| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1951/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 65億円 | 4億円 | 6.2% |
| 1952/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 81億円 | 4億円 | 5.4% |
| 1953/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 90億円 | 4億円 | 5.0% |
| 1954/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 103億円 | 4億円 | 4.7% |
| 1955/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 107億円 | 6億円 | 5.6% |
| 1956/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 117億円 | 7億円 | 6.1% |
| 1957/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 131億円 | 6億円 | 5.2% |
| 1958/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 139億円 | 7億円 | 5.2% |
| 1959/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 145億円 | 7億円 | 5.3% |
| 1960/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 155億円 | 8億円 | 5.2% |
| 1961/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 169億円 | 8億円 | 4.7% |
| 1962/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 185億円 | 8億円 | 4.8% |
| 1963/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 209億円 | 9億円 | 4.7% |
| 1964/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 237億円 | 6億円 | 2.5% |
| 1965/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 259億円 | 7億円 | 2.7% |
| 1966/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 292億円 | 8億円 | 2.7% |
| 1967/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 333億円 | 9億円 | 2.7% |
| 1968/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 359億円 | 10億円 | 3.0% |
| 1969/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 395億円 | 11億円 | 2.9% |
| 1970/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 458億円 | 13億円 | 2.9% |
| 1971/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 520億円 | 16億円 | 3.1% |
| 1972/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 567億円 | 16億円 | 2.9% |
| 1973/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 749億円 | 16億円 | 2.2% |
| 1974/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 943億円 | 17億円 | 1.8% |
| 1975/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 942億円 | 13億円 | 1.4% |
| 1976/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,037億円 | 14億円 | 1.3% |
| 1977/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,133億円 | 15億円 | 1.3% |
| 1978/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,170億円 | 31億円 | 2.6% |
| 1979/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,228億円 | 30億円 | 2.4% |
| 1980/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,238億円 | 21億円 | 1.7% |
| 1981/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,288億円 | 16億円 | 1.2% |
| 1982/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,311億円 | 29億円 | 2.2% |
| 1983/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,349億円 | 35億円 | 2.6% |
| 1984/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,365億円 | 37億円 | 2.7% |
| 1985/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1993/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1995/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1996/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,060億円 | 72億円 | 3.5% |
| 1997/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,143億円 | 57億円 | 2.6% |
| 1998/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,294億円 | 52億円 | 2.2% |
| 1999/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,217億円 | 52億円 | 2.3% |
| 2000/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,267億円 | 61億円 | 1.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 299億円 | -4億円 | -1.4% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,368億円 | 53億円 | 1.5% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,425億円 | 83億円 | 2.4% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,346億円 | 92億円 | 2.7% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,446億円 | 94億円 | 2.7% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,599億円 | 101億円 | 2.8% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,926億円 | 107億円 | 2.7% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,139億円 | 114億円 | 2.7% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,126億円 | 27億円 | 0.6% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,856億円 | 86億円 | 3.0% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,834億円 | 77億円 | 2.7% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,832億円 | 89億円 | 3.1% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,002億円 | 110億円 | 3.6% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,431億円 | 125億円 | 3.6% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,713億円 | 158億円 | 4.2% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,083億円 | 199億円 | 4.8% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,021億円 | 238億円 | 5.9% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,306億円 | 238億円 | 5.5% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,535億円 | 259億円 | 5.7% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,396億円 | 268億円 | 6.0% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 4,394億円 | 311億円 | 7.0% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 5,164億円 | 389億円 | 7.5% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 6,188億円 | 437億円 | 7.0% |
キッコーマンの100年には明瞭なパターンがある。創業家が分析を超えた確信で押し切った判断は競争優位を築き、合理的な分析に基づいて実行された多角化はほぼすべて期待を下回った。1917年、一族八家が200を超える商標を捨てて「キッコーマン」に統合した判断を、後に茂木啓三郎は「すばらしい英断」と呼んだ。1972年の北米現地生産では、純利益2〜3年分に相当する集中投資を役員会に諮ったとき、役員たちは沈黙した。醤油の蔵には固有の菌がすみつくと信じられており、異国の地で味が再現できるかは誰にも確証がなかった。茂木自身も「一抹の不安」を抱えていたが、それを表に出せば組織の士気が崩れると判断し、「大丈夫だ、やるんだ」と押し切った。確信ではなく、確信を演じることで意思決定を成立させた。
この判断が結果として生んだのは、後発企業にとって再現困難な参入障壁であった。発酵食品を海外で量産する技術と経験の蓄積、現地の食文化への数十年にわたる浸透活動、そして「照り焼き」という調理概念ごと市場を創出したマーケティング——これらは分析的に設計されたものではなく、非合理に見える選択を創業家が引き返さなかった結果として積み上がった。稼働2年で単年度黒字、4年で累積赤字を解消した北米工場の実績は、事前の分析では正当化しにくかった投資が事後的に圧倒的なリターンを生んだことを示している。
対照的に、合理的な市場分析に基づいて実行された多角化は、ことごとく限定的な成果に終わった。デルモンテ商標権の取得(1990年、210億円)はKKRの事業売却という機会に乗じた判断であり、ロイヤリティ解消とアジア展開の加速という二重の合理性があった。しかしアジアでの売上は伸び悩み、償却完了時点の海外売上は約45億円にとどまった。焼酎事業(1996年、設備投資120億円)は需要拡大期への参入であり投資根拠は明確だったが、ブームの終息と九州系メーカーの産地優位に阻まれ、2006年にサッポロビールへ売却された。コカ・コーラのボトリング事業(1962年参入)は他社ブランドを活用したリスク抑制型の多角化であったが、自社の競争力蓄積には結びつかず、2009年に株式を譲渡して連結対象外となった。いずれも参入時の分析は合理的であり、だからこそ参入障壁も低く、差別化も困難だった。
浮かび上がるのは逆説的な構造である。キッコーマンが圧倒的な競争優位を築いた領域——北米醤油事業——は、事前の合理的分析では正当化しにくい投資を創業家が押し通した結果であった。一方、分析的に正当化できた多角化——デルモンテ、焼酎、ボトリング——は、合理的であったがゆえに他社にも開かれた市場であり、キッコーマン固有の優位性は形成されなかった。最も防御力の高い競争優位は、分析で正当化できる投資からではなく、分析を超えた確信を組織として許容し続ける統治構造から生まれる。キッコーマンの場合、その統治構造とは創業家の存在そのものであった。
野田醤油の設立は、200を超える商標と16の醸造蔵を持つ一族八家が、家業単位の最適化を放棄して統合を選んだ判断に特徴がある。水運優位の低下と全国市場の拡大という環境変化に対し、分散生産のまま対応するのではなく、統合による規模確保とブランド集約を選択した。短期の確実性よりも投下資本を通じた将来のシェア獲得を優先した意思決定が、その後の成長余地を規定した。
キッコーマンの起源は、室町期に千葉県野田で始まった醤油醸造に遡る。江戸期には茂木家と高梨家が有力醸造家として台頭し、分家や奉公独立を通じて多数の醸造家が集積した。野田は利根川水系に位置し、大豆は関東内陸から、塩は赤穂から水運で運ばれ、完成品は江戸へ出荷された。水運を前提としたコスト構造が、地域全体の醤油産業の競争力を支えていた。
しかし明治後期から事業環境は変化した。鉄道網の発達により水運の優位性は相対的に低下し、市場では大量生産と安定供給が求められるようになった。商標も醸造家ごとに乱立し、販売力は分断されていた。醤油需要は拡大していたものの、家業単位の分散生産では投下資本と組織の制約から、全国市場への対応が難しくなりつつあった。
1917年12月、茂木家と高梨家を中心とする一族八家は、野田醤油株式会社を設立した。各家の醸造設備を現物出資する株式会社方式が採用され、家業の個別最適を捨てて統合によるスケール確保を選んだ点に特徴があった。販売面では約200存在した商標を「キッコーマン」に集約し、ブランド投資を一点に集中させた。
生産面では分散していた16の醸造蔵を統廃合し、設備更新を進めた。1922年には近代的量産工場である第17工場を新設し、発酵・搾汁・瓶詰の工程管理を標準化した。大きな投下資本を伴う判断であり、需要変動リスクを内包していたが、一族経営の延長ではなく組織的意思決定への移行を象徴する判断であった。
統合後、野田醤油は生産効率と供給安定性を高め、全国市場への展開を加速した。量産体制により単位あたりコストが低下し、価格競争と供給量の両面で優位に立った。ブランド統合は販売チャネルでの識別性を高め、シェア拡大に直結した。
この時点で将来の海外展開や多角化を明確に描いていたわけではなく、判断は当時の流通条件と競争環境への対応であった。しかし集中投資と選択の結果として国内醤油市場における高シェアを確保したことが、以降の事業展開の前提条件を形成した。1917年の統合は、一時的な混乱を許容しつつ、時間をかけて競争優位に結びつけた判断であった。
野田醤油の設立は、200を超える商標と16の醸造蔵を持つ一族八家が、家業単位の最適化を放棄して統合を選んだ判断に特徴がある。水運優位の低下と全国市場の拡大という環境変化に対し、分散生産のまま対応するのではなく、統合による規模確保とブランド集約を選択した。短期の確実性よりも投下資本を通じた将来のシェア獲得を優先した意思決定が、その後の成長余地を規定した。
すばらしい英断だと思います。私はよく同僚の役員諸君や一族の人たちにも言うのですが、1917年にあれほどの大英断をやったことと同じことをいまやるとしたら、よほど思い切ったことをやらなければならない。それはある意味では大冒険ですよ。しかも当時は実行力があった。たとえばいま「これを役員会にかけてやろうではないか」というと、なまじっか知識があるものですから、アレやコレやいろいろなことを言ってきて、それを裁断するのに相当骨が折れる。ところが当時はスパッと思い切ったことをずいぶんやっているのですね
野田争議は、量産化と工程標準化を進める近代化投資が、旧来の職人的労働慣行との摩擦を生んだ事例である。全員解雇という強硬対応は事業継続を最優先した判断であり、結果として近代的工場運営への移行を加速させた。一方で、企業城下町における雇用と地域経済の関係は、強硬策だけでは解決しない構造的課題であり、近代化の推進と地域社会の安定をどう両立するかという論点を提起した。
1917年の野田醤油設立以降、同社は量産工場の新設や設備更新を通じて生産効率を高めていた。工程の標準化と集中生産は供給安定とコスト抑制に寄与した一方、従来の手工業的工程に依存していた職人層の雇用環境を変化させた。近代化は生産面の合理性を追求するものであったが、地域社会における雇用構造との摩擦を生む側面も持っていた。
こうした背景のもと、野田地域では労働組合の組織化が進んだ。日本労働総同盟野田支部は約2500名を擁し、関東における主要な労働運動の拠点となっていた。1920年代半ばには合理化への反発が激化し、1926年には放火事件が相次ぐなど治安が不安定化した。新聞では「無警察状態」と表現されるほど、事業継続に直接影響する局面に至っていた。
野田醤油は争議の長期化が生産と供給に及ぼす影響を重く見た。労使協調による解決を模索しつつも、組合側の行動が事業運営を妨げる水準に達したと判断し、経営側の要求を貫徹する方針を採用した。1928年、組合員の全員解雇という措置によりストライキは収束に至った。
雇用調整としては極めて大規模な判断であり、地域社会への影響も避けられなかった。しかし同社は生産の継続性を回復することを最優先とし、従来の雇用形態にとらわれない近代化投資を推進する方向へ踏み出した。短期的な対立を許容してでも、事業統制の回復を選んだ経営判断であった。
争議収束後、野田醤油は労使関係を再構築し、近代的な工場運営体制への移行を進めた。旧来の職人的労働慣行から脱却し、工程管理の標準化と設備投資の加速が可能となった。争議の経験は、経営判断における労務管理の重要性を経営陣に認識させる契機ともなった。
一方で、全員解雇という対応は地域との関係に長期的な影響を残した。野田は醤油醸造を基盤とする企業城下町であり、雇用と地域経済は不可分の関係にあった。争議の収束は事業継続という目的を達成したが、近代化と地域社会の調和という課題は、以降の経営においても意識され続けることになった。
野田争議は、量産化と工程標準化を進める近代化投資が、旧来の職人的労働慣行との摩擦を生んだ事例である。全員解雇という強硬対応は事業継続を最優先した判断であり、結果として近代的工場運営への移行を加速させた。一方で、企業城下町における雇用と地域経済の関係は、強硬策だけでは解決しない構造的課題であり、近代化の推進と地域社会の安定をどう両立するかという論点を提起した。
関西工場の新設は、生産効率の最大化ではなく市場対応力の強化を優先した立地判断であった。需要地に近い場所で生産することで輸送コストを抑制し、供給の即応性を確保する考え方は、後の北米現地生産にも通じる供給戦略の原型である。野田で確立した工程管理を異なる立地に移植できた点は、醤油製造の標準化が拠点展開の前提条件であったことを示している。
大正末から昭和初期にかけて、醤油需要の地域分布は変化していた。都市人口の増加と食生活の均質化により、関東中心だった消費は関西方面でも急速に拡大した。京阪神圏は人口密度が高く、安定供給が競争条件になりつつあった。一方で、野田工場からの長距離輸送は時間とコストの両面で制約を抱えており、西日本市場への対応力には限界があった。
既存拠点の増設も検討されたが、関東集中のままでは需給変動への対応力に構造的な限界があった。輸送網の発達は進んでいたものの、品質管理や供給の即応性を考慮すると、生産拠点の地理的分散が現実的な選択肢として浮上していた。醤油市場の重心が西へ動く中で、供給体制の再設計が経営課題として認識されていた。
こうした認識のもと、野田醤油は関西工場(現高砂工場)の新設を決断した。西日本市場への供給拠点として位置づけられた同工場は、単なる増産ではなく、需要地に近い場所で生産することで輸送距離の短縮と供給の柔軟性を確保する狙いがあった。生産効率の追求よりも、市場対応力を重視した立地判断であった。
関西工場には当時の最新設備が導入され、野田工場で蓄積された製造ノウハウが移植される形で立ち上げられた。醤油の発酵管理は気候や水質の影響を受けるため、異なる立地での品質再現は技術的な課題を伴ったが、野田で確立した工程管理の標準化が拠点展開を可能にした。
関西工場の稼働により、地域ごとの需給変動に対応できる供給体制が整い、供給リスクの分散が進んだ。西日本市場への輸送コストが低減されたことで価格競争力が向上し、関西圏での販売拡大につながった。
生産拠点を複線化する判断は、短期的には投下資本の負担を伴ったが、キッコーマンブランドの全国展開における転換点となった。野田一極集中から脱却し、需要地に近接した生産体制を構築した経験は、後の海外現地生産の判断にも通じる供給体制設計の原型であった。
関西工場の新設は、生産効率の最大化ではなく市場対応力の強化を優先した立地判断であった。需要地に近い場所で生産することで輸送コストを抑制し、供給の即応性を確保する考え方は、後の北米現地生産にも通じる供給戦略の原型である。野田で確立した工程管理を異なる立地に移植できた点は、醤油製造の標準化が拠点展開の前提条件であったことを示している。
1920年代から1930年代の醤油産業は、近代化に適応できない中小醸造家が急速に淘汰される局面にあった。野田醤油はこの環境を利用し、量産設備とブランド統一への集中投資を継続することで、競合との差を拡大した。業界が縮小均衡へ向かう中で積極投資を選んだ判断は、結果としてシェア首位を固定化し、後発企業が覆しにくい競争構造を形成した。
1920年代から1930年代にかけて、国内醤油産業は急速な再編局面に入っていた。都市人口の増加と流通網の整備により、全国規模で安定供給できる生産体制が競争条件となった。一方で多くの中小醸造家は設備更新や販路整備に必要な投下資本を確保できず、価格競争と需給変動への対応が困難な状況に置かれていた。
統計上も業界淘汰は明確であった。1923年時点で約1万5千軒あった醤油メーカーは、1929年には約8500軒へと半減している。これは需要の縮小ではなく、生産・流通の近代化に適応できた企業へシェアが集約された結果であった。野田や銃子といった特定地域の大手は、早期に量産設備と全国販売網を整備し、競争優位を拡大していた。
野田醤油は、この業界再編の局面で分散的な拡張ではなく集中投資を選択した。1917年の統合以降に進めてきた量産工場の整備、ブランド統一、販路の全国展開を一貫して維持し、設備更新と販売網への投下資本を継続した。1930年の関西工場新設も、全国供給体制の強化という方針の一環として位置づけられていた。
業界全体が縮小均衡へ向かう中で、野田醤油は規模と供給力を武器にシェアを拡大する経営を推進した。中小醸造家が投資を控える局面で積極的に設備と販路に資本を投じた判断は、短期的にはリスクを伴ったが、競合の脱落が進む市場環境においては有効に機能した。
1934年時点で、キッコーマンは国内醤油の生産量シェアで9.1%を確保し首位に立った。2位のヤマサが4.1%、同率3位のヒゲタとマルキンが各3.1%であり、首位と2位の間には倍以上の開きがあった。これは単年度の成果ではなく、近代化投資と全国販売網の構築を優先してきた意思決定の累積的な帰結であった。
業界淘汰が進む中でトップシェアを確保したことは、以降の競争構造を規定した。首位企業としてのブランド認知と供給力の優位は、後発企業が短期間で覆すことが困難な参入障壁となった。国内醤油市場における野田醤油の地位は、この時期に事実上固定化されたと言える。
1920年代から1930年代の醤油産業は、近代化に適応できない中小醸造家が急速に淘汰される局面にあった。野田醤油はこの環境を利用し、量産設備とブランド統一への集中投資を継続することで、競合との差を拡大した。業界が縮小均衡へ向かう中で積極投資を選んだ判断は、結果としてシェア首位を固定化し、後発企業が覆しにくい競争構造を形成した。
売上14万ドルに対して広告費11万ドルという投資判断は、短期的な収益性を度外視した市場開拓の姿勢を示している。この判断を可能にしたのは、国内醤油事業の安定収益と、合弁パートナーによる販路確保という二つの条件であった。醤油を日本料理ではなく肉料理の調味料として訴求した点は、現地の食文化に合わせた需要創出の原型であり、後の北米事業の成長を支える基盤となった。
1930年代に国内トップシェアを確保した後、キッコーマンの事業環境は次の局面に入っていた。国内醤油市場では需要成長が緩やかになり、シェア拡大の余地は限定的となりつつあった。一方、戦後の北米では人口増加とスーパーマーケットの普及が進み、家庭用調味料市場そのものが拡大していた。ただし醤油は日系人向け食材という認識にとどまり、一般家庭への浸透はほとんど進んでいなかった。
この非対称性がキッコーマンにとっての課題であった。醤油の輸出自体は戦前から行われていたが、北米市場では販路・棚・消費文脈のいずれも不足していた。米国では卸売・小売の力が強く、日本からの輸出だけでは全国展開は困難であった。現地での販売実績と流通関係を持つパートナーの存在が、海外展開の成否を左右する条件となっていた。
1957年6月、キッコーマンは米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL, INC.を設立した。単独進出ではなく、日本食を扱う貿易会社・太平洋貿易との合弁方式が採用された。太平洋貿易は米国西海岸で大手スーパーを開拓した実績を持ち、販路と現地理解を備えていた。キッコーマンは製品とブランドを提供し、販売力はパートナーに委ねる分業を選択した。
販促面では棚確保を最優先課題とし、食品ブローカーの開拓と試食デモを積極的に展開した。照り焼きなど肉料理を通じて醤油を日本料理専用ではなく汎用調味料として訴求した点が特徴であった。1958年にはテレビドラマ番組のスポンサーとなり、売上14万ドルに対して広告費11万ドルという高い比率を投下した。放映後には年間20~30%の売上成長を記録した。
テレビ広告を契機として北米市場での認知は急速に拡大し、スーパーマーケットにおける棚確保が進んだ。醤油を肉料理やバーベキューの調味料として提案したマーケティングは、日本食に馴染みのない消費者層への浸透に有効に機能した。合弁方式による現地パートナーの販路と、キッコーマンのブランド力の組み合わせが、北米市場開拓の基盤を形成した。
この時期に構築された販売網と消費者認知は、1970年代の北米現地生産への移行を判断する際の前提条件となった。輸出モデルでは為替変動や輸送費の影響を受けやすく、販売量の拡大とともに収益構造の限界が意識されるようになる。KII設立は、北米市場における醤油の定着と、その後の現地生産という次の段階への橋渡しとなった。
売上14万ドルに対して広告費11万ドルという投資判断は、短期的な収益性を度外視した市場開拓の姿勢を示している。この判断を可能にしたのは、国内醤油事業の安定収益と、合弁パートナーによる販路確保という二つの条件であった。醤油を日本料理ではなく肉料理の調味料として訴求した点は、現地の食文化に合わせた需要創出の原型であり、後の北米事業の成長を支える基盤となった。
向こうの一流の料亭に”テリヤキ”というメニューがあるのですが、それを見ると皿の真ん中に白いご飯を盛り、その周囲にしょうゆをつけたビフテキを並べている。それを向こうの人はおいしそうに喜んで食べているのです。それをみて私は感激しまして、そこのキッチンを見せていただいたのですが、私どもの輸出したガロン缶(2.1升)が4缶ありました。
またサンフランシスコのフランス風の料亭でしたけれども、ここのキッチンに私どもの一斗缶が5缶あって、しかも1缶は空になっているのです。日本の総統の料亭でも一斗缶を5缶おいておくところはありませんよ。それがアメリカにはあるのです。ですから私は思い切って、向こうで工場詰めをやり、さらには向こうで製造しなければいけないと思っています
現在アメリカだけで4500軒のスーパーマーケットにキッコーマンが置いてあるのですが、1956年にキッコーマンが置かれて、一度も降ろされていないという状況です
コカ・コーラのボトリング事業への参入は、自社ブランドの創出ではなく確立されたブランドの活用を選んだ判断であった。製造・物流・地域販売という既存能力を転用しつつ製品開発リスクを負わない形での多角化は、醤油メーカーにとってリスクを抑えた事業拡張であった。一方で下請け的な事業構造はキッコーマン自身の競争力を蓄積しにくく、後年の株式譲渡に至る遠因ともなった。
1950年代後半、キッコーマンは国内醤油市場で高いシェアを確保し安定局面に入っていた。一方で食生活の変化に伴い調味料需要の成長率は鈍化しており、将来の売上成長は海外展開や新分野への進出に委ねられつつあった。事業ポートフォリオの拡張が経営上の選択肢として現実味を帯びていた時期であった。
同時期、日本では清涼飲料水市場が急成長していた。コカ・コーラは米国で確立されたブランド力と販売モデルを背景に日本市場への本格展開を進めていたが、自社で製造・販売を行うのではなく、地域ごとにボトラーを設置する方式を採用していた。製造設備・物流・地域密着の販売網を持つ企業にとっては、ボトラーとして参入する余地がある構造であった。
1962年2月、キッコーマンは利根コカ・コーラボトリングを設立し、コカ・コーラのボトリング事業に参入した。出資比率は50.0%で、千葉・栃木・茨城をテリトリーとする地域ボトラーとして位置づけられた。参入の背景には、キッコーマン一族に連なる高梨家がコカ・コーラ事業に先行して関与していたという人的ネットワークの存在があった。
この判断は自社ブランドの創出ではなく、既存の強力なブランドを活用する選択であった。キッコーマンは製造管理、物流、地域販売といった自社の強みを活かしつつ、製品やマーケティングはコカ・コーラ本社の指針に従う役割を担った。調味料メーカーが飲料分野に踏み出す契機として、リスクを抑えた参入形態が選ばれた。
ボトリング事業への参入は、キッコーマンに調味料以外の消費財事業の運営経験をもたらした。製造工程の管理、物流網の整備、地域販売体制の構築といった実務を通じて、醤油事業で培った能力が飲料分野でも応用可能であることが確認された。
ただし、ボトリング事業はコカ・コーラ本社の方針に従う下請け的な性格を持ち、キッコーマン自身の製品開発やブランド構築には直結しなかった。2009年に株式の一部を譲渡して連結対象外としたことは、ボトリング事業の位置づけが長期的には変化したことを示している。飲料分野への本格参入は、後の紀文フードケミファ買収による豆乳事業の強化へと軸足が移っていった。
コカ・コーラのボトリング事業への参入は、自社ブランドの創出ではなく確立されたブランドの活用を選んだ判断であった。製造・物流・地域販売という既存能力を転用しつつ製品開発リスクを負わない形での多角化は、醤油メーカーにとってリスクを抑えた事業拡張であった。一方で下請け的な事業構造はキッコーマン自身の競争力を蓄積しにくく、後年の株式譲渡に至る遠因ともなった。
北米現地生産は、当時の財務規模からすれば純利益2~3年分に相当する集中投資であり、役員会の慎重論を創業家の茂木家が押し切る形で決議された。品質再現への不安と収益回収の不確実性が存在する中で判断を継続できたのは、創業家の意思決定構造があったからである。結果として発酵食品の海外量産という経験が参入障壁となり、後発企業が容易に模倣できない競争条件を形成した。
キッコーマンの北米展開は明治期の日系人向け輸出に始まり、戦後は進駐軍を通じて一般消費者層へ広がった。1950年代以降、現地スーパーでの販売やレシピ提案を通じて、醤油は肉料理やバーベキュー用途の調味料として浸透していった。1960年代には「照り焼き」という調理概念が定着し、家庭用・業務用を含めた市場拡大が視野に入っていた。
一方、供給面では日本からの完成品輸出に依存しており、船賃上昇や関税6%、為替変動が収益を圧迫していた。1965年に設置されたAP委員会で現地生産が検討されたが、当時の販売量は年間3000klにとどまり、投下資本に見合う回収は困難と判断された。1968年からは瓶詰工程のみを米国で行い、輸送効率の改善を優先する対応が取られていた。
1971年、役員会において米国での醤油現地製造が正式議題となった。発酵食品である醤油の品質再現に対する懸念は根強かったが、中央研究所長の横塚氏ら技術陣が製造可能性を説明し議論を前進させた。輸送費高騰、関税、国内人件費の上昇を総合的に勘案し、現地製造が収益に貢献すると判断された。
立地はウィスコンシン州ウォルワース郡とされ、農業地帯である点が原料調達や地域理解の面で重視された。1972年にKIKKOMAN FOODS, INC.を設立し、投資額は約1300万ドル、当時の純利益2~3年分に相当した。分散投資ではなく北米市場への集中投資であり、創業家の茂木家が主導して役員会の慎重論を押し切る形で決議が進められた。
工場は1973年に稼働し、年間9000kl体制で生産を開始した。販売量は想定を上回るペースで拡大し、稼働2年目には単年度黒字化、4年目には累積赤字を解消した。現地生産によって供給リードタイムが短縮され、価格競争力が向上したことがシェア拡大に直結した。
発酵食品を米国で量産するという経験自体が参入障壁となり、後発企業の追随を構造的に困難にした。北米事業はキッコーマンの事業ポートフォリオの中核となり、以降の欧州・アジア展開における実証モデルとして機能した。1972年の現地生産開始は、輸出型から現地生産型への事業モデル転換の分岐点であった。
北米現地生産は、当時の財務規模からすれば純利益2~3年分に相当する集中投資であり、役員会の慎重論を創業家の茂木家が押し切る形で決議された。品質再現への不安と収益回収の不確実性が存在する中で判断を継続できたのは、創業家の意思決定構造があったからである。結果として発酵食品の海外量産という経験が参入障壁となり、後発企業が容易に模倣できない競争条件を形成した。
やはり、現実にやろうということになると、役員連中も躊躇してました。私が役員会で話を持ち出すと、皆、黙っているんです(笑い)。なにしろ、しょうゆの蔵にはそれぞれ独自の菌がすみついていると信じられているぐらいで、微妙な味が異国の地で出せるだろうかという不安を抱いておったんですな。なにを隠そう、私自身も一抹の不安を感じていたんですが、社長がそれを表面に出すと、全員の士気に関わりますから、大丈夫だ、やるんだということで踏み切りました。
デルモンテ商標権の取得は、ロイヤリティ解消とアジア展開の加速を同時に狙った投資判断であった。会計上は特別損失を計上せず償却が完了したが、アジア地域での売上拡大は想定を下回り、事業としての収益貢献は限定的にとどまった。会計上の健全性と事業上の成果が乖離する構造は、商標権投資の評価において損益だけでなく機会費用を含めた検証が必要であることを示している。
1963年以降、キッコーマンはデルモンテ社と提携し、日本国内でトマトケチャップやトマトジュースの製造・販売を行ってきた。しかし1990年前後の売上高は約240億円にとどまり、利益率は低迷していた。国内トマト加工品市場ではカゴメが先行企業としてケチャップおよびトマトジュースで高いシェアを確保しており、後発のキッコーマンは販売数量を伸ばしにくい状況に置かれていた。
加えて、デルモンテブランドの使用にあたっては年間約4億円、推定売上高比で約5%に相当するロイヤリティを米国側に支払う必要があった。この固定的なコスト負担は、売上規模が限定される中で事業収益を圧迫し、デルモンテ事業の収支改善を構造的に困難にしていた。
一方、米国側ではデルモンテ社が大型再編の渦中にあった。1979年にRJ・レイノルズがデルモンテを買収し、1985年にはナビスコとの統合でRJRナビスコ債下に組み込まれた。その後、KKRによるLBOを契機に事業の選択と集中が進められ、デルモンテ事業は売却対象として切り出されることとなった。この再編の過程が、キッコーマンにとって商標権取得の機会を生む環境を形成した。
KKRは当初デルモンテ事業の一括売却を試みたが、希望売却額が約22億ドルと高水準であったため買い手が現れなかった。そこで事業および地域ごとに分割して売却する方針へ転換した。これを受け、キッコーマンは1988年から商標権取得の検討を開始し、日本長期信用銀行とともに買収スキームを構築してKKRとの交渉に入った。
1990年1月、キッコーマンはデルモンテのアジア・太平洋地域における商標使用権を1.5億ドル、約210億円で取得した。対象は加工食品および非アルコール飲料であり、期間は永久、かつ独占であった。取得額のうち約150億円は商標権として計上され、残る約60億円はデルモンテ社への出資とされた。
取得資金は転換社債の発行によって調達され、年間の金利負担は約4億円であった。従来のロイヤリティ支払いの解消に加え、アジア地域での再許諾収入や配当を組み合わせることで、年間約4億円の収益を確保できるかが投下資本回収の分岐点と位置づけられていた。
デルモンテ商標権は当初10年、のちに20年で償却され、2010年3月期に帳簿価額はゼロとなった。取得以降、特別損失は計上されておらず、会計上は想定されたスケジュールに沿って処理が進められた。
ただし事業面での成果は限定的であった。キッコーマンの海外事業の成長を牽引したのは北米の醤油事業であり、デルモンテ商標権を取得したアジア地域では売上成長が伸び悩んだ。2010年3月期におけるデルモンテ部門の海外売上高は約45億円にとどまり、全社の事業ポートフォリオにおける存在感は小さかった。
結果として210億円の投下資本は償却を通じて会計上は回収されたものの、売上成長や競争優位の構築という観点では当初の期待に比べて成果は限定的であった。特別損失を計上しないまま事業価値が縮小していくパターンは、会計上の健全性と事業上の成果が必ずしも一致しないことを示す事例である。
デルモンテ商標権の取得は、ロイヤリティ解消とアジア展開の加速を同時に狙った投資判断であった。会計上は特別損失を計上せず償却が完了したが、アジア地域での売上拡大は想定を下回り、事業としての収益貢献は限定的にとどまった。会計上の健全性と事業上の成果が乖離する構造は、商標権投資の評価において損益だけでなく機会費用を含めた検証が必要であることを示している。
焼酎事業への参入は1990年代の需要拡大を前提とした判断であったが、ブームの終息とともに需要は収縮した。九州系焼酎メーカーが築いた産地性やブランドの蓄積は、設備投資の規模では代替できない競争優位であった。120億円の投資と15億円の特別損失は、成長市場の見極めと参入障壁の評価が投資判断において不可分であることを示している。
1990年代半ば、国内では焼酎需要が拡大し、酒類市場の中で成長カテゴリーとして注目されていた。キッコーマンは酒類事業の多角化を進める中でこの流れを取り込む判断を行い、1996年に焼酎、合成清酒、梅酒の生産設備への投資を決定した。投資額は約120億円に及び、群馬県尾島町に酒造プラントを新設して従来の流山プラントから生産機能を移管した。
この投資は需要の持続と量的拡大を前提としたものであり、規模拡大によるコスト低減と安定供給を狙った判断であった。しかしその後の市場環境は想定通りには推移せず、焼酎ブームは一過性に終息した。需要の伸びが鈍化する中、設備投資に伴う固定費負担が事業収益を圧迫し、焼酎事業はポートフォリオの中で低収益な位置づけとなっていった。
業績の低迷を受けて、キッコーマンは焼酎事業の継続可否を検討し、2006年4月にサッポロビールへの事業譲渡を決定した。譲渡対象には焼酎・合成清酒・リキュール類・スピリッツの製造事業が含まれ、尾島製造部の敷地・建物・製造設備も売却対象となった。従業員約40名はサッポロビールへ転籍した。
この決断に先立ち、2004年3月期には群馬県の事業用資産について約15億円の特別損失が計上されており、1996年の投下資本に対する未回収の損失が確定していた。キッコーマンは焼酎事業を切り離す一方、酒類分野ではみりんやワインに注力し、全社としては海外醤油事業と国内調味料事業への経営資源集中を明確にした。
焼酎事業への参入と撤退の経緯は、成長市場への参入判断が需要予測に強く依存するリスクを示している。120億円の設備投資と15億円の特別損失は、市場の一過性と構造的な成長を見分けることの困難さを反映していた。焼酎市場では九州系メーカーが産地性やブランドの蓄積で優位に立っており、大手資本による後発参入では短期間で覆しにくい競争構造が存在していた。
一方、焼酎事業からの撤退は、不採算事業を抱え続けずに売却へ踏み切る判断として、キッコーマンのポートフォリオ管理における一つの転機となった。海外醤油事業という明確な成長の柱を持つ企業にとって、国内の低収益事業に経営資源を分散させることの非合理性が認識され、以降の事業戦略において選択と集中の方針が強化されていった。
焼酎事業への参入は1990年代の需要拡大を前提とした判断であったが、ブームの終息とともに需要は収縮した。九州系焼酎メーカーが築いた産地性やブランドの蓄積は、設備投資の規模では代替できない競争優位であった。120億円の投資と15億円の特別損失は、成長市場の見極めと参入障壁の評価が投資判断において不可分であることを示している。
グローバルビジョン2030は、数十年にわたる海外での醤油普及活動の蓄積を前提として策定された。短期的な販売拡大ではなく現地の食文化への浸透を重視してきた活動が、コロナ禍における家庭内調理の増加を契機に需要として顔在化した。計画的に市場を創出したというよりも、地道な活動の蓄積と外部環境の変化が重なった結果であり、需要基盤の形成には長い時間軸が必要であることを示す事例である。
キッコーマンは北米・欧州を中心に、長年にわたり現地の食文化に寄り添う形で醤油の普及に取り組んできた。単なる日本食向け調味料ではなく、肉料理や家庭料理への活用を想定したレシピ提案を地道に積み重ね、醤油を「使いこなせる調味料」として現地の食卓に浸透させていった。この活動は短期的な売上拡大を目的とするものではなく、消費習慣への定着を重視した取り組みであった。
こうした蓄積はコロナ禍において一気に可視化された。外食機会が制限され家庭内調理が増加する中で、海外の消費者がレシピサイトやオンライン情報を通じて醤油を取り入れ、現地料理との融合が進んだ。長年の普及活動によって形成された需要基盤が、外部環境の変化を契機に顔在化した形であった。
こうした成果と環境変化を踏まえ、キッコーマンは2018年に「グローバルビジョン2030」を策定した。中心理念は「新しい価値創造への挑戦」であり、醤油をグローバル・スタンダードの調味料として定着させること、食を通じて世界中に価値を提供する企業であり続けることが明確に打ち出された。
このビジョンは経営陣だけでなく現場の社員と共有することが重視された。海外市場での成長は、個々の現場での提案力や粘り強い活動の積み重ねによって支えられてきたとの認識からであった。人材・技術・キャッシュフローを長期視点で活用し、地域ごとに価値を創出する体制を整えることで、2030年に向けた持続的成長の方向性が定められた。
グローバルビジョン2030の策定以降、キッコーマンは海外醤油事業の供給体制強化を加速させた。北米では需要拡大に対応するための新工場建設が計画され、中期経営計画では海外向けに1200億円規模の設備投資が掲げられた。醤油の消費がアジアや欧州でも広がる中、現地生産体制の拡充が成長戦略の中核に位置づけられた。
一方で、国内事業については付加価値の高い製品へのシフトと生産性向上が課題として残された。海外事業が収益の柱として確立される中、国内事業の相対的な低収益性は構造的な課題であり続けた。グローバルビジョン2030は、海外市場の成長を前提とした長期方針を明文化した点に意義があるが、国内事業の拜本的な再設計は引き続きの経営課題として残されている。
グローバルビジョン2030は、数十年にわたる海外での醤油普及活動の蓄積を前提として策定された。短期的な販売拡大ではなく現地の食文化への浸透を重視してきた活動が、コロナ禍における家庭内調理の増加を契機に需要として顔在化した。計画的に市場を創出したというよりも、地道な活動の蓄積と外部環境の変化が重なった結果であり、需要基盤の形成には長い時間軸が必要であることを示す事例である。