1945年の日本の敗戦によって、寿スピリッツの創業者である河越庄市氏は、台湾から故郷の兵庫県美方郡温泉町に復員した。復員直後は生活のために肥料の取引に携わるものの、詐欺に巻き込まれて巨額負債を抱えた。取引先との交渉のために河越庄市氏は、何度も大阪に出向いて金策に奔走するとともに、旅費を稼ぐために大阪で出会った飴売りの老齢な女性から水飴の製造を学んだという。
これらの経緯から、アメ製造の技術を体得し、1946年11月に鳥取県で作業場を開設して、6名を雇用してイモアメの製造を開始した。従業員は河越氏と同じような境遇の引揚者を雇用したという。
当時は米不足なので、イモを使って水飴を作り始めた。そしてその飴を大阪の千日前や心斎橋界隈の店に持ち込んだところ、文句なく買ってもらえた。そこで鳥取県東伯郡三好に飴工場をつくり、引揚者を六人雇用した。こうして肥料詐欺にあったために飴売りのおばあさんと出会い、水飴の作り方を教わったことが、私の菓子づくりの原点となったのである。
河越庄市氏はアメ製造業を本格展開するために小規模の菓子メーカーを買収して、1952年に株式会社として寿製菓(現在の寿スピリッツ)を鳥取県米子市角盤町にて設立した。キャンディーやドロップなどを製造するお菓子メーカーとして発展する道を模索した。
ただし、会社設立直後の河越氏には災難が襲いかかった。1954年に河越氏が歩道を歩いていた際に、頭上から木材が落下して5日間は意識がない危篤な状態が続いた。幸いに命に別状はなかったが、河越氏にとっては壮絶な臨死体験となった。
1956年に寿スピリッツの工場の乾燥室から出火し、工場が全焼する被害を被った。在庫品の損失額は1500万円であった。
河越庄市氏は資金繰りに奔走し、地元銀行である商工中金鳥取支店から600万円の融資を受けて資金繰りを改善した。
また、水飴の仕入れ先であった林原(岡山県本社)の林原社長は火災の翌日に寿スピリッツの河越氏に電話して協力を約束。林原は銀行への供託金として500万円を捻出し、寿スピリッツは林原に対する買掛金(累計600万円)の支払いを猶予した。
この結果、取引先の協力によって寿スピリッツは工場全焼という危機から立ち直った。
創業者の河越庄市氏は、北陸に旅行した際に「大したお土産がない」ことに不満を抱き、寿スピリッツを「アメの製造会社」から「お土産菓子の製造会社」に転換することを決めた。
1959年に寿スピリッツは土産菓子の一号となる「大社の白アメ」を発売。出雲大社向けに土産菓子の製造を開始した。
そして、1963年に市販向けの菓子製造から完全に撤退して、お土産向けに特化した。業態転換の背景にはキャンディーにおける競争激化もあり、当時は中小の菓子メーカーが相次いで消滅していた情勢も、寿スピリッツが土産に特化する後押しになった。
1960年代を通じて経済復興とともに旅行が定着し、お土産に対するニーズが高まった。この反動として、お土産に関して粗悪品が横行する問題が発生して、土産菓子は「まずい」「中身が少ない」といったクレームが相次いだ。
そこで、寿スピリッツの河越庄市氏は、全国の同業者10社を集めて、土産菓子の品質向上の重要性を訴えた。ところが、同業者から「余計なことをするな」という批判が相次ぎ、土産菓子の品質問題は業界内で対立構造を生んだ。
裏を返せば、土産菓子において品質を重視する寿スピリッツの経営方針は「業界内では特異」であり、結果として同社が全国トップの土産菓子メーカーとして台頭する契機となった。
なお、1964年に寿スピリッツは業界で先駆けて「土産菓子の試食」を導入しており、食べる人と買う人が違うという消費者のニーズに応えるなど、品質向上に勤めた。
寿スピリッツのヒット商品となっていた「つるし柿」について、大規模な生産増強を決定したが、天候不順による観光需要の不振などにより、直後に売れ行きがストップした。河越庄市氏は、問屋に迷惑はかけれないと決断し、3000万円分の「つるし柿」の回収を決定した。この結果、中小企業であった寿スピリッツは資金繰りが窮地に陥り、倒産の危機に直面した。
河越庄市氏は必死の説得により、山陽合同銀行(小松支店長)からの3000万円の融資(無担保・個人保証あり)によって寿スピリッツはこの危機を脱した。
1968年に寿スピリッツは、地元鳥取県における土産菓子としてロングセラーとなる「因幡の白うさぎ」を発売した。
因幡の白うさぎを発売の特色は、お土産としては異例となる賞味期限の短さにあった。当時のお土産の標準的な賞味期限は2か月が一般的であったのに対して、因幡の白うさぎでは「美味しさ」を重視するために賞味期限を5日に設定し、お土産菓子の常識を変えた。
この結果、因幡の白うさぎは「賞味期限は短いけれども美味しい」という評判を獲得し、鳥取県の因幡地区の代表的なお土産菓子になった。
寿スピリッツは「因幡の白うさぎ」を軸として鳥取県の土産菓子の製造メーカーとして生き残る道を選ばず、全国展開による土産菓子のOEMを進めていった。1972年に石川県に子会社「コトブキ(現・北陸寿)」を設立して、土産菓子のOEM生産を本格化させた。進出先は加賀市であり、加賀温泉の土産物ニーズに対応した打ち手と思われる。
この決定は、当時の土産菓子メーカーにとって異色の選択であり、地元メーカーが地元の土産菓子を生産するという常識を崩した。
全国展開の狙いは、寿スピリッツの創業者である河越庄市氏が鳥取県の市場規模に悲観したことにあった。大量生産によって土産菓子の品質向上を目論んでおり、鳥取県の土産菓子のニーズでは菓子生産にとって不十分であり、全国展開によって量産効果の獲得を目論んだ。
土産ものについては、県内の観光地を対象に販売していたんです。でも、ある程度の生産設備が整うと、人口60万人以下の鳥取県は、必ずしも満足できる市場では無くなってしまいました。「量を生産しないと価格が下がらない」という河越庄市現会長(創業者)の判断で、他県への進出に踏み切りました。
1970年代初頭における土産菓子の問題は、賞味期限が短いことにあった。この問題を解決するために、寿スピリッツはユニチカと共同で「脱酸素包装」の技術を開発した。
土産菓子を包装によって保護して賞味期限を伸ばす画期的な技術であり、土産菓子の地産地消の必然性がなくなった。このため、寿スピリッツは鳥取県内で菓子を集中生産しつつ、販売面で全国展開をする上での大きな武器となった。
1975年に寿スピリッツは山口県長門市に進出した。
以降も進出にあたって、現地に販売子会社を設立したが、この理由は土産菓子特有の商慣行にあったと思われる。寿スピリッツは鳥取県に本社があり、土産菓子の製造元として鳥取県の住所が記載されると、販売政策上の困難になることから、各地の問屋との直接取引が困難であった。そこで、現地の販売会社を介すことによって、各観光地の問屋と取引を行い、土産菓子の全国展開を進めていった。
寿スピリッツでは業容拡大とともに工場従業員数が増大し、労働組合による賃金に関する要求にともづく闘争も頻発した。1976年にはボーナス闘争が発生して、数百名が本社を取り巻く非常事態に陥った。
創業者の河越庄市氏は労働組合を潰すのではなく、無駄な闘争が無意味であることをわかってもらう方向に賭けた。この結果、世の中の労働運動が下火になるとともに、過激な労働組合との闘争は1976年のボーナス闘争が最後になったという。
1990年代以降も寿スピリッツは、引き続き全国展開を志向し、各地の土産菓子店に対する販売を強化した。
なお、寿スピリッツは、土産菓子の納入だけではなく、販売員による土産菓子店舗に対する「陳列」や、場合によっては地域の特性を生かした商品開発などのアドバイスを行うことにより、販売政策を強化した。
昭和40年代以降、当社では全国各地に営業所や販売会社を積極的に展開し、現在、北は北海道から南は九州まで、全国16社、22拠点の販売網を築いている。各観光地を訪れるお客様にとって、土産品というのはその土地ならではのものとして捉えられている。それだけに地域に根ざした商品開発やマーケティングが重要となるが、当社では全国に広がる販売網がこの役割を担っている。
特に商品開発にあたっては、全国の販売会社、代理店からの情報をもとに、商品企画部を中心に営業本部、研究開発室、生産本部の社員でプロジェクトチームを作って推進している。「その地方の特産物を使った商品を作り、その地方のみで販売する」という当社の菓子づくりのモットーも、こうした体制により可能担っている。
1994年に寿スピリッツは株式を店頭公開して将来の株式上場に備えた。また、創業者の河越庄市氏(当時72歳)が社長を退任し、息子の河越氏(当時33歳)が寿スピリッツの2代目社長に就任した。
1995年度の時点で売上高80億円、国内における土産菓子のシェア10%を確保した。
1996年に寿スピリッツは北海道に進出して「ケイシーシー」を設立。チョコレートの製造拠点を設置して洋菓子への本格投資を開始した。それまでの寿スピリッツは洋菓子ではなく和菓子を中心とした事業展開であり、北海道進出を契機として洋菓子に関する製造技術を磨いた。
1990年代までの寿スピリッツは、創業者の河越庄市氏によって「全国各地の問屋に対してお土産(和菓子)を納品する」というビジネスを行なってきた。これに対して1994年に社長に就任した河越誠剛氏は「需要のある観光地でお土産(洋菓子)を小売店舗で販売する」というビジネスを推進した。
1996年に北海道に進出して現地で洋菓子(チョコレート)の製造を開始していたため、1998年に北海道の観光地である小樽において「小樽洋菓子舗ルタオ」を開業して、小売業に本格的に参入した。以降、寿スピリッツは「製造卸」ではなく「製造小売」のビジネスに投資をする方針を鮮明にしていった。
1998年に寿スピリッツは、同年に自己破産した「築地ちとせ(東京都)」を1円で取得した。築地ちとせは大正時代に創業したお菓子の老舗であったが、経営難に陥っていた。
寿スピリッツとしては小売部門を強化するために、ブランドをのれんとして取得して、再生することによって小売を強化することを目論んだ。
2005年に寿スピリッツは、九州佐世保を中心に展開する九十九島グループにおける菓子部門(製造・販売)を譲り受けた。
2006年に寿スピリッツは持ち株会社に移行した。この狙いは、土産菓子のビジネスが各地の子会社の設立を通じて行われるという構造から、資本関係を整理するために持ち株会社という形式をとったものと推察される。
持ち株会社への移行によって、祖業である製造卸は子会社としての「寿製菓」が担当する体制となった。
2011年に寿スピリッツは子会社シュクレイを設立し、東京における土産菓子の製造小売に本格参入した。2011年時点のショップブランドとしては「築地ちとせ(経営権取得)」「コートクール」「東京チーズ工場」を展開し、徐々にブランドを拡大して2022年の時点では洋菓子を中心として13のショップブランドを展開した。
2000年代を通じて寿スピリッツは北海道における製造小売業で業容を拡大した。2012年3月期の時点でケーシーシーは売上高77億円に対して営業利益8.5億円の高収益を達成した。なお、祖業である製造卸(寿製菓)の売上高は66億円に対して営業利益2.8億円でありかろうじて黒字を確保する水準であった。
したがって、寿スピリッツは2000年代を通じて北海道における洋菓子製造に投資をするとともに、製造小売への業態転換を順調に進めたと言える。
2010年代を通じて寿スピリッツは、東京における土産菓子の製造小売に注力し、シュクレイが急成長を遂げた。訪日観光客の増加によって観光地としての東京が認知されたことが、寿スピリッツにとって追い風となった。
2019年3月期に寿スピリッツは売上高407億円に対して経常利益60億円を達成し、過去最高の売上高と利益を達成した。また、売上高経常利益率が10%を超えたため、高収益企業として株式市場からも高く評価された(時価総額2000億円前後で推移)。