キッコーマンの創業は、室町時代に野田(千葉県野田市)において始まった醤油製造が起源とされている。その後、江戸時代には「茂木家」と「高梨家」が、野田における主要な醸造元となった。これらの本家から分離する形で、野田には無数の醤油醸造家が集積する形となった。
江戸時代に野田で醤油醸造業が発達した理由は、水運交通の便が良かったことに由来する。醤油の原料である大豆は群馬県から、塩は赤穂から太平洋を経て利根川経由で野田に運搬され、これらの原材料が野田に集積した。そして、醸造された醤油は消費市場である「江戸(東京)」まで運河を介して運ばれていた。すなわち、水運によるコスト競争力を生かせるという地の利が野田の醤油業の強みであった。
明治時代に鉄道が普及すると水運によるコストメリットが喪失。醤油業者も大量生産と大量出荷に対応する必要が生じた。
そこで、1917年に茂木家および高梨家を中心に「一族八家」の醤油醸造家が結集して「野田醤油株式会社」を設立して近代経営組織に転換。販売面では、統合前に200あった商標を「キッコーマン」に集約。生産面では16箇所あった醸造蔵の統廃合を実施し、1922年には近代的な量産工場「第17工場(のちに第7工場に改称)」を新設することで量産に対応した。
国内の醤油業者の中で、近代化投資に先発したのは野田醤油(キッコーマン)であり、この決定が国内醤油市場のシェア確保の原動力となった。
すばらしい英断だと思います。私はよく同僚の役員諸君や一族の人たちにも言うのですが、1917年にあれほどの大英断をやったことと同じことをいまやるとしたら、よほど思い切ったことをやらなければならない。それはある意味では大冒険ですよ。しかも当時は実行力があった。たとえばいま「これを役員会にかけてやろうではないか」というと、なまじっか知識があるものですから、アレやコレやいろいろなことを言ってきて、それを裁断するのに相当骨が折れる。ところが当時はスパッと思い切ったことをずいぶんやっているのですね
近代化の過程で多くの醸造家が職を奪われるとして合理化に反発。1926年には野田市内で労働争議が発生して、組合員による放火が相次ぐなど、「野田は一時無警察状態」(1926/4/5読売新聞)と形容されて深刻な事態に直面した。
首謀者は日本労働総同盟であった。総同盟の野田支部(約2500名)は関東の主要拠点となり、キッコーマンの経営を数年にわたって妨害した。その後、1928年にキッコーマン側の要求が通る形で終結。組合員の全員解雇によって、ストライキは沈静化した。
1934年時点でキッコーマンは国内醤油の生産量シェアで1位(9.1%)を確保し、2位のヤマサ(4.1%)、同率3位のヒゲタ(3.1%)およびマルキン(3.1%)を引き離した。
戦前を通じて国内の醤油醸造家は統廃合が進行。野田(キッコーマン)や銚子(ヤマサ)など近代化投資を率先した企業がシェアを確保し、全国に点在する醸造家は淘汰されていった。1923年時点の国内の醤油メーカー数は1.5万軒であったが、1929年には8500軒へと約半減した(1929/08/29読売新聞)。
サンフランシスコに販売会社を現地法人としてKIIを設立。キッコーマンに加えて、現地で日本食を取り扱う貿易会社「太平洋貿易」(創業者は杉原氏)との合弁方式で設立された。
合弁形式をとった理由は、キッコーマンの醤油販売において、杉原氏が現地大手スーパーを開拓するなど、すでに太平洋貿易が米国西海岸で実績を積んでいたためであった。そこで、キッコーマンは販路に実績がある太平洋貿易をパートナーに選定した。
国内から北米への輸出を本格化して、現地では「KIKKOMAN」のブランドで販売。スーパーの棚を確保するために、現地の食品ブローカーの開拓に注力し、現地のスーパーに対しては「デモンストレーション(醤油を使った料理の試食提供)」による販促営業を開始した。提供料理は主に「肉料理(照り焼き)」であった。
また、醤油の認知度を向上させるために、テレビCMによる宣伝を実施。1958年から人気テレビドラマ「オー・ヘンリー物語」の放映に際してKIIがスポンサーとなりCMを放映。当時の売上14万ドルに対して広告負担は11万ドルであり、広告宣伝比率は破格の水準であったが、放映によって認知を獲得。この結果、放映後からは年間売上成長20〜30%を記録し、北米における醤油の普及を後押しした。
1958年にロサンゼルス、1960年にニューヨーク、1965年にシカゴに支店をそれぞれ新設し、米国の主要都市を網羅した。
キッコーマンの醤油の評判は徐々に拡大。現地の家庭雑誌『グッドハウス・キーピング』や『ファミリー・サークル』『ウーマンズ・デイ』にKIKKOMANが取り上げられたことで、徐々に市場が拡大した。また、サンフランシスコの地域新聞がKIKKOMANについて「オール・パーパス・シーズニング」と評したことで、万能調味料としての醤油の利便性が支持された。
醤油製造において技術革新(NK式)により原材料ロスを抑制。これにより生産効率を高め、醤油の価格引き下げを実施。同時並行で整備した全国の営業網が後押しとなり、国内における醤油の生産量シェアを拡大した。
トマト加工品(トマトジュース・トマトケチャップ)に参入するために、長野県に吉幸食品工業を設立。その後、1963年にキッコーマンと米デルモンテと合弁方式に資本形態を変更し、実質的にデルモンテの日本法人として運営された。トマト加工品では国内の先発企業であるカゴメと競争する形となった
山梨県勝沼にワイナリー(ぶどう畑)を新設して国産ワイン製造に参入。1964年から「マンズワイン」の販売を開始するも、ワインの市場が小さく苦戦へ
キッコーマンの一族にあたる高梨氏がコカコーラのボトリング事業に参入したことが縁となり、キッコーマンもコカコーラのボトリングへの参入を決定。1962年に利根コカ・コーラボトリングを設立(キッコーマンが50.0%出資)し、千葉・栃木・茨城をテリトリーとして、コカコーラ社の下請けとしてボトリング事業に参入した。キッコーマンとしては、飲料分野(清涼飲料水)への多角化する契機となった。
太平洋貿易の親会社であるJFC(米国の日本食卸売企業)を買収
焼酎、合成清酒、梅酒の生産設備に投資を決定。投資額は約120億円。酒造プラントを群馬県新田郡尾島町に新設し、従来の生産拠点だった流山プラント(千葉県流山市)から生産を移管
国内醤油市場の低迷を受けて、キッコーマンはヒゲタ醤油(千葉県銚子市)への資本参加を決定。キッコーマンは19.5%の株式を保有。1966年からキッコーマンはヒゲタ醤油と販売委託契約を締結していたが、資本関係を深める方向にシフト。出資を受けたヒゲタは収益性改善のために不採算事業(海外・パッキング)から撤退するなど、事業整理を実施した。
キッコーマンの焼酎事業は、国内の焼酎ブームが一過性に終わったことで頓挫。業績が伸び悩んだことを受けて、2006年4月にサッポロビールに事業譲渡を決定した。酒造工場尾島製造部(群馬県)の製造拠点についても売却が決まった。
なお、2004年3月期にキッコーマンは群馬県の事業資産(土地)で15億円の特別損失を計上しており、1996年に本格化した焼酎事業への投資は失敗に終わった。
キッコーマンは健康飲料(豆乳など)の強化を決定。子会社であった紀文フードケミファ(上場企業)の株式の完全取得を決定。取得原価は154億円で、のれんとして79億円を計上した。買収の狙いは、飲料(投入など)の拡大で、従来の中心だったボトリング(コカ・コーラの下請け)ではなく製品開発に注力する方向性を打ち出す
コカコーラ向けボトリング事業の子会社「利根コカコーラボトリング」について、131億円で株式譲渡。保有比率は50%以下(売上高の連結対象外)となり、全社売上高は大幅減収となった