背景:寡占市場における同質化と劣位の固定
1980年代半ば、日本のビール市場は免許制と寡占構造のもとで安定していた。主要メーカーの味は近似し、目隠し試飲では銘柄判別が難しい水準にまで収斂していた。この状況では、資本力と流通網を持つ企業が有利であり、結果として高シェア企業が優位を維持しやすい市場構造が形成されていた。
この構造下で、アサヒビールは長期低迷に直面していた。1985年時点の国内シェアは9.6%にとどまり、家庭用市場では後発的立場にあった。業務用に一定の強みを残していたものの、家庭用での存在感は薄く、流通側の取扱率も限定的だった。既存路線の延長では、シェア低下に歯止めをかける見通しは立っていなかった。
決断:味の主導権を消費者に委ねる商品設計
1987年、アサヒビールは新製品「アサヒスーパードライ」を発売した。意思決定の核心は、「味」を競争軸として正面から再定義した点にあった。従来は技術者が主導してきた味の決定を見直し、約5,000人規模の消費者調査を実施。12種類の試作品から、消費者評価が最も高かった「すっきり」「キレ」を特徴とする味を採用した。
この選択は、既存顧客の離反リスクを伴っていた。しかし、すでにシェア低迷が進行していたアサヒにとって、守るべき既存ポジションは限定的だった。むしろ、同質化した市場で非連続な選択を行わなければ、競争条件は変えられないという判断が優先された。結果として、「辛口」「ドライ」という明確な味の言語化が、ブランドの軸として設定された。
結果:シェア急回復と競争条件の反転
スーパードライは発売直後から想定を超える反応を得た。当初の年間販売計画は100万箱だったが、実績は約1,350万箱に達し、売上高は約860億円規模に拡大した。東京地区でのテスト販売段階から他地域の引き合いが殺到し、供給体制の増強が急務となるほどの需要が生じた。
この成功を支えたのが、広告宣伝と販促への集中投資だった。アサヒビールは1987年に広告宣伝費・販促費として約570億円を投下した。その原資の一部には、1980年代後半の財務運用による金融収益が充てられていた。短期的な利益確保ではなく、資金をブランド浸透に一気に投入する判断が、流通取扱率と認知を急速に高めた。結果として、アサヒビールの国内シェアは1989年に24.9%まで回復し、業界2位に浮上した。
アサヒビールの歴史を振り返ると、ビール市場が伸びている時期に大きく賭ける会社ではなかった。戦後にビール需要が増えていた時代でも、設備を一気に増やしたり、販売網を先に押さえたりはしていない。その結果、シェアは長い間、競合のキリンの後塵を拝していた。戦略転換や設備投資は避けてきたツケにより、1980年代には収益性が悪化して住友銀行の管理下に置かれることになった。
一方で、市場が成熟し、これ以上大きく伸びない段階において、行動が変わった。1987年に発売された「スーパードライ」は、その象徴である。量を売る前提ではなく、味の方向をはっきり切り替え、基幹ブラントとして開発・生産・広告の全方位に投資した。成熟市場では、多くの企業が商品を増やして様子を見るが、アサヒは投資の対象を一つに絞り込んだ。
この考え方は、国内市場が伸びなくなった後の海外戦略にも共通している。アサヒは、新興国で需要拡大を狙うのではなく、すでに市場が固まっている地域を選択。2016年には欧州で買収を通じて既存ブランドと流通網をまとめて取得し、2020年には豪州で事業単位の買収を行っている。いずれも、将来の成長より、現在のシェアとキャッシュフローを重視した投資判断であった。
つまり、アサヒビールの歴史で一貫しているのは、成熟市場で競争条件が固まった時点で、一気に集中投資を行う点である。そのため、成長期には出遅れるが、成熟期には大胆に攻める。この意思決定の資質は、かつて低収益の時代に、銀行出身の経営者によって「アサヒビール」に投資して再建した成功体験に根ざしているのかもしれない。