計画策定の背景
サッポロは戦後の国内ビール市場において、キリンと並ぶ主要プレイヤーとして全国的なブランドと生産基盤を築いてきた。しかし1960年代末から1970年代にかけてのブランド再編と市場シェア低下を起点に、ビール事業単体での成長余地は次第に制約を受けるようになった。その後、不動産事業や食品飲料事業を含む多角化によって収益の安定化を図り、恵比寿ガーデンプレイスをはじめとする不動産資産は、長期にわたりグループのキャッシュフローを下支えしてきた。一方で、この構造は酒類事業への経営資源集中を難しくし、事業ポートフォリオの分散という課題も内包することになった。
2000年代以降、国内ビール市場の成熟、酒税改正による需要構造の変化、海外酒類事業の収益性低下が重なり、グループ全体としての収益性は低位にとどまった。こうした状況を受け、サッポログループは社外有識者を交えた戦略検討を通じて、低収益体質、分散した事業構造、酒類事業の中核としての位置づけの曖昧さを主要課題として整理した。その結果、酒類事業を軸とした成長戦略への再集中と、資本効率改善を明確に打ち出す必要性が共有され、本中長期成長戦略が策定された。
経営の基本方針
本中長期成長戦略では、国内外の酒類事業をグループの中核と再定義し、黒ラベルおよびヱビスといった主力ブランドへの集中投資を通じて、価格競争に依存しない収益構造の確立を目指している。従来の数量拡大や市場シェア重視の発想から転換し、顧客体験やブランド価値を起点とした付加価値創出によって、収益性そのものを引き上げることを基本方針としている。また、国内市場の成熟を前提に、海外酒類やノンアルコール、RTDといった成長領域については、内製に限定せず、提携やM&Aを含む柔軟な成長手段を選択肢として位置づけている。
同時に、本戦略における不動産事業の位置づけは、これまでの延長線上にはない。過去においては、不動産事業は酒類事業の収益変動を吸収する安定収益源として保有されてきたが、本中長期成長戦略では、企業価値最大化の観点から資本効率を優先し、外部資本の導入を通じてその役割を再定義する方針を明確にした。これは、不動産をグループ内に抱え続ける前提を置かず、創出される資金を酒類事業の成長投資へ再配分するという非連続な資本配分の転換を意味している。酒類事業を中核とする戦略を2030年までに本当にやり切るため、従来は暗黙に維持されてきた事業構造そのものに踏み込むことを、本戦略の基本方針としている。
Author’s Insights
これまでの多角化戦略は、なぜ企業価値の改善として十分に結実しなかったのか。
不動産事業は長期にわたりキャッシュフローを支えてきた一方で、酒類事業の低収益構造を補完する役割にとどまり、グループ全体としての資本効率改善には結びつきにくかった。今回の中長期成長戦略で掲げられている資本配分の見直しは、過去の多角化戦略と比較して、どこが本質的に異なる判断なのか。
今回の中長期成長戦略は、本当に酒類事業への集中をやり切る設計になっているのか。
過去にも酒類事業回帰は繰り返し語られてきたが、実際には不動産や他事業との併存構造が維持されてきた経緯がある。今回、主力ブランドへの投資拡大と不動産事業の位置づけ見直しを掲げる中で、2030年まで方針が後退しない仕組みがどこまで組み込まれているのか。
もし酒類事業の収益改善が想定通り進まなかった場合、これまでと違う選択を取れるのか。
これまでであれば、不動産事業などによる下支えを前提に酒類事業の立て直しが続けられてきた。今回の中長期成長戦略では、どの水準の収益性やROEを下回った場合に、投資配分や事業構造の再設計に踏み込む判断がなされるのか。
1949年、終戦による企業分割で発足した日本麦酒は、戦前から高い認知を持っていた「サッポロ」「ヱビス」を用いず、新ブランド「ニッポンビール」で市場に参入した。この判断を主導したのは柴田清氏(当時社長)であり、戦後の新体制にふさわしい全国統一ブランドを構築する意図があった。しかし、流通と消費者は過去の記憶を基準に購買しており、売場では銘柄の説明が必要となり、指名買いを獲得できなかった。
1950年代前半にかけても、経営陣は方針修正を拒み続けた。途中でのブランド変更は経営の一貫性を損なうとの考えが優先され、販売現場や取締役からの旧ブランド復活の進言は退けられた。その間、消費構造は家庭内消費へ移行し、競合は単一ブランドのまま小売網と設備投資を拡張した。結果として、日本麦酒は数量拡大の初動を失い、シェアは1956年に30%を割り込む水準まで低下した。このため、社内では不満が噴出して「柴田の大誤算」と揶揄されるに至った。
1957年にサッポロ商標を復活させると、北海道では短期間で数量が回復したが、全国展開までには時間を要した。さらに、東京市場で強い資産価値を持っていたヱビスの復活は1971年まで遅れ、その間に競合は供給能力と販路を積み上げていた。結果として、1968年にはシェア25%割れ、1970年代には20%前後で低迷する構造が定着した。
このシェア低迷は、単なる販売不振ではなく、ビール事業で再び成長を取りに行くという組織における活力を削いだ。戦後の混乱期における1949年のブランド刷新は、ビールを「攻める主力」から「維持する事業」へと位置付けを変質させ、シェア低下という結果に帰結した。このため、1980年代以降のサッポロはビールの成長競争から静かに距離を取り、恵比寿工場閉鎖と不動産活用に注力した。これは、本業が低収益に喘ぐ中で、資産活用による企業存続を図る道を選択したことを意味した。