計画策定の背景
東レは戦後、レーヨンを起点にナイロン、ポリエステルへと事業を拡張し、1970年代以降は樹脂、フィルム、炭素繊維などへ多角化を進めてきた。高分子化学を中核とする技術基盤を活かし、長期視点で研究開発投資を継続できたことが競争力の源泉となり、特に炭素繊維では航空機用途を中心に世界的な地位を確立した。一方で、事業領域の拡大とともに、低成長・低収益事業を内包したポートフォリオが固定化し、売上規模に対して利益率が伸びにくい構造が顕在化していった。
2010年代後半以降、PBR1倍割れが常態化する中で、成長投資を継続するだけでは企業価値が十分に評価されない局面に入った。投下資本と利益の対応関係を事業別に精査すると、数量維持を優先してきた一部事業が資本効率を押し下げていることが明確となった。こうした問題意識を背景に、東レはROICを上位概念とする経営への転換を明示し、成長戦略と並行して低収益事業の再設計を進める枠組みとしてAP-2025および構造改革施策であるDプロを位置づけた。
経営の基本方針
AP-2025では、全事業を成長性・収益性・競争力の観点から再評価し、資本配分の優先順位を明確化することを基本方針とした。炭素繊維や先端材料など、高付加価値かつ中長期的な成長が見込める領域には研究開発や設備投資を重点配分し、技術優位性の強化と収益力の底上げを図る。一方で、既存設備を前提とした数量拡大型の事業については、規模維持を前提とせず、価格、固定費、稼働率を分解した上で収益改善余地を検証する姿勢を明確にした。
Dプロは、低収益事業を一括整理する施策ではなく、ROICの視点から事業ごとに成立条件を再設計するための装置として位置づけられている。縮小や撤退は目的ではなく、投下資本に見合う利益を生み出せるかを検証した結果として選択される手段である。成長投資と構造改革を同一の評価軸に置くことで、東レは事業ポートフォリオを固定化させず、持続的にキャッシュ創出力と資本効率を高める経営への転換を目指している。
Author's Questions
これまでの東レの成長戦略は、なぜ企業価値の改善として十分に積み上がらなかったのか。
東レは炭素繊維をはじめとする先端材料で世界的な競争力を確立しつつ、樹脂、フィルム、繊維など幅広い事業を抱え、売上規模を拡大してきた。一方で、過去の中計では成長投資を優先する中で、低収益事業の見直しは段階的・部分的にとどまり、ROICやPBRといった企業価値指標の改善は後追いになってきた。今回のAP-2025では、こうした過去の意思決定と比較して、企業価値の観点で何を最も変えようとしているのだろうか。
今回のAP-2025とDプロでは、本当に「やり切る」ために判断の前提が切り替わったと言えるのか。
これまでの中計では、成長領域への投資を継続する一方で、既存事業については規模維持や市況回復を前提とした改善が選択されてきた。DプロではROICを基軸に事業の成立条件を再設計するとされているが、これは従来の『成長を優先しつつ改善する』という前提から、『成立しない事業は構造的に見直す』という前提への転換だと言い切れるのだろうか。
もしAP-2025が想定通りに進まなかった場合、東レは本当にこれまでと違う選択を取れるのか。
過去の意思決定では、低収益事業であっても事業ポートフォリオの一部として維持し、時間をかけて改善を図る判断が繰り返されてきた。今回のDプロでは、どの事業で、どの水準のROICや収益性を下回った場合に、縮小や再設計、撤退といった判断に進むのかが、これまでの中計と比べてどこまで具体化されているのだろうか。


東レの技術開発は、特定の事業成功を起点に始まったものではない。創業期から一貫して、短期収益よりも技術の蓄積を優先する姿勢が組織に組み込まれていた。レーヨン、ナイロン、ポリエステルといった合成繊維の展開においても、市況対応より研究開発の継続が優先され、事業の成否にかかわらず技術が蓄積され続けた。
この姿勢は、炭素繊維事業において最も明確に表れた。東レは1970年代から炭素繊維に本格投資を行ったが、当初の用途は限定的で、市場規模も不透明であった。事業化までには長期間の赤字と研究投資が必要であり、短期的な収益指標では合理性を説明しにくい領域であった。それでも東レは撤退を選ばず、材料設計・製造プロセス・用途開発を同時並行で積み上げた。
結果として、炭素繊維は航空機、スポーツ、産業用途へと用途を拡張し、東レの中核事業へと成長した。ただし重要なのは、東レが炭素繊維で成功した理由が「将来を正確に予見したから」ではない点である。技術開発を止めないという判断が、結果として市場の立ち上がりと一致したにすぎない。
東レの競争優位は、個別技術の先進性よりも、長期投資を許容する意思決定構造にあった。研究開発を事業成果で即時評価せず、時間軸を長く取る前提が経営と株主の間で共有されていたことで、他社が撤退する局面でも投資が継続された。この構造が、炭素繊維のような立ち上がりの遅い技術分野で差を生んだ。
東レの事例は、「技術に伝統がある」という表現が、精神論ではなく、資本配分と評価制度の積み重ねによって成立することを示している。技術開発を続ける企業は多いが、成果が出るまで続けられる企業は限られる。東レの強さは、技術そのものよりも、それを待ち続けられる構造にあった。