1906年〜 三社合同による寡占の成立と、戦後分割で戦前ブランドを封印した八年
サッポロビールの業績推移:単体
- 1906年 日本麦酒・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒を設立
- 1949年 日本麦酒を発足
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
- 1949年 ニッポンビールの販売開始(柴田社長の大誤算)
- 1957年 国際飲料を設立
- 1957年 サッポロビールの商標を復活
- 1961年 大阪工場を新設
競争の激化が生んだ三社合同と、生産高の過半を占める体制
1906年3月、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社が合同[1]し、資本金560万円[2]の大日本麦酒株式会社が発足した。初代社長には日本麦酒の馬越恭平氏[3]が就いた。合同に踏み切ったのは、麦酒会社どうしの競争が激しくなり[4]、中途半端な手段では立ちゆかないと判断されたためである。斡旋にあたったのは農商務大臣の清浦奎吾氏[5]で、馬越氏・渋沢栄一氏・大倉喜八郎氏のあいだを取り持った。合同三社の一つである札幌麦酒は、1876年9月に設立された開拓使麦酒醸造所に端を発する[6]。
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [1]1906年3月 札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社合同で大日本麦酒が成立
- [6]札幌麦酒の源流 1876年9月設立の開拓使麦酒醸造所
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [2]成立時の資本金 560万円
- [3]初代社長 日本麦酒出身の馬越恭平
- [5]清浦奎吾(農商務大臣)が馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎の斡旋にあたった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本麦酒」の項
- [4]合同の理由 麦酒会社の競争が激甚を窮めたこと
合同の効果は生産量に表れ、明治39年のわが国麦酒生産高の総計15.9万石のうち過半を大日本麦酒が占めた[7]。同社は麦酒・清涼飲料・製壜の一貫作業[8]を自社内に抱え、以後も設備投資と同業の合併によって業界首位を保った。実質的な競合を麒麟麦酒一社に限る寡占構造が戦前期を通じて続き、終戦時のシェアは75%に達した[9]。多くの銘柄を地域別に持って売り分ける販売体制[10]も、この時期に固まった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本麦酒」の項
- [7]明治39年の麦酒生産高 総計15.9万石・その過半を大日本麦酒が占めた
- [8]麦酒・清涼飲料・製壜の一貫作業
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号「サッポロビール」
- [9]終戦時のシェア 75%
- [10]多くの銘柄を地域別に持って販売する形態
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [1]1906年3月 札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社合同で大日本麦酒が成立
- [6]札幌麦酒の源流 1876年9月設立の開拓使麦酒醸造所
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [2]成立時の資本金 560万円
- [3]初代社長 日本麦酒出身の馬越恭平
- [5]清浦奎吾(農商務大臣)が馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎の斡旋にあたった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本麦酒」の項
- [4]合同の理由 麦酒会社の競争が激甚を窮めたこと
- [7]明治39年の麦酒生産高 総計15.9万石・その過半を大日本麦酒が占めた
- [8]麦酒・清涼飲料・製壜の一貫作業
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号「サッポロビール」
- [9]終戦時のシェア 75%
- [10]多くの銘柄を地域別に持って販売する形態
新商標ニッポンビールの投入と、八年におよぶ戦前銘柄の空白
1949年9月、大日本麦酒は過度経済力集中排除法および企業再建整備法[11]の適用を受け、朝日麦酒と日本麦酒の二社へ分割された。GHQが通告した分割対象300社は、全企業の影響力の75%を占める[12]とされた。日本麦酒は初代社長に柴田清氏を迎え[13]、資本金1億円で発足した[14]。旧会社から引き継いだのは、エビス・サッポロ両商標と、札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場[15]。
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [11]1949年9月 過度経済力集中排除法・企業再建整備法により朝日麦酒と日本麦酒へ分割
- 読売新聞 1948年1月31日
- [12]集中排除の分割対象300社は全企業の影響力の75%を占めるとGHQが通告
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [13]日本麦酒の初代社長 柴田清
- [14]発足時の資本金 1億円
- [15]エビス・サッポロ両商標と札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場を承継
ところが柴田社長は、承継した戦前の商標を封印し、1949年12月に新商標ニッポンビールへ銘柄を一本化して販売を始めた[16]。多くの銘柄を地域別に持ってきた不自由さを解消する狙い[17]だったが、平和が戻ると消費者は戦前の銘柄を選ぶようになり、同社は不利な戦いを強いられた[18]。1955年の時点でも、新商標によるハンディキャップ[19]を自社で認めていた。分割を免れた麒麟麦酒がこの間にシェアを伸ばし、1954年には首位と二位が入れ替わった[20]。戦前の主力銘柄が市場から消えていた期間は、1957年2月のサッポロビール商標の復活まで八年におよんだ[21]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [16]1949年12月 新商標ニッポンビールの販売開始
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号「サッポロビール」
- [17]新商標採用の理由 銘柄を地域別に持つ不自由さの解消
- [18]大衆は昔の銘柄を選ぶようになり、まことに不利な戦いを余儀なくされた
- [21]1957年2月 サッポロビール商標の復活(ニッポンビール投入から約8年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本麦酒」の項
- [19]1955年時点で新商標によるハンディキャップを自認
- 日経ビジネス 1977年4月11日号「後手に回ったキリン打倒策 サッポロビール元社長、内多蔵人氏が語る敗戦記」
- [20]1954年 キリンに順位を抜かれた(1949年発足時はシェア39%で首位)
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [11]1949年9月 過度経済力集中排除法・企業再建整備法により朝日麦酒と日本麦酒へ分割
- 読売新聞 1948年1月31日
- [12]集中排除の分割対象300社は全企業の影響力の75%を占めるとGHQが通告
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [13]日本麦酒の初代社長 柴田清
- [14]発足時の資本金 1億円
- [15]エビス・サッポロ両商標と札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場を承継
- [16]1949年12月 新商標ニッポンビールの販売開始
- 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号「サッポロビール」
- [17]新商標採用の理由 銘柄を地域別に持つ不自由さの解消
- [18]大衆は昔の銘柄を選ぶようになり、まことに不利な戦いを余儀なくされた
- [21]1957年2月 サッポロビール商標の復活(ニッポンビール投入から約8年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本麦酒」の項
- [19]1955年時点で新商標によるハンディキャップを自認
- 日経ビジネス 1977年4月11日号「後手に回ったキリン打倒策 サッポロビール元社長、内多蔵人氏が語る敗戦記」
- [20]1954年 キリンに順位を抜かれた(1949年発足時はシェア39%で首位)