明治6年に片倉兼太郎氏(当時24歳)は、諏訪川岸村(長野県)において「10人繰りの座繰製糸」の事業を開始。片倉組(現・片倉工業)を創業した。
前年(明治5年)に明治政府が群馬県に官営の富岡製糸所を新設し、洋式機械を導入して生産を合理化し、生糸を輸出産業として育成することを意図していた。このため、片倉兼太郎氏も生糸の産業化に、民間として携わることになった。
片倉組は、近代的な製糸所を養蚕の産地に新設することで量産に着手。明治23年には松本市内に製糸所を新設し、生糸生産の近代化を志向した。なお、明治時代の信州地区では、桑の葉の生産に適した土地であっため養蚕が盛んとなり、これらの蚕を農家から集荷して生糸を生産する「製糸所」が発展する素地となった。
明治時代を通じて片倉組は「大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分」など、全国各地に製糸所を新設することで、製糸メーカーとして業容を拡大。大正時代には全国に製糸所29箇所を運営しており、大手製糸メーカーへと発展した。
販売面においては、輸出が中心であった。生糸は高級品であったため、国内消費量は少なく、主に米国などの海外に輸出された。これらの生糸は主に「婦人用靴下」の原料として利用された。
企業規模の拡大を受けて、組織を近代化するために1920年に株式会社として片倉製糸紡績(現・片倉工業)を設立した。会社発足時点で片倉製糸は製糸業界における有力企業であり、戦前の日本国内では「グンゼ」と「片倉製糸」の2社が大手製糸会社として認知された。
会社発足後の片倉製糸は、国内各地に点在していた中小規模の製糸メーカーを買収することで生産量を拡大した。集約過程で買収した1社が旧官営富岡製糸所(現在は世界遺産に指定)であった。
戦前の1932年時点における片倉製糸は、従業員数3.8万名、製糸所62箇所を要しており、大企業として発展した。このため、当時の片倉製糸は「片倉王国」と呼ばれ、創業家である片倉家は「製糸王」「世界のシルク王」と形容された。
1950年代前半に合成繊維(ナイロン)が普及し、高価な天然繊維である生糸の需要が減少。従来の生糸の主な用途は婦人用靴下であったが、安価なナイロンに代替された。日本国内では東レがナイロンの量産を本格化しており、急成長を遂げていた。
一方。需要を喪失したことで、片倉工業は販売不振に陥った。1954年度および1955年度にかけて、片倉工業は2期連続の赤字(無配)に転落し、名門企業の凋落として注目された。
当社は製糸業界のトップメーカーで製糸業が輸出産業の花形だった時代には「カタクラ・シルク」の名声を内外にとどろかせた。しかし戦後、生糸は合繊に浸食され特に婦人靴下がナイロンに押されて斜陽化したことから、往年の面影も薄れ、生糸部門の大幅合理化と、一連の多角化政策を推し進めざるを得なかった。
すなわち、1954年無敗に転落以後、生糸工場の集約化・合理化を進める反面、生糸部門の不安定さをカバーするため新規事業にも積極的に進出した。
片倉工業は生糸の販売不振を受けて、生産の合理化を実施。全国に点在する不採算工場の閉鎖・集約を本格化した。これらの集約撤退は、1990年代に熊谷工場を閉鎖して生糸生産から撤退するまで、約40年間にわたって段階的に実施された。
生糸の販売不信を克服するため、肌着への参入を決定。まずは、婦人用靴下の製造に参入するため、1954年に子会社として片倉ハドソン靴下を設立。1960年にはメリヤス肌着事業を展開し、婦人服の領域に本格投資した。
生糸部門における合理化の遅れと、新規事業として推進した合繊繊維(ビニロン)の事業化失敗により業績が悪化。1969年12月に無配に転落した。
片倉工業は本業の繊維業が不振でありつつも、埼玉県の大宮など一等地に工場を保有していた。このため、保有資産(工場用地を中心に33万坪を保有)に対して株価が割安と判断した投資家が片倉工業の株式の買い占めを実施。香港系の投資家が片倉工業の株式を10%前後保有したことで、話題を呼んだ。
肌着事業の国内生産を縮小するため、韮崎工場および白石工場を休止
大宮の工場跡地(社有地12.6万m2)をショッピングセンターとして再開発を実施。2004年に「カタクラ新都心モール(現コクーンシティ)」として開業した。コクーンの名称の由来は「繭」であり、生糸に関連する命名を行っている。
立地がJRさいたま新都心駅(2000年開業・高崎線・宇都宮線・京浜東北線が停車)に近く、集客力を持つ商業施設として注目を浴された。以後、コクーンシティは片倉工業における不動産事業(賃貸収入)に貢献する事業となった。