三菱化成と三菱油化の合併・三菱化学の発足

1994年成立

石炭化学の三菱化成と石油化学の三菱油化はなぜ一つになり、総合化学最大手として何を追ったのか?

合併 合併
帰結 成立
概要
1994年10月1日、三菱化成と三菱油化が合併し、総合化学最大手・三菱化学が発足した案件。合併後最初の通期の連結売上高は1兆円を超え、当時の世界で第9位の規模となった。石炭化学・機能材料の三菱化成と石油化学の三菱油化を一体化したこの新会社は、現在の三菱ケミカルグループ(証券コード4188)の直接の母体である。
背景
バブル崩壊後の石油化学は過剰設備と市況変動に収益を左右される体質を抱え、世界規模の競争に耐えるには川上の基礎原料から川下の機能商品までを一つの資本で束ねる規模とフルライン化が求められていた。三菱グループ内で早くから連携・重複してきた両社を一体化する構想が、こうした環境のなかで具体化した。
内容
存続会社を三菱化成とし、新社名は両社名を離れた「三菱化学」を採用した対等色の強い合併。基礎原料から機能商品までを自前で抱えるフルライン体制を敷き、「成長と利益」の両取りを掲げて三年間で400億円規模の合理化に着手した。
含意
だが合併効果は数字に表れず、低収益と株価低迷が続いた。四日市エチレン停止に象徴される「脱・総合」への転換、2005年の医薬分離を伴う持株会社化へと引き継がれ、財閥系総合化学の「規模の追求」と、その後の「選択と集中」への揺り戻しを呼び込む合併であった。
筆者の見解

「規模の追求」と、その後の揺り戻し

1994年の合併は、財閥系総合化学が抱いた「規模の追求」という発想を体現していた。三菱系で連携と重複を続けてきた石炭化学の三菱化成と石油化学の三菱油化を一つにまとめ、川上から川下までを自前で握るフルライン企業をつくる——業界再編の先駆けとして期待を集めた統合であった。だが、あらゆる石化製品を並べる「百貨店」の体質は、不採算事業の整理をむしろ遅らせる方向に働いた。対等色の強い合併ゆえの遠慮や、長く染みついた自前主義が、規模の利を数字として取り出す作業を鈍らせた面もあったとみられる。

その後の三菱化学、そして三菱ケミカルの歩みは、この合併が「ゴール」ではなく組み替えのはじまりであったことを示している。脱・総合、医薬の分離と再結合、2017年の3社ワンカンパニー化、さらに近年の石化再編——規模を追って一つにまとめ、次に選択と集中で解きほぐすという往復運動が、四半世紀にわたって繰り返されてきた。財閥系総合化学が掲げた規模の追求と、その後の選択と集中への揺り戻しは、いま脱炭素と中国勢の台頭に揺れる石油化学業界に、なお同じ問いを投げかけている。

Yutaka Sugiura

統合の背景

三菱化成と三菱油化——石炭化学と石油化学、三菱の二つの化学

三菱化学の母体のひとつ、三菱化成は、石炭化学を出発点とする総合化学会社であった。その源流は1934年に三菱鉱業と旭硝子の折半出資で設立された日本タール工業にさかのぼり、黒崎工場の石炭化学を軸に発展する。戦後の再建を経て、コークスや染料、農薬、医薬品、肥料、さらに合成繊維や樹脂の原料、アルミ精錬にまで間口を広げ、既存事業で稼いだ収益を成長分野へ投じる多角化を体質としてきた。四日市や水島には石油化学の拠点を築き、川下の誘導品まで手がける総合化学へと育っていた[1][2]

もうひとつの母体、三菱油化は、四日市を主力とする石油化学メーカーであった。三菱化成が石油化学の二次製品分野へ進出した際、同系の三菱油化と密接に連携しながら川下を担う形をとっており、両社は早くから三菱グループ内で補完しあう関係にあった。石炭化学と機能材料を主軸とする三菱化成と、石油化学の上流を握る三菱油化は、事業の系列でつながりつつ、石化領域では重なりも抱えていた。三菱化成の会長を務めた鈴木永二や、1990年に社長へ就いた古川昌彦らが、当時の三菱系化学を代表する経営陣として知られていた[3][4][5][6]

マクロ環境——石化不況と「規模の追求」

両社が一つになる決断の背後には、石油化学を取り巻く構造的な逆風があった。1990年代前半の日本の石油化学は、過剰な設備と市況変動に収益を左右される体質を抱え、合理化の圧力が年々強まっていた。世界規模の競争に耐えるには、川上のエチレンから川下の機能商品までを一つの資本で束ね、規模とフルライン化で勝ち残るほかないという発想が業界に広がる。三菱系で近接してきた三菱化成と三菱油化を一体化して総合化学最大手をつくる構想は、こうした環境のなかで、規模と収益の両取りを掲げて具体化していった[7][8]

統合の発端

三菱化成

対等色の強い合併による三菱化学の発足

1994年10月1日、三菱化成と三菱油化は合併し、三菱化学が発足した。存続会社は三菱化成でありながら、新会社は三菱化成でも三菱油化でもない「三菱化学」を名乗り、二つの母体を対等に束ねる合併であることを社名でも示した。合併後最初の通期にあたる1995年3月期の連結売上高は1兆771億円[10]と1兆円を超え、当時の世界で第9位に並ぶ総合化学最大手が誕生する。石炭化学と機能材料に強い三菱化成と、石油化学の三菱油化が一つになったことで、新会社は川上の基礎原料から川下の機能商品までを自前で抱えるフルライン体制を手にした[9][11]

合併が掲げた旗は、「成長と利益」の両取りであった。三菱化成が積み上げてきた機能材料や医薬・情報材料の成長分野に、三菱油化の石油化学が供給する基礎原料を組み合わせれば、素材から機能商品までを一貫して手がける強みが生まれる——それが統合の描いた絵であった。発足後、新会社は三年間で400億円規模の合理化に取り組み、樹脂部門では他社との事業統合も進めて、重複する設備や事業の整理を急いだ。二つの化学会社を一つにまとめ、規模の利と一貫体制の双方を果実として取り出すことが、合併に託された狙いであった[12]

統合の経過

合併効果が表れない初期の数年

だが、合併の効果はなかなか数字に表れなかった。力を入れた機能商品の3部門で本格的な利益貢献が遅れ、頼みの合理化努力も石油化学の市況悪化にのみ込まれていく。一社で水島・鹿島・四日市という三つのエチレンセンターを抱える構えは、統合当初から非効率を指摘されていたが、コンビナートの原料供給責任やアジア向け輸出の伸びもあって、設備の整理には踏み込めずにいた。合併から数年を経てもなお「合併成功」との評は聞かれず、規模を得た巨大企業は統合の実効を上げられないまま、低収益に沈んでいった[13][14]

統合の帰結

「合併すれど効果は薄い」——低収益と脱・総合への転換

「合併すれど、効果は薄い」——同時代の経済誌はそう評した。合併後の三菱化学は、1995年3月期に29億円、1998年3月期に119億円の連結最終赤字を計上し、利益は低い水準で推移する。株式市場の評価も冷たく、株価は1998年1月に136円まで下げ、高いほうから住友化学工業・三井化学・三菱化学と並ぶ序列が定着した。規模で国内最大手となりながら、市場は三菱化学を化学会社として低く見積もっていた。合併が約束した規模の果実は、発足から数年を経てもなお数字に結実しなかった[15][16]

低収益から抜け出すために三菱化学が選んだのは、総合の看板をみずから下ろす道であった。1997年末に利益最重視へ舵を切り、1999年には持株会社制への移行と四日市エチレンの停止を打ち出して、稼げない事業を切り離す「脱・総合」へ向かう。この一連の構造改革は別途詳しく扱うが、旧三菱油化の主力工場であった四日市のエチレンを止めるまでに合併から七年近くを要した事実は、規模とフルラインへの執着の重さを物語る。2003年には三井住友化学の発足で「総合化学国内最大手」の冠さえ外れ、合併の果実は容易には実らなかった[17][18]

出典・参考
  • 三菱化学 有価証券報告書【沿革】
  • 三菱化学 有価証券報告書(連結)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968)三菱化成の項
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱化学 赤字事業を全面撲滅せよ」
  • 週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M&A時代 三菱化学 遅れた利益重視経営への転換 やっと四日市でエチレン停止へ」
  • 週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ 追い込まれた業界最大手」
  • 日経ビジネス 1987年4月13日号「あえて資産再評価税を問う——私の提言」(鈴木永二 三菱化成会長ほか)
  • 日経ビジネス 1990年8月13日号「新社長 古川昌彦氏(三菱化成)登場」