梶原熊雄が東京都豊島区西巣鴨にて旭光学工業を設立。眼鏡レンズの研磨を担当する町工場として創業した。販売先は眼鏡問屋であり、旭光学は下請としてレンズ研磨に従事した。
松本三郎氏は戦前の濱口内閣が「国産奨励」の政策を掲げたことを受けて、カメラの将来性に着目。小西六写真工業と共同でカメラの開発を決め、旭光学はカメラ向けレンズの研磨を担当した。この経緯から、旭光学は戦後にカメラメーカーとして発展する上で、技術的難易度の高いレンズの知見が溜まっていることが大きな強みに育った。
創業者の梶原熊雄氏や経営幹部が同時に病気がちになったことを受けて、旭光学に職工として勤務していた親戚の松本三郎氏(当時27歳)が経営を担うようになった。当時の社員数は10名程度の町工場であったが、それまで従事していたレンズ職工の仕事だけではなく、都内のメガネ問屋をめぐる営業活動にも従事し、工場の存続に奔走した。
戦時下の軍需品生産のための管理工場に指定されたことを受けて、個人事業から会社組織に変更。旭光学株式会社を設立した
一眼レフカメラに集中投資。新製品発売の度に画期的な技術機構を搭載してUXを改善
1950年前後の国内の中級機カメラは二眼レフの全盛期であり、リコーフレックスがシェアを獲得しており、中小メーカーを合わせると約50社が凌ぎを削っていた。
旭光学はレンズ研磨や双眼鏡などの業務用ニーズに応えてきた企業であり、最終消費者向けの一眼レフカメラを販売するにあたって販路の構築が課題となった。加えて、カメラを取り扱う大手問屋はニコンやリコーなど取引しており、後発のペンタックスが参入できる余地がなかったと思われる。
そこで、ペンタックスは一眼レフの販売にあたって、時計・宝飾品を販売する服部時計店(セイコーHD)と特約店契約を締結することを決めた。当時のカメラは高級品であり、時計と同様の精密機械であったことから、時計の販路に一眼レフカメラを流すことで販路の確保を目論んだ。
発売は昭和27年(注:1952年)だが、何しろ二眼レフ全盛時代であり、しかも当社はカメラメーカーとしてはまったくの無名であったため、販路の開拓は簡単ではなかった。一流のカメラ問屋に持ち込んでみたものの、かたっぱしから取り扱いを断られた。「よくはできているが、今の時代に売れるとは思えない」というのがその理由であった。結局、取り扱ってくれることになったのが服部時計店である。
カメラの量産体制を構築するために、1952年に本社を板橋区前野に移転した。以後はペンタックスの主力工場として活用された。
旭光学は国内向けに加えて、輸出に注力するため1955年に旭光学商事を設立。北米輸出では小売業大手のシアーズローバック向けに輸出契約を締結するなど、輸出比率の向上を目論んだ。
アサヒフレックスは一眼レフであったが、撮影時にカメラの上部から覗く必要があり、自然な形での撮影が難しいという問題を抱えていた。そこで、旭光学は被写体と同じ目線で撮影できるカメラの開発を急いだ。技術的には「五角形のペンタリズム」をカメラボディー組み込むことにより、この問題を解決。1957年に被写体と同じ目線で撮影ができるカメラとして「アサヒペンタックスS2」を発売した。
ペンタプリズムを内蔵して撮影者にとってわかりやすいカメラとしてシェアを確保。ペンタックスのブランドが国内に浸透するきっかけとなった。
一般の人が、老若男女、子供を問わず誰でも簡単に被写体を捉えて写せるカメラというのには、このウエストレベル(注:上から覗き込んで撮影する従来方式)は少々無理なものだった。私は35mm一眼レフをより普及させるには、この点の解決を図らなければならない、と考えた。 顔の前に構え、目の高さで被写体を捉えて写すカメラなら、誰でも簡単に操作できる。この高さをウエストレベルに対してアイレベルと呼ぶが、そのアイレベルのカメラの開発を考えたのである。目の高さでのぞくと言っても今日なら当たり前のカメラだが、当時は画期的なものだった。アサヒペンタックスS2がアイレベル第一号である。五角形のプリズム、ペンタリズムを組み込むことによって、アイレベルの問題を解決したのだ。
当時のカメラは二眼レフの前世時代で、国内に50社近い二眼レフメーカーがあって、すでに激しい販売競争を展開していたと記憶している。カメラの生産に乗り出そうと考えていたものの、今更二眼レフを作ったのでは、先発メーカーに伍していくのは容易ではない。どうせ努力するなら他社がまだ作っていないカメラをやろう、ということで開発に着手したのが35mmの一眼レフカメラである。(略) 当時、35mmの一眼レフカメラとしては東ドイツ製のエグザクタというカメラがあったが、このカメラは形が大きく、重量が重いだけでなく、シャッターを押すとミラーが上がってしまい何も見えなくなり、次にシャッタを押すためにはレバーを巻いてミラーを下げなければならない、という煩雑な機構のもので、そのためあまり人気を博していなかった。私はこうしたエグザクタの欠点を改良したカメラを作れば、ある程度の需要は喚起できるとの考えで、35mm一眼レフカメラの試作、研究に着手した。
TTL(焦点露出計測)を世界で初めて開発。一眼レフの国内シェア25%を確保
経営多角化のためにライフサイエンス領域(内視鏡)に新規参入。先発のオリンパスと競合しつつも、2000年代にはペンタックスのイメージング事業(カメラ製造販売)の不振をカバーする高収益事業に育った。
輸出カメラが中心だったペンタックスは、経営の多角化を図るために新規事業に参入。1983年に人工歯根「アパセラム」を開発し、医療分野への参入として注目を集めたが、同事業はペンタックスを成長させる原動力にはならなかった
主流の35mmフィルムではなく、120フィルムの規格(35mmよりも大きく解像度が高い)に対応した中判一眼レフを開発
円高ドル安の進行を受けて海外生産移管を開始。円高が進行に対して移管が遅れ、カメラ事業の採算が悪化
1993年にペンタックスは93億円の最終赤字に転落。赤字の内訳は、ハネウェルに対するオートフォーカスカメラの特許訴訟の敗訴や、財テクの失敗も含まれるが、主な要因はカメラ生産における生産調整による工場稼働率の低下であった。
デジタルカメラの台頭に乗り遅れたことを受けて中期経営計画を策定。内視鏡は業績好調なものの、カメラの不振をカバーできず
経営不振を打開するためにHOYAとの経営統合を計画。HOYAはペンタックスの内視鏡事業の取り込みが狙い。一方、ペンタックス社内で反対論が噴出し、最終的にはTOBで決着へ
カメラ主体のペンタックスはHOYAのTOB後も業績不振が続き、2011年にHOYAはペンタックスの売却を決定。売却先はリコーとなる
HOYAおよびリコーの傘下で、ペンタックスの不良資産を清算。人員は削減し、固定資産は旧本社工場を含めて閉鎖および売却へ