1953年設立。富士重工業として航空機技術を自動車に転用し、「スバル360」で大衆車市場に参入。水平対向エンジンとAWDで独自の走行性能を確立し、北米市場での成功を経て2017年にSUBARUへ商号変更した。
1917
飛行機研究所を創業
1917飛行機研究所を創業
1931
中島飛行機株式会社を設立
1931中島飛行機株式会社を設立
1945
富士産業株式会社に商号変更・軍需から民需転換
1945富士産業株式会社に商号変更・軍需から民需転換
1950
企業再建整備法により富士産業を12社に解体
1950企業再建整備法により富士産業を12社に解体
1953
富士重工株式会社を設立
1953富士重工株式会社を設立
1955
旧富士産業5社を吸収合併
1955旧富士産業5社を吸収合併
1958
乗用車「スバル360」を発表
1958乗用車「スバル360」を発表
1960
群馬製作所を新設
1960群馬製作所を新設
1968
日産自動車と業務提携を締結
1968日産自動車と業務提携を締結
1979
決断
4WD「レオーネ」を発売
大手不在のニッチ市場で首位を築いた4WD集中戦略
国内4WD市場(FY1981) 販売台数シェア
1
1987
決断
いすゞと北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携)
「年産20万台」に届かない中堅メーカーの北米生産戦略
合弁2社合計 設備投資額
800
億円
1989
乗用車「レガシィ」を発売
1989乗用車「レガシィ」を発売
1990
決断
営業赤字に転落・経営再建に着手
操業度維持と販売不振が生む「作るほど赤字」の構造
営業利益
-296
億円
1990
米国販売会社SUBARU Of America Inc.を買収
1990米国販売会社SUBARU Of America Inc.を買収
1999
GMと資本提携を締結
1999GMと資本提携を締結
2000
日産自動車との業務提携を解消
2000日産自動車との業務提携を解消
2000
スズキと業務提携を締結
2000スズキと業務提携を締結
2002
いすゞとの北米現地生産の協業を解消
2002いすゞとの北米現地生産の協業を解消
2003
鉄道車両およびバス車体製造から撤退
2003鉄道車両およびバス車体製造から撤退
2005
GMと提携解消
2005GMと提携解消
2006
トヨタ自動車と業務提携
2006トヨタ自動車と業務提携
2007
北米で大規模な販売促進を実施
2007北米で大規模な販売促進を実施
2008
運転支援システム「アイサイト」を開発
2008運転支援システム「アイサイト」を開発
2012
風力発電システム事業を日立に売却
2012風力発電システム事業を日立に売却
2012
SUV「SUBARU XV」を発売
2012SUV「SUBARU XV」を発売
2012
汎用エンジン・発電機から撤退
2012汎用エンジン・発電機から撤退
2014
本社を新宿から恵比寿に移転
2014本社を新宿から恵比寿に移転
2017
株式会社SUBARUに商号変更
2017株式会社SUBARUに商号変更
2019
トヨタ自動車と業務資本提携で合意
2019トヨタ自動車と業務資本提携で合意
業績を見る
売上SUBARU:売上高
単体 | 連結(単位:億円)
47,029億円
売上収益:2024/3
利益SUBARU:売上高_当期純利益率
単体 | 連結(単位:%)
8.1%
利益率:2024/3
業績を見る
区分売上高利益利益率
1950/3単体 売上高 / 当期純利益---
1951/3単体 売上高 / 当期純利益---
1952/3単体 売上高 / 当期純利益---
1953/3単体 売上高 / 当期純利益---
1954/3単体 売上高 / 当期純利益---
1955/3単体 売上高 / 当期純利益---
1956/3単体 売上高 / 当期純利益---
1957/3単体 売上高 / 当期純利益---
1958/3単体 売上高 / 当期純利益---
1959/3単体 売上高 / 当期純利益---
1960/3単体 売上高 / 当期純利益---
1961/3単体 売上高 / 当期純利益---
1962/3単体 売上高 / 当期純利益---
1963/3単体 売上高 / 当期純利益---
1964/3単体 売上高 / 当期純利益---
1965/3単体 売上高 / 当期純利益---
1966/3単体 売上高 / 当期純利益---
1967/3単体 売上高 / 当期純利益---
1968/3単体 売上高 / 当期純利益---
1969/3単体 売上高 / 当期純利益---
1970/3単体 売上高 / 当期純利益---
1971/3単体 売上高 / 当期純利益---
1972/3単体 売上高 / 当期純利益---
1973/3単体 売上高 / 当期純利益---
1974/3単体 売上高 / 当期純利益---
1975/3単体 売上高 / 当期純利益---
1976/3単体 売上高 / 当期純利益---
1977/3単体 売上高 / 当期純利益---
1978/3単体 売上高 / 当期純利益---
1979/3単体 売上高 / 当期純利益---
1980/3単体 売上高 / 当期純利益---
1981/3単体 売上高 / 当期純利益---
1982/3単体 売上高 / 当期純利益---
1983/3単体 売上高 / 当期純利益---
1984/3単体 売上高 / 当期純利益---
1985/3単体 売上高 / 当期純利益---
1986/3単体 売上高 / 当期純利益---
1987/3単体 売上高 / 当期純利益---
1988/3単体 売上高 / 当期純利益---
1989/3単体 売上高 / 当期純利益---
1990/3単体 売上高 / 当期純利益---
1991/3単体 売上高 / 当期純利益---
1992/3連結 売上高 / 当期純利益10,404億円-216億円-2.1%
1993/3連結 売上高 / 当期純利益10,477億円-272億円-2.6%
1994/3連結 売上高 / 当期純利益10,157億円-255億円-2.6%
1995/3連結 売上高 / 当期純利益11,032億円12億円0.1%
1996/3連結 売上高 / 当期純利益10,773億円194億円1.8%
1997/3連結 売上高 / 当期純利益12,230億円395億円3.2%
1998/3連結 売上高 / 当期純利益13,039億円307億円2.3%
1999/3連結 売上高 / 当期純利益13,525億円337億円2.4%
2000/3連結 売上高 / 当期純利益13,301億円313億円2.3%
2001/3連結 売上高 / 当期純利益13,118億円226億円1.7%
2002/3連結 売上高 / 当期純利益13,624億円302億円2.2%
2003/3連結 売上高 / 当期純利益13,723億円334億円2.4%
2004/3連結 売上高 / 当期純利益14,394億円386億円2.6%
2005/3連結 売上高 / 当期純利益14,464億円182億円1.2%
2006/3連結 売上高 / 当期純利益14,763億円156億円1.0%
2007/3連結 売上高 / 当期純利益14,948億円318億円2.1%
2008/3連結 売上高 / 当期純利益15,723億円184億円1.1%
2009/3連結 売上高 / 当期純利益14,457億円-699億円-4.9%
2010/3連結 売上高 / 当期純利益14,286億円-164億円-1.2%
2011/3連結 売上高 / 当期純利益15,805億円503億円3.1%
2012/3連結 売上高 / 当期純利益15,171億円384億円2.5%
2013/3連結 売上高 / 当期純利益19,129億円1,195億円6.2%
2014/3連結 売上高 / 当期純利益24,081億円2,066億円8.5%
2015/3連結 売上高 / 当期純利益28,779億円2,618億円9.0%
2016/3連結 売上高 / 当期純利益32,322億円4,366億円13.5%
2017/3連結 売上高 / 当期純利益33,259億円2,823億円8.4%
2018/3連結 売上高 / 当期純利益32,326億円2,203億円6.8%
2019/3連結 売上高 / 当期純利益31,605億円1,478億円4.6%
2020/3連結 売上収益 / 当期利益33,441億円1,525億円4.5%
2021/3連結 売上収益 / 当期利益28,302億円765億円2.7%
2022/3連結 売上収益 / 当期利益27,445億円700億円2.5%
2023/3連結 売上収益 / 当期利益37,744億円2,004億円5.3%
2024/3連結 売上収益 / 当期利益47,029億円3,850億円8.1%

Author's Insights

大手が見向きもしない市場を選び続けた生存戦略
鉄道・バス・風力を手放し、北米SUVに賭けるまで

国内乗用車市場においてトヨタ・日産・ホンダが圧倒的なシェアを握る中、富士重工(SUBARU)は正面から競合する戦略を一度も採っていない。1958年に「スバル360」で軽自動車市場に参入した時点から、大手が本格的に参入しない領域を選ぶことで生存空間を確保してきた。1970年代には市場規模が数%にすぎない4WDに経営資源を集中し、水平対向エンジンという独自技術と組み合わせることで、大手メーカーが投資対効果を見出さない領域での先行者利益を築いた。

この「大手不在の領域を選ぶ」戦略は、短期的には合理的であったが、市場が拡大した場合に大手が参入してくるリスクを常に内包していた。実際に1980年代後半には三菱自動車やダイハツが4WD市場に本格参入し、富士重工のシェアは1980年度の38.5%から1985年度の27.5%に低下した。ニッチ市場で築いた先行者利益は、市場の拡大とともに侵食される構造にある。

この構造的制約に対する富士重工の回答は、国内市場ではなく北米市場にあった。水平対向エンジンとAWDという技術的差別化は、北米の消費者に「安全で走破性が高い車」として評価され、SUVカテゴリの成長とともに需要を拡大した。国内市場で大手に押される中堅メーカーが海外市場で差別化を成立させるモデルは、マツダのロータリーエンジンとも共通する構造であるが、SUBARUの場合はSUV市場の成長と結びついた点で持続性が異なる。

SUBARUの歴史は、中堅メーカーが生き残るために「何をしないか」を選択し続けた過程として読むことができる。大衆車で大手と競合しない、多角化で資源を分散させない、国内市場で規模を追わない。鉄道車両・バス・風力発電・汎用エンジンからの撤退は、自動車以外のすべてを手放す集中戦略の帰結であった。ニッチへの集中は生存のための必然であったが、その結果としてSUBARUは北米SUV市場という単一の成長エンジンに企業の命運を委ねる構造を作り上げた。

2026-02-21 | by author
日産→GM→トヨタ、大株主が3度変わった資本遍歴
中堅自動車メーカーの独立と依存の間

SUBARUの前身・富士重工の資本構成は、大手自動車メーカーとの提携関係によって3度変わっている。1968年に日産自動車と業務提携を締結し、日産が大株主として富士重工の経営に影響力を持つ体制が30年以上続いた。1999年にGMとの資本提携が成立して日産に代わってGMが大株主となったが、2005年にGMとの提携は解消された。2006年にトヨタ自動車との業務提携が始まり、2019年にはトヨタの出資比率が20.4%に達して現在に至る。

大株主が3度変わった背景には、中堅自動車メーカーが単独で生存するための経営資源——特に北米における生産・販売体制——を自前で賄えないという構造的な制約がある。1990年に営業赤字に転落した際、日産から送り込まれた川合勇氏が社長として経営再建に着手した事実は、資本関係が経営のガバナンスに直結していたことを示している。大株主は単なる出資者ではなく、経営の方向性を左右する存在であった。

しかし、いずれの大株主もSUBARUの経営に深くコミットし続けたわけではなかった。日産はルノーとの提携に軸足を移して富士重工への関心を失い、GMは自社の経営危機の中でSUBARU株を手放した。大株主の都合でパートナーが変わるたびに、富士重工は新たな提携関係を模索せざるを得なかった。中堅メーカーにとっての資本提携は安定装置であると同時に、大手側の戦略変更に翻弄される不安定要因でもあった。

トヨタとの提携は、過去の2社と比較して長期安定的な関係を築いている。トヨタが20.4%を保有する資本構成のもとで、BRZ/86の共同開発やEV共同開発など技術面での協業が進む。しかし、トヨタが自社のEV戦略やグループ再編の中でSUBARUをどう位置づけるかは、最終的にはトヨタの判断に依存する。大株主の交代が3度起きた企業にとって、現在の安定は構造的な保証ではなく、大株主の戦略的な判断の結果に過ぎないという認識が必要であろう。

2026-02-21 | by author
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1917
飛行機研究所を創業
1931
中島飛行機株式会社を設立
1945
富士産業株式会社に商号変更・軍需から民需転換
1950
企業再建整備法により富士産業を12社に解体
1953
富士重工株式会社を設立
1955
旧富士産業5社を吸収合併
1958
乗用車「スバル360」を発表
1960
群馬製作所を新設
1968
日産自動車と業務提携を締結
1979

4WD「レオーネ」を発売

大手不在のニッチ市場で首位を築いた4WD集中戦略

国内乗用車市場でトヨタや日産と正面から競合できない中堅メーカーが選んだのは、市場規模がわずか数%の4WD領域への集中であった。大手にとって投資対効果が見合わない小さな市場こそ、富士重工にとっては競争が緩やかで先行者利益を取れる領域であった。水平対向エンジンという独自技術を4WDに組み合わせたことで技術的な差別化が成立し、1980年度にシェア首位を確保した。このニッチ戦略の成否が、後の北米SUV市場への展開を規定する分岐点となっている。

背景

大手が注力しない4WD市場に活路を見出した中堅メーカー

1970年代、国内の乗用車市場ではトヨタや日産といった大手完成車メーカーが圧倒的なシェアを握り、中堅メーカーの富士重工が正面から競合するのは難しい状況にあった。そこで富士重工は、当時の四輪車市場に占める割合がわずか数%にとどまる4WD(四輪駆動)の領域に経営資源を集中する方針をとった。大手メーカーにとって市場規模の小ささは参入を躊躇させる要因であり、富士重工にとっては競争が緩やかなニッチ市場として映った。

技術面では、自動車業界において採用例の少ない水平対向エンジンの開発に注力した。水平対向エンジンは重心が低く左右対称のレイアウトとなるため、4WDシステムとの組み合わせにおいて走行安定性の面で優位性があった。1972年には国内で業界初となる乗用車タイプの4WDを開発し、富士重工は4WDの技術的な先行者としての立場を築いた。大手が見向きもしない領域で技術を磨き続けたことが、後の市場拡大局面で競争優位に転じる素地を作った。

決断

改良型「レオーネ」の投入で4WD市場のシェア首位を獲得

1979年、富士重工は4WDの改良型モデル「レオーネ」を発売し、4WDを軸とした車種展開を本格化させた。レオーネは乗用車としての快適性と四輪駆動による走破性を両立した車種であり、降雪地域や山間部の顧客を中心に支持を集めた。富士重工はこの車種を起点にSUBARUブランドを4WDの代名詞として浸透させ、限られた経営資源を4WDという一点に絞る戦略を鮮明にした。

この集中戦略は市場シェアに直結した。1980年度には富士重工が国内4WD市場において販売台数ベースでシェア38.5%を獲得し、トヨタ(20.6%)やスズキ(19.6%)を抑えて首位に立った。大手メーカーが本腰を入れない隙間で先行投資を続けた結果、中堅メーカーが特定セグメントで圧倒的な地位を築くという構図が成立した。4WDにおける技術蓄積とブランド認知は、後のレガシィや北米SUV展開の基盤となった。

国内4WD市場シェア(販売台数ベース)
企業名1980年度1985年度
富士重工(SUBARU)38.5%(1位)27.5%(1位)
トヨタ20.6%(2位)9.0%(6位)
スズキ19.6%(3位)21.3%(2位)
三菱重工(三菱自動車)11.4%(4位)14.6%(1位)
ダイハツ1.1%12.5%(4位)
ホンダ0.0%9.5%(5位)
企業名
富士重工(SUBARU)
1980年度
27.5%(1位)
出所日経ビジネス:富士重工業4WD車で市場奪回 | 1986/3/3
大手不在のニッチ市場で首位を築いた4WD集中戦略

国内乗用車市場でトヨタや日産と正面から競合できない中堅メーカーが選んだのは、市場規模がわずか数%の4WD領域への集中であった。大手にとって投資対効果が見合わない小さな市場こそ、富士重工にとっては競争が緩やかで先行者利益を取れる領域であった。水平対向エンジンという独自技術を4WDに組み合わせたことで技術的な差別化が成立し、1980年度にシェア首位を確保した。このニッチ戦略の成否が、後の北米SUV市場への展開を規定する分岐点となっている。

証言日経ビジネス

四輪駆動のパイオニアとして、ひたすらその道を突き進んできた富士重工。国内11社がひしめき合う自動車業界にあって、中堅どころの富士重がその存在意義を主張できたのは、4WDという突出した技術があったからにほかならない。1972年、国産初の乗用車タイプの4WD車を発売した富士重は、1979年、改良型の4WD車、新レオーネを投入。それを踏み台に押しも押されもしない4WDのトップメーカーにのしあがった。

出所1986/3/3 日経ビジネス:富士重工業4WD車で市場奪回
年表4WD「レオーネ」を発売に関する出来事
1987
3月

いすゞと北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携)

「年産20万台」に届かない中堅メーカーの北米生産戦略

北米現地生産の採算ラインが年産20万台とされる中、単独では到達できない富士重工といすゞが選んだのは系列を超えた合弁生産であった。大株主である日産・GMからの支援を得られないという制約が、異なるグループの中堅メーカー同士を結びつけた。短期的にはSIAの赤字が経営を圧迫し2002年に協業は解消されたが、この提携で確保したインディアナ州の工場が後のSUBARU北米販売拡大の生産基盤となった点に、IF提携の長期的な意義がある。

背景

日米貿易摩擦と円高が迫った北米現地生産という選択肢

1980年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、日本政府によって自動車の対米輸出台数が制限・管理される状況となった。加えて1985年のプラザ合意を契機に円高ドル安が急速に進行し、日本で生産した乗用車を北米に輸出する際の採算が大幅に悪化した。輸出台数の規制と為替の逆風という二重の制約は、北米市場で事業を展開する日本の自動車メーカーに対して現地生産への移行を事実上強いるものであった。

トヨタ・日産・ホンダといった大手完成車メーカーは、北米における販売網と販売台数をすでに確保しており、現地生産の採算ラインとされる年産20万台を単独で達成できる見通しがあった。しかし中堅メーカーの富士重工にとって、北米での年間販売台数は20万台に遠く及ばず、単独での現地生産は投資規模に見合わない状況にあった。現地生産を行わなければ北米市場での存続が困難になる一方、単独で進出すれば採算割れのリスクを抱えるという板挟みに直面していた。

同様の課題を抱えていたのがいすゞ自動車であった。いすゞも北米での販売規模が限られており、単独で量産工場を建設・運営する体力に乏しかった。富士重工の大株主は日産、いすゞの大株主はGMであったが、日産は富士重工の北米進出を積極的に支援する姿勢をとらず、GMも北米の労使問題に直面して余裕がなかった。系列の親会社から支援を得られないという共通の制約が、異なる企業グループに属する両社を結びつける契機となった。

決断

系列を超えた合弁で北米工場を新設しIF提携を開始

1986年、富士重工の田島社長といすゞ自動車は、北米に共同で乗用車量産工場を新設し現地生産を行うことを発表した。両社はそれぞれ単独では年産20万台の販売量を確保できないため、協業によって生産台数を積み上げ、量産効果により現地生産の採算を成立させることを意図した。富士重工といすゞの頭文字をとって「IF提携」と名づけられたこの協業は、乗用車市場の下位メーカー同士が系列を超えて手を組んだ類例のない取り組みとして注目を集めた。

合弁会社「スバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)」を設立し、出資比率は富士重工が51%、いすゞが49%とした。工場はインディアナ州ラフィエットに建設され、設備投資額は2社合計で800億円を計画した。生産車種は富士重工の4WDレオーネ(年産6万台)と、いすゞのファスター・ビッグホーン(合計年産6万台)であり、当初は年産12万台の体制から開始し、将来的に24万台への拡大を見込んだ。

工場は計画通り1989年11月に竣工し、北米における現地生産が始まった。損益分岐点は年産15万台と見込まれていたため、当初の12万台体制では採算に乗らないことが織り込まれていた。富士重工にとっては、短期的な収益よりも北米市場に生産拠点を確保すること自体が戦略的な優先事項であり、段階的に生産台数を引き上げて採算化を目指す計画であった。

結果

北米生産拠点の確保と2002年の協業解消という帰結

IF提携は富士重工にとって、単独では実現し得なかった北米生産拠点の獲得という成果をもたらした。インディアナ州の工場は、後に富士重工が北米市場で販売を拡大する際の生産基盤として機能することになる。大手メーカーのように自前で大規模工場を建設する余力がない中堅メーカーが、協業というスキームを通じて北米現地生産の切符を手にした判断であった。

一方で、IF提携は当初の想定通りには進まなかった。工場稼働直後に米国の景気が冷え込み、富士重工・いすゞの両社とも北米での販売が低迷した。年産15万台の損益分岐点を超えられない状態が続き、SIAの赤字が富士重工の連結業績を圧迫する局面が生じた。異なる車種・異なる販売網を持つ2社が1つの工場を共有する運営は、生産計画の調整において難しさを伴うものでもあった。

最終的に2002年12月、富士重工といすゞは北米現地生産の協業を解消した。提携から15年が経過する中で、両社の北米戦略は異なる方向に発展しており、共同生産を続ける合理性が薄れていた。しかし、この提携を通じて富士重工が手にしたインディアナ州の生産拠点は、協業解消後もSUBARU単独の北米工場として稼働を継続し、後の北米販売拡大を支える中核的な資産となった。

SIA:北米現地生産の計画台数(1987年時点)
企業名車種生産台数備考
富士重工(SUBARU)レオーネ6万台/年4WD
いすゞファスター3万台/年小型ピックアップトラック
いすゞビッグホーン3万台/年ジープ(4WD)
企業名
富士重工(SUBARU)
車種
レオーネ
生産台数
6万台/年
備考
4WD
出所日経ビジネス:資本系列のワクを越え、米国で小型車を共同生産 | 1986/5/26
「年産20万台」に届かない中堅メーカーの北米生産戦略

北米現地生産の採算ラインが年産20万台とされる中、単独では到達できない富士重工といすゞが選んだのは系列を超えた合弁生産であった。大株主である日産・GMからの支援を得られないという制約が、異なるグループの中堅メーカー同士を結びつけた。短期的にはSIAの赤字が経営を圧迫し2002年に協業は解消されたが、この提携で確保したインディアナ州の工場が後のSUBARU北米販売拡大の生産基盤となった点に、IF提携の長期的な意義がある。

証言日経ビジネス

残るは富士重といすゞである。日本車の米国現地生産が本格稼働すれば、カナダの鈴木-GMの生産20万台を含めると、現地生産の供給台数はゆうに年間150万台を超す。過剰生産は目に見えている。こうしたことから一時、富士重、いすゞ社内では「現地生産しないのが最も賢明な策」という消極論もあったが、円高の進展に伴って「現地生産しない限り、現状の規制台数を確保することすらできなくなる」という空気に変わってきた。これを打開するには現地生産しかない。

仮に将来、円安に転じたとしても、米議会は日本車の輸出攻勢を食い止めるため、悪名高き「ローカルコンテント」(部品の米国内調達)法案の成立に全力をあげることは目に見えている。つまり為替相場がどんな状況にあっても、現地生産は不可避なのである。現地生産を放棄することは自動車メーカーとして「座して死を待つ」ことを意味する。

だがいかんせん、両社(注:富士重工・いすゞ)とも意欲はあっても、トヨタ、日産のように単独で進出する力はない。仮に単独進出して小規模生産しても、コストが高くつき、これでは激しい競争には打ち勝てない。量産効果を発揮してリスクなき参入をはかるには、他メーカーとの提携による共同生産しかない。

出所1986/5/26 日経ビジネス:資本系列のワクを越え、米国で小型車を共同生産
年表いすゞと北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携)に関する出来事
19863月北米生産準備室を設置
19873月いすゞ自動車と北米現地生産で合意
19873月スバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)を設立
出資比率51%
198911月現地工場を竣工(インディアナ州ラフィエット)
設備投資額(2社合計)800億円
200212月いすゞとの北米現地生産の協業を解消
1989
乗用車「レガシィ」を発売
1990
3月

営業赤字に転落・経営再建に着手

操業度維持と販売不振が生む「作るほど赤字」の構造

SIAの赤字が示したのは、現地生産における固定費の重さと販売力の欠如が同時に存在する場合の危険性である。工場は稼働率を一定以上に保たなければ単位コストが跳ね上がるが、販売が追いつかなければ在庫が膨らむ。この構造的な問題に対して川合社長が着手したのは、販売会社SOAの完全子会社化による販売体制の内製化であった。生産拠点の確保だけでなく販売機能の掌握まで踏み込んだ点に、後の北米事業立て直しの起点がある。

背景

北米現地生産子会社の赤字が本体決算を直撃

1990年3月期、富士重工は単体決算で296億円の営業赤字に転落し、上場後初の赤字決算を計上した。業績悪化の主因は、1989年に稼働を開始した北米現地生産子会社SIA(スバル・いすゞ・オートモーティブ)の赤字にあった。工場稼働直後に米国の景気が冷え込み、北米のディーラーを通じた販売が想定を大きく下回った。受注が低迷する一方で工場の操業度を維持する必要があり、結果として在庫が積み上がった。

SIAの赤字は、中堅メーカーが北米現地生産に踏み切る際のリスクが顕在化したものであった。年産15万台という損益分岐点に対して、実際の販売台数は大幅に不足していた。日本からの輸出に代わる収益源として立ち上げた現地生産が、稼働初年度からかえって業績の足を引っ張る構図となった。富士重工の経営は、北米事業の立て直しを最優先課題として対処を迫られた。

決断

大株主の日産から川合勇氏を社長に迎え経営再建に着手

赤字転落を受けて田島敏弘社長が退任し、大株主である日産自動車から新社長が送り込まれた。就任したのは日産ディーゼルの社長として経営再建の実績を持つ川合勇氏であり、親会社グループから経営のプロを招聘して富士重工の再建を図る座組となった。川合社長は、北米事業の収益改善と国内事業のコスト構造の見直しを柱に、経営再建に着手した。

川合社長のもとで着手された施策の一つが、米国販売会社SOA(Subaru of America)の完全子会社化であった。それまで販売機能を外部に委ねていた体制を改め、製造から販売までを一貫して管理する方針に転換した。北米における販売不振の根本には、ディーラー網の弱さと販売体制のコントロール不足があるとの認識に基づく判断であった。SIAの操業と並行して販売側の立て直しに乗り出し、中長期での北米事業の採算化を目指した。

操業度維持と販売不振が生む「作るほど赤字」の構造

SIAの赤字が示したのは、現地生産における固定費の重さと販売力の欠如が同時に存在する場合の危険性である。工場は稼働率を一定以上に保たなければ単位コストが跳ね上がるが、販売が追いつかなければ在庫が膨らむ。この構造的な問題に対して川合社長が着手したのは、販売会社SOAの完全子会社化による販売体制の内製化であった。生産拠点の確保だけでなく販売機能の掌握まで踏み込んだ点に、後の北米事業立て直しの起点がある。

証言川合勇(富士重工業・社長)

米国は、作る方と売る方と両方あるんです。いすゞさんと合弁で現地工場を持っているんですが、なんといっても売る方が先で、売れなきゃ作れないわけですよ。今まで現地工場の操業度を上げるために、売れる前に作っていたから在庫が増える一方だった。それじゃダメだから、まず売れる体制を作るために、販売会社であるSOA(注:Subaru of America)を100%子会社にして、担当の常務がテコ入れしています。まあ、SOAの体勢よりもむしろ、基本的にはディーラーさんのやる気なんですよね。

出所1990/12/31 日経ビジネス:編集長インタビュー
1990
米国販売会社SUBARU Of America Inc.を買収
1999
GMと資本提携を締結
2000
日産自動車との業務提携を解消
2000
スズキと業務提携を締結
2002
いすゞとの北米現地生産の協業を解消
2003
鉄道車両およびバス車体製造から撤退
2005
GMと提携解消
2006
トヨタ自動車と業務提携
2007
北米で大規模な販売促進を実施
2008
運転支援システム「アイサイト」を開発
2012
風力発電システム事業を日立に売却
2012
SUV「SUBARU XV」を発売
2012
汎用エンジン・発電機から撤退
2014
本社を新宿から恵比寿に移転
2017
株式会社SUBARUに商号変更
2019
トヨタ自動車と業務資本提携で合意