1954年に佐藤仁一氏は愛知県にて「佐藤食品工業」を有限会社として設立して、白醤油の製造販売を開始した。
佐藤仁一氏は大学生時代に京都大学で食品工学を研究し、卒業後は知人から誘われて醤油メーカー「北勢醸造(三重県)」で技術者として勤務していた。醤油メーカーでは、アミノ酸醤油の研究を通じて、活性炭が多すぎることによって生じる無色透明な「白醤油」の開発に成功した。このアイデアをもとに、脱サラを決意し、佐藤食品工業で白醤油「マルハク」の製造販売を開始した。
創業直の3年間はなかなか売れずに借金だけが増える苦労を重ねていたが、米菓向けの調味料として展開することで、3年目から売れ行きが良くなった。業績の好転を受けて、1962年に株式会社として「佐藤食品工業」を設立した。なお、新潟県にも餅製造でトップシェアを握る「佐藤食品工業(現・サトウ食品)」が存在するが、両社は無関係である。
1964年に佐藤食品工業(佐藤仁一・社長)は、粉末調味料に本格参入する方針を決めた。粉末化にはスプレードライヤー(噴射乾燥機)の装置が必要であり、装置購入にあたって1000万円(当時の佐藤食品工業の年間利益は500万円)を投資した。
当時は「液体醤油」が過当競争になりつつある一方で、インスタントラーメンといった加工食品の需要が増大しつつあり、粉末調味料の需要増加を見据えて、佐藤食品も粉末調味料に参入した。
当初は、主力製品であった「白醤油」の粉末化を試みるものの、成果が出なかった。その理由は、白醤油にはアルコール分が多くふまれており、粉末化の過程でアルコールが抜けてしまうことがボトルネックであったためである。
そこで、アルコールを揮発させずに粉末化する技術研究を行なった。当時、世界でもアルコールの粉末化に成功した企業は存在しなかったが、佐藤仁一社長が率先してアルコールの粉末化技術の開発に邁進した。
アルコールの粉末化の研究を進める一方で、1966年に佐藤食品工業は粉末天然調味料の製造販売を開始した。インスタント食品向けに鰹節や昆布といった素材を、粉末調味料にしたものを製造した。
1966年までに佐藤食品工業は、世界初となるアルコールの粉末化技術の開発に成功した。試行錯誤の末、アルコール30%をグルタミン酸に投入して乾燥させると、結晶化してアルコール粉末が完成した。そして特許を取得した。町工場であった佐藤食品工業が世界初の技術を開発したことによって、メディアに取り上げられ、大手食品メーカーから調味料の粉末化の依頼が相次ぐようになった。
ただし、アルコールの粉末化には酒税法の問題があり、事業化は1981年まで待つ必要があった。佐藤食品工業は醸造会社ではないため、免許を持っていなかったが、アルコール粉末が「酒」と認定されると無免許として密造の問題になる可能性があった。佐藤仁一氏が国税局に確認すると、国税庁は「前例がないのでよくわからない」としつつも、酒税法の範囲であると判断した。このため、佐藤食品工業はアルコール粉末の開発に成功しつつも事業化が難しい状況に陥り、粉末技術を生かした天然調味料を主力事業に据えた。
酒税法の問題によりアルコール粉末の事業化は困難だったが、インスタント食品の普及によって調味料の粉末ビジネスの需要が増大。これを受けて、1967年に佐藤食品工業は、愛知県小牧市に工場を新設して、調味料の増産で対応した。
1970年代を通じて、インスタント食品の普及という追い風を受けて、佐藤食品工業は業容を拡大した(1970年頃の売上高3.8億円→1980年頃の売上高20億円)。1981年ごろには売上高20億円のうち70%が天然調味料粉末、20%がペースト調味料、10%が白醤油・粉末アルコールであり、天然調味料が売上高の大半を支えた。
利益の面では、年間売上高20億円に対して、税引後利益4億円(利益率20%)という高収益を達成した。このため、佐藤食品工業は非上場会社ながらも、ニッチな高収益企業として注目を集めた。佐藤社長としても、規模の拡大を急がない経営を目指す発言を残している。
1981年に酒税法が改正され、アルコール粉末が「酒類」であると正式に認定された。これによって、佐藤食品工業はアルコール粉末の製造販売に本格着手した。
ただし、アルコール粉末はスープや菓子向けの需要を一部開拓するにとどまり、2022年の現在に至るまで佐藤食品工業の主力事業には育たなかった。このため、ビジネスとしては不調に終わったものの、アルコール粉末化によって培った技術を天然の粉末調味料などに応用するといった技術面で、佐藤食品工業の発展に大きく貢献する形となった。
1988年に佐藤食品工業は、茶エキスの製造販売を業界に先駆けて開始した。緑茶、ウーロン茶、ほうじ茶といったさまざまな種類の茶に対応し、香りの良さからインスタント茶に採用された。
以降、1990年代から2000年代にかけて、茶エキスが佐藤食品工業の主力事業に育った。主な取引先は、伊藤園などの飲料メーカーと推察される。
お茶は味、香り、水色をバランスよく持った健康飲料ですが、その成分は非常に不安定で熱などに微妙に変化します。従来のインスタント茶が必ずしももとの風味を保てなかったのもそこに原因があります。私どもではその繊細な風味を保持するため、独自の抽出、逆浸透膜などを利用した低温濃縮、さらにスプレードライヤーによる顆粒化などの技術を複合的に組み合わせました。その結果、味はもちろん、香りまでも損なうことなく粉末化することに成功したのです。今では玉露をはじめ煎茶、ほうじ茶、玄米茶、麦茶、はとむぎ茶、ウーロン茶、紅茶などを取り揃えています
1991年に佐藤食品工業は、株式の店頭公開を行なった。佐藤社長は規模の拡大を目指す方針に転換し、育ちつつあった茶エキスと、用途開拓が進んでいなかった粉末酒について、それぞれ注力する方針を示した。
公開した以上は株主に喜んでもらわなければなりません。そのためには業績も上げなければならないし、規模も拡大する必要があります。業績発展の具体策としては、今まで基盤となってきた天然調味料の活性化を図るため、抽出、濃縮部門の設備の刷新を計画しております。また、なんといっても粉末酒、粉末茶エキスの2本柱を育てることでしょう。茶エキスはなんとか格好がついてきました。粉末手は時間がかかるでしょうが、着実に用途開発をしていこうと考えております。
1990年代を通じてインスタント食品の需要が飽和したため、佐藤食品工業の主力事業であった「天然粉末調味料」における競争が激化した。そこで、独自性を発揮しやすい「茶エキス(ほうじ茶・ウーロン茶・緑茶)」に投資する方針を鮮明にした。
2003年までに佐藤食品工業の売上高のうち、50%が茶エキスを占め、天然調味料から茶エキスへの業態転換を遂行した。
2007年の佐藤食品工業は、無借金経営・現預金52億円・時価総額167億円・年間純利益10億円であり、株式市場から見ると現金価値を差し引いても割安企業であった。詳細な経緯は不明だが、ZONEキャピタルに対して第三者割当増資を実施して、佐藤食品の筆頭株主はT ZONEキャピタルとった。
増資で調達した現金が追加され、佐藤食品の財務体質が歪な構造になった。2008年の佐藤食品は、時価総額141億円、現預金116億円・年間純利益8億円・有利子負債0円となり、現金を持て余す形となった。これに対して、SFCGは水面下で経営危機に陥っており、佐藤食品に無担保社債を引き受けさせることによって、現金を調達した。これらの問題は訴訟問題に発展し、佐藤食品工業の経営を混乱させた。
2009年GCAサヴィアングループ(佐山展生・取締役)は、佐藤食品工業に対するTOBを発表した。TOB価格は2121円/株であり筆頭株主(SFCG=旧T ZONEキャピタル・50.51%を保有)からの同意を得ていたという。株式の2/3を取得予定で、創業家は株式を保有を継続する経過であった。
しかし、このTOBは後述する不祥事(親会社であったSFCGの民事再生法の手続き開始申請)により中止となった。
2009年のリーマンショックにより、佐藤食品工業の株式を50%超保有していた親会社・SFCGが負債総額3380億円にて、民事再生法の手続きを実施。SFCGは倒産を受けて株式上場を廃止した。
佐藤食品は、SFCGに対する債権の回収が困難(ないし債務保証の発生)と判断し、特別損失(貸倒引当金繰入額)55億円の巨額損失を計上した。2009年の佐藤食品は売上高70億円に対して、最終赤字45億円を計上し、創業以来の大きな痛手となった。
ただし、佐藤食品は無借金経営であり自己資本比率96%(総資産200億円)という高い水準であったため、巨額損失による財務体質への悪化は最低限に抑えられた。だが、大株主がまずは日本振興銀行、続いて日産アセットに交代して、佐藤食品の生え抜き取締役の再任を拒否したため、同社の経営陣は泥沼の抗争に巻き込まれた。一方、佐藤食品工業は、SFCG出身の取締役2名(Y氏=アクセンチュア→BCG出身、K氏=ウェラジャパン出身)を「善管注意義務違反及び忠実義務違反」により提訴した。
この渦中において、弁護士による調査チームが佐藤食品工業の経営体制を批判したため、経営体制が目まぐるしく変化した。その後、2011年に佐藤社長は臨時取締役会を招集して、会社再建のために自身の取締役の選任を要求。2012年に社長に復帰を果たしている。