1950年に山科直治氏が設立した萬代屋と、1955年に中村雅哉氏が設立した中村製作所が起源。
1980年にガンダムのプラモデル(ガンプラ)、1996年に「たまごっち」を発売した。ガンダム一つでトイホビー・デジタル・映像・施設の4事業に売上を立てる玩具・ゲームの大手である。
山科直治氏は1950年7月に株式会社萬代屋を設立し、セルロイド製を中心とする玩具の販売で事業を起こした。1960年までの10年間、萬代屋は製造を持たず、問屋から仕入れた商品を地方の小売店へ卸す商いに専念した。その後に山科直治氏は自前の商品づくりへ力を移し、同時に米国への輸出にも着手した。輸出品のうち1個1ドルの自動車玩具は米国でよく売れ、萬代屋にとって初めての当たり商品となった。それでも1960年度の売上高は11億円で、創業期の萬代屋はまだ小さな玩具卸の規模を出なかった。製造設備を持たない卸から入ったのは、戦後まもない時期に少ない資本で始められる商いを選んだためとみられる。
中村雅哉氏は1955年6月、百貨店の屋上で遊園施設を営む目的で有限会社中村製作所を設立した。中村雅哉氏は、物を作って売る商売には元手が要り代金の回収にも時間がかかる一方、遊具は据え付けた日から現金を生むと考えた。父の鉄砲店の大まかな経営を見て、小さな資本で収益性の高い事業を選ぶことを重んじた。都心の百貨店には既存業者が入っていたため、中村製作所は関東周辺に的を絞った。最初の仕事は横浜・伊勢佐木町の松屋の屋上に木馬2台を据えることだった。社員は中村雅哉氏を含めて3人で、木馬は父の物置にあった古い品を安く引き取り、塗り直して使った。後発の零細企業が屋上の遊園を選んだのは、資本の不足を日銭の早さで補うためだったのだろう。
山科直治氏は1961年5月、萬代屋の社名を株式会社バンダイへ改めた。バンダイは1962年4月、2台の自動車を競走させる「レーシング・カー・セット」を小売価格5,000円で発売した。当時の玩具としては高値だったものの、放送の始まって間もないテレビで宣伝したことで売上が急増した。続いて1967年5月に発売した「サンダーバード・シリーズ」も大きな売れ行きを示し、後年の拡大の起点となった。ただし1970年度の売上高は54億円、利益は1億7,000万円にとどまり、バンダイの規模はなお中堅だった。1961年からの10年で、バンダイは卸と輸出の会社から自社商品を持つ玩具会社へ姿を改めた。テレビ宣伝と結んだ高価格の商品で成果を得た経験が、のちに映像作品と玩具を結びつける方向の起点になったと考えられる。
中村製作所は松屋に続いて川崎の百貨店にも遊具を置き、その実績を機に各地の一番店から依頼を受けるようになった。1959年5月に株式会社へ改めた中村製作所は、この頃から都心の百貨店への展開を強めた。当時の三越は会社の方針で遊園施設を一切置かず、同業者の申し入れを退けていた。中村雅哉氏は面識のなかった三越の社長、岩瀬英一郎氏を本店に訪ね、30分にわたって遊園施設への考えを訴えた。岩瀬英一郎氏の返事は拒否だったものの、その死後に三越が方針を改めると、最初に中村製作所へ依頼が来た。三越本店への進出は、伸び始めていた事業をさらに押し上げた。最有力の百貨店の屋上を得たことが、ほかの店への売り込みで信用の裏付けになった可能性が高い。
中村製作所は1966年2月、本社を東京都大田区多摩川へ移し、同じ場所に工場を設けて木馬の本格的な製造に入った。木馬には「オバケのQ太郎」や「ひょっこりひょうたん島」の登場人物、ディズニーと契約した「バンビ」「ダンボ」を使い、好業績につながった。営業場所を増やす過程で、中村製作所はメーカーから機械を大量に仕入れ、同業他社へ販売する事業も手がけた。工場を持ったことで、ゲーム機器の製造・販売と娯楽施設の経営という2つの事業で規模を広げた。標語も創業期の「モノレールから木馬まで」から、1960年代後半には「お子様の夢を創る」へ移った。他社の機械を仕入れるだけでは品ぞろえが同業と変わらず、人気の図柄を自社製品に載せて違いを出す狙いがあったと思われる。
バンダイは1971年から1975年にかけて、商品のカテゴリーに合わせて別会社を新設する方針を進めた。新設した会社のうちポピーは、当時のキャラクター・ブームを受けて大きな売上を上げ、グループの主力になった。1975年度のバンダイの売上高は97億円に達し、100億円の手前まで迫った。1970年度の54億円と比べると、5年間で売上高はおよそ1.8倍に拡大した。取り扱う商品もキャラクター玩具からプラモデル、ぬいぐるみまで領域を広げた。一方で子会社の数が増え、1980年に社長となった山科誠氏は、効率面の利点はあったものの組織の形をなしていなかったと振り返った。商品区分ごとに会社を分けたのは、売り場ごとの判断を速めて新しいキャラクター商品を次々に投入する狙いによるものと推察される。
1972年8月頃から、中村製作所は自社製品に「namco」のブランドを付け始めた。中村雅哉氏はブランド名の由来を1つに決めず、中村製作所の英語名とも自身の名とも読めるとした。業界にはメーカー、商品を卸すディストリビューター、機械を据えて客から料金を受け取るオペレーションの3つの立場があり、中村製作所はそのすべてに携わった。ただ当時の業界は銀行の評価が低く、1950年代半ばから1970年代前半まで融資を得にくい状況が続いた。デパートに置いた機械は担保と見なされず、信用の格付けも最低に近かった。中村製作所は1970年代前半の終わり頃からビデオゲームに取り組み始めた。3つの立場を兼ねたのは、融資の細い業界で製品と現金収入を自前で確保するためと読める。
中村製作所は1974年8月、米国アタリ社から日本法人のアタリ・ジャパンを買収し、ビデオゲーム機の開発へ参入した。アタリ・ジャパンは日本の入り組んだ流通に阻まれて経営が行き詰まり、取引のあった中村製作所に売却を持ちかけた。中村雅哉氏は新しい技術で情緒的な満足を生む必要を感じており、ビデオゲームの技術に強く引かれた。買収額は約3億円で、年間売上高が20億円に満たない中村製作所には重い負担となり、融資を頼んだ7行のうち都市銀行3行に断られた。買収で資金を使い切り、不良品の在庫も抱えたものの、中村雅哉氏はアタリの技術を基に独自商品の開発を進めた。1977年6月には事業の国際化に合わせ、社名を株式会社ナムコへ改めた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/7832/company.json https://the-shashi.com/api/7832/history.json https://the-shashi.com/api/7832/ceo.json https://the-shashi.com/api/7832/financials.json https://the-shashi.com/api/7832/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/7832/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/7832/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/7832/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/7832/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/7832/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/7832/financials.csv https://the-shashi.com/api/7832/financials_history.csv 免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(バンダイナムコHD)