明治時代を通じて北海道開拓のための開拓使として、日本政府は様々な事業を企画。この一つとしてビール醸造が立案されて技術者をドイツに派遣した。そして北海道でのビール生産が可能と判断し、開拓使麦酒醸造所を設置した。
その後、官営の払い下げによって大蔵財閥が醸造所を継承し、1887年に札幌麦酒会社が発足した。
これらの経緯から、開拓使醸造所を源流とする札幌麦酒は、日本国内のビール業界において先発企業となった。1877年には札幌ビールのブランドで東京地区における販売を開始しており、「サッポロ」の知名度の確保に至った。
明治時代の日本国内ではビール醸造がブームとなり、東京地区では日本麦酒醸造が設立された。そして、東京の恵比寿に醸造所を新設して「ヱビスビール」の販売を開始した。
この結果、戦前の東京地区を中心に「ヱビスビール」のブランドが浸透した。
大阪地区でもビール醸造がブームとなり、大阪麦酒が発足。大阪吹田に醸造所を新設して「アサヒビール」のブランドで販売を開始した。
明治時代を通じて日本国内にビール会社が乱立したことで競争が激化。このため、主力企業であった札幌麦酒(サッポロビール)・日本麦酒(ヱビスビール)・大阪麦酒(アサヒビール)の3社合併が決定し、大日本麦酒が発足した。
戦前の日本国内では大日本麦酒が3大ブランド(サッポロ・ヱビス・アサヒ)を展開することでビール市場において77%のシェアを確保した。
名古屋市千種区に新設
大日本麦酒は戦前の日本国内において、ビールのシェア77%を握る寡占企業であった。このため、ビール業界は大日本麦酒が圧倒的なシェアを持ち、キリンが追随するという構図であった。
ところが、あまりに高いシェアを確保した大日本麦酒は「過度経済力集中排除法」の適用を受けて、会社を分離解体することになった。これは戦後のGHQの政策の一環であり、財閥に相当する企業の弱体化を狙った施策であった。
このため、1949年9月1日をもって大日本麦酒は解散し「朝日麦酒(アサヒビール)」と「日本麦酒(サッポロビール)」の2社に分割される方針が決まった。ただし、2社の分割にあたって工場や社員をどう振り分けるかで「揉めた」と言われている。
1949年9月に日本麦酒(以下、サッポロビール)を設立。旧大日本麦酒の資産を継承し、生産拠点は「目黒工場・川口工場・札幌工場・名古屋工場」の4拠点、ブランドは「ヱビスビール」と「サッポロビール」の2つを継承した。なお、アサヒビールは「吹田工場・西宮工場・博多工場」を継承しており、サッポロビールは「東日本中心」の工場立地に対して、アサヒビールは「関西中心」の工場立地となった。
継承時点のビール生産能力はサッポロビールが9万キロリットルに対して、アサヒビールは9.2万キロリットルであり、生産量の面では台頭となった。
サッポロビール(日本麦酒・柴田社長)は日本麦酒の発足を受けて、新しいブランド「ニッポンビール」を展開することを決めた。そこで、大日本麦酒から継承した「サッポロビール」と「ヱビスビール」のブランド利用を見送った。
ところが、ニッポンビールというブランド名が販売店や消費者に進展しておらず混乱を招いた。戦前には北海道・東北では「サッポロビール」、関東では「ヱビスビール」のブランドが浸透していたが、ニッポンビールは未知であった。
この結果、競合のキリンビールは戦前からの全国区ブランド「キリン」を展開してシェアを徐々に拡大するに至った。
ニッポンビールのブランドは浸透せず飲食店向けの営業に苦戦した。このため取締役だった内多蔵人氏(のちの社長)は「サッポロビール」の復活を、柴田清(当時社長)に進言するが、柴田社長は「ニッポンビール」のブランドの取り下げを「みっともない」「旧安田銀行は富士銀行に改称してうまくやっている」ことを理由にブランド復活を拒絶した。
柴田さんは36年(注:1961年)まで社長をやられた人だが、私らは本当に連日のように旧ブランド復活をお願いしましたね。時にはお宅まで押しかけたり、社の長老たちの力までお借りして説得するんだが、どうしても聞いてもらえない。「途中で社名やブランドを変更するようなみっともないことはできない。そんなにニッポンビールという新しい銘柄が通りにくいと言うが、富士銀行を見たまえ。旧安田銀行にしていないのに、立派に業績を上げているじゃないか。君らのやり方が悪いんだよ」と取り付くしまがない。
サッポロビールは1949年の会社発足から一貫してシェアを低下させた。1956年度にはシェア27.1%に低迷し、30%を割り込む事態となった。
このため、サッポロビールの社内では意思決定した社長をもじって「柴田の大誤算」という批判が沸き起こったという『純生の挑戦』(二宮・1968)。
サッポロビールは主に飲食店向けにビールの売り込みを行っていた。これは、戦前のビールは嗜好品であったため、業務用として利用されるのが一般的であったためである。
これに対して、キリンは家庭向けや、小規模な一杯飲み屋の販路に対する営業を積極化させた。これらの販路はサッポロビールやアサヒビールの営業が手薄なこともあり、徐々にキリンが家庭向け販路を獲得。この結果、家庭でキリンを飲むユーザーが拡大し、家庭での浸透に合わせて飲食店向けでも「キリン」が好まれるようになっていった。
戦前において、東京(主に下町)においては「エビスビール」のブランドが浸透していた。
このため、戦後の「ニッポンビール」のブランドはなかなか浸透せず、消費者は戦前から知られていた「キリン」を指名するようになった。
戦前において北海道では「サッポロビール」のブランドが浸透していた。
このため、1950年代を通じてサッポロビールは北海道地区において「ニッポンビール」のブランドで飲食店向けの営業を行なっていたが、馴染みのないブランドで販売に苦戦した。このため、飲食店では店員がお客に「ニッポンビールは旧サッポロビールです」という旨の説明をする必要があり、不評を買っていた。
たとえば、東京地方の場合、戦前にエビスビールを飲んでくれていた人は、なじみのないニッポンビールなど、見向きもしてくれない。むしろ昔ながらのキリンの方がまだ親しみがあると言うことで、キリンを指名する。(略)
いちばん問題だったのは北海道でした。戦前はサッポロのブランドで完全に抑えていたのに、われわれが出張に行くと、料理屋の女中さんなんかが「これは昔のサッポロですよ」なんて言いながら、一生懸命、お客を説得しているような状況でした。サッポロで売れば、何の苦労もしなくて済むんですよ。
1955年頃に日本麦酒(サッポロビール)は、北海道地区限定で「サッポロビール」のブランドを並行復活することを決めた。柴田社長は有力問屋から説得される形で、ブランドの復活を決めた。
この結果、北海道ではわずか1ヶ月で全てのビール販売が「サッポロビール」に切り替わる成果を生んだ。そこで、日本麦酒は「サッポロビール」の商標を全国展開することを決めた。
1957年3月より日本麦酒(サッポロビール)は「サッポロビール」のブランドを全国で復活させることを決定。サッポロビールを全国発売した。
また、1964年には社名を日本麦酒からサッポロビールに変更し、ブランド名と社名を一致させて認知度の向上を図った。
サッポロビールの商標復活後もシェアは低迷を続けた。依然として東京地区で知名度が高かかった「ヱビスビール」(1971年復活)のブランドは柴田社長の判断で利用が見送られており、サッポロビール社内における商標問題は解決していなかった。
なお、柴田社長は「エビスなんていう名前は、いなかっぺみたいだ」(1977/4/11日経ビジネス)と考え、ブランド復活を拒絶していた。
この結果、サッポロビールはビールのシェア獲得競争におけるブランド政策の失敗により、サッポロビールの復活までの間で「約8年」、ヱビスビールの復活までの間で「約22年」の遅れをとった。
サッポロビールは商標問題に揺れ動く中で、競合のキリンビールは設備投資を実施。全国にビール工場を新設することで供給量を増大させ、全国ブランド「キリン」で販売することによって着実にシェアを拡大した。
考えてみれば、うちは24年(注1949年)に発足してから8年間も回り道をしてきたわけですよ。
関西地区に拠点を新設。競合のアサヒビールに対する牽制
サッポロビールの商号復活は、シェアの回復に寄与せず。ビール市場が拡大する中で、設備投資に先行したキリンの優位性を崩せなかった。
この結果、1968年度にサッポロビールのシェアは25%を割り込んだ
懸案であった「エビスビール」の商標を復活。復活にあたって、原料ホップを変更して味に変化を加え、価格帯を10円高く設定して高級路線を打ち出した。
私はついに念願のエビスビールの新生は実現できはしましたが、タイミングが悪かったんで、1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせませんでした。考えてみれば、エビスビールのブランドを復活できたのは、24年(注:1949年)から数えても20年以上も経っていますからね。スタートのつまずきを取り戻すには、遅きに失したのかもしれません。戦前の強かったエビスビールのブランドでひと味もふた味も違ったビールを出し、もう一度、戦前の状態に戻して見せると言うのが、私の執念でもあったんですね。
ワイン醸造に参入
1971年のエビスビール復活を機に「サッポロビール」「ヱビスビール」の2ブランドで攻勢を図るも、キリンビールに対抗できず。辛うじてサッポロビールはシェアの低下を20%前後で食い止めたが、キリンの独走を阻止できなかった。
ニューヨークに現地法人を設立
恵比寿工場の閉鎖を決定し、跡地を不動産開発することを決定。このうち居住区域は売却を実施する一方、オフィス・商業施設については大手不動産会社に売却ないし委託するのではなく、サッポロHDが自社で管理して賃貸収入を確保する計画を策定した。すなわち、サッポロHDは不動産賃貸業に本格参入することを意味した。
時代の流れの中で恵比寿、札幌工場の移転、跡地開発をする時期にぶつかっただけで、100年の社史の大きな転換点に立っているとか、企業の進路を自分たちで変えていくといった気負いは私にも、社員にもない。先輩から受け継いだ財産を現在考えられる最善の方法で活用し、後輩に引き継ぐだけだ。現在の計画は若手部長クラスを中心に練り上げたが、21世紀の具体策はさらに若い課長クラスが今後作ってくれればいい
サッポロビールは恵比寿ガーデンプレイスを竣工。サッポロビールは開業2年前からテナント獲得のために営業活動を開始し、ビール営業の経験者が誘致に奔走した。
居住区域のマンションについては一般販売が順調に推移した。その様子については「倍率29.1」「億ション即日完売」「申込者の60%は会社経営者や会社役員など。年収2000万円以上、年齢は60歳代が中心」「港、目黒、渋谷、世田谷の周辺各区に居住している人が過半を占めている」(1994/06/07日経産業新聞)として注目を浴びた。
カナダのビール醸造会社「スリーマンビール」の買収を決定。株式100%を306億円で買収した(取得総額)。同社はカナダ3位のビール醸造会社であり、サッポロHDは海外でのビール事業の展開を目論む
2000年代を通じて、サッポロHDの営業利益の構成は「不動産」が過半を占めており、続いて酒類(ビール等)が支える構造であった。また、外食事業や飲料事業は不採算の状況であり、営業赤字が続いていた。
このため、サッポロHDは本業の事業不振を、不動産の収益によって穴埋めしていた。不動産収益の大半は恵比寿ガーデンプレイスの運営による賃貸収入であった。
2004年10月にスティールは大量保有報告書を提出し、サッポロHDの株式5.13%を保有していることを公表した。当初の保有目的は「純投資」であった。その後、2007年1月までにサッポロHDの株式18.13%を保有し、徐々に買い増した。
2007年1月にスティールパートナーズは株式保有の目的を「純投資」から「重要提案行為等」に変更。サッポロHDの経営陣に対して、経営改善の要求を実施することを打ち出した。
そして、2007年にスティールはサッポロHDに対して「貴社株式の有効的取得」について書面通知を行い、サッポロHDの買収を提案した。スティールとしては、サッポロHDの株式66%を保有することを目論んだ。
スティールはサッポロHDに対して、不採算事業の改善を要求。飲料におけるパートナー企業との提携、酒類における工場稼働率の改善(大阪工場の閉鎖)、不動産事業におけるパートナー協業を提案した。
| 日時 | 主体 | 出来事 |
| 2004-10-22 | metal | 大量保有報告書を提出 |
| 2005-12-05 | metal | サッポロHD社長に書状送付 |
| 2007-01-11 | metal | 保有目的を変更(重要提案行為等) |
| 2007-02-01 | metal | 定時株主総会で株主提案(買収防衛策廃止) |
| 2007-02-05 | metal | 株主提案を実施(取締役派遣・資金調達・株式取得) |
| 2007-02-15 | metal | 友好的買収を書面通知 |
| 2007-02-16 | サッポロHD | 買収防衛策の継続を決定(取締役全員賛成) |
| 2007-03-01 | サッポロHD | 「必要情報リスト」を交付(1度目の質問状) |
| 2007-03-29 | サッポロHD | 定時株主総会を開催。Steelの株主提案が否決へ |
| 2007-05-15 | metal | 質問状の回答を送付(1度目の回答) |
| 2007-05-29 | サッポロHD | 「追加情報リスト」を交付(2度目の質問状) |
| 2007-09-11 | metal | リヒテンシュタイン氏がサッポロHDを往訪 |
| 2007-09-25 | metal | 質問状の回答を送付(2度目の回答) |
| 2007-11-08 | metal | 企業価値向上へのアプローチを提言 |
| 2007-11-22 | サッポロHD | 「確認・追加情報リスト」を交付(3度目の質問状) |
| 2007-12-06 | metal | 質問状の回答を送付(3度目の回答) |
スティールの買収提案を受けて、サッポロHDの経営陣は質問状を送付するなどし、買収案はまとまりきらなかった。サッポロHDは敵対的買収を警戒して「買収防衛策」を導入しており、スティールの買収提案に対して結論を伸ばす態度をとった。
また、サッポロHDは買収防衛策の導入を継続しつつ、スティールに対して「質問状」を送付。数ヶ月にわたり数回ほど、書面による質問の応酬を繰り広げた。このため、サッポロHDとSteelの関係性は冷え切っており、通常のやり取りにも莫大なコストと時間を要する状態であった。
なお、サッポロHDは買収防衛に関する助言について「みずほ証券」と「日興シティグループ証券」を財務アドバイザーとして起用した。
買収提案に対して曖昧態度をとって時間を稼ぐ一方で、サッポロHDはモルガンスタンレーと業務資本提携の締結を発表した。これは、サッポロHDの子会社「恵比寿ガーデンプレイス」株式15%をモルガン・スタンレーへ500億円で譲渡する代わりに、モルガンスタンレーがサッポロHDの株式5%を取得する契約であった。この提携は、実質的にスティールの買収提案に対する牽制であった。
サッポロHDが買収提案に対して態度を決めたのは、2008年1月8日からスタートした特別委員会における諮問であった。
そして、同年2月4日に特別委員会は記者会見を実施し、買収に対して否定的な態度をとった。委員会では「濫用目的」に関する判断は控えつつも、スティールの株式取得は「サッポロホールディングス株式会社の企業価値を毀損し、株主共同の利益を著しく害するおそれは大きいと評価する」(2008/2/4サッポロHD特別委員会「意見書」)と明言した。
特別委員会の結論によって、スティールのサッポロHDの買収は頓挫した。独断で買収に踏み切ると「敵対的」とみなされ、裁判になる可能性が高く、自由意志によって株式取得を進めることができなかった。そこで、スティールは株式取得の目標を66.6%から33.3%に切り下げることで取得交渉を進めるものの、進展はなかった。
その後、スティールは2010年までサッポロHDの株式を保有したが、途中のリーマンショックによる株式市場の低迷などを受け、サッポロHDの株式売却を決定。スティールはサッポロHDの株式を完全に売却し、投資先から除外した。
| 日時 | 主体 | 出来事 |
| 2008-01-08 | サッポロHD | 買収提案を特別委員会に諮問 |
| 2008-01-12 | metal | リヒテンシュタイン氏が特別委員会と面談 |
| 2008-01-28 | metal | 書簡を送付(サッポロHDの態度に不満を示す) |
| 2008-02-04 | サッポロHD | 特別委員会が意見書を公表(買収提案に否定的見解) |
| 2008-02-13 | metal | 特別委員会の見解に対して疑念を表明 |
| 2008-02-20 | サッポロHD | 特別委員会の追加意見書を公表 |
| 2008-02-26 | サッポロHD | 取締役会の意見書を公表 |
| 2008-03-10 | metal | 書簡を送付(取得比率を66.6%→33.3%に切り下げ) |
| 2009-02-17 | metal | 買収撤回を書面通知。サッポロHDの経営陣を批判 |
| 2009-02-17 | サッポロHD | Steelに対して遺憾表明 |
ビールの製造拠点である大阪工場(1961年稼働・大阪府茨木市岩倉町2-1)について、2008年3月末に閉鎖する方針を決定。閉鎖の理由は「稼働率の低下」と「設備の老朽化」であった。
なお、大阪工場を巡ってはスティールパートナーズが工場閉鎖を提言していたが、サッポロHDは閉鎖の発案は自社にあると主張した。
2007年10月3日にスティールパートナーズへの対抗策として、サッポロHDはモルガンスタンレーと「戦略的業務・資本提携」の締結を実施。業務提携の骨子はサッポロHDによる恵比寿ガーデンプレイスの株式一部売却であり、資本提携の骨子はモルガンスタンレーによるサッポロHDの株式取得であった。
サッポロHDの完全子会社恵比寿ガーデンプレイスについて、株式15%(信託受託権)をモルガンスタンレーが運用する投資ファンドに売却した。売却額は500億円。
表向きの理由は不動産価値の向上だが、実質的にはスティールが狙う「サッポロHDが保有する不動産価値」の希薄化を目論んだと推定される。
モルガンスタンレーがサッポロHDの株式取得を実施。2007年12月時点で1.5%、2008年6月時点で5%の株式保有を明言した。狙いは将来の株式取得を明言することでサッポロHDの株価を高め、スティールによる買収負担を増大させることであったと推定される。このため、スティールパートナーへの対抗策とみなされた。
ただし、モルガンスタンレーによる株式取得は進まず、2009年7月時点で1.8%に留まった。そして、2009年7月に株式取得の中止を公表した。その理由は、スティールによる買収撤回が2009年2月に公表されたためであり、モルガン・スタンレーによる株式取得の狙いが薄れたことによる。
独立系M&A(合併・買収)助言会社GCAホールディングスの福谷尚久パート ナーは「サッポロHがモルガンSと組んだのはスティールを退けるのが趣旨であり、 スティールの買収提案を受け入れないことはほぼ間違いない」と予想した。
鈴木英世氏が子会社サッポロ飲料の社長に就任。不採算事業の撤退で黒字化
サッポロHDは飲料事業を強化するために、ポッカコーポレーションの買収を決定。同社の株式98.59%を348億円で取得した。ポッカコーポレーションは投資ファンド(アドバンテッジ)による再生途上にあり、サッポロHDはアドバンテッジから株式を取得した。
買収直前のポッカコーポレーションの業績は売上高223億円・当期純損失8.1億円であり赤字経営であった。買収後の期末時点(FY2011)におけるポッカグループの従業員数は2503名であった。
サッポロHDによるポッカの取得原価は348億円で「のれん」として184億円を計上した。なお、2022年12月期に至るまでポッカの買収によって生じた無形固定資産(のれん・その他)について、減損は認められない。
サッポロHDはポッカコーポレーションの買収を機に、サッポロHDが抱えていた飲料事業と統合して子会社「サッポロフード&ビバレッジ株式会社」を発足した。また、自販機の販路を整備するため、オペレーター5社の統合によって「株式会社PSビバレッジ」が発足した。
2015年10月にサッポロHDは、健康飲料を強化するために、トーラクから豆乳飲料(豆乳ヨーグルトなど)の営業権を取得した。買収直前におけるトーラクの該当事業の売上高は約22億円であった。
トーラクの親会社は不二製油であり、同社の事業整理の一環として売却が決定された。
サッポロHDは2011年以降、約10年間にわたり年間約70億円の設備投資を継続した。酒類事業を上回る年度もあり、飲料事業に対しては投資投資を実施した。
主な投資の内容は、旧ポッカコーポレーションの老朽化しつつあった工場の設備刷新(新工場の新設)であった。2012年の名古屋工場における第3工場の新設を皮切りに、群馬工場(2015年・2017年)および仙台工場(2017年)に対しても生産設備の増強を実施した。
また、海外展開として、2013年にマレーシア、2015年にインドネシアにそれぞれ飲料工場を新設した。
2016年に旧ポッカの豊田工場(愛知県豊田市)を閉鎖し、生産を名古屋工場に移管した。サッポロHDとしては、飲料の生産拠点の再編を行うことで、生産性の工場を目論んだと推定される。
これらの設備投資の結果、毎年70億円前後の設備投資を実施するに至り、2012年から2019年までの8年間で累計586億円の設備投資を実施した。これに加えて、ポッカコーポレーションの買収価格348億円を考慮すると、2012年度から2019年度にかけて、サッポロHDは食品・飲料事業に934億円を投資した。
飲料事業への積極投資にも関わらず、2010年代を通じてサッポロHDの食品・飲料事業の売上高は低迷。2020年度から2022年度にかけて、3期連続の減収となった。
理由としては、商品面ではヒット商品を生み出せなかったこと(トーラクから取得した豆乳ヨーグルトを含めた不振)、市場面では自販機設置台数の飽和、競合面では飲料業界における激しい競争による。
2010年代を通じてサッポロHDの食品・飲料事業は収益性が低迷した。積極的な設備投資によって減価償却の負担が重い構造や、そもそも飲料業界の競争が激しく利益を生み出しにくいこと(=値上げの困難)がボトルネックとなった。
2020年12月期にサッポロHDは食品・飲料事業関連で110億円の減損損失を計上した。主な内訳は群馬工場及び名古屋工場における土地・建物・設備の減損であり、2010年代の積極投資の回収を困難と判断した。
2020年12月期の時点でサッポロHDはポッカコーポレーションの買収によって生じた「のれん」について減損損失の計上を見送った。また、2011年の買収から2022年度に至るまで、ポッカの買収により生じた「のれん」および「無形資産」の大規模な減損損失の計上は確認されていない。このため、ポッカコーポレーションの買収そのものは、会計帳簿上では失敗と判定されていない。
とはいえ、飲料事業の業績が低迷する状況下において、ポッカコーポレーションの減損リスク(のれん・無形資産)は高まっていると推定される。
サッポロHDは子会社「恵比寿ガーデンプレイス」の株式について15%(信託受託権)の買い戻しを決定。2012年3月にサッポロHDが405億円で再取得を実施した。この取得によりサッポロHDによる恵比寿ガーデンプレイスの株式保有比率は100%となり、完全子会社化した。
2007年10月にスティールへの買収対策も兼ねてモルガン・スタンレーに売却したが、不動産価値の向上が完了したことからモルスタ側が売却の意向を表明したため、サッポロHDは取得を決定した。これを受けて、サッポロHDとモルガンスタンレーの業務上の繋がりが希薄となったため、2012年3月にサッポロHDはモルガン・スタンレーとの「戦略的業務・資本提携」を解消した。
財務面においては、サッポロHDは社債100億円(償還期限3年・年利0.64%)および、みずほ銀行からの借入210億円(2019年3月に一括返済)を実施した。
サッポロ不動産開発は、保有する東京都渋谷区恵比寿一丁目のビル(土地は明治時代に取得し、社宅として活用。その後、高度経済成長期にビルを建設)について建て替えを決定。2014年にオフィスビル「恵比寿ファーストスクエア」として竣工した。
2020年12月期にサッポロHDは最終赤字(当期純損失160億円)に転落。1998年12月期の赤字以来、約22年ぶりとなる最終赤字に転落した。主な要因は飲料事業の赤字転落と、新型コロナウイルスによる酒類事業の赤字転落であり、これらの赤字を不動産事業の黒字でカバーできなかったことによる。
2020年12月期に食品飲料事業で減損損失110億円を計上。対象は「日本アジア食品飲料」の領域であり、子会社「ポッカサッポロフード&ビバレッジ株式会社」であった。なお「のれん」の減損ではなく「建物・機械装置」など、旧ポッカコーポレーションの生産設備関連の減損が中心であった。主な減損対象は旧ポッカの「名古屋工場・群馬工場」と推定される。
依然として「のれん」の減損には至っていないものの、実質的に2011年の買収は厳しい状況にある。
子会社の「サッポロ不動産開発」が保有する土地の一部売却を実施。対象は東京恵比寿の「恵比寿ファーストスクエア(2014年竣工)」。売却先は三井不動産系の投資ファンド「三井不動産デジタル・アセットマネジメント」。サッポロHDは固定資産売却益として232億円を計上
米国のビール醸造会社STONE BREWINGの株式100%を約226億円で買収。海外のビール事業において、2006年のSLEEMAN BREWEIES社(カナダ)の買収以来、2度目の大規模な買収へ
投資ファンドの3D Investment(アクティビスト)が株式取得。3Dは不動産収益によって本業(ビール・飲料)の低収益が看過されて経営課題と指摘した。これを受けて、サッポロHDは経営改善の検討を開始した