味の素が発売されたのは1909年であるが、事業の発端は明治21年(1888年)に、鈴木三郎助(初代)の妻であった鈴木ナカが、自宅のある神奈川県・葉山町堀ノ内にて「ヨード製造」を始めたのが最初である。鈴木三郎助(初代)は、葉山を拠点として日用品店「滝屋」を営んでいたが、1875年にチフスによって35歳で逝去。このため、未亡人となった鈴木ナカは覚悟を決め、自身だけで3人の子供(2代目三郎助など)を育て上げた。
1888年に鈴木ナカは「医薬・消毒・殺菌剤」の原料として利用されるヨードに着眼。日本国内では、海藻からヨードを製造する事業が漁民の副業として明治時代を通じて「千葉・神奈川・静岡・三重」を中心に成長し始めており、神奈川県葉山の鈴木家もヨード製造に参入した。参入背景としては、鈴木ナカの子供である2代目三郎助が相場に手を出して失敗したため、家業を再建するために収入源を増やすことが狙いであった。
家業を危機に追いやった二代目三郎助は、その後改心して相場から手を引き、ヨードの製造販売を手伝うようになった。ヨードの製造は鈴木ナカが行い、仕入・販売を二代目三郎助が行う形で、親子で役割を分担した。販売先は薬品問屋であり、原料となる海藻の仕入れ先は「三浦半島・伊勢湾」などであった。
また、ヨード製造の技術にあたっては、大日本製薬の技師長であり。東京大学教授の長井長義氏が、鈴木家に好意を持って協力した。このため、鈴木家はヨード製造を葉山というローカルな地方で行いつつも、当時最先端の技術導入に成功した。
1892年から鈴木家では、2代目三郎助(当時28歳)が、ヨードの二次製品である「ヨードカリ、ヨードホルム」などの薬品製造に参入し、製薬の事業化を試みた。自宅の畑(神奈川県葉山)に200坪の工場を新設し「鈴木製薬所」と命名した。
加えて、2代目三郎助の弟である忠治氏が同じ頃に横浜商業高校を卒業し、鈴木家の家業を手伝うようになった。忠治氏は在学中に、海外の文献を通じて薬品の製造法をを勉強しており、鈴木製薬所の工場を担当する形となった。これにより、兄の2代目三郎助が販売・弟の忠治が生産技術を担当した。
薬品の製造事業は順調に推移したことや、1905年に鈴木ナカが59歳で逝去したことを受けて、会社形態に改めることを決定。1907年に鈴木家の家業である「ヨード製造業・製薬事業」について、葉山工場の資産を継承する形で、合資会社鈴木製薬所を設立した。会社発足後も鈴木製薬所の事業は順調に推移し、その後、事業化した「味の素」における創業期の赤字を補填する役割を果たした。その後、葉山工場は第一次世界大戦後のヨードの価格暴落を受け、1923年に閉鎖された。
1908年に東京大学の教授であった池田菊苗氏は「グルタミン酸塩を主成分とする調味料」を世界で初めて発明した。池田教授は「昆布のうまみ」に着眼して「甘い・酸っぱい・塩辛い・苦い」という4つの味以外に、「旨味」が存在する仮説を立て、この化合物をグルタミン酸塩であることを発見した。1908年に池田教授は特許『「グルタミン酸塩」ヲ主成分トセル調味料製造法』を出願(1923年に満了)した。池田教授は工業化を図るために、当時の大企業や財界に働きかけるが、引き受けては存在しなかった。
一方、2代目鈴木三郎助は、特許が出願される直前(1908年)に池田教授が昆布を研究中であることを知り、ヨード製造との関連を探るために東京大学の実験室を訪問していた。そして、池田教授は財界への働きかけが難しいと悟り、葉山でヨード製造をしていた鈴木三郎助に工業化を依頼した。
鈴木三郎助としては「製造・販売」の2つの面において、グルタミン酸塩調味料の事業化に困難を伴うことを予測した。製造面では大規模な工場が必要なことや、製造法が確立されていないことが不確実要素であった。また、販売面では、そもそも調味料としてニーズが存在するかが不明であり、あったとしても全国的な販売網を構築するのは容易ではなかった。このため、新事業展開には巨額資本の投下が必要であることが予想された。
そこで、鈴木三郎助は調味料事業については、鈴木製薬所とは別の事業として遂行することでリスクを分散。また、池田教授に対して特許収益の共有を提案し、特許料が入った場合は10%を受け取る契約を締結した。マーケティングの面では、料亭で調味料の評判を確かめるなど、実地見聞を行なった。
これらのプロセスを経て、鈴木三郎助はグルタミン塩酸の調味料(のちの「味の素」)の事業化を決定した。鈴木家としては新事業に注力するため、二代目三郎助が事業統括、忠治が製造、二代目三郎助の長男(三郎)が販売を担当する分業体制を敷き、製薬事業は娘婿に管理させる体制をとった。財務面では、参入時の赤字は、鈴木家が鈴木製薬所から得る収益で工面する形で目処をつけた。
1908年に逗子工場(神奈川県逗子市逗子2丁目)を新設し、グルタミン塩酸調味料の製造を開始。商品名は当初、池田教授が示した「味精」が候補に上がったが、市場に受け入れられ易くするために「味の素」を採用した。1909年2月に製品出荷を開始し、当時ベンチャー企業であった日本醤油醸造株式会社への販売を開始。ただし、同社の醤油にサッカリンの使用が判明して1910年に破綻したため、味の素の販売先を自力開拓する必要性に迫られた。
創業期における原料は「小麦粉グルテンと塩酸(現在はグルタミン酸ナトリウム・主にさとうきび由来)」であり、加水分解などを通じて製造した。だが、製造工程では「塩酸ガス」が発生する点が公害問題をもたらし、加えて、廃液を川や海に投棄していた。このため、近隣の農家がから苦情が発生するなど、逗子工場における「味の素」の生産は難しい情勢となった。このため、1914年に川崎工場を新設し、逗子工場を移転した。
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塩酸ガスや廃液による近隣農家からの苦情により、逗子工場の閉鎖を決定。住居が少なく多摩川の下流に位置する川崎に工場を新設(塩酸ガス問題は1935年の製法改善によって克服)
味の素ファルマを通じて発売を開始。2002年度の売上高は161億円となり、医薬品事業の中で最大の売り上げ規模へ
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低収益な油脂事業について、味の素製油・吉原製油・ホーネンコーポレーションの3社が経営統合を決定。2003年4月にJ-オイルミルズを発足し、味の素は製油事業から実質的に撤退した。