終戦直後に制定された「過度経済力集中排除司法」により、戦前に国内トップシェア(ほぼ独占状態)を握っていた企業「大日本麦酒」の会社分割が決定。同社は「日本麦酒(現サッポロHD)」と「朝日麦酒(現アサヒグループHD)」の2社に分割されることが決定し、1949年9月に朝日麦酒株式会社を設立した。分割にあたってはビールブランドと工場がそれぞれ均等に割り振られる形となった。
高度経済成長期を通じて国内のビール市場でシェアを拡大したのは、戦前まではシェア3位に甘んじていたキリンビールであった。1970年代にはキリンビールの1強体制が確立され、独禁法の観点から問題視されるほどであった。
シェア逆転が起きた理由は、大日本麦酒の会社分割によって勢力が削がれたことや、戦後を通じて家庭向けビール市場が拡大したことにあった。特に注力市場の選定においては、大日本麦酒から分割された「アサヒビール」と「サッポロビール」は戦前から飲食店向けを中心とした業務用が主体であり、会社分割後は業務用市場を巡って旧大日本麦酒の2社が営業攻勢を敷いていた。
一方、キリンビールは家庭用向けのビールの販売に注力し、シェアを徐々に拡大。業務用市場を巡って共倒れしたサッポロビールとアサヒビールを尻目に、キリンビールが拡大する家庭用向けでシェアを確保するに至った。
アサヒビールの苦戦を問題視したのが、メインバンクの住友銀行であった。すでに1976年に住友銀行出身の延命直松氏がアサヒビールの社長に就任していたが、シェア及び業績改善に失敗している状況であった。
そこで、1982年に住友銀行はアサヒビールの経営陣の交代をきめ、同じく住友銀行出身(住友銀行・元副頭取)の村井勉氏を代表取締役社長に任命した。村井勉氏は住友銀行からマツダに副社長として派遣されて経営再建した実績があり、アサヒビールの社長就任も経営再建を期待されたことが理由であった。
日本全体のビールの消費を需要項目別に大まかに分けると、料飲店30%、一般家庭が70%だ。アサヒは料飲店向けには比較的強いんですが、大市場の一般家庭向けが麒麟にがっちり固められているから、大差を付けられている。これが、地域別で見るとアサヒは都市部で強いが、地方ではダメ、という結果になって表れている。
だから、狙いは家庭で財布の紐を握っている奥様方です。彼女たちに、酒屋さんで「アサヒをください」と言ってもらうように仕向けなければならんのです。だんな方は、だいたい、奥さんの出すビールを黙って飲むもんでしょう。それから、三菱系の企業の人は、麒麟しか飲まないとよく言いますね。あれは神話に過ぎんのですよ。実際そんなにきちんとなっているわけじゃない。そんな神話に惑わされないことがまず必要です。(略)
(注:企業経営面では)まず、社風を作り変えることです。アサヒの社員には、頭のいいのが沢山いるんですが、それだけじゃ足腰が弱くてダメです。ビールを売るのも、預金を集めるのも、似たようなもので、目標を決めたら、あとは足腰を強くして歩いて稼ぐしかない。そのためにたくましい根性がなければ・・・。だが、社風というのは、そう簡単に変わるもんではない。研修をやって徹底して鍛え直すのが、急がば回れで、一番早い。それで今、研修所を作るように命じています。東洋工業(注:マツダ)でもいち早く研修所を作って成功しましたから、自信を持ってそういえますね。
1987年にアサヒビール(樋口廣太郎・社長)は、新製品「アサヒスーパードライ」を発売。発売前の1985年において、アサヒビールの国内シェアは9.6%に低迷しており、厳しい状況を打開するため、経営陣は思い切って「味」と「ブランド」を大きく変えるビールを新製品として市場投入することを決定した。
味の切り替えは、既存顧客の離反を招く可能性もあったが、すでにシェア低下に歯止めがかからないアサヒビールにとっては、幸いにも懸念事項ではなくなっていた。
味の選定にあたっては、技術者が「良い」と言ったものではなく、顧客が「良い」と判断したものを採用する方針を決定した。
具体的には約5000人の消費者(戦後生まれの40代以下の層が中心)を対象に、新製品の味についてテストを実施。12種類用意したビールの味のうち、消費者からの評判が良かった味を採用。傾向としては「重い味」ではなく「すっきり」とした味わいが消費者から評価された。
これを受けて、アサヒビールは「キレ」のある味を採用した試作品を「スーパードライ」として製品化した。それまでのビール業界においては、技術者が味を決定することが多く、消費者が味を最終決定した製品は異色であったという。
アサヒスーパードライの販売にあたって注力したのが、積極的な広告宣伝投資であった。かつての「生」ビールの流行の際には、販売促進が中途半端となり、シェアを十分に確保できなかった反省から、十分な広告宣伝費および販促費の捻出を決断。1987年の1年間で広告宣伝費および販促費として約570億円を投下した。
積極投資における原資となったのが、財テクによる巨額利益であった。アサヒビールはバブル絶頂期(1980年代後半)において財テクによって金融収益を約300億円確保することに成功。これらの在テクで稼いだ利益を、ほぼ全て広告宣伝費および販促費に投下することで、新ブランド「スーパードライ」を短期間で市場浸透させることを狙った。
1987年3月発売した「アサヒスーパードライ」は評判を獲得。1987年3月時点では東京地区におけるテスト販売であったが、他の地域から購入希望が殺到する事態となった。このため、スーパードライの年間販売計画は「100万箱」であったが、実際には予想を10倍以上超える「1350万箱」を販売し、販売高は約860億円に及んだ。1製品で1000億円に匹敵する製品を、わずか1年で育て上げた点で驚異の製品として注目を浴びた。
その後も、アサヒスーパードライは1980年代を通じてアサヒビールにおける基幹ブランドに成長し、キリンビールとサッポロビールの各社からシェアを奪還。1989年においてアサヒビールは国内ビール市場においてシェア24.9%を確保し、キリンビールに次ぐ業界2位を確保した。
ただし、1989年の時点において、国内ビール市場ではキリンビール(主力ブランドは「ラガー」)がシェア48.4%を確保してトップを独走する状態であった。
ビールはご承知の通り寡占でして、免許制ということもあって、よそから入りにくい。自然、味や中身を変革しなくてもやってこれた。だから4社とも味は似たり寄ったりで、目隠しテストでビールの銘柄が当たらないことに安心していた面もあったんです。そうなると資本力があって、シェアの高いところが勝つに決まっています。
そこを変えようと、当社は全く新しい商品を出して、中身で差別化を図ることにしたわけです。私どもは内容の競争に火をつけたことによって、自分自身でも誇りを持っていますよ。
(略)運用資産は360億円増えて783億円になりました。そこから金融収益が上がりますから、営業利益をあげて広告宣伝や販促に使ったんです。(注:昭和)62年の販促費は380億円で、前年と比べ125億円の増加です。広告費も72億円増やして190億円を投じました。(略)私が社長になった時、東京都内でアサヒを扱ってくれる店は47%しかなかった。これじゃ勝てない。新製品を出さなくてはダメだという状況だったんです。新しい「生」で70〜80%の店においてもらい、さらに「スーパードライ」で99.8%まで入れてもらいました。これからが闘いです。
ベルギーに本社を置くアンハイザー・ブッシュ社のオーストラリア事業の買収を決定。買収価格(取得による支出)は1.17兆円であり、アサヒグループHDとして巨額買収を決断した。
アサヒグループHDとしては、日本・欧州・豪州の3拠点を注力する展開地域に定め、豪州におけるEBIDTAを欧州事業並みの約1000億円へと引き上げるために買収を決断した。なお、アサヒグループHDは、すでに2009年から買収を通じて豪州事業に注力してきたが、巨額買収によって規模を確保した。