明治時代を通じて北海道開拓のための「開拓使」において、様々な事業化を企画。この一つとしてビール醸造が立案されて技術者をドイツに派遣した。そして北海道でのビール生産が可能と判断し、開拓使麦酒醸造所を設置した。
その後、官営の払い下げによって大蔵財閥が醸造所を継承し、1887年に札幌麦酒会社が発足した。
これらの経緯から、開拓使醸造所を源流とする札幌麦酒は、日本国内のビール業界において先発企業となった。1877年には札幌ビールのブランドで東京地区における販売を開始しており、「サッポロ」の知名度の確保に至った。
明治時代の日本国内ではビール醸造がブームとなり、東京地区では日本麦酒醸造が設立された。そして、東京の恵比寿に醸造所を新設して「ヱビスビール」の販売を開始した。
この結果、戦前の東京地区を中心に「ヱビスビール」のブランドが浸透した。
明治時代を通じて日本国内にビール会社が乱立したことで競争が激化。このため、主力企業であった札幌麦酒(サッポロビール)・日本麦酒(ヱビスビール)・大阪麦酒(アサヒビール)の3社合併が決定し、大日本麦酒が発足した。
戦前の日本国内では大日本麦酒が3大ブランド(サッポロ・ヱビス・アサヒ)を展開することでビール市場において77%のシェアを確保した。
大日本麦酒は戦前の日本国内において、ビールのシェア77%を握る寡占企業であった。このため、ビール業界は大日本麦酒が圧倒的なシェアを持ち、キリンが追随するという構図であった。
ところが、あまりに高いシェアを確保した大日本麦酒は「過度経済力集中排除法」の適用を受けて、会社を分離解体することになった。これは戦後のGHQの政策の一環であり、財閥に相当する企業の弱体化を狙った施策であった。
このため、1949年9月1日をもって大日本麦酒は解散し「朝日麦酒(アサヒビール)」と「日本麦酒(サッポロビール)」の2社に分割される方針が決まった。ただし、2社の分割にあたって工場や社員をどう振り分けるかで「揉めた」と言われている。
1949年9月に日本麦酒(以下、サッポロビール)を設立。旧大日本麦酒の資産を継承し、生産拠点は「目黒工場・川口工場・札幌工場・名古屋工場」の4拠点、ブランドは「ヱビスビール」と「サッポロビール」の2つを継承した。なお、アサヒビールは「吹田工場・西宮工場・博多工場」を継承しており、サッポロビールは「東日本中心」の工場立地に対して、アサヒビールは「関西中心」の工場立地となった。
継承時点のビール生産能力はサッポロビールが9万キロリットルに対して、アサヒビールは9.2万キロリットルであり、生産量の面では台頭となった。
サッポロビール(日本麦酒・柴田社長)は日本麦酒の発足を受けて、新しいブランド「ニッポンビール」を展開することを決めた。そこで、大日本麦酒から継承した「サッポロビール」と「ヱビスビール」のブランド利用を見送った。
ところが、ニッポンビールというブランド名が販売店や消費者に進展しておらず混乱を招いた。戦前には北海道・東北では「サッポロビール」、関東では「ヱビスビール」のブランドが浸透していたが、ニッポンビールは未知であった。
この結果、競合のキリンビールは戦前からの全国区ブランド「キリン」を展開してシェアを徐々に拡大するに至った。
ニッポンビールのブランドは浸透せず飲食店向けの営業に苦戦した。このため取締役だった内多蔵人氏(のちの社長)は「サッポロビール」の復活を、柴田清(当時社長)に進言するが、柴田社長は「ニッポンビール」のブランドの取り下げを「みっともない」「旧安田銀行は富士銀行に改称してうまくやっている」ことを理由にブランド復活を拒絶した。
柴田さんは36年(注:1961年)まで社長をやられた人だが、私らは本当に連日のように旧ブランド復活をお願いしましたね。時にはお宅まで押しかけたり、社の長老たちの力までお借りして説得するんだが、どうしても聞いてもらえない。「途中で社名やブランドを変更するようなみっともないことはできない。そんなにニッポンビールという新しい銘柄が通りにくいと言うが、富士銀行を見たまえ。旧安田銀行にしていないのに、立派に業績を上げているじゃないか。君らのやり方が悪いんだよ」と取り付くしまがない。
サッポロビールは1949年の会社発足から一貫してシェアを低下させた。1956年度にはシェア27.1%に低迷し、30%を割り込む事態となった。
このため、サッポロビールの社内では意思決定した社長をもじって「柴田の大誤算」という批判が沸き起こったという『純生の挑戦』(二宮・1968)。
サッポロビールは主に飲食店向けにビールの売り込みを行っていた。これは、戦前のビールは嗜好品であったため、業務用として利用されるのが一般的であったためである。
これに対して、キリンは家庭向けや、小規模な一杯飲み屋の販路に対する営業を積極化させた。これらの販路はサッポロビールやアサヒビールの営業が手薄なこともあり、徐々にキリンが家庭向け販路を獲得。この結果、家庭でキリンを飲むユーザーが拡大し、家庭での浸透に合わせて飲食店向けでも「キリン」が好まれるようになっていった。
関西地区に拠点を新設。競合のアサヒビールに対する牽制
サッポロビールの商号復活は、シェアの回復に寄与せず。ビール市場が拡大する中で、設備投資に先行したキリンの優位性を崩せなかった。
この結果、1968年度にサッポロビールのシェアは25%を割り込んだ
懸案であった「エビスビール」の商標を復活。復活にあたって、原料ホップを変更して味に変化を加え、価格帯を10円高く設定して高級路線を打ち出した。
私はついに念願のエビスビールの新生は実現できはしましたが、タイミングが悪かったんで、1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせませんでした。考えてみれば、エビスビールのブランドを復活できたのは、24年(注:1949年)から数えても20年以上も経っていますからね。スタートのつまずきを取り戻すには、遅きに失したのかもしれません。戦前の強かったエビスビールのブランドでひと味もふた味も違ったビールを出し、もう一度、戦前の状態に戻して見せると言うのが、私の執念でもあったんですね。
1971年のエビスビール復活を機に「サッポロビール」「ヱビスビール」の2ブランドで攻勢を図るも、キリンビールに対抗できず。辛うじてサッポロビールはシェアの低下を20%前後で食い止めたが、キリンの独走を阻止できなかった。
ニューヨークに現地法人を設立
恵比寿工場の閉鎖を決定し、跡地を不動産開発することを決定。このうち居住区域は売却を実施する一方、オフィス・商業施設については大手不動産会社に売却ないし委託するのではなく、サッポロHDが自社で管理して賃貸収入を確保する計画を策定した。すなわち、サッポロHDは不動産賃貸業に本格参入することを意味した。
時代の流れの中で恵比寿、札幌工場の移転、跡地開発をする時期にぶつかっただけで、100年の社史の大きな転換点に立っているとか、企業の進路を自分たちで変えていくといった気負いは私にも、社員にもない。先輩から受け継いだ財産を現在考えられる最善の方法で活用し、後輩に引き継ぐだけだ。現在の計画は若手部長クラスを中心に練り上げたが、21世紀の具体策はさらに若い課長クラスが今後作ってくれればいい
サッポロビールは恵比寿ガーデンプレイスを竣工。サッポロビールは開業2年前からテナント獲得のために営業活動を開始し、ビール営業の経験者が誘致に奔走した。
居住区域のマンションについては一般販売が順調に推移した。その様子については「倍率29.1」「億ション即日完売」「申込者の60%は会社経営者や会社役員など。年収2000万円以上、年齢は60歳代が中心」「港、目黒、渋谷、世田谷の周辺各区に居住している人が過半を占めている」(1994/06/07日経産業新聞)として注目を浴びた。
カナダのビール醸造会社「スリーマンビール」の買収を決定。株式100%を306億円で買収した(取得総額)。同社はカナダ3位のビール醸造会社であり、サッポロHDは海外でのビール事業の展開を目論む
ビールの製造拠点である大阪工場(1961年稼働・大阪府茨木市岩倉町2-1)について、2008年3月末に閉鎖する方針を決定。閉鎖の理由は「稼働率の低下」と「設備の老朽化」であった。
なお、大阪工場を巡ってはスティールパートナーズが工場閉鎖を提言していたが、サッポロHDは閉鎖の発案は自社にあると主張した。
2007年10月3日にスティールパートナーズへの対抗策として、サッポロHDはモルガンスタンレーと「戦略的業務・資本提携」の締結を実施。業務提携の骨子はサッポロHDによる恵比寿ガーデンプレイスの株式一部売却であり、資本提携の骨子はモルガンスタンレーによるサッポロHDの株式取得であった。
サッポロHDの完全子会社恵比寿ガーデンプレイスについて、株式15%(信託受託権)をモルガンスタンレーが運用する投資ファンドに売却した。売却額は500億円。
表向きの理由は不動産価値の向上だが、実質的にはスティールが狙う「サッポロHDが保有する不動産価値」の希薄化を目論んだと推定される。
モルガンスタンレーがサッポロHDの株式取得を実施。2007年12月時点で1.5%、2008年6月時点で5%の株式保有を明言した。狙いは将来の株式取得を明言することでサッポロHDの株価を高め、スティールによる買収負担を増大させることであったと推定される。このため、スティールパートナーへの対抗策とみなされた。
ただし、モルガンスタンレーによる株式取得は進まず、2009年7月時点で1.8%に留まった。そして、2009年7月に株式取得の中止を公表した。その理由は、スティールによる買収撤回が2009年2月に公表されたためであり、モルガン・スタンレーによる株式取得の狙いが薄れたことによる。
独立系M&A(合併・買収)助言会社GCAホールディングスの福谷尚久パート ナーは「サッポロHがモルガンSと組んだのはスティールを退けるのが趣旨であり、 スティールの買収提案を受け入れないことはほぼ間違いない」と予想した。
鈴木英世氏が子会社サッポロ飲料の社長に就任。不採算事業の撤退で黒字化
サッポロHDは子会社「恵比寿ガーデンプレイス」の株式について15%(信託受託権)の買い戻しを決定。2012年3月にサッポロHDが405億円で再取得を実施した。この取得によりサッポロHDによる恵比寿ガーデンプレイスの株式保有比率は100%となり、完全子会社化した。
2007年10月にスティールへの買収対策も兼ねてモルガン・スタンレーに売却したが、不動産価値の向上が完了したことからモルスタ側が売却の意向を表明したため、サッポロHDは取得を決定した。これを受けて、サッポロHDとモルガンスタンレーの業務上の繋がりが希薄となったため、2012年3月にサッポロHDはモルガン・スタンレーとの「戦略的業務・資本提携」を解消した。
財務面においては、サッポロHDは社債100億円(償還期限3年・年利0.64%)および、みずほ銀行からの借入210億円(2019年3月に一括返済)を実施した。
サッポロ不動産開発は、保有する東京都渋谷区恵比寿一丁目のビル(土地は明治時代に取得し、社宅として活用。その後、高度経済成長期にビルを建設)について建て替えを決定。2014年にオフィスビル「恵比寿ファーストスクエア」として竣工した。
2020年12月期にサッポロHDは最終赤字(当期純損失160億円)に転落。1998年12月期の赤字以来、約22年ぶりとなる最終赤字に転落した。主な要因は飲料事業の赤字転落と、新型コロナウイルスによる酒類事業の赤字転落であり、これらの赤字を不動産事業の黒字でカバーできなかったことによる。
2020年12月期に食品飲料事業で減損損失110億円を計上。対象は「日本アジア食品飲料」の領域であり、子会社「ポッカサッポロフード&ビバレッジ株式会社」であった。なお「のれん」の減損ではなく「建物・機械装置」など、旧ポッカコーポレーションの生産設備関連の減損が中心であった。主な減損対象は旧ポッカの「名古屋工場・群馬工場」と推定される。
依然として「のれん」の減損には至っていないものの、実質的に2011年の買収は厳しい状況にある。
子会社の「サッポロ不動産開発」が保有する土地の一部売却を実施。対象は東京恵比寿の「恵比寿ファーストスクエア(2014年竣工)」。売却先は三井不動産系の投資ファンド「三井不動産デジタル・アセットマネジメント」。サッポロHDは固定資産売却益として232億円を計上