第二次世界大戦中に日本政府は「戦時統制令」に基づき、国内の水産会社における陸上部門(工場・倉庫)について、1社に統合する方針を決定。これにより、食糧の安定供給を目的とした国策会社として「帝国水産統制株式会社(現ニチレイ)」が発足した。出資者は大手水産会社(日本水産・マルハニチロ)などであり、全国各地に点在する約220カ所の冷凍工場(製氷・冷蔵・冷凍)を継承した。
なお、いずれの工場も、各地の冷凍工場は地方の中小企業が発祥であり、業界再編の過程で大手水産会社に取り込まれる形となった。このため、大手水産会社の陸上部門を集約して発足したのは事実だが、事業的な根源は「大手水産会社に買収された中小企業(製氷会社など)群」にある。
事業面においては製氷事業が主力であった。1940年代の国内は冷蔵庫は普及しておらず、結果として鮮魚の鮮度を保つための製氷のニーズが強かった。このため、地産地消が基本となるため、全国各地の主要港に製氷工場を擁し、1950年代までは国内トップの製氷会社でもあった。
ただし、1945年の終戦によって国策会社が解体される風潮が強くなるが、帝国水産統制は引き続き事業を継続する方針を決定。そこで。1945年12月に商号を「日本冷蔵株式会社(1985年に商号をニチレイに変更)」に変更し、民間企業として存続する道を模索した。
戦時中から終戦直後において、ニチレイの事業内容は「倉庫業(魚の冷蔵保管)」及び「水産物の加工」であり、水産会社の下請けという位置づけであった。
なお、民間企業として存続する上で、1949年に東証に株式上場をすることで日本水産などの大株主との資本関係を整理。特定の水産会社の系列企業ではなく、独立系の倉庫・水産加工会社として存続する道を選択した。
全国170カ所に工場を持ち、これが全国的に分散されているために地域的危険が分散されることになり、多角経営と相まって経営の安定性をもたらしている。なお、当社は製氷部門を中心に業界に、半独占的地位を占めているので、毎期安定した収益を挙げているのである。
1951年に木村幸鉱二郎氏(戦時中に日本水産から帝国水産統制に転籍)がニチレイの社長に就任。事業経営について「水産物の保管・加工」という業態を疑問視し、ニチレイを総合食品メーカーに発展させる方向性を決定。水産物に限らない加工食品の展開を本格化させた。
1970年までにニチレイは食品事業において「水産食品・冷凍食品・煉製品食品(ハム・ソーセージなど)、缶詰、畜産食品」の5つの事業を展開した。このため、1950年代の時点では「食品事業のどこに注力するか」という観点は定まっていなかった。
ニチレイは1961年度から5ヵ年の経営計画「総合5カ年計画」を開始し、5年で累計170億円の投資を決定。事業別の内訳は、主力の冷凍関係に80億円の投資に対して、成長途上にあった食品へ90億円を投資する方向を打ち出した。
すなわち、売上高で主力を占める冷凍ではなく、将来の成長を見込んで食品に傾斜投資する方針を鮮明にした。
設備投資の中心は食品工場の新設であった。1950年代を通じてニチレイは加工食品(缶詰・冷凍食品)に参入していたが、いずれも小規模な工場で生産しており、本格展開には至っていなかった。展開地域も全国に分散しており、品目別に工場がわかれる状態であった。
そこで、ニチレイは総合5カ年計画における食品事業への投資において、船橋(千葉県)に食品工場を新設することを決定。消費地に近い首都圏において「ハム・ソーセージ・加工食品・缶詰」など、あらゆる加工食品を生産する総合食品工場を志向した。
1970年までに加工食品の領域ごとに「好調と苦戦」が鮮明となった。
水産食品については、冷蔵事業で取り扱う関係から商社的なビジネスが中心であり差別化が難しいことから、「味付けたこ」など加工による付加価値をつけた製品を展開。ただし競争優位の確立は難しい状況であった。缶詰についても、マグロなど水産物の加工的利用を図ったが、競合の「はごろもフーズ」が展開するブランド「シーチキン」のようなマーケティング訴求ができずに失速。煉製品についても、ハム・ソーセージを中心に展開したが、1960年代に専業のハムソーメーカーの台頭により競争が激化した。このため、畜産製品は練り物ではなく、ブロイラーに転換して存続を図った。
一方、冷凍食品については、1980年代までは家庭用の市場が小さかったこともあり、ニチレイは業務用を中心に展開。低温物流の設備が未熟だった時代に、ニチレイは物流網を自社保有したことで優位性を確保した。
このように1960年代を通じて5つの食品分野を展開した結果、「水産物・練製品・缶詰」については競争激化に直面したが「冷凍食品」ではパイオニアとしての地位を確保した。このため、ニチレイの総合食品メーカーの路線は、1970年代以降、冷凍食品を中心に展開することが規定路線となった。
1960年代を通じて加工食品が売上成長を果たし、利益面でも「冷凍事業56%:食品事業46%」の水準に達した。これにより、加工食品が投資回収のフェーズに入ったことを受けて、ニチレイは再び冷凍事業に十分な投資を実施できる体制に移った。
このため、1970年代以降もニチレイは「冷蔵倉庫・加工食品」への投資する方針を継続した。このため、税引前利益よりも多くの金額を設備投資に充当し、不足する投資資金は銀行からの借入調達により工面した。
この結果として、総資産に占める借入金の比率が増大し、40%台〜50%台という高水準で推移した。ニチレイは借入調達による積極投資で売上成長を志向した経緯から、1970年代以降は財務体質が悪化するという代償を払う形となった。
ニチレイは1942年の会社発足時に全国各地の倉庫を継承しており、結果として1980年代の時点で全国に小規模な不動産を保有する状況であった。ただし、周辺地域の宅地開発が進んだ結果、旧来の倉庫および工場は拡張が困難な状況となり、閉鎖が検討された。
そこで、ニチレイでは東京都内の旧明石工場など、不動産価値の高い地域についてはオフィスとして開発することを決定。引き続き土地を保有することで、オフィス賃貸による不動産収入を確保する方向性を決定した。優良な土地は東京都内の湾岸地区に点在しており、旧明石町工場(約4200㎡)・勝鬨橋工場(約4600㎡)・東京工場(約6100㎡)・湊ビル(約650㎡)などの4カ所に及んだ。