直近の経営方針: 2023年12月期 2030年12月期
サッポログループ 中長期成長戦略

計画策定の背景

サッポロは戦後の国内ビール市場において、キリンと並ぶ主要プレイヤーとして全国的なブランドと生産基盤を築いてきた。しかし1960年代末から1970年代にかけてのブランド再編と市場シェア低下を起点に、ビール事業単体での成長余地は次第に制約を受けるようになった。その後、不動産事業や食品飲料事業を含む多角化によって収益の安定化を図り、恵比寿ガーデンプレイスをはじめとする不動産資産は、長期にわたりグループのキャッシュフローを下支えしてきた。一方で、この構造は酒類事業への経営資源集中を難しくし、事業ポートフォリオの分散という課題も内包することになった。

2000年代以降、国内ビール市場の成熟、酒税改正による需要構造の変化、海外酒類事業の収益性低下が重なり、グループ全体としての収益性は低位にとどまった。こうした状況を受け、サッポログループは社外有識者を交えた戦略検討を通じて、低収益体質、分散した事業構造、酒類事業の中核としての位置づけの曖昧さを主要課題として整理した。その結果、酒類事業を軸とした成長戦略への再集中と、資本効率改善を明確に打ち出す必要性が共有され、本中長期成長戦略が策定された。

経営の基本方針

本中長期成長戦略では、国内外の酒類事業をグループの中核と再定義し、黒ラベルおよびヱビスといった主力ブランドへの集中投資を通じて、価格競争に依存しない収益構造の確立を目指している。従来の数量拡大や市場シェア重視の発想から転換し、顧客体験やブランド価値を起点とした付加価値創出によって、収益性そのものを引き上げることを基本方針としている。また、国内市場の成熟を前提に、海外酒類やノンアルコール、RTDといった成長領域については、内製に限定せず、提携やM&Aを含む柔軟な成長手段を選択肢として位置づけている。

同時に、本戦略における不動産事業の位置づけは、これまでの延長線上にはない。過去においては、不動産事業は酒類事業の収益変動を吸収する安定収益源として保有されてきたが、本中長期成長戦略では、企業価値最大化の観点から資本効率を優先し、外部資本の導入を通じてその役割を再定義する方針を明確にした。これは、不動産をグループ内に抱え続ける前提を置かず、創出される資金を酒類事業の成長投資へ再配分するという非連続な資本配分の転換を意味している。酒類事業を中核とする戦略を2030年までに本当にやり切るため、従来は暗黙に維持されてきた事業構造そのものに踏み込むことを、本戦略の基本方針としている。

Author’s Insights

  1. これまでの多角化戦略は、なぜ企業価値の改善として十分に結実しなかったのか。

    不動産事業は長期にわたりキャッシュフローを支えてきた一方で、酒類事業の低収益構造を補完する役割にとどまり、グループ全体としての資本効率改善には結びつきにくかった。今回の中長期成長戦略で掲げられている資本配分の見直しは、過去の多角化戦略と比較して、どこが本質的に異なる判断なのか。

  2. 今回の中長期成長戦略は、本当に酒類事業への集中をやり切る設計になっているのか。

    過去にも酒類事業回帰は繰り返し語られてきたが、実際には不動産や他事業との併存構造が維持されてきた経緯がある。今回、主力ブランドへの投資拡大と不動産事業の位置づけ見直しを掲げる中で、2030年まで方針が後退しない仕組みがどこまで組み込まれているのか。

  3. もし酒類事業の収益改善が想定通り進まなかった場合、これまでと違う選択を取れるのか。

    これまでであれば、不動産事業などによる下支えを前提に酒類事業の立て直しが続けられてきた。今回の中長期成長戦略では、どの水準の収益性やROEを下回った場合に、投資配分や事業構造の再設計に踏み込む判断がなされるのか。

洞察
なぜ、ビールのシェア3位から浮上できないのか

1949年、終戦による企業分割で発足した日本麦酒は、戦前から高い認知を持っていた「サッポロ」「ヱビス」を用いず、新ブランド「ニッポンビール」で市場に参入した。この判断を主導したのは柴田清氏(当時社長)であり、戦後の新体制にふさわしい全国統一ブランドを構築する意図があった。しかし、流通と消費者は過去の記憶を基準に購買しており、売場では銘柄の説明が必要となり、指名買いを獲得できなかった。

1950年代前半にかけても、経営陣は方針修正を拒み続けた。途中でのブランド変更は経営の一貫性を損なうとの考えが優先され、販売現場や取締役からの旧ブランド復活の進言は退けられた。その間、消費構造は家庭内消費へ移行し、競合は単一ブランドのまま小売網と設備投資を拡張した。結果として、日本麦酒は数量拡大の初動を失い、シェアは1956年に30%を割り込む水準まで低下した。このため、社内では不満が噴出して「柴田の大誤算」と揶揄されるに至った。

1957年にサッポロ商標を復活させると、北海道では短期間で数量が回復したが、全国展開までには時間を要した。さらに、東京市場で強い資産価値を持っていたヱビスの復活は1971年まで遅れ、その間に競合は供給能力と販路を積み上げていた。結果として、1968年にはシェア25%割れ、1970年代には20%前後で低迷する構造が定着した。

このシェア低迷は、単なる販売不振ではなく、ビール事業で再び成長を取りに行くという組織における活力を削いだ。戦後の混乱期における1949年のブランド刷新は、ビールを「攻める主力」から「維持する事業」へと位置付けを変質させ、シェア低下という結果に帰結した。このため、1980年代以降のサッポロはビールの成長競争から静かに距離を取り、恵比寿工場閉鎖と不動産活用に注力した。これは、本業が低収益に喘ぐ中で、資産活用による企業存続を図る道を選択したことを意味した。

2026-02-03 | by @yusugiura, Software Engineer
洞察
なぜ、不動産への収益依存が維持されるのか

1986年、都市化によって拡張余地を失っていた恵比寿工場について、サッポロは閉鎖と跡地開発を決定した。この判断は、生産効率の改善と土地価値の最大化という点で合理的であり、ビール事業の成長投資よりも資産活用を優先する意思決定であった。跡地は売却ではなく保有を前提とし、オフィス・商業施設から賃貸収入を得る事業設計が採用された。

1994年に恵比寿ガーデンプレイスが開業すると、不動産事業は安定したキャッシュフローを生み、グループ業績の下支えとなった。1990年代後半以降、ビール・飲料・外食といった本業の収益力が低下しても、連結では黒字を維持できる構造が形成された。この安定収益は、短期的な業績変動を吸収する一方で、本業の低収益や赤字を許容する緩衝材として機能し、事業撤退や再編といった抜本的な意思決定を先送りする条件を整えた。

この構造は、2007年にスティール・パートナーズが行った買収提案によって外部から明確に指摘された。スティールは、不動産を大量に保有しながら資本効率が低い点、不採算事業が温存されている点を問題視し、資産の組み替えと事業再編を要求した。しかし経営陣は、防衛策の導入やモルガン・スタンレーとの資本提携といった対応に終始し、資産売却や事業ポートフォリオの再設計には踏み込まなかった。結果として買収は阻止されたが、課題は解消されないまま残った。

その後も同様の構図は繰り返された。2023年には3D Investmentが株主提案を行い、不動産収益によって本業の低収益構造が覆い隠されている点、資本配分とガバナンスの歪みを改めて問題提起した。1994年の不動産成功は、企業の安定性を高めた一方で、「赤字でも即座に手を打たなくてよい」という意思決定を許容する経営体質を固定化した。サッポロの不動産依存は事業選択の結果であると同時に、本業面における低収益という問題を先送りしがちな組織行動を強化する側面を伴った。

2026-02-03 | by @yusugiura, Software Engineer
売上
サッポロビール:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
n/a億円
売上高:2023/12
利益
サッポロビール:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
%
利益率:2023/12
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1906
3月

大日本麦酒を設立

背景|ビール産業の黎明と三極化する市場構造

大日本麦酒の発足を理解するためには、明治期における日本のビール産業の成立と競争構造の形成を確認する必要がある。日本のビール醸造は1876年、政府主導で設立された開拓使麦酒醸造所に始まった。北海道開拓を進めていた明治政府は、西洋技術導入と寒冷地産業育成の一環としてビール醸造に着目し、技術者をドイツに派遣した上で官営生産を開始した。

この醸造所は後に民営化され、大倉財閥の取得を経て1887年に札幌麦酒会社として再編された。札幌麦酒は早い段階から東京での販売を開始し、「サッポロ」の名称は都市部でも認知を獲得した。また、北海道産ホップの栽培成功により、原料面でも優位性を確保し、先発企業としての立場を築いた。

一方、東京では日本麦酒醸造が恵比寿に工場を設け、「ヱビスビール」を展開し、都市消費と結び付いたブランドを形成した。大阪では大阪麦酒が吹田を拠点に「アサヒビール」を展開し、関西市場を押さえた。こうして明治後期には、札幌・東京・大阪を軸とする三社が市場を分け合う構造が成立したが、需要拡大と新規参入により競争は過熱し、収益性と投資負担が課題となっていった。

決断|1906年、三社合同による大日本麦酒の設立

こうした状況を受け、1906年3月、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の三社は合同し、大日本麦酒株式会社を設立した。この決断は規模拡大を目的とするものではなく、競争の激化によって不安定化していた業界構造を再編し、供給と収益の安定を図るための選択であった。

三社はそれぞれ地域とブランドに強みを持っており、合同により全国を網羅する生産・販売体制が構築された。北海道から関東、関西に至る工場配置は物流効率を高め、市場アクセスの改善につながった。これにより、大日本麦酒は数量面・網羅性の両面で国内最大のビール会社として事業を開始することになる。

また合同後も、「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」の主要ブランドは維持され、地域性や消費層に応じて併存させる戦略が採られた。単一ブランドへの統合ではなく、多ブランドを内部で運用することで需要変動を吸収する構造が形成され、事業の安定性が高められた。

帰結|寡占体制の成立と戦後分割への伏線

三社合同によって誕生した大日本麦酒は、戦前期を通じて国内ビール市場で高いシェアを確保することになる。主要三ブランドを傘下に収めた同社は、国内市場の約77%を占め、競合は実質的にキリンビールに限定される構造となった。

この体制は供給の安定や設備投資の効率化をもたらし、1923年の名古屋工場新設など、生産能力の拡張が進められた。一方で、市場集中が進んだ結果、競争の抑制や経済力集中という側面も併せ持つことになった。戦時体制の強化に伴い、ビールは配給対象となり、1943年にはブランド使用が中止されるなど、大日本麦酒は国家統制経済に組み込まれていく。

結果として、大日本麦酒は戦後の経済民主化政策の下で分割対象となる。1906年の合同が市場安定化を目的とした合理的判断であったのに対し、戦後の会社分割は集中是正を目的とした制度的判断であった。この対比は、日本のビール産業が市場原理と政策の間で形成されてきた過程を示しており、大日本麦酒の発足はその後のサッポロビール、アサヒビールの源流として位置付けられる。

概要
サッポロ・アサヒ・ニッポンの3社合併

1906年の三社合同による大日本麦酒の設立は、明治後期の時点で、ビール市場の競争軸が製品差ではなく、設備規模と流通網のカバー率に置かれていたことを示している。全国を面的に押さえる体制の構築によって市場集中が進み、戦前には高シェア企業として確立した。一方で、その集中構造は戦後に問題視され、結果としてアサヒとサッポロへの分割につながった。大日本麦酒の成立は、日本のビール産業が早期から寡占化しやすい性格を持っていたことを表している。

1877年
札幌ビールを東京地区で販売開始
1881年
ホップ栽培に成功(北海道産)
1886年
醸造所の民営化を決定
1887年
札幌麦酒会社を設立(大倉財閥が取得)
1901年
吾妻橋工場を新設(東京都墨田区)
1889年
東京・恵比寿にビール工場を新設
1890年
恵比寿ビール(ヱビスビール)の販売開始
1901年
国鉄恵比寿駅が開業(商標が駅名に採用)
1928年
恵比寿が正式地名に採用(恵比寿1丁目・2丁目)
1923年
名古屋工場を新設
1943年
戦時下でビールが配給制へ。ビール全社でブランド使用を中止
1949
9月

日本麦酒を発足

背景|市場統合によって成立した大日本麦酒

1949年の大日本麦酒の会社分割は、戦後日本の経済政策とビール産業の再設計が交差した結果である。この分割の前提には、1906年の合同以降に形成された大日本麦酒の市場支配構造があった。札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の三社合同によって成立した同社は、主要ブランドと生産設備を一体的に運営し、全国市場をカバーする体制を構築していた。

戦前期において、大日本麦酒はビール市場の約77%を占め、生産、物流、販売の各段階で主導権を握っていた。競合はキリンビールにほぼ限定され、市場構造は二社体制であったが、規模と網羅性の面で大日本麦酒が優位に立っていた。複数ブランドを併存させることで地域差と価格帯を吸収し、需要変動を内部で調整できる仕組みを持っていた点が特徴である。

戦後、この構造は占領政策の下で再評価されることになる。GHQは経済運営において競争環境の整備を重視し、特定企業への市場集中を抑制する方針を採った。大日本麦酒は財閥ではなかったが、国民的消費財であるビール市場における高い集中度を理由に、「過度経済力集中排除法」の適用対象とされた。市場統合による効率性は、政策上は分離の対象と位置付けられたのである。

決断|1949年9月、統合構造の解体

1949年9月1日、大日本麦酒は解散し、「朝日麦酒」と「日本麦酒」の二社が発足した。この分割は自主的な再編ではなく、占領政策に基づく制度的決定であった。企業としては、長年構築してきた統合運営モデルを解体し、個別企業として市場に向き合うことを求められた形である。

分割に際して焦点となったのは、生産拠点、人材、ブランドといった経営資源の配分であった。日本麦酒は目黒、川口、札幌、名古屋の各工場を継承し、東日本および北海道を中心とする体制を整えた。朝日麦酒は吹田、西宮、博多の各工場を引き継ぎ、西日本を軸とした展開を行うことになる。生産能力は両社でほぼ均等に分割され、数量面では大きな差はなかった。

ブランドについて、日本麦酒は「サッポロビール」と「ヱビスビール」を引き継いだ。これらは分割時点で一定の認知を有していたが、戦後の新市場においてどのように活用するかは経営判断に委ねられた。統合体制の下では補完関係にあった資産が、分割後は単独で競争力を発揮する必要が生じた点が、この局面の本質であった。

結果|ブランド判断の遅れと順位の固定化

分割後、日本麦酒は旧大日本麦酒の資産を引き継ぎつつ、競争市場に参入した。しかし同社は、戦前に認知されていた「サッポロ」「ヱビス」の両ブランドを即座には用いず、「ニッポンビール」という新ブランドで販売を開始した。全国共通ブランドを新たに構築するという意図であったが、市場では旧ブランドとの連続性が分断される結果となった。

地域別に見ると、北海道では「サッポロ」、東京では「ヱビス」の記憶が消費者と流通に残っていたが、ニッポンビールはそれらと直接結び付かなかった。販売現場では旧ブランドであることを説明する必要が生じ、認知形成に時間を要した。一方、キリンビールは戦前からの単一ブランドを維持し、家庭向け流通を中心に販売網を拡大した。この差は需要構造の変化とともに拡大した。

結果として、日本麦酒の国内シェアは低下を続け、1956年には27.1%まで落ち込み、業界3位に位置付けられた。1957年に「サッポロビール」の商標を復活させた後も、首位との差は固定化された。1949年の分割は競争環境を生んだが、日本麦酒にとっては、ブランド資産の再接続が遅れたことで、市場順位が定着する契機ともなった。統合によって一体化していた歯車が、分割後は噛み合わなくなった構図である。

概要
分割後のブランド戦略の失敗

1949年の分割で誕生した日本麦酒(後のサッポロ)は、サッポロやヱビスという既存ブランドをすぐに使わず、ニッポンビールで販売を始めた。この判断は、流通や消費者にとって銘柄の意味が分かりにくく、販売現場で説明が必要になるなど、数量拡大を妨げた。生産能力はアサヒビールと大差なかったが、キリンが既存ブランドのまま家庭向け販売を広げる中で出遅れた。結果として、この選択はサッポロにとって明確なブランド戦略の失敗であった。

1949
12月

ニッポンビールの販売開始(柴田社長の大誤算)

背景|分割直後に直面したブランド再設計の課題

1949年12月、日本麦酒は新会社としての最初の商品戦略として、新ブランド「ニッポンビール」の販売を開始した。会社分割によって旧大日本麦酒から独立した日本麦酒は、戦後市場において新たな企業として再出発する必要に迫られていた。その中で、戦前から使用してきた「サッポロビール」および「ヱビスビール」の両ブランドをあえて用いず、新ブランドを立ち上げる判断がなされた。

この判断の背景には、戦後日本における価値観の転換があった。戦前の記憶と距離を取り、新体制にふさわしい全国ブランドを構築するという意図があったと考えられる。また、地域ごとに異なるブランドを統合し、単一ブランドで全国展開することで、販売効率を高める狙いも含まれていた。

しかし、戦前のビール市場では、地域別にブランド認知が形成されていた。北海道・東北では「サッポロビール」、関東では「ヱビスビール」が定着しており、消費者と流通の双方において、これらの名称は商品選択の基準として機能していた。ニッポンビールは、こうした既存の記憶と直接結び付かない名称であったため、市場では位置付けが不明確なまま流通することになった。

決断|ニッポンビール継続と旧ブランド不使用

ニッポンビールの販売開始後、日本麦酒はブランド変更を行わず、同名称の使用を継続した。販売現場では認知不足による説明負担が発生していたが、経営陣は短期的な修正よりも、ブランド定着までの時間を優先する判断を採った。この結果、1950年代半ばまでニッポンビールは主力ブランドとして位置付けられ続けた。

社内では異なる意見も存在していた。取締役であった内多蔵人は、販売実態を踏まえ、「サッポロビール」ブランドの復活を経営トップに進言していた。しかし当時の社長であった柴田清は、途中でブランドを変更することは経営の一貫性を損なうと判断し、旧ブランド復活を拒否した。銀行の改称事例を引き合いに出し、新名称での定着が可能であるとの認識を示していた。

この判断により、日本麦酒はブランド戦略の修正を先送りする形となった。一度設定した方針を維持する姿勢は、組織統治の観点では合理性を持つ一方、市場の反応に即応する柔軟性を欠く結果となった。ブランドは時間と投資によって形成される資産であるが、その前提として既存の認知との接続が必要である点が、この段階では十分に考慮されなかった。

結果|販路構造の変化と市場順位の固定化

ニッポンビールは販売面で苦戦を続け、日本麦酒の国内シェアは一貫して低下した。1956年度にはシェアが27.1%となり、30%を割り込む水準に達した。社内ではこの状況を意思決定の誤りと捉え、「柴田の大誤算」と評されるようになる。ブランド戦略が業績に与える影響が、数値として顕在化した局面であった。

販路政策の差も結果に影響した。日本麦酒は戦前の延長として飲食店向け営業を中心に据えていたが、消費構造は家庭内消費へと移行しつつあった。これに対し、キリンビールは家庭向け市場や小規模飲食店への営業を強化し、流通網を拡大した。家庭で選ばれるブランドが、飲食店での指名にも影響する構造が形成され、キリンは需要の循環を獲得した。

結果として、日本麦酒は市場順位を回復できないまま、業界3位の位置に定着する。1957年以降にサッポロビールの商標を復活させた後も、失われた時間は埋められなかった。ニッポンビール戦略は、新ブランド構築を優先するあまり、既存資産の活用を遅らせた事例として整理できる。この期間に形成された市場構造は、その後のサッポロビールの競争環境を長期にわたって規定することになった。

証言
内多蔵人(サッポロビール・社長)

柴田さんは36年(注:1961年)まで社長をやられた人だが、私らは本当に連日のように旧ブランド復活をお願いしましたね。時にはお宅まで押しかけたり、社の長老たちの力までお借りして説得するんだが、どうしても聞いてもらえない。「途中で社名やブランドを変更するようなみっともないことはできない。そんなにニッポンビールという新しい銘柄が通りにくいと言うが、富士銀行を見たまえ。旧安田銀行にしていないのに、立派に業績を上げているじゃないか。君らのやり方が悪いんだよ」と取り付くしまがない。

1977/4/11 日経ビジネス
概要
社長判断が招いたブランド戦略の迷走

1949年のニッポンビール投入は、市場や流通の実態よりも社長の判断が前面に出た事例であった。サッポロやヱビスという既存ブランドが持つ認知を承知しながら、新ブランド一本化を押し切った結果、販売現場では説明負担が増し、数量拡大の初動を失った。途中修正を拒み続けた姿勢は、結果として「柴田社長の大誤算」と評されるブランド戦略の失敗につながった。

1949年
ニッポンビールの販売開始(サッポロ・エビスは復活せず)
1955年
ブランド変更を検討せず。ニッポンビールの使用を継続
1956年
国内シェア30%を割り込む。シェア3位に低迷
1949
東京証券取引所に株式上場
1957
3月

サッポロビールの商標を復活

背景|ニッポンビール戦略の限界認識

1950年代半ば、日本麦酒は「ニッポンビール」ブランドでの販売に限界を感じ始めていた。戦後に新ブランドとして導入したニッポンビールは、市場に十分浸透せず、地域ごとに形成されていた戦前のブランド認知と結び付かなかった。東京地区では、戦前に下町を中心として「ヱビスビール」が飲用経験として残っており、ニッポンビールはその代替として認識されなかった。その結果、消費者は既知の全国ブランドである「キリン」を指名する傾向を強めていた。

同様の問題は北海道でも顕在化していた。戦前、北海道では「サッポロビール」が広く浸透しており、ブランドは地域アイデンティティと結び付いていた。しかし1950年代を通じて、日本麦酒は北海道においてもニッポンビールで営業を行っていたため、飲食店では旧ブランドとの関係を説明する必要が生じていた。販売現場では「ニッポンビールは旧サッポロである」という補足が常態化し、取引の効率を低下させていた。

社内ではこの状況が共有され、販売実態とブランド戦略の乖離が明確になっていった。特に、地域における既存認知を無視した全国一律ブランドの運用が、流通と消費の両面で摩擦を生んでいる点が問題として認識されるようになった。

決断|サッポロビール商標の段階的復活

こうした背景を受け、日本麦酒は1955年頃、北海道地区に限定して「サッポロビール」ブランドを並行復活させる判断を下した。この決定は、当初から全社方針として整理されたものではなく、有力問屋からの要請や販売現場の実情を踏まえた対応であった。結果として、北海道ではわずか1か月で販売がサッポロビールに切り替わり、ブランド認知と販売数量が即時に回復した。

この結果を受け、日本麦酒はブランド復活の効果を定量的に確認することになる。地域限定での試験導入が機能したことで、ニッポンビール継続方針は修正され、サッポロビールを全国ブランドとして再展開する判断が現実的選択肢となった。1957年3月、日本麦酒は「サッポロビール」の商標を全国で復活させ、正式に販売を開始した。

その後、1964年には社名を日本麦酒からサッポロビールへ変更し、ブランド名と企業名を一致させる施策を採った。これは、ブランドと企業認知の分断を解消し、営業効率と市場認知の改善を図る目的によるものであった。

結果|復活の効果と残存した構造課題

サッポロビールの商標復活により、販売現場での混乱は一定程度解消されたが、市場シェアの回復には至らなかった。復活までに約8年を要したことで、その間に競合は市場基盤を拡大していた。特にキリンビールは、全国への設備投資を進め、供給量を増大させると同時に、単一ブランドによる販売を継続し、家庭向け市場を中心にシェアを拡大していた。

また、東京地区で高い認知を有していた「ヱビスビール」については、復活が見送られたままとなった。経営トップは同ブランドの再投入に否定的であり、結果として東京市場におけるブランド回復は遅れた。ヱビスビールが再び市場に戻るのは1971年であり、サッポロビール復活からさらに長い時間を要した。

この結果、サッポロビールはブランド再構築において、サッポロで約8年、ヱビスで約22年の遅れを取ることになった。商標復活は必要条件ではあったが十分条件ではなく、復活までに形成された市場構造は維持されたままとなった。この期間、キリンは需要と供給の両面で優位を拡大し、サッポロビールの市場順位は固定化されることになる。

概要
サッポロ商標復活は遅れた修正

1957年のサッポロビール商標復活は、ニッポンビール戦略が市場で機能していないことを、ようやく経営が認めた局面であった。北海道での限定復活が即座に数量回復につながった事実は、既存ブランド認知の強さを示している。一方で復活までに時間を要したことで、その間にキリンが家庭向け市場と供給体制を拡大し、差は埋まらなかった。商標復活は遅すぎた修正であり、シェア順位を変えるには至らなかった。

1955年
サッポロビールの商標を北海道地区で復活
1957年
サッポロビールの商標を全国で復活
1957
国際飲料株式会社を設立
1961

大阪工場を新設

関西地区に拠点を新設。競合のアサヒビールに対する牽制

1961
厚木工場を新設(清涼飲料専門工場)
1964
商号をサッポロビール株式会社に変更
1968
12月

ビールの国内シェアで25%を割り込む

サッポロビールの商号復活は、シェアの回復に寄与せず。ビール市場が拡大する中で、設備投資に先行したキリンの優位性を崩せなかった。

この結果、1968年度にサッポロビールのシェアは25%を割り込んだ

1971
仙台工場を新設
1971

ヱビスビールの商標を復活

懸案であった「エビスビール」の商標を復活。復活にあたって、原料ホップを変更して味に変化を加え、価格帯を10円高く設定して高級路線を打ち出した。

証言
内多蔵人(サッポロビール・社長)

私はついに念願のエビスビールの新生は実現できはしましたが、タイミングが悪かったんで、1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせませんでした。考えてみれば、エビスビールのブランドを復活できたのは、24年(注:1949年)から数えても20年以上も経っていますからね。スタートのつまずきを取り戻すには、遅きに失したのかもしれません。戦前の強かったエビスビールのブランドでひと味もふた味も違ったビールを出し、もう一度、戦前の状態に戻して見せると言うのが、私の執念でもあったんですね。

1977/4/11 日経ビジネス
1974
12月

丸勝葡萄酒株式会社を買収

ワイン醸造に参入

1977
12月

ビールの国内シェアで20%前後に低迷

1971年のエビスビール復活を機に「サッポロビール」「ヱビスビール」の2ブランドで攻勢を図るも、キリンビールに対抗できず。辛うじてサッポロビールはシェアの低下を20%前後で食い止めたが、キリンの独走を阻止できなかった。

1980
静岡工場を新設
1984
7月

SAPPORO U.S.A., INC. を設立

ニューヨークに現地法人を設立

1994
10月

恵比寿ガーデンプレイスを開業

背景|都市化によって顕在化した恵比寿工場の制約

日本麦酒醸造(後のサッポロビール)は1889年、現在の目黒区三田にビール醸造場を建設し、1890年に「恵比寿ビール」を発売した。ヱビスビールは都市部を中心に販売を伸ばし、1896年には業界上位の売上を記録するに至った。需要拡大を受けて工場用地は渋谷村方面へ拡張され、恵比寿工場は約100年にわたり生産拠点として機能した。

その後、東京の市街化が進展する中で、恵比寿工場を取り巻く環境は変化した。周辺の住宅化・商業化により工場の拡張余地は限定され、生産効率や物流面での制約が増大した。1980年代に入ると、ビール需要の成熟と設備更新の必要性を背景に、社内では生産拠点の再配置が検討されるようになった。

同時期、東京都では恵比寿地区の再開発構想が具体化し、工場跡地の土地利用について行政・民間の関心が高まっていた。恵比寿工場は立地面で高い資産価値を有しており、生産継続よりも土地活用を通じた価値最大化が、経済合理性の観点から検討対象となっていった。

決断|恵比寿工場閉鎖と不動産事業への参入

1986年、サッポロビールは恵比寿工場の閉鎖と千葉工場への機能移転を決定すると同時に、跡地開発を担う恵比寿開発株式会社を設立した。この判断は、生産効率の改善に加え、保有不動産を事業資産として再構築する戦略転換であった。

跡地開発において、居住区域は分譲する一方、オフィスや商業施設については外部に全面売却せず、自社で保有・管理し賃貸収入を得る方針が採られた。短期的な売却益ではなく、長期的なキャッシュフローの確保を重視した判断であり、サッポロはこの時点で不動産賃貸事業に本格参入したと整理できる。

開発計画は社内人材を中心に策定され、既存事業で培った営業・管理機能を活用する前提で進められた。先代から引き継いだ土地を売却せず、運用によって次世代に引き継ぐという思想が、意思決定の基底にあった。

結果|事業安定化と「資産リッチ企業」への転化

1994年10月、恵比寿工場跡地に複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」が開業した。オフィス、商業施設、住宅、ホテルなどから成る本開発は計画通りに稼働し、居住区域の分譲は順調に進んだ。オフィス・商業部分についてはサッポロ側が保有を継続し、安定的な賃貸収入を生む資産として定着した。

この結果、サッポロはビール事業に依存しない収益源を獲得し、キャッシュフローの安定性を高めた。一方で、収益力の割に貸借対照表上に大規模な不動産資産を抱える構造が形成され、企業価値の内訳は「事業価値」よりも「保有資産価値」の比重が高まっていった。

この資産リッチな構造は、長期的には企業防衛上の課題も内包することになる。2000年代以降、サッポロは保有不動産の含み価値に着目したアクティビスト投資家、とりわけスティール・パートナーズからの株主提案や経営介入を受けることになるが、その遠因は1980年代の恵比寿開発にまで遡ることができる。恵比寿ガーデンプレイスは事業安定化に寄与した一方で、サッポロを「事業会社でありながら資産運用会社的側面を持つ企業」へと変質させ、資本市場からの評価軸を複雑化させる起点ともなった。

証言
高桑義高(サッポロビール・当時社長)

時代の流れの中で恵比寿、札幌工場の移転、跡地開発をする時期にぶつかっただけで、100年の社史の大きな転換点に立っているとか、企業の進路を自分たちで変えていくといった気負いは私にも、社員にもない。先輩から受け継いだ財産を現在考えられる最善の方法で活用し、後輩に引き継ぐだけだ。現在の計画は若手部長クラスを中心に練り上げたが、21世紀の具体策はさらに若い課長クラスが今後作ってくれればいい

1987/10/12 日経新聞朝刊
概要
不動産事業本格化と資産効率悪化の起点

1994年の恵比寿ガーデンプレイス開業は、サッポロにとって不動産事業が副次的収益源から中核事業へ転じた転換点であった。工場閉鎖と跡地活用は合理的判断だったが、売却ではなく保有・賃貸を選んだことで、安定収益と引き換えに資産規模が拡大する構造が固定化した。その結果、利益水準は維持される一方、資産回転は低下し、資産効率が悪化する企業体質の原点がここで形成された。

1986年
恵比寿開発株式会社を設立
1994年
恵比寿ガーデンプレイスを開業
2007年
Steel Partnersが買収提案
2003
持ち株会社に移行。サッポロホールディングスに商号変更
2006
10月

SLEEMAN BREWERIES LTD.を買収

カナダのビール醸造会社「スリーマンビール」の買収を決定。株式100%を306億円で買収した(取得総額)。同社はカナダ3位のビール醸造会社であり、サッポロHDは海外でのビール事業の展開を目論む

2006
焼酎事業を買収
2007
1月

Steel Partnersが買収提案

背景|不動産依存によって進行した資産効率の悪化

2000年代を通じて、サッポロホールディングスの収益構造は、事業ポートフォリオの歪みを内包していた。連結営業利益の過半は不動産事業が占め、酒類事業がこれを補完する一方、飲料事業および外食事業は低収益、もしくは営業赤字の状態が続いていた。連結ベースでは黒字を維持していたものの、利益の源泉は本業の成長ではなく、保有不動産からの賃貸収入に大きく依存していた。

この構造は、恵比寿ガーデンプレイスの開発以降に固定化された。不動産事業は安定したキャッシュフローをもたらしたが、その一方で、資産規模が拡大する中で事業収益の伸びは限定的にとどまり、資本効率は相対的に低下していった。ROEやROICといった指標で見ると、同業他社と比較して見劣りする局面が目立つようになり、資本市場からは「資産を十分に回転させていない企業」として認識される余地が生じていた。

不動産収益は、業績の下振れを吸収する緩衝材として機能したが、その結果、飲料・外食といった不採算事業の抜本的な再編は先送りされてきた。資産を保有し続けることで安定は得られたものの、資産の回転率を高める経営判断は後景に退き、企業価値の向上が資産の積み上げと必ずしも連動しない状態が続いていた。

こうした資産効率の低下は、外部投資家の視点から見ると明確な改善余地を示していた。事業価値よりも貸借対照表の規模が先行し、資産の組み替えや事業再編によって収益性を引き上げる余地がある企業として、サッポロHDは注目されやすい条件を備えることになる。

決断|スティールによる介入と資本効率改善要求

2004年10月、スティール・パートナーズはサッポロHDの株式を5.13%保有していることを大量保有報告書で公表した。当初の保有目的は「純投資」とされていたが、その後も買い増しが進み、2007年1月には保有比率は18.13%に達した。この間、市場ではスティールが同社の資産構造と資本効率に着目しているとの見方が広がっていった。

2007年1月、スティールは保有目的を「重要提案行為等」に変更し、サッポロHDに対して正式に経営改善を要求する姿勢を明確にした。同年、スティールは書面により「貴社株式の有効的取得」を通知し、最大で議決権の66%取得を想定した買収提案を行った。スティールの主張は、単なる支配権取得ではなく、資産と事業の再配置による資本効率の改善に主眼を置いたものであった。

提示された改善策には、不採算が続く飲料事業における外部パートナーとの提携、酒類事業の工場再編による稼働率改善、不動産事業における外部資本の活用などが含まれていた。これらは、資産を保有し続ける前提ではなく、資産の回転と収益性を高めることを目的とした提案であり、サッポロHDの低下した資本効率に対する問題提起として整理できる。

これに対し、サッポロHDの経営陣は敵対的買収の可能性を警戒し、買収防衛策を維持する姿勢を示した。質問状の送付を通じて提案内容の精査を行う一方、明確な賛否を示さず、時間をかけた対応を選択した。また、みずほ証券および日興シティグループ証券を財務アドバイザーとして起用し、防衛体制の強化を進めた。

同時期、サッポロHDはモルガン・スタンレーとの業務資本提携を発表し、恵比寿ガーデンプレイス運営会社の株式15%を約500億円で譲渡する代わりに、モルガン・スタンレーがサッポロHD株式5%を取得する契約を締結した。この取引は、資産の一部を現金化しつつ、安定株主を確保することで、スティールの影響力を抑制する意図を持つ対応であった。

結果|買収阻止と「低資産効率企業」としての評価定着

2008年1月、サッポロHDはスティールの買収提案を特別委員会に諮問し、独立した立場からの検討を開始した。同年2月、特別委員会は、スティールの株式取得が「企業価値を毀損し、株主共同の利益を害するおそれが大きい」との見解を公表し、買収提案に否定的な評価を示した。これにより、スティールの計画は事実上頓挫する。

スティールは取得目標を66%から33%へ引き下げて交渉を継続したが、進展は見られなかった。敵対的取得に踏み切れば訴訟リスクが高まる中、自由裁量での株式取得は困難となり、加えてリーマンショック後の市場環境悪化も重なり、スティールは2010年までにサッポロHD株式を全て売却し、投資先から撤退した。

サッポロHDは買収を阻止したが、この一連の過程を通じて、同社が抱える構造的課題は資本市場に可視化された。不動産を中心とする大型資産を保有しながら、それを十分な収益成長につなげられていない点、すなわち資産効率の低さが、企業評価の中核的論点として定着したのである。

恵比寿ガーデンプレイスは安定収益源であったが、その存在は同時に、事業再編を遅らせ、資本効率の改善を困難にする側面も持っていた。2007年のスティールによる買収提案は結果として失敗に終わったが、資産を「保有すること」と「回転させること」の違いを市場に突き付けた点で、サッポロHDの経営に長期的な問いを残す出来事となった。

サッポロHDとスティールの対応
日時 主体 出来事
2004-10-22 metal 大量保有報告書を提出
2005-12-05 metal サッポロHD社長に書状送付
2007-01-11 metal 保有目的を変更(重要提案行為等)
2007-02-01 metal 定時株主総会で株主提案(買収防衛策廃止)
2007-02-05 metal 株主提案を実施(取締役派遣・資金調達・株式取得)
2007-02-15 metal 友好的買収を書面通知
2007-02-16 サッポロHD 買収防衛策の継続を決定(取締役全員賛成)
2007-03-01 サッポロHD 「必要情報リスト」を交付(1度目の質問状)
2007-03-29 サッポロHD 定時株主総会を開催。Steelの株主提案が否決へ
2007-05-15 metal 質問状の回答を送付(1度目の回答)
2007-05-29 サッポロHD 「追加情報リスト」を交付(2度目の質問状)
2007-09-11 metal リヒテンシュタイン氏がサッポロHDを往訪
2007-09-25 metal 質問状の回答を送付(2度目の回答)
2007-11-08 metal 企業価値向上へのアプローチを提言
2007-11-22 サッポロHD 「確認・追加情報リスト」を交付(3度目の質問状)
2007-12-06 metal 質問状の回答を送付(3度目の回答)
出所:サッポロHD IR(スティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンドとの経緯)
概要
資本効率重視の時代に突かれた構造問題

2000年代半ばは、ROEや資産効率を重視する投資家の存在感が急速に高まった時期であった。2007年のスティールによる買収提案は、サッポロHDが不動産収益に支えられつつ、本業の成長力と資産効率を改善できていない点を正面から突いた出来事である。買収は阻止されたものの、資産を多く抱えながら十分な収益を生めていない企業という評価は、その後も市場に残ることになった。

2007
6月

大阪工場の閉鎖を決定

ビールの製造拠点である大阪工場(1961年稼働・大阪府茨木市岩倉町2-1)について、2008年3月末に閉鎖する方針を決定。閉鎖の理由は「稼働率の低下」と「設備の老朽化」であった。

なお、大阪工場を巡ってはスティールパートナーズが工場閉鎖を提言していたが、サッポロHDは閉鎖の発案は自社にあると主張した。

2007
10月

モルガン・スタンレーと戦略的業務・資本提携を締結

戦略的業務・資本提携について

2007年10月3日にスティールパートナーズへの対抗策として、サッポロHDはモルガンスタンレーと「戦略的業務・資本提携」の締結を実施。業務提携の骨子はサッポロHDによる恵比寿ガーデンプレイスの株式一部売却であり、資本提携の骨子はモルガンスタンレーによるサッポロHDの株式取得であった。

業務提携について

サッポロHDの完全子会社恵比寿ガーデンプレイスについて、株式15%(信託受託権)をモルガンスタンレーが運用する投資ファンドに売却した。売却額は500億円。

表向きの理由は不動産価値の向上だが、実質的にはスティールが狙う「サッポロHDが保有する不動産価値」の希薄化を目論んだと推定される。

資本提携について

モルガンスタンレーがサッポロHDの株式取得を実施。2007年12月時点で1.5%、2008年6月時点で5%の株式保有を明言した。狙いは将来の株式取得を明言することでサッポロHDの株価を高め、スティールによる買収負担を増大させることであったと推定される。このため、スティールパートナーへの対抗策とみなされた。

株式取得の中止

ただし、モルガンスタンレーによる株式取得は進まず、2009年7月時点で1.8%に留まった。そして、2009年7月に株式取得の中止を公表した。その理由は、スティールによる買収撤回が2009年2月に公表されたためであり、モルガン・スタンレーによる株式取得の狙いが薄れたことによる。

証言
Bloomberg(2007/11/22)

独立系M&A(合併・買収)助言会社GCAホールディングスの福谷尚久パート ナーは「サッポロHがモルガンSと組んだのはスティールを退けるのが趣旨であり、 スティールの買収提案を受け入れないことはほぼ間違いない」と予想した。

2008
3月

サッポロ飲料の経営改革に着手

鈴木英世氏が子会社サッポロ飲料の社長に就任。不採算事業の撤退で黒字化

2010
ベトナム現地法人の株式取得
2010
スティールパートナーズがサッポロHDの全株式を売却
2011
3月

ポッカコーポレーションを買収

買収

ポッカコーポレーションを348億円で買収

ポッカコーポレーションの買収

サッポロHDは飲料事業を強化するために、ポッカコーポレーションの買収を決定。同社の株式98.59%を348億円で取得した。ポッカコーポレーションは投資ファンド(アドバンテッジ)による再生途上にあり、サッポロHDはアドバンテッジから株式を取得した。

買収直前のポッカコーポレーションの業績は売上高223億円・当期純損失8.1億円であり赤字経営であった。買収後の期末時点(FY2011)におけるポッカグループの従業員数は2503名であった。

無形固定資産の計上

サッポロHDによるポッカの取得原価は348億円で「のれん」として184億円を計上した。なお、2022年12月期に至るまでポッカの買収によって生じた無形固定資産(のれん・その他)について、減損は認められない。

PMI。サッポロHDの飲料事業と統合

サッポロHDはポッカコーポレーションの買収を機に、サッポロHDが抱えていた飲料事業と統合して子会社「サッポロフード&ビバレッジ株式会社」を発足した。また、自販機の販路を整備するため、オペレーター5社の統合によって「株式会社PSビバレッジ」が発足した。

トーラクから豆乳飲料の営業権を取得

2015年10月にサッポロHDは、健康飲料を強化するために、トーラクから豆乳飲料(豆乳ヨーグルトなど)の営業権を取得した。買収直前におけるトーラクの該当事業の売上高は約22億円であった。

トーラクの親会社は不二製油であり、同社の事業整理の一環として売却が決定された。

投資

食品・飲料事業への設備投資を継続(年間70億円)

年間70億円前後の投資を継続

サッポロHDは2011年以降、約10年間にわたり年間約70億円の設備投資を継続した。酒類事業を上回る年度もあり、飲料事業に対しては設備投資を実施した。

主な投資の内容は、旧ポッカコーポレーションの老朽化しつつあった工場の設備刷新(新工場の新設)であった。2012年の名古屋工場における第3工場の新設を皮切りに、群馬工場(2015年・2017年)および仙台工場(2017年)に対しても生産設備の増強を実施した。

また、海外展開として、2013年にマレーシア、2015年にインドネシアにそれぞれ飲料工場を新設した。

不採算拠点の閉鎖

2016年に旧ポッカの豊田工場(愛知県豊田市)を閉鎖し、生産を名古屋工場に移管した。サッポロHDとしては、飲料の生産拠点の再編を行うことで、生産性の向上を目論んだと推定される。

飲料事業への投下資本

これらの設備投資の結果、毎年70億円前後の設備投資を実施するに至り、2012年から2019年までの8年間で累計586億円の設備投資を実施した。これに加えて、ポッカコーポレーションの買収価格348億円を考慮すると、2012年度から2019年度にかけて、サッポロHDは食品・飲料事業に934億円を投資した。

結果

低収益から抜け出せず。設備の減損計上へ

売上の低迷

飲料事業への積極投資にも関わらず、2010年代を通じてサッポロHDの食品・飲料事業の売上高は低迷。2020年度から2022年度にかけて、3期連続の減収となった。

理由としては、商品面ではヒット商品を生み出せなかったこと(トーラクから取得した豆乳ヨーグルトを含めた不振)、市場面では自販機設置台数の飽和、競合面では飲料業界における激しい競争による。

収益性の低迷

2010年代を通じてサッポロHDの食品・飲料事業は収益性が低迷した。積極的な設備投資によって減価償却の負担が重い構造や、そもそも飲料業界の競争が激しく利益を生み出しにくいこと(=値上げの困難)がボトルネックとなった。

設備関連で減損損失110億円を計上

2020年12月期にサッポロHDは食品・飲料事業関連で110億円の減損損失を計上した。主な内訳は群馬工場及び名古屋工場における土地・建物・設備の減損であり、2010年代の積極投資の回収を困難と判断した。

のれん減損は無し

2020年12月期の時点でサッポロHDはポッカコーポレーションの買収によって生じた「のれん」について減損損失の計上を見送った。また、2011年の買収から2022年度に至るまで、ポッカの買収により生じた「のれん」および「無形資産」の大規模な減損損失の計上は確認されていない。このため、ポッカコーポレーションの買収そのものは、会計帳簿上では失敗と判定されていない。

とはいえ、飲料事業の業績が低迷する状況下において、ポッカコーポレーションの減損リスク(のれん・無形資産)は高まっていると推定される。

2012
3月

恵比寿ガーデンプレイスを再取得

サッポロHDは子会社「恵比寿ガーデンプレイス」の株式について15%(信託受託権)の買い戻しを決定。2012年3月にサッポロHDが405億円で再取得を実施した。この取得によりサッポロHDによる恵比寿ガーデンプレイスの株式保有比率は100%となり、完全子会社化した。

2007年10月にスティールへの買収対策も兼ねてモルガン・スタンレーに売却したが、不動産価値の向上が完了したことからモルスタ側が売却の意向を表明したため、サッポロHDは取得を決定した。これを受けて、サッポロHDとモルガンスタンレーの業務上の繋がりが希薄となったため、2012年3月にサッポロHDはモルガン・スタンレーとの「戦略的業務・資本提携」を解消した。

財務面においては、サッポロHDは社債100億円(償還期限3年・年利0.64%)および、みずほ銀行からの借入210億円(2019年3月に一括返済)を実施した。

2014
8月

恵比寿ファーストスクエアを竣工

サッポロ不動産開発は、保有する東京都渋谷区恵比寿一丁目のビル(土地は明治時代に取得し、社宅として活用。その後、高度経済成長期にビルを建設)について建て替えを決定。2014年にオフィスビル「恵比寿ファーストスクエア」として竣工した。

2020
12月

最終赤字に転落。ポッカ設備で110億円の減損

最終赤字に転落。酒類・飲料の不振

2020年12月期にサッポロHDは最終赤字(当期純損失160億円)に転落。1998年12月期の赤字以来、約22年ぶりとなる最終赤字に転落した。主な要因は飲料事業の赤字転落と、新型コロナウイルスによる酒類事業の赤字転落であり、これらの赤字を不動産事業の黒字でカバーできなかったことによる。

飲料事業(ポッカ)で設備の減損へ

2020年12月期に食品飲料事業で減損損失110億円を計上。対象は「日本アジア食品飲料」の領域であり、子会社「ポッカサッポロフード&ビバレッジ株式会社」であった。なお「のれん」の減損ではなく「建物・機械装置」など、旧ポッカコーポレーションの生産設備関連の減損が中心であった。主な減損対象は旧ポッカの「名古屋工場・群馬工場」と推定される。

依然として「のれん」の減損には至っていないものの、実質的に2011年の買収は厳しい状況にある。

概要
ポッカ買収と飲料事業拡大の誤算

2011年のポッカ買収は、飲料事業を第二の柱に育てる狙いだったが、その後の展開は想定通りには進まなかった。設備投資と拠点再編を重ねたものの、競争の激しい飲料市場では売上・利益ともに伸び悩み、2020年には設備減損を計上するに至った。巨額投資に見合う収益力を確立できなかった点が課題となった。

2021
12月

不動産売却により売却益232億円を計上

子会社の「サッポロ不動産開発」が保有する土地の一部売却を実施。対象は東京恵比寿の「恵比寿ファーストスクエア(2014年竣工)」。売却先は三井不動産系の投資ファンド「三井不動産デジタル・アセットマネジメント」。サッポロHDは固定資産売却益として232億円を計上

2022
8月

STONE BREWING CO.,LLCを買収

米国のビール醸造会社STONE BREWINGの株式100%を約226億円で買収。海外のビール事業において、2006年のSLEEMAN BREWEIES社(カナダ)の買収以来、2度目の大規模な買収へ

2023
10月

3D InvestmentがサッポロHDに株主提案

背景|不動産収益が本業の低収益と資本効率問題を覆う構造

2020年代に入って以降、サッポロホールディングスの収益構造は、2000年代のSteel Partnersによる買収提案時と類似した様相を示していた。すなわち、グループ全体の利益水準は一定程度維持されているものの、その内実を見ると、不動産事業が安定的なキャッシュフローを生み出す一方で、ビール・飲料といった中核事業の収益性が相対的に低迷する構造である。

恵比寿ガーデンプレイスを中核とする不動産事業は、賃貸収入を通じて安定した利益を計上し、グループ全体の業績を下支えしてきた。その結果、連結ベースでは赤字回避や一定の利益確保が可能となり、本業の収益性や投下資本効率の低さが表面化しにくい状態が続いた。これは、2000年代に不動産収益が酒類・外食・飲料の不振を補填していた構図と重なる。

しかし、投資家の視点からは、事業別の資本効率や成長性が重視される。ROICや営業利益率の観点で見ると、不動産が高い効率で利益を生む一方、ビール・飲料事業は多額の設備投資とマーケティングコストを要しながら、相応のリターンを生み出せていないとの評価が生じやすい。結果として、グループ全体としての資産効率の低さが問題視される素地が形成されていた。

株主提案|3D Investmentによる問題提起

2023年10月、アクティビストファンドである3D Investmentは、サッポロHDに対して株主提案を行った。3Dの問題意識は、単なる短期的な業績改善要求ではなく、資本配分とガバナンスの歪みにあった。すなわち、不動産収益によって本業の低収益構造が看過され、経営課題の是正が先送りされている点である。

3Dは、不動産事業の存在そのものを否定したわけではない。むしろ、不動産が高い価値を有するがゆえに、その資産をどのように保有・活用し、得られたキャッシュをどこに再配分するのかという資本政策こそが企業価値を左右すると指摘した。これは、Steelが2007年に指摘した「不動産に依存した利益構造」と本質的に同じ論点である。

加えて、3Dはガバナンス面にも踏み込み、不動産切り離しや資本配分といった不可逆的な意思決定を監督する体制の専門性・独立性に疑義を呈した。これは、2000年代において買収防衛策の下で経営陣が曖昧な態度を取り続け、結果として議論が長期化した経緯を想起させる。市場との対話が不十分なままでは、企業価値評価にディスカウントが生じるとの問題提起であった。

帰結|再び問われる資本効率と経営の説明責任

3D Investmentの株主提案を受け、サッポロHDは経営改善の検討に着手した。表面的には、2007年のSteel提案時のような敵対的な買収局面とは異なるが、構造的な問題は共通している。不動産という高収益・低リスク資産が存在することで、本業の収益改善や事業ポートフォリオ再構築の緊急性が低下し、結果としてグループ全体の資産効率が最適化されない状態である。

この構造は、短期的には安定をもたらすが、中長期的には企業価値の伸びを制約する。市場は、単なる利益水準ではなく、どの事業がどれだけの資本を使い、どれだけのリターンを生んでいるかを評価する。資産効率の改善に向けた明確な方針が示されなければ、不動産価値を含めた企業価値全体が割引かれる可能性がある。

2007年のSteel提案が示したのは、「資産を持っていること」自体ではなく、「資産をどう使うか」が問われる時代の到来であった。2023年の3D提案もまた、同じ問いを突きつけている。不動産収益に依存する構造から脱し、資本配分とガバナンスを通じて資産効率を高められるかどうか。その成否が、サッポロHDの次の評価局面を決定づけることになる。

概要
再び問われた不動産依存と資本効率

2023年の3D Investmentによる株主提案は、2007年のSteel Partnersと同じ構図が再現された出来事であった。不動産収益が安定的に利益を生む一方で、ビール・飲料といった本業の低収益と資本効率の低さが覆い隠されてきた点が改めて問われた。業績は一定水準を保っているにもかかわらず、資本の使い方が改善されない状況は過去と変わらない。安定収益が改革の先送りを可能にしてきた構造そのものが、再び株主から問題視された局面である。

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