| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 申告所得 | 25億円 | 0億円 | 0.0% |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 申告所得 | 31億円 | 5億円 | 16.1% |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 申告所得 | 34億円 | 1億円 | 2.9% |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 申告所得 | 47億円 | 5億円 | 10.6% |
| 1992/3 | 単体 売上高 / 申告所得 | 75億円 | 18億円 | 24.0% |
| 1993/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 130億円 | 34億円 | 26.1% |
| 1994/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1995/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1996/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1997/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 268億円 | 24億円 | 8.9% |
| 1998/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 207億円 | 17億円 | 8.2% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 246億円 | 27億円 | 10.9% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 267億円 | - | - |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 283億円 | 43億円 | 15.1% |
| 2002/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 326億円 | 57億円 | 17.4% |
| 2003/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 389億円 | 41億円 | 10.5% |
| 2004/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 463億円 | 38億円 | 8.2% |
| 2005/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 541億円 | 44億円 | 8.1% |
| 2006/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 661億円 | 106億円 | 16.0% |
| 2007/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 776億円 | 100億円 | 12.8% |
| 2008/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 886億円 | 105億円 | 11.8% |
| 2009/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 973億円 | 110億円 | 11.3% |
| 2010/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,135億円 | 144億円 | 12.6% |
| 2011/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,273億円 | 183億円 | 14.3% |
| 2012/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,407億円 | 156億円 | 11.0% |
| 2013/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,594億円 | 172億円 | 10.7% |
| 2014/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,880億円 | 199億円 | 10.5% |
| 2015/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,135億円 | 243億円 | 11.3% |
| 2016/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,381億円 | 261億円 | 10.9% |
| 2017/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,389億円 | 283億円 | 11.8% |
| 2018/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,542億円 | 297億円 | 11.6% |
| 2019/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,667億円 | 302億円 | 11.3% |
| 2020/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,723億円 | 297億円 | 10.9% |
| 2021/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,202億円 | 192億円 | 8.7% |
| 2022/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,439億円 | 173億円 | 7.0% |
| 2023/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,900億円 | 302億円 | 10.4% |
| 2024/2 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,441億円 | 400億円 | 11.6% |
三木正浩氏が29歳で設立した国際貿易商事は卸売業として出発し、ホーキンス・コスビー・バンズなど欧米ブランドの国内独占販売権を蓄積した。この「販売権を自社で握る卸売業者」という立場は、1990年に小売業ABCマートを子会社として設立した際、他の小売店と競合しながらも商品供給を独占できる優位性を与えた。卸売業時代に築いたブランド資産と韓国での生産体制が、のちのSPA型小売チェーンへの転換を構造的に可能にした原点である。
1985年6月、三木正浩氏(当時29歳)は勤務先を退職し、「株式会社国際貿易商事」を設立して独立した。欧米で販売されるカジュアルウェアの輸入販売・卸売業に従事し、革ジャンなどのメンズ向け商品を取り扱った。20代の若者をターゲットに据え、販売先は丸井などの小売業者であった。
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行したことで、それまで日本人にとって割高であった欧米の輸入品が相対的に安価に入手できる環境が到来した。この為替環境の変化は三木氏の輸入卸売業にとって構造的な追い風であった。1987年には商号を「インターナショナル・トレーディング・コーポレーション(ITC)」に変更し、海外の仕入れ先にとってわかりやすい社名とした。
ただし、創業期の経営は順風満帆ではなかった。創業から約1年が経過した1986年9月ごろには、アパレルの販売不振により革ジャンなど1800着の商品が在庫となるなど、事業展開に苦戦した。卸売業者として流行の変動リスクに晒される構造は、創業初期から顕在化していた。
三木氏は創業時点で「卸売業」に注力する方針をとり、自前の小売店舗は持たなかった。卸売業に特化することで、在庫リスクの分散と販売チャネルの拡大を図った形であった。起業直後の在庫問題を経て、三木氏は「安定した商品供給源の確保」が卸売業の生命線であることを認識したと推定される。
この認識のもと、三木氏は複数の欧米ブランドの国内独占販売権の取得に動いた。1986年にはロンドンで流行していた革靴ブランド「ホーキンス」の独占販売権を獲得。続いて「コスビー」「バンズ」といった当時は日本で無名だった欧米ブランドの販売権も確保した。独占販売権を握ることで、競合他社に商品を供給されない排他的な地位を構築した。
こうした独占販売権の蓄積は、のちにITCが自社で生産体制を構築し(SPA化)、さらに小売業に参入する際の商品力の基盤となった。卸売業者が自ら販売権を持つブランドを抱えるという構造は、商品の供給元を他社に依存しない垂直統合型の事業展開を可能にする土台であった。
ITCは卸売業としてホーキンスの販売を軸に業績を拡大し、FY1991に売上高47億円・申告所得5億円を達成。1990年代を通じて「急成長かつ高収益な非上場企業」として注目を集めた。一方、1990年にITCは連結子会社「有限会社エービーシー・マート」を設立し、小売業にも進出した。
1990年代の事業構造は、本業の卸売業をITC、多角化事業の小売業をABCマートで展開する二社体制であった。しかし卸売業がアメカジブームの一巡で成長が鈍化する一方、小売業のABCマートが成長軌道に入った。この結果、2002年にITCがABCマートを吸収合併し、商号を「エービーシー・マート」に変更して小売業に特化した。
法人としてのABCマートの創業年は1985年(ITC設立)に遡るが、小売業としてのABCマートの開始は1990年である。卸売業から小売業へ、ブランドの独占販売権を武器に業態転換した経緯が、ABCマートの創業史の核心をなしている。
三木正浩氏が29歳で設立した国際貿易商事は卸売業として出発し、ホーキンス・コスビー・バンズなど欧米ブランドの国内独占販売権を蓄積した。この「販売権を自社で握る卸売業者」という立場は、1990年に小売業ABCマートを子会社として設立した際、他の小売店と競合しながらも商品供給を独占できる優位性を与えた。卸売業時代に築いたブランド資産と韓国での生産体制が、のちのSPA型小売チェーンへの転換を構造的に可能にした原点である。

1985年の設立以来、当社は「世界共通の品質を世界共通の価格で提供する」ことを目指してまいりました。単に海外の商品を輸入するのではなく、その商品にまつわるライフスタイルを合わせて提案することで、人々の生活をより豊かにすることを目的としてまいりました
ホーキンスはロンドンの若者に流行していたが日本では完全に無名であり、だからこそ独占販売権が未取得の状態にあった。三木氏は現地店舗で商品を見て直接メーカーに交渉するという即断即決の手法で、競合が存在しない段階で日本市場の独占権を確保した。この「海外で流行中だが日本未上陸のブランドを先取りする」仕入れモデルは、コスビーやバンズにも適用され、ITCの商品力の源泉となった。
カジュアルウェアの買付のためにロンドンへ渡航した三木正浩氏は、現地の若者がホーキンスの革靴をジーンズに合わせてカジュアルに履きこなしている姿に着眼した。当時のロンドンではホーキンスが流行ブランドとして定着していたが、日本国内では完全に無名であった。
1980年代後半に日本で「アメカジ」として流行するファッションスタイルは、この時点ではまだ到来していなかった。三木氏は「当時、日本にはファッション性と実用性を兼ね備えた靴がなかった」と語った通り、日本市場の空白を見抜いてホーキンスの日本国内での販売に将来性があると判断した。
三木氏はホーキンスの革靴を現地店舗で確認した後、そのままホーキンス社に直接出向いて日本における独占販売権の獲得交渉に臨んだ。日本では無名のブランドであったがゆえに、日本市場での販売権は未取得の状態であり、交渉の余地があった。三木氏の熱意が伝わり、1986年にホーキンスの独占販売権に関する契約を締結した。
独占販売権の獲得にあたり、三木氏は日本国内における生産ライセンスも取得した。これにより、単なる輸入販売にとどまらず、自社の管理下で生産・販売を一貫して手掛けるSPA(製造小売)の基盤を整えることが可能となった。
ホーキンスの取扱い開始とともに、ITCの売上構成はカジュアルウェアから革靴へと傾斜していった。ITCの売上拡大を支えたのはホーキンスの販売であり、起業時点では「カジュアルウェア全般」を取り扱っていた事業が、徐々に「メンズ向けカジュアルシューズ」に主力が移行した。
ホーキンスに加えて「コスビー」「バンズ」といった欧米ブランドの独占販売権も取得したが、いずれもホーキンスほどの販売規模には達しなかった。ホーキンスへの依存が高まったことは、ITCの収益を支える一方で、単一ブランドへの集中リスクを内包する構造でもあった。このリスクは、1990年代後半のアメカジブーム終焉時に顕在化することとなる。
ホーキンスはロンドンの若者に流行していたが日本では完全に無名であり、だからこそ独占販売権が未取得の状態にあった。三木氏は現地店舗で商品を見て直接メーカーに交渉するという即断即決の手法で、競合が存在しない段階で日本市場の独占権を確保した。この「海外で流行中だが日本未上陸のブランドを先取りする」仕入れモデルは、コスビーやバンズにも適用され、ITCの商品力の源泉となった。
29歳のとき、商品の買い付けにロンドンに立ち寄った三木社長は『ホーキンス』を履いて颯爽と闊歩する若者の姿に魅せられた。
「当時、日本にはファッション性と実用性を兼ね備えた靴がなかった。これこそ日本の若者が必要としている靴だと直観しました。」
その年に国際貿易商事(現インターナショナル・トレーディング・コーポレーション=ITC)を設立していた三木社長は、翌年、ホーキンスの独占販売権を取得。靴の輸入商社として名をなしていく。
ITCはホーキンスの生産をイタリアや韓国に委託するSPAを構築し、30%の値下げを実施しながら利益率24%を維持した。カジュアルシューズでグローバルにSPAを構築した最先発企業として、品質と価格を同時に満たせる国内唯一のポジションを確立。独占販売権と生産ライセンスの両方を握ることで、ブランド力・生産力・価格競争力の三要素を自社で統合する体制を完成させた。
1990年から三木正浩氏はグローバルで生産体制(委託方式)を構築することにより、日本国内での販売価格を抑えるSPAを志向した。カジュアルウェアについてはイタリア、カジュアルシューズについては韓国での生産委託体制を構築した。ITCはホーキンスなどの国内販売権に加えて生産のライセンスを取得し、自社で生産体制に責任を持つことでSPA化を推進した。
当時、カジュアルシューズの領域でグローバルにSPAを構築する企業は希有であり、ITCは最先発企業となった。ただし衣料品ではユニクロ(ファーストリテイリング)がSPA構築で先発しており、業種全体としては後発であった。
SPAの構築によってITCは「ホーキンス」を低価格で日本国内に供給する体制を整えた。メンズ向けカジュアルシューズにおいて品質と価格の両方を満たす商品を供給できる日本企業はITCの一強状態であり、高成長・高収益を同時に確保した。1993年にはホーキンスの販売価格を30%値下げする決断を行い、価格競争力をさらに強化した。
業績面ではFY1991に売上高47億円・申告所得5億円、FY1992に売上高75億円・申告所得18億円を達成した。卸売業界では異例の高利益率であり、1993年頃からITCは「急成長かつ高収益な非上場企業」として業界の注目を集めるに至った。
ITCはホーキンスの生産をイタリアや韓国に委託するSPAを構築し、30%の値下げを実施しながら利益率24%を維持した。カジュアルシューズでグローバルにSPAを構築した最先発企業として、品質と価格を同時に満たせる国内唯一のポジションを確立。独占販売権と生産ライセンスの両方を握ることで、ブランド力・生産力・価格競争力の三要素を自社で統合する体制を完成させた。
「日本の靴屋さんは決定的に遅れています。やたら安いものばかり売ってみたり、逆に目が飛び出るほど高いブランドものばかりを店頭に並べてみたりと、画一的。消費者が本当に必要とするものが見えていないという印象ですね」
ABCマート1号店は上野アメ横に開業し、アメ横4店舗で18億円・渋谷3店舗で14億円と、同一地区に複数店舗を出す異例のドミナント戦略を採用した。2000年時点で直営25店にとどまる慎重な出店ペースにもかかわらず営業利益率7.2%を確保できた背景には、独占販売権を持つブランドによる商品力と、都心部の若者集客地区への集中出店がある。このモデルが1999年以降のSC積極出店の基盤となった。
1990年にITCは連結子会社「有限会社エービーシー・マート」を設立し、小売業に参入した。卸売業が主軸だったITCが小売業に踏み出した背景には、卸売では小売店の販売力に依存せざるを得ないという構造的制約があった。自ら小売を手掛ければ、販売現場でのブランド訴求や顧客接点を自社で管理できる。
ただし、卸売業者が小売に参入することは、卸売の顧客である他の小売店と直接競合する行為であった。通常であれば顧客との関係が悪化するリスクを伴うが、ITCはホーキンスなどの独占販売権を持っていたため、他の小売店はITCから仕入れざるを得ない立場にあった。この独占販売権が、卸売業者でありながら小売に参入できる例外的な条件を構成していた。
小売業への参入にあたり、ITCとABCマートは別法人として運営する体制をとった。ITCが引き続き卸売業を担い、子会社のABCマートが小売業を展開する二社体制により、既存の卸売事業への影響を最小限に抑える設計であった。
1990年2月にABCマートは「本店(上野アメ横)」「1号店(上野アメ横)」「GALLOP上野店」「GALLOP渋谷店」の4店舗を同時開業した。上野アメ横は若者のショッピング地区として知名度があり、ABCマートもメンズの若者をターゲットに据えた。1998年度の時点でアメ横地区4店舗で合計18億円の売上を確保した。
アメ横に続いて注力したのが渋谷であった。1991年に本店比較で10倍の営業面積を持つ渋谷店(373㎡)を開業し、1993年に東急本店通り・センター街店、1999年にスペイン坂店を開業するなど、渋谷地区に集中出店した。渋谷地区3店舗で合計14億円の売上を確保し、同一地区に複数のABCマートが競合する異例の出店政策を採用した。
全国展開については慎重な姿勢をとり、2000年7月時点の直営店舗数は25店にとどまった。1999年までは東京都心部(渋谷・新宿・池袋・上野)への集中出店を基本路線とし、ドミナントによる知名度向上を優先した。年間数店舗の出店ペースで売上を着実に拡大した。
1996年度のABCマートの売上高は43億円・営業利益3.1億円(営業利益率7.2%)を確保し、小売業としては高収益な状態を実現した。ドミナント展開による知名度向上と、商品の高回転による在庫最小化が収益性を支えていた。
1998年度にはABCマートの売上高は80億円に達した。アメ横4店舗(18億円)と渋谷3店舗(14億円)で全体の40%を占める集中度の高い構成であった。都心部の路面店で若者向けシューズの販売実績を積み上げたことが、次のフェーズであるショッピングセンターへの積極出店の土台となった。
ABCマートの小売業としての成功は、ITCの卸売業からの業態転換を後押しする要因ともなった。卸売業の成長が鈍化する中で小売業が成長軌道に乗ったことで、2002年の事業統合と小売業特化の意思決定が構造的に導かれることとなった。
ABCマート1号店は上野アメ横に開業し、アメ横4店舗で18億円・渋谷3店舗で14億円と、同一地区に複数店舗を出す異例のドミナント戦略を採用した。2000年時点で直営25店にとどまる慎重な出店ペースにもかかわらず営業利益率7.2%を確保できた背景には、独占販売権を持つブランドによる商品力と、都心部の若者集客地区への集中出店がある。このモデルが1999年以降のSC積極出店の基盤となった。
申告所得37億円の高収益を背景に木村拓哉を起用したTVCMに40億円を投下し、FY1996に売上高268億円を達成した。しかしテレビの大量露出はホーキンスの需要を短期間で消化し尽くし、ブーム一巡後の売上低迷を招いた。欧州への展開も失敗し清算に至ったこの経験は、単一ブランド依存の卸売業モデルの限界を顕在化させ、三木氏が小売業ABCマートへの業態転換を決断する伏線となった。
ITCは1995年までにSPAの構築により年間利益(申告所得ベース)を37億円確保できるようになった。高収益体制が確立したことを受けて、1995年からホーキンスの認知拡大のために広告宣伝への積極投資を開始した。
当時のITCにとって、ホーキンスは日本国内における売上の柱であったが、知名度はまだ限定的であった。テレビCMによる全国的な認知拡大が実現すれば、卸売先の小売店での販売促進に加え、自社の小売業態ABCマートの集客力向上にも寄与すると見込まれた。
1995年11月にSMAPの木村拓哉氏を起用してホーキンスのテレビCMの放映を開始した。大物タレントの起用により年間の広告宣伝費は40億円に達した。CM放映によるホーキンスの認知拡大の効果は大きく、FY1996のITCの売上高は268億円に達した。
しかし、テレビCMによる大量露出はホーキンスの需要を短期間で取り尽くす結果を招いた。CM放映終了後にブームが一巡し、1996年度以降のITCは利益率25%前後を維持したものの売上高は低迷基調に転じた。1998年にホーキンスの海外展開を目論んで欧州にG.T.HAWKINGS社を設置したが業績は軌道に乗らず、2001年に清算して特別損失3.6億円を計上した。
申告所得37億円の高収益を背景に木村拓哉を起用したTVCMに40億円を投下し、FY1996に売上高268億円を達成した。しかしテレビの大量露出はホーキンスの需要を短期間で消化し尽くし、ブーム一巡後の売上低迷を招いた。欧州への展開も失敗し清算に至ったこの経験は、単一ブランド依存の卸売業モデルの限界を顕在化させ、三木氏が小売業ABCマートへの業態転換を決断する伏線となった。
大店法改正によるSC市場の拡大を、テナント出店による全国展開に転化したのが1999年の方針転換であった。25店舗の都心路面店から出発し、ららぽーと・南町田GMなど全国SCへの積極出店で店舗数を急増させた。路面店時代に培ったSPAの商品力と売場起点の商品企画、正社員中心の店舗運営が、SCテナントとしての差別化要因となり、のちの国内1000店舗体制の礎を築いた。
1999年7月にABCマートはショッピングセンター向けに積極出店する方針を決定し、従来比較で出店ペースを引き上げて年間10店舗の新規出店を打ち出した。これにより、ABCマートは都心部のドミナント展開から全国展開へと舵を切る形となった。
当時は大店法の改正により日本国内で大規模小売店の出店が実質的に自由化されたタイミングであり、イオンモールなど大型SCの台頭が見込まれていた。SCにテナントとして出店することで、ABCマートは自社で集客施設を建設する投資を省きつつ、全国の消費者にアクセスできる環境が整いつつあった。
それまでのABCマートは東京都心部の路面店を中心に25店舗を展開し、上野アメ横・渋谷といった若者集客地区でのドミナント戦略で知名度を築いてきた。SC出店への方針転換は、ターゲット層をメンズの若者から幅広い消費者層へと拡大する変化を伴うものであった。
SC向けの本格店舗として、2000年4月に船橋ららぽーと店・南町田GM店を開業。2000年12月までに藤沢オーパ店・リバーサイドモール岐阜店・カナード洛北店など、全国のSCで出店を本格化した。路面店からSCテナントへという出店形態の転換は、ABCマートの成長スピードを大きく加速させる契機となった。
商品開発においては店舗での知見を重視し、社員が売場に立って靴のトレンドを肌で感じ、企画に結びつける体制を構築した。三木氏は「売場でお客さんの声を聞きながら肌で感じるしかない」と述べ、データだけでは捉えられない「次の売れ筋」を現場の感覚で発掘する方針を徹底した。企画された商品はSPAを通じて委託製造先で生産され、ITC時代に培った垂直統合の仕組みが引き継がれた。
販管費の構成では広告宣伝費(売上対比約10%)と人件費に重点を置いた。人件費が大きい理由は、店舗スタッフをアルバイトではなく正社員として雇用する方針をとったためであった。ただし2006年2月末時点の平均給与は318万円・平均年齢26歳11ヶ月であり、正社員中心とはいえ給与水準は低い状態にあった。
SC向け出店の本格化により、ABCマートの店舗数は1999年の25店舗から急速に拡大し、2000年代を通じて年間数十店舗ペースでの出店が続いた。過半数以上の店舗がSC向けとなり、SCの新設ラッシュとともにABCマートの出店が加速する構図が生まれた。
SCテナントとしての出店は、路面店と比較して初期投資が抑えられ、SCの集客力を活用できるモデルであった。ABCマートはSPAによる商品力とドミナント展開で培った知名度を武器に、SCのテナントとして安定した集客を実現した。
広告宣伝への積極投資と正社員中心の店舗運営は、ABCマートの顧客サービスの品質を一定水準に保つ要因となったが、平均給与318万円という水準は、小売業における人材確保の持続性に課題を残す構造でもあった。
大店法改正によるSC市場の拡大を、テナント出店による全国展開に転化したのが1999年の方針転換であった。25店舗の都心路面店から出発し、ららぽーと・南町田GMなど全国SCへの積極出店で店舗数を急増させた。路面店時代に培ったSPAの商品力と売場起点の商品企画、正社員中心の店舗運営が、SCテナントとしての差別化要因となり、のちの国内1000店舗体制の礎を築いた。
いまはヒット商品のサイクルが極めて早い。数字としての販売データは、現在の売れ筋は示してくれますが、次の売れ筋は示してくれません。プレヒット商品を見つけるには、売場でお客さんの声を聞きながら、肌で感じるしかない。そのために社員全員で売り場に出て、常に情報を吸い上げているわけです。
実際、これをやるようになって、企画会議などで様々なアイデアが出るようになり、意思統一も早くなりました。結果としてトレンドの一歩先を行くスピードが出せているのだと思います。