背景:海外食品事業に集中した減損損失と資本効率の悪化
2019年3月期、味の素(西井孝明・当時社長)は海外食品事業を中心に大規模な減損損失を計上した。当連結会計年度の売上高は1兆1,274億円と増収を確保した一方で、事業利益は926億円、営業利益は531億円、親会社株主に帰属する当期利益は296億円と、いずれも前期を下回った。損益計算書上では増収にもかかわらず、利益段階で大幅な減少が生じた。
減損の主因は、北米・中南米を中心とした海外食品事業にあった。具体的には、味の素ノースアメリカおよび味の素イスパニョールにおけるのれん減損、ならびにプロマシドール・ホールディングス社に関する投資および商標権の減損が計上された。これらの減損額は、税引前で約347億円、親会社帰属ベースで約312億円に達し、過去の海外投資が想定した収益回収に至っていない実態が明確になった。
決断:減損を契機としたROICを軸とする経営管理への転換
これらの減損は、個別案件の失敗というより、資本配分の管理手法そのものに対する問題提起となった。売上成長や事業規模の拡大を優先する中で、投下資本の回収効率が十分に検証されないまま、海外事業への投資が積み上がっていた。結果として、資産規模が拡大し、事業環境の変化に対して減損という形で調整を余儀なくされた。
この反省を踏まえ、味の素は2019年にROICを中核とする経営管理へと舵を切った。ROICを事業別に算定し、資本コストとの比較を行うことで、投資の継続、集中投資、事業売却といった判断を数値で行う体制を整備した。実際、同年には動物栄養事業の売却を決断しており、減損後の修正ではなく、事前に投資回収を見極める管理への転換が意図されていた。
結果:資本配分の見直しと減損再発防止への経営規律
ROIC経営の導入以降、味の素では資本配分に対する検証が強化された。のれんや無形資産を含む投下資本の水準が事業評価に組み込まれ、資本効率の低い事業については、撤退や縮小を含めた選択肢が検討されるようになった。2019年の減損は、資産の整理と同時に、将来の投資判断に対する基準を明確にする役割を果たした。
また、ROICを軸とした情報開示が進み、投資家との対話においても、成長と資本効率の両立が説明されるようになった。2019年の大規模減損は短期的には利益を押し下げたが、結果として経営管理の視点を「額」から「率」へと転換させる契機となった。この経験が、その後の人員構成見直しや価格改定、事業ポートフォリオ再編へと連続的につながっていった。
味の素は、グルタミン酸ソーダで市場を事実上独占する企業として出発した。しかし1960年代に入ると、協和発酵との間で特許を巡る深刻な対立が生じ、単一技術への依存が経営リスクとして顕在化した。基盤技術が揺らぐ中で、味の素は事業集中による成長ではなく、事業領域を広げることで収益の安定化を図る選択を行った。総合化は成長戦略というより、技術リスクを分散するための防衛的判断であった。
この総合化は、アミノ酸技術を軸に食品、医薬、化成品、油脂などへと展開する形で進められた。技術的な連続性はあったものの、各事業の収益構造や資本効率は大きく異なっていた。しかし当時の経営判断では、個別事業の採算性よりも、全社としての安定性が優先された。その結果、収益性の低い事業も整理されることなく残り、事業ポートフォリオ全体の収益力は徐々に希薄化していった。
2000年代に入り、油脂事業の分離など一定の整理は進められたが、依然として「どの水準で事業を続け、どこで撤退するか」という数値基準は明確に示されなかった。事業継続の判断は定性的な将来性や技術的意義に依存し、投下資本に対する収益性は後景に退いていた。このため、社内に高い技術力と研究開発力を持ちながら、それが企業価値として評価されにくい状態が続いた。
転機となったのが2019年のROIC導入である。裏を返せば、日本を代表する食品メーカーでありつつも、長らく企業価値が正当に評価されない状態が続いていたことを示している。