大丸が1960年代に三越を抜いて業界の首位に立てたのは、商品でも売り方でもなく、人の流れが変わる場所を先に押さえたからである。1952年に東京進出の建設地として選んだ東京駅八重洲口は、外堀の埋め残しに石と丸太が転がる荒れた裏口だった。そこへ国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて動き、1955年には東京駅の乗降客52万人の6割が通る場所へ変わった。京阪神の3店に東京のターミナル店を足した4店で、1965年2月期の総売上高492億5,400万円を積み、単位面積当たりの売上高では東京店と大阪店が業界で抜群と評された。
同じ選び方は、場所そのものが動いたときに逆へ働く。1972年の香港大丸は、コーズウェイベイの一等地で売場8万4000平方フィートを構えながら、地価の高騰で2店目を持てず、現地従業員420人に対し本社からの出向は7人にとどまった。国内でも1977年には2年続けて売上が伸び悩み、大手百貨店でただひとり減益を続けている。心斎橋も四条も元町も八重洲口も、都心型店であることが同時に弱点になった。会社は立地という他力に頼らず自力で切り抜けると構えたが、立地を選ぶ力で伸びた会社は、立地が沈むときに同じ速さで沈む。
1952年秋の東京では、日本橋高島屋と銀座松坂屋の増築が完成し、接収を解かれた松屋の再開も決まるなかで、戦前から機会をうかがっていた大阪勢が一斉に東京進出へ動き出していた。なかでも大丸が建設地に選んだのが、東京駅八重洲口だった。日本橋には三越・高島屋・白木屋が陣を敷いており、三越側は大阪式の商法が東京で通用するはずはないと構えながらも、対策に追われていたという。銀座では松坂屋が売場面積6000坪の銀座一の店となり、三越は1500万円をかけて外装を直し、台所用品売場をなくして専門店化へ舵を切っていた。池袋や新宿でも関西勢と電鉄各社の出店計画が交錯し、商戦は東京の主要ターミナル全域へ広がっていった。
1954年の株式評には、東京進出は大丸にとって大冒険であり当たるかどうかで今後の盛衰が決まる、産業全般の景気が後退している折で東京店の伸びは当面期待できない、という同社側の見方が伝えられている。それでも八重洲口の人の流れは急速に変わりつつあった。1955年には東京駅の乗降客が平日でも52万人に達し、その6割が八重洲口を使うまでになって、丸の内側を表玄関とする常識は崩れていた。進出当時の八重洲口は外堀の埋め残しで荒涼としており、目をつける者は少なかったが、大丸は国鉄がそこに12階建ての建物を計画していると聞いて動いた。当時の八重洲口は、駅の裏の入り口こそあったものの、埋めていない外堀の溝に大きな石や瓦、丸太が放り込まれた状態だった『いまこそ目抜通りといわれますが、あの当時には、まだ外堀の跡が埋めてないので、溝で、中には大きな石や瓦がほかってあったり丸太があったり、汚くてしょうがない』。
大丸が東京証券取引所へ株式を上場したのは、東京進出が報じられる前年の1951年11月20日である。上場時の資本金は3億6,000万円、発行済株式数は360万株で、店舗は大阪・京都・神戸の3店にとどまり、本店は大阪市南区心斎橋筋に置かれていた。1951年1月から7月までの百貨店売上高を比べると、三越88億9,823万円、高島屋77億4,100万円、松坂屋70億4,479万円に次ぐ第4位の57億7,065万円で、首位とは3割以上の開きがあった。もっとも売場1坪当たりの売上高では各期とも三越を上回っており、下回っていたのは販売員1人当たりの売上高のほうだった。戦前から機会をうかがっていた大阪勢の一角として東京へ出るとき、大丸が持っていたのはこの規模と効率だった。
大丸が東京店を開設して関東へ進出したのは1954年のことである。その2年後の1956年2月には、東京進出が大成功であったというのは表面上のことにすぎないと評されている。東京進出によって従来の経営の癌となっていた過剰人員の吸収には成功したが、その反面で地代家賃と金利の負担が増大し、東京店の売上を拡大するために宣伝費を多く支出する状態に置かれていた。東京店の百貨店としての立地条件もまだ固まっておらず、日本橋での三越本店の拡張と白木屋の若返り、十合の有楽町駅前進出、阪急の数寄屋橋への都心進出が控えるなかで、銀座一帯の競争激化に東京店だけが安閑としていられる状況ではなかった。
1962年、大丸は売上高で三越を完全にリードした。三越の旧態依然ともいえる堅実経営に対し、大丸は老舗らしからぬ清新な積極経営を展開していると受け止められ、京阪神に3店を持つ強みと、東京にターミナル店として恵まれた立地を得たことが、その理由に挙げられた。首位は一度きりで終わらなかった。1965年2月期の総売上高は492億5,400万円に達し、業界第1位を連続して守っている。単位面積当たりの売上高は、特に東京店と大阪店が抜群だった。大丸が三越と小売業の売上日本一を争ったのは、この1960年代のことである。
首位を争っていたのと同じ時期に、大丸は日本の外へも店を出した。1960年7月30日に香港大丸百貨店有限公司を設立し、同年11月3日に香港島のコーズウェイベイ地区、パターソン街で開店している。資本金は300万香港ドル、出資比率は大丸が55%で、残りは香港でも大手に数えられる不動産業者の錦興置業公司が持った。売場面積8万4000平方フィートは現地最大のチェーンストアの約2倍にあたり、1階正面から2階へ通じる階段は東京のデパートと同様の豪華さだと現地で評された。1961年6月には、のちに大丸の取締役となる伊藤暹が総支配人に就任している。人の流れが変わる場所を先に取るという国内での選び方を、そのまま外の都市へ当てた形である。
進出から12年を経た1972年になっても、香港大丸は1店のままだった。支店を増やせなかった理由は、とくに大陸側での土地取得が困難なことにあった。30年前に50万人程度だった香港の人口は9倍の450万人まで増え、香港政庁の大きな歳入源が土地の売却と賃貸しであったため、地価の高騰が続いていた。人の面でも制約があった。現地従業員420人と店内出店企業からの派遣社員80人に対し、大丸本社からの出向社員は7人にすぎず、日本式のサービスを求めるには数が足りなかった。取扱商品の35%は日本からの輸入品で、円が再び大幅に切り上げられれば仕入先を日本以外に移さざるを得ない状態にもあった。
国内では、1970年代の初めに大丸と松坂屋が業務提携を結んでいる。同じ時期に伊勢丹と松屋も提携した。1973年にはダイエーが売上高で初めて三越を抜いて小売業のトップとなり、百貨店業界が曲がり角を迎えていた。1975年時点の大丸は三越と並ぶ大手とされ、松坂屋との提携を強化し東急百貨店とも接近するなど、グループ化に力を注いでいた。松坂屋の側も、大丸との業務提携で成果をあげていると評されている。1975年2月期の総売上高は、大丸が前年比10.7%増の1,677億1,900万円、松坂屋が同15.5%増の1,124億4,804万円だった。だがこの提携は、双方とも具体的な成果を出せないまま自然解消した。
1977年、大丸は2年間にわたって売上が伸び悩み、大手百貨店の中でただひとり減益を続けていた。大阪をはじめ京都・神戸と直営店の多くが典型的な都心型店で、立地的な環境の悪化が業績低迷の大きな要因になっていた。大丸は立地環境の変化を認めたうえで、他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜ける方針を掲げ、経営体質の転換によって1978年度から売上・利益とも健全な姿へ戻す計画を置いた。この方針を社外へ示したのは、創業家から出た当時の副社長、下村正太郎だった。1960年代まで三越と小売業の売上日本一を争った大丸の成長力が大きく鈍化した原因は、のちに店舗の立地条件の悪化に求められることになる。人の流れが変わる場所を先に取るという同じ強みが、流れが引いたあとは同じ速さで裏返った。
立地で伸びた会社が立地で止まったとき、大丸はもう一度立地で取り返そうとして失敗した。1983年4月末に約500億円を投じて開いた梅田店は、心斎橋店と東京店の大幅改装と重なって売上を押し上げず、1984年2月期に戦後初の赤字を招く。八重洲口のときは国鉄が建てる建物へ入り、人の流れが変わる前に場所を押さえた。梅田店はその逆で、すでに大阪の中心になっていた場所へ、自前の巨費を後から投じる出店だった。同じ会社が同じ手を打ったつもりで、順番だけが入れ替わっていた。
次に大丸が試したのは、店ではなく仕入れを他社と組むことである。1994年12月に始めた三越との業務提携は共同配送から自主企画商品の開発まで広がったが、共通する64社の重点取引先との交渉は2社が別々に続き、粗利益率は25〜26%台から5年で1ポイントも動かなかった。1997年に社長となった奥田務が変えたのは相手ではなく指標だった。香港・タイ・フランスからの撤退と和歌山店の閉鎖、746人の希望退職を進めたうえで、1999年度上期に売上至上主義を捨てて利益第一主義を掲げる。売上を追わないと決めた期に、営業利益は前年同期の3.4倍になった。
1981年末の時点で、大丸の主力店舗はほぼ軒並み立地条件を悪化させていた。大阪店のある心斎橋はかつて大阪を代表する繁華街だったが、ここ数年はキタとミナミの発展に取り残された形でジリ貧になっていた。京都の四条通りにある京都店、神戸・元町の神戸店、東京駅八重洲口の東京店も、程度の差こそあれ同じことがいえる状態にあった。4年前に大丸が掲げていたのは、立地という他力に頼らず自力で低成長時代を切り抜け、1978年度から売上・利益とも健全な姿へ戻すという方針だった。だが4年後にも、成長鈍化の理由として挙げられたのは、依然として店舗の立地条件の悪化だった。
立地の悪化に対して大丸が打った手は、新しい立地へ店を出すことだった。1980年時点の会社評は、同年3月に須磨店を開店し、秋には国鉄芦屋駅ビルへ出店し、1983年春に国鉄大阪新駅ビルへ大型店を出すと記している。海外でもシンガポールとタイ2号店の出店計画を進めるなど、積極拡大策をとっていると評された。国内の店舗は1954年の東京復帰の後に町田・和歌山・新長田へ広がり、各地に関係百貨店10社が設立されていた。1983年4月末、大丸は約500億円を投じて梅田店を開設する。この開業を実質的に率いたのは当時営業畑を歩いていた奥田務で、社内では大冒険と呼ばれた。
1984年2月期、大丸は戦後初の赤字に転落した。前年4月末に約500億円を投じて開いた梅田店に加え、大幅に改装した心斎橋店と東京店の売上が予想外に不振で、売上高は4,681億円と前年同期比7.7%の微増にとどまったのが最大の原因だった。大阪新店への投資が重荷になることは、その2年前から指摘されていた。30年前に東京駅八重洲口へ出たときは、国鉄が12階建ての建物を計画していると聞いて、荒れた裏口だった土地を先に押さえている。梅田店はその逆で、すでに大阪の中心になっていた場所へ自前の巨費を後から投じる出店だった。
同じころ、名古屋の松坂屋は逆に拡大へ動いていた。1991年、直営店を2000年までに5店増やして14店にし、グループ年商を1990年度の6,500億円から1兆3,000億円へ拡大する長期計画を発表している。同年11月には12年ぶりの新店となる10店目の四日市店を開設し、80億円をかけて銀座店を大改装し、名古屋本店に南館を新設して売場面積日本一を達成した。1991年5月に社長となった齋藤喜幸は、積極出店とざん新な売場作りによって冒険のできる体質へ変えることを自らの役割としていた『これまでは石橋をたたいても渡らなかったが、今後は十分たたいた上で渡る』。2年後に社長を継いだ伊藤旺が最初の課題に置いたのは、批判にさらされて自信を失いつつある社員に自信を取り戻させることだった。
大丸が選んだのは店を増やすことではなく、仕入れを他社と組むことだった。1994年12月、大丸は三越と本格的な業務提携を結ぶ。もともとは商品の配送面での協力から始まった計画が膨らみ、自主企画商品の開発や海外製品の買い付け、共通の取引先との関係強化といった商品政策にまで及ぶ提携になった。提携を決めた時期は、バブル経済崩壊後の消費の減退で業績回復の見通しがまったく立たないころと重なっていた。価格破壊を売り物にしたディスカウンターが台頭し、安売り店を集積したパワーセンターも現れて、競争は百貨店どうしの枠を超えつつあった。百貨店は合併しても購買力が飛躍的に高まるわけではなく利点が少ないため、大丸は提携にとどめ、単独資本での生き残りを選んだ。
提携から2年半が過ぎても、売上総利益率は動かなかった。両社の粗利益率はともに25〜26%台で、少しずつ改善してはいたが5年間で1ポイント以下にすぎない。原因は、共同企画や共同仕入れが取引条件の一本化にまで踏み込めていないことにあり、共通する64社の重点取引先との仕入れ交渉は2社が別々に行っていた。共同開発した商品では40〜50%の粗利益も期待できたが売上高に占める割合が小さく、売れ行きのよい海外ブランドは派遣社員に売場管理を任せることもあって20%強の粗利にとどまり、共同開発の効果を吐き出していた。1997年2月期の大丸はわずかな減収で売上高5,080億円、経常利益は前年比55%増の49億円まで回復したが、その大部分は人件費などの経費削減によるものだった。
1997年3月、奥田務が大丸の社長に就任した。1964年3月に慶應義塾大学法学部を卒業して同年4月に大丸へ入社し、30代前半の係長時代にニューヨークへ社費留学して、卒業後は高級百貨店のブルーミングデールズで研修を積んでいる。1991年に開業した大丸オーストラリアでは準備期間から社長時代まで7年を過ごし、1995年に帰国した。社長就任の後、香港・タイ・フランスからの撤退、直営の和歌山店の閉鎖、希望退職者の募集を矢継ぎ早に打ち出す。希望退職では1998年12月30日に746人が退職した。老舗でおっとりした社風で知られた会社だけに、社内からの反発もあった。
改革の根拠になったのは顧客調査だった。伝統がある、一流のイメージ、サービスがよいという項目で大丸の評価は高かったが、買い物が楽しい、ファッションに強い、親しみを感じるという項目では若い女性を中心に評価が低かった。歴史的に各店がそれぞれ独自の営業活動を行ってきた結果、全体としての企業イメージが不鮮明だという課題も出ている。大丸は重点対象顧客層を50代を中心とする中年女性と20代後半を中心とする若い女性の2つに絞った。人の配置も変えた。社員約7,000人のうち半分の約3,500人が管理職・準管理職で、管理職に人件費を取られて販売員や外商係員に回らない状態にあり、組織を細くして販売員を増やし、成績を上げた販売員へ報酬を出す仕組みへ改めた。
1999年度からの3年間、大丸は売上高を下げる計画を立てた。1999年から2001年度の中期経営計画は、最終年度の単体売上高を4,100億円、営業利益を80億円、粗利益率を28.0%と置いている。売上高を低く設定したのは、商務事業部と装工事業部の切り離しと和歌山店閉鎖という特殊要因に加え、徹底した利益志向と効率経営の追求を目指したためだった。1999年度上期、大丸は売上至上主義から利益第一主義へ経営方針を大きく転換する。中間期の営業利益は前年同期比236.4%増の30億円、売上総利益率は27.26%と0.96ポイント改善して過去最高の水準になった。外商も、23万口座を販売員1人あたり約200口座で抱える体制から1人70〜100口座へ絞り込む方向へ変えた。売上の日本一を争った会社が、売上を追わないと決めた期から数字が戻り始めた。
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|---|---|---|---|---|
| 2000〜2026年大丸と松坂屋の経営統合、パルコの完全子会社化と百貨店の再編 | 奥田務 | 両社を束ねる共同持株会社J.フロント リテイリングの設立 2007年3月、百貨店4位の大丸と8位の松坂屋ホールディングスが経営統合の検討で合意し、同年9月3日、株式移転による共同持株会社J.フロント リテイリングを設立した経営判断。両社を傘下にぶら下げ、売上高1兆円超で百貨店業界の首位級に立った。大丸会長兼CEOの奥田務氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 奥田務 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 奥田務 | 松坂屋HDを吸収合併 | ★★ | ||
| 茶村俊一 | 大丸松坂屋百貨店を設立してブランド統合 | ★ | ||
| 茶村俊一 | 茶村俊一が代表取締役社長に就任(奥田務は代表取締役会長兼最高経営責任者へ) | ★ | ||
| 茶村俊一 | パルコを子会社化 | ★★ | ||
| 山本良一 | 山本良一が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 山本良一 | ピーコックストアを譲渡 | ★ | ||
| 山本良一 | 千趣会の株式を取得 | ★ | ||
| 山本良一 | 錦糸町PARCOを開業 | ★ | ||
| 山本良一 | GINZA SIXを開業 | ★★ | ||
| 山本良一 | 千趣会を持分法適用関連会社から除外 | ★ | ||
| 山本良一 | 新生渋谷PARCOを開業 | ★ | ||
| 山本良一 | 公開買付けと株式売渡請求による、親子上場という状態の解消 J.フロント リテイリングが、すでに所有持分64.98%を握る上場子会社パルコの残る持分を買い取り、完全子会社とした経営判断。2019年12月27日から公開買付けを実施し、2020年2月25日に31.45%を追加取得して590億円を非支配株主等へ支払い、所有持分は96.43%となった。残る3.57%は同月27日の株式売渡請求により取得し、パルコは2020年3月に完全子会社となった。山本良一氏(代表執行役社長)のもとでの決定である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 好本達也 | 好本達也が代表執行役社長に就任 | ★ | ||
| 好本達也 | コロナ禍で初の純損失に転落 | ★★ | ||
| 好本達也 | 有利子負債の大規模削減を開始 | ★ | ||
| 好本達也 | J.フロント都市開発を発足 | ★ | ||
| 好本達也 | XENOZを買収しeスポーツ事業に参入 | ★ | ||
| 好本達也 | FY23:百貨店事業が過去最高水準に回復 | ★ | ||
| 小野圭一 | 小野圭一が代表執行役社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(J.フロント リテイリング)