森島征夫氏(スタミナ食品創業者)は、終戦直後の闇市で食べた「もつ料理」の味に衝撃を受けて、1966年に当時27歳で独立した。1967年には内臓肉に目をつけてスタミナ食品(現エスフーズ)を創業した。1966年からは沖縄(当時は米国統治下)向けに豚足の輸出を行っていた。この過程で、従来は捨てられていた内臓肉といったマイナーな肉が「美味しい」ことに着目した。
スタミナ食品の創業時は「タン、内蔵肉(ミノ)、レバー」といった、精肉とは異なる肉を取り扱い、焼肉向けの需要を開拓していった。当時は生肉が普及途上にあったが、レバーなどの特殊な肉を取り扱う業者は珍しく、後発参入のスタミナ食品が業容を拡大できたと推察される。
なお、屋号をスタミナ食品とした理由は「エネルギッシュな会社にしよう」と森島氏が考えたからであったという。2000年に商号をエスフーズ(S FOODS)に変更しているが、(S)スタミナ(FOODS)食品をもとにしている。
私は、昭和33年に出身地の静岡県磐田市から大阪に出てホテルに就職をしましたが、英語を覚えたり、仕事を覚えることに必死の時代でした。このころの給料は食べるだけで精いっぱいで世の中もハングリーな時代でした。当時の大阪駅前はまだ再開発されておらず、闇市のような場所でしたが、ホルモン屋さんが一軒有りました。そこで食べたツラミが強烈な印象でした。柔らかくておいしいツラミをたっぷり食べて飲んで給料の一日分くらいでした。これがおいしくて月に一回は行きました。
昭和41年に独立して、自分の商売として沖縄に豚の足・耳・尾を輸出し始めたころ、那覇市桜坂で煮豚料理を商売の研究を兼ねて食べました。豚足は沖縄では足テビチと呼ばれている料理ですが、その店では鮮度がいい足を柔らかくおいしく煮込んで出してくれました。
1969年にスタミナ食品は、オーストラリアから内臓肉(上ミノ)を輸入する体制を整えた。スタミナ食品としては肉の輸入体制を整える第一歩となり、牛肉の輸入メーカーとして台頭する転換点となった。
ただし、肉の美味しさという観点から、1972年からアメリカからの輸入を開始しており、スタミナ食品としては「アメリカ産の上ミノ」が取扱の主力となっている。
1972年にスタミナ食品は、米国のカンザスビーフ社から内臓肉を大量に輸入する契約を締結した。牛肉の解体の際に採取できる内臓肉は、解体後すぐに洗浄・ボイル・冷凍をしないと痛みやすく、大量処理によって製造コストを削減できるため、大量の買い付けが条件となった。
また、米国では牛の内臓肉を食べる習慣がなく、需要がなかった。そこで、スタミナ食品は、内臓肉の大量買付を前提とすることで、米国のカンザスビーフ社と契約を締結し、従来は捨てられていた内臓肉の輸入を開始した。
1980年代において牛の内臓肉(小腸・モツ・ミノ・ホルモン)は焼肉屋で消費されるのが一般的で、家庭に普及する食べ物ではなかった。そこで、1982年にスタミナ食品は、イメージアップも兼ねて内臓肉を「こてっちゃん」のブランドとして一般家庭向けに展開した。
発売直後からヒットしたため、1980年代を通じてスタミナ食品は独自の食肉ブランドを抱えるメーカーとして発展することを目論み、設備投資の全国展開に踏み切った。
(昭和)57年、内臓肉をさらに幅広く安心して食べられる衛生的で信頼された商品を開発するため、研究していたところ、「こてっちゃん」の名前で発売した商品が爆発的な人気を博して、当社商品の中心的な存在となった。これが当社にメーカーとして事業経営をしていく自信を与えることになり、一大変革をもたらしていくのである。
関西地方で愛用されている牛の大腸を韓国語で「てっちゃん」というが、当社の商品は小腸であるので「こ」を頭につけて「こてっちゃん」とした。内臓・モツ・ホルモン等のイメージから脱皮したいという願望を込めて命名したのである。
現在では「甲子園の味」というブランドで販売しており、当社製品はモツ、ホルモンといいうイメージでは、販売していない。
業績の急拡大を受けて、1989年にスタミナ食品は株式の店頭公開を実施した。1991年に日本では牛肉の輸入自由化を控えており、食肉が普及することが予想されたため、一足早く輸入肉(内臓肉はもとから輸入規制の対象外)を取り扱っていたエスフーズに注目が集まった。
1991年の牛肉の輸入自由化は、スタミナ食品にとっては逆風となった。安くて美味しい良い牛肉が日本国内に出回ったことで、内臓肉などの特殊な肉との競合するようになり、価格圧力に晒された。
この結果、1990年代以降のエスフーズの売上成長は鈍化した。1994年3月期にスタミナ食品は売上高493億円(前年同期515億円)の減収決算を計上し、急成長に終止符を打った。
1997年3月期にスタミナ食品は11億円の最終赤字に転落した。
1990年代後半から、国内ではO-157の問題、海外の牛肉においてはBSE(狂牛病)の問題が顕在化しつつあり、食肉需要が減少したため、エスフーズの業績に影響した。
2002年3月期にエスフーズは22億円の最終赤字に転落した。船橋第2工場の閉鎖による生産体制の再編が主な要因であった。
この頃には、BSE(狂牛病)が日本国内でも確認されたことで社会問題となり、2003年から米国から牛肉の輸入が禁止されたため、エスフーズは「こてっちゃん」の販売が難しくなるなど、経営危機に陥った。
米国からの牛肉輸入禁止を受けて、エスフーズは緊急措置としてオーストラリアからの食肉輸入を強化した。
BSE問題によってアメリカからの牛肉輸入が禁止になると、エスフーズは単独での生き残りが難しいと判断。主に国産肉を手がけるムラチク(FY2002売上高345億円)を完全子会社することで生き残りを図った。株式交換を伴う完全子会社化を実施し、ムラチク1株に対してエスフーズ1.733株の割合で交付された。
なお、ムラチクの株式の70%以上を保有するのが同社社長の村上氏であり、株式交換によって筆頭株主はエスフーズの森島氏(株式交換後の保有比率1.62%)ではなく、旧ムラチクの村上氏(株式交換後の保有比率24.76%)となった。
両社とも株式上場をしていたが、2005年にエスフーズがムラチクを吸収合併する形をとり、吸収されたムラチクは上場を廃止した。
2006年にエスフーズは代表取締役の異動を実施。代表取締役会長には旧スタミナ食品の森島征夫氏が就任し、代表取締役社長には旧ムラチクの村上真之助氏がそれぞれ就任した。2008年には森島征夫氏は代表権のない取締役に退いた。森島氏は1939年生まれであり、当時70歳前後であったことから経営職から退いたと思われる。
2022年の現在に至るまでエスフーズの社長は村上真之助氏が歴任しており、エスフーズ(=旧スタミナ食品)は、旧ムラチクに継承される形となった。