歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1952年、戦後復興期の山陰で河越諄一郎氏が鳥取県米子市に寿製菓を設立し、飴菓子を地元卸へ納める家業として出発した。専業の和洋菓子メーカーが薄い地方で地元卸への安定納入は成立したが、鳥取は当時人口約60万人と全国最少規模で、地元市場だけでは年商数億円を超える成長余地に乏しく、出荷先を県外に求める必要を創業当初から抱えていた。やがて販売と製造を別法人に分け、各地に拠点を置いていった。
決断鳥取は全国最少人口の県で地元市場だけでは伸び代が乏しく、寿製菓は売り先を県外の観光地に求めた。1972年の北陸寿を皮切りに、各地の温泉地・観光地ごとに別法人を立て、その土地の銘菓を製造販売する分散立地を広げた。本社工場から全国へ統一ブランドを出すのではなく、空港・駅・観光地の売場ごとに地元ブランドを別会社で持つ稼ぎ方が、コロナ後に営業利益率24%という高い収益効率へつながった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1952年〜1995年 鳥取の飴菓子工場から地域別子会社の分散立地へ
米子の飴菓子工場、河越諄一郎氏による創業
1952年4月、河越諄一郎氏が鳥取県米子市角盤町に寿製菓株式会社を設立し、飴菓子の製造を開始した[1]。戦後復興期の山陰地方は専業の和洋菓子メーカーが少なく、米子の家業として始めた飴菓子製造は、地元卸への納入から事業を立ち上げた。1957年1月には業容拡大で工場が狭くなり米子市旗ヶ崎に新築移転、1979年5月には協同組合米子食品工業団地に加入して現在地の米子市に本社工場を新築移転した[2][3]。鳥取県内人口は1952年時点で約60万人と全国でも最少規模の県であり、地元市場だけでは年商数億円規模を超える成長余地に乏しかった。
地元需要の薄さは創業期から構造的な制約となり、寿製菓は出荷先を県外に求めて販売子会社や地方製造拠点を別法人で立ち上げる方針に傾いた。1975年4月、それまで自社内に置いていた鳥取支店・松江営業所・米子営業所を別法人化して寿販売株式会社(鳥取県米子市)を設立、製造と販売の組織分離に踏み込んだ[4]。1975年10月には山口県長門市に株式会社コトブキ屋(現・寿堂)を設立して山陰から山口への販路を確保し、家業から複数法人を抱える企業集団への移行が、創業から四半世紀のうちに動き出した[5]。
1972年北陸寿から始まった地域別子会社の連鎖
1972年4月、石川県加賀市に株式会社コトブキ(旧・株式会社北陸寿)を設立した[6]。鳥取本社と日本海沿岸でつながる北陸への進出が、後の地域別子会社モデルの最初の例となる。地元の温泉観光地・加賀温泉の土産菓子需要を狙った布石で、各地の観光動線に合わせて別法人で地域ブランドを立てる流儀が、ここから定着していった。北陸寿は2005年1月に社名を九十九島グループに変更し、本店所在地を長崎県佐世保市に移して九州事業の中核子会社へと役割を変える経緯をたどる[7]。
1980年代に入ると地域別子会社の設立は加速し、1980年4月に宮崎県土産株式会社(現・南寿製菓)を宮崎市に、同年8月に株式会社コトブキ香寿庵(現・寿香寿庵)を神戸市北区に設立した[8][9]。1982年3月には岐阜県下呂市に飛騨コトブキ製菓(現・ひだ寿庵)、同年8月に三重県鳥羽市に株式会社三重コトブキ製菓(現・三重寿庵)を立ち上げ、温泉地と観光地に製造販売の地域子会社を並べた[10][11]。1987年3月には兵庫県美方郡新温泉町に株式会社但馬寿を、同年10月には岡山県倉敷市に株式会社瀬戸内コトブキ(現・せとうち寿)を設立し、1988年3月奈良の株式会社奈良コトブキ、1989年3月名古屋の株式会社東海コトブキ(現・東海寿)、1990年4月京都の株式会社京都コトブキ(現・寿庵)と、80年代後半から90年代初頭にかけて毎年のように地域子会社が設立された[12][13][14][15][16]。
各地の銘菓を地域別子会社で製造販売する分散立地モデルは、観光地の土産物店・空港売店・駅売店という消費者の最終接点ごとに、地元ブランドを別会社で持つ独自の構造を作り上げた。一般的な菓子メーカーが本社工場で全国向けに統一ブランドを出荷するのに対し、寿製菓は各地の銘菓ブランドを地元法人ごとに保有する持株会社的な体制へ、80年代の段階で接近していった。
1994年店頭登録と1996年ケイシイシイ設立、北海道への布石
1993年4月、福岡市博多区に株式会社花福堂を設立して九州福岡市場に進出し、同月に鳥取県米子市淀江工場として『お菓子の壽城』を設置した[17][18]。淀江工場は単なる製造拠点ではなく、和風城郭を模した観光施設を併設する形で、生産能力と観光集客を一体化した。1994年5月には和歌山県海南市に株式会社海南堂を、同年11月には日本証券業協会に株式を店頭登録し、未上場の家業から株式市場で資金調達可能な企業集団への入り口に立った[19][20]。店頭登録時点の連結売上高は数十億円規模で、地域別子会社の足し算で全国の銘菓市場をすくう構造が、市場側からも一定の評価を得ていた。
1996年4月、北海道千歳市に株式会社コトブキチョコレートカンパニー(現・株式会社ケイシイシイ)を設立した[21]。それまでの地域子会社は本社のある鳥取・米子から日本海沿岸・近畿・九州へと地続きの近隣展開だったのに対し、北海道進出は陸路で結ばれない離島市場への跳躍にあたる。1998年6月には北海道小樽市に小樽洋菓子舗ルタオを設置し、観光地・小樽の運河エリアに直営店を構えた[22]。同月、東京都中央区にも株式会社つきじちとせを設立して首都圏に拠点を置く動きを示したが、つきじちとせは2012年1月に解散・同年6月清算結了となり、首都圏進出は2011年のシュクレイ設立まで本格化が遅れた[23][24]。
ルタオの小樽出店は、観光地ブランドを別法人で持つ既存の地域別子会社モデルと、生菓子・チーズケーキ等の洋菓子による直営観光地店舗という新領域を組み合わせる試みで、北海道という遠隔地の観光経済に投資した点で、寿スピリッツの成長軌道を方向づけた。
1996年〜2013年 持株会社化と首都圏進出、上場による全国企業への跳躍
2004年ジャスダック上場と2005年九十九島エスケイ承継
2004年12月、日本証券業協会への店頭登録を取り消し、ジャスダック証券取引所に株式を上場した[25]。1994年の店頭登録から10年、地域別子会社の集合体として培ってきた事業構造を、より高い情報開示水準と流動性を持つ公開市場で評価される企業へと格上げした。同月には石川県加賀市に株式会社加賀寿庵を設立して、旧・北陸寿(株式会社九十九島グループ)から営業を譲り受けた[26]。前身の北陸寿は社名を九十九島グループに変更したうえで2005年2月に株式会社九十九島エスケイファーム他3社から菓子の製造販売事業を承継し、長崎県佐世保市を本店とする九州事業の集約点へと位置づけを移した[27]。北陸の地域子会社が九州事業の中核を担う再編は、地域別子会社が必ずしも当初の立地・領域に縛られずに役割を組み替える運用の柔軟性を示した。
ジャスダック上場直後のFY05には河越諄一郎氏の後を継ぎ、河越誠剛氏が代表取締役社長に就任していた(1994年6月就任)。河越誠剛氏は1987年4月に寿スピリッツ入社、1989年3月代表取締役副社長、1994年6月代表取締役社長と、創業家2代目として早期から経営の最前線に立ち、ジャスダック上場以降の事業構造再編を主導した。創業家による経営継承と、地域別子会社による分散立地、観光地での直営販売という三つの要素を組み合わせる経営判断が、河越誠剛氏の任期を通じて10年以上の時間軸で進められた。
2006年寿スピリッツへの社名変更と純粋持株会社移行
2006年9月、株式会社ケーエスケーを株式交換により完全子会社化した[28]。同年10月、純粋持株会社体制への移行に伴い、商号を寿スピリッツ株式会社に改称、新設分割により寿製菓株式会社を設立して営業の全てを承継した[29]。社名を「寿製菓」から「寿スピリッツ」に変えた決断は、創業地の鳥取・米子に紐づく単一の銘菓メーカーから、各地の銘菓ブランドを束ねる持株会社という自己定義への切り替えにあたる。寿製菓の名は新設の事業子会社が継承し、本社(持株会社)は地域別子会社群を傘下に置く立ち位置となった。
純粋持株会社化は、それまで実体として地域別子会社を抱える集団経営を行ってきた構造を、法的にも組織的にも持株会社モデルへ整える作業であった。同時期の食品業界では、明治HD(2009年)・キリンHD(2007年)・サッポロHD(2003年)など大手の持株会社化が相次いだ時期にあたり、寿スピリッツの2006年の移行も、こうした業界全体の組織再編の流れに重なる。2007年10月にはケーエスケーが新設分割により損害保険代理業会社と持株会社に分離、〈現〉株式会社ケーエスケーは寿スピリッツに吸収合併された[30]。子会社の整理統合と本体の持株会社化が並行して進み、グループ内の事業境界が再画定された。
2011年シュクレイ設立、2013年東証二部上場と首都圏戦略の本格化
2011年12月、東京都港区に株式会社シュクレイを設立した[31]。1998年の株式会社つきじちとせ設立が2012年1月解散で結実しなかった首都圏進出を、新たに立ち上げたシュクレイで再起動する判断であった。シュクレイは羽田空港・東京駅・新宿等の交通拠点と百貨店内売場を主戦場に、『ザ・メープルマニア』『東京ミルクチーズ工場』『バターバトラー』など、首都圏限定流通のブランドを次々と立ち上げた。鳥取本社のブランドや既存の地域子会社のブランドとは独立したブランド体系で、東京の観光客と出張客が手土産として購入する小箱SKUの高回転モデルを設計した。
2012年11月には台湾台北市に台灣北壽心股份有限公司を設立して海外進出の第一歩を踏み、2013年4月、東京証券取引所市場第二部に株式を上場した[32][33]。1994年の店頭登録、2004年のジャスダック上場に続く三度目の市場移行で、ジャスダックから東証二部への昇格は、機関投資家の保有比率を引き上げる足場固めとなった。2014年4月には東証一部に指定替えとなり、2022年4月の市場区分見直しでプライム市場へ移行する経緯につながる[34]。
シュクレイ設立翌年から東証二部上場までの2年間で、首都圏での直営販売チャネルと公開市場での企業評価という二本の足場が同時に固まった。鳥取の地方銘菓メーカーから首都圏で観光動線を押さえるブランド企業集団への自己変容が、この時期に経営の中心線として浮かび上がった。
2014年〜2025年 プチ・ギフト戦略の完成、コロナ衝撃とV字回復による利益主柱の移動
2014年東証一部指定とシュクレイ・ルタオの利益主柱化
2014年4月、東京証券取引所市場第一部に指定替えとなった[35]。連結売上高はFY14時点で229億円、営業利益は20.3億円で、地域別子会社の集合体が首都圏販売の本格化で売上を伸ばし始めた局面にあたる。セグメント別では、シュクレイ27.9億円・ケイシイシイ73.9億円・寿製菓と但馬寿の合計52.3億円・九十九島グループ30.9億円・販売子会社44.3億円という構成で、北海道のケイシイシイ(ルタオ)が売上規模で最大の事業会社となっていた。設立3年目のシュクレイは、まだ売上27.9億円・営業利益1.5億円と相対的に小規模ながら、首都圏販売のチャネル構築が利益貢献を始めていた。
FY14からFY19までの5年間で、連結売上高は229億円から451億円へ約2倍、営業利益は20.3億円から64.5億円へ約3倍に成長した。同期間のシュクレイは売上27.9億円から158.8億円へ約5.7倍、営業利益1.5億円から20.6億円へ約14倍と、グループ内で最も急成長した事業会社となった。一方ケイシイシイは売上73.9億円から122.9億円へ約1.7倍、営業利益9.6億円から12.9億円へ約1.3倍と、シュクレイの伸びを下回ったものの、観光地・小樽の運河エリアでの直営販売を軸に安定的に増収増益を続けた。シュクレイとケイシイシイで売上281.8億円・営業利益33.5億円と、全社売上451.8億円の62%、営業利益64.5億円の52%を占める利益主柱の双柱体制が、コロナ前のFY19時点で出来上がっていた。
2016年1月には株式の取得により株式会社フランセを連結子会社化し、関東圏の伝統ブランド「フランセ ミルフィユ」を取り込んだ(2017年4月にシュクレイへ吸収合併)[36]。鳥取・米子で創業した寿製菓グループが、首都圏の伝統菓子ブランドを買収して自社グループの首都圏販売網に組み込む構造が、地方発の銘菓メーカーから首都圏でブランドを束ねる事業会社への変質を象徴した。
2020年コロナ禍、観光動線消失による売上半減と営業赤字
2020年からの新型コロナウイルス感染症拡大は、観光動線に売場を集中させていた寿スピリッツの事業構造を直撃した。FY20(2021年3月期)の連結売上高は232億円とFY19の451.8億円から約48%減、営業利益は28.9億円の赤字へ転落した。FY19の営業利益64.5億円から、わずか1年で93億円以上の悪化幅であった。空港の旅客数激減、駅売店の閉鎖、観光地の人流消失が、土産菓子という商品カテゴリーの需要そのものを直接的に消滅させた。
セグメント別の打撃は、首都圏で勢いがあったシュクレイほど大きかった。FY19に売上158.8億円・営業利益20.6億円であったシュクレイは、FY20に売上74.6億円・営業利益9.3億円の赤字へ転落、売上は53%減・利益は約30億円のスイングであった。ケイシイシイも売上79.9億円・営業利益3.2億円の赤字、九十九島グループは売上14.9億円・営業利益6.5億円の赤字、寿製菓・但馬寿は売上36.3億円・営業利益8.6億円の赤字となり、グループ全セグメントが赤字に転落した。
コロナ禍に対する寿スピリッツの対応は、商品の品揃え縮小と販路の選別を抑制し、ブランドと売場の温存を優先した。雇用を維持して、需要が戻ったときに即座に増産・増販に転じられる体制を保つ判断で、短期的なコスト削減よりもブランド資産と人員の保全に重点を置いた。河越誠剛氏が任期を通じて積み上げてきた地域別子会社×観光動線のモデルが、需要消滅という最大の試練に直面した時期にあたる。
2022年以降のインバウンド回復、シュクレイ単独で全社営業利益の3分の1
2022年以降、新型コロナの行動制限緩和とインバウンド観光客の再開が進み、土産菓子需要が回復に転じた。FY21(2022年3月期)の連結売上高は321.9億円・営業利益14.0億円と黒字回復、FY22(2023年3月期)は売上501.6億円・営業利益99.5億円とコロナ前のFY19水準を売上で上回り、営業利益では34.9億円上回った。FY23(2024年3月期)は売上640.4億円・営業利益157.8億円、FY24(2025年3月期)は売上723.5億円・営業利益176.1億円と、コロナ前ピークのFY19(売上451.8億円・営業利益64.5億円)を売上で1.6倍、営業利益で2.7倍に押し上げた。営業利益率はFY19の14.3%からFY24の24.3%へと10ポイント上昇し、観光動線の売場を握る事業モデルが回復後にむしろ高い収益効率を実現した。
利益構造の偏りは、コロナ前から進んでいた首都圏・北海道シフトを一層加速させた。FY24のセグメント別営業利益は、シュクレイ63.1億円・ケイシイシイ50.2億円・寿製菓と但馬寿32.4億円・九十九島グループ3.9億円・販売子会社9.5億円で、合計159.1億円のうちシュクレイ単独で40%、ケイシイシイと合わせて71%を首都圏と北海道の2社が稼ぐ構造となった。創業地の鳥取・米子を本拠とする寿製菓・但馬寿は売上98.8億円・営業利益32.4億円で全社の20%にとどまり、九十九島グループは売上44.9億円・営業利益3.9億円と全社の2.4%まで存在感を縮めた。
2024年7月には沖縄県宮古島市に合弁により株式会社ケーエムエフを設立し、沖縄観光市場への進出に踏み込んだ[37]。インバウンド観光客が集中する沖縄での合弁形式の進出は、各地の観光動線に地域別子会社を立てる従来モデルの延長線上にある一方で、合弁先との共同経営という新しい形式の試みでもある。FY24時点の従業員数はシュクレイ563名・ケイシイシイ514名・寿製菓と但馬寿369名・九十九島グループ189名・販売子会社86名と、創業地の鳥取・米子の生産拠点よりも、首都圏販売子会社のシュクレイのほうが従業員規模で最大となった。1952年に米子の飴菓子工場として始まった寿スピリッツは、73年を経て創業地が利益と人員の主柱から外れ、後発の首都圏と北海道が事業の中心を担う構造へと組み替わった[38]。地方発の銘菓メーカーから観光動線の売場を握るブランド企業集団への変質を、創業家2代目の河越誠剛氏が30年超の任期で作り上げた結果として、現在の利益構造がある。次代の経営判断は、観光需要に依存する事業の脆弱性とコロナ禍で実証された需要消滅リスクに対し、海外(台湾・沖縄等)展開と新ブランド開発でリスク分散を進められるか、首都圏・北海道に偏った利益構造をさらに地理的に拡張できるかにある。