キッコーマン の歴史

創業

1917年

創業者

茂木家・高梨家

創業地

千葉県野田市

直近売上高(2026/3)

7,455億円

長期業績と転換点(1997/12〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1917年に一族八家は個人企業を合同して株式会社へ改めたのか
A 1917年12月の野田醤油設立は、零細業者がひしめく市場で家業単位の分散生産を一つの会社へまとめる統合だった。茂木家と高梨家を中心とする一族八家の各造家が事業を合同して個人企業を会社組織へ改め、資本金700万円を全額払込で設立し、初代社長には茂木七郎右衛門氏が就いた。合同の直後から個人経営にありがちな旧弊の一掃に努めて諸般の改革を断行し、1926年3月に竣工した第17工場はわが国醤油業界における近代式量産化の先駆となった。1954年の全国醤油生産高515万石のうち野田醤油は70万9000石を占め、2位のヤマサ醤油20万2000石を大きく引き離した
Q なぜ1972年に前例のない醤油の北米現地生産へ踏み切ったのか
A 1972年の北米現地生産は、海上運賃の上昇と日米人件費差の縮小を踏まえ、完成品の輸出から現地生産へ切り替える判断だった。1971年の役員会では、醤油の需要が最小経済単位の工場を持てる量に達しつつあること、工場を建てれば製品運賃に加えて間接的に原料の運賃も節減できること、日本人の人件費が急上昇して米国との差が縮小しつつあることの三点から「アメリカへ工場を作ろう」と決めた。役員会では醤油の蔵にそれぞれ独自の菌がすみついていると信じられており、微妙な味を異国の地で出せるかという不安が根強かった。工場は1973年6月に稼働し、出荷量は製造初年度の30倍に達した
Q なぜ2025年の新中期計画は創業家の確信ではなくデータで北米増産を裏づけたのか
A 2025年の新中期経営計画は、創業家の確信ではなくデータで北米増産を裏づけるための投資である。2023年6月就任の中野祥三郎社長が、グローバルビジョン2030へ向け10年で約560百万米ドルを投じると掲げた。中心は北米第3工場で、現地の生産能力を10年で3〜4割引き上げる。1972年は役員会の沈黙を社長の一言が押し切ったが、今回は海上輸送の混乱期に確かめた需要と日米の人件費差を根拠に、同じ北米増産を意思決定の作法を入れ替えて反復している。

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1917年〜 一族八家の合同と量産化による国内首位の形成

キッコーマンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1917年 野田醤油を設立
  2. 1925年 万上味醂を吸収合併
  3. 1928年 野田争議・解雇で収束
  4. 1930年 関西工場を新設
  5. 1934年 醤油国内シェア1位
  6. 1949年 東京証券取引所に株式上場

個人企業の合同と株式会社への改組

千葉県野田の醤油醸造は室町時代の永禄年間に飯田市郎兵衛氏が始め[1]、寛文年間の1661年には茂木家と高梨家の祖先が醤油業を起こした[2]。1917年12月、両家に連なる一族八家の各造家が事業を合同して個人企業を会社組織へ改め[4]、資本金700万円を全額払込で[5]野田醤油株式会社を設立し[6]、初代社長には茂木七郎右衛門氏が就いた[7]。合同の直後から個人経営にありがちな旧弊の一掃に努めて諸般の改革を断行し[8]、1918年2月に大阪出張所、1921年3月に製樽工場、同年4月に水道設備を設けた[9]。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場した[10][3]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [1]室町時代の永禄年間 飯田市郎兵衛が野田で醤油を始醸
    • [2]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が醤油業を起業
    • [4]1917年12月 茂木・高梨一族八家が事業を合同し個人企業を会社組織へ改組
    • [5]資本金700万円 全額払込
    • [7]初代社長 茂木七郎右衛門
    • [8]創立当初は個人経営にありがちな旧弊の一掃に努め諸般の改革を断行
    • [9]1918年2月 大阪出張所開設、1921年3月 製樽工場、同年4月 水道設備を設置
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [3]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が野田で醤油業を起す
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1917年12月 野田醤油株式会社設立
    • [10]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場

1921年ごろから作業の機械化と工程の立体化を図り、大量生産を目ざして大工場の建設を始めた[11]。1926年3月に竣工した第17工場[12]は、日本の醤油業界における近代式量産化の先駆となった。これを契機に有力業者のあいだで設備拡張の気運が起き、業界は生産過剰に陥って市場は行きづまり状態を呈したため、有力業者間で東京市場への出荷数量と価格の維持安定を期する協調策が採られた[13]。生産の拡大と並行して製品の種類も増やし、1925年4月に万上味醂(千葉県流山町)を合併して酒造事業を継承し[14]、日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置で大陸進出の素地を作り、同年8月に資本金を3000万円とした[16][15]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [11]1921年ごろから作業の機械化・工程の立体化と大量生産のための大工場建設に着手
    • [12]1926年3月 第17工場竣工 わが国醤油業界における近代式量産化の先駆
    • [13]有力業者間で東京市場への出荷数量および価格の維持安定を期する協調策
    • [14]1925年4月 万上味醂(千葉県流山町)を合併し酒造事業を継承
    • [16]日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置、1925年8月 資本金3000万円
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1925年4月 万上味醂株式会社(現流山キッコーマン株式会社)を吸収合併
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [1]室町時代の永禄年間 飯田市郎兵衛が野田で醤油を始醸
    • [2]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が醤油業を起業
    • [4]1917年12月 茂木・高梨一族八家が事業を合同し個人企業を会社組織へ改組
    • [5]資本金700万円 全額払込
    • [7]初代社長 茂木七郎右衛門
    • [8]創立当初は個人経営にありがちな旧弊の一掃に努め諸般の改革を断行
    • [9]1918年2月 大阪出張所開設、1921年3月 製樽工場、同年4月 水道設備を設置
    • [11]1921年ごろから作業の機械化・工程の立体化と大量生産のための大工場建設に着手
    • [12]1926年3月 第17工場竣工 わが国醤油業界における近代式量産化の先駆
    • [13]有力業者間で東京市場への出荷数量および価格の維持安定を期する協調策
    • [14]1925年4月 万上味醂(千葉県流山町)を合併し酒造事業を継承
    • [16]日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置、1925年8月 資本金3000万円
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [3]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が野田で醤油業を起す
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1917年12月 野田醤油株式会社設立
    • [10]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [15]1925年4月 万上味醂株式会社(現流山キッコーマン株式会社)を吸収合併

労働争議と設備の整備、大陸への進出

量産体制への移行は労使の衝突を伴った[17]。1919年1月と1923年3月に同盟罷業が起き、1927年9月からは217日におよぶ大罷業が続いた[18]。1926年4月の工場完成披露のころには、野田一帯で労働運動に警察力が追いつかず、一時は無警察状態におちいった[19]。関東大震災の被災も重なり[20]、この時期の野田醤油は相当の受難があった。争議のさなかも設備の整備は続き、1927年2月に本店新館を落成、同年4月に東京出張所を新設し、1929年9月に醸造試験所を改築、1930年9月には壜詰工場を建設した[21]。関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的として、1931年9月には兵庫県加古郡荒井村に関西工場を建設し[22]、出荷を開始した。 [23]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [17]量産体制への移行に伴う労使の衝突
    • [18]1919年1月・1923年3月 同盟罷業、1927年9月から217日にわたる大罷業
    • [20]関東大震災の被災など相当の受難
    • [21]1927年2月 本店新館落成、同年4月 東京出張所新設、1929年9月 醸造試験所改築、1930年9月 壜詰工場建設
    • [22]関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的に1931年9月 兵庫県加古郡荒井村へ関西工場を建設し出荷開始
  • 読売新聞(1926年4月5日)「野田醤油の工場完成披露」
    • [19]1926年4月 野田は一時無警察状態
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [23]関西工場は兵庫県加古郡荒井村に建設、1931年9月に出荷開始

関西工場の建設が進んだころから業界は生産過剰気味となり、景気後退と重なって競争が激化した[24]。1931年3月には有力業者間で生産販売協定が結ばれ、出荷制限が実施された[25]。しかし満州事変の進展とともに醤油市場は不振におちいり、極端な景品付販売で販売戦が混乱したため、1933年に生産販売協定は解消された[26]。醤油製造業者の数は1923年の全国約1万5000軒から1929年には8500軒へ減り[27]、東京市場をめぐる販売戦は「野田側6分、銚子側4分の形勢」(読売新聞 1929/8/29)[28]にあった。1936年11月の全醤聯大会で景品付売出の撤廃が決議され[29]、日華事変の勃発でこの乱売戦はいったん終わった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [24]生産過剰気味となり景気後退と相まって競争が激化
    • [25]1931年3月 有力業者間で生産販売協定・出荷制限を実施
    • [26]満州事変で醤油市場が不振、景品付販売で販売戦が混乱し1933年に生産販売協定解消
    • [29]1936年11月 全醤聯大会で景品付売出撤廃を決議、日華事変の勃発で乱売戦が終息
  • 読売新聞(1929年8月29日)「醤油の小経営者次第に淘汰される」
    • [27]醤油製造業者 1923年 全国約1.5万軒から1929年 8500軒へ減少
    • [28]東京市場の販売戦は野田側6分・銚子側4分の形勢

大陸への展開は1936年12月の満州野田醤油の設立[30]から本格化した。奉天出張所を拡充して現地の会社とし[31]、1937年5月に銚子醤油との資本提携が成立、1938年には天津出張所と北京工場を建設した[32]。1939年1月に醤油価格が釘付けとなり、戦時統制のもとで公定価格の設定、製品規格の制限、原料資材の割当、消費規制が相次いで加えられた[33]。1942年には昭南に出張所と工場を、メダンとクアラルンプールに工場を開設した[34]。技術面では新式醤油醸造法の工業化に成功し、1944年1月にその技術を公開して業界に広めた[35]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [30]1936年12月 奉天出張所を拡充して満州野田醤油を設立
    • [32]1937年5月 銚子醤油と資本提携、1938年 天津出張所・北京工場を建設
    • [33]1939年1月 醤油価格の釘付け、戦時統制で公定価格・製品規格制限・原料資材割当・消費規制
    • [34]1942年 昭南に出張所と工場、メダン・クアラルンプールに工場を開設
    • [35]新式醤油醸造法の工業化に成功、1944年1月に技術公開
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [31]1936年 奉天出張所を拡充し満州野田醤油を設立、大陸進出の拠点とする
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [17]量産体制への移行に伴う労使の衝突
    • [18]1919年1月・1923年3月 同盟罷業、1927年9月から217日にわたる大罷業
    • [20]関東大震災の被災など相当の受難
    • [21]1927年2月 本店新館落成、同年4月 東京出張所新設、1929年9月 醸造試験所改築、1930年9月 壜詰工場建設
    • [22]関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的に1931年9月 兵庫県加古郡荒井村へ関西工場を建設し出荷開始
    • [24]生産過剰気味となり景気後退と相まって競争が激化
    • [25]1931年3月 有力業者間で生産販売協定・出荷制限を実施
    • [26]満州事変で醤油市場が不振、景品付販売で販売戦が混乱し1933年に生産販売協定解消
    • [29]1936年11月 全醤聯大会で景品付売出撤廃を決議、日華事変の勃発で乱売戦が終息
    • [30]1936年12月 奉天出張所を拡充して満州野田醤油を設立
    • [32]1937年5月 銚子醤油と資本提携、1938年 天津出張所・北京工場を建設
    • [33]1939年1月 醤油価格の釘付け、戦時統制で公定価格・製品規格制限・原料資材割当・消費規制
    • [34]1942年 昭南に出張所と工場、メダン・クアラルンプールに工場を開設
    • [35]新式醤油醸造法の工業化に成功、1944年1月に技術公開
  • 読売新聞(1926年4月5日)「野田醤油の工場完成披露」
    • [19]1926年4月 野田は一時無警察状態
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [23]関西工場は兵庫県加古郡荒井村に建設、1931年9月に出荷開始
    • [31]1936年 奉天出張所を拡充し満州野田醤油を設立、大陸進出の拠点とする
  • 読売新聞(1929年8月29日)「醤油の小経営者次第に淘汰される」
    • [27]醤油製造業者 1923年 全国約1.5万軒から1929年 8500軒へ減少
    • [28]東京市場の販売戦は野田側6分・銚子側4分の形勢

統制撤廃後の自由競争と首位の固定

戦時中の原料事情の窮迫で生産高は減り、品質規格は引き下げられ、一人当たり消費量も戦前の半量に規整された[36]。1947年の全国醤油生産高は終戦後の最低となり、野田醤油の生産も創立以来の最低[37]を記録した。1948年以降は経済事情が好転し、1950年7月の統制撤廃で業界は自由競争へ復帰[38]した。しかし1951年下期ごろから生産高は飽和状態となって競争が激しくなり、景品付特売が再び登場したため、1952年4月にこれは不公正競争として禁止された[39]。野田醤油はこの間に手持ち醪の充実、生産設備の改善増強、醸造技術と歩留の向上を図り、東京出張所を新築し九州出張所を開設して営業部門を整えた[40][41]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [36]原料事情の窮迫で生産高減少・品質規格引下げ・一人当り消費量を戦前の半量に規整
    • [37]1947年 全国醤油生産高が終戦後最低、当社生産も創立以来の最低
    • [39]1951年下期ごろから生産高が飽和し競争激化、景品付特売は1952年4月に不公正競争として禁止
    • [40]手持醪の充実・生産設備の改善増強・醸造技術と歩留の向上・東京出張所新築・九州出張所開設
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [38]1948年以降の経済好転、1950年7月の統制撤廃で業界が自由競争へ復帰
    • [41]戦後に生産設備の改善増強と醸造技術向上を図り東京出張所新築・九州出張所開設で営業部門を整備

1954年の全国醤油生産高515万石のうち、野田醤油は70万9000石[42]を占めた。2位のヤマサ醤油は20万2000石、ヒゲタ醤油13万1000石、丸金醤油11万7000石で、四大メーカー計116万石に対し、その他の約6000軒が399万石[43]を分け合っていた。輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心で、同年の全国輸出9300石のうち84%[44]を野田醤油が占めた。製品はキッコーマン醤油を軸に、1925年4月の万上印味醂・直酎・焼酎、1936年のキッコーマンソース、1952年9月の新清酒「四方の春」[45]と広げ、1954年の出荷はソース1万8000石、酒類4万8000石、年間総売上高は91億3000万円であった[46]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [42]1954年 全国醤油生産高515万石のうち野田醤油70万9000石
    • [43]1954年 ヤマサ20万2000石・ヒゲタ13万1000石・丸金11万7000石、四大メーカー計116万石、その他約6000軒で399万石
    • [44]1954年 輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心、全国輸出9300石のうち当社84%
    • [45]1925年4月 万上印味醂・直酎・焼酎、1936年 キッコーマンソース発売、1952年9月 新清酒「四方の春」出荷
    • [46]1954年 出荷はソース1万8000石・酒類4万8000石、年間総売上高91億3000万円

寡占的な地位は独占禁止法上の規律も呼び込み、1955年12月には公正取引委員会が「野田醤油の行為が自由競争を阻害している」として[47]、「しょう油の卸売価格または、小売価格については販売業者にいかなる干渉をしてはならない」(読売新聞 1955/12/28)[48]と審決した。株式市場では前年の1954年11月に「食品株では味の素といろいろの点で比較される。内容のよいことでは放って記し、売上高もだいたい同じ」(読売新聞 1954/11/20)と評価されていた。資本金は1948年10月に8000万円、1950年12月に2億円へ増え、1952年の無償交付一対一で4億円、1955年7月の有償無償半々の倍額増資で8億円[50]となった。 [49]

  • 読売新聞(1955年12月28日)「公取、野田醤油に審決」
    • [47]1955年12月28日 公正取引委員会が野田醤油の行為を自由競争の阻害と審決
    • [48]卸売価格・小売価格について販売業者に干渉してはならないとの審決
  • 読売新聞(1954年11月20日)「問題株の診断・野田醤油」
    • [49]1954年11月 株式評で味の素と比較され内容・売上高がほぼ同じと評価
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [50]資本金 1948年10月8000万円→1950年12月2億円→1952年無償交付で4億円→1955年7月倍額増資で8億円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [36]原料事情の窮迫で生産高減少・品質規格引下げ・一人当り消費量を戦前の半量に規整
    • [37]1947年 全国醤油生産高が終戦後最低、当社生産も創立以来の最低
    • [39]1951年下期ごろから生産高が飽和し競争激化、景品付特売は1952年4月に不公正競争として禁止
    • [40]手持醪の充実・生産設備の改善増強・醸造技術と歩留の向上・東京出張所新築・九州出張所開設
    • [42]1954年 全国醤油生産高515万石のうち野田醤油70万9000石
    • [43]1954年 ヤマサ20万2000石・ヒゲタ13万1000石・丸金11万7000石、四大メーカー計116万石、その他約6000軒で399万石
    • [44]1954年 輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心、全国輸出9300石のうち当社84%
    • [45]1925年4月 万上印味醂・直酎・焼酎、1936年 キッコーマンソース発売、1952年9月 新清酒「四方の春」出荷
    • [46]1954年 出荷はソース1万8000石・酒類4万8000石、年間総売上高91億3000万円
    • [50]資本金 1948年10月8000万円→1950年12月2億円→1952年無償交付で4億円→1955年7月倍額増資で8億円
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [38]1948年以降の経済好転、1950年7月の統制撤廃で業界が自由競争へ復帰
    • [41]戦後に生産設備の改善増強と醸造技術向上を図り東京出張所新築・九州出張所開設で営業部門を整備
  • 読売新聞(1955年12月28日)「公取、野田醤油に審決」
    • [47]1955年12月28日 公正取引委員会が野田醤油の行為を自由競争の阻害と審決
    • [48]卸売価格・小売価格について販売業者に干渉してはならないとの審決
  • 読売新聞(1954年11月20日)「問題株の診断・野田醤油」
    • [49]1954年11月 株式評で味の素と比較され内容・売上高がほぼ同じと評価

1957年〜 米国での需要創造と醤油の現地生産への転換

キッコーマンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1957年 KIKKOMAN INTERNATIONAL, INC. を設立
  2. 1961年 大阪証券取引所に株式を上場
  3. 1962年 利根コカ・コーラボトリングを設立
  4. 1962年 マンズワインを設立
  5. 1964年 キッコーマン醤油に商号変更
  6. 1969年 JFCに経営参加
  7. 1972年 輸出から現地生産へ——米国ウィスコンシンでの醤油工場建設 輸出で稼ぎ続けるか、資本を投じて海外に工場を建てるか——食品メーカー初の本格的な海外直接投資

米国販売会社の設立と多角化の第一歩

1957年6月、米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を設立した[51]。国内は「4大メーカーから、下は家内工業的な零細メーカーまで実に5000の醤油会社が、この狭い国内でしのぎを削っている」(読売新聞 1957/11/13)[52]状態で、見本の大量配布を含む販売競争が販売宣伝費を押し上げていた[53]。米国では醤油が日本食向けの特殊な調味料にとどまっていたが、西部アメリカのほとんどの主要都市でスーパーマーケットの販売権を取得し[54]、調理実演を重ねて一般家庭へ売り込んだ[55]。1961年には味の素と並ぶ国際商品として注目を集めるまでになった[56]

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1957年6月 米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を設立
  • 読売新聞(1957年11月13日)「なぜ、やすくならないか」
    • [52]1957年 国内には4大メーカーから零細まで5000の醤油会社
    • [53]見本の大量配布を含む販売競争で販売宣伝費が相当高くつく
  • 実業の世界 1961年2月号「アメリカの調味料界を脅かす・キッコーマン醤油」
    • [54]西部アメリカのほとんどの主要都市でスーパーマーケットの権利を取得
    • [55]スーパーマーケットにおける調理実習が人気を呼び黒山の人だかりを集めた
    • [56]1961年 米国で爆発的な人気を呼び味の素とともに国際商品として注目

国内では醤油の周辺へ事業を広げ、1961年7月に吉幸食品工業を設立した[57]。同社は1963年1月にキッコー食品工業、1991年7月に日本デルモンテへ商号を変えた[58]。1962年2月には利根飲料を設立して翌年に利根コカ・コーラボトリングへ改称し[59]、同年10月には勝沼洋酒を設立して1964年3月にマンズワインとした[60]。1964年10月[61]、社名を野田醤油からキッコーマン醤油へ改めた[62]。1967年12月期の売上高は333億1800万円、税引利益は9億3800万円で、醤油の売上比率は82%[63]を占めていた。米国向け輸出醤油では1968年時点で9割を握り、輸出体制の強化で「世界のキッコーマン醤油」を目ざす方針[64]を掲げていた。

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1961年7月 吉幸食品工業設立、1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [58]吉幸食品工業は1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [59]1962年2月 利根飲料設立、1963年2月 利根コカ・コーラボトリングへ商号変更
    • [60]1962年10月 勝沼洋酒設立、1964年3月 マンズワインへ商号変更
    • [61]1964年10月 キッコーマン醤油株式会社へ商号変更
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [62]1964年10月19日 新しい時代にふさわしいキッコーマン醤油へ社名変更
    • [63]1967年12月期 売上高333億1800万円・税引利益9億3800万円、醤油の売上比率82%
    • [64]1968年時点で米国向け輸出醤油の9割を占め「世界のキッコーマン醤油」を目ざす

米国での販路は自前の販社だけでは広がらず、醤油は地道な需要開拓を要する脇役の商品であることから[65]、自前販社の営業力だけでは限界があると判断して、日本の食材とセットで現地へ売り込む道を選んだ[66]。1969年6月、日系の食品卸会社JAPAN FOOD CORPORATIONに経営参加し[67]、同社は1978年6月にJFC INTERNATIONAL INC.へ商号を変えた[69]。1970年3月には太平洋貿易にも経営参加した[70]。1975年のベトナム戦争終結後、参戦の見返りにグリーンカードを与えられた韓国人やフィリピン人、カンボジアやベトナムの難民が米国へ渡り、アジア系人口とともにアジア食品の需要が拡大[71]した。 [68]

  • 週刊東洋経済 2008年7月19日号「空前の日本食ブームの陰の仕掛け人 ウォルマートの棚を仕切る「食品卸」キッコーマン」
    • [65]しょうゆは地味に需要開拓が必要な脇役の商品
    • [66]自前販社の営業力だけでは限界と判断し日本の食材とセットで現地にしょうゆを売り込む
    • [68]1969年 日系の食品卸会社JFCを買収
    • [71]1975年のベトナム戦争終結でグリーンカードを得た韓国人・フィリピン人や難民が渡米しアジア食品需要が拡大
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1969年6月 JAPAN FOOD CORPORATION(米国)に経営参加、1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [69]1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [70]1970年3月 太平洋貿易株式会社に経営参加
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1957年6月 米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を設立
    • [57]1961年7月 吉幸食品工業設立、1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [58]吉幸食品工業は1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [59]1962年2月 利根飲料設立、1963年2月 利根コカ・コーラボトリングへ商号変更
    • [60]1962年10月 勝沼洋酒設立、1964年3月 マンズワインへ商号変更
    • [61]1964年10月 キッコーマン醤油株式会社へ商号変更
    • [67]1969年6月 JAPAN FOOD CORPORATION(米国)に経営参加、1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [69]1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [70]1970年3月 太平洋貿易株式会社に経営参加
  • 読売新聞(1957年11月13日)「なぜ、やすくならないか」
    • [52]1957年 国内には4大メーカーから零細まで5000の醤油会社
    • [53]見本の大量配布を含む販売競争で販売宣伝費が相当高くつく
  • 実業の世界 1961年2月号「アメリカの調味料界を脅かす・キッコーマン醤油」
    • [54]西部アメリカのほとんどの主要都市でスーパーマーケットの権利を取得
    • [55]スーパーマーケットにおける調理実習が人気を呼び黒山の人だかりを集めた
    • [56]1961年 米国で爆発的な人気を呼び味の素とともに国際商品として注目
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [62]1964年10月19日 新しい時代にふさわしいキッコーマン醤油へ社名変更
    • [63]1967年12月期 売上高333億1800万円・税引利益9億3800万円、醤油の売上比率82%
    • [64]1968年時点で米国向け輸出醤油の9割を占め「世界のキッコーマン醤油」を目ざす
  • 週刊東洋経済 2008年7月19日号「空前の日本食ブームの陰の仕掛け人 ウォルマートの棚を仕切る「食品卸」キッコーマン」
    • [65]しょうゆは地味に需要開拓が必要な脇役の商品
    • [66]自前販社の営業力だけでは限界と判断し日本の食材とセットで現地にしょうゆを売り込む
    • [68]1969年 日系の食品卸会社JFCを買収
    • [71]1975年のベトナム戦争終結でグリーンカードを得た韓国人・フィリピン人や難民が渡米しアジア食品需要が拡大

ウォルワース工場という前例のない投資

1971年、キッコーマン醤油は役員会で米国での醤油の現地製造を正式な議題とした[72]。判断の根拠は三つあり、醤油の需要が順調に伸びて最小経済単位の工場を持てる量に達しつつあること[73]、海上運賃が年々上昇しており工場を建てれば製品運賃に加えて間接的に原料の運賃も節減できること[74]、日本人の人件費が急上昇して米国との差が縮小しつつあることだった[75]。この三点から「アメリカへ工場を作ろう」(日本醸造協会雑誌 1972/12)との意思決定が行われた[76]。役員会では、醤油の蔵にはそれぞれ独自の菌がすみついていると信じられており、微妙な味を異国の地で出せるかという不安が根強かった[77]

  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号「しょうゆの輸出について」(茂木友三郎)
    • [72]1971年 役員会で米国での醤油の現地製造を正式な議題とする
    • [73]醤油の需要が順調に伸び最小経済単位の工場を持てる量に達しつつある
    • [74]海上運賃の上昇で工場建設により製品運賃と間接的に原料の運賃も節減できる
    • [75]日本人の人件費が年々急上昇し米国との差が縮小しつつある
    • [76]「アメリカへ工場を作ろう」との意思決定
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号「古くても本物なら飽きられません」
    • [77]蔵付きの菌への信仰と、微妙な味を異国で出せるかという役員の不安

1972年3月、米国にKIKKOMAN FOODS, INC.を設立した[78]。用地はウィスコンシン州ウォルワースの農村地帯に求め、「200エーカーの土地を購入したが、当初は大きすぎるけれども、将来の発展を期待して大きなものを買った」(日本醸造協会雑誌 1972/12)[79]と、後の拡張余地まで見込んだ広さを取得した。建設には地元の農民や環境保護派が反発し、「絶対に工場を作らせない」(日本醸造協会雑誌 1976)という声が上がった[80]。茂木友三郎氏は「まるで選挙に立候補したかのように、農家の集まりに出向いたり個人宅を訪問して握手したり」(日本経済新聞 2006/7/17)[81]して、一軒ずつ合意を取りつけた。

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1972年3月 KIKKOMAN FOODS, INC.(米国)を設立
  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号「しょうゆの輸出について」(茂木友三郎)
    • [79]ウィスコンシン州ウォルワースの農村地帯に200エーカーの土地を取得
  • 日本醸造協会雑誌(1976年)「アメリカ工場その後」
    • [80]地元の反対「絶対に工場を作らせない」
  • 日本経済新聞(2006年7月17日)「米国工場建設、地元が猛反対」
    • [81]茂木友三郎が農家の集まりや個人宅を訪ねて説得して回った

工場は1973年6月に稼働した[82]。落成の挨拶で茂木啓三郎氏は「この工場は、キッコーマンのアメリカ工場ではなく、アメリカのキッコーマン工場である」[83]と述べた。設備は思い切って近代化し、日本より進んだ実験を経て日本と同じ製品[84]を現地で作れた。1978年時点のキッコーマン醤油は1社で35%のシェアを握り[85]、米国では「オール・パーパス・シーズニング(万能調味料)といって、ステーキだけでなく、サラダにかけたり、スープに2、3滴たらしたり、どんどん新しい用途が広がっている」(日経ビジネス 1978/4/24)[86]市場を得た。茂木啓三郎氏は海外で通用する理由を「食べ物は本物であって、うまいことが非常に大事なんです」(日経ビジネス 1978/4/24)[87]と語った。

  • キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)
    • [82]1973年6月 ウォルワース工場が稼働、「アメリカのキッコーマン工場」との挨拶
    • [83]茂木啓三郎の落成挨拶「キッコーマンのアメリカ工場ではなくアメリカのキッコーマン工場」
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号「古くても本物なら飽きられません」
    • [84]設備を思い切って近代化し日本より進んだ実験を経て日本と同じ製品ができた
    • [85]1978年 1社で35%のシェア
    • [86]米国で醤油がオール・パーパス・シーズニングとして用途を広げた
    • [87]茂木啓三郎「食べ物は本物であって、うまいことが非常に大事なんです」
  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号「しょうゆの輸出について」(茂木友三郎)
    • [72]1971年 役員会で米国での醤油の現地製造を正式な議題とする
    • [73]醤油の需要が順調に伸び最小経済単位の工場を持てる量に達しつつある
    • [74]海上運賃の上昇で工場建設により製品運賃と間接的に原料の運賃も節減できる
    • [75]日本人の人件費が年々急上昇し米国との差が縮小しつつある
    • [76]「アメリカへ工場を作ろう」との意思決定
    • [79]ウィスコンシン州ウォルワースの農村地帯に200エーカーの土地を取得
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号「古くても本物なら飽きられません」
    • [77]蔵付きの菌への信仰と、微妙な味を異国で出せるかという役員の不安
    • [84]設備を思い切って近代化し日本より進んだ実験を経て日本と同じ製品ができた
    • [85]1978年 1社で35%のシェア
    • [86]米国で醤油がオール・パーパス・シーズニングとして用途を広げた
    • [87]茂木啓三郎「食べ物は本物であって、うまいことが非常に大事なんです」
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1972年3月 KIKKOMAN FOODS, INC.(米国)を設立
  • 日本醸造協会雑誌(1976年)「アメリカ工場その後」
    • [80]地元の反対「絶対に工場を作らせない」
  • 日本経済新聞(2006年7月17日)「米国工場建設、地元が猛反対」
    • [81]茂木友三郎が農家の集まりや個人宅を訪ねて説得して回った
  • キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)
    • [82]1973年6月 ウォルワース工場が稼働、「アメリカのキッコーマン工場」との挨拶
    • [83]茂木啓三郎の落成挨拶「キッコーマンのアメリカ工場ではなくアメリカのキッコーマン工場」

大型化・多角化・国際化という三つの路線

1974年時点のキッコーマン醤油は、しょう油市場の30%強を押える業界最大手でありながら[88]、肝心のしょう油需要そのものが年2〜3%しか伸びない状態にあった[89]。そこで打ち出したのが、しょう油需要の一層の開拓とシェア拡大を軸とした「大型化」、米国デルモンテ社との合弁による日本カルパックの設立などにみられる「多角化」、しょう油を前年から米国で生産する「国際化」の三つの基本路線だった[90]。日本カルパックはトマトケチャップやトマトジュースを生産した[91]。ワインは1964年の生産開始から満10年を数え[92]、日本のワインの出荷量と輸入量はともに1972年以降に急増した[93]

  • 日経ビジネス 1974年9月2日号「わが社の戦略前線 キッコーマン醤油のレストラン進出 しょう油—肉—ワイン 新しい嗜好ラインの実験」
    • [88]1974年 しょう油市場の30%強を押える業界最大手
    • [89]しょう油需要そのものは年2〜3%しか伸びない
    • [90]「大型化」「多角化」「国際化」の三つの基本路線
    • [91]日本カルパックはトマトケチャップ・トマトジュースなどを生産
    • [92]ワイン生産は1974年でことし満10年目
    • [93]日本のワインの出荷量と輸入量は1972年以降に急増

レストランへの進出は、この三路線を一つの店で試す場となった[94]。1973年6月に西独デュッセルドルフでレストラン会社サン大都会と合弁して「キッコーマン大都会ヨーロッパ」を設立し[95]、しょう油の欧州普及に乗り出した。国内では1974年5月末に東京・六本木で1号店「六本木コルザ」を開き[96]、牛肉や豚肉をしょう油ベースのタレで味つけして供し、同社製のワインもあわせて飲んでもらう趣向とした[97]。しょう油と肉とワインという新しい食習慣を導き出すための実験店で、東京とその周辺を中心にチェーン化する計画[98]も置いた。茂木佐平治氏は「需要が需要を呼ぶエコーデマンド(echo demand)に大いに期待する」[99]と述べた。

  • 日経ビジネス 1974年9月2日号「わが社の戦略前線 キッコーマン醤油のレストラン進出 しょう油—肉—ワイン 新しい嗜好ラインの実験」
    • [94]レストラン進出は肉料理にしょう油を使うことでしょう油事業の大型化に貢献する基本路線上の一手
    • [95]1973年6月 西独デュッセルドルフでサン大都会と合弁し「キッコーマン大都会ヨーロッパ」を設立
    • [96]1974年5月末 東京・六本木に1号店「六本木コルザ」を開店
    • [97]牛肉・豚肉をしょう油ベースのタレで味つけし同社製ワインもあわせて供する趣向
    • [98]新しい食習慣を導き出すための実験店、東京とその周辺でのチェーン展開計画
    • [99]茂木佐平治社長「需要が需要を呼ぶエコーデマンドに大いに期待する」
  • 日経ビジネス 1974年9月2日号「わが社の戦略前線 キッコーマン醤油のレストラン進出 しょう油—肉—ワイン 新しい嗜好ラインの実験」
    • [88]1974年 しょう油市場の30%強を押える業界最大手
    • [89]しょう油需要そのものは年2〜3%しか伸びない
    • [90]「大型化」「多角化」「国際化」の三つの基本路線
    • [91]日本カルパックはトマトケチャップ・トマトジュースなどを生産
    • [92]ワイン生産は1974年でことし満10年目
    • [93]日本のワインの出荷量と輸入量は1972年以降に急増
    • [94]レストラン進出は肉料理にしょう油を使うことでしょう油事業の大型化に貢献する基本路線上の一手
    • [95]1973年6月 西独デュッセルドルフでサン大都会と合弁し「キッコーマン大都会ヨーロッパ」を設立
    • [96]1974年5月末 東京・六本木に1号店「六本木コルザ」を開店
    • [97]牛肉・豚肉をしょう油ベースのタレで味つけし同社製ワインもあわせて供する趣向
    • [98]新しい食習慣を導き出すための実験店、東京とその周辺でのチェーン展開計画
    • [99]茂木佐平治社長「需要が需要を呼ぶエコーデマンドに大いに期待する」

1980年〜 脱醤油の多角化とPB攻勢下の「攻め」への転換

キッコーマンの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1980年 キッコーマンに商号変更
  2. 1983年 KIKKOMAN(S)を設立
  3. 1985年 マンズワインで異物混入事件が発生
  4. 1986年 千歳工場を新設
  5. 1990年 デルモンテ商標の使用権を取得
  6. 1995年 米国流トップダウンへの意思決定様式の転換 同族色の強い老舗で、茂木友三郎社長は意思決定の速さそのものをどう変えようとしたか
  7. 1996年 プロダクト・マネジャー制を軸にした「守り」から「攻め」への方針転換 縮むしょうゆ市場とPBの価格攻勢のなかで、茂木友三郎社長は老舗の組織をどう動かそうとしたか

デルモンテ商標権の取得と脱醤油の模索

1980年10月、社名をキッコーマン醤油からキッコーマン株式会社へ改めた[100]。海外の生産拠点は1983年6月のKIKKOMAN (S) PTE. LTD.(シンガポール)設立[101]で北米以外へも広がり、国内では1986年8月に千歳工場を新設した[102]。デルモンテとの関係は古く、1963年からライセンス契約を結んで日本国内でデルモンテ製品を製造・販売してきた[103]。1988年12月ごろ、米大手たばこ・食品会社RJRナビスコを買収した投資会社KKRがデルモンテ事業の売却話[104]を持ち出した。条件が二転三転してなかなか売却先が決まらない難しい案件[105]だった。

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1980年10月 キッコーマン株式会社へ商号変更
    • [101]1983年6月 KIKKOMAN (S) PTE. LTD.(シンガポール)を設立
    • [102]1986年8月 千歳工場(現北海道キッコーマン株式会社)を新設
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号「M&A戦略 キッコーマン 計算ずくの大型買収、ブランド力に期待」
    • [103]1963年からライセンス契約で日本国内のデルモンテ製品を製造・販売
    • [104]デルモンテの売却話は1988年12月ごろ、KKRがRJRナビスコを買収
    • [105]条件が二転三転しなかなか売却先が決まらない難しい案件

1990年1月、キッコーマンはデルモンテ商標の日本およびアジア・太平洋地域の永久専用使用権を取得した[106]。投じた総額は1億5000万ドルで、1ドル140円換算でおよそ210億円[107]にあたる。内訳は資本参加が5000万ドル、残る1億ドルが極東商標権と販売権の見返りで[108]、三井物産が持っていた日本での輸入販売権も併せて手に入れた[109]。1989年12月期予想の売上高1450億円、経常利益41億円という規模からして小さな投資ではなく[110]、案件は日本長期信用銀行と組んで2年以上前から進めてきた[111]。買収の責任者となった福島男兒氏は「デルモンテ事業の今後の展開次第だが、うちはうちでちゃんと計算している。決して高い買い物ではない」と述べた。 [112]

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [106]1990年1月 デルモンテ商標の日本及びアジア・太平洋地域(除くフィリピン)の永久専用使用権を取得
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号「M&A戦略 キッコーマン 計算ずくの大型買収、ブランド力に期待」
    • [107]総投資額1億5000万ドル、1ドル140円換算でおよそ210億円
    • [108]5000万ドルを資本参加分、残り1億ドルを極東商標権・営業権の買い取りに充当
    • [109]三井物産が持っていた日本での輸入販売権も併せて入手
    • [110]1989年12月期予想 売上1450億円・経常利益41億円
    • [111]日本長期信用銀行と組んで2年以上前から進めたプロジェクト
    • [112]福島男兒常務「決して高い買い物ではない」

回収の見通しは楽観できず、210億円を法定償却期間の10年で単純に割ると1年あたり21億円の負担になった[113]。これに対し、極東から入るブランド料と輸入マージンが2億円から3億円、それまでデルモンテへ払っていたロイヤリティーなどで4億円から5億円、1年間に入ってくる配当が7億円程度で、全部足しても13億円から15億円にしかならなかった[114]。主戦場となる国内のケチャップ市場ではキッコーマンのシェアが20%で、60%を持つカゴメとの開きは大きかった[115]。それでも脱醤油を進めるうえで食品事業の強化は避けて通れない道で[116]、以前キッコーマンブランドでドレッシングを売り出したものの和風のイメージが災いして失敗した経験があった[117]

  • 日経ビジネス 1990年1月15日号「M&A戦略 キッコーマン 計算ずくの大型買収、ブランド力に期待」
    • [113]210億円を法定償却期間10年で割ると1年で21億円の負担
    • [114]ブランド料と輸入マージン2〜3億円、ロイヤリティー等4〜5億円、配当7億円程度で合計13〜15億円
    • [115]国内ケチャップ市場のシェアはキッコーマン20%、カゴメ60%
    • [116]脱醤油を推し進めるうえで食品事業の強化は避けて通れない道
    • [117]キッコーマンブランドのドレッシングは和風のイメージが災いして失敗
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1980年10月 キッコーマン株式会社へ商号変更
    • [101]1983年6月 KIKKOMAN (S) PTE. LTD.(シンガポール)を設立
    • [102]1986年8月 千歳工場(現北海道キッコーマン株式会社)を新設
    • [106]1990年1月 デルモンテ商標の日本及びアジア・太平洋地域(除くフィリピン)の永久専用使用権を取得
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号「M&A戦略 キッコーマン 計算ずくの大型買収、ブランド力に期待」
    • [103]1963年からライセンス契約で日本国内のデルモンテ製品を製造・販売
    • [104]デルモンテの売却話は1988年12月ごろ、KKRがRJRナビスコを買収
    • [105]条件が二転三転しなかなか売却先が決まらない難しい案件
    • [107]総投資額1億5000万ドル、1ドル140円換算でおよそ210億円
    • [108]5000万ドルを資本参加分、残り1億ドルを極東商標権・営業権の買い取りに充当
    • [109]三井物産が持っていた日本での輸入販売権も併せて入手
    • [110]1989年12月期予想 売上1450億円・経常利益41億円
    • [111]日本長期信用銀行と組んで2年以上前から進めたプロジェクト
    • [112]福島男兒常務「決して高い買い物ではない」
    • [113]210億円を法定償却期間10年で割ると1年で21億円の負担
    • [114]ブランド料と輸入マージン2〜3億円、ロイヤリティー等4〜5億円、配当7億円程度で合計13〜15億円
    • [115]国内ケチャップ市場のシェアはキッコーマン20%、カゴメ60%
    • [116]脱醤油を推し進めるうえで食品事業の強化は避けて通れない道
    • [117]キッコーマンブランドのドレッシングは和風のイメージが災いして失敗

プライベートブランドの価格攻勢と社長交代

1993年春、158円のプライベートブランドのしょうゆが登場した[118]。キッコーマンの最大の売れ筋である「こいくちしょうゆ1リットル入り」は希望小売価格が330円、特売価格でも250〜260円で[119]、200円を切るPBとの差は開いていた。国内事業は過去10年ほとんど伸びず、PBしょうゆへの対応策は後手[120]に回った。国内のしょうゆ市場は1970年代前半を境に縮小傾向が止まらない一方、つゆやたれなどしょうゆを使った加工調味料は料理の手間を省きたい消費者の需要をつかんで拡大[121]していた。1994年12月期の連結売上高は2010億円、経常利益83億円、当期純利益66億円で[122]、この期は3期連続の減収益見込みだった[123]

  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
    • [118]1993年春 158円のPBしょうゆが登場、PBは200円を切った
    • [119]こいくちしょうゆ1リットル入りは希望小売330円・特売250〜260円
    • [120]国内事業は過去10年ほとんど伸びず、PBしょうゆへの対応策は後手に回った
    • [121]国内しょうゆ市場は1970年代前半を境に縮小、つゆ・たれなど加工調味料は拡大
  • キッコーマン 有価証券報告書(1994年12月期・連結)
    • [122]1994年12月期 連結売上高2010億円・経常利益83億円・当期純利益66億円
  • 日経ビジネス 1995年5月15日号「茂木友三郎氏[キッコーマン]登場 米国流トップダウンで老舗を改革」
    • [123]主力しょうゆがPBに食われ3期連続の減収益見込み

1995年2月、中野孝三郎前社長の急逝で茂木友三郎氏が社長に就いた[124]。創業八家の一員だが、米コロンビア大学でMBAを取得し、長期計画の立案や情報システムの導入といった新基軸を担い、米国進出の立役者[125]でもあった。米国流のトップダウンを好み、理想とする組織のあり方は前社長と対照的[126]だった。就任早々に商品別の責任者を決めて社長室を拡充し、情報を自分に集めて指示を直接出す体制づくりを進め、部下への指示には必ず期限[127]を設けた。ある幹部は前社長との違いを「電話、手紙など社長への生の情報量がケタ違いに増えた」[128]と語り、スピードとは無縁だった社内には「一気に緊張感がみなぎった」[129]と中堅社員が述べた。

  • 日経ビジネス 1995年5月15日号「茂木友三郎氏[キッコーマン]登場 米国流トップダウンで老舗を改革」
    • [124]1995年2月 中野孝三郎前社長の急逝で茂木友三郎が社長就任
    • [125]創業八家の一員、米コロンビア大学でMBA取得、長期計画立案・情報システム導入を担い米国進出の立役者
    • [126]米国流のトップダウンを好み理想とする組織のあり方が前社長と対照的
    • [127]就任早々に商品別責任者を決め社長室を拡充、情報を集めて直接指示、指示には必ず期限
    • [128]幹部が語る「電話、手紙など社長への生の情報量がケタ違いに増えた」
    • [129]中堅社員が語る「一気に緊張感がみなぎった」
  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
    • [118]1993年春 158円のPBしょうゆが登場、PBは200円を切った
    • [119]こいくちしょうゆ1リットル入りは希望小売330円・特売250〜260円
    • [120]国内事業は過去10年ほとんど伸びず、PBしょうゆへの対応策は後手に回った
    • [121]国内しょうゆ市場は1970年代前半を境に縮小、つゆ・たれなど加工調味料は拡大
  • キッコーマン 有価証券報告書(1994年12月期・連結)
    • [122]1994年12月期 連結売上高2010億円・経常利益83億円・当期純利益66億円
  • 日経ビジネス 1995年5月15日号「茂木友三郎氏[キッコーマン]登場 米国流トップダウンで老舗を改革」
    • [123]主力しょうゆがPBに食われ3期連続の減収益見込み
    • [124]1995年2月 中野孝三郎前社長の急逝で茂木友三郎が社長就任
    • [125]創業八家の一員、米コロンビア大学でMBA取得、長期計画立案・情報システム導入を担い米国進出の立役者
    • [126]米国流のトップダウンを好み理想とする組織のあり方が前社長と対照的
    • [127]就任早々に商品別責任者を決め社長室を拡充、情報を集めて直接指示、指示には必ず期限
    • [128]幹部が語る「電話、手紙など社長への生の情報量がケタ違いに増えた」
    • [129]中堅社員が語る「一気に緊張感がみなぎった」

プロダクト・マネジャー制と欧米での増産

1995年4月、茂木友三郎氏の肝いりでプロダクト・マネジャー室を新設し、社長直属の組織とした[130]。生産から販売まで商品を横断的に見て調整役を果たす7人のプロダクト・マネジャーを置き、それぞれに生産から販売までの全責任[131]を負わせた。1996年4月、「しょうゆ需要の深耕」を合言葉に、価格面でも商品開発でも守りから攻めへ転じた[132]。社長就任から1年を経た茂木友三郎氏は「どこをどう押せば、組織が動くのかがわかってきた」[133]と語った。1995年12月期の連結売上高は2033億円、経常利益85億円、当期純利益44億円[134]だった。

  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
    • [130]1995年4月 プロダクト・マネジャー室を新設し社長直属の組織とする
    • [131]7人のプロダクト・マネジャーが生産から販売まで商品を横断的に見て全責任を負う
    • [132]1996年4月 「しょうゆ需要の深耕」を合言葉に価格・商品開発の両面で守りから攻めへ転換
    • [133]茂木友三郎「どこをどう押せば、組織が動くのかがわかってきた」
  • キッコーマン 有価証券報告書(1995年12月期・連結)
    • [134]1995年12月期 連結売上高2033億円・経常利益85億円・当期純利益44億円

1995年中に海外の生産拠点を2カ所増やすことを決め、米国第2工場(当時の計画ではウィスコンシン)と欧州向けのオランダ工場をいずれも1998年中の稼働見込み[135]とした。1996年4月にKIKKOMAN FOODS EUROPE B.V.(オランダ)を設立し[136]、1998年10月には米国第2工場としてKIKKOMAN FOODS, INC.のカリフォルニア工場を新設した[137]。国内は改革の効果が見えにくいまま推移し、1997年5月に茂木友三郎氏は「まだ、残念ながら攻めの形が企業としてできていない」と述べ、同年10月の創立80周年に向けて挑戦と変革を掲げた[138]。1999年になっても「1位のキッコマンでも3割弱に過ぎず、大手5社を合わせても5割にも満たない」「広告宣伝をベースにした地道な営業の限界も見えてきた」(日経金融新聞 1999/4/15)[139]状態が続いた。

  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
    • [135]1995年中に米国第2工場(ウィスコンシン)と欧州向けオランダ工場の建設を決定、いずれも1998年中稼働見込み
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [136]1996年4月 KIKKOMAN FOODS EUROPE B.V.(オランダ)を設立
    • [137]1998年10月 KIKKOMAN FOODS, INC.カリフォルニア工場を新設
  • 週刊東洋経済 1997年5月10日号「[ザ・トーク]茂木友三郎・キッコーマン社長/堀義和・日本コダック社長」
    • [138]茂木友三郎「まだ、残念ながら攻めの形が企業としてできていない」、1997年10月に80周年、挑戦と変革を目標に置く
  • 日経金融新聞(1999年4月15日)「“しょうゆ”再建課題」
    • [139]1999年 国内しょうゆシェアは1位でも3割弱、大手5社で5割未満、広告宣伝ベースの営業の限界
  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
    • [130]1995年4月 プロダクト・マネジャー室を新設し社長直属の組織とする
    • [131]7人のプロダクト・マネジャーが生産から販売まで商品を横断的に見て全責任を負う
    • [132]1996年4月 「しょうゆ需要の深耕」を合言葉に価格・商品開発の両面で守りから攻めへ転換
    • [133]茂木友三郎「どこをどう押せば、組織が動くのかがわかってきた」
    • [135]1995年中に米国第2工場(ウィスコンシン)と欧州向けオランダ工場の建設を決定、いずれも1998年中稼働見込み
  • キッコーマン 有価証券報告書(1995年12月期・連結)
    • [134]1995年12月期 連結売上高2033億円・経常利益85億円・当期純利益44億円
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [136]1996年4月 KIKKOMAN FOODS EUROPE B.V.(オランダ)を設立
    • [137]1998年10月 KIKKOMAN FOODS, INC.カリフォルニア工場を新設
  • 週刊東洋経済 1997年5月10日号「[ザ・トーク]茂木友三郎・キッコーマン社長/堀義和・日本コダック社長」
    • [138]茂木友三郎「まだ、残念ながら攻めの形が企業としてできていない」、1997年10月に80周年、挑戦と変革を目標に置く
  • 日経金融新聞(1999年4月15日)「“しょうゆ”再建課題」
    • [139]1999年 国内しょうゆシェアは1位でも3割弱、大手5社で5割未満、広告宣伝ベースの営業の限界

2000年〜 多角化事業の整理と海外事業による収益の主柱化

キッコーマンの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2001年 決算期変更により赤字転落
  2. 2004年 ヒゲタ醤油に資本参加
  3. 2006年 焼酎事業をサッポロビールに譲渡
  4. 2008年 紀文フードケミファを買収
  5. 2009年 持株会社制に移行
  6. 2017年 創立100周年
  7. 2018年 グローバルビジョン2030を策定

創業家以外の社長と米国食品卸の伸長

2004年3月、ヒゲタ醤油に資本参加し、紀文食品グループと資本・業務提携を結んだ[140]。同年6月、牛久崇司氏が代表取締役社長兼COOに就き、設立から87年、11代目にして創業一族以外から初めてトップに立った[141]。取締役の序列では下から数えたほうが早く、主流であるマーケティングや営業、海外部門の出身[142]でもなかった。ほぼ一貫して経理畑を歩み、予算達成のための横断組織「予算管理委員会」の委員長として収益改善の陣頭指揮[143]を執ってきた。当面の経営課題は単体業績の改善で、連結経常利益が154億円あるのに単体経常利益は47億円にとどまっていた[144]

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [140]2004年3月 ヒゲタ醤油株式会社に資本参加、紀文食品グループと資本・業務提携
  • 週刊東洋経済 2004年10月16日号「[トップの履歴書]創業一族以外で初の社長 目指すは単独業績の改善 キッコーマン社長 牛久崇司」
    • [141]2004年6月 牛久崇司が代表取締役社長兼COOに就任、設立から87年・11代目で創業一族以外から初のトップ
    • [142]取締役の序列では下から数えたほうが早く、マーケティング・営業・海外部門の出身ではない
    • [143]ほぼ一貫して経理畑、予算管理委員会の委員長として収益改善の陣頭指揮
    • [144]当面の経営課題は単体業績の改善、連結経常利益154億円に対し単体経常利益47億円

2004年、子会社のジャパン・フード・コーポレーションが米ウォルマートのカテゴリーアドバイザーとなり、全米2500店のアジア食品売り場の管理を一手に引き受けた[145]。日系企業でウォルマートのカテゴリーアドバイザーを任されたのはJFCだけで、取り扱い商品は1万アイテムに達し、親会社のしょうゆは品ぞろえの一つにすぎない[146]ところまで伸びた。全米18カ所の物流拠点を持ち[147]、2008年6月にはロサンゼルスに4温度帯対応の物流センターを完成させた[148]。当時のキッコーマンは100カ国以上でしょうゆを販売し、海外6工場の生産能力は合計で年間20万キロリットル、需要が頭打ちの国内は24万キロリットルだった[149]。2008年3月期の海外しょうゆ事業の売上高は約500億円、営業利益は90億円近くで、キッコーマン本体の同40億円強[150]を上回った。食品卸の営業利益率5%はしょうゆの18%に届かないものの、売上規模では同事業を圧倒[151]した。

  • 週刊東洋経済 2008年7月19日号「空前の日本食ブームの陰の仕掛け人 ウォルマートの棚を仕切る「食品卸」キッコーマン」
    • [145]2004年 JFCがウォルマートのカテゴリーアドバイザーとなり全米2500店のアジア食品売り場を管理
    • [146]日系企業でウォルマートのカテゴリーアドバイザーはJFCだけ、取扱商品1万アイテム、しょうゆは品ぞろえの一つにすぎない
    • [147]全米18カ所の物流拠点
    • [148]2008年6月 ロサンゼルスに4温度帯対応の最新鋭物流センターを完成
    • [149]100カ国以上でしょうゆを販売、海外6工場の生産能力は年間20万キロリットル、国内は24万キロリットル
    • [150]2008年3月期 海外しょうゆ事業の売上高約500億円・営業利益90億円近く、本体は40億円強
    • [151]食品卸の営業利益率5%、しょうゆは18%、売上規模では食品卸が圧倒

多角化で抱えた事業は順に手放し、2006年4月に焼酎事業等をサッポロビール株式会社へ譲渡[152]、2009年3月には利根コカ・コーラボトリング株式会社の株式を一部譲渡した[153]。一方で2008年6月に理研ビタミン株式会社と資本・業務提携を結び[154]、同年8月には株式会社紀文フードケミファの全株式を取得した[155]。同社は2009年4月にフードケミファ、2011年4月にキッコーマンソイフーズへ商号を変えた[156]。買収当初140億円だった豆乳飲料の売り上げは、健康志向を背景に2021年3月期の411億円[157]まで伸びた。2009年10月には持株会社制へ移行した[158]

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [152]2006年4月 焼酎事業等をサッポロビール株式会社へ譲渡
    • [153]2009年3月 利根コカ・コーラボトリング株式会社の株式を一部譲渡
    • [154]2008年6月 理研ビタミン株式会社と資本・業務提携
    • [155]2008年8月 株式会社紀文フードケミファの全株式を取得
    • [156]2009年4月 フードケミファ、2011年4月 キッコーマンソイフーズへ商号変更
    • [158]2009年10月 持株会社制へ移行
  • 週刊東洋経済 2021年6月5日号「ニュース最前線 03 キッコーマン、トップ交代 8年ぶり新社長が担う重責」
    • [157]買収当初140億円の豆乳飲料が2021年3月期に411億円へ
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [140]2004年3月 ヒゲタ醤油株式会社に資本参加、紀文食品グループと資本・業務提携
    • [152]2006年4月 焼酎事業等をサッポロビール株式会社へ譲渡
    • [153]2009年3月 利根コカ・コーラボトリング株式会社の株式を一部譲渡
    • [154]2008年6月 理研ビタミン株式会社と資本・業務提携
    • [155]2008年8月 株式会社紀文フードケミファの全株式を取得
    • [156]2009年4月 フードケミファ、2011年4月 キッコーマンソイフーズへ商号変更
    • [158]2009年10月 持株会社制へ移行
  • 週刊東洋経済 2004年10月16日号「[トップの履歴書]創業一族以外で初の社長 目指すは単独業績の改善 キッコーマン社長 牛久崇司」
    • [141]2004年6月 牛久崇司が代表取締役社長兼COOに就任、設立から87年・11代目で創業一族以外から初のトップ
    • [142]取締役の序列では下から数えたほうが早く、マーケティング・営業・海外部門の出身ではない
    • [143]ほぼ一貫して経理畑、予算管理委員会の委員長として収益改善の陣頭指揮
    • [144]当面の経営課題は単体業績の改善、連結経常利益154億円に対し単体経常利益47億円
  • 週刊東洋経済 2008年7月19日号「空前の日本食ブームの陰の仕掛け人 ウォルマートの棚を仕切る「食品卸」キッコーマン」
    • [145]2004年 JFCがウォルマートのカテゴリーアドバイザーとなり全米2500店のアジア食品売り場を管理
    • [146]日系企業でウォルマートのカテゴリーアドバイザーはJFCだけ、取扱商品1万アイテム、しょうゆは品ぞろえの一つにすぎない
    • [147]全米18カ所の物流拠点
    • [148]2008年6月 ロサンゼルスに4温度帯対応の最新鋭物流センターを完成
    • [149]100カ国以上でしょうゆを販売、海外6工場の生産能力は年間20万キロリットル、国内は24万キロリットル
    • [150]2008年3月期 海外しょうゆ事業の売上高約500億円・営業利益90億円近く、本体は40億円強
    • [151]食品卸の営業利益率5%、しょうゆは18%、売上規模では食品卸が圧倒
  • 週刊東洋経済 2021年6月5日号「ニュース最前線 03 キッコーマン、トップ交代 8年ぶり新社長が担う重責」
    • [157]買収当初140億円の豆乳飲料が2021年3月期に411億円へ

高付加価値品への転換と海外比率の上昇

国内では価格ではなく容器で活路を開き、2010年に「いつでも新鮮 しぼりたて生しょうゆ」のパウチを発売、2011年に200ミリリットルの卓上ボトル、2012年に450ミリリットルを投入した[159]。加熱殺菌をしない生しょうゆは酸化が早いため密封容器を要し、ボトルの中にしょうゆのパウチを入れた二重構造とし、注ぎ口には空気が入らないよう逆止弁[160]を装着した。本体を押すと内側のパウチと外側のボトルの間に入った空気の圧力でしょうゆが出る仕組みで、軽く押せば1滴ずつ、長く押せばまとまった量[161]が出せる。鮮度を保てる期間は従来の3倍の90日[162]に延びた。価格は280円と通常の500ミリリットルしょうゆより3割高かったが、売り上げは前年比8割増のペースで伸び、購入者の9割が「また買いたい」[163]と答えた。

  • 週刊東洋経済 2012年12月22日号「特集 PB商品の裏側 PART2 メーカーの損得 小売りに歩み寄る企業、NBにこだわる企業」
    • [159]2010年 いつでも新鮮しぼりたて生しょうゆのパウチ発売、2011年 卓上ボトル200ml、2012年 450ml
    • [160]火入れをしないため酸化が早く密封容器が必要、ボトル内にパウチを入れた二重構造と逆止弁
    • [161]本体を押すと空気圧でしょうゆが出る、軽く押せば1滴ずつ、長く押せばまとまった量
    • [162]鮮度を保てる期間は90日で従来の3倍
    • [163]280円で通常の500mlしょうゆより3割高、売上は前年比8割増、購入者の9割が「また買いたい」

2013年6月、堀切功章氏が社長CEOに就いた[164]。2016年3月期には営業利益の7割を海外で稼ぎ、海外食品事業の営業利益率19%に対して国内は4%[165]にとどまった。堀切功章氏は差の理由を、国内のしょうゆが家庭にあって当たり前の成熟商品でメーカーも多く価格競争があるのに対し、海外ではまだ新しい製品で、成長する市場のなかで圧倒的なシェアを持つ点に求め[166]、米国の家庭用しょうゆ市場の6割近くを占めていると述べた[167]。もっとも「営業利益の7割が海外というのは、海外に頼りすぎている。売り上げ比率と同じ、6割くらいが健全だと思う」とも語り、国内で稼ぐ力を戻す必要を認めた。豆乳は国内売上高の2割弱を占め、シェアは5割以上[169]だった。 [168]

  • 週刊東洋経済 2016年10月22日号「この人に聞く キッコーマン 社長CEO 堀切功章 しょうゆは「新しい」製品 海外でもっと伸ばせる」
    • [164]2013年6月 堀切功章が社長CEOに就任
    • [165]2016年3月期 営業利益の7割を海外で稼ぐ、海外食品事業の営業利益率19%・国内4%
    • [166]国内は成熟市場でメーカーも多く価格競争、海外は新しい製品で成長市場のなか圧倒的シェア
    • [167]米国の家庭用しょうゆ市場の6割近くを占める
    • [168]堀切功章「営業利益の7割が海外というのは、海外に頼りすぎている。売り上げ比率と同じ、6割くらいが健全だと思う」
    • [169]豆乳は国内売上高の2割弱、シェア5割以上
  • 週刊東洋経済 2012年12月22日号「特集 PB商品の裏側 PART2 メーカーの損得 小売りに歩み寄る企業、NBにこだわる企業」
    • [159]2010年 いつでも新鮮しぼりたて生しょうゆのパウチ発売、2011年 卓上ボトル200ml、2012年 450ml
    • [160]火入れをしないため酸化が早く密封容器が必要、ボトル内にパウチを入れた二重構造と逆止弁
    • [161]本体を押すと空気圧でしょうゆが出る、軽く押せば1滴ずつ、長く押せばまとまった量
    • [162]鮮度を保てる期間は90日で従来の3倍
    • [163]280円で通常の500mlしょうゆより3割高、売上は前年比8割増、購入者の9割が「また買いたい」
  • 週刊東洋経済 2016年10月22日号「この人に聞く キッコーマン 社長CEO 堀切功章 しょうゆは「新しい」製品 海外でもっと伸ばせる」
    • [164]2013年6月 堀切功章が社長CEOに就任
    • [165]2016年3月期 営業利益の7割を海外で稼ぐ、海外食品事業の営業利益率19%・国内4%
    • [166]国内は成熟市場でメーカーも多く価格競争、海外は新しい製品で成長市場のなか圧倒的シェア
    • [167]米国の家庭用しょうゆ市場の6割近くを占める
    • [168]堀切功章「営業利益の7割が海外というのは、海外に頼りすぎている。売り上げ比率と同じ、6割くらいが健全だと思う」
    • [169]豆乳は国内売上高の2割弱、シェア5割以上

海外が主柱となった収益構造と創業家の統治

2018年、キッコーマンは「グローバルビジョン2030」を掲げ、北米や成長途上の欧州、豪州に加え、2020年代に南米、2030年以降にアフリカやインドで成長ステージに入ることを目標[170]に置いた。2019年3月期は売上高4420億円、営業利益376億円の見通しで[171]、海外事業は売上高の6割、営業利益の7割超を占めた[172]。北米の営業利益率が20%を超えたのに対し、国内の食料品製造・販売セグメントは6%台[173]だった。米国では競合がヤマサ醤油子会社のサンジルシ醸造など数社にとどまり[174]、現地販売会社の島田政直氏は「われわれは本醸造、無添加という点を売りにしている。価格勝負をする気はない」と述べた。米国食品医薬品局が高血圧対策として食塩含有量の削減を推奨するなか、減塩しょうゆは販売構成比2割ながら2ケタの伸び[176]を示した。 [175]

  • 週刊東洋経済 2021年6月5日号「ニュース最前線 03 キッコーマン、トップ交代 8年ぶり新社長が担う重責」
    • [170]2018年 グローバルビジョン2030を発表、北米・欧州・豪州に加え2020年代に南米、2030年以降にアフリカ・インドで成長ステージへ
  • 週刊東洋経済 2018年10月20日号「第1特集 絶好調企業の秘密 稼ぐ力をつけた日本企業 伸びる企業2 海外が好調な企業」
    • [171]2019年3月期 売上高4420億円・営業利益376億円の見通し
    • [172]海外事業が売上高の6割・営業利益の7割超
    • [173]北米の営業利益率20%超、国内の食料品製造・販売セグメントは6%台
    • [174]米国の競合はヤマサ醤油子会社のサンジルシ醸造など数社程度
    • [175]現地販売会社の島田政直社長「われわれは本醸造、無添加という点を売りにしている。価格勝負をする気はない」
    • [176]FDAが高血圧対策で食塩含有量の削減を推奨、減塩しょうゆは構成比2割で2ケタ成長

食品卸では競争が激しくなり、JFCの全米売上高は約1300億円、営業利益は58億円で現地最大の日本食材卸となったものの[177]、宝ホールディングス傘下のミューチャルトレーディングや西本Wismettacホールディングスが同じ市場で伸び[178]、西本の北米拠点数23カ所はJFCを上回った[179]。欧州ではフランスと英国で現地の食材卸会社を買収した宝ホールディングスが先行し[180]、茂木修氏は「卸事業の伸び率は欧州が最も高い。米国での実績をアピールしつつ、欧州域内の拠点も増やして取引先を開拓していく」と述べた。2021年6月、中野祥三郎氏が社長COOに就き、堀切功章氏は会長としてCEOを続けた[182]堀切功章氏が率いた8年間で売上高は2013年3月期の3002億円から2021年3月期の4681億円へ、純利益は110億円から288億円へ伸び、8期連続で過去最高益を更新した[183][181]

  • 週刊東洋経済 2018年11月3日号「産業リポート 海外で日本食を支える黒子3社 海外にも広がる日本食 商機つかむ“黒子”の3社」
    • [177]JFCの全米売上高約1300億円・営業利益58億円、現地最大の日本食材卸
    • [178]宝HD傘下のミューチャルトレーディングと西本Wismettac HDが同市場で伸長
    • [179]西本の北米拠点は23カ所でJFCをしのぐ
    • [180]欧州ではフランスと英国で現地の食材卸会社を買収した宝HDが先行
    • [181]茂木修取締役・国際事業本部長「卸事業の伸び率は欧州が最も高い」
  • 週刊東洋経済 2021年6月5日号「ニュース最前線 03 キッコーマン、トップ交代 8年ぶり新社長が担う重責」
    • [182]2021年6月 中野祥三郎が社長COOに昇格、堀切功章は会長としてCEOを継続
    • [183]2013年3月期3002億円から2021年3月期4681億円へ、純利益110億円から288億円へ、8期連続で過去最高益

2023年6月、中野祥三郎氏が堀切功章会長からCEOを引き継ぎ、10年ぶりにCEOが交代した[184]。2022年度の海外売上高比率は7割を超え、北米事業の2022年度事業利益は386億円[185]に達した。中野祥三郎氏は北米市場について「調味料は提案の積み重ねだ。いきなり増えはしないが、じわじわと定着して、それからは減らない」と述べ、直近10年で毎年6.1%成長してきた北米は今後も毎年5%程度、欧州は北米の約4分の1の規模ながら同じ程度まで伸びる可能性があるとした[187]。統治では、創業家の入社は1世代1人という不文律があり、適任者がいなければ創業家以外から社長が指名される[188]。2002年に設置した指名委員会は7人中4人を社外取締役が占める[189]。2023年7月にCOUNTRY LIFE, LLC(米国)を譲渡し[190]、2024年2月には理研ビタミン株式会社との資本・業務提携を解消した[191][186]

  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号「トップに直撃 キッコーマン 社長 中野祥三郎 「北米・欧州はまだ伸びる 調味料は提案の積み重ね」」
    • [184]2023年6月 堀切功章会長から中野祥三郎社長へ10年ぶりにCEO交代
    • [185]2022年度の海外売上高比率7割超、北米事業の2022年度事業利益386億円
    • [186]中野祥三郎「調味料は提案の積み重ねだ。いきなり増えはしないが、じわじわと定着して、それからは減らない」
    • [187]北米は直近10年で毎年6.1%成長、今後も毎年5%程度、欧州は北米の約4分の1の規模で同程度の成長余地
    • [188]創業家で入社できるのは1世代1人という不文律、適任者がいなければ創業家以外から社長が指名される
    • [189]2002年に設置した指名委員会は7人中4人が社外取締役
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [190]2023年7月 COUNTRY LIFE, LLC(米国)を譲渡
    • [191]2024年2月 理研ビタミン株式会社との資本・業務提携を解消
  • 週刊東洋経済 2021年6月5日号「ニュース最前線 03 キッコーマン、トップ交代 8年ぶり新社長が担う重責」
    • [170]2018年 グローバルビジョン2030を発表、北米・欧州・豪州に加え2020年代に南米、2030年以降にアフリカ・インドで成長ステージへ
    • [182]2021年6月 中野祥三郎が社長COOに昇格、堀切功章は会長としてCEOを継続
    • [183]2013年3月期3002億円から2021年3月期4681億円へ、純利益110億円から288億円へ、8期連続で過去最高益
  • 週刊東洋経済 2018年10月20日号「第1特集 絶好調企業の秘密 稼ぐ力をつけた日本企業 伸びる企業2 海外が好調な企業」
    • [171]2019年3月期 売上高4420億円・営業利益376億円の見通し
    • [172]海外事業が売上高の6割・営業利益の7割超
    • [173]北米の営業利益率20%超、国内の食料品製造・販売セグメントは6%台
    • [174]米国の競合はヤマサ醤油子会社のサンジルシ醸造など数社程度
    • [175]現地販売会社の島田政直社長「われわれは本醸造、無添加という点を売りにしている。価格勝負をする気はない」
    • [176]FDAが高血圧対策で食塩含有量の削減を推奨、減塩しょうゆは構成比2割で2ケタ成長
  • 週刊東洋経済 2018年11月3日号「産業リポート 海外で日本食を支える黒子3社 海外にも広がる日本食 商機つかむ“黒子”の3社」
    • [177]JFCの全米売上高約1300億円・営業利益58億円、現地最大の日本食材卸
    • [178]宝HD傘下のミューチャルトレーディングと西本Wismettac HDが同市場で伸長
    • [179]西本の北米拠点は23カ所でJFCをしのぐ
    • [180]欧州ではフランスと英国で現地の食材卸会社を買収した宝HDが先行
    • [181]茂木修取締役・国際事業本部長「卸事業の伸び率は欧州が最も高い」
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号「トップに直撃 キッコーマン 社長 中野祥三郎 「北米・欧州はまだ伸びる 調味料は提案の積み重ね」」
    • [184]2023年6月 堀切功章会長から中野祥三郎社長へ10年ぶりにCEO交代
    • [185]2022年度の海外売上高比率7割超、北米事業の2022年度事業利益386億円
    • [186]中野祥三郎「調味料は提案の積み重ねだ。いきなり増えはしないが、じわじわと定着して、それからは減らない」
    • [187]北米は直近10年で毎年6.1%成長、今後も毎年5%程度、欧州は北米の約4分の1の規模で同程度の成長余地
    • [188]創業家で入社できるのは1世代1人という不文律、適任者がいなければ創業家以外から社長が指名される
    • [189]2002年に設置した指名委員会は7人中4人が社外取締役
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [190]2023年7月 COUNTRY LIFE, LLC(米国)を譲渡
    • [191]2024年2月 理研ビタミン株式会社との資本・業務提携を解消

キッコーマンの沿革1917〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
野田醤油を設立★★
万上味醂を吸収合併
野田争議・解雇で収束★★
関西工場を新設
醤油国内シェア1位
東京証券取引所に株式上場
KIKKOMAN INTERNATIONAL, INC. を設立★★
大阪証券取引所に株式を上場
利根コカ・コーラボトリングを設立★★
マンズワインを設立
キッコーマン醤油に商号変更
JFCに経営参加★★
輸出から現地生産へ——米国ウィスコンシンでの醤油工場建設輸出で稼ぎ続けるか、資本を投じて海外に工場を建てるか——食品メーカー初の本格的な海外直接投資 詳細を読む★★★
キッコーマンに商号変更
KIKKOMAN(S)を設立
マンズワインで異物混入事件が発生
千歳工場を新設
デルモンテ商標の使用権を取得★★
米国流トップダウンへの意思決定様式の転換同族色の強い老舗で、茂木友三郎社長は意思決定の速さそのものをどう変えようとしたか 詳細を読む★★★
プロダクト・マネジャー制を軸にした「守り」から「攻め」への方針転換縮むしょうゆ市場とPBの価格攻勢のなかで、茂木友三郎社長は老舗の組織をどう動かそうとしたか 詳細を読む★★★
KIKKOMAN FOODS EUROPEを設立
カリフォルニア工場を新設
決算期変更により赤字転落
牛久崇司ヒゲタ醤油に資本参加
牛久崇司焼酎事業をサッポロビールに譲渡★★
染谷光男紀文フードケミファを買収
染谷光男持株会社制に移行
堀切功章創立100周年
堀切功章グローバルビジョン2030を策定
中野祥三郎プライム市場へ移行・国内食品/飲料事業を統合
中野祥三郎海外子会社2社を売却
中野祥三郎理研ビタミンとの資本・業務提携を解消
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
  • 読売新聞(1926年4月5日)「野田醤油の工場完成披露」
  • 読売新聞(1929年8月29日)「醤油の小経営者次第に淘汰される」
  • 読売新聞(1955年12月28日)「公取、野田醤油に審決」
  • 読売新聞(1954年11月20日)「問題株の診断・野田醤油」
  • 読売新聞(1957年11月13日)「なぜ、やすくならないか」
  • 実業の世界 1961年2月号「アメリカの調味料界を脅かす・キッコーマン醤油」
  • 週刊東洋経済 2008年7月19日号「空前の日本食ブームの陰の仕掛け人 ウォルマートの棚を仕切る「食品卸」キッコーマン」
  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号「しょうゆの輸出について」(茂木友三郎)
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号「古くても本物なら飽きられません」
  • 日本醸造協会雑誌(1976年)「アメリカ工場その後」
  • 日本経済新聞(2006年7月17日)「米国工場建設、地元が猛反対」
  • キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)
  • 日経ビジネス 1974年9月2日号「わが社の戦略前線 キッコーマン醤油のレストラン進出 しょう油—肉—ワイン 新しい嗜好ラインの実験」
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号「M&A戦略 キッコーマン 計算ずくの大型買収、ブランド力に期待」
  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
  • キッコーマン 有価証券報告書(1994年12月期・連結)
  • 日経ビジネス 1995年5月15日号「茂木友三郎氏[キッコーマン]登場 米国流トップダウンで老舗を改革」
  • キッコーマン 有価証券報告書(1995年12月期・連結)
  • 週刊東洋経済 1997年5月10日号「[ザ・トーク]茂木友三郎・キッコーマン社長/堀義和・日本コダック社長」
  • 日経金融新聞(1999年4月15日)「“しょうゆ”再建課題」
  • 週刊東洋経済 2004年10月16日号「[トップの履歴書]創業一族以外で初の社長 目指すは単独業績の改善 キッコーマン社長 牛久崇司」
  • 週刊東洋経済 2021年6月5日号「ニュース最前線 03 キッコーマン、トップ交代 8年ぶり新社長が担う重責」
  • 週刊東洋経済 2012年12月22日号「特集 PB商品の裏側 PART2 メーカーの損得 小売りに歩み寄る企業、NBにこだわる企業」
  • 週刊東洋経済 2016年10月22日号「この人に聞く キッコーマン 社長CEO 堀切功章 しょうゆは「新しい」製品 海外でもっと伸ばせる」
  • 週刊東洋経済 2018年10月20日号「第1特集 絶好調企業の秘密 稼ぐ力をつけた日本企業 伸びる企業2 海外が好調な企業」
  • 週刊東洋経済 2018年11月3日号「産業リポート 海外で日本食を支える黒子3社 海外にも広がる日本食 商機つかむ“黒子”の3社」
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号「トップに直撃 キッコーマン 社長 中野祥三郎 「北米・欧州はまだ伸びる 調味料は提案の積み重ね」」

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