1948年に飯島藤十郎(元教師)は、終戦直後の食糧難の時代において小麦粉に着目して、小麦粉の現物を交換する形でパンを製造する「委託加工」のビジネスを開始するために「山崎製パン所」を創業した。山崎製パンという名称は、飯島藤十郎氏の妹の性別である「山崎」から取っており、戦争によって未亡人になった妹の生活を支えたい意図があった。
飯島藤十郎はパンの委託加工において、味にこだわった。当時は食糧不足であり不味いパンでも売れた時代であったが、飯島藤十郎は消費者を第一に考えて、当時は高級品であった砂糖を加えるなど、多少の利益を犠牲にしつつ良質なパン製造に邁進した。
この結果、山崎製パンは消費者のニーズを捉えることには成功。千葉県市川において評判の高いパン屋となり、パン製造販売を千葉県を中心に数店舗を親族で展開するまでに至った。
なお、創業者である飯島藤十郎氏は暴力気質であり、1960年代の山崎製パンの重役は全員殴られた経験があったという(1977/4/11日経ビジネス)。このため、恐怖を植え付ける経営によって組織の規律を保っていたと推察され、製パン業界において山崎製パンの荒々しいやり方(同業の買収など)に対して、賛否が生まれることも珍しくなかった。
あるときたまたま大宮というところで、粉と引き換えで新しいパンを差し上げますという小さい看板が出ているのを見たのです。これだ、商売はこれで行かなければいけないと思って、山崎製パンというのは引き換えパンにしようというので、山崎パンと看板に書いた。粉と引き換えにいつでも温かいパンを差し上げますといってやったのです。これが当たって門前位置をなしてしまった。粉を持ってきたら取り替えましょうというのだから、かまでいくら焼いても足りないのです。
1954年に飯島藤十郎は、名古屋で展開していた敷島パンに訪問して、小売店を組織化した卸売ビジネスを展開していることに着目した。パンは製造直後の焼きたての状態が最もおいしいため、問屋経由でパンを販売するのではなく、工場から小売店に直送する卸売を兼ねることによって、消費者に美味しいパンを供給することができ、この点に着目した。
そこで、飯島藤十郎は山崎製パンにおいても「製造〜卸売」を兼ねることによって物流網を整備し、さらに末端の小売店を組織化することによって山崎製パンの販売網を構築することを決断した。
まずは、新聞広告で加盟店の募集をかけて小売店の組織化を遂行。一般的な業界における小売店のロイヤリティーが30%であったのに対して、山崎製パンは20%という小売店に有利な水準を提示した。飯島藤十郎は「良いパンを廉価で提供する」ことにこだわっており、工場の稼働率を向上させる狙いもあって、破格のロイヤリティーを提示した。山崎製パンの動きについて、同業者からは「無謀だ」という意見もあったという。
それでも、山崎製パンは東京で評判になっており、ロイヤリティーも安いこともあって、小売店の募集に応じる業者が多かった。このため、小売店の組織化は急速かつ順調に進んだ。山崎製パンと契約した小売店は、店舗看板に「山崎製パン」という名前を出して、山崎製パンが供給するパンや菓子類を提供した。
なお、山崎製パンは、セールスマンによる小売店に対する手厚い販売指導を実施した。これらの施策は高度成長期においては、小売店の売上拡大に寄与した。1970年代以降に零細小売店の経営が苦しくなると小売店は「ノルマの押しつけ」として拒絶反応を示すなど、時代によって評価が分かれた。
そのころ委託屋なんか月500万ぐらいしかなかった。私は市民新聞に広告を書いて、今までは甚だご迷惑をかけたが、今度は私の方で取次店を募集します。粉はいただきに行きます。品物は配達しますと言ったのです。相当の売店があったので、良さそうなところだけピックアップして契約を結んだ。そうしたら、すぐそのころ500万の売上が1000万になった。
1951年頃に山崎製パンは、大手製粉メーカーである日清製粉との取引を開始し、小麦粉の調達体制を整えた。山崎製パンは東京圏で評判になっていたことから、日清製粉はベンチャー企業であった山崎製パンへの納入を快く受けたという。また、小売店の組織化にあたって、日清製粉との取引実績は、山崎製パンにとって大きな信用となった。
なお、2022年の時点において、日清製粉は山崎製パンの株式5.1%を保有しており、現在も取引関係を継続しているものと推察される。
山崎製パンは、小売店の組織化が順調に進んだことを受けて、工場への設備投資を決定した。1954年に市川工場を新設して、アメリカのセンチュリー社から購入した「ハイスピードミキサー」など、最新鋭の機械を導入することで、パン製造における生産性を高めた。
これらの工場新設や機械の導入にかかる投資資金は富士銀行からの融資によって調達した。
新工場の稼働と、急速な販売網の組織化によって、山崎製パンは東京におけるパン市場において急成長を遂げる企業となった。当時のパン屋は、家族経営の零細企業が大半であったが、1950年代後半の時点で山崎製パンは工場従業員を中心に400名を擁する業界のトップ企業へと成長した。
1959年に山崎製パンは、横浜市でパン屋を経営していた「ミリオン製パン」を買収した。以降、山崎製パンは東京を除く都市部への参入にあたっては、現地メーカーを買収する手法を多用した。
1960年に山崎製パンは東京杉並区において「杉並工場」を新設した。土地の取得を含めた投資額は4億円であった。
すでに稼働していた両国工場が「東京の下町」をカバーするのに対して、杉並工場では発展しつつあった東京西側の郊外の販売をカバーする工場拠点となった。
杉並工場の稼働によって、東京の西側郊外も鮮度の高いパンを供給できる体制を構築し、山崎製パンは東京市場を掌握した。
1963年に山崎製パンは、東京東久留米市において「武蔵野工場」を新設した。投資額は15億円で、山崎製パンとしても社運をかけた投資となった。
1965年6月期に山崎製パンは、売上高107億円を達成して100億円を突破した。当期純利益は3.5億円であり高収益ではないものの、安定して黒字経営を続けた。1965年ごろには小売店は東京を中心に4300店を組織した。
なお、1960年6月期の売上高は14億円だったことから、年平均成長率は30%を超えた。このため、山崎製パンは食品業界における急成長企業として注目を集めた。
1966年に山崎製パンは、主力であった東京に次ぐ進出地として、関西地に参入した。ところが、関西進出は経営陣の総意によって行われたのではなく、創業者の弟である飯島一郎が主導する形で行われた。
この背景には、創業者である飯島藤十郎氏と、弟の飯島一郎氏の間で不和が生じていたことが原因であった。一説によると、飯島藤十郎氏は企業を成長させるために役員に対して暴力を振るうこともあったといい、兄弟の不和が生じる原因の一つになったらしい。
1970年に山崎製パンは、総合商社のニチメンの仲介によって、米国のお菓子メーカー「ナビスコ」との合弁会社として、ヤマザキナビスコを設立した。1970年前後は日本の洋食化が進行しつつあり、チョコレートやビスケットといった新しいお菓子が普及途上にあり、山崎製パンは取り扱い品目の拡大を目論んだ。
山崎製パンの狙いは、組織化した小売店に対して、商品のラインナップを充実させることにあった。1960年代を通じてスーパーマーケットが台頭したこともあり、山崎製パンを取り扱う零細小売店の経営が苦しくなったため、小売店の製品ラインナップを拡大するための合弁設立であった。
1976年に山崎製パンは取締役会において、創業者である飯島藤十郎氏の解任を決定した。解任に賛成した取締役は8名、反対した取締役は7名であり、社内には大きな分断が生じた。創業者である飯島藤十郎氏は、この決定を不服として裁判に持ち込むなど、山崎製パンの「お家騒動」として話題になった。
和解案として、創業者の飯島藤十郎氏が山崎製パンの取締役社主に就任し、弟の飯島一郎氏が代表取締役社長を退任(在任期間1977〜1979年)し、飯島藤十郎氏の息子である飯島延浩氏が代表取締役就任社長に就任する人事案での妥結となった。
スーパーが急速に普及したため、1970年代後半までに山崎製パンは、組織化した零細小売店舗の処遇が問題となった。山崎製パンでは組織化した小売店に対して売上高のノルマを設定したことから、実現が難しいとして小売店が反発するなど、両者の関係性は良好とは言えない側面もあった。
押し込み販売に関しては、公正取引委員会が独占禁止法の疑いがあると判断して山崎製パンに対して警告したこともあった。
そこで、山崎製パンは組織化した零細小売店の業態をコンビニエンスストアに転換することで、この問題の解決を目論んだ。1978年に山崎製パンは「ヤマザキデイリーストアー」の展開を開始し、小売店の業態転換を促す。
山崎製パンの高度成長型ともいえるセールスマン管理ほうが猛烈な反発を受けている。このほど同社の販売店主約50人が東京・上野のホテルに集まって「ヤマザキパンは押し込み、割当販売をやめよ」と気勢をあげたのがそれ。
製パン業界で独創体制を築きあげたのは強力なセールス軍団があったからだが、その破竹の進撃を支えたのが「ヤマザキ・セールス・マニュアル」。その中には、セールスマンは①不退転の決意で②予算達成の主役③一国一城の主で、調査員で、アイデアマン---など、叱咤激励の言葉が並んでいる。このように後退することが許されないセールスマンが需要拡大機には猛烈な威力を発揮したのは確かだ。
しかし、パン製品の消費が伸び悩む中で、販売店主と衝突するのは避けられなかったようだ。しかも、販売店主は老齢化し、ある程度の経営基盤を固めたところは保守的になり、「そこまで拡販しなくても・・・」という甘えも目立つ。こう成長期のマニュアルは見直しを迫られているようだ。
1979年に飯島延浩氏が山崎製パンの代表取締役社長に就任した。延浩氏は山崎製パン創業者である飯島藤十郎氏の息子であり、社長就任時は38歳であった。この人事によって飯島家の兄弟によるお家騒動は、飯島藤十郎の派閥が実権を握る形となった。
1979年から2022年の現在に至るまで、飯島延浩氏が山崎製パンの社長を歴任している。2022年時点で飯島延浩氏は81歳という高齢ながらも、代表取締役会長兼社長として、経営権を握る。
1988年度に山崎製パンは、国内におけるパンの販売シェアで1位を確保した。2位の敷島製パン(9.1%)を大きく引き離し、日本のトップパンメーカーの座を維持した。
また、山崎製パンは物流拠点への投資によって物流コストを抑制。トラックの自社保有による工場から小売店舗への直送体制を自前で持ち、売上高物流費比率を1%代に抑えた。
1992年12月期に山崎製パンは、売上高5172億円を計上した。小売店向けでは成長著しいコンビニ向けの納入が伸び、1973年から開始したセブンイレブンへの納入に加えて、1991年にはローソンへの納入を開始し、売上高を伸ばした。
2015年12月期に山崎製パンは、売上高1兆円を突破(1.02兆円)したものの、当期純利益は181億円であり低収益な状態が続いた。利益額は1990年代と同じ水準であり、売上の伸びに対して利益が伴っていない状況にある。
2000年代を通じて買収した東ハトや不二家が依然として低収益なことや、コンビニ事業(デイリーヤマザキ)の赤字によって全社利益が削がれる構造がある。また、本業の製パン領域では、利益率の高い食パンはセブンイレブンなどのブライベートブランドとの競争が激しく、菓子や惣菜系のパンは売上高は大きいものの製造コストが高いため、収益を生みにくい事情もある。