1969年〜 藤田田の創業と都市圏ドミナント戦略の完成期
- 1971年日本マクドナルドを設立
- 1971年銀座三越にマクドナルド1号店を開業
- 1971年人材教育機関「ハンバーガー大学」を開校
- 1972年都市圏を中心に多店舗展開を本格化
- 1976年フランチャイズ1号店を開業(牧港店)
- 1977年ドライブスルー方式の1号店を開業(環八高井戸店)
- 1982年国内外食産業で売上高1位に到達
日本マクドナルドの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
ロイヤリティ1% ── 業界の無関心が呼んだ破格の初期条件
1969年の資本自由化を受けてファストフード各社の日本参入が相次ぐなか、藤田田氏は米マクドナルドとの合弁設立に動いた。ダイエーが出資比率51%に固執して破談し、ハンバーガー事業に手を挙げる食品企業も限られていたことが、藤田氏に有利な交渉環境を与えた。藤田氏は通常5%のロイヤリティを1%に抑え、契約期間30年を勝ち取った。米マクドナルド側にとっても日本市場の開拓を任せられる相手は限られており、藤田氏の交渉力と業界の無関心の両方が重なって、後の成長を支える独特の初期条件が固まった。食品メーカーがハンバーガー事業の将来性を見誤ったことが、結果として藤田氏に破格の条件をもたらす逆説的な事情となった。 [1]
- 有価証券報告書
- [1]藤田田が米マクドナルドと合弁で日本マクドナルドを設立(創業者)
1971年7月に銀座三越の国道1号線沿いに1号店を開いた。藤田氏は「銀座でも商売になる場所はほんの10メートルも離れていない」(週刊東洋経済 1975/8/7)と語り、メートル単位の立地精度を重視した。開業初日から1日1万名が来店する社会現象となり、日本のファストフード市場の出発点となった。従来の日本の外食とは異なる店舗設計と運営方式は若年層に新しい食文化として受け入れられ、銀座の場所性とハンバーガーが結びついた。短時間提供、セルフサービス、明るく開放的な店舗設計は、日本の外食の常識を書き換える新鮮な体験として消費者に歓迎された。銀座1号店の成功は全国展開の追い風となった。 [2][3]
- 有価証券報告書
- [2]1971年7月 東京都中央区銀座に日本第1号店をオープン(銀座店)
- 週刊東洋経済(1975年8月7日)
- [3]藤田田の立地に関する発言(引用・週刊東洋経済1975/8/7)
- 有価証券報告書
- [1]藤田田が米マクドナルドと合弁で日本マクドナルドを設立(創業者)
- [2]1971年7月 東京都中央区銀座に日本第1号店をオープン(銀座店)
- 週刊東洋経済(1975年8月7日)
- [3]藤田田の立地に関する発言(引用・週刊東洋経済1975/8/7)
直営・都市圏集中・供給体制の三位一体型成長
藤田氏はフランチャイズではなく直営を選び、テレビCMの蓄積効果を考慮して東京・大阪・名古屋の三大都市圏に出店を集中させた。宣伝部長の高木一夫は、広告投資の蓄積がない地方に1店舗を出しても恩恵を受けられないと説明した。広告と店舗の相互依存関係がチェーン展開の地理的優先順位を規定した。広告と出店のタイミングを一体で設計するこの姿勢は、後の外食チェーンの出店戦略の定石として業界全体に広がり、日本マクドナルドの影響力を業界内に深く浸透させた。テレビ広告の費用対効果から導き出された出店戦略は、当時としては新しい経営手法であり、業界関係者の関心を集めた。 [4]
- 有価証券報告書
- [4]東京・大阪・名古屋の三大都市圏への出店集中(本文の主張)
供給面では1972年にゼンチクと本格取引契約を締結し、千葉にマクドナルド専用工場を新設した。直営による品質管理、都市圏集中出店、安定供給体制の三要素が噛み合い、1974年に58店舗、1976年に105店舗、1979年に212店舗へと店舗数を伸ばした。1984年には外食産業で初の売上高1000億円を超えた。藤田氏は経営手法について「従来のレストラン経営は経験とカンによるもので、マクドナルドは選び抜いた単品メニューを科学的システムによって経営していく技術革新だ」(週刊東洋経済 1975/8/7)と説明した。供給と需要の両面を同時に設計する姿勢は、当時の日本の外食業界では珍しい垂直統合型として注目を集め、後続のファストフード各社にも参照されるモデルとなった。 [5][6][7][8][9]
- 日経ビジネス(1984年10月29日)
- [5]1974年58店舗(単体)
- [6]1976年105店舗(単体)
- [7]1979年212店舗(単体)
- 有価証券報告書
- [8]1984年に外食産業で初めて売上高1000億円超え
- 週刊東洋経済(1975年8月7日)
- [9]藤田田の経営手法に関する発言(引用・週刊東洋経済1975/8/7)
業績の優位は競合観にも反映された。藤田氏は「競争が、ウチには全然ありませんからね。ロッテリアが、ハンバーガー第2位なんていうが、全然問題じゃありませんよ」(日経ビジネス 1984/10/29)と語り、業界他社との差を広げる自信を隠さなかった。米国製マニュアルが他社にも入手されていながら同等の運営に届かないのは、女子店員の応対や店長クラスの士気の差にあるとも、競合のモスバーガー側から評価された。社員ライセンス制度ののれん分け運用や、創業時採用20名のうち19名が在籍を続ける定着率の高さが、運営の質を底支えした。広告投資と供給体制の相乗効果は、他社が容易に追随できない参入障壁として長期にわたって作用した。 [10]
- 日経ビジネス(1984年10月29日)
- [10]藤田田の競合観に関する発言(引用・日経ビジネス1984/10/29)
- 有価証券報告書
- [4]東京・大阪・名古屋の三大都市圏への出店集中(本文の主張)
- [8]1984年に外食産業で初めて売上高1000億円超え
- 日経ビジネス(1984年10月29日)
- [5]1974年58店舗(単体)
- [6]1976年105店舗(単体)
- [7]1979年212店舗(単体)
- [10]藤田田の競合観に関する発言(引用・日経ビジネス1984/10/29)
- 週刊東洋経済(1975年8月7日)
- [9]藤田田の経営手法に関する発言(引用・週刊東洋経済1975/8/7)