任者として抜擢された。1896年に稼働した兵庫工場は4万錘規模で、約3000名の職工を擁する大型工場であった。待遇面で兵庫工場に人材が集中した結果、大阪周辺の紡績工場から職工が移動し、業界内で課題として認識される事態も生じた。一方で、職工不足を背景に、紡績業全体で労働条件が調整される動きもみられた。
当時私は紡績学について、何ら経験もない28歳の、今なら大学を出て間もない年頃の青年に過ぎません。それが中上川彦次郎氏の達識により、早くも支那輸出を目的とする兵庫工場の建設が企てられ、その経営の責任を双肩になったこととて、ただまっしぐらに渾身の努力を捧げるほかありませんでした。
明治期を通じて、紡績業は全国的な設立ブームを迎えた。工場設備を導入し、原料である綿花を輸入すれば参入できる構造であったため、新規参入の制約は小さかった。また、製品である綿糸は市況性の強い標準品であり、価格競争が起こりやすい事業であった。
この結果、景気後退局面に入ると、多くの中小紡績会社が収益悪化に直面した。設備の老朽化や資金調達力の差が経営に影響し、倒産や事業継続の危機に陥る企業が相次いだ。一方、資金力と設備更新余力を持つ大手紡績会社は、業界内での再編を進める立場にあり、紡績業界では企業集約が進む環境が形成されていた。
1900年前後、鐘淵紡績の幹部であった武藤山治は、全国に点在する紡績会社を統合する「紡績大合同論」を提唱した。経営体力に乏しい紡績会社を買収し、設備更新と運営改善によって再建を図ると同時に、鐘紡自身の企業規模を拡大する構想であった。企業規模の拡大は、原料綿花の大量調達による購買条件の改善にもつながると考えられていた。
鐘紡は1899年以降、企業買収を段階的に進め、国内外の紡績会社を取得して工場網を拡張した。1911年の絹糸紡績の買収では、国内9工場と上海工場を取得し、生産基盤を大きく広げた。さらに、綿糸に加えて絹や毛織物へ事業領域を広げ、天然繊維を中心とする総合繊維メーカーとしての体制を整えていった。
最近、綿業界の不審甚だしく、小紡績会社は破綻せんとしている。(略)紡績会社は一般に苦境に陥っている。されど大紡績会社は、比較的資金も豊富であり、工場も割合に優秀なので、不況ながらこの困難を切り抜けることができるが、小紡績会社は今や全く死に瀕している。(略)綿業界が極度の不振に陥った昨今、小紡績会社はいよいよ経営困難となる不安を感じて、この際大紡績会社に合併の相談を持ちかけているものもある。
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| 事業区分 | 事業別工場数 | 主な事業拠点(従業員数) | 事業別従業員数 |
| 綿糸紡績 | 17工場 | 高砂工場(4960名) | 26,258名 |
| 絹糸紡績 | 7工場 | 京都工場(3202名) | 10,993名 |
| 加工 | 4工場 | 淀川工場(3247名) | 7,445名 |
| 製糸(絹) | 19工場 | 甲府工場(702名) | 6,638名 |
| 化学繊維 | 2工場 | 防府工場(1219名) | 2,319名 |
国内全ての業種の企業において、鐘紡が売上高トップを記録。日本を代表する会社に発展した
| 順位 | 企業名 | 売上高 | 備考 |
| 1位 | 鐘淵紡績 | 20.1億円 | 繊維業(綿・毛・絹) |
| 2位 | 王子製紙 | 13.7億円 | 紙パルプ |
| 3位 | 内外綿 | 8.6億円 | 繊維業(綿) |
| 4位 | 大日本製糖 | 8.4億円 | 製糖 |
| 5位 | 三井鉱山 | 7.4億円 | 石炭・非鉄鉱山 |
| 6位 | 日本毛織 | 7.1億円 | 繊維業(毛織物) |
| 7位 | 台湾製糖 | 5.7億円 | 製糖 |
| 8位 | 三菱鉱業 | 5.4億円 | 石炭・非鉄鉱山 |
| 9位 | 明治製糖 | 5.3億円 | 製糖 |
| 10位 | 日本石油 | 5.2億円 | 石油精製・販売 |
当社(注:鐘紡)が我が国紡績界における代表的会社で、紡績王国として自他ともに許しているということは、今更事新しく説明するまでもなく、一般周知の事実であろう。
終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。
戦時中、鐘紡は軍需生産に従事し、一部工場では繊維以外の軍需物資を生産していた。1945年の終戦により軍需を喪失した後、同社は繊維製品の製造へと事業を回帰させた。戦災で停止していた工場の復旧が進められ、戦後復興の過程で生産体制は段階的に回復した。
1953年時点で、鐘紡は国内で30を超える繊維工場を稼働させ、うち18工場で従業員数が1000名を超えていた。生産品目は綿・毛・絹といった天然繊維を中心としつつ、化学繊維のスフも加えた構成であった。全国に分散配置された大規模工場群により、戦後の需要増加に対応できる供給体制が整えられていた。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍向け物資の需要拡大を背景に日本経済は回復局面に入った。繊維業界も例外ではなく、生産と販売が活発化した。この局面は「織機を一度動かせば一万円の利益が出る」との意味合いから、ガチャマン景気と呼ばれた。
鐘紡もこの好況の影響を受け、1951年4月期には売上高168億円、税引後利益40億円を計上した。利益率は約24%に達し、戦後期としては高い水準となった。しかし、1952年までに朝鮮特需が一巡すると、市況は急速に変化した。主力製品である綿・毛・絹はいずれも市況性の高い商品であり、価格調整の余地は限られていた。このため、1951年4月期をピークに、鐘紡の利益は純利益ベースで減少局面へと移行した。
| 工場名 | 従業員数 | 生産品目 | 所在地 |
| 洲本工場 | 3076名 | 綿・絹 | 兵庫県洲本市塩屋 |
| 淀川工場 | 2385名 | 綿・スフ・合繊 | 大阪府都島区 |
| 西大寺工場 | 1998名 | 綿 | 岡山県上道郡西大寺町 |
| 中津工場 | 1201名 | 綿 | 大分県中津市島田 |
| 中島工場 | 1142名 | 綿 | 大阪市東淀川区柴島町 |
| 住道工場 | 1757名 | 綿・毛 | 大阪府北河内郡 |
| 長野工場 | 1525名 | 綿 | 長野県長野市若里 |
| 東京工場 | 1776名 | 綿 | 東京都墨田区隅田町 |
| 松阪工場 | 1294名 | 綿 | 三重県松阪市 |
| 高砂工場 | 1475名 | 綿 | 兵庫県加古郡高砂町 |
| 四日市工場 | 1320名 | 毛 | 三重県四日市市日永 |
| 京都工場 | 1823名 | 毛 | 京都市左京区高野東開町 |
| 新町工場 | 1812名 | 繰糸 | 群馬県多野郡新町 |
| 丸子工場 | 1541名 | 繰糸 | 長野県小県郡丸子町 |
| 長浜工場 | 1591名 | 繰糸 | 滋賀県長浜市南呉服町 |
| 山科工場 | 1541名 | 綿・絹 | 京都市東山区山科 |
| 防府工場 | 1895名 | スフ(人絹) | 山口県防府市東佐波令 |
| 高岡工場 | 1340名 | スフ(人絹) | 富山県高岡市上関 |
綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維で事業縮小
1958年前後の天然繊維の不況による市況悪化を受けて、鐘紡は主力工場の閉鎖を決定した。従来の工場閉鎖は従業員100〜500名規模の中規模の工場(全国の地方に点在した生糸の繰糸工場)であったが、1959年以降は1000名規模の主力工場が対象となり、工場閉鎖による生産調整が本格化した。
閉鎖対象は九州の2工場(博多・中津)、大阪市内の1工場(中島)、東京都内の1工場(東京工場)であった。このうち、東京工場は化粧品製造に一時転換されたが、その後完全に閉鎖されるに至った。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 博多工場 | 福岡県 | 871名 | 0名 | 0名 |
| 中津工場 | 大分県 | 1,201名 | 0名 | 0名 |
| 中島工場 | 大阪府 | 1,142名 | 0名 | 0名 |
| 東京工場 | 東京都 | 1,776名 | 0名 | 0名 |
1950年代を通じて、日本の繊維産業は構造的な転換期を迎えていた。戦後復興期には綿・絹・毛といった天然繊維が需要を支えたが、次第に市況は悪化し、価格変動の影響を受けやすい事業環境が顕在化した。鐘淵紡績も例外ではなく、主力である天然繊維への依存度が高い事業構造は、収益の安定性に制約をもたらしていた。
加えて、合成繊維の分野では先行企業が市場を拡大しており、鐘紡は後発の立場にあった。天然繊維の収益性が低下する一方で、新素材や非繊維分野への対応が遅れれば、企業規模を維持することは難しくなる状況にあった。
1961年10月、鐘淵紡績は武藤絲治社長のもとで「グレーターカネボウ建設計画」を公表した。同計画は、天然繊維への偏重を改め、新規事業を中核に据えた多角化を進めることを基本方針としたものであった。具体的には、ナイロン、化粧品、食品を新たな成長領域に位置づけた。
計画では1964年10月までに半期売上高478億円、半期利益24億円という数値目標が設定された。ナイロンでは海外企業との技術提携と大型投資を実行し、非繊維分野では買収を通じて事業基盤を拡充した。
1960年代前半、鐘紡は合成繊維と非繊維の拡充によって売上構成比を改善した。化粧品事業は短期間で規模を拡大し、非繊維部門の中核となった。
一方で、昭和40年不況による市況悪化やナイロン分野の競争激化により、1965年10月期には全社売上で減収に転じた。多角化は構造改善には寄与したが、持続的な成長力の確立には課題を残した。
よく言われるように、繊維工業は決して斜陽でも何でもない。ただ過去のような高利潤は維持できない。そういうわけですから繊維工業に関連して、鐘紡本体を中心に新しい時代のパイプを伸ばしていって、そこから栄養を吸収し、体質を改善し、体力を増大すれば心配はいらないわけです。(略)
1950年代後半以降、鐘紡は繊維事業の収益変動を背景に、事業構成の再設計を模索していた。ガチャマン景気の反動を経て、繊維は数量拡大のみで利益を確保することが難しくなり、市況変動への依存度が高まっていた。こうした問題意識のもと、鐘紡では事業領域を拡張し、企業規模を維持しながら安定収益源を確保する構想が検討された。
その一つが、1960年代初頭に進められた「グレーター・カネボウ」構想であった。これは繊維を中核としつつ、化学、食品、日用品など周辺分野を取り込み、企業集団としての総合力を高める発想である。この延長線上で、後に提唱されるペンタゴン経営は、事業の多角化を構造的に整理する枠組みとして位置づけられた。化粧品事業への参入は、こうした構想を具体的な収益事業として実装する試みの一つであった。
1962年、鐘紡は鐘淵化学(カネカ)から化粧品事業を買収し、本格的に化粧品分野へ参入した。参入手法は自社開発ではなく、既存事業の取得を通じたものであり、これは戦前以来の鐘紡の多角化手法と一致していた。取得後は製造設備への投資よりも、販売体制の整備が優先された。
具体的には、全国各地に販社を設立し、営業人員の拡充と流通網の整備を進めた。販売組織への累計投資額は約100億円に達し、化粧品事業はグループ内でも大規模な投資対象となった。その結果、1964年9月時点で半期売上高は65億円に達し、取得から約3年間で売上高はおよそ10倍に拡大した。以後、化粧品事業は鐘紡グループの利益の多くを支える事業となり、後年のペンタゴン経営においても中核事業として位置づけられていった。
チェーン店方式の販売組織を徹底的に強化した。もちろん「鐘紡の化粧品」というイメージが消費者に大きな好感を持って迎えられたことは申すまでもない。(略)
それから、従来の販売会社の持株を100%鐘紡が所有して、実質的には直営の形体に切り替えた。この販売会社の整備、充実も、化粧品進出の大きな原因になったと思う。
鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。
1960年代後半、鐘淵紡績は繊維事業の収益性低下と組織規模の肥大化という課題に直面していた。合成繊維分野では競争が激化し、従来の主力であった天然繊維も市況変動の影響を強く受ける状況にあった。こうした中で、創業期以来経営に関与してきた武藤家は経営の第一線から退き、1968年に労務部長出身の伊藤淳二が45歳で社長に就任した。
伊藤は社内調整能力に長け、労使関係の安定化を主導してきた人物であった。一方で、この経営交代は社内政治の帰結でもあり、従来の繊維中心経営からの転換を進める体制が整えられた。事業構造の転換は避けられない課題と認識される一方、巨大化した組織を急激に縮小する選択肢は現実的ではなく、雇用維持を前提とした新たな経営構想が求められていた。
1967年、鐘紡は「ペンタゴン経営」を提唱し、事業構成を繊維、住宅、食品、化粧品、医薬品の五分野とする方針を掲げた。この構想の特徴は、従来は天然繊維、化学繊維、合成繊維に分けて管理していた繊維事業を一つの事業として整理した点にあった。合成繊維市場も成熟局面に入り、市況の変動幅が大きくなったことから、繊維全体を一括して課題に向き合う意図があった。
同時に、繊維事業の不振を補完するため、非繊維分野への進出が加速された。化粧品と食品はすでに一定の事業基盤を持っていたが、新たに住宅と医薬品を成長領域として位置づけた。ただし、実務面では繊維部門の余剰人員を新規事業へ配置する色合いが強く、事業特性に即した人材登用や外部人材の積極活用は限定的であった。
ペンタゴン経営により、鐘紡は繊維依存からの脱却を掲げ、事業ポートフォリオの拡張を進めた。短期的には、事業領域の分散によって市況変動への耐性を高める効果が期待された一方、各事業の収益性や投資回収の検証は複雑化した。多角化が進むほど、全社としての業績評価は事業横断的な調整に依存する度合いを強めていった。
その過程で、規模維持と雇用維持を前提とする意思決定が常態化し、赤字事業の整理や撤退は先送りされやすい組織風土が形成された。業績目標の達成は全社的な至上命題となり、実態よりも安定的な数字を示すことが重視される傾向が強まった。この構造は、後年に表面化する会計不正を直接生んだものではないが、実態と数字の乖離を許容しやすい土壌を社内に残した。
さかのぼるのであれば、その頃経営をやっていた前名誉会長の伊藤淳二さんのところに行き着きます。やはり、繊維で日本一の時代を築いたことに甘えていた。それで繊維、繊維と言って、とにかく借入を増やしながら、ファッションに取り組んだり、いろんなことをやった結果がこれですよ。やっぱり甘い経営をやってきたということなんです。
それで借入金ばっかりで(たまっていく)在庫の処理がすぐにはできなかったので、(本社と販社で物品を回遊させる)「低稼働」でずっとやってきたと、こういうことですよ。当時は「粉飾」とは言っていなかった。そんなのは低稼働どうですよと、過去からずっと変な仕組みがあった。こういう会社の社風にしたのも伊藤さんの責任でしょうね(略)
だから2001年度とか2002年度の問題じゃないんですよ。大きな石をかぶって経営を預かったんですから、そこをよく認識してもらいたい。なのに、そも僕の時代の責任のように言われるのは冗談じゃない。なぜ僕だけが責められなきゃいけないのか。何を今更いろいろ言っているんだと、怒りを感じますよ。過去のことを言っていくと、もう全部が問題ですよ。
鐘紡のガバナンス崩壊は、単一の不正行為や経営者個人の問題に還元できるものではない。ペンタゴン経営以降、事業構成は複雑化し、業績評価は全社横断的な調整に依存する構造へと移行した。この結果、各事業の収益実態が見えにくくなり、経営判断と数値管理の距離が拡大した。 また、雇用維持と規模維持を優先する意思決定が常態化し、不採算事業の整理や撤退は先送りされやすかった。こうした環境では、計画未達を早期に是正する仕組みが機能しにくく、実態と会計数値の乖離を是正する動機も弱まる。粉飾は結果として表面化した事象であり、その前段には長期にわたる統治構造の形骸化が存在していた。
1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことで、日本国内の繊維業は「東南アジア企業」との競争に巻き込まれ、国際競争力を喪失した。
このため、再び生産調整のために1970年より工場閉鎖を再開した。1970年〜1974年にかけての工場閉鎖は都心部の工場を対象とした。よって、再就職先の斡旋が容易な地域から優先的に工場を閉鎖したと推察される。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 山科工場 | 京都府 | 1,541名 | 0名 | 0名 |
| 練馬工場 | 東京都 | 534名 | 357名 | 0名 |
| 南千住工場 | 東京都 | - | 488名 | 0名 |
| 静岡工場 | 静岡県 | 561名 | 395名 | 0名 |
| 都島工場 | 大阪府 | - | 326名 | 0名 |
繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した
1970年代を通じて、鐘紡の事業構成は大きく歪み始めていた。化粧品事業は売上高・利益ともに拡大を続け、1976年時点で売上高544億円、利益64億円を計上する高収益事業へと成長した。一方で、ペンタゴン経営のもとで育成が進められた住宅、食品、医薬品の各事業は、損失が継続し、全社的な利益貢献には至らなかった。結果として、五事業のうち実質的に利益を生み出していたのは化粧品のみという構造が固定化していった。
この状況下でも、繊維事業は依然として最大の売上規模と人員を抱えており、事業縮小や抜本的な構造転換は進まなかった。高収益事業である化粧品の存在は、全社の資金繰りを下支えする一方で、不採算事業の整理を先送りする余地を生み、事業間の収益格差を内包したまま経営が継続されていた。
1973年10月のオイルショックを契機に、日本経済は不況局面に入り、工業製品全般の需要が低迷した。鐘紡では、天然繊維および合成繊維の減収が顕在化し、多角化事業の赤字も重なって、1975年4月期に無配へ転落した。以後、1979年4月期まで5期連続で経常赤字を計上する事態となった。繊維事業は構造不況の様相を呈し、コスト削減や人員削減といった対応では損失を吸収しきれない状況にあった。
鐘紡は赤字補填のため、一部繊維工場を閉鎖し、跡地を売却することで資金を確保した。これにより、経常赤字は年間100億円規模に達する一方、純利益ベースでは30億円前後に抑えられた。また、販売不振への対応として、本社から販社への押し込み販売が常態化し、「低稼働」と呼ばれる会計処理が黙認された。これらの対応は短期的な数値調整に寄与したが、後年の粉飾決算を許容する組織風土を形成する一因となった。
| 事業名 | 事業売上高 | 事業利益 | 人員数 |
| 繊維事業 | 3,308億円 | ▲116億円 | 13,961名 |
| 化粧品事業 | 544億円 | 64億円 | 12,111名 |
| 食品事業 | 255億円 | ▲1〜2億円 | 1,856名 |
| 薬品事業 | 約60億円 | ▲1〜2億円 | 1,023名 |
| 住宅事業 | 約80億円 | ▲1〜2億円 | 1,883名 |
鐘紡の場合、拡張路線を急ぐあまり何度か大きくつまずいたことは事実だ。詰めが甘いと言われても仕方がない面があったかもしれない。1968年以降の多角化路線は、従来の拡張主義とは根本的に遠い、経営安定化のための戦略だ。繊維の比重を軽くして市況変動の影響から脱出するのが狙いだった。
これもオイル・ショックに見舞われて誤算があったが、戦略が正しかったことは今も確信している。もし多角化していなければ、具体的にはもし化粧品を育てていなければ、鐘紡はオイルショックという不測の事態に何ら打つ手を持たなかったに違いない。
いま誤算の修正に必死に取り組んでいるところだが、経済全体がいまだに異常な事態なので現在のもたつきはある程度、理解してもらえると思う。異常事態が収束した後も、まだもたついているようだと経営は失敗だったと批判されても甘んじて受ける。
1975年に鐘紡は繊維事業の不振により無配に転落したことを受けて、工場閉鎖をより一層進める形となった。
1975年には3工場(京都・高砂・住道)を一気に閉鎖しており、繊維の生産量の調整を図った。それでも、繊維の市場悪化に対応できず、1979年には四日市工場を閉鎖した。
閉鎖対象となった工場は、1950年代の全盛期には1000名以上の従業員数を抱えていたが、生産合理化により300〜400名まで削減したもの、それでも収支は好転しなかったことを意味する。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 京都工場 | 京都府 | - | 1,331名 | 0名 |
| 高砂工場 | 兵庫県 | 1,475名 | 492名 | 385名 |
| 住道工場 | 大阪府 | 1,757名 | 494名 | 331名 |
| 四日市工場 | 三重県 | 1,320名 | 659名 | 428名 |
1982年に鐘紡は淀川工場(大阪府都島区)を閉鎖した。淀川工場は鐘紡の主力工場の1つであり、戦前は「東洋一」と言われた繊維工場であった。大阪市街地に位置する工場であったため、工場跡地を三井不動産と共同で「ベルパーク」として再開発することで、土地売却益を捻出した。
また、1986年には洲本工場(兵庫県淡路島)の閉鎖を決定した。鐘紡は洲本工場で全盛期に3,000名以上を雇用しており、工場閉鎖によって淡路島における雇用が失われることを意味した。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 淀川工場 | 大阪府 | 2,385名 | 1,380名 | 1,095名 |
| 洲本工場 | 兵庫県(淡路島) | 3,076名 | 1,200名 | 855名 |
1992年から1996年にかけて、国内の地方に残存する4工場を閉鎖した。対象は長野工場(長野市)、丸子工場(長野県上田市)、松阪工場(三重県)、西大寺(岡山県)であった。いずれも地方工場であり、地元自治体との雇用の関係で閉鎖が遅れたと推察される。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 長野工場 | 長野県 | 1,525名 | 558名 | 489名 |
| 丸子工場 | 長野県 | 1,541名 | 778名 | 579名 |
| 松阪工場 | 三重県 | 1,294名 | 474名 | 414名 |
| 西大寺工場 | 岡山県 | 1,998名 | 876名 | 555名 |
合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。
2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。
利益を重視することを訴えると同時に、労務費の削減にも着手しました。役員の削減や役員報酬のカットはもちろん、グループ企業も含め、労働組合員1万5000人の基本給を3年間、10%減らしたのです。実に厳しい決断でしたが、組合と粘り強く話し合ううちに、人員削減よりも全員で改革に挑もうと従業員は協力すると言ってくれました。
鐘紡の粉飾決算が露呈したことを受けて、会社解散が決定。繊維工場のうち売却に値しないと判断された4工場の閉鎖を決定した。対象は、浜松工場(静岡県)、大垣工場(岐阜県)、彦根工場(滋賀県)、出雲工場(島根県)であり、撤退判断が遅れた工場であった。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 浜松工場 | 静岡県 | - | - | 337名 |
| 大垣工場 | 岐阜県 | 918名 | 1042名 | 852名 |
| 彦根工場 | 滋賀県 | 836名 | 555名 | 451名 |
| 出雲工場 | 島根県 | - | - | 193名 |
1990年代後半までに、鐘紡は事業構成と財務構造の両面で深刻な歪みを抱えていた。化粧品事業は安定した収益を生み続けていた一方、繊維事業は構造不況から脱却できず、住宅・食品・医薬品といった多角化事業も十分な収益力を持たなかった。にもかかわらず、全社的な雇用維持が経営の前提とされ、不採算工場の閉鎖や事業撤退は慎重に扱われてきた。
この結果、事業部門間の赤字補填が常態化し、実態としての収益力と財務数値との乖離が拡大した。1999年頃からは、企業存続を優先する中で、販売子会社への押し込みや在庫の回転操作といった会計処理が黙認され、閉鎖的な組織風土のもとで是正されない状態が続いた。
2003年9月、鐘紡における粉飾決算が露呈し、同社は債務超過に転落した。財務情報に対する信頼は大きく損なわれ、経営陣は責任を問われる事態となった。長年にわたり経営に関与してきた伊藤淳二は同年に名誉会長職を退任していたが、構造的問題はすでに修復困難な段階に達していた。
2004年2月、主力取引銀行は産業再生機構の枠組みを活用した再生を決定した。再生計画では、化粧品事業の売却を前提とした事業再編、不採算事業の見直し、経営体制の刷新が柱とされた。経営責任を明確化するため、当時の社長を含む取締役全員が退任することが決定された。
再生計画の中核として、鐘紡は唯一の高収益事業であった化粧品事業を花王に約4,500億円で売却した。この譲渡益により過剰債務の整理が進められた。同時に、低収益が続いていた繊維事業では工場閉鎖と事業売却が実行され、浜松、出雲、大垣の各工場が閉鎖された。
化粧品および繊維を除く食品・日用品・薬品事業は、クラシエホールディングスに承継され、投資ファンド主導のもとで運営された。鐘紡は事業単位で分割・売却される形で再編され、単一企業としての歴史に幕を下ろした。
カネボウグループは、明治20年の設立当初より繊維事業を中心に営んできたが、食品、薬品、化粧品等、次々と事業の多角化を推進した。その結果、事業面については、収益力も事業特性も全く異なる事業群が一つの企業体の中に混在したことにより、全体としての競争力を失っていく結果となった。一方、財務面においても、事業部門間の相互もたれあいが続く中、過剰投資型負債と赤字補填型負債が膨らみ、過剰債務状態にある。さらに、組織運営面においても抜本的な変革が必要な状況にある。
このような状況のもと、対象事業者及びメイン銀行は、過剰な有利子負債を解消するとともに、経営戦略を抜本的に見直し事業の再生を図るべく、産業再生機構(以下、「機構」という。)に支援申込みをするに至った。
鐘紡は繊維事業を起点に事業領域を拡張し、化粧品事業では国内有数の売上規模とブランドを形成してきた。しかし1990年代後半以降、繊維事業の収益低下に加え、過去の投資負担が重なり、財務状況は悪化した。2003年には債務超過に陥り、金融機関や公的機関の関与を前提とした再建が避けられない局面に至った。
化粧品事業は当時も利益を生んでいたが、グループ全体の資金需要を支える規模には達していなかった。鐘紡は単独での資金調達や事業再編による再建を進める余地を失い、企業としての存続形態そのものが問われる段階に入った。事業を束ねたまま再生する選択肢は後退し、再建のためにどの事業を切り離すかが現実的な論点となった。
再建プロセスの中で、鐘紡は化粧品事業を中核に据えた独立企業としての存続を選ばなかった。資金確保の期限が明確であったことから、収益事業の売却を前提とした再建方針が固まり、化粧品事業はその対象として位置づけられた。2004年以降、事業譲渡を巡る調整が進められ、産業再生機構の枠組みの下で売却方針が確定した。
2006年、鐘紡は化粧品事業を花王へ譲渡する決定に至った。この判断は、化粧品事業の成長可能性を否定したものではなく、鐘紡が単独企業として事業群を維持する選択肢を放棄したことを意味していた。利益を生む事業を手放すことで資金を確保し、再建を成立させる道を選んだ結果、鐘紡の歴史は総合メーカーとしての継続から、事業解体を前提とした再生段階へと移行した。
2007年の株主総会でカネボウは解散を採択。カネボウは精算業務を行うために商号を「海岸ベルマネジメント株式会社」に変更。カネボウとしての歴史に終止符を打った