1906年〜 大日本麦酒の設立と戦後分割、ニッポンビール失策によるシェア3位の固定化
- 1906年大日本麦酒を設立
- 1949年日本麦酒を発足
- 1949年東京証券取引所に株式上場
- 1949年ニッポンビールの販売開始(柴田社長の大誤算)
- 1957年国際飲料株式会社を設立
- 1957年サッポロビールの商標を復活
- 1964年商号をサッポロビール株式会社に変更
サッポロビールの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
77%寡占の到達点がGHQ解体の標的となる帰結
1906年3月、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社が合同して資本金560万円の大日本麦酒株式会社が成立し、初代社長には日本麦酒の馬越恭平氏が就いた。源流は1876年に明治政府の北海道開拓使が札幌に開いた麦酒醸造所にあり、1886年の開拓使廃止後も村橋久成氏・中川清兵衛氏・大倉喜八郎氏・渋沢栄一氏ら創業世代の人脈で札幌麦酒として事業を継いできた経緯を持つ。合同の背景には大小幾多のビール会社の競争激化があり、その打開策として三社が結集した再編であった。当事者の馬越恭平氏(日本麦酒)・渋沢栄一氏(札幌麦酒)・大倉喜八郎氏(同)に加えて農商務大臣の清浦奎吾氏が斡旋に努め、互譲と大局的見地から合意をまとめた。合同により国内ビール市場の約77%を占める巨大企業が生まれ、サッポロ・ヱビス・アサヒという国内主要ブランドを単一企業が同時に掌握する寡占体制が、近代日本ビール産業史で例を見ない形で成立した。 [1][2][3][4]
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [1]1906年3月に札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社合同で大日本麦酒株式会社が成立した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [2]1906年成立時の大日本麦酒の資本金は560万円だった
- [3]大日本麦酒の初代社長は日本麦酒出身の馬越恭平だった
- [4]三社合同は競争激化の打開策で清浦奎吾(農商務大臣)が当事者の馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎の斡旋に努めた
競合をキリンビールのみに限った産業構造が戦前期を通じて維持され、三社合同によって生産・販売・物流の統合体制が全国規模で稼働した。ヱビスビールは高級品として東京の都市部富裕層向けに、サッポロビールは北海道を地盤とする地域ブランドとして、アサヒビールは大阪中心の西日本市場向けに、商標別の市場セグメンテーションが単一企業の内部で完結する形で棲み分けが進んだ。配給統制が始まる太平洋戦争前夜まで大日本麦酒は戦前日本のビール産業を代表する存在として高い収益性を保ち続け、戦時下の苦境を経ても蓄積された利益剰余金とブランド資産が、戦後再編期の経営資源として役割を果たした。
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [1]1906年3月に札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社合同で大日本麦酒株式会社が成立した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [2]1906年成立時の大日本麦酒の資本金は560万円だった
- [3]大日本麦酒の初代社長は日本麦酒出身の馬越恭平だった
- [4]三社合同は競争激化の打開策で清浦奎吾(農商務大臣)が当事者の馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎の斡旋に努めた
ブランド封印8年が半世紀の3位を決めた転換
1949年9月、大日本麦酒は過度経済力集中排除法および企業再建整備法の適用を受け、朝日麦酒と日本麦酒の二社へ分割された。分割対象の300社は全企業の影響力の75%を占めるとGHQが通告した集中排除措置の一環であり、ビール業界でも分割前に75%を握った戦前の寡占体制が解体された(読売新聞 1948/1/31)。日本麦酒は初代社長に柴田清氏を迎えて資本金1億円で発足し、エビス・サッポロの商標と札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場を旧会社から承継して、東日本・北海道を地盤に再出発した。しかし柴田清社長は全国統一ブランドの理念で戦前ブランドを前面に出さず、新ブランド「ニッポンビール」を主力に据えた。取締役の内多蔵人氏はサッポロ・ヱビスの即時復活を繰り返し進言したと後に記録されているが、柴田社長は「銀行の改称を見よ」という論法でこれを拒み続け、戦前の主力ブランドは8年にわたって市場から封印された。 [5][6][7][8][9][10][11][12][13]
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [5]1949年9月に大日本麦酒は過度経済力集中排除法および企業再建整備法の適用で朝日麦酒と日本麦酒の二社へ分割された
- [10]分割後の日本麦酒の社長に柴田清が就いた
- [11]柴田社長は戦前ブランドを使わず新ブランド「ニッポンビール」を投入した
- [13]戦前の主力ブランドは8年(1949〜1957)にわたって市場から封印された
- 読売新聞 1948年1月31日
- [6]集中排除措置の分割対象300社は全企業の影響力の75%を占めるとGHQが通告した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [7]分割前の大日本麦酒の業界シェアは75%だった(『企業の歴史:明治百年』の記載とも一致)
- [8]日本麦酒は初代社長に柴田清を迎え資本金1億円で発足した
- [9]日本麦酒はエビス・サッポロ商標と札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場を旧会社から承継した
- 日経ビジネス 1977年4月11日号
- [12]内多蔵人は当時の取締役だった
消費者の記憶と結びつかない「ニッポンビール」は広告投資を重ねても指名買いを得られず、その間にキリンが家庭用市場でシェアを伸ばした。日本麦酒の国内シェアは1956年に27.1%まで低下し、1949年の分割時点でほぼ拮抗していたキリンとの市場関係が逆転し、業界3位の位置が確定した。1957年にサッポロビール商標を復活させた頃には社内でも「当社はビール3者の中ではいく分立ち遅れていることは否定できない」(読売新聞 1957/6/10)と認めており、8年間の空白で失われた市場ポジションは取り戻せず、以後半世紀以上にわたるシェア3位の構造が決定づけられた。この判断は社内外で「柴田の大誤算」と呼ばれ、ブランド戦略の失敗事例として長く語り継がれている。劣勢を残したまま1961年9月に柴田清社長が死去し、副社長の松山茂助氏が社長に昇任、1964年1月に社名を「サッポロビール株式会社」へ改める新体制に移った。 [14][15][16]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [14]1961年9月に柴田清社長が死去し副社長の松山茂助が社長に昇任した
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [15]1964年1月に日本麦酒は社名をサッポロビール株式会社へ変更した
- [16]1957年にサッポロビール商標を復活させた
- サッポロビール 有価証券報告書【沿革】
- [5]1949年9月に大日本麦酒は過度経済力集中排除法および企業再建整備法の適用で朝日麦酒と日本麦酒の二社へ分割された
- [10]分割後の日本麦酒の社長に柴田清が就いた
- [11]柴田社長は戦前ブランドを使わず新ブランド「ニッポンビール」を投入した
- [13]戦前の主力ブランドは8年(1949〜1957)にわたって市場から封印された
- [15]1964年1月に日本麦酒は社名をサッポロビール株式会社へ変更した
- [16]1957年にサッポロビール商標を復活させた
- 読売新聞 1948年1月31日
- [6]集中排除措置の分割対象300社は全企業の影響力の75%を占めるとGHQが通告した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968)
- [7]分割前の大日本麦酒の業界シェアは75%だった(『企業の歴史:明治百年』の記載とも一致)
- [8]日本麦酒は初代社長に柴田清を迎え資本金1億円で発足した
- [9]日本麦酒はエビス・サッポロ商標と札幌・川口・目黒・名古屋・門司の五工場を旧会社から承継した
- [14]1961年9月に柴田清社長が死去し副社長の松山茂助が社長に昇任した
- 日経ビジネス 1977年4月11日号
- [12]内多蔵人は当時の取締役だった