1942
12月

帝国水産統制株式会社を設立

戦時中の水産統制により会社設立

第二次世界大戦中に日本政府は「戦時統制令」に基づき、国内の水産会社における陸上部門(工場・倉庫)について、1社に統合する方針を決定。これにより、食糧の安定供給を目的とした国策会社として「帝国水産統制株式会社(現ニチレイ)」が発足した。出資者は大手水産会社(日本水産・マルハニチロ)などであり、全国各地に点在する約220カ所の冷凍工場(製氷・冷蔵・冷凍)を継承した。

なお、いずれの工場も、各地の冷凍工場は地方の中小企業が発祥であり、業界再編の過程で大手水産会社に取り込まれる形となった。このため、大手水産会社の陸上部門を集約して発足したのは事実だが、事業的な根源は「大手水産会社に買収された中小企業(製氷会社など)群」にある。

事業面においては製氷事業が主力であった。1940年代の国内は冷蔵庫は普及しておらず、結果として鮮魚の鮮度を保つための製氷のニーズが強かった。このため、地産地消が基本となるため、全国各地の主要港に製氷工場を擁し、1950年代までは国内トップの製氷会社でもあった。

日本冷蔵として存続へ

ただし、1945年の終戦によって国策会社が解体される風潮が強くなるが、帝国水産統制は引き続き事業を継続する方針を決定。そこで。1945年12月に商号を「日本冷蔵株式会社(1985年に商号をニチレイに変更)」に変更し、民間企業として存続する道を模索した。

戦時中から終戦直後において、ニチレイの事業内容は「倉庫業(魚の冷蔵保管)」及び「水産物の加工」であり、水産会社の下請けという位置づけであった。

なお、民間企業として存続する上で、1949年に東証に株式上場をすることで日本水産などの大株主との資本関係を整理。特定の水産会社の系列企業ではなく、独立系の倉庫・水産加工会社として存続する道を選択した。

1942年
12月
帝国水産統制株式会社を設立
1945年
12月
日本冷蔵株式会社に商号変更
1949年
1月
従業員1000名を削減
1949年
5月
東京証券取引所に株式上場
1955年
9月
製氷業で国内トップ(独占)
証言
証券時報(159)

全国170カ所に工場を持ち、これが全国的に分散されているために地域的危険が分散されることになり、多角経営と相まって経営の安定性をもたらしている。なお、当社は製氷部門を中心に業界に、半独占的地位を占めているので、毎期安定した収益を挙げているのである。

1951
8月

総合食品メーカーを志向・加工食品の製造に参入

加工食品の本格展開

1951年に木村幸鉱二郎氏(戦時中に日本水産から帝国水産統制に転籍)がニチレイの社長に就任。事業経営について「水産物の保管・加工」という業態を疑問視し、ニチレイを総合食品メーカーに発展させる方向性を決定。水産物に限らない加工食品の展開を本格化させた。

1970年までにニチレイは食品事業において「水産食品・冷凍食品・煉製品食品(ハム・ソーセージなど)、缶詰、畜産食品」の5つの事業を展開した。このため、1950年代の時点では「食品事業のどこに注力するか」という観点は定まっていなかった。

総合5カ年計画で食品へ傾斜投資

ニチレイは1961年度から5ヵ年の経営計画「総合5カ年計画」を開始し、5年で累計170億円の投資を決定。事業別の内訳は、主力の冷凍関係に80億円の投資に対して、成長途上にあった食品へ90億円を投資する方向を打ち出した。

すなわち、売上高で主力を占める冷凍ではなく、将来の成長を見込んで食品に傾斜投資する方針を鮮明にした。

設備投資の中心は食品工場の新設であった。1950年代を通じてニチレイは加工食品(缶詰・冷凍食品)に参入していたが、いずれも小規模な工場で生産しており、本格展開には至っていなかった。展開地域も全国に分散しており、品目別に工場がわかれる状態であった。

そこで、ニチレイは総合5カ年計画における食品事業への投資において、船橋(千葉県)に食品工場を新設することを決定。消費地に近い首都圏において「ハム・ソーセージ・加工食品・缶詰」など、あらゆる加工食品を生産する総合食品工場を志向した。

食品5分野体制で冷凍食品が優位に

1970年までに加工食品の領域ごとに「好調と苦戦」が鮮明となった。

水産食品については、冷蔵事業で取り扱う関係から商社的なビジネスが中心であり差別化が難しいことから、「味付けたこ」など加工による付加価値をつけた製品を展開。ただし競争優位の確立は難しい状況であった。缶詰についても、マグロなど水産物の加工的利用を図ったが、競合の「はごろもフーズ」が展開するブランド「シーチキン」のようなマーケティング訴求ができずに失速。煉製品についても、ハム・ソーセージを中心に展開したが、1960年代に専業のハムソーメーカーの台頭により競争が激化した。このため、畜産製品は練り物ではなく、ブロイラーに転換して存続を図った。

一方、冷凍食品については、1980年代までは家庭用の市場が小さかったこともあり、ニチレイは業務用を中心に展開。低温物流の設備が未熟だった時代に、ニチレイは物流網を自社保有したことで優位性を確保した。

このように1960年代を通じて5つの食品分野を展開した結果、「水産物・練製品・缶詰」については競争激化に直面したが「冷凍食品」ではパイオニアとしての地位を確保した。このため、ニチレイの総合食品メーカーの路線は、1970年代以降、冷凍食品を中心に展開することが規定路線となった。

1951年
8月
缶詰工場の稼働
1952年
10月
調理冷凍食品の販売開始
1956年
畜産事業に参入
1961年
2月
総合5カ年計画を開始
1970
12月

借入調達により設備投資を継続

設備投資の方針

1960年代を通じて加工食品が売上成長を果たし、利益面でも「冷凍事業56%:食品事業46%」の水準に達した。これにより、加工食品が投資回収のフェーズに入ったことを受けて、ニチレイは再び冷凍事業に十分な投資を実施できる体制に移った。

このため、1970年代以降もニチレイは「冷蔵倉庫・加工食品」への投資する方針を継続した。このため、税引前利益よりも多くの金額を設備投資に充当し、不足する投資資金は銀行からの借入調達により工面した。

この結果として、総資産に占める借入金の比率が増大し、40%台〜50%台という高水準で推移した。ニチレイは借入調達による積極投資で売上成長を志向した経緯から、1970年代以降は財務体質が悪化するという代償を払う形となった。

冷蔵倉庫への投資

1985年2月
戦略変更を実施・多角化を遂行
1983年
金田幸三氏が代表取締役社長に就任
1985年
4月
医薬品事業・育種事業への新規参入
1985年
2月
商号をニチレイに変更
投資額 10 億円
1985年
通過型物流センター事業を開始
1985年
家庭用冷食のマーケティングを本格化
1988年
都心部の工場跡地を不動産開発
1985年
通過型物流センター事業を開始
1986年
冷凍食品の家庭向けマーケティングを本格化
1985年
「24hr.」「JET MENU」シリーズを発売
1986年
お弁当向け家庭用冷食を発売
1989年
原宿ドッグを家庭向けに展開。CM放映も実施
1994年
電子レンジ調理コロッケを開発
1988年4月
アセロラドリンクの販売開始
1988年9月
オランダで低温物流事業を開始
1988年12月
都心部の倉庫・工場跡地を不動産開発

ニチレイは1942年の会社発足時に全国各地の倉庫を継承しており、結果として1980年代の時点で全国に小規模な不動産を保有する状況であった。ただし、周辺地域の宅地開発が進んだ結果、旧来の倉庫および工場は拡張が困難な状況となり、閉鎖が検討された。

そこで、ニチレイでは東京都内の旧明石工場など、不動産価値の高い地域についてはオフィスとして開発することを決定。引き続き土地を保有することで、オフィス賃貸による不動産収入を確保する方向性を決定した。優良な土地は東京都内の湾岸地区に点在しており、旧明石町工場(約4200㎡)・勝鬨橋工場(約4600㎡)・東京工場(約6100㎡)・湊ビル(約650㎡)などの4カ所に及んだ。

1988年
12月
旧明石町工場跡地をオフィスとして再開発
1990年
旧勝鬨橋工場跡地をオフィスとして再開発
決算
ニチレイの業績
1989年3月期(単体)
売上高
3408
億円
当期純利益
35
億円
2000年
品質保証体制を強化
2001年
家庭用冷食「本格炒め炒飯」を発売
2001年
家庭用冷食「特から」を発売
2005年
持ち株会社に移動
2007年
岩手県で養鶏場を直営
2010年7月
Transports Godfroyを取得

フランスにて低温物流事業を開始

決算
ニチレイの業績
2011年3月期(連結)
売上高
4378
億円
当期純利益
40
億円
営業CF
172
億円
投資CF
-182
億円
財務CF
64
億円
2013年7月
米食品会社を取得
2018年4月
中期経営計画(FY2019-21)を開始
2021年4月
中期経営計画(FY2022-24)を開始
2023年4月
冷凍米飯工場を新設(福岡県)

冷凍米飯を増産するために、福岡県宗像市に工場の新設を決定。投資額は115億円を予定した。

福岡県での工場稼働により、冷凍米飯の生産拠点は船橋工場(千葉県)と合わせて2拠点となり、東西の拠点を確立することにより物流コストの低減を狙った。