住友林業の創業経緯は複雑である。株式会社としての設立は1948年、合併による住友林業の設立年は1955年である。一方、創業年は住友財閥が別子銅山鉱業所に山林課を設置した明治31年と見ることもできる。
明治時代の住友財閥は、愛媛県の別子銅山にて銅の採掘業に従事しており、銅の精製過程で発生する有害物質によって、山肌が荒れるという問題に直面していた。そこで、住友財閥は、荒れた山肌を緑化するために「山林課」を設置し、林業に参入した。1917年には宮崎県からの依頼を受けて、九州における林業に参入するなど、林業ビジネスを拡大していった。
創業当時は、自然の再生という観点から植林活動を行い、国産木材を販売する「林業」に従事していた。事業の主目的は「植林による公害対策」にあったが、木材を販売する林業ビジネスと両立させた点に特色があった。
1945年に日本の敗戦によって住友財閥が解体されると、住友財閥の山林課は国内の地域別に6社(四国林業・九州林業・北海林業・扶桑林業・兵庫林業・東海林業)に分離された。その後、GHQによる財閥解体の方針が緩和されたことを受けて、1955年までに住友系林業6社は合併を繰り返し、1955年に最後の2社が合併したことで「住友林業」が設立された。
1964年に住友林業は、当時ブームになりつつあった分譲事業に参入した。100%子会社「スミリン土地株式会社」を設立して、関西地区を中心に土地分譲ビジネスに従事した。1969年までに、尼崎武庫之荘(兵庫県)・八王子絹ヶ丘(東京)・大阪高槻松が丘の各地域で土地の分譲を実施した。
1975年に住友林業は、山林経営にかわる将来の主力事業として「木造・戸建て注文住宅」に参入することを決めた。自社の強みが活かせる「木材」にフォーカスして、注文住宅を新規事業として開始した。参入にあたっては赤字を覚悟し、損益分岐点となる1000〜2000戸/年の販売を目標に据えた。
住友林業は戸建て注文住宅において後発参入となったため、営業地域を「関西圏」と「首都圏」の都心部に絞り、木造住宅の建築における工程でCADなどを積極的に導入することによって施工の効率化を行うことに、独自性を発揮することを目論んだ。
なお、1964年に参入した宅地分譲は景気悪化により収益が悪化したため、1975年前後の住友林業の利益を押し下げる原因になった。このため、住友林業は注文住宅を手がける際に「土地には手を出さない」という方針を明確にした。
木造住宅は近代化が遅れた産業です。今でも大工の手作業。個人の技術や経験に頼る部分が大きい。我々は長年、気を扱ってきたのだから絶対にいいものを作れる、という自信はありました。そのうえで、近代的な後方でコストダウンを実現すれば必ず大きなビジネスになる、と。
ただ、当初から年間2000戸は立てないと黒字にならない、試算していました。結局、その通り、年間一千数百戸建てるまでの4〜5年は赤字でした。最初は家のことなど何もわからないから、顧客からの注文を工務店に丸投げする形で作っていた。当然、クレームは多い。社員が住宅建設のノウハウを吸収するまでの3年間くらいが一番辛い時期でした。赤字覚悟で初めても、事業自体はどんどん大きくなっていくので心配でした。当時、一番気を付けていたのが信用です。住宅は信用がモノを言う商売だから、クレームにはコスト度外視で対応しました。
1980年代を通じて、住友林業は木造戸建ての注文住宅事業を伸ばした。バブルの好景気による住宅着工件数の増大や、高級な木造住宅へのニーズの高まりという追い風も受けた。営業所も住宅ニーズが根強い「首都圏」「関西圏」に集中することによって、効率的な販売体制を作り上げた。
この結果、1988年3月期に住友林業の住宅部門は、売上高で材木部門を抜き去って業態転換を成し遂げた。収益性の高い住宅事業の拡大によって、1980年代を通じて住友林業は利益率のv字回復を達成した。
また、住友林業はバブル期に土地に手を出さなかったため、バブル崩壊によって巨額損失を計上することなく、その堅調さに注目が集まった。
2010年に住友林業の代表取締役社長に市川晃氏が就任した。市川氏は2000年代を通じてアメリカ事業に従事した経験を持ち、住友林業が海外投資を積極化させるための社長抜擢となった。また、海外事業に精通していた前社長の矢野氏は代表取締役会長に異動し、市川社長による海外事業の推進を見守った。
2010年代を通じて、市川社長は海外事業への投資を積極化し、住宅事業ではオーストラリアとアメリカ、木材関連ではニュージーランドへの投資を決定した。
進出地域は政治的な事情を考慮し、賄賂などが起こりにくい資本市場が浸透した国を選定した。買収は、高収益な現地メーカーにターゲットを絞り、投資資金の捻出(住友林業による出資)や、後継者問題の解消という現地企業の実情に合わせてターゲット企業を選定した。いずれも買収額は100億円未満であった。買収交渉にあたっては情報の非対称性が生まれないように金融機関を介さずに行うことで、買収破断時も良好な関係が残るようにした。
買収後は、現地メーカーの経営陣が経営を続け、ブランドや建築方法なども旧来のものを使用するなど、住友林業のやり方を押し付けることはしなかった。
しかし僕は米国での住宅事業をやめる気は少しもなかった。社内ではこれで海外の住宅事業も頓挫したと思った人も多かったらしく、撤退論を口にする役員もいたが、新しい事業を育てるのは時間がかかるのである。1975年に始めた住友林業の国内の住宅事業も、他の事業で赤字を補塡しながら、収益が上がる事業に育てるのに10年以上かかった。柱になるような事業は会社全体の観点から戦略的に考えなくてはいけないことは、会社の歴史から分かっていた。
米国には全国的な大手のハウスメーカーがなく、州単位でオーナー企業が勢力を持っているところが多い。米国全体を見渡すと、気候が良く、人口も増えているサンベルトと呼ばれる米国南部の州で、こうした企業を買収し、ノウハウも入れていけば、拡大の余地が大きかった。(略)
海外に出るにあたってはその国のポリティカル・クライメット(政治情勢)を僕はよく見定める。法治国家で契約を守り、意思疎通がしやすい英語が通じ、そして経済が成長しているという3つが必要条件だ。アンダーテーブルの賄賂などで物事が決まるような国では、住友林業がやってきたような実のある買収は難しいし、そもそも住友の事業精神と相いれない。
市川社長の就任後、2010年代前半は海外事業の赤字が続いたが、2010年代後半に黒字転換を達成し、住友林業の収益源へと育った。アメリカでの事業展開において、人口の増加が予測される特定の地域(南部のテキサス州など)に集中投資を行ったこともあり、人口増加による住宅の需要が増加する追い風を受けた。
2020年12月期に住友林業は海外事業の売上高セグメント利益率12.5%を達成し、全社の収益源となった。アメリカではリモートワークの普及によって、住宅の戸建て需要が増加したことが追い風となった。
ただし、海外買収による収益の増加は、個々の現地メーカーの経営努力と、金利の低下や、人口増加という追い風といった環境が追い風となっている。すなわち、住友林業の独自の経営努力によって、収益性が高まったかどうかは、定かではない。