北関東における鉄道敷設のために、明治30年に東武鉄道株式会社を設立。計画路線は「東京本所〜久喜・館林・足利」に至る路線であり、東京・埼玉・群馬・栃木の県にまたがる長距離路線を志向した。
創業時の発起人は川崎八右衛門氏など11名であり、初代社長には末延道成氏が就任した(なお、東武鉄道の実質的な創業家として知られる根津氏による経営参画は、1905年以降である)
経営不振に陥っていた東武鉄道について、経営再建を図るために根津嘉一郎氏が株式を取得して経営に参画。利根川の架橋による栃木方面の路線拡充などの改革により、経営状況を改善。根津氏は東武鉄道における「中興の祖」として経営に従事し、東武鉄道における根津家の経営支配がスタートした。
初代根津嘉一郎氏の逝去に伴い、2代目根津嘉一郎氏が社長に就任。2代目嘉一郎氏は1994年に社長を退任するまで東武鉄道の経営トップを歴任し、同族経営を志向した。
1962年から東武伊勢崎線と地下鉄(メトロ)日比谷線の相互乗り入れ運転を開始。北千住駅で日比谷線に直通することで、伊勢崎線と都心部(人形町・銀座・日比谷・六本木・恵比寿など)への利便性が向上した。
本線(注:伊勢崎線)も都心乗り入れをやる。これは昭和37年3月にまず人形町まで、それから続いて工事を進めて、銀座を通って東横線の中目黒までゆく。これは東武で直接穴を掘るのではなく、帝都高速営団が2号線を掘るのですが、それに東武の北千住駅から乗り入れる。
そして銀座をとって中目黒までゆく。中目黒で東横線と連絡して、東横線はまた中目黒から乗り入れてくる。そうすると沿線が都心と直結しますから、非常に開発される。そのために今でもすでに地価が上がっています。本線の沿線は今までは水田が多くて住宅事情は良くなかったが、そうなってくると水田を埋めて住宅になってきますよ。
百貨店の海外展開のため、米国サックス社の買収を計画。想定していた買収価格は10億ドル〜12億ドルであったが、買収に際してアラブ系企業(インベストコープ)が15億ドルで買収。この結果、東武百貨店としてはサックスの買収を撤回する形となった。
東武のオーナー(根津家)としてはサックスに買収に積極的であったが、東武百貨店の吉野社長は買収に消極的であった。この結果、オーナーである根津家は、サックス社の買収失敗を受けて東部百貨店の更迭人事を決定。1990年4月25日に東武百貨店の吉野平八郎氏は社長を辞任し、さまざまな憶測を呼んだ。
後任として、東武百貨店の実質的なトップには、根津公一氏が就任。根津家による百貨店事業への経営支配を強化した。
私の退任がサックス買収失敗のためと思われるのは、時期からすれば無理はありません。誤解なのですが、実はみんなが納得するなら、それでいいんじゃないかと考えたんですよ。
サックスについていえば、本当のところ私は最初からかなり消極的でした。応札はなんとなく時の流れで、と言いますか、それほど乗り気ではなかったんです。(略)
私は途中から「危ないからやめろ、深追いするな」と言っていたんですが、スタッフが若いものですから、止まらなかったんです。結果はご存知の通り、うちは2番札(注:東武百貨店は12億ドル)で負けました。だけどインベストコープが思い切って15億ドルも出してくれたからよかったんですね。
1992年6月に東武百貨店は旗艦店である池袋店の大規模な増床を完了。増床前の売り場面積は4.4万㎡に対して、増床後の売り場面積は8.3万㎡。それまで日本最大であった「そごう横浜店」を抜き、東武百貨店の池袋店は、売り場面積で日本トップの百貨店として増床を完了した。
ただし、1994年に横浜そごうが蔵相を実施して9.4万平方メートルの売り場面積を確保したため、東武百貨店池袋店の「日本1位」の記録は約2年で途切れた。
池袋駅のターミナル型百貨店としては、長年にわたって「池袋駅東口側」の西武百貨店(売り場面積6.5万㎡)が存在感を示しており、売り場面積では「そごう横浜店」に次ぐ国内2位であったが、年間売上高は4,114億円(FY1989)で国内トップであった。このため、競合かつ日本売上トップの西武百貨店池袋店に対抗するため、東武百貨店は「池袋駅西口側」で大規模な増床で対抗する道を選択した。
東武百貨店池袋店の増床に合わせて、東武鉄道は池袋駅西口周辺における再開発を決定。投資額は約900億円を予定し、東武百貨店の増床に合わせて集客力のある街づくりを志向した。
順位 | 企業名 | 店舗名 | 売場面積 |
1位 | 横浜そごう | 横浜店 | 6.8万㎡ |
2位 | 西武百貨店 | 池袋店 | 6.5万㎡ |
3位 | 近鉄百貨店 | 阿倍野店 | 5.8万㎡ |
4位 | 横浜高島屋 | 横浜店 | 5.3万㎡ |
5位 | 伊勢丹 | 新宿店 | 5.1万㎡ |
6位 | 三越 | 日本橋店 | 5.0万㎡ |
7位 | 阪急百貨店 | 本店(梅田) | 5.0万㎡ |
- | 東武百貨店 | 池袋店(増床前) | 4.4万㎡ |
「百貨店だけではなく、ひいてはグループの命運がかかっている。今回の蔵相は絶対に失敗が許されない。」
「売り上げでみれば都内7番目で、利益もそこそこ上げている。中堅百貨店としてこのままやっていこうとすればできる。だが今後のグループの展開のためにも、今打って出る必要がある。」
業績改善のために、人員の合理化を決定。社員1500名の子会社転籍と、社員150名の希望退職者の募集を決断し、固定費削減を実施した。
高層化が進行する東京都内において、地上デジタル波放送を放映するために、2003年12月に600m級の電波塔の建設計画が東京放送事業者6社によって立案された。その上で、建設予定地として、東部押上駅周辺の貨物駅跡地が選定された。
すでに2003年に押上駅では地下鉄半蔵門線と東武線の相互乗り入れ運転が開始されており、跡地の再開発の議論が進行する中で、東武鉄道は電波塔の候補地として押上を選定した。
最終的に電波塔の建設予定地は、東京・埼玉における10箇所の候補地が選定され、最終的に東武鉄道が保有する押上駅周辺に決定された。選定理由は、東武鉄道の保有地のため土地確保が容易である点、地元墨田区の誘致姿勢があった点、観光地である浅草に隣接しており観光収入を確保できる点、であった。
東武鉄道としては、電波塔「スカイツリー」の建設に合わせて押上駅周辺の土地を提供するとともに、周辺地区の再開発を実施。総額1430億円を投資して、スカイツリーの開業に合わせた設備投資を実施した。
巨額投資であったため、東武鉄道としては「スカイツリー」に関する投資の回収期間は「25年」に設定した。なお、スカイツリーの開業後における収益については「地デジ電波塔使用料」「商業施設への集客向上」「鉄道利用者の増加」を主軸とし、東武鉄道におけるレジャー事業として運営した。
約44ヶ月の工期を完了し、2012年5月に東京スカイツリーが開業。2012年度以降、東武鉄道の「レジャー事業」のセグメント利益が大幅増益を達成。