洞察
なぜ、日本最大のビール戦争は誰も儲からせなかったのか

戦後の国内ビール市場において、キリンビールは設備投資と全国的な販路整備を積み重ね、競合であるサッポロビールやアサヒビールの後退も背景に、高い市場シェアを確立した。家庭向け需要の拡大を取り込み、供給能力と流通網を軸に数量を伸ばす事業運営は安定的に機能し、1970年代には過半に近いシェア1位に到達した。市場は量の拡大を前提とする構造であり、シェア順位は長らく固定されていた。

一方で、高シェアの定着は独占禁止法や制度対応を経営判断の前提とし、1970年代以降、数量拡大による成長余地を狭めていた。ビールは依然として収益の中核であったが、シェアを積極的に押し上げる選択肢は政治的に取りにくく、多角化や周辺事業への展開が並行して進められた。その結果、主力銘柄の安定運営が優先され、味や商品設計を大きく変える判断は慎重になっていた。

こうした安定が続くかに見えた市場において、1987年、アサヒビールがスーパードライを発売した。外食チャネルを起点に広がった同商品は、従来と異なる飲用感を提示し、1990年前後にかけて消費者の選択基準を変えた。キリンの経営陣は当初、主力ラガーを補完する商品、あるいは一時的な動きと捉え、既存顧客の離反というリスクを伴う抜本的な転換には踏み込めなかった。その結果、主力銘柄を前提とした対応が続き、王座にあったキリンはアサヒビールの台頭を許すことになった。

しかし、意外なことに、1987年のスーパードライ発売以降、1990年代から2000年代にかけて、キリンとアサヒの利益率は大きく改善しなかった。両社は設備投資と販売促進へ資本を投下し、シェアの勝敗にかかわらず利益率を圧迫した。シェアの変動は起きたものの、設備集約型で儲かりにくい市場構造そのものは変化しなかったためである。結果として、シェア競争に勝つこと自体は、必ずしも企業価値の向上に結びつかないことが、いわゆる「ドライ戦争」の教訓として残ったと言えるだろう。

2025-12-24, author by @yusugiura
洞察
なぜ、医薬品の「傍流」を選んだことが競争優位になったのか

戦後の国内ビール市場において、キリンビールは高い市場シェアを背景に、安定したキャッシュフローを長期にわたり確保していた。一方で、1970年代以降は市場成熟と独占禁止法を背景に、数量拡大による成長余地は限定された。ビールは依然として収益の中核であったが、単一事業への依存は中長期の成長制約として意識され、将来の収益源をどう構築するかが経営課題となっていた。

こうした中でキリンが着目したのが、医薬品、とりわけバイオ医薬品である。当時の医薬業界は化学合成医薬を中心に発展しており、微生物や細胞培養を基盤とするバイオ医薬は、再現性や量産性、規制対応の難しさから主流とは言い難い分野であった。そのため既存の医薬品メーカーにとっては参入優先度が低く、業界内では傍流と見なされる領域でもあった。

しかし、この「傍流性」はキリンにとって不利ではなかった。ビール製造で蓄積してきた発酵、培養、精製、品質管理の技術は、バイオ医薬の製造プロセスと親和性が高く、既存の技術資産を応用できた。また、医薬品開発は研究から事業化までに長期を要するが、キリンはビール事業が生み出す安定的なキャッシュフローを開発原資として投入できた。この財務的余力が、短期回収を求めずに研究投資を継続することを可能にした。

結果として、バイオ医薬品はビール事業とは異なる収益構造を持つ事業として育成され、1990年のEPO製剤の投入によって事業化に至った。設備投資と販売促進の競争に陥りやすい酒類事業に対し、長期研究投資を通じて高付加価値を生む医薬品事業を組み合わせた点が、事業ポートフォリオ全体の安定性を高めた。キリンの医薬品多角化は、主流を避け、技術的適合性とキャッシュ創出力を生かした長期投資が競争優位につながった事例といえる。

2025-12-24, author by @yusugiura
売上
キリンHD:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
21,343億円
売上収益:2023/12
利益
キリンHD:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
5.2%
利益率:2023/12
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1907
2月

麒麟麦酒株式会社を共同設立

背景|外国人経営の限界と横浜ビール事業の転機

キリンビールの源流は、1870年に横浜山手の居留地で外国人向けに操業したSpring Valley Brewery(1885年から「キリンビール」のブランド展開を開始)にある。後継のThe Japan Brewery Company(JBC)は横浜工場を基盤に事業を継続したが、日本のビール市場の拡大とともに、外国人が所有・統治する体制は資金調達や販路拡張の面で制約となった。1880年代後半以降、三菱資本の参加や明治屋による販売を通じて事業の地場化は進んだものの、経営の主導権は不安定な状態にあった。

決断|大日本麦酒の合同提案を拒み、株式会社化で対抗

1906年、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の合同により大日本麦酒が発足すると、同社は業界再編の一環としてJBCに合同(買収)を提案した。巨大な工場網と複数ブランドを背景とする合同は、規模劣位にあるJBCにとって安定策にも見えたが、同時に独立した意思決定を失うリスクを伴っていた。JBCは、再編の波に飲み込まれるか、単独で対抗するかの判断を迫られた。

合同拒否の理由の一つは経営方針の差である。大日本麦酒が国産原料志向を強める一方、JBCは輸入原料を軸に品質と供給を設計する考えを維持していた。原料政策はコスト構造や品質管理に直結し、合併後の投資配分やブランド運営の主導権を左右した。方針の異なる相手に吸収されれば、経営の裁量が制限されると判断するに至った。

独立を選ぶ以上、資金力と国内での販路を強化する必要があった。そこでJBCが選択したのが株式会社化である。1907年、明治屋および三菱創業家の出資を受け、麒麟麦酒株式会社を共同設立した。製造(横浜工場)、販売(明治屋)、資本(三菱系)を日本側で束ねることで、外資色の強い企業体を国内統治の企業へ転換し、資金繰りを改善して、販売量の拡大を可能にする体制を整えた。

帰結|三菱系企業としての定着と競争構造の形成

麒麟麦酒株式会社の設立により、キリンは外資企業の延長としてではなく、日本の資本市場と流通網の中で競争する立場を確立した。三菱系資本が信用と資金調達力を支え、明治屋の販売力と生産基盤が結びつくことで、単独企業としての競争力を獲得する。統合によって市場シェアを高めた大日本麦酒に対し、独立のための資本設計で対抗する構図が固まり、日本のビール市場は2社を軸とする競争構造が形成された。

概要
明治時代にコモディティー化したビール業界

現在ではビールはコモディティー寄りの商材と捉えられるが、その競争特性は明治期の段階ですでに形成されていたのだろう。味や製法による差別化は早期に限界を迎え、競争の軸は製品そのものではなく、規模拡大のための流通チャネルの確保や資金調達力へと移っていった。1907年の麒麟麦酒の設立判断は、こうした産業構造を前提に、どのように事業を拡大し、生き残るかを見据えた対応だったと考えられる。ビール産業は当初から寡占化しやすく、競争優位の源泉は事業内容よりも、販路と資金力そのものにあった点が示唆的な印象。

1928
清涼飲料に新規参入・キリンレモンの製造開始
1949
東京証券取引所に株式上場
1954
ビール市場で国内シェアトップを確保
1957

ビール工場の新増設

戦後需要拡大と設備投資競争が進行した1950年代ビール市場

戦後復興が進んだ1950年代、日本のビール市場は家計所得の回復と都市部人口の増加を背景に拡大していた。統制解除後、ビールは外食・家庭双方で消費され、需要は首都圏や中京圏を中心に増加した。市場は主要数社による構成であり、生産能力の差が販売数量に直結する構造を持っていた。そのため、供給体制の整備は価格や広告と並ぶ競争条件となっていた。

この時期、各社は既存工場の増設では対応しきれない局面に入り、新工場建設を含む設備投資が相次いだ。輸送距離や鮮度管理の制約から、大消費地近郊への立地が重視され、工場配置そのものが競争要素となった。需要増とシェア争いが同時に進む中で、設備投資は市場拡大への対応と競争維持の双方を目的とする動きとして進められていた。

工場新設と内部資金・借入を組み合わせた資金調達

麒麟麦酒は、1950年代後半から1960年代初頭にかけて、東京、横浜、名古屋での工場新設を進めた。1957年4月の東京工場新設は首都圏需要への直接対応を目的とし、その後の横浜第二工場、名古屋工場も地域需要を見据えた配置であった。これらの工場は大型設備を前提とし、生産量の拡大と効率化を同時に狙う設計が採られていた。

設備投資の資金調達は、内部留保を軸としつつ、金融機関(主に三菱銀行など)からの借入を併用する形で行われた。戦後の設備拡張期には、内部資金だけでは投資額を賄いきれず、銀行融資による資金補完が必要となった。借入は短期資金と長期資金を組み合わせて行われ、工場建設や設備導入に充当された。販売数量の増加による資金回収を前提としながら、資金調達と投資を並行させる経営が続けられていた。

1957年
東京工場の新設
1961年
横浜第二工場を新設
1962年
名古屋工場を新設
1963
子会社キリンビバレッジを設立
1963
子会社キリンビバレッジを設立
1972
子会社キリンシーグラムを設立
1972
12月

ビール市場で国内シェア60%を突破

1970年代にキリンビールが高い市場シェアを維持した背景は、需要構造、流通政策、設備投資の三点から整理できる。

第一に需要構造の変化である。戦後のビール市場は業務用需要が中心であったが、1960年代以降、家庭向け需要が拡大し、1970年代には全体の約7割を占めるようになった。キリンは家庭向け販売を重視し、全国規模で需要増加を取り込んだ。

第二に流通政策である。ビールはメーカー、特約店、小売店を経て販売されるが、キリンは特約店網を全国に整備し、取引条件や支払方法の統一を進めた。また、小売段階での在庫滞留を抑え、商品回転を重視した運営を行った。これにより、流通段階での取り扱いが安定し、販売量の拡大につながった。

第三に設備投資である。ビール需要は季節変動が大きいため、供給能力の調整が課題となる。キリンは需要動向を踏まえながら工場増設を進め、供給不足や過剰投資を回避した。これらの要因が重なり、1970年代の高い市場シェアが形成されたと整理できる。

証言
高橋社長(1972年当時)

よく独走体制と言われるが、それほどドラステックなことではない。需要の「石数」に応じて設備を新増設する。それも当社が積極的なだけで、シェアとは別問題だと思う。なぜ現在のようになったかは私どもも外部の目からも「群盲象をなでる」で、本当のことは分からないと思う。結局、品質本位、堅実な経営が消費者のご愛顧を得たのだろう。

戦後、家庭消費に主力を注いだのも料理屋などに対する不健全な取り引きを避けたかったためで、別に意図したものではなかった。

1972/7/24 日経ビジネス
概要
1972年・キリン国内シェア60%超の背景

1972年にキリンが国内シェア60%を超えた背景は、他社との販路戦略の違いを見ると分かりやすい。キリンが家庭向け需要の拡大を捉え、全国規模で小売網と物流を整備したのに対し、アサヒは当時なお業務用販路への依存度が高く、数量拡大のスピードで後れを取った。また、サッポロは主力ブランドの一時廃止(サッポロ・エビスを廃止してニッポンビールにブランド統一)の影響が長く残り、全国での認知回復に時間を要した。製品差が小さい市場において、チャネル掌握とブランド認知の差がそのままシェア差となって現れた局面であった。

1975
8月

昭和50年度構造計画を策定

独占禁止法によるビールシェア拡大の困難

1970年代の国内ビール市場では、需要の拡大とともに生産・流通の集約が進み、主要メーカー間のシェア差が拡大していた。キリンは設備投資と全国的な供給体制の整備を通じて販売数量を伸ばし、1970年代半ばには過半に近い市場占有率を維持していた。市場は量的成長が続く一方で、競争構造は固定化の様相を帯びていた。

こうした高シェアの定着は、販売面の優位とは別に、制度面での論点を伴っていた。独占禁止法の運用や公正取引を巡る議論が継続する中で、特定企業による支配的地位の長期化は、経営環境上の制約として意識されるようになっていた。市場構造そのものが経営判断の前提条件となり、数量拡大のみを目的とした運営には限界が生じつつあった。

昭和50年度構造計画に基づく多角化の推進

1975年8月、キリンは昭和50年度構造計画を策定し、中長期の事業運営方針を整理した。同計画では、ビール事業を収益の中心に据えつつも、単一事業への依存度を管理する視点が盛り込まれた。市場シェアの維持と制度環境への対応を同時に考慮し、事業構成の調整が検討対象となった。

具体的には、清涼飲料や食品分野への展開を進め、既存の流通網や販売チャネルを活用しながら非ビール事業の比重を高める方針が取られた。これらの分野は新規設備投資を抑えつつ段階的に拡張可能であり、資金面でも内部資金を中心に対応できる領域であった。構造計画は、ビール事業の数量拡大を抑制するものではなく、事業全体の構成比を調整する枠組みとして位置づけられていた。

証言
麒麟麦酒株式会社社史編纂委員会

寡占問題と石油危機という厳しい経営環境のもとで、すでにみたように、当社は「量から質への転換」を目指す新しい経営方針を定め、設備投資の抑制、計画生産・計画販売を主軸に減量経営を行ってきた。そしてそれをさらに推しすすめるために、中長期的な経営体質改善計画を策定し全社をあげて取組むことになった。高度経済成長期において、当社は毎年、五か年間を対象に需要予測に基づいて算出された販売・製造計画、設備投資計画、利益計画、資金計画などを盛込んだ長期経営計画を作成してきたが、四八年末、第一三次長期経営計画を編成するに当り、経済環境の激変にあい、作成を中止し、四九年四月に至って、とりあえず49年から51年に至る3年間を対象に財務の見通しを策定した。

50年から54年に至る第一四次長期経営計画については、財務計画を50年3月、構造計画を同年8月策定した。この「昭和50年度構造計画」は、従来のビール部門の急成長に依存する路線から、新しい安定成長路線への切替えを目指したものであり、「安定成長への布石」という副題がつけられており、その要約版が全管理職に配布された。

概要
ビール独占による多角化の志向

1975年の構造計画は、成長戦略というより、市場シェアの集中が進んだ状況下での経営対応として整理できる。1970年代のキリンは、生産能力と流通網の整備を背景に過半シェアを確保していたが、その一方で独占状態に対する制度的な視線が強まりつつあった。ビール事業が収益の中核である構造を維持しながら、清涼飲料や食品分野へ事業領域を広げたのは、事業構成を分散させ、制度環境の変化に備える判断だったと位置付けられる。

1982

抗体医薬に新規参入

ライフサイエンスへの新規参入(創薬)

1980年代初頭、国内ビール市場は寡占構造の下で競争が続き、キリンは高いシェアを維持していた。量の拡大が鈍る局面では、設備投資・販促・チャネル運営の差が収益に影響し、主力事業の安定運営と同時に、次の成長源をどこに置くかが論点になった。

一方で、ビールは制度面(独禁法)の影響を受けやすい業態でもあり、単一事業への依存が続くほど、環境変化の影響を受けやすい構造に課題があった。そこでキリンは清涼飲料や食品など周辺領域の拡張と並行して、発酵や微生物といった自社技術を別用途に振り向ける選択肢を検討していた。

医薬開発研究所の設置とバイオ領域への参入

1983年、キリンはライフサイエンス領域へ参入し、医薬開発研究所の設置など研究開発体制を整えた。ビールの製造で蓄積した発酵・培養・分析の知見を、医薬品の探索・製法検討へ応用し、高付加価値な新規事業を推進する狙いがあった。

ただし、医薬は規制、臨床、知財が絡み、研究費だけでなく人材や提携先の確保が前提になった。そこで、キリンは自前主義に寄せ切らず、外部技術の導入や共同開発も視野に入れ、研究テーマと設備投資を推進した。

抗体医薬へつながる布石とアムジェン提携の含意

参入後、キリンはバイオ医薬の開発を進め、のちにEPO製剤の投入へ至った。ただし、バイオの主戦場である抗体医薬は、グローバルな競争では知財の扱いが競争力を左右する業界であり、のちに決断したアムジェンとの提携は特許問題を解決する施策であった。結果として、抗体医薬でアムジェンの後ろ盾を得たキリンと、一方で独自開発を貫いた中外製薬との競合構造が定着した。

1987
2月

事業部制を導入

背景:高シェア維持下で進んだ市場変化と業績構造の硬直

1980年代半ば、キリンは国内ビール市場において約60%前後のシェアを占め、業界首位の地位を維持していた。一方で、市場全体の成長率は鈍化し、需要は量から質へと移行し始めていた。缶ビールの普及や飲用シーンの変化により、商品ごとの差別化が重要な局面に入っていた。

しかし、シェアの推移を見ると、1980年代前半をピークに微減傾向が見られ、60%台前半から後半にかけて低下が続いていた。売上高自体は市場規模の拡大に支えられて増加していたものの、主力商品の比重が高く、商品別・ブランド別の収益性を細かく把握しにくい構造が残っていた。

当時の組織は製造・販売・研究といった機能別体制であり、大量生産・大量販売には適していたが、商品ごとの採算管理や迅速な意思決定には時間を要していた。市場シェアは依然として高水準にあったものの、環境変化に対する反応速度が課題として意識され始めていた。

決断:シェア低下局面を見据えた事業部制への移行

こうした状況を受け、キリンは1987年に事業部制の導入を決定した。ビール事業を中心に、商品・事業単位で企画、開発、販売を担う体制へと組織を再編する方針が示された。

事業部制の導入により、商品別の売上高や利益を明確に把握できる体制が整えられた。従来は全社ベースで管理されていた業績を事業単位で可視化することで、シェア動向や収益性の変化を迅速に経営判断へ反映させることが狙いであった。市場シェアが高水準にあるうちに、組織の動かし方を見直す必要性が認識されていた。

また、事業部制は単なる管理手法の変更ではなく、現場に判断を委ねる仕組みでもあった。市場や顧客に近い単位で意思決定を行い、商品改良や新商品投入のスピードを高めることが意図されていた。事業部制の導入は、シェアと業績が安定している段階で行われた、将来の競争環境を見据えた組織面での先行対応と整理できる。

1989
12月

ビールの国内シェア下落

背景:ドライ商品の急拡大によって崩れた前提条件

1980年代後半、国内ビール市場は成熟段階に入り、需要の伸びは鈍化しつつあった。キリンは長年にわたり高い市場シェアを維持し、主力銘柄を軸とした安定的な事業運営を続けていた。供給力と流通網を基盤とする戦略は、市場が量的成長を続ける局面では有効に機能していた。

しかし1987年にアサヒビールが投入したドライタイプの商品は、従来の味の設計や飲用感とは異なる価値を提示し、市場の選択基準そのものを変化させた。外食店を中心に取扱が急増し、消費者の間で新しい味への支持が広がったことで、既存銘柄の相対的な位置づけが揺らぎ始めていた。

この状況について、当時のキリン社長は「以前のうちの経営は実に安定しており、何の疑いもなく4年ごとの社長交代という慣例に従っていました。ところが、今やビール業界は日本の産業の中でも屈指の激戦区。人区切りつけずに身を退けば、的全統合にもなりきれない」「今年中にビール事業の再構築にはめどをつけておきたい」と述べており、従来の成功体験が新たな競争環境では十分に機能しなかったことを認めていた(「日経ビジネス1991/2/11」)。ドライ商品の拡大は、キリンにとって前提条件そのものを問い直す出来事となっていた。

課題:高シェア体制下で顕在化した意思決定の遅さ

ドライショックが突きつけた最大の課題は、商品転換に対する意思決定の速度であった。キリンは高い市場シェアを背景に、主力銘柄の安定供給を最優先とする体制を築いていた。その結果、新しい味やコンセプトへの対応は慎重になり、判断までに時間を要する構造が形成されていた。

また、組織運営においても、既存事業を中心とした最適化が進んでいたため、主力商品の延長線上で市場を捉える傾向が強かった。

ドライショックは、キリンにとって単なる競合商品の成功ではなく、高シェア体制そのものが内包していた課題を可視化する契機となった。市場で優位に立つことと、変化に即応することは必ずしも一致しないという現実が、経営課題として突きつけられていた。

概要
1989年以降・キリン国内シェア下落の本質

1989年以降のキリンのシェア下落は、スーパードライのヒットそのものより、競争の前提条件が変わった点に本質があった。量的成長を前提に、供給力と流通チャネルを軸に築いてきた高シェア体制は、1980年代後半に進んだ洋食の普及によって飲酒シーンが変化する中では機能しにくかった。アサヒは外食チャネルを起点に新しい味の価値を迅速に拡散させたのに対し、キリンは主力銘柄の安定運営を優先した。ドライショックは、高シェア企業ほど、味を変えなければ市場の変化に乗り遅れ、味を変えれば既存顧客を失ってシェアが落ちるというジレンマを避けられないことを突きつけた出来事であった。

1990
4月

EPO製剤を発売(アムジェンから製品導入)

背景:アムジェン創業とEPO実用化への到達

1980年、米国で創業されたアムジェンは、遺伝子組換え技術を用いた医薬品の実用化を目的とするバイオベンチャーだった。創業当時、バイオ医薬品は臨床応用例が限られ、事業としての成立性は検証途上にあった。アムジェンは大学研究者や投資家の資本を背景に研究開発を開始した。

同社は創業初期からEPOの研究開発に注力した。EPOは腎性貧血などの治療薬として需要が見込まれていたが、体内由来物質の量産は困難だった。1980年代前半、アムジェンは遺伝子組換えによる製造技術と臨床データを蓄積し、実用化に到達した。

決断:アムジェンとの協業を選択

1984年、キリンビールはアムジェンと提携し、出資を行った。この時点でEPOは研究段階を超え、医薬品としての成立可能性が示されていた。キリンは基礎研究から独自開発を行うのではなく、開発成功が確認された技術を持つ企業と協調する道を選択した。

この判断は特許を巡る競争を回避する意味を持っており、日本国内ではバイオ薬品に独自投資をした中外製薬(米アムジェンとの特許紛争が発生)とは一線を画すことを意味した。EPOはアムジェンが知的財産を保有しており、独自開発は特許紛争に直結する可能性が高かった。キリンは提携により研究開発リスクと法的リスクを抑制した。

結果:1990年EPO製剤発売と事業運営経験の取得

1990年、キリンはアムジェンと共同でEPO製剤を日本国内で発売した。製剤技術と特許はアムジェン側に依拠し、キリンは承認取得、流通、販売を担った。これにより、研究開発ではなく医薬品の商業化プロセスに関与する形で事業経験を積み上げた。

EPO製剤の導入は、医薬品事業の実行条件を検証する機会となった。酒類事業からのキャッシュフローを背景に、医薬品分野へのリスクテイクが可能となり、のちにキリングループの収益源としての医薬品(バイオ)事業が確立される布石となった。

1980年
ロサンゼルスでアムジェンが創業
設立資金 0.4 M$
1981年
アムジェンが公募増資で資金調達
調達資金 19 M$
1983年
エリスロポエチン遺伝子の発見とクローニングに成功(EPOGEN)
1983年
NASDAQに上場
調達資金 40 M$
1983年
キリンビールと提携
調達資金 12 M$
1986年
キリンビールが三共と提携(国内販売の強化)
1989年
EPOGENが米国でFDAの承認を取得
1990年
キリンアムジェンがEPO製剤「エスポー」の日本販売を開始
1991年
EPOの国内販売が好調
1999
長期経営ビジョン「KG21」を策定
2001
麦酒・発泡酒の国内市場でシェアトップ陥落
2006
長期経営構想「KV2015」を策定
2007
持株会社制に移行・キリンホールディングスに商号変更
2007
San Miguel Foods Australia HDを買収(豪州)
2008
協和発酵工業を買収・協和キリンの発足
2010
メルシャンを買収
2011
10月

Schincariol社を買収

背景|成長市場探索としてのブラジルと過信された前提

2010年前後、キリンホールディングスは国内ビール市場の成熟を背景に、海外事業の拡大を中長期成長戦略の中核に位置付けていた。アジア・オセアニアを主戦場としてきた同社にとって、人口増加と所得上昇が見込まれるブラジルは、次なる成長市場として映った。ビール消費量は日本の約2倍、市場規模も大きく、当時は年率10%前後の成長が期待されていたことから、ブラジル進出は規模と成長性の両面で合理性を持つ選択肢と整理されていた。

その中で、ブラジル第2位のビールメーカーであり、清涼飲料も展開するスキンカリオール・グループは、有力な買収対象と評価された。全国に広がる販売網、13か所の製造拠点、複数のビール・飲料ブランドを有し、外形的にはプラットフォーム型の事業基盤を備えていた。キリンは、既存の技術力や商品開発力を投入することで、同社の成長を加速できると判断した。

一方で、この判断にはいくつかの前提が置かれていた。第一に、創業家による株式保有構造が安定しており、買収後の経営権行使に大きな障害が生じないという想定である。第二に、ブラジル市場が中長期的に成長軌道を維持するというマクロ前提である。第三に、取得価格に含まれるのれんが、将来キャッシュフローによって回収可能であるという見立てであった。これらの前提は、買収時点では明示的に否定されていなかったが、いずれも不確実性を内包していた。

決断|2011年の巨額買収と統合の誤算

2011年10月、キリンHDはスキンカリオール社の株式を保有する持株会社アレアドリ社を通じ、スキンカリオール・グループを実質的に100%取得することを決定した。取得総額は約3,000億円規模に達し、キリンにとって過去最大級のM&Aであった。買収資金は手元資金と外部借入を併用して賄われ、財務レバレッジの上昇を伴う決断でもあった。

しかし、買収直後から統合プロセスは想定通りに進まなかった。スキンカリオール・グループの株式は、創業家の異なる系統が支配する2社によって保有されており、キリンが取得したのは一方の持分であった。もう一方の株主は、事前協議なく株式が譲渡されたとして、株主間契約違反を理由に訴訟を提起した。これにより、キリンは経営権の行使を巡って現地裁判に巻き込まれ、経営への関与が制約される状態が続いた。

法的な不確実性が残る中で、経営の主導権は不安定となり、迅速な意思決定や構造改革は困難となった。加えて、ブラジル市場では競争環境が激化し、価格競争や販促費の増加が収益を圧迫した。為替面ではレアル安が進行し、円換算での業績は悪化した。これらの要因が重なり、買収時に想定されたシナジーは十分に顕在化しなかった。

帰結|巨額減損と海外戦略の再定義

2015年12月、キリンHDはブラジル子会社に関して大規模な減損損失を計上することを発表した。のれん等に対する減損損失は約1,400億円規模に達し、単体では関係会社株式評価損として約2,700億円が計上された。これは、買収時に織り込まれていた成長前提と、実際の事業環境および収益力との乖離を会計上認識した結果であった。

この減損は、単なる外部環境悪化の結果ではなく、意思決定構造の問題を浮き彫りにした。支配権の確実性、ガバナンス体制、統合後の実行力といった要素に対する検証が不十分なまま、規模と成長性を優先した判断が行われた点は否定できない。結果として、巨額の資本が低いリターンにとどまり、資本効率を大きく毀損する帰結となった。

キリンにとってブラジル買収は、海外展開そのものを否定するものではなかったが、成長市場への参入が必ずしも企業価値向上に直結しないことを示した事例となった。その後、同社は海外事業の選別と集中を進め、事業ごとの資本効率をより重視する方針へと舵を切っていく。2011年の決断と2015年の減損は、グローバル戦略におけるリスク評価とガバナンスの重要性を示す転換点として位置付けられる。

概要
ガバナンス前提を誤った海外買収の失敗

2011年のブラジルのスキンカリオール社買収が失敗に終わった最大の理由は、市場成長性と規模を優先するあまり、支配権の確実性と統合の実行条件を過信した点にあった。創業家間の株主構造リスクに加え、訴訟によって経営関与が制約され、事業運営そのものが困難となった。競争激化や為替変動も重なり、立て直しの余地は限られた。ガバナンス前提を誤った買収判断の失敗であった。

2011年
Schincariol社を買収(ブラジルキリン)
取得原価 3043 億円
2015年
ブラジル事業で減損損失を計上・キリンHDで最終赤字に転落
減損損失 1134 億円
2022
7月

ミャンマー市場からの撤退を決定

ミャンマーにおけるクーデターの発生を受けて撤退を決定。ミャンマーの現地法人(MBLなど)の売却を決定し、2022年12月期にミャンマー関連で減損損失680億円を計上した。

2024
6月

ファンケルをTOBにより完全子会社化

背景:部分出資関係下における協業とその限界

キリンは2019年にファンケルへ出資し、同社を持分法適用関連会社とした。以降、健康食品および化粧品の分野において、商品開発、研究、販売面での協業が進められてきた。両社は資本関係を背景に一定の連携を行っていたが、ファンケルは引き続き上場会社として独立した経営を維持していた。

この資本関係の下では、両社が事前に踏み込んだ情報共有や共同判断を行うことは制限されていた。価格や原価、商品設計といった中核的な領域については、各社が独立して意思決定を行う必要があり、協業は限定的な範囲にとどまっていた。また、ファンケルが上場会社であったことから、少数株主への配慮が必要となり、大規模な投資や事業再編には慎重な検討が求められていた。

キリンは公式開示において、ヘルスサイエンス領域を中長期的な成長分野として位置づけていた(会社開示資料)。一方で、部分出資という資本構造は、同領域をグループの成長軸として一体的に育成する上で、一定の制約として作用していた。

決断:2024年6月に決定された完全子会社化方針

2024年6月、キリンはファンケルを完全子会社化する方針を決定し、株式公開買付けの実施を公表した。本取引は上場廃止を前提とし、キリンがファンケル株式を100%取得する構造への移行を伴うものであった。

この判断は、既存の協業関係を拡張するというよりも、資本構造を見直すことを目的としていた。部分出資の下で生じていた少数株主への配慮や、事前協議に関する制約を整理し、投資判断や事業再編をグループ内の意思決定として完結させることが狙いとされた。

キリンは成長戦略の中で、ヘルスサイエンス事業を将来の収益基盤として位置づけており(決算説明資料等)、同事業をグループ横断で運営する体制の構築を志向していた。完全子会社化の決定は、こうした方針を実行に移すための前提条件を整える判断として行われた。

結果:事業運営体制の整理と実行段階への移行

本取引により、ファンケルはキリングループ内の事業として位置づけられ、上場会社として求められていた制度対応やコスト構造の見直しが可能となった。上場維持に伴って発生していた費用や、間接部門の重複については、整理の対象となっている。

また、研究、商品、販売といった機能を一体で検討する体制が整えられ、従来は個別に行われていた判断を連動させる余地が生まれている。国内事業に加え、グループが保有する海外の販売基盤を活用することで、事業展開の選択肢は広がっている。

この完全子会社化は、資本関係を整理することで、戦略と実行の距離を縮める効果を持つ。投資家の視点では、ヘルスサイエンス事業が構想段階から実行段階へ移行した過程として整理することができる。

概要
支配なき提携の限界を認識した完全子会社化

2024年のファンケル完全子会社化は、協業の成果というより、「支配なき提携」の限界を整理する判断だった。部分出資の関係では、研究投資や商品戦略といった中核領域で踏み込んだ意思決定ができず、連携は調整にとどまっていた。ヘルスサイエンスを成長軸とする以上、提携ではなく統合が必要だったことを示した事例と位置づけられる。

2019年
ファンケルに資本参加
2024年
ファンケルをTOBにより完全子会社化
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