ブルドックソースの創業者である小島中三郎氏は、明治時代後期において「日本でも洋食が普及する」と考えた。そこで、1902年に食品卸として三澤屋商店を創業し、1904年からはソースの製造販売を開始した。
ソースの味はイギリスの「リーベリン」を参考として日本人好みにアレンジして販売した。明治時代から大正時代のソース業界では明治屋やカゴメなどの競合会社も存在したが、関東圏の人が好む味にアレンジ(中濃ソース)したことで支持されたという。
これらの経緯から、ブルドックソースは関東圏(東日本)で支持される味となり、競合他社が参入する余地を狭めたと言える。
1926年にソース事業を本格展開するために「ブルドックソース食品株式会社」を設立した。ブルドックは犬の名称から来ており、当時はペットブームだったこともあり、広告宣伝を効果的に行うことを目論んで「ブルドックソース」の商標で展開した。
販売に注力することによって、ブルドックソースは業務用ではなく、家庭用のソースとして普及した。
1935年に埼玉県に鳩ヶ谷工場を新設した。ソースの原料は、たまねぎ、にんじん、トマト、りんごなどであり、これらの食材調達の利便性が高く、消費地である東京に近い埼玉県を工場立地に選定したものと推察される。
なお、1998年にブルドックソースが群馬県の館林工場を新設するまでは、鳩ヶ谷工場の1拠点でソースの生産を行なった。
1954年からブルドックソースは経営再建を開始した。当時の社長は不明だが、会社更生法による再建がスタートした時点で、大蔵省出身の佐藤和雄氏が経営に関わっており、実質的な経営トップとして、ブルドックソースの再建を主導したと推察される。佐藤氏の社長在任期間は1974年から1990年にかけてである。
1954年にブルドックソースは会社更生法の適用を申請して倒産した。倒産の理由は、創業家の2代目社長が株式投資に失敗してブルドックソースの財務基盤を毀損したことと、ケチャップなどの多角化事業に失敗したことであった。このため、創業家は経営から退任し、大蔵省出身の佐藤和雄氏が経営トップとして采配を振るったと推察される。
なお、祖業であるソースに関しては、日本国内における洋食化という追い風によって順調に成長しており、この点はブルドックソースにとっての救いであった。
1954年から経営再建に着手したブルドックソースは、鳩ヶ谷工場への設備投資を最優先で実施した。これによって生産合理化を実現してコスト競争力を獲得することで、主力商品である中濃ソースの販売を拡大した。
1950年代を通じて日本の洋食化が進展したことも追い風となり、ブルドックソースは財務体質を改善した。会社更生法の適用申請から4年目の1958年には、更生を完了して経営再建を終えた。
加えて、ブルドックソースは会社更生法の教訓から、財務体質を重視した経営を継続した。
会社更生法の適用を受けるに至ったのは、事業そのものの失敗ではなかった。創立者の二代目が株に興味を持って、そんな個人的な問題から会社更生法の適用を受けるようになったわけです。しかし、これを契機に堅実な、石橋を叩くような経営体制を取ってきました。(中略)私は、その当時この会社に席を置いていなかったのですが、会社更生法の適用を受けて(筆者注:当時の社員は)非常にショックを受けたのではないかと。商品そのものが調味料という地味なものであったため、会社の性格も同様の傾向があったと思います。したがって私は、社員に働く意欲、生きがいを与えて、内部から盛り上がる力を養成しようと努めました。
1962年に社名をブルドックソースに変更し、主力ブランドと会社名を一致させるマーケティングを展開した。関東圏に加えて、1962年には北海道に拠点を設置するなど、東日本を中心に問屋向けの販売体制を強化した。
販売面では、関東を中心とした東日本において、国分、佐藤商店、明治屋といった有力食品卸と協力しつつ、ブルドックソースの販売に努めた。ブルドックソースは小売店への直売を一切行わず、販売に関しては問屋とに任せる方式を採用した。
1973年にブルドックソースは東京証券取引所第2部に株式上場を果たした。東京圏における家庭用ソースのシェアで50%を確保し、ソース業界のトップ企業に躍り出た。
ただし関西を中心とする西日本では、イカリソースが製造する「ウスターソース」の味が消費者に支持された。また、業務用では東海地区に本社を構えるカゴメが高シェアを握っていた。このため、ブルドックソースは中濃ソースを武器に東日本でシェアを獲得できたものの、業務用市場や、西日本への進出に課題が残った。
1975年にブルドックソースは、ソースの生産を一手に担う唯一の拠点・鳩ヶ谷工場において、大規模な工場設備の入れ替えを実施した。総投資額は20億円であり、自己資金や公募増資による調達でまかなった。
1979年3月期にブルドックソースは、売上高102億円、経常利益20億円、税引後利益10億円を達成。高収益の食品メーカーとして発展として注目を集めた。また、1979年の時点でブルドックソースは無借金経営を行なっており、過去の会社更生法の反省から財務体質の改善を優先する経営を実践した。
1970年代を通じてブルドックソースは東海地区および西日本への進出を決定。イカリソースが掌握していた市場に参入したものの、西日本におけるイカリソースのシェアを強固であり、後発のブルドックソースがシェアを確保することは叶わなかった。
また、ソース以外の多角化を実施する方針を示して、1977年にケチャップに参入するが、こちらはカゴメの牙城を崩すには至らなかった。
1980年にブルドックソースは多角化のために「焼肉のたれ」を発売した。しかし、すでにエバラ食品が家庭用向けの焼肉のたれで先行しており、ブルドックソースは市場を掌握できなかった。
1985年3月期決算でブルドックソースは、売上高116億円(前年度は123億円)に対して、営業利益13億円(前年度は18億円)を計上して減収減益に転落した。多角化の遅れや、ソースにおける価格競争の激化によって、1985年を境にブルドックソースは安定成長に終止符を打ち、2000年代まで売上高は100億円〜130億円で推移する状態が続いた。
老朽化と周囲の宅地化によって拡張が難しかった埼玉県の鳩ヶ谷工場に次ぐ拠点として、群馬県に館林工場を新設した。なお、この時点で鳩ヶ谷は閉鎖されず、2021年まで鳩ヶ谷工場の稼働が続くなど、工場の移転には20年以上の歳月を割く形となった。
2000年に池田章子氏がブルドックソースの代表取締役社長に就任した。創業家とは無関係の生え抜き社長(1962年入社)であり注目を集めた。
2017年4月に会長に退いて同年に逝去するまで、ブルドックソースの代表取締役を歴任した。
ブルドックソースにおける2000年3月期の売上高は142億円に対して、当期純利益は3.5億円となり、かつての高収益企業の面影は無くなってしまった。スーパーなどの小売店からすれば、消費者が求める新製品に乏しいブルドックソースは安売りをしやすい商品であり、ブルドックソースの収益性が低下したものと推察される。
2002年ごろから米系の機関投資家スティールパートナーズは、ブルドックソースの株式取得を開始した。ブルドックソースは潤沢な投資有価証券や土地を保有する一方で、株価が割安であったため、スティールパートナーズは投資を決定したものと推察される。
2005年にブルドックソースは、会社更生法に基づいて再建中だった「イカリソース」を34億円で買収した。イカリソースは関西を中心に発展した経緯があり、ブルドックソースとしては関西における商権を確保する狙いがあった。
ただし、ブルドックソースとイカリソースにおける工場の再編は思うように進まず、資材調達の合理化や、生産体制の刷新に遅れたため、当初期待したほどの買収効果を享受することはできなかった。背景には、味を守りたいイカリソース側が、資材調達を切り替えることを拒否したために共同調達が立ち消えになるなど、買収後の事業統合に多くの課題を残した。
2006年にブルドックソースは、群馬県の館林工場における増設工事を実施した。イカリソースの生産設備を移管する狙いがあったと推察される。
2007年までにスティールパートナーズは、ブルドックソースの株式10%以上を保有するとともに、公開買い付けによるブルドックソースの買収を提案した。2007年3月期末時点でブルドックソースは資産を潤沢に持つ一方で(自己資本比率75.75%)、有利子負債が少なく(ほぼ無借金経営)、今後の成長投資に資金を必要としないことから、スティールパートナーズはブルドックソースが株式市場において割安で放置されていると判断したと思われる。
ブルドックソースは現預金18億円、土地27億円、投資有価証券84億円を保有しており、これら換金性の高い資産に対して、株価(時価総額)が割安になっており、海外の機関投資家からすれば魅力的な投資商品であった。
これに対して、ブルドックソースは買収提案に反対した。ブルドックソースはスティールパートナーズを除く株主からの同意を得て、第三者割当増資によってスティールパートナーズの株式保有比率を希薄化させる「買収防衛策」を実施した。
スティールパートナーズとしては、ブルドックソースによる買収防衛策の発動は、企業の株式を自由に売買できる「上場企業」という意義に反しているとして反対を表明して最高裁に提訴した。
スティールパートナーズとブルドックソースによる「買収防衛策の是非」をめぐる対立は、司法による判断に委ねられた。2007年に最高裁は「買収防衛策」を適法と判断し、ブルドックソースとスティールの争いはブルドック側が優勢となった。
最高裁による買収防衛策の容認という判断は、海外の機関投資家にとって日本市場が「自由競争ではない」ことを意味しため、株式市場の閉鎖性を周知する結果になってしまった。2008年にスティールパートナーズは保有していたブルドックソースの株式を全て売却するとともに、日本企業への株式投資から手を引いた。
なお、2022年時点においても、ブルドックソースは買収防衛策を継続しており、上場企業でありながら投資家からの買収提案を拒絶する姿勢を保っている。
ブルドックソースは買収防衛策の発動によってスティールによる公開買い付けを断念させたが、相応の損失を被る形となった。公開買付対応費用として6.7億円、自己新株予約権償却として21億円という、同社としては巨額の損失を計上した。また、経営再建に失敗したイカリソースに関わる減損損失を認識して合計38億円の特別損失を計上した。
この結果として、ブルドックソースは2008年3月期に19億円の最終赤字に転落した。
買収防衛策によってブルドックソースは法廷では勝ったものの、金銭的には損失を計上する結果に終わった。
結果的に、ブルドック側の勝利という形で幕引きとなったが、その代償は大きかった。ブルドックには年間営業利益に匹敵する約6億円の訴訟関連費用が発生したうえ、買収防衛策の一環でスティールに約21億円を支払い、08年3月期には最終損失19億円を計上した。また、最高裁による買収防衛策承認が、外国人投資家の日本市場離れを加速させるという副産物まで遺した。
2011年に池田社長は中期経営計画を策定し、ブルドックソースにおける構造改革計画を発表した。ただし、これらの経営計画が売上成長や利益率改善には寄与したとは言い難い。