1896年に川西清兵衛氏が27名の出資者とともに神戸で設立した毛織物会社が起源。
1964年に日本でのウールマーク使用認可第1号を取得し、1988年には工場跡地にニッケコルトンプラザを開業した。衣料繊維・産業機材・人とみらい開発・生活流通の4区分を持つ毛織物の老舗である。
1896年に日本毛織として設立。
1942年に昭和毛絲紡績を合併し、2006年にゴーセン、2014年にナイスデイを子会社化した。2024年に不織布の呉羽テックを子会社化。毛織物から寝具・スポーツ用品・不織布へ多角化を進めた。
日本毛織は1896年12月3日、神戸で資本金50万円で発足した。発起したのは羊毛工業の先行きに期待をかけた創始者の川西清兵衛氏で、有馬市太郎氏、小曽根喜一郎氏、沢田清兵衛氏ら有志27名を誘っての旗揚げ。当時の国内の毛織物工場は官営の千住製絨所と2、3の小工場に限られ、羊毛製品の大半は海外からの輸入でまかなわれた。前年の1895年には原毛の輸入税が撤廃された。これを受け、東京製絨は毛布とフランネルの生産に着手し、大阪毛絲紡績も改組して日本フランネルとなった。毛糸、毛布、モスリン、羅紗、フランネルの国内生産が一通りそろったのも、この時期である。原料を輸入しやすい条件が整ったので、川西清兵衛氏らは輸入品に置き換わる国産の毛織物に事業の余地を見たとみられる。
日本毛織は当初、工場の敷地を明石の市内に定めて建設工事に着手した。ところが明石城の跡地が離宮の候補にあがり、工場の煙突が景観を損なうとして移転を命じられた。日本毛織は代わりに兵庫県加古川町へ新たな敷地を求め、そこに最初の工場を建てた。日本毛織の加古川工場は1899年5月に竣工し、竣工と同時に操業を始めた。設立から操業開始までに要した期間は約2年5か月である。加古川にはその後、1915年に第4工場、1917年に第5工場が増設された。着工済みの敷地を離れて工場を移したことで、明石での工事費の一部は回収できず、国産の毛織物を市場に出す時期は見込みより遅れたと推察される。
操業を始めた日本毛織は技術が未熟で、品質にすぐれた輸入品に劣位に置かれ、経営と技術の両面で苦しんだ。最初の製品に選んだのは、都市と農村の双方で広く使われた赤毛布である。当時の社長はみずから見本を背に負い、大阪の問屋を1軒ずつ訪ねて販路を開いた。赤毛布の製造は創業期の日本毛織の主な事業となった。国内の毛織物業では和服用の小幅物が生産の主体で、官公庁の制服に使うラシャとセルジスは輸入品が多くを占めた。軍用の厚地毛織物も、国内の生産では足りず、輸入に依存した。技術の要求が高い洋服地を避け、買い手の多い毛布から入ったのは、輸入品と正面から競わずに売上を得るための選択だったと思われる。
日本毛織は輸入品との品質差を縮めるため、技師を海外へ派遣し、外国から高級技師を招いた。派遣と招聘を重ねた結果、品質の高い毛織物を製造できるようになり、セル・サージ・ラシャへ品目を広げた。1901年4月には、警察官と司獄官の制服に用いるラシャを納入した。同じ1901年10月には、「毛」の字を太陽を表す日の字で囲んだ「日毛」の商標を特許局に登録。国内では明治初期から軍服の採用と、警察官・鉄道・郵便の職員の洋服化が進み、1892年ごろには都会で男性の洋服姿が珍しくなくなった。赤毛布の次に官公庁向けの制服地を手がけたのは、洋服地のまとまった買い手がまず官公庁にあったためだろう。
日清・日露の戦争を機に軍用絨の需要が増え、厚地の毛織物は国産だけでは足りない状況が生まれた。日露戦争中は民間の毛織物会社も軍絨の製造に加わったが、軍の需要を満たせなかった。戦後は国産を奨励する機運が高まり、各社が設備を大幅に拡張した。日本毛織では、1905年6月に軍隊へ納めた絨地が軍絨の規格に採用された。1907年11月には資本金を150万円に増資し、加古川工場を拡充して製絨設備を増やした。あわせて和服地のモスリンの製造を始めた。友禅加工が発達したことで、モスリンの需要は日清戦争後に増え、日露戦争後の各社の増設で輸入は抑えられた。軍絨の規格を握ったことで、日本毛織は軍需の製絨を事業の中核に据えることができたと考えられる。
日本毛織は1907年の設備拡充にあわせ、トップを自社でまかなう体制を業界で最も早く整えた。国内の毛織物業は、日本毛織が1909年に梳毛紡績に着手するまで、トップを輸入品に依存した。日露戦争後にモスリンの輸入は抑えられたものの、その原料の段階では海外への依存が続いた。日本毛織は1908年、1912年、1915年と増資を重ね、設備を順次拡充しながら大正期に入った。毛糸の紡績を担ったのは姉妹会社の日本毛糸紡績で、1918年の合併の時点の工場は姫路と岐阜の2か所である。トップを自社の工場で作るようになったことで、日本毛織は輸入トップの値動きや船便の遅れに織機の稼働を縛られにくくなったとうかがえる。
第一次世界大戦中の1914年秋から1917年にかけて、日本の毛織物業はロシアから軍絨を大量に受注した。国内の製絨の年産は、1914年の260万碼から700万〜800万碼まで増えた。1915〜1916年の露国軍絨の注文は総計1,510万碼で、そのうち745万碼が日本毛織の分担である。日本毛織は1915年5月に資本金を500万円に増資し、加古川第4工場を新設して薄絨とネルの製造を始めた。1916年1月には白毛布と白モスリンを英国へ輸出。ロシアからの大口の軍絨注文は、ラシャやセルジスの広幅毛織物を国内で育てるきっかけになった。日露戦後に軍絨の規格を得ていた日本毛織は、この注文の約半分を担える設備と技術を備えていたと推察できる。
大戦で欧州からの毛織物の輸入が途絶えると、国内の毛織物と毛糸の相場は急騰した。1916年にはモスリンの値が1ヤード20銭台から1円70銭に上がり、モスリンと毛糸の工場は大きな利益を上げた。国内の毛製品の消費は大戦を境に倍増し、和服用のモスリンが全盛期を迎えた。一方で機械設備と原料の羊毛が不足し、業界の生産量は大戦前の水準を下回った。日本毛織は1917年10月に加古川第5工場を竣工し、雑種羊毛を用いた毛糸の製造を始めた。1916年1月の白モスリンの英国への輸出は、民需の品目で海外の販路を得た例にあたる。雑種羊毛の毛糸に着手したのは、原料羊毛の不足を補う手立てだったと解される。
日本毛織は1918年8月、姉妹会社である日本毛糸紡績と合併し、姫路と岐阜の2工場を加えた。翌1919年には印南工場を建設し、増資によって資本金は2,000万円となった。資本金は1915年5月の500万円から4年で4倍になった計算である。この合併と新設により、日本毛織は毛糸を紡ぐ工場と毛織物を織る工場をともに自社に抱える一貫会社の地位に立った。大戦中の毛織物業では、各社が増資と設備の拡張を進め、御幸毛織をはじめ数社が新たに創立された。第一次世界大戦の期間を通じて、毛織物の各社は大きな利潤を上げた。好況の利益を元手に、梳毛から織物までの工程を1社に統合し、次の印南工場の操業へ進んだと推定される。
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事実根拠:出所(日本毛織)