永谷嘉男氏は、お茶を取り扱う老舗「永谷園」の家系に生まれた10代目であった。由緒ある家系であったが、世間一般において「永谷園」の名前は無名の存在だった。
1952年に永谷嘉男氏は、父親が手掛けていた食品加工の技術を応用して「お茶漬け海苔」を開発。個人事業として販売したところヒットした。これを受けて、食品加工業への本格参入を決意した。
創業当初は、お茶の販売店を通じて「お茶漬け海苔」を提供する販路を開拓したところ、顧客に対してはお茶の販売店を介して、口コミで評判が広まっていったという。
1953年に永谷嘉男氏は株式会社として「永谷園本舗」を設立した。社名に「本舗」をつけた理由は、永谷園だけでは規模が大きい印象がないため、「本舗」の名をつけることで規模の拡大を意識したという。
これを前後して百貨店への売り込みを開始した。お茶漬け海苔は製造が簡単なために、類似品が出回ったため、永谷園本舗としては百貨店販路を開拓することで売り上げの拡大を目論んだ。
当初、百貨店は無名企業の「永谷園」を相手にしなかったが、街中でお茶漬け海苔の評判が高まるにつれて、百貨店は取引を決定した。ただし百貨店は、中小企業であった永谷園との取引破綻リスクに備えるため取引条件をつけた。それは、永谷園が問屋に製品を納入し、問屋が百貨店にお茶漬け海苔を納入することであり、永谷園は問屋を仲介した取引関係に従った。
他社との差別化を図るため、なんとしても百貨店で販売したい。それが実質的なマーケティング戦略となり、企業の信用度を増す結果になると考え、百貨店重点販売を最優先しました。しかし販売力のある百貨店は無名メーカーとはなかなか直取引してくれませんね。ですのである海苔問屋さんの帳合を借りて東京のほとんどのデパートに納入したわけです。非常によく売れましてね。販売先がどんどん拡大していき売上も増大して大変喜んでいたんです。
ところが、大きな障害が出てきました。
1954年に永谷嘉男氏は、お茶漬け海苔について「永谷園」という社名を全面的に打ち出すブランド展開を決め、ブランド形成を経営の最重要課題に据えた。以後、永谷園は広告宣伝費への積極投資を開始した。
商品をはっきりと差別化するものはブランドでなければいけないということを身をもって体験しました。私の経営の基本はそこからスタートしたといえます。この事件が契機となりブランドメーカーになろうと一大決心をして一つの方向性を定めました。
1954年頃に、永谷園と百貨店向けの販売で取引していた問屋が「お茶漬け海苔」を内製化したため、永谷園は百貨店との取引縮小を余儀なくされた。取引先の問屋が競合に寝返ったことで、永谷園には大量の「お茶漬け海苔」の在庫が発生して経営危機に陥った。
当時、永谷園はお茶漬け海苔をブランドなしの「江戸風お茶漬け海苔」として販売しており、消費者としても「永谷園の製品である」ことは気にかけていなかった。このため、永谷嘉男氏はブランド戦略の失敗を猛省し、以降は「永谷園」のブランドとしてお茶漬け海苔を販売するようになった。
非常によく売れるものですから、帳合先の海苔問屋さんが欲を出して全く同じ商品を生産して、自分のところでお茶漬け海苔の販売を開始したのです。それまで百貨店販売を最優先政策にしてましたので、ある日から納入ゼロとなり生産過剰の窮地に追い込まれてしまったのです。
(略)
大変厳しい状況でしたね。しかし、この一件が私の経営の考え方に一大転機を与えました。つまり今まで正常な取引をしていたところが、ある類似品ができたために取引を中止するということは、この先いろいろな商品を開発し、販売していく過程で同様な事態が起こる可能性があると考えたのです。加工食品というものはパッケージがかぶっていれば、商品間の差別化ができるが、一旦、パッケージをとってしまうと差別化ができにくい商品であるということに気づきました。昭和29年のことでした。
1963年に永谷園は、販売政策の大転換を決定した。西日本地区は三菱商事、東日本地区は東食に、永谷園の製品の一手販売を任せる方針を決めた。当時は「問屋不要論」が囁かれており、時代に逆行した販売政策として懐疑的な意見もあったという。
永谷園は中小企業であり、販路を自力で開拓するのではなく、問屋の力を借りるのが有効であると判断したものと推察される。また、取引先を大手2社に絞ることによって、問屋間の競争による乱売の防止という目論見があったと思われる。
総販売元の三菱商事と東食が競合しないように日本列島を箱根あたりで2つに分け、西は三菱商事、東が東食のテリトリーとしている。その下に全国を10ブロックに分け、ブロックごとに特約店制度を敷いている。特約店の下に二次店、小売店があるという販売組織だ。商社をたくさん起用して競争させるという方法もあろうが、これには問題がある。競争が激化すると乱売になり、値崩れを起こす恐れもある。やはりきちっとマーケット管理をやり、整然と売るのが、メーカーにも流通業者にも良いことだと考えている。
1974年に永谷園はインスタントみそ汁「あさげ」を発売し、製品の多角化を志向した。1970年代以降は、スープ類(みそ汁)に加えて、中華(麻婆春雨)、すし太郎など、お茶漬け海苔以外のヒット製品を生み出すことを売上高を拡大した。
なお、みそ汁に関しては、1979年までに全社売上高の約25%を構成する主力製品に育った。製品の多角化によって、お茶漬け海苔への依存比率を低下させていった。
1980年に永谷園は生味噌タイプの味噌汁「あさげ」を発売する方針を発表した。テストマーケティングの地区として静岡と広島を選定し、生産委託業者を選定して、特約店向けに説明会を開くなど、本格進出に向けて動き出した。
これに対して、全国味噌工業協同組合連合会は、大手食品メーカーの参入は好ましくないとして反対声明を出した。味噌業者は自らの既得権益を守るために牽制した。
しかし、永谷園は開発を継続して1985年に生タイプの味噌汁を発売した。
ご存知のように、この業界は1000億円余りの市場に約2000社の企業がひしめいているという過当競争の業界です。大手と言われるところでも、シェアはせいぜい4〜5%。零細企業も非常に多い。そんなところへ永谷園さんのような大手企業が参入してきたらシェアを奪われることは確実ですし、中小企業にとっては死活問題です。のみならずこれが引き金となって、大手企業が今後どんどん進出してくる可能性がある
1981年に永谷園はロングセラーとなる「麻婆春雨」を発売した。通常の春雨は「でんぷん」を原料にしているが、永谷園は「台湾産緑豆」を原料にすることで歯応えのある食感を実現し、ヒット商品に育った。
それまでの永谷園はドライ製品(フリーズドライのみそ汁・お茶漬け海苔・ふりかけ)に偏っていたが、中華などのジャンルを問わないウェット商品にも本格参入した。
ただし、1980年代以降の加工食品は、競合の大手食品メーカーも相次いで参入した。このため、永谷園は厳しい競争の中で「麻婆春雨」に次ぐロングセラーの開発に邁進した。
現在の当社の商品構成を見るとブランドのイメージが和風に偏っているきらいがあります。これだけ世の中が洋風化、多様化されている中で、和風、ドライの商品だけでを生産しているのはブランドの展開という意味からすると、非常に狭い範疇にいますね。もっと広くブランド展開を図る必要があります。それには世の中の時流である洋風の分野にも参入すべきであるし、また、ドライ商品だけでなくウェット商品の開発にも力を入れる必要があると思います。
1982年4月期に永谷園は、売上高402億円・経常利益42億円を計上し、食品メーカーとして急成長を遂げた。1983年には東京証券取引所第1部に上場市場を変更した。
1997年4月から日本国内でポケモンのアニメ放送が開始され、社会現象となるヒットを記録した。これを受けて、永谷園はポケモンとタイアップして「ポケモンふりかけ」を発売するとともに、テレビCMを大規模に展開した。
この結果、永谷園が展開したポケモンとタイアップした商品がヒットを記録し、ポケモン関連商品の年間売上高は58億円に達した。また、若者向けにテレビCMを展開した「お茶漬け・みそ汁」などの主力商品も売上高が大幅に増大した。1998年3月期に永谷園は、広告宣伝費の増加をカバーし、売上高610億円(前年度+71億円)・経常利益26億円(前年度+7.5億円=過去最高収益)を達成した。
なお、永谷園はテレビCMを中心とした広告宣伝で重視し、1999年3月期には広告宣伝費50億円(うちテレビCM向け予算が90%)を投じるなど、広告宣伝費への集中投資を継続した。
2016年12月に永谷園は英国のフリーズドライ食品メーカーBroomco Limitedを約150億円で買収すると発表した。永谷園にとっては巨額買収のため、産業再生機構と共同でBroomcoの株式を取得するスキーム取り、永谷園が100%の株式を取得した後に産業再生機構に40%の株式を譲渡した。このため、永谷園の買収負担額は約90億円となった。
ただし、永谷園が一時的に株式の100%を取得する現金が必要になることから、三菱UFJ銀行が約150億円の短期融資(返済期限2017年5月・一括返済)を行なっている。
永谷園の狙いは海外事業の拡大にあった。国内市場では売上拡大が困難と判断し、単独進出した海外事業も成長に乏しかったため、買収という選択肢を決めた。
Broomcoは、野菜や果物のフリーズドライを手掛けており、フリーズドライの技術を取得する目的もあった。加えて、Broomcoは米国など世界各国への販路を持っていた。このため永谷園としては、海外における日本食ニーズの増加に対応した。
2021年に永谷園HDは生産体制の再編を開始した。まずは1975年に稼働した茨城工場について、2024年までに高萩市内に新設予定の工場へ生産を移管する方針を決定した。
続いて、永谷園は複雑化していた生産子会社の再編を実施。日本国内における生産体制を整理するために、連結子会社7社について、永谷園HDが100%出資する子会社「永谷園フーズ」に吸収合併した。合併後、永谷園フーズは日本国内に6拠点(酒田工場・サンフレックス工場=茨城県いわき市・茨城工場・松本工場・オクトス工場=三重県松坂市・岡山工場・岡山御津工場)の工場を運営する形となった。
なお、永谷園からの発表はないが、これらの工場の閉鎖を含めた再編が予想される。