歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1929年、京都で鈴木家初代が美術出版向けの印刷所「似玉堂」を創業した。活字印刷ならだれにでもできる、他社の手がけない高級印刷をやろうという理念のもと、西陣織や寺社仏閣を題材にした美術品の印刷で、写真製版という熟練を要する一手を磨いた。汎用の印刷とは別の、他社が追いつけない領域へ技を尖らせる。1942年に同業の組合主導で日本写真印刷が設立され、1946年に似玉堂と統合して再発足したのち、鈴木家による同族経営が続いている。
決断美術印刷で磨いた写真製版の技術は、紙の外へ応用されていった。1952年の松下電器との取引を足がかりに、1967年にはテレビ筐体向けの木目転写箔を、1985年には透明タッチセンサーを開発し、家電やモバイル機器の表面加飾と入力装置へ印刷技術を移し替えた。2007年就任の鈴木順也4代目社長は、この延長線でスマートフォン向けフィルムタッチセンサーに賭け、2014年度に姫路・加賀の両工場へ単年で274億円を投じて、特定市場への集中投資に踏み切った。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1929年の創業時に、汎用の活字印刷ではなく写真製版という熟練の要る高級印刷を選んだのか
- A 活字を組んで刷る出版印刷は参入しやすく価格で競い合うため、後発の小所帯では抜け出しにくい。そこで他社が手を出さない難度の高い領域へ技を尖らせ、競争のない場所で値を取る道を選んだ。1929年、鈴木家初代が京都で似玉堂を創業し、西陣織や寺社仏閣の美術品を題材に、写真製版という熟練工に頼る一手を磨いた。この「他社の手がけない高級印刷をやろう」という創業の理念が、のちに印刷の枠を超えて技術を移し替える発想へつながった。
- Q なぜ2013年に、スマートフォン向けタッチセンサーへ単年274億円という過去最大級の集中投資へ踏み切ったのか
- A 美術印刷で磨いた写真製版は、フィルムに透明電極を刷る技術として入力装置へ転用でき、立ち上がるスマートフォン市場の量産需要を取り込めると読んだ。自社技術の延長で大型市場を一気に取りにいく判断である。2013年4月、鈴木順也社長は姫路・加賀の両工場への投資を決め、2014年度に合計274億円を投じた。だが市場は2015年以降、新方式の台頭と顧客集中で価格が下落し、2017年3月期にディバイス事業の営業利益はほぼ消え、連結でも創業以来初の本格的な赤字となって、特定顧客と特定方式への依存を露わにした。
- Q なぜ2016年以降、稼ぎの中心を医療機器・医薬品のCDMOへ移しているのか
- A スマートフォン向けタッチセンサーは需要変動が激しく、単一市場への依存では稼ぎが安定しない。これに対し米国の医療機器は高齢化と技術革新で需要が伸び、外部委託(CDMO)への引き合いも強いため、印刷で培った精密加工を生かせて景気に左右されにくい収益源となる。鈴木順也社長は2016年の医療機器CDMO参入を皮切りに買収を重ね、メディカルの構成比を50%まで引き上げる方針を掲げた。フィルムタッチセンサーの成熟を踏まえ、本流をメディカルへ移す転換である。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1929年〜2006年 美術印刷から木目転写箔・タッチセンサーへの多角化
京都の高級美術印刷から始まった原点
NISSHAの源流は、1929年に鈴木家初代が京都で創業した「似玉堂」[1][2]にさかのぼる。創業当時の京都には西陣織や寺社仏閣の美術品を題材とした出版物の需要があり、似玉堂はその分野に絞った高級印刷を手がけた。創業者の理念は「活字印刷であればだれでもできる。他社の手がけない高級印刷をやろう」(NISSHA公式 成長の軌跡)というもので、汎用印刷とは別の領域で技術を尖らせる方針を最初から掲げた。当時の印刷業界は活版を中心とする出版印刷と、ポスター・パッケージを担う一般商業印刷が主流であり、写真製版を駆使した美術印刷は技術習熟と熟練工に依存するニッチ領域であった。
戦時下の1942年、京都写真製版工業組合の主導で日本写真印刷有限会社が設立された[3]。1946年12月、同社と似玉堂が事業を統合し、日本写真印刷株式会社が発足した[4]。設立にあたっては、似玉堂を経営してきた鈴木直枝氏が主導し、以後鈴木家が同族経営を担う体制が固まった。発足直後の同社は依然として美術出版向け印刷を主力とし、京都地場の中小印刷企業の一つであった。1949年に東京日日新聞の「NEW JAPAN」[5]、1962年に毎日新聞社「国宝」[6]、1966年に小学館「原色日本の美術」を受注する[7]など、高度経済成長期を通じて美術書籍の高品質印刷に強みを持つ会社として知名度を高めた。
1950年に毎日新聞[8]、1952年には松下電器との取引開始[9]が、その後の業態転換の伏線となった。松下との関係は当初こそ商業印刷の範疇だったが、製造業の顧客を抱えたことで、印刷技術を工業製品の表面加飾へ応用する着想につながった。1961年10月には大阪証券取引所市場第2部に上場し[10]、続いて1969年には東京証券取引所第2部にも上場した[11]。上場直前の1968年12月時点における筆頭株主は2代目社長の鈴木正三氏で、12.17%を保有した[12]。1979年9月には東証・大証ともに第1部へ指定替えした[13]が、依然として鈴木家を中心とする資本構造を維持した。地方の中堅印刷会社が業界の中位に踏みとどまったまま、創業家経営を継続した時期にあたる。
木目転写箔の開発が開いた工業加飾の市場
転機となったのが、1967年の木目転写箔(IMD:In-Mold Decoration)の開発[14]である。松下電器との取引関係から、テレビキャビネットの木目調化粧シート用途で受注を獲得し、商業出版にとどまらない事業領域を切り拓いた。家電製品の樹脂筐体に木目柄や金属調の外観を付与する加飾フィルムは、印刷技術と射出成形技術を組み合わせた新領域であり、家電メーカー各社の差別化ニーズと結びついて急成長した。1967年12月には千葉県八千代市に1.8万平方メートルの土地を取得し[15]、関東圏の生産拠点として八千代工場を新設する決定を下した。京都本社・八千代工場の二極体制が、印刷から加飾フィルムへ主力を移す布石となった。
1985年には抵抗膜方式の透明タッチセンサーを開発した[16]。家電製品の操作パネル、産業機器のインターフェース、後に携帯電話やゲーム機の入力デバイスに採用されたタッチセンサーは、フィルム上に透明電極を印刷する技術であり、木目転写箔と同じく印刷技術の応用領域に位置付けられた。1987年には名古屋営業所を開設して[17]中部地区の自動車・家電顧客へのアクセスを強化、1993年にはマレーシアに加賀屋成形(後のNissha Precision Technologies)の前身となる海外生産拠点を構え[18]、フィルム加飾と成形を組み合わせた量産対応をグローバルに展開し始めた。商業印刷の枠を超えて、家電・自動車・モバイル機器の加飾とインターフェースに事業領域を広げた20年余であった。
3代目社長を務めた古川宏氏は、鈴木家以外から起用された中継ぎ社長として1992年から2007年までこの拡張期を統括した[19]。鈴木正三氏から、後に4代目社長となる鈴木順也氏への世代交代を橋渡しする[20]役回りであり、印刷から加飾・タッチセンサーへの業態転換の助走期間でもあった。2006年12月には産業資材分野への設備投資を決定し[21]、フィルム加飾・タッチセンサーに次ぐ第3の柱として、家電・自動車を超える広い工業用途の素材・加工事業を育てる方針を明確化した。創業から77年[22]、祖業の美術印刷は依然グループ内に残ったが、業績への寄与度では既に加飾フィルムとタッチセンサーが本流となっていた。
2007年〜2018年 スマートフォン向けタッチセンサーへの集中投資と減損の代償
鈴木順也氏の社長就任とスマホ需要の取り込み
2007年6月、創業家3代目の鈴木順也氏が社長に就任した[23]。1964年京都府生まれ、慶應義塾大学大学院商学研究科を修了後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)を経て1998年3月に日本写真印刷へ入社、1999年取締役、2001年常務、2003年専務、2005年副社長を経ての就任である[24]。同年からのリーマンショック直前期は、北米・欧州・アジアでスマートフォン市場が立ち上がる局面であり、フィルムタッチセンサーへの先行投資が業績を押し上げる時期にあたる。FY07(2008年3月期)の売上高は1,016億円で、初めて1,000億円を超えた。日本写真印刷は、フィルム式タッチセンサーの量産技術を磨いて、スマートフォン向けの受注を取りに行く戦略にシフトした。
2013年4月、同社はスマートフォン向けタッチセンサーへの投資を決定した。姫路工場および加賀工場における設備投資として、2014年度に両工場で合計274億円の投資を実行した[25]。1社の年間設備投資としては過去最大級の規模であり、スマートフォン市場の拡大に賭ける意思決定であった。同年9月には決算期を3月期から12月期に変更し[26]、FY16(2017年3月期)の決算期は2017年3月15か月決算となり[27]、決算開示の透明性と海外子会社との連結整合性を高めた。FY13(2014年3月期)の売上高は1,109億円、FY14(2015年3月期)には1,173億円まで戻し[28]、ディバイス事業がセグメント営業利益135億円を稼ぐ柱に成長した[29]。
しかしスマートフォン向けタッチセンサー市場は2015年以降、新方式の台頭と顧客集中による価格下落で成熟していった。FY15(2016年3月期)のディバイスセグメント売上は640億円・営業利益146億円とまだ高水準だった[30]が、FY16(2017年3月期)には売上502億円・営業利益▲1億円へ急減した[31]。連結ベースでもFY16は売上1,158億円・営業損失39億円・最終損失74億円と、創業以来初の本格的な赤字決算となった。フィルム式タッチセンサーへの集中投資が、特定顧客と特定方式に偏った収益依存を露わにした。鈴木順也社長は事業多角化を1960年代から開始し、伝統的な印刷だけでは生き残れないとの認識のもとで自社技術を深掘りしながら広げてきた経緯を語っている。2013年の集中投資もその展開の延長戦上に位置した戦略決定であった。
第5次中期経営計画と買収による事業ポートフォリオ組み換え
2015年4月から開始した第5次中期経営計画[32]は「事業ポートフォリオの組み替えを徹底」することを掲げ、不採算事業からの撤退と新事業領域への買収を主要施策とした。定量目標として最終年度の2018年3月期に「新製品・新事業の売上高比率35%」を盛り込み[33]、業態転換を計画の中核に据えた。スマートフォン向けタッチセンサー単一のリスクを認識した経営判断であり、印刷・加飾フィルム・タッチセンサーに次ぐ第4・第5の柱を買収で組成する方針への転換であった。同年4月には日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社を設立し、祖業の商業印刷事業を法的に分社化した[34]。本体の業態を加飾フィルム・タッチセンサー・買収による新事業に絞り込むための前段整理である。
具体的なM&Aは2015年から2016年にかけて集中した。2015年8月にベルギーのLuxembourg Holdings SARL(蒸着紙メーカー、食品パッケージ向け)を約150億円で買収し[35]、産業資材セグメントの新領域として食品パッケージ素材事業を獲得した。2016年9月にはアメリカのGraphic Controls Holdings, Inc.(医療機器メーカー)を約141億円で買収し[36]、メディカル分野への参入を本格化した。2016年9月にはドイツのSchusterグループ(タッチセンサーメーカー)も買収し[37]、ディバイス事業の地理的補強を図った。2017年10月、社名を日本写真印刷株式会社からNISSHA株式会社へ変更し[38]、創業以来68年使った「日本写真印刷」の名称を、印刷以外の事業領域へ拡張する商標に刷新した。
2018年4月開始の第6次中期経営計画は[39]、M&Aで取得した事業群の統合と垂直統合の進展を主軸とした。2018年9月には日本写真印刷コミュニケーションズが東京地区の商圏と事業基盤を共同印刷株式会社に譲渡し[40]、祖業の商業印刷事業の縮小・撤退を加速した。FY18(2018年12月期)の連結売上高は2,074億円で過去最高を更新し、メディカルテクノロジーセグメントは初年度から223億円の売上を計上した[41]。買収による新領域進出は計画通りに進んだが、同時にIFRS会計適用に伴うのれん償却負担と、買収先の事業統合コストが利益を圧迫した。鈴木順也社長は会社を継続していくとは変化し続けることだと位置付けており、その変化のコストは買収のれんの形で貸借対照表に蓄積されていった。
2019年〜2025年 メディカル本格化と祖業印刷の整理
スマホ事業の減損と希望退職
2019年12月期、NISSHAはスマートフォン向けタッチセンサーの販売不振により最終赤字に転落した。産業資材セグメントで52億円、デバイスセグメントで106億円の合計158億円の減損損失を計上[42]、産業資材ではAR Metallizingで16億円、デバイスでは生産設備で70億円の減損が主要因となった[43]。スマートフォン向けタッチセンサーの輸出が前年比18%減少し[44]、姫路・加賀工場の稼働率低下が設備減損を引き起こした。FY19の連結営業損失は▲163億円、最終損失は▲41億円で、2013年以降のスマホ向け設備投資の収益化が当初計画から後退したことが帳簿上に確定した。
2020年2月、NISSHAは国内の従業員を中心に約250名の希望退職者の募集を発表した[45]。2019年1月7日には日本写真印刷コミュニケーションズが東京地区の商圏縮小を完了[46]、同年9月には1967年取得の千葉県八千代工場跡地を売却して固定資産売却益49億円を計上した[47]。八千代工場は半世紀にわたり加飾フィルム・タッチセンサーの量産を担った主力拠点であり、その閉鎖売却は祖業の延長線上にあった印刷・加飾フィルムの規模縮小を象徴する判断となった。鈴木順也社長は2021年2月の日経新聞インタビューで、タッチセンサーの需要変動が激しいことを指摘し、タッチセンサー技術を自動車などへ広げる方針を示して[48]、コンシューマー・エレクトロニクス依存からの脱却を表明した。
メディカル分野への大胆な転換
2019年以降、NISSHAは新規事業として買収を通じたメディカル事業に注力した。欧州ではカテーテルの製造受託、国内ではゾンネボード製薬の買収によって医薬品の受託製造・開発(CDMO)に参入した。2020年1月にはドイツのEurofoil Paper Coating GmbHを買収して産業資材の蒸着紙事業を強化[49]、2021年にはアメリカのSequel Special Products、RSS(Resonetics Sequel Special Surgical)を順次グループに加え、メディカルテクノロジー事業のグローバル展開を加速した。第7次中期経営計画(2021〜2023)は、垂直統合(設計・開発・生産・販売)と買収による新規参入を成長戦略の柱として位置付けた。FY21(2021年12月期)の連結売上高は1,893億円・営業利益174億円、メディカルテクノロジー単独で売上242億円・営業利益8億円[50]と、買収から5年でメディカル事業がディバイス・産業資材と並ぶ第3の柱に成長した。
ところが2022年12月期から2023年12月期にかけて、欧米金利の上昇による割引率上昇が買収のれんの減損圧力として作用した。FY22(2022年12月期)は減損など一時費用▲18億円で営業利益95億円、FY23(2023年12月期)は産業資材(蒸着紙)と一部メディカルののれん減損を含む一時費用が膨らみ、営業損失▲38億円・最終損失▲30億円に落ち込んだ。M&Aで取得した新領域は売上拡大には寄与したが、買収単価の高さと現地金利上昇の組み合わせが、簿価の見直しを連年で迫る構造となった。第7次中計の最終年度であるFY23は、構造改革と買収ののれん償却負担が並走する厳しい着地となった。
2024年から始まる第8次中期経営計画(2024〜2026)は、メディカル優先のキャッシュアロケーションを掲げた。2024年3月にIsometric Intermediate LLC(医療機器、精密加工技術)を約104億円で買収[51]、同年10月にCathtek, LLC(医療機器射出成形)を買収し[52]、メディカル分野の垂直統合と地理的補強をさらに進めた。2025年には滋賀県製薬を買収して国内CDMO能力を増強[53]、2026年にはベトナムのUSM Healthcare買収を発表し[54]、アジア地域への展開を始めた。FY24(2024年12月期)の連結売上高は1,956億円、メディカルテクノロジーが456億円(FY23比+27%)に拡大[55]、FY25(2025年12月期)はメディカルテクノロジー471億円・営業利益20億円とディバイス(売上585億円・営業利益21億円)に肩を並べる規模に達した[56]。鈴木順也社長は中期的な目標としてメディカル分野の構成比を50%まで引き上げる方針を掲げ、フィルムタッチセンサー成熟後の本流事業をメディカルCDMOに据える方針を示した。