歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1897年11月、北関東への鉄道敷設を目的に資本金265万円で東武鉄道が設立され、初代社長には末延道成が就いた。1899年8月に伊勢崎線北千住〜久喜間で営業を始めたが、用地買収の難航と沿線需要の伸び悩みで経営は振るわなかった。1905年、不振を打開するため山梨出身の相場師・実業家である根津嘉一郎が株式を取得して経営に参画する。根津は社内の冗費を削る一方、利根川に約40万円を投じて549mの大鉄橋を架け、群馬・栃木方面へ路線を延ばした。当時として異例の規模の鉄橋投資を足場に、東武鉄道は関東最大の路線網へと拡大していく。
決断根津家が選んだのは、自社線をひたすら延ばすのではなく、他社線との相互乗入れで沿線価値を高める道だった。1962年5月の日比谷線直通で水田が広がっていた伊勢崎線沿線の宅地化が進み、1987年の有楽町線直通までに、追加の線路投資を抑えてネットワーク効果を取る方針が固まる。一方で単独で踏み切った投資は明暗が分かれた。1992年の池袋店増床はバブル崩壊で回収が長期化したが、2012年に約1,430億円を投じたスカイツリーはレジャー事業の利益を押し上げ、回収期間25年という同族経営ならではの超長期投資が成果を生んだ。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1897年〜1960年 根津家と路線網の拡大 ── 明治末から戦後初期にかけての基盤形成
利根川を越えた鉄道王 ── 根津嘉一郎氏の参画と伊勢崎線の全通
1897年11月、東京から北関東を結ぶ鉄道を敷設する目的で東武鉄道が設立された。資本金265万円、初代社長は末延道成である[1]。1899年8月に伊勢崎線の北千住〜久喜間が開通して営業を開始したが[2]、用地買収の難航や沿線需要の伸び悩みで、以後の経営は振るわなかった。1905年、経営不振を打開するため山梨出身の相場師・実業家である根津嘉一郎氏が株式を取得して経営に参画した[3]。根津氏は社内の冗費を削減する一方、利根川に約40万円を投じて549メートルの大鉄橋を架設し、路線を群馬・栃木方面へ延伸する積極策に転じた[4]。当時としては異例の規模の鉄橋投資であり、この判断が東武鉄道の路線規模を決定づけ、後の関東最大の私鉄路線網への布石となった。根津氏は後に関東の鉄道・電力・金融など多様な事業で手腕をふるう。
1910年に伊勢崎線が全通し、1912年に佐野鉄道、1913年に太田軽便鉄道を吸収して集客圏を広げた[5]。1920年には東上鉄道を合併して東上線を取得し、伊勢崎線系統と東上線系統の2大路線体制を作った[6]。1929年4月に日光線が全通し、電車で100キロメートルを超える長距離運転を私鉄として最初に開始した[7]。日光は国際的な観光地で、この路線がのちのスペーシア、スペーシアXに連なる特急系統の出発点となり、レジャー事業の足場ともなった。同年には不動産事業を拡充し、鉄道と沿線の土地開発を一体で進める事業モデルに着手した[8]。日光線全通と不動産事業の立ち上げが同年に重なり、後年のレジャーと不動産という二本柱の足場ができた。
戦時統合と2代目根津嘉一郎氏の同族経営
1931年5月に浅草雷門(現・浅草)〜業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間が開通し、都心との接続が完成した[9]。浅草は当時東京最大の繁華街であり、この接続で沿線の利便性が向上した。1930年代後半から戦時統合が進み、1937年に上州鉄道、1943年に下野電気鉄道・越生鉄道、1944年に総武鉄道(現在のアーバンパークラインの基盤となる野田線等を保有)を相次いで合併し、1947年には国鉄熊谷線に関する事業も引き継いでいる[10]。この結果、東武鉄道はJRを除く関東最大の路線網を有する私鉄となった[11]。営業キロ数は463.3キロメートルで、全国でも近畿日本鉄道に次ぐ規模である[12]。戦時統合は以後の東武鉄道が担う地理的な広がりを形づくり、戦後のレジャー・不動産事業の下地にもなった。
1941年に初代根津嘉一郎氏が逝去し、2代目根津嘉一郎氏が社長に就任した[13]。2代目は1994年まで約53年間社長を務め、同族経営を維持した[14]。1949年に東京証券取引所へ上場し[15]、1929年に始めた不動産事業を本格化させた。流通・小売事業へは1958年に東武宇都宮百貨店、1960年に東武百貨店・東武会館(現・東武ストア)を設立して進出した[16]。1962年には東武百貨店池袋店を池袋西口に開業し[17]、東上線のターミナルに百貨店を併設する事業モデルに移った。鉄道を中核に百貨店・スーパー・不動産を並べるグループ構成が2代目体制の戦後復興期から高度成長期にかけて出来上がり、以後の東武グループの事業ポートフォリオの土台となった。
1961年〜1994年 都心直通と沿線開発 ── 相互乗入れ時代と複合事業化の進展
自社路線を延ばさず他社網に結ぶ ── 相互乗入れによる沿線価値の引き上げ
1962年5月、東武伊勢崎線と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)日比谷線の相互乗入れが始まった[18]。北千住から銀座・六本木・恵比寿へ乗り換えなしで結ばれ、それまで水田が広がっていた伊勢崎線沿線の宅地開発が加速した。2代目根津嘉一郎社長は「沿線が都心と直結しますから、非常に開発される。水田を埋めて住宅になってきますよ」(東邦経済 1960/6)と相互乗入れ開始前から語っていた。伊勢崎線沿線の宅地化は1960年代から1970年代にかけて進み、定期券利用の会社員を軸とする通勤需要が鉄道・不動産の収益を押し上げた。前年の1961年10月には東証第一部に指定されている[19]。
1987年8月には東上線と有楽町線の相互乗入れが和光市経由で始まり[20]、東上線沿線から有楽町・新富町方面への直通が開いた。1962年の日比谷線直通から1987年の有楽町線直通までの約25年で、自社路線を延ばすのではなく他社路線との結節点を作って沿線価値を高める方針が固まった。鉄道インフラへの追加投資を抑えつつ、相互乗入れで路線価値を引き上げ、沿線の宅地化で不動産・流通の需要を取り込む手法が東武鉄道の事業モデルの根幹となった。この方針はのちの半蔵門線・副都心線・東急線との直通運転へ続き、伊勢崎線・東上線が都心の異なる地下鉄網と直結したことで、首都圏ネットワークの中で東武鉄道が担う範囲が広がった。
鉄道ターミナルに流通を併設する ── 2代目53年が組んだグループの形
鉄道で都心と結んだ沿線に、消費を取り込む流通事業を重ねたのが2代目根津嘉一郎氏の時代だった。1958年に東武宇都宮百貨店、1960年に東武百貨店と東武会館(現・東武ストア)を設立して百貨店・チェーンストア事業へ進出し、1962年5月には日比谷線直通と同じ月に東武百貨店池袋店を池袋西口に開業した[21]。東上線のターミナルである池袋に百貨店を併設し、駅の乗降客をそのまま売場の集客につなげた。鉄道で運んだ乗客を沿線の住宅と都心の売場の双方で収益化する、鉄道・流通・不動産を一体で運営する事業構成がこの時期に組み上がった。
1941年に初代の逝去を受けて社長に就いた2代目根津嘉一郎氏は、1994年1月に退任するまで約53年間社長を務め、同族経営を維持した[22]。長期にわたる一人のトップのもとで、相互乗入れによる沿線開発と流通事業の併設という方針が一貫して進められた。投資の回収に長い時間がかかる鉄道・不動産・百貨店の事業を腰を据えて組み合わせられたのは、株主の交代に左右されにくい同族経営の特性によるところが大きい。半世紀を一人のトップが率いたことで、相互乗入れと流通併設という二つの方針が短期の業績に振り回されずに貫かれた。
1995年〜2019年 スカイツリーと百貨店 ── 投資の明暗
池袋店増床8.3万平方メートル ── バブル期の「最大最後の挑戦」
1990年、東武百貨店は米国の高級百貨店サックスの買収を計画したが、アラブ系企業インベストコープが15億ドルで落札し撤回に追い込まれた[23]。この失敗はオーナー根津家と百貨店経営陣の方針対立を表面化させ、東武百貨店社長の交代につながった。国内では池袋駅西口の東武百貨店池袋店の増床を進め、1992年6月に売場面積82,963平方メートルの増改築が完成した[24]。池袋駅東口で年間売上高4,114億円を誇る西武百貨店に対抗するための投資で、東武鉄道は百貨店増床と池袋西口再開発に合計約900億円を投じた[25]。バブル期の「最大最後の挑戦」と呼ばれた投資だが、完成と前後してバブル崩壊が進み、投資回収は長期化した。
バブル崩壊後の消費低迷で、日本最大の売場面積という規模は集客力に直結しなかった。2000年代に入ると百貨店業態そのものが衰退し、流通事業の営業利益は長く低迷した。2001年10月には東武百貨店で社員1,500名の子会社転籍と150名の希望退職で経営合理化に踏み切った[26]。池袋店の投資は長期間にわたって採算上の負担となったが、百貨店は鉄道ターミナルの集客装置としてグループ内に残した。池袋駅西口再開発は2020年代に入っても継続的な検討課題として残り、後述の池袋駅西口再開発事業に持ち越された。1990年代前半のバブル期に踏み切った判断が、30年を経てもなお東武鉄道の投資計画に影響を残している。
総額1,430億円 ── スカイツリーはなぜ押上に建ったのか
2003年、東京の地上デジタル放送用に600メートル級の電波塔建設が計画された。候補地は東京・埼玉の10か所に絞られ、最終的に東武鉄道が保有する押上駅周辺の貨物駅跡地が選定された[28]。東武鉄道の保有地で土地確保が容易なこと、地元墨田区が誘致に積極的だったこと、浅草に隣接し観光収入が見込めることが選定の理由だった。同年には半蔵門線・東急田園都市線との相互乗入れも始まり[27]、押上駅の交通結節機能も向上した。東京タワーの老朽化と電波到達範囲の不足を補う新しいランドマークとして、スカイツリーの位置づけは放送用鉄塔を超えた都市開発プロジェクトに広がり、東武鉄道にとっては1897年の設立以来最大の単独投資案件となった。
東武鉄道はスカイツリータウン全体に総額約1,430億円を投資し、投資回収期間を25年に設定した[29]。2012年5月に開業すると、タワー部分だけで初年度の営業利益91億円を計上した。レジャー事業のセグメント利益はスカイツリー開業前の2011年3月期の赤字6.2億円から、2013年3月期には105.9億円へ回復した。鉄道利用者の増加や周辺のホテル・商業施設への波及効果も含めると、スカイツリーは東武鉄道の事業構造そのものを動かした投資だった。1992年の池袋店増床がバブル期の採算上の負担だったのに対し、2012年のスカイツリー開業は同等規模の投資で想定を上回る利益回復をもたらした。投資回収期間25年の設定は私鉄の単独投資としては異例の長さで、超長期の投資判断を許容する同族経営の特性が表れた数字でもある。
相互乗入れの拡大 ── 5社14路線をつなぐネットワーク
2008年6月に東京メトロ副都心線との相互乗入れが和光市経由で始まり[30]、東上線から新宿三丁目・渋谷方面へのアクセスが向上した。2013年3月には東急東横線・みなとみらい線との直通運転が始まり[31]、東上線から横浜方面への直通ルートが開通した。伊勢崎線系統でも2003年の半蔵門線直通に続き、都心を横断して東急田園都市線・中央林間まで直通する広域ネットワークができた。東武鉄道は自社路線を延ばさず他社路線との相互乗入れで沿線価値を高める手法を採り、鉄道インフラへの追加投資を抑えてネットワーク効果を取りに行った。この広域ネットワーク戦略は2023年3月の東上線〜新横浜線〜相鉄線直通運転の開始まで連続し、5社14路線をまたぐ首都圏の鉄道ネットワークの中核を東武鉄道が担う体制が整った[32]。
相互乗入れの拡大は定期外収入の増加にも寄与した。2019年3月期の営業収益は6,175億円、経常利益629億円に達し、コロナ前の業績の到達点となった。運輸事業は売上2,136億円・営業利益411億円、レジャー事業は売上762億円・営業利益60億円、不動産事業は売上451億円・営業利益140億円で、鉄道を軸にレジャー・不動産が利益を支える形ができた。流通事業の低迷を相互乗入れによる鉄道収入とレジャー収入で補い、1990年代のバブル期投資の重みを2010年代のスカイツリー・相互乗入れの収益が相殺した。鉄道・レジャー・不動産の3つがそれぞれ100億円単位の利益を生む3本柱の構造が、コロナ禍直前の東武鉄道の姿だった。