1969年に日本政府は第二次資本自由化を実施。外食産業における合弁による海外企業の日本進出が許可された。この結果、外食産業としてアメリカでメジャーであった「ハンバーガー」などのファストフードの新規参入ブームが日本でも巻き起こった。
1969年には三菱商事がケンタッキーと提携したのを皮切りに、中小企業が群雄割拠してきた外食産業にも大企業が参入する時代となった。三菱商事のように外資企業とタッグを組むケースもあれば、ダイエー系のドムドムバーガーのように独自資本により参入したケース、モスバーガーのように個人商店から外食チェーンを展開したケースなど、その参入形態は様々であった。
いずれも、外食産業が日本国内で急成長するという予測に基づいて参入したものであった。当時の日本国内の主食は和食であり、食の洋風化が進行途上にあったこともあり、潜在的な需要も大きいことが予想されていた。
| 日時 | 参入 | 展開会社の資本関係 |
| 1970-02 | ドムドムバーガー1号店を開店(町田) | ダイエー |
| 1970-11 | ケンタッキー1号店を開業(名古屋市) | 三菱商事+米ケンタッキー |
| 1971-07 | マクドナルド1号店を開業(銀座) | 藤田商店+米マクドナルド |
| 1972-03 | モスバーガー1号店を開業(成増) | 個人創業 |
| 1972-09 | ロッテリア1号店を開業(日本橋) | ロッテ |
チェーン数1000〜2000、年商150億〜2000億という巨大なレストランチェーンが、昨年秋の資本自由化で続々と日本へ上陸。ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツなどをフランチャイズ・システムで売り込んでいる。外食の多い若者たちは喜んでいるが、食堂関係者はみな苦い顔。
1971年に輸入雑貨を扱う藤田商店の経営者であった藤田田(ふじた・でん)氏が、米国のマクドナルドの業務システムに感銘を受け、日本で展開したいと懇願したことであった。当時、藤田氏は45歳の経営者であった。
マクドナルドでは必要となるスキルをマニュアル化することで、経験年数の少ないひとでも店員や店長として必要な業務を短期間に習得する組織を作り上げており、徒弟制度が中心だった日本の外食産業にとって真新しいシステムでもあった。
米国マクドナルドとしては無名の藤田商店ではなく、ダイエーなどの大手企業との合弁会社の設立を模索していた。だが、ダイエーは合弁会社の出資比率で51%を自社で持つことにこだわったため、交渉が破断。当時、ハンバーガーという未知なる製品に興味のある企業は少なく、米マクドナルドは日本での合弁パートナー探しに苦戦した。
このため、マクドナルドの日本進出の交渉では中小企業の経営者である藤田商店にとって有利な状況で進んだ。特に、売上高に対するマクドナルド本社へのロイヤリティーと契約期間に関して、藤田は「提示された5%ならやらない。1%なら合弁する」「10年、15年の契約じゃダメだ。30年契約なら合弁する」という主張をして米国本社に認めさせることに成功したという。なお、藤田氏は米マクドナルドに30年で700店舗の展開を約束したと言われている。
米マクドナルドは通常のロイヤリティーは5%で締結するのが海外展開で一般的としていたため、1%ロイヤリティーは破格の条件であった。
合弁交渉を経て、1971年3月に藤田商店・第一製パン・米国マクドナル本社の3社の出資により日本マクドナルドを設立した。出資比率は、藤田商店25%・第一製パン25%・米マクドナルド50%であり、第一製パンはパンの供給を担った。資本金は5400万円。合弁会社の設立は、1971年3月18日にホテルオークラにて発表された。
ただし、創業から数年の間に資本政策の変更があり、藤田商店が第一製パンの株式を買い取り、日本マクドナルドは藤田商店と米マクドナルドの「折半出資」という形となった。この理由は、材料メーカーの出資によって取引先が偏ることを避けるため、藤田田氏が資本形態を改めたためである。
なお、日本マクドナルドは、藤田商店と米マクドナルドの折半出資の形態ではあったものの、藤田商店の藤田田氏が社長に就任。日本マクドナルドの重要な意思決定を一任しており、逝去する2003年ごろまで影響力を保持していた。このため、日本マクドナルドの実質的な創業者は藤田田氏と言える。
当社の場合、出資比率は50対50だが、合弁会社で出資者がフェアな協力をしようと思えば、この折半出資がいちばん望ましいんじゃないですか。どちらか一方が過半数を握っていると、本当の協力関係を確立するのはむずかしい。投票すれば一方が勝つのが最初から明白ですからね。(略)
(注:対立が起きた時は)その場合は、社長が裁断すればいいんです。出資者がお互いに話し合って問題が解決できなければ社長の権限で決めるべきですよ。そのための社長ですからね。当社の場合、日常経営については一切日本側に任されています。米側本社は助言はしてますが、それを受け入れるかどうかは全くこちらの自由なわけです。常駐の米側役員がいない代わりに、その都度広告やら、資材部門へアドバイザーが派遣されてくる。
1971年3月の日本マクドナルドの会社設立に合わせて国内における経営方針を発表。東京都心部を中心に1年以内に8〜10店舗の展開を目指し、6000万円の設備投資を計画した。年間目標売上高は1億円に設定された。
また、第一製パンでは蒲田工場にセントラルキッチンの設備投資を自社負担で実施し、マクドナルド数十店舗へのパンの供給体制を整えた。当時は第一製パンも日本マクドナルドへ25%出資しており、設備投資を自社負担で行う理由となっていた。
藤田田氏はマクドナルドの展開にあたって「舶来品は銀座から情報発信される」という持論を展開し、一等地である銀座4丁目を計画した。そこで、藤田商店は、銀座4丁目に店舗を構える三越(岡田社長)と交渉を開始。銀座三越が若者の集客を目論んでいたこともあり、両者の利害が一致して銀座4丁目という一等地への出店交渉が成立した。
1971年7月20日に日本マクドナルドは銀座三越に「マクドナルド1号店」を開業した。計画では1日あたり売上は15〜20万円を想定した。
メニューに関しては、ハンバーガーを中心に揃える方針を打ち出した。
| 商品名 | 定価(当時) | 現在換算 |
| ハンバーガー | 72円 | 360円 |
| チーズバーガー | 90円 | 450円 |
| フィレオ・フィッシュ | 126円 | 630円 |
| フレンチフライ | 72円 | 360円 |
| ホット・アップル・パイ | 72円 | 360円 |
| ミルク | 54円 | 270円 |
| コーヒー | 54円 | 270円 |
| ホット・チョコレート | 54円 | 270円 |
| コーラ、オレンジなど | 50円 | 250円 |
日本の商人が、念願の銀座へ進出する場合、十人のうち九人までが「銀座へ出られるならば、どこでもいい」といった考え方をする。実におおらかである。ところが、これがとんだ間違いなのだ。銀座でも商売になる場所は、ものの10メートルと離れていないのである。
たとえば、私は銀座三越の国道1号線、いわゆる銀座通りに面した場所にハンバーガーの店舗を出したが、この店を銀座三越の裏側に出していたら、こうはいかなかっただろう。三越の裏手ならば駐車場はできても、ハンバーガーを売るわけにはいかない。銀座通りの人の流れは、1丁目から4丁目までは新橋に向かって左側の往来が激しく、5丁目から8丁目にかけては、反対に右側の方が人の流れが多い。銀座でハンバーガーの店を出すなら銀座三越しかない。私は早くから心の中でそう決めていた。たとえば、私がこのマクドナルドの銀座店を、三越から築地寄りに10メートルばかりいったところへ開店していたら、1日に150万円とか200万円とかいう売上を記録できたかどうかはわからない。この10メートルは実に重要な意味を持ってくる。
開業直後から、銀座4丁目という日本で最も地価が高い地域での出店を実現して注目を集めた。実績として、1日あたり100万円の売り上げを達成。来客数は連日1万名/日を超え、機械式のレジがすぐに壊れるほどであったという。
さらに、銀座は歩行者天国によって若者の流入が増え、ハンバーガーを買って歩行者天国で歩きながら食べるスタイルが定着。当時は最先端の社会現象としてマクドナルドの店舗が話題となり、そのブランドが日本全国に認知された。
この結果、1971年の時点でマクドナルドは日本において「集客力のある外食企業」としてのポジションを確保した。この評判により、マクドナルドの多店舗展開にあたって「百貨店などから出店要請を受ける」という引く手あまたの状態となり、出店政策においても優位となった。
マクドナルドはというと、日本の外食文化を変えるほどの進撃ぶりである。(略)日本マクドナルドの成功は、銀座三越デパートでの出店なくしてはあり得ないのである。(略)
この銀座への出店策は、各方面で大きな話題となった。というのは、従来、ファッション・タウンとしてのイメージが強かった銀座に、それも4丁目の角に位置する三越デパートの1階に、いかにもアメリカ的な感じのするハデなハンバーガー・レストランが出現し、あっという間に1日100万円台の売上を記録。他の外資系ファーストフード企業をはじめ、日本の外食ビジネスにも多くな衝撃を与えたからである。そして、このマクドナルドの銀座店の成功こそが、日本におけるフード・ビジネスの牽引力となっていったのである。
1972年から日本マクドナルドは首都圏(および大阪・名古屋)における多店舗展開を本格化した。1972年7月までの出店数は12店舗であり、出店地域は「代々木・大井・新宿・お茶の水・銀座・東京駅・横浜・川崎」など。
銀座店での実績により集客力が証明されていたため、マクドナルドへの出店の引き合いは全国から相次いだものの、出店地域は都心部に限定。テレビCMによるマーケティングの効果を考慮し、若者が多い都心から展開することで、マーケティング効率の最大化を狙いとした。
日本マクドナルドはフランチャイズではなく、直営店による店舗拡大を決めた。この理由は、直営店の方が本部による教育が行き届きやすく、米マクドナルドが重視する「QCD(Quality・Cost・Delivery)」を徹底できるという、藤田田氏の考えに基づいていた。
新しい市場へ出ていく場合、たとえばいま北海道には1店もありませんが、ここへ1店設けても、そこから出てくるMarketing Availabilityはあまりない。つまり広告に投資できる金額は、1店舗の売り上げではいくらも出てこない。しばらくは広告宣伝ができないわけです。したがって、それよりも東京、大阪のように広告活動を開始して3年、4年たち、イメージの蓄積もあるところであれば、その店はすぐ広告販促の恩恵に浴し、売上を短期的に伸ばせる。というわけで、今年は東京、大阪、名古屋の3地区に集約していく方針です。
1971年の1号店の開業当初は、牛肉などの原材料を米国から冷凍品で輸入する体制だった。しかし、多店舗展開にあたって輸入だけでは原材料調達が間に合わなくなったことや、農林水産省が半製品の輸入に難色を示すという問題に直面した。
そこで、1972年5月に日本マクドナルドは「生肉の専門商社」であるゼンチク(現・スターゼン)と取引契約を締結し、牛肉の輸入体制(オーストラリアおよびアメリカからの輸入)を整えた。提携はゼンチクからのアプローチであり、当時ゼンチクの取締役だった近藤氏が、日本マクドナルドの会社設立の新聞記事を見て、藤田田氏に取引を持ちかけた。そして、1971年の1号店開業に合わせて、オーストラリア産のパティを納入したという経緯があった。ここでゼンチクは信頼を獲得し、1972年の日本マクドナルドとの本格的な取引契約に至った。
ゼンチクは日本マクドナルドへの納入体制を整備するために1972年7月に千葉工場を新設して、牛肉の冷凍加工を開始。工場での生産にあたっては、米国マクドナルドのノウハウが導入された。ゼンチク千葉工場の稼働によりマクドナルド15〜45店分に相当する牛肉需要を賄えるようになり、マクドナルドの多店舗展開を供給面から支えた。
なお、ゼンチクは日本マクドナルドとの取引によって業績を急拡大し、1977年9月に東京証券取引所第1部(1962年に2部上場)への市場変更を達成した。
売上低迷を受けて値下げ路線を敢行。100円を切るハンバーガーで集客増加を目論む
藤田商店と決別し、米マクドナルドが大株主へ
2004年時点の日本マクドナルドにおいては、事業面および資本面において、それぞれ課題を抱えていた。
事業面においては、2000年代前半のマクドナルドは低価格路線の行き詰まりと、BSEによる牛肉消費の減少を受けて業績が低迷した。特に、大量出店によって老朽化したり効率の悪い店舗が多く存在しており、収益性を下げる原因となっていた。
資本面においては、2003年に実質創業者である藤田田氏が逝去しており、資本面で藤田商店の影響力が薄らいだ。代わりに、日本マクドナルドの株式保有は米マクドナルド本社に渡る形となり、日本法人の経営を誰が行うかという問題が生じた。
このため、米マクドナルド本社は日本マクドナルドの経営を全面的に刷新するために、アップル日本法人の社長を歴任した原田氏を日本マクドナルドのCEOに任命した。
これは、日本マクドナルドの生え抜き役員ではなく、全く無関連の人物を社長として迎え入れることを意味しており、藤田商店時代の様々な風習からの決別を狙ったものであった。
2004年から2015年までの11年にわたり、原田泳幸氏がCEOとして日本マクドナルドの経営に携わった。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1972-04 | 日本NCR・入社 | |
| 1980-11 | 横河HP・入社 | |
| 1983-01 | シュルンベルジェ・入社 | |
| 1990-02 | Apple Computer JAPAN・入社 | マーケティング部長 |
| 1997-04 | アップルコンピュータ | 代表取締役社長 |
| 2004-02 | 日本マクドナルド | 代表取締役副会長兼CEO |
| 2005-03 | 日本マクドナルドHD | 代表取締役会長兼社長兼CEO |
| 2014-06 | ベネッセHD | 代表取締役会長兼社長 |
| 2016-06 | ベネッセHD | 退任(業績不振の引責) |
アップルコンピュータ日本法人社長だった私が、まったくの異業種である日本マクドナルドのCEOを引き受けた背景には、「CEOは職種である」という自分の考えがあります。ある業界で高い業績を上げた営業の人が、別の業界に移っても活躍するように、CEOも「経営のプロ」として業界の垣根を越えて移籍する時代となってきました。
そのCEOの役割には大きく2つあると考えています。1つは「クリアな戦略を打ち出し、浸透させること」。戦略とは作業を一覧化した「to do リスト」ではなく、何をやり何をやらないかを決め、それを時系列的にナビゲーションすることです。マクドナルドで実践してきたのは、まず全社員に明確なゴールを示し、ゴールまでの細かいステップを分かりやすく伝え、リードすることでした。ゴールまでの道筋はまっすぐではありません。「まずは右へ行こう」、「次は山を乗り越えろ」、「ここは一目散に走れ」など、今やるべきことを細かく具体的に伝えてきました。
商品面において、原田CEOは高単価商品の開発を決定した。第一弾として2005年10〜11月に「えびフィレオ」を期間限定で発売し、2006年1月にレギュラーメニューに昇格した。エビフィレオの価格は、税込みで単品270円・バリューセット580円で設定された。
レギュラー発売にあたって、当時人気を博していた女優「蛯原友里」を起用したマーケティング(TVCM放映など)を実施した。肉類ではなくエビを活用した商品であり、相対的にヘルシーなことから、若い女性からの支持を集めた。
2007年1月に日本マクドナルドは「メガマック」を期間限定で発売。直後からヒット商品となり、1月14日には全店舗の1日当たり売上高が過去最高となる23億円を達成した。
2009年4月に「クォーターパウンダー」を全国発売。
2006年4月に日本マクドナルドは「新価格体系の導入」について発表した。一部の「価格据え置き商品(100円マック・ハッピーセットなど)」を除き、全ての商品で10〜40円程度の値上げを実施することを決めた。
日本マクドナルドとしては、全商品の実質的な値上げによって利益を確保する狙いがあった。
| 商品名 | 旧価格帯 | 新価格帯 |
| セットメニュー各種 | 380〜560円 | 410〜580円 |
| 単品ハンバーガー | 80〜270円 | 80〜280円 |
| サイドメニュー | 150〜250円 | 170〜270円 |
| ドリンクメニュー | 100〜200円 | 100〜210円 |
2008年度より日本マクドナルドは、既存の一部の直営店について、フランチャイズに転換するととも店舗運営事業の売却を開始した。この狙いは、設備投資負担が重い店舗について、FCに店舗を売却して投資を負担させるという意図に加えて、売却益の確保、FC比率(フランチャイズ収入)の向上による収益性の改善を目論んだ打ち手であった。
なお、店舗運営事業売却益について、日本マクドナルドは会計基準における売上高に含めて計上しており、売却益によって売上高が上乗せさせる形をとっている。すなわち、資産売却を一時的な特別利益とみなすのではなく、継続的な収益が見込める売上と判断したと推察される。
このため、店舗売却は数年にわたって、継続的に実施される形となった。特に、2008年度から2012年度にかけて本格化しており、この5ヵ年において累計171億円の売却益を売上高として計上した。実質的な不動産売却であり、これらの収益がマクドナルドの収益を支える形となっていた。
店舗運営事業の売却によって、日本マクドナルドは直営店数を減らす一方、フランチャイズの店舗数を拡大する形となった。このため、売上高に占めるフランチャイズ収入は、売却店舗数に合わせて増加した。
フランチャイズ店舗の増加によって、対照的に直営店舗の売上高は減少する形となった。売却が本格化した2008年度から、2013年度にかけて、直営店売上高は約半減しており、直営店経由の売り上げが大幅に絞られる形となった。
直営店の一部をFCに売却する一方で、ポテンシャルの高い既存店舗についてはリニューアルする設備投資を積極化した。店舗への設備投資は2006年度から本格化しており、2008年までは年間約200億円前後の設備投資を実施した。
特に注力したのが、郊外のドライブスルー併設型の大型店舗であった。家族連れの利用が多いために客単価が高く、日本マクドナルドの店舗でも特に収益性が高い業態であり、これらのロードサイド店舗の拡充に注力した。
日本マクドナルドの店舗運営において、過去の大量出店によって条件の悪い立地条件の店舗数が多かったことにある。設備の老朽化が目立っていたり、面積が小さい効率の悪い店舗など、いずれもマクドナルドの収益性を低下させる要因になっていた。
そこで、日本マクドナルドは不採算店舗について随時閉鎖することを決定。2010年度に店舗閉鎖損失97億円を特別損失として計上し、不採算店舗の整理を断行した。
マクドナルドの主要店舗の売却は2012年度までに一巡した。この結果、2013年度の業績からは「店舗事業売却益」による売上寄与がなくなり、減益要因の一つとなった。
2000年代後半を通じて日本マクドナルドは高単価商品として「エビフィレオ」「メガマック」「クォーターパウンダー」といったヒットを生み出してきたが、2010年以降はヒット商品を生み出すことに苦戦した。高単価商品を発表するものの消費者の支持を得られず、結果としてクーポン発行による実質的な値引きが常態化し、高単価を持続できなかった。
この結果、2013年度決算において日本マクドナルドは大幅な減益決算を計上するに至った。
2013年12月決算において日本マクドナルドが業績不振に陥ったことを受けて、2014年に原田泳幸氏が日本マクドナルドのCEOを退任した。その後、原田氏は「会長」に就任したが、2015年に会長を退任して日本マクドナルドから立ち去った。
2014年7月に日本マクドナルドは期限切れの鶏肉を使用していたことを発表して謝罪した。原因は、中国(上海福喜)から輸入していた鶏肉について、取引先が期限切れの鶏肉を販売していたことにあった。
期限切れ鶏肉問題によって、消費者の日本マクドナルド離れが進行して業績が悪化。2014年度および2015年度の2期連続で日本マクドナルドは最終赤字に転落した。
業績が悪化した日本マクドナルドHDについて、2015年12月に筆頭株主である米マクドナルドは株式の一部売却を検討。ファンドに対して最大33%の株式を約1000億円で売却する想定で打診したという。このため、日本法人の惨状は米本社からも問題視されるに至った。
鶏肉問題による業績が悪化。親会社の米マクドナルドは日本法人の株式をファンドに売却する意向を表明(のちに撤回)