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歴史
DCブランドからSPAへの転換で成功したが、EC対応で失敗

ファイブフォックスは1976年、上田稔夫氏が創業し「コムサ・デ・モード」でDCブランドブームを牽引。直営・路面店展開や接客均質化で急成長し、1990年代にはSPA体制を構築、郊外SC向け「コムサ・イズム」や大型店で事業を拡大。2007年に売上高1700億円・従業員7400人とピークを迎える。しかし2008年のリーマンショック後に大幅減収、EC対応の遅れも響き、2013年まで6期連続減収。2023年には売上高約300億円・従業員1500人に縮小し、衰退局面を迎えた。

事業
コムサのブランド展開で時代を築く

ファイブフォックスは1976年創業、「コムサ・デ・モード」でDCブランドブームを牽引し、直営・路面店展開で急成長。接客均質化や在庫責任を伴う販売方針でブランド力を確立したが、1988年に創業者がブーム終焉を認識。1991年からSPA体制構築に着手し、海外生産でトレンドに合わせた商品を仕入れ、プロパー消化率を改善。1995年には郊外SC向け「コムサ・イズム」を展開し、2000年代初頭に大型店路線へ転換。SPA化で一時的に成長を維持したが、EC投資の遅れや消費変化に対応できず、2008年以降は長期低迷に転じた。

人物
創業者・上田稔夫氏

上田稔夫氏は1946年生まれ、愛媛県出身。婦人服専門店「鈴屋」で勤務した後、1976年に独立し、仲間4人とファイブフォックスを創業。黒やグレーを基調とした「コムサ・デ・モード」を展開し、1980年代のDCブランドブームで急成長。1990年代からはSPAによる郊外大型店の出店を推進し、ピーク時に売上高1700億円を達成した。2024年没。

地域
ファッショントレンドの地で事業展開

ファイブフォックスは1976年、東京・広尾でマンションメーカーとして創業し、その後は本社を原宿(北参道・千駄ヶ谷)に置いた。同年池袋パルコに「コムサ・デ・モード」1号店を出店、1978年に直営店展開を開始。1984年には東京・青山に路面店を開き、原宿・青山・池袋といった当時のファッション発信地でブランドを育成し、若者文化と連動して成長した。

売上
ファイブフォックス:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
n/a億円
売上高:2024/8
利益
ファイブフォックス:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
%
利益率:2024/8
1976
8月

ファイブフォックスを設立

マンションメーカーとして創業

女性向けアパレルメーカーの鈴屋の社員であった上田稔夫氏(当時30歳)が独立を決め、東京広尾で「ファイブフォックス」を設立。マンションメーカーとしてアパレル事業に参入した。

コム・サデ・モードをブランド展開

上田稔夫氏はデザイナーズブランドとして「コムサ・デ・モード」を展開。マンションメーカーで資金力に乏しかったため、黒やグレーを基調としたブランドとして育成した。

証言
上田稔夫(ファイブフォックス・創業者)

婦人服の専門店に勤めていて仕入れの責任者だった。しかし、途中入社だったこともあって、このままいてもあまりお役に立てそうもないとの思いがあった。そこで自分で作ってみようと、仕事で知り合った仲間四人とファイブ・フォックス設立へ踏み切った

1976

池袋パルコに「コムサ・デ・モード」を出店

証言
上田稔夫(ファイブフォックス・創業者)

 「店を出してみないか」。一九七六年、パルコ池袋店の店長をしていた知人から出店依頼がきた。予定していたアパレルメーカーが一週間前になって出店をとりやめたというのだ。私はすぐに、その話に飛び付いた。これが我が社の第一号店となった。

1990/7/27 日経産業新聞:ファイブ・フォックス社長上田稔夫氏――パルコへの第1号店(転機)
1978
8月

コムサ・デ・モードの直営1号店を開店

直営店舗でDCブランドを展開

若者向けの男女(18歳〜30歳)をターゲットとした主力ブランド「コムサ・デ・モード」を積極展開するために、1978年に直営店1号点を開店。以後、直営店を中心に、FC・インショップ(丸井向けが中心)の店舗展開を積極化した。

店舗接客に注力

上田稔夫氏は、アパレルメーカーとして差別化を図るために、若者向けのデザインに注力するのと並行して、小売を自社で完結する店舗併設型のメーカーを志向。店舗における接客の均質化にこだわった。具体的には「店憲法」と名付けた接客マニュアルを作成し、100ページに及ぶ注意事項を記載して、アルバイトを含む店員に配布した。

店舗接客においては「あいさつ」を徹底し、顧客が気持ちよく買い物ができるような仕組みを平準化した点で、当時のアパレル企業として異色の施策であった。

証言
上田稔夫(ファイブフォックス・創業者)

大手アパレルと勝負するにはどうしたらよいかを考えながら、いろいろ見て歩くうちに”店で勝負”との結論に達した。卸から小売り直営、FC方式などと。消費者は買い物をする時、店でしか判断しないのだから

1984
12月

直営店100店舗を突破

1980年代を通じたDCブランドブームによって、ファイブフォックスは「コムサ・デ・モード」を中心に販売高を拡大。若者を中心とした口コミや、メンズノンノなどのファッション雑誌を通じて、若者向けブランドとして定着するに至った。

1984年度に直営店舗数135店を記録して100店舗(うちコムサ・デ・モードの直営店舗は87店)を突破。急成長のDCブランドとして注目を浴びた。なお、非直営店(百貨店やパルコ、マルイなどへの出店)では、コムサの社員が店舗販売を担当し、自社で在庫責任を背負い、小売の委託を避ける方針をとった。

証言
矢野経済研究所

売上高132億円(前年比183.3%)、利益高159億円(利益率12.0%)のファイブフォックスは急成長をみせるDSCメーカーの単独企業としてはビギ、ニコルを抜いて第1位の企業である。しかも設立8年目で100億円企業に仲間入りした。もっとも急成長した企業であり、もっとも注目される企業の1社である

1984

路面店1号点を開店

東京青山でコムサ・デ・モードの路面店1号店「青山店」を開店。商業施設内の回遊顧客が多いパルコや丸井向けではなく、独自の路面店を出店したことで、得意客を確保できるかどうかの試金石となった。実際に顧客獲得は順調に進み、土地柄から芸能関係者・クリエイティブ職種の得意客を多く獲得したという。

1987
10月

リネアフレスカを買収

1988
5月

創業者がDCブランドの終焉を認識

1991

SPAの構築を開始

アジア(中国と推定)における生産体制を1991年から1994年にかけて構築し、価格競争力の確保に奔走。この結果、ファイブフォックスは、DCブランド発の国内のアパレルメーカーとしては、SPAの先駆け的な企業となった。

1991

上田社長がリストラ宣言

1992
3月

外債を発行(スイスフラン)

店舗投資のために外債による18億円の資金調達を実施

1995
3月

郊外SC向け「コムサ・イズム」の出店を加速

SPAの確立を契機として、郊外ショッピングセンター向けのブランド「コムサ・イズム」の展開を開始

1997
4月

大量採用を志向

店舗拡大を受けて、年間900名の新卒採用を計画

1998

店舗の大型化を志向

2001
11月

大阪梅田に大型店の開業(ヨドバシカメラ)

梅田に開業するヨドバシカメラに「コムサ」の出店を決定

2008
8月

大幅減収

リーマンショックを機に大幅な減収となり「コムサ」の展開に陰り。

2013
8月

6期連続減収

ECなどのネットチャネルへの投資を見送った結果、店舗における販売低迷とともに売上高が低迷。

2023
8月

販売不振により業績低迷

ピーク時の売上高1700億円(FY2007)に対して、2023年度の売上高は約300億円に低迷。この間、従業員数は約7400名(FY2007)から約1500名(FY2024)に推移し、約17年間で約6000名が減少した。

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