1913年〜 薬種問屋がカレーの窯を持ち、即席カレーで首位に立つまで
ハウス食品グループ本社の業績推移:単体
- 1926年 薬種問屋からカレー粉の自社製造への転換 原料を納める側にとどまるか、自ら作って売る側へ回るか——浦上靖介氏が1926年に選んだ道
- 1926年 カレー粉の製造を開始
- 1926年 工場を新設
- 1947年 浦上糧食工業所を設立
- 1949年 名称をハウスカレー浦上商店に商号変更
- 1963年 バーモントカレー発売
- 1970年 合弁会社サンハウス食品を設立しレトルト食品発売
薬種問屋からカレー粉の製造へ回り、戦争で断たれるまで
1913年11月、浦上靖介氏は大阪・松屋町筋に薬種化学原料店「浦上商店」を開いた[1]。当時の薬種問屋は漢方薬とともに香辛料を扱う商いで、店の商品には胡椒や唐辛子が並んだ[2]。浦上商店は白玉ソース・中央ソース・羽車ソースといった各ソースメーカーへカレーの原料を納め[3]、カレーそのものを作るのではなく、カレーを作る側へ材料を渡す位置にあった。完成品の市場には先発が並び、関西では「メタル・カレー」「蜂カレー」「月美人カレー」が売られ、関東でも「ノーブル商会」やエスビー・カレーの「東屋」が名を通していた[4]。
- 日経ビジネス 1978年12月18日号「ハウス食品工業 新製品によるあくなき成長にも転機」
- [1]1913年11月 浦上靖介が大阪・松屋町筋に薬種化学原料店「浦上商店」を開業
- [2]薬種問屋の商品に胡椒・唐辛子などの香辛料
- [3]各ソースメーカーへカレーの原料を納入
- [4]1920年代の関西・関東にカレー粉の先発メーカーが並立
1926年、浦上商店は個人経営のホーム食品を吸収合併し[5]、布施市(現在の東大阪市)に工場を設置して、カレー・胡椒・唐辛子などの香辛料の製造販売を始めた。参入時のブランドは「ホーム・カレー」だったが、寿屋(現サントリー)から自社のブランドに抵触するとの申し入れを受け、名称を「ハウス・カレー」へ改めた[7]。登録商標には家の図の中に「イン・エブリー・ハウス」と記したマークを用いており[8]、社名に残る「ハウス」はこの改称に由来する。1930年には合名会社組織へ移り、商号を浦上靖介商店に改めた[9]。 [6]
- [5]1926年(大正15年)のホーム食品吸収とカレー粉製造の開始
- [7]ブランド「ホーム・カレー」を寿屋(現サントリー)の申し入れで「ハウス・カレー」へ変更
- [8]家の図に「イン・エブリー・ハウス」と記した登録商標
- [6]1926年 ホーム食品を吸収合併し布施市(現東大阪市)に工場を設置、カレー・胡椒・唐辛子の製造販売を開始
- 日経ビジネス 1978年12月18日号「ハウス食品工業 新製品によるあくなき成長にも転機」
- [9]1930年(昭和5年)合名会社組織へ移行し商号を浦上靖介商店とする
1934年にはハヤシライスを発売し[10]、カレー粉一品の製造から家庭向けの即席食品へ品目を広げた。ただ先発との差はすぐには縮まらず、のちに2代社長となる浦上郁夫氏は、創業当時の会社がかなり悪戦苦闘していたようだと振り返っている[11]。販売は関西を中心に中国・四国・九州の各方面へ伸び[12]、老舗が強い東京市場ではなく西日本の家庭に根を張るところから積み上げた。第二次大戦の進展に伴ってカレーの原料が統制品となり、男子従業員が兵役に取られて人手も不足し、生産活動は中絶した[13]。1945年には空襲で事業所を焼失し、布施市の工場内へ移っている[14]。
- 日経ビジネス 1978年12月18日号「ハウス食品工業 新製品によるあくなき成長にも転機」
- [10]1934年(昭和9年)ハヤシライスを発売
- [14]1945年(昭和20年)空襲により事業所が焼失し布施市の工場内へ移転
- [11]浦上郁夫氏の「創業当時はかなり悪戦苦闘していたようだ」との回想
- [12]参入当初は先発との競争で苦戦し、関西を中心に中国・四国・九州へ地盤を拡大
- [13]第二次大戦でカレー原料が統制品となり兵役による人手不足も重なって生産活動が中絶
- 日経ビジネス 1978年12月18日号「ハウス食品工業 新製品によるあくなき成長にも転機」
- [1]1913年11月 浦上靖介が大阪・松屋町筋に薬種化学原料店「浦上商店」を開業
- [9]1930年(昭和5年)合名会社組織へ移行し商号を浦上靖介商店とする
- [10]1934年(昭和9年)ハヤシライスを発売
- [14]1945年(昭和20年)空襲により事業所が焼失し布施市の工場内へ移転
- [2]薬種問屋の商品に胡椒・唐辛子などの香辛料
- [3]各ソースメーカーへカレーの原料を納入
- [4]1920年代の関西・関東にカレー粉の先発メーカーが並立
- [5]1926年(大正15年)のホーム食品吸収とカレー粉製造の開始
- [7]ブランド「ホーム・カレー」を寿屋(現サントリー)の申し入れで「ハウス・カレー」へ変更
- [8]家の図に「イン・エブリー・ハウス」と記した登録商標
- [11]浦上郁夫氏の「創業当時はかなり悪戦苦闘していたようだ」との回想
- [12]参入当初は先発との競争で苦戦し、関西を中心に中国・四国・九州へ地盤を拡大
- [13]第二次大戦でカレー原料が統制品となり兵役による人手不足も重なって生産活動が中絶
- [6]1926年 ホーム食品を吸収合併し布施市(現東大阪市)に工場を設置、カレー・胡椒・唐辛子の製造販売を開始
法人化のうえで純カレーを避け、即席カレーへ寄せた選択
戦中戦後は原料の入手難から操業を停止しており[15]、株式会社への改組はそこからの再出発にあたった。1947年6月、資本金197,500円で株式会社浦上糧食工業所を設立し[16]、1949年1月には戦前から使っていたブランドを商号に取り入れて株式会社ハウスカレー浦上商店へ改めた[17]。1950年5月にはハウス食品株式会社を吸収合併している[18]。もっとも、1952年ごろに統制解除を受けて即席カレーの製造販売を再開したときには、エスビー食品がいち早く生産を始めており[19]、浦上郁夫氏は国内市場がエスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があった[20]と述べている。
- [15]戦中戦後は原料の入手難から操業を停止し、1947年に株式会社組織へ改組して再出発
- [17]1949年1月 株式会社ハウスカレー浦上商店へ改称
- [18]1950年5月 ハウス食品株式会社を吸収合併
- ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
- [16]1947年6月 株式会社浦上糧食工業所を設立(資本金197,500円)
- [19]1952年ごろ 統制解除で即席カレーの製造販売を再開、先行したエスビー食品が市場を握る
- [20]浦上郁夫氏の「エスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があった」との発言
統制解除後の再開にあたり、会社は純カレー(カレーパウダー)の分野ではなく即席カレーの分野へ力を注いだ[21]。浦上郁夫氏は、業界の首位に立てたのはエスビー食品の純カレーの地盤が強固だったために別の分野へいち早く方向を変えた[22]からだと説明している。1958年の炒飯の素の発売を契機に各種インスタント食品の製造販売にも着手し[23]、1959年11月には東大阪工場にカレー製造工場を竣工した[24]。1960年に印度カレーを発売し[25]、同年11月には商号をハウス食品工業株式会社へ改めている[26]。この選択の結果、1971年時点の即席カレー部門の需要は年およそ230億円に達し、そのうち47〜48%を同社が占めた[27]。
- [21]純カレーではなく即席カレーへ注力
- [22]浦上郁夫氏の説明 エスビー食品の純カレーの地盤が強固だったため別分野へ転換
- [27]1971年時点の即席カレー市場は年約230億円で同社のシェアは47〜48%
- [23]1958年(昭和33年)炒飯の素の発売を契機に各種インスタント食品の製造販売へ着手
- [25]1960年(昭和35年)印度カレー発売
- ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
- [24]1959年11月 東大阪工場にカレー製造工場竣工
- [26]1960年11月 商号をハウス食品工業へ改称
1963年9月に発売したバーモントカレーは[28]、1970年11月期に1品目で75億円を売り上げ[29]、主力製品となった。以後も1964年4月のプリンミクス[30]、1966年のシチュー、1967年のシャービック、1968年のジャワカレー、1969年のミルクセーキとグラタン[31]と、家庭向けの即席食品を毎年のように出した。1970年6月には合弁会社サンハウス食品を設立してレトルト食品のククレシチューを発売し[32]、翌1971年4月にはククレカレーを加えている[33]。同年3月には高級品としてブレンドスペシャルカレーを発売した[34]。
- ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
- [28]1963年9月 バーモントカレー発売
- [30]1964年4月 プリンミクス発売
- [32]1970年6月 合弁会社サンハウス食品を設立しレトルト食品を発売
- [29]1970年11月期 バーモントカレー1品目で売上高75億円
- [31]1966年シチュー・1967年シャービック・1968年ジャワカレー・1969年ミルクセーキとグラタンの発売
- [33]1971年4月 ククレカレー発売
- [34]1971年3月 ブレンドスペシャルカレー発売
- [15]戦中戦後は原料の入手難から操業を停止し、1947年に株式会社組織へ改組して再出発
- [17]1949年1月 株式会社ハウスカレー浦上商店へ改称
- [18]1950年5月 ハウス食品株式会社を吸収合併
- [23]1958年(昭和33年)炒飯の素の発売を契機に各種インスタント食品の製造販売へ着手
- [25]1960年(昭和35年)印度カレー発売
- [29]1970年11月期 バーモントカレー1品目で売上高75億円
- [31]1966年シチュー・1967年シャービック・1968年ジャワカレー・1969年ミルクセーキとグラタンの発売
- [33]1971年4月 ククレカレー発売
- [34]1971年3月 ブレンドスペシャルカレー発売
- ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
- [16]1947年6月 株式会社浦上糧食工業所を設立(資本金197,500円)
- [24]1959年11月 東大阪工場にカレー製造工場竣工
- [26]1960年11月 商号をハウス食品工業へ改称
- [28]1963年9月 バーモントカレー発売
- [30]1964年4月 プリンミクス発売
- [32]1970年6月 合弁会社サンハウス食品を設立しレトルト食品を発売
- [19]1952年ごろ 統制解除で即席カレーの製造販売を再開、先行したエスビー食品が市場を握る
- [20]浦上郁夫氏の「エスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があった」との発言
- [21]純カレーではなく即席カレーへ注力
- [22]浦上郁夫氏の説明 エスビー食品の純カレーの地盤が強固だったため別分野へ転換
- [27]1971年時点の即席カレー市場は年約230億円で同社のシェアは47〜48%
特約店と登録店の販路、テレビ広告、そして株式上場
販路は特約店167社(口座数305)と、その先の登録店と呼ぶ二次代理店を経由して、全国のスーパーマーケットと末端小売店へ届く[35]形をとった。販売促進では、テレビを主体とした広告のほかに、卸と小売の店頭を回る置回り販売、デモンストレーターによる実演販売、リベート政策を組み合わせている[36]。デモンストレーターとして約200名の女子販売促進員を各支店・営業所に配属し[37]、店頭での料理講習にあてた。昭和30年代前半まではエスビー食品と株式会社オリエンタルの市場占有率が同社を上回っていたが、30年代後半以降にこれらの施策が効いて順位が入れ替わった[38]。
- [35]特約店167社(口座数305)と登録店(二次代理店)を経由し全国のスーパー・小売店へ販売
- [36]テレビ広告・置回り販売・実演販売・リベート政策の併用
- [37]約200名のデモンストレーター(女子販売促進員)を各支店・営業所へ配属
- [38]昭和30年代前半まではエスビー食品・オリエンタルの占有率が上回り、30年代後半以降に逆転
1970年11月期の市場占有率は、インスタントカレーが47.7%、インスタントシチューが93.7%、インスタントプリンが71.4%に達した[39]。同期の売上高197億円と税引利益12億円は、10年前の1960年11月期のそれぞれ11.6倍と23.2倍にあたる[40]。エスビー食品との比較では、直近5年間の売上高の伸びが同社3.4倍に対しエスビー食品1.6倍、利益は同社5.6倍に対し2.7倍であった[41]。関東地方の売上高が全体の29.0%を占める[42]までになり、西日本に偏っていた販売の重みが東へ移った。
- [39]1970年11月期の市場占有率 インスタントカレー47.7%・シチュー93.7%・プリン71.4%
- [40]1970年11月期 売上高197億円・税引利益12億円は1960年11月期の11.6倍・23.2倍
- [41]直近5年間の売上高の伸びはハウス3.4倍・エスビー1.6倍、利益はハウス5.6倍・エスビー2.7倍
- [42]関東地方の売上高が全売上高の29.0%
1966年6月、浦上靖介氏の長男である浦上郁夫氏が28歳で2代目社長に就任し[43]、同月に奈良県大和郡山市の奈良工場が竣工した[44]。1970年3月には大阪府東大阪市に研究所、同年5月に栃木県佐野市の関東工場、同年8月に合弁会社ハウス配送、同年11月にイデアックセンター[45]と、生産と物流と研修の拠点を続けて設けている。1971年7月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第2部へ株式を上場した[46]。公募は400万株、公開価格は480円で、上場時の大株主はハウス興産が34.6%[47]、浦上郁夫氏が22.6%を持っていた。
- 日経ビジネス 1989年7月31日号「ハウス食品工業 ワンマン亡きあとの混迷 多品種少量生産の時代に新ビジョン欠く」
- [43]1966年 浦上郁夫が28歳で2代目社長に就任
- ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
- [44]1966年6月 奈良県大和郡山市に奈良工場竣工
- [45]1970年3月 東大阪市に研究所、5月 関東工場、8月 ハウス配送設立、11月 イデアックセンター竣工
- [46]1971年7月 東京・大阪証券取引所市場第2部へ上場
- [47]公募400万株・公開価格480円、大株主はハウス興産34.6%・浦上郁夫22.6%
- [35]特約店167社(口座数305)と登録店(二次代理店)を経由し全国のスーパー・小売店へ販売
- [36]テレビ広告・置回り販売・実演販売・リベート政策の併用
- [37]約200名のデモンストレーター(女子販売促進員)を各支店・営業所へ配属
- [38]昭和30年代前半まではエスビー食品・オリエンタルの占有率が上回り、30年代後半以降に逆転
- [39]1970年11月期の市場占有率 インスタントカレー47.7%・シチュー93.7%・プリン71.4%
- [40]1970年11月期 売上高197億円・税引利益12億円は1960年11月期の11.6倍・23.2倍
- [41]直近5年間の売上高の伸びはハウス3.4倍・エスビー1.6倍、利益はハウス5.6倍・エスビー2.7倍
- [42]関東地方の売上高が全売上高の29.0%
- [47]公募400万株・公開価格480円、大株主はハウス興産34.6%・浦上郁夫22.6%
- 日経ビジネス 1989年7月31日号「ハウス食品工業 ワンマン亡きあとの混迷 多品種少量生産の時代に新ビジョン欠く」
- [43]1966年 浦上郁夫が28歳で2代目社長に就任
- ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
- [44]1966年6月 奈良県大和郡山市に奈良工場竣工
- [45]1970年3月 東大阪市に研究所、5月 関東工場、8月 ハウス配送設立、11月 イデアックセンター竣工
- [46]1971年7月 東京・大阪証券取引所市場第2部へ上場