1917年〜 一族八家の合同と量産化による国内首位の形成
キッコーマンの業績推移:単体
- 1917年 野田醤油を設立
- 1925年 万上味醂を吸収合併
- 1928年 野田争議・解雇で収束
- 1930年 関西工場を新設
- 1934年 醤油国内シェア1位
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
個人企業の合同と株式会社への改組
千葉県野田の醤油醸造は室町時代の永禄年間に飯田市郎兵衛氏が始め[1]、寛文年間の1661年には茂木家と高梨家の祖先が醤油業を起こした[2]。1917年12月、両家に連なる一族八家の各造家が事業を合同して個人企業を会社組織へ改め[4]、資本金700万円を全額払込で[5]野田醤油株式会社を設立し[6]、初代社長には茂木七郎右衛門氏が就いた[7]。合同の直後から個人経営にありがちな旧弊の一掃に努めて諸般の改革を断行し[8]、1918年2月に大阪出張所、1921年3月に製樽工場、同年4月に水道設備を設けた[9]。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場した[10]。 [3]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [1]室町時代の永禄年間 飯田市郎兵衛が野田で醤油を始醸
- [2]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が醤油業を起業
- [4]1917年12月 茂木・高梨一族八家が事業を合同し個人企業を会社組織へ改組
- [5]資本金700万円 全額払込
- [7]初代社長 茂木七郎右衛門
- [8]創立当初は個人経営にありがちな旧弊の一掃に努め諸般の改革を断行
- [9]1918年2月 大阪出張所開設、1921年3月 製樽工場、同年4月 水道設備を設置
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [3]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が野田で醤油業を起す
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [6]1917年12月 野田醤油株式会社設立
- [10]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
1921年ごろから作業の機械化と工程の立体化を図り、大量生産を目ざして大工場の建設を始めた[11]。1926年3月に竣工した第17工場[12]は、日本の醤油業界における近代式量産化の先駆となった。これを契機に有力業者のあいだで設備拡張の気運が起き、業界は生産過剰に陥って市場は行きづまり状態を呈したため、有力業者間で東京市場への出荷数量と価格の維持安定を期する協調策が採られた[13]。生産の拡大と並行して製品の種類も増やし、1925年4月に万上味醂(千葉県流山町)を合併して酒造事業を継承し[14]、日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置で大陸進出の素地を作り、同年8月に資本金を3000万円とした[16]。 [15]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [11]1921年ごろから作業の機械化・工程の立体化と大量生産のための大工場建設に着手
- [12]1926年3月 第17工場竣工 わが国醤油業界における近代式量産化の先駆
- [13]有力業者間で東京市場への出荷数量および価格の維持安定を期する協調策
- [14]1925年4月 万上味醂(千葉県流山町)を合併し酒造事業を継承
- [16]日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置、1925年8月 資本金3000万円
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [15]1925年4月 万上味醂株式会社(現流山キッコーマン株式会社)を吸収合併
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [1]室町時代の永禄年間 飯田市郎兵衛が野田で醤油を始醸
- [2]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が醤油業を起業
- [4]1917年12月 茂木・高梨一族八家が事業を合同し個人企業を会社組織へ改組
- [5]資本金700万円 全額払込
- [7]初代社長 茂木七郎右衛門
- [8]創立当初は個人経営にありがちな旧弊の一掃に努め諸般の改革を断行
- [9]1918年2月 大阪出張所開設、1921年3月 製樽工場、同年4月 水道設備を設置
- [11]1921年ごろから作業の機械化・工程の立体化と大量生産のための大工場建設に着手
- [12]1926年3月 第17工場竣工 わが国醤油業界における近代式量産化の先駆
- [13]有力業者間で東京市場への出荷数量および価格の維持安定を期する協調策
- [14]1925年4月 万上味醂(千葉県流山町)を合併し酒造事業を継承
- [16]日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置、1925年8月 資本金3000万円
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [3]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が野田で醤油業を起す
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [6]1917年12月 野田醤油株式会社設立
- [10]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
- [15]1925年4月 万上味醂株式会社(現流山キッコーマン株式会社)を吸収合併
労働争議と設備の整備、大陸への進出
量産体制への移行は労使の衝突を伴った[17]。1919年1月と1923年3月に同盟罷業が起き、1927年9月からは217日におよぶ大罷業が続いた[18]。1926年4月の工場完成披露のころには、野田一帯で労働運動に警察力が追いつかず、一時は無警察状態におちいった[19]。関東大震災の被災も重なり[20]、この時期の野田醤油は相当の受難があった。争議のさなかも設備の整備は続き、1927年2月に本店新館を落成、同年4月に東京出張所を新設し、1929年9月に醸造試験所を改築、1930年9月には壜詰工場を建設した[21]。関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的として、1931年9月には兵庫県加古郡荒井村に関西工場を建設し[22]、出荷を開始した。 [23]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [17]量産体制への移行に伴う労使の衝突
- [18]1919年1月・1923年3月 同盟罷業、1927年9月から217日にわたる大罷業
- [20]関東大震災の被災など相当の受難
- [21]1927年2月 本店新館落成、同年4月 東京出張所新設、1929年9月 醸造試験所改築、1930年9月 壜詰工場建設
- [22]関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的に1931年9月 兵庫県加古郡荒井村へ関西工場を建設し出荷開始
- 読売新聞(1926年4月5日)「野田醤油の工場完成披露」
- [19]1926年4月 野田は一時無警察状態
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [23]関西工場は兵庫県加古郡荒井村に建設、1931年9月に出荷開始
関西工場の建設が進んだころから業界は生産過剰気味となり、景気後退と重なって競争が激化した[24]。1931年3月には有力業者間で生産販売協定が結ばれ、出荷制限が実施された[25]。しかし満州事変の進展とともに醤油市場は不振におちいり、極端な景品付販売で販売戦が混乱したため、1933年に生産販売協定は解消された[26]。醤油製造業者の数は1923年の全国約1万5000軒から1929年には8500軒へ減り[27]、東京市場をめぐる販売戦は「野田側6分、銚子側4分の形勢」(読売新聞 1929/8/29)[28]にあった。1936年11月の全醤聯大会で景品付売出の撤廃が決議され[29]、日華事変の勃発でこの乱売戦はいったん終わった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [24]生産過剰気味となり景気後退と相まって競争が激化
- [25]1931年3月 有力業者間で生産販売協定・出荷制限を実施
- [26]満州事変で醤油市場が不振、景品付販売で販売戦が混乱し1933年に生産販売協定解消
- [29]1936年11月 全醤聯大会で景品付売出撤廃を決議、日華事変の勃発で乱売戦が終息
- 読売新聞(1929年8月29日)「醤油の小経営者次第に淘汰される」
- [27]醤油製造業者 1923年 全国約1.5万軒から1929年 8500軒へ減少
- [28]東京市場の販売戦は野田側6分・銚子側4分の形勢
大陸への展開は1936年12月の満州野田醤油の設立[30]から本格化した。奉天出張所を拡充して現地の会社とし[31]、1937年5月に銚子醤油との資本提携が成立、1938年には天津出張所と北京工場を建設した[32]。1939年1月に醤油価格が釘付けとなり、戦時統制のもとで公定価格の設定、製品規格の制限、原料資材の割当、消費規制が相次いで加えられた[33]。1942年には昭南に出張所と工場を、メダンとクアラルンプールに工場を開設した[34]。技術面では新式醤油醸造法の工業化に成功し、1944年1月にその技術を公開して業界に広めた[35]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [30]1936年12月 奉天出張所を拡充して満州野田醤油を設立
- [32]1937年5月 銚子醤油と資本提携、1938年 天津出張所・北京工場を建設
- [33]1939年1月 醤油価格の釘付け、戦時統制で公定価格・製品規格制限・原料資材割当・消費規制
- [34]1942年 昭南に出張所と工場、メダン・クアラルンプールに工場を開設
- [35]新式醤油醸造法の工業化に成功、1944年1月に技術公開
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [31]1936年 奉天出張所を拡充し満州野田醤油を設立、大陸進出の拠点とする
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [17]量産体制への移行に伴う労使の衝突
- [18]1919年1月・1923年3月 同盟罷業、1927年9月から217日にわたる大罷業
- [20]関東大震災の被災など相当の受難
- [21]1927年2月 本店新館落成、同年4月 東京出張所新設、1929年9月 醸造試験所改築、1930年9月 壜詰工場建設
- [22]関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的に1931年9月 兵庫県加古郡荒井村へ関西工場を建設し出荷開始
- [24]生産過剰気味となり景気後退と相まって競争が激化
- [25]1931年3月 有力業者間で生産販売協定・出荷制限を実施
- [26]満州事変で醤油市場が不振、景品付販売で販売戦が混乱し1933年に生産販売協定解消
- [29]1936年11月 全醤聯大会で景品付売出撤廃を決議、日華事変の勃発で乱売戦が終息
- [30]1936年12月 奉天出張所を拡充して満州野田醤油を設立
- [32]1937年5月 銚子醤油と資本提携、1938年 天津出張所・北京工場を建設
- [33]1939年1月 醤油価格の釘付け、戦時統制で公定価格・製品規格制限・原料資材割当・消費規制
- [34]1942年 昭南に出張所と工場、メダン・クアラルンプールに工場を開設
- [35]新式醤油醸造法の工業化に成功、1944年1月に技術公開
- 読売新聞(1926年4月5日)「野田醤油の工場完成披露」
- [19]1926年4月 野田は一時無警察状態
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [23]関西工場は兵庫県加古郡荒井村に建設、1931年9月に出荷開始
- [31]1936年 奉天出張所を拡充し満州野田醤油を設立、大陸進出の拠点とする
- 読売新聞(1929年8月29日)「醤油の小経営者次第に淘汰される」
- [27]醤油製造業者 1923年 全国約1.5万軒から1929年 8500軒へ減少
- [28]東京市場の販売戦は野田側6分・銚子側4分の形勢
統制撤廃後の自由競争と首位の固定
戦時中の原料事情の窮迫で生産高は減り、品質規格は引き下げられ、一人当たり消費量も戦前の半量に規整された[36]。1947年の全国醤油生産高は終戦後の最低となり、野田醤油の生産も創立以来の最低[37]を記録した。1948年以降は経済事情が好転し、1950年7月の統制撤廃で業界は自由競争へ復帰[38]した。しかし1951年下期ごろから生産高は飽和状態となって競争が激しくなり、景品付特売が再び登場したため、1952年4月にこれは不公正競争として禁止された[39]。野田醤油はこの間に手持ち醪の充実、生産設備の改善増強、醸造技術と歩留の向上を図り、東京出張所を新築し九州出張所を開設して営業部門を整えた[40]。 [41]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [36]原料事情の窮迫で生産高減少・品質規格引下げ・一人当り消費量を戦前の半量に規整
- [37]1947年 全国醤油生産高が終戦後最低、当社生産も創立以来の最低
- [39]1951年下期ごろから生産高が飽和し競争激化、景品付特売は1952年4月に不公正競争として禁止
- [40]手持醪の充実・生産設備の改善増強・醸造技術と歩留の向上・東京出張所新築・九州出張所開設
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [38]1948年以降の経済好転、1950年7月の統制撤廃で業界が自由競争へ復帰
- [41]戦後に生産設備の改善増強と醸造技術向上を図り東京出張所新築・九州出張所開設で営業部門を整備
1954年の全国醤油生産高515万石のうち、野田醤油は70万9000石[42]を占めた。2位のヤマサ醤油は20万2000石、ヒゲタ醤油13万1000石、丸金醤油11万7000石で、四大メーカー計116万石に対し、その他の約6000軒が399万石[43]を分け合っていた。輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心で、同年の全国輸出9300石のうち84%[44]を野田醤油が占めた。製品はキッコーマン醤油を軸に、1925年4月の万上印味醂・直酎・焼酎、1936年のキッコーマンソース、1952年9月の新清酒「四方の春」[45]と広げ、1954年の出荷はソース1万8000石、酒類4万8000石、年間総売上高は91億3000万円であった[46]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [42]1954年 全国醤油生産高515万石のうち野田醤油70万9000石
- [43]1954年 ヤマサ20万2000石・ヒゲタ13万1000石・丸金11万7000石、四大メーカー計116万石、その他約6000軒で399万石
- [44]1954年 輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心、全国輸出9300石のうち当社84%
- [45]1925年4月 万上印味醂・直酎・焼酎、1936年 キッコーマンソース発売、1952年9月 新清酒「四方の春」出荷
- [46]1954年 出荷はソース1万8000石・酒類4万8000石、年間総売上高91億3000万円
寡占的な地位は独占禁止法上の規律も呼び込み、1955年12月には公正取引委員会が「野田醤油の行為が自由競争を阻害している」として[47]、「しょう油の卸売価格または、小売価格については販売業者にいかなる干渉をしてはならない」(読売新聞 1955/12/28)[48]と審決した。株式市場では前年の1954年11月に「食品株では味の素といろいろの点で比較される。内容のよいことでは放って記し、売上高もだいたい同じ」(読売新聞 1954/11/20)と評価されていた。資本金は1948年10月に8000万円、1950年12月に2億円へ増え、1952年の無償交付一対一で4億円、1955年7月の有償無償半々の倍額増資で8億円[50]となった。 [49]
- 読売新聞(1955年12月28日)「公取、野田醤油に審決」
- [47]1955年12月28日 公正取引委員会が野田醤油の行為を自由競争の阻害と審決
- [48]卸売価格・小売価格について販売業者に干渉してはならないとの審決
- 読売新聞(1954年11月20日)「問題株の診断・野田醤油」
- [49]1954年11月 株式評で味の素と比較され内容・売上高がほぼ同じと評価
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [50]資本金 1948年10月8000万円→1950年12月2億円→1952年無償交付で4億円→1955年7月倍額増資で8億円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
- [36]原料事情の窮迫で生産高減少・品質規格引下げ・一人当り消費量を戦前の半量に規整
- [37]1947年 全国醤油生産高が終戦後最低、当社生産も創立以来の最低
- [39]1951年下期ごろから生産高が飽和し競争激化、景品付特売は1952年4月に不公正競争として禁止
- [40]手持醪の充実・生産設備の改善増強・醸造技術と歩留の向上・東京出張所新築・九州出張所開設
- [42]1954年 全国醤油生産高515万石のうち野田醤油70万9000石
- [43]1954年 ヤマサ20万2000石・ヒゲタ13万1000石・丸金11万7000石、四大メーカー計116万石、その他約6000軒で399万石
- [44]1954年 輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心、全国輸出9300石のうち当社84%
- [45]1925年4月 万上印味醂・直酎・焼酎、1936年 キッコーマンソース発売、1952年9月 新清酒「四方の春」出荷
- [46]1954年 出荷はソース1万8000石・酒類4万8000石、年間総売上高91億3000万円
- [50]資本金 1948年10月8000万円→1950年12月2億円→1952年無償交付で4億円→1955年7月倍額増資で8億円
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [38]1948年以降の経済好転、1950年7月の統制撤廃で業界が自由競争へ復帰
- [41]戦後に生産設備の改善増強と醸造技術向上を図り東京出張所新築・九州出張所開設で営業部門を整備
- 読売新聞(1955年12月28日)「公取、野田醤油に審決」
- [47]1955年12月28日 公正取引委員会が野田醤油の行為を自由競争の阻害と審決
- [48]卸売価格・小売価格について販売業者に干渉してはならないとの審決
- 読売新聞(1954年11月20日)「問題株の診断・野田醤油」
- [49]1954年11月 株式評で味の素と比較され内容・売上高がほぼ同じと評価