東京海上火災と日動火災の経営統合とミレアホールディングス設立
2002年成立・国内初の上場保険持株会社なぜ生損保を束ねる総合金融グループ構想は縮退し、国内初の上場保険持株会社が生まれたのか?
- 概要
- 2002年4月、東京海上火災保険と日動火災海上保険が共同株式移転で持株会社ミレアホールディングスを設立し、国内初の上場保険持株会社が誕生した案件。生損保を糾合する総合金融グループ構想として始まったが、朝日生命・共栄火災の離脱で損保2社の統合へと縮退した。
- 背景
- 1996年の日米保険協議決着と1998年の料率完全自由化で護送船団行政が終わり、外資の攻勢に直面した業界首位の東京海上が、生損保を束ねる総合金融グループを構想した。
- 内容
- 2000年に東京海上・日動火災・朝日生命の3社が総合保険グループ構想を発表し、2001年に「ミレア保険グループ」を結成。2002年4月に損保2社が共同株式移転でミレアHDを設立したが、共栄火災(2002年8月)と朝日生命(2003年1月)が離脱した。2004年10月に東京海上火災と日動火災が合併して東京海上日動火災保険が発足し、2008年7月にミレアHDは東京海上ホールディングスへ改称した。
- 含意
- 生損保を糾合する業態拡張の器を先につくったものの中身が揃わず、損保2社の統合へ縮退した。国内初の上場保険持株会社として3メガ損保再編を先駆けると同時に、後年の海外M&Aへ戦略軸を振り替える下地となった。
器を先につくるということ
ミレアホールディングスの設立は、邦損保が持株会社という新しい器を初めて上場の形で手にした画期であった。金融ビッグバンで解禁されたばかりの制度をいち早く使い、料率自由化と外資の攻勢に備えて生損保を糾合する——構想の射程は広く、時代の先を読んでいた面がある。だが、器を先につくり、中身の融合を後から詰めるという順序は、そのまま構想の弱点にもなった。生保と損保の事業モデルの違い、明治生命を取り込めなかった誤算、株式会社化という重い前提——理念が先に立ち、それを支える実務の設計が追いつかないとき、統合は器だけを残して中身を欠くことになりかねない。朝日生命と共栄火災の離脱は、その帰結であった。
もっとも、この縮退を単純な失敗と断じるのは早計だろう。総合金融グループという当初の絵は破れたが、損保2社に絞り込んだミレアは東京海上日動として一本化され、やがて東京海上ホールディングスと名を改めて、海外M&Aで稼ぐグローバル損保へと戦略軸を振り替えていく。業態を広げる器を諦めたことが、地理的拡張という別の成長路線を選び取る前提になったとみることもできる。国内初の上場保険持株会社という制度的な先駆けは、後続の3メガ損保再編の道筋を照らしもした。当初構想の一部が破れた統合であっても、器をどう組み替え、次の成長へどうつなぐかという問いに、後年の東京海上は自らの答えで応えたといえる。
統合の背景
マクロ環境——護送船団の終わりと料率完全自由化
1990年代後半の日本の損害保険業界は、半世紀続いた護送船団行政の終わりに直面していた。損保各社は独占禁止法の適用除外を受けた料率算定会の定める保険料率を横並びで用い、商品も認可制のもとで各社ほぼ同一という世界に守られてきた。だが1996年12月の日米保険協議が決着し[1]、1998年7月までに保険料率を完全自由化する方針が固まる。1998年1月には企業向け保険が全面自由化され、同年7月には自動車保険や火災保険といった個人向け商品の料率も、契約者のリスクに応じて各社が独自に設定できるようになった[2]。価格競争のない世界で最大の販売網を築いた王者ほど、自由化の打撃を最も強く受ける立場にあった。
その王者が東京海上火災保険であった。1995年時点で正味保険料の業界シェアは18%に達し[3]、三菱系損保として業界首位の座を占めていた。約8万に及ぶ代理店網を抱え、大企業向けでは3割近いシェアを握るといわれた[4]。もっとも、その強さは護送船団行政の産物でもあった。1998年、樋口公啓社長は日経ビジネスの取材に対し、護送船団行政のもとで築いた膨大な販売店網が、通信販売を活用する外資系保険の攻勢と料率自由化のもとで「弱みに転じかねない」と語っている[5]。規制に守られて肥大した強みが、自由化とともに重荷に変わりうるという危機感であった。
東京海上の事情——国内ガリバーの危機感と総合金融グループ構想
自由化の重圧のもと、東京海上が描いたのは業態そのものを広げる構想だった。生損保の相互参入が解禁されたことを受け、同社は1996年に資本金300億円を投じて子会社の東京海上あんしん生命保険を設立し[6]、生命保険分野へ足を踏み入れる。だが大手生保に匹敵する規模へ一足飛びに育てることは難しい。世界に目を転じれば、独アリアンツや仏アクサといった巨大な総合保険会社[7]が覇権を握りつつあった。損保単独ではジリ貧になるという危機感[8]を背景に、生命保険と損害保険を糾合し、外資に伍しうる総合金融グループを組み立てる——それが東京海上の次の一手であった。
統合の発端
公表経緯——「ミレア保険グループ」の結成
構想が形を取り始めたのは2000年である。同年9月、東京海上火災保険、日動火災海上保険、朝日生命保険の3社は[9]、生命保険と損害保険の垣根を越えた総合保険グループをつくる構想を発表した。翌2001年1月11日、3社は新グループの名称を「ミレア保険グループ」に決めたと公表する[10]。示された段取りは段階的だった。まず損保2社である東京海上と日動火災が2002年4月に共同で持株会社を設立して経営統合し[11]、システムと損害調査業務を一本化する。生保の朝日生命は株式会社化を経て、2004年に持株会社の傘下へ入るという青写真であった。
東京海上の視点——「利ではなく義」の総合金融グループ
この構想を主導したのは東京海上、とりわけ樋口公啓社長であった。構想の発表にあたって樋口社長は、日本市場のウィンブルドン化を回避するため「利ではなく義の下に結集した」と宣言している[12]。国内の保険市場が外資系企業に席巻される事態はまかりならない、という主張であった。護送船団のもとで守られてきた王者が、規制の消える世界で自らの規模と業態を能動的に組み替える——生損保を束ねる総合金融グループは、料率自由化への守りであると同時に、外資への対抗という攻めの色彩を帯びていた。もっとも、旗印として掲げた「義」が、統合の細部を詰める実務の論理とどう折り合うかは、この時点では見通しきれていなかったとも読める。
日本市場のウィンブルドン化を回避するため、利ではなく義の下に結集した
相手側の思惑——日動火災と朝日生命
損保の相手役となった日動火災海上保険は[13]、当時、東京証券取引所に上場していた中堅の損害保険会社であり、東京海上との統合によって単独では描きにくい将来像を得ようとしていた。一方、生保として招かれた朝日生命保険は相互会社であり、藤田譲社長が経営を率いていた[14]。生損保が対等の立場で手を結ぶという建前のもと、規模も業態も異なる三者が同じグループに集う設計は、当初から統合の難度を内包していた。とりわけ生保の朝日生命は、株式会社化という重い前提条件を課されており[15]、そのハードルを越えられるかどうかが、構想全体の成否を左右する不確定要素として残されていた。
統合の経過
ミレアホールディングス設立——国内初の上場保険持株会社
2002年4月2日、東京海上火災保険と日動火災海上保険は共同株式移転によって完全親会社である株式会社ミレアホールディングスを設立し[16]、両社はその完全子会社となった。ミレアホールディングスは同日、東京証券取引所と大阪証券取引所の各第一部に新規上場する。国内で初めての上場保険持株会社であり、邦損保業界における持株会社化の先駆けとなった[17]。初代社長には東京海上出身の石原邦夫が就いた[18]。金融ビッグバンで持株会社制度が解禁されて間もない時期に、損害保険会社が持株会社という器を先んじて用意した意味は小さくなかった。
総合金融グループ構想の誤算——朝日生命の統合見送り
だが、この構想は器が整うより先に中身から綻んでいく。当初、東京海上は同じ三菱グループの明治生命保険を生保の相手として望んでいたが、明治生命は「株式会社化による経営統合は難しい」と首を縦に振らず[19]、規模で劣る朝日生命だけが残った。日経ビジネスはこれを構想の第一の誤りと評している。さらに生保事業への認識の甘さも露呈した。代理店による販売を主とするあんしん生命と、営業職員が販売を担う朝日生命とでは事業モデルが噛み合わず[20]、両者を統合する道筋は描けていなかった。生損保の融合という理念が先に立ち、それを支える実務の設計が追いついていなかったのである。
綻びを決定づけたのは、統合を急いだことによる無理であった。2001年11月、東京海上は朝日生命の新契約募集部門をあんしん生命へ譲渡し、2003年春をめどに合併を検討すると発表する[21]。あわせて朝日生命へ基金を拠出するなど信用補完的な行動に踏み込んだが、これは「経営統合まではお互いの自助努力で進める」とした当初の建前を踏み越えるものだった。東京海上自身が「明らかに一線を越えてしまった」[22]と振り返るこの前倒しは、株価の下落と社内の批判を招く。そして2002年1月31日、東京海上と朝日生命は生命保険事業の統合見送りを発表した[23]。両社の事業モデルの違いは、突き詰めれば東京海上が朝日生命に支払う営業権の代金の算定に及び、最後まで折り合えなかった[24]。
経営統合に向けて交わした協定書にも、救済という言葉はなかった
損保2社への縮退——共栄火災・朝日生命の離脱
生保の統合見送りに前後して、当初構想に名を連ねた他の当事者も離れていった。ミレア保険グループの当初構想は、東京海上・日動火災の損保2社に加え、朝日生命と共栄火災海上保険をも糾合する総合金融グループだった[25]。しかし共栄火災は2002年8月、JA共済連グループ入りに伴って離脱し[26]、朝日生命も2003年1月に経営統合の膠着を理由に離脱する。生命保険を含む総合金融グループという初期構想はおよそ2年で解体され、ミレアは事実上、東京海上と日動火災という損保2社の統合プラットフォームへと縮退した。業態を広げる器を用意したにもかかわらず、そこに収めるはずだった中身が揃わなかったのである。
統合の帰結
東京海上日動の発足と東京海上ホールディングスへの改称
損保2社に絞り込まれたミレアは、統合の総仕上げへ進む。2004年10月1日、持株会社傘下の東京海上火災保険と日動火災海上保険が合併し、東京海上日動火災保険株式会社が発足した[27]。生命保険を含む総合金融グループという当初の絵は解け、損害保険事業に焦点を絞った再出発である。共同株式移転で持株会社という器を先につくり、二年半を経てその下の中核損保を一つに束ね直す——形成から統合完了までを段階を追って進める設計が、ここでひとまず完結した。
器はその後、名も改めた。2008年7月、持株会社は株式会社ミレアホールディングスから東京海上ホールディングス株式会社へ商号を変更し[28]、グループの名をブランドとして統一する。ミレアという中立的な持株会社名が、創業以来の「東京海上」に置き換わったことは、総合金融グループという当初構想の退潮と、損害保険を軸としたグループ像の確立を象徴していた。生保を含む業態拡張を断念したこの縮退は、裏を返せば、成長の活路を地理的な拡張——2008年以降に本格化する海外M&A[29]——に求める下地ともなった。国内で業態を広げる器から、海外で規模を広げる主体へ。ミレアの縮退は、次の東京海上を準備する踊り場でもあった。
- 日経ビジネス 1998年3月16日号 No.932「東京海上火災保険 眠れる巨人が動き出した」(日経BP)
- 日経ビジネス 1998年8月3日号 No.952「直販はせず代理店と共存していく」(日経BP)
- 日経ビジネス 2001年11月19日号 No.1117「早まった朝日“解体”、次の再編の呼び水に 東京海上、依然明治にご執心」(日経BP)
- 日経ビジネス 2002年2月11日号 No.1128「朝日生命との統合見送り、なぜ? 混乱招いた東京海上の失態」(日経BP)
- 日本経済新聞 1996年12月15日「日米保険協議が決着」
- Impress Watch 2001年1月11日「名称は『ミレア保険グループ』~経営統合の東京海上、朝日生命、日動火災」
- 東京海上ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)