1971年に藤田商店と米マクドナルドが50%ずつを出資した合弁会社が起源。
同年に銀座三越に第1号店を開設し、藤田田氏のもとで1994年からハンバーガーの価格破壊を断行した。1982年に外食産業で国内売上首位に立ち、1984年には外食で初めて売上高1000億円を超えた。
折半出資で生まれた日本マクドナルドの初期の優位は、同時期の外食の外資と逆の、直営による出店にあった。他のレストラン外資がほぼ当初からフランチャイズ方式を採ったのに対し、1977年の127店のうち直営は125店だった[1][2]。直営は投資が重い反面、手順書の運用を本部が直接管理できる。品質をそろえたまま出店を重ねたことが、他社との差になった。1984年に外食で初めて売上高1000億円を超えた規模は、重い投資を本部が負い続けた成果である[3]。
価格破壊を利益に結びつけたのは、値下げそのものより、増加した客を受け止める店舗網を短期間に広げた出店の技術だった。年100店ほどだった新規出店は、1995年に350店、1996年に530店へ増加した[10]。住民データから候補地の売上高を予測する仕組みは、誤差を5%程度に抑えていた[10]。売上を数値で見積もれたから、既存店の近くにも迷わず出店できた。価格と出店を同時に動かす手法は客数の増加を前提としており、その前提は2000年代に試される。
2000年代の日本マクドナルドの転換は、藤田田氏個人に属した経営判断を、組織と契約へ移す作業だった。藤田商店との提携解消に続き、2003年12月には藤田商店との経営指導契約を打ち切った[14]。2004年に社長となった原田泳幸氏は本部長を事実上全員解任し、後任を公募した[14]。直営店を売却するフランチャイズ転換も、店舗運営を外部の経営者へ委ねる点で同じ方向にある。創業者の退任から10年足らずで、藤田田氏の直営主義と反対の事業モデルへ切り替えた。
鶏肉問題からの再建で同社が得たのは、藤田時代の値下げと逆に、値上げしても客が離れない体質だった。2015年12月期の349億円の純損失の後、ビジネスリカバリープランで閉店と改装を並行した[22][23]。2023年は約8割の品目を値上げし、7月から東名阪の184店に都心型価格を適用した[24][25]。値上げが通ったのは、改装とデジタルへの投資で価格以外の来店理由を先に積んでいたからである。価格を経営の手段に使えることが、サラ・L・カサノバ氏以来の再建の到達点である。
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