三菱重工業 の歴史

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創業 1887年
母体 三菱財閥
創業地 長崎県長崎市
創業 1884年7月、岩崎弥太郎氏が工部省から官営の長崎造船局を借り受け、長崎造船所と
1884年7月、岩崎弥太郎氏が工部省から官営の長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名した。三菱重工業はこの日を創立日としている。起源は徳川幕府が1857年に長崎で着手した鎔鉄所にさかのぼり、明治政府の官営工場を経て民間へ渡った。官営の造船所を借り受けて造船へ参入したのは、自社の海運で使う船の修繕を英国まで持ち出す不便を解消するためで、1887年6月には政府から正式に買い受けている。1893年に三菱合資会社の傘下へ入り、1917年10月には造船部門が三菱造船として分離独立した。ただし最初から最大の顧客は自社の海運であり、外で客を取る経験は乏しいまま始まっている。
決断 事業の切り離しと統合を、100年にわたって繰り返してきた。1917年に三菱合資会
事業の切り離しと統合を、100年にわたって繰り返してきた。1917年に三菱合資会社の造船部を三菱造船として分け、1921年には電機部門を三菱電機として独立させた。1934年に三菱航空機と合併して商号を三菱重工業へ改めたが、1950年には過度経済力集中排除法で3社へ分割される。分立した3社は同じ製品分野で競い、1956年に超大型タンカーに合わせて設備を先に張った判断もその競争のさなかに出た。重複投資を避けたい三菱銀行三菱商事の求めで1964年に三社の再合併に踏み切り、その6年後には売上の3割近くを占めていた自動車部門を三菱自動車工業へ分離した。切り離しと再統合を繰り返した結果、注文主が国か電力会社という、需要が先に決まっている事業だけが手元に残った。
現況 現在の売上を支えているのは、船でも旅客機でもなく、発電設備と防衛装備である。20
現在の売上を支えているのは、船でも旅客機でもなく、発電設備と防衛装備である。2026年3月期の売上収益4兆9,742億円のうち、エナジーが2兆540億円で41%、航空・防衛・宇宙が1兆3,929億円で28%を占めた。親会社株主に帰属する当期純利益は3,321億円で、過去最高を更新している。ここへ至る前に、2016年には大型客船から撤退して造船を中小型船とLNG運搬船へ絞った。2023年2月には約1兆円を投じたスペースジェットの開発を中止した。同年11月には、2022年末に政府が防衛費を5年で43兆円へ増額すると決めたのを受けて防衛・宇宙事業を1兆円規模へ倍増する目標を掲げた。二度の撤退で民間需要が抜けた結果、業績は国の防衛予算と電力需要の増減へ直に連動するようになった。
競合 ガスタービンで競う相手は、国内の重工大手ではなく海外の2社である。北米では一定の
ガスタービンで競う相手は、国内の重工大手ではなく海外の2社である。北米では一定のシェアを取り、中国では高い水準を保つ一方、中東ではSiemens Energyが大型案件を重ね、国内へは米GE Vernovaが入ってきている。国内で長年競った日立製作所とは2014年に火力発電システムを統合して合弁を設けたが、南アフリカ案件の損失負担をめぐる係争を経て2020年に合弁を解消して単独へ戻り、相手は火力から実質的に退いた。競合が減った結果、受注の優劣は価格ではなく、顧客の求める時期に工場の生産枠を用意できるかで決まるようになった。
長期業績の推移 1950〜2026年
三菱重工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1884年〜 官需に合わせた設備先行長崎造船所の払下げから三菱造船の分離独立へ

筆者考察y.sugiura, author

三菱が長崎造船所で買ったのは、船を造る場所ではなく、官需の受け皿になれる規模であった。官営時代に113万円を投じた設備を45万9,000円で引き取ったこの造船所は、最初から同業者に対する優位を抱えていたが、その優位を保つには需要の側の都合へ設備を合わせ続けるほかなかった。1895年に海軍大臣へ差し出した願書の骨子は、船渠と工場の新設・改正にすでに着手したという説明と、御用の要請であった。仕事を得てから設備を足すのではなく、設備を持っていることを理由に仕事を求める順序である。和田岬の用地買収に13年、彦島に3年を費やし、1908年には造船部へ4部で最大の1,000万円を割り当てた。

この順序は、需要が続く限りは強い。1911年に起工した排水2万7,500屯の巡洋戦艦霧島は、同型艦の金剛を英国で建造した海軍に対して、民間造船所の技術が工廠にも先進国にも劣らないことを示した。だが需要の側が一枚の条約で消えると、先に持った設備はそのまま行き場を失う。1921年のワシントン会議が主力艦の比率を5・5・3と定めると、建造中の超弩級艦は止まり、八八艦隊のために2年前に建てた長崎製鋼所は開設2年で長崎造船所へ畳まれた。1932年上半期の創立以来はじめての赤字は、設備を先に持つという型が、官需の消滅をそのまま損益へ通す型でもあったことを示している。

長崎造船所が建造した船の総屯数 須磨丸から巡洋戦艦霧島まで(屯)

1,590 1894 須磨丸 6,172 1898 常陸丸 27,500 1911 霧島
  • 須磨丸と常陸丸は総屯数、霧島は排水屯数。出所は三菱重工業株式会社史(1956年)第二沿革編。

1884年〜海運の修繕を自前で担うための造船所取得

英国まで回航していた修繕を自前に抱える

三菱重工業は1884年7月7日を創立日としている。岩崎弥太郎氏が工部省から長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名した日である。その造船所の起源は幕府にさかのぼり、徳川幕府が1857年10月に長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所の建設に着手し、1861年3月に落成させた。1871年4月に明治政府工部省の所管へ移り、長崎造船所と改称されている。岩崎氏が1870年に設立した九十九商会は三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と社名を変更して海運で伸びたが、運航する船舶の修繕を英国まで持ち出す不便を抱えていた。借受から3年後の1887年6月、三菱は同造船所を政府から正式に買い受けた

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
    • [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
    • [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
    • [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
    • [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機
三造船所と兵器製作所を造船部に束ねる

1893年7月の商法実施に伴い、三菱社は経営形態を会社組織へ改め、資本金500万円の三菱合資会社を組織した。鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務は一切が新会社へ譲渡され、造船所はその傘下で三菱合資三菱造船所となった。国内各社が外国航路を開設して外航船舶の需要が増え、日清・日露の両戦争を機に海軍艦艇の建造も相次いだ。設備の拡充は造船所の増設に及び、1905年7月に神戸三菱造船所、1914年12月に彦島三菱造船所が開設されている。1917年3月には長崎兵器製作所も設けられた。これら三造船所と兵器製作所が三菱合資の造船部を構成し、長崎・神戸・彦島という三拠点の配置が固まった。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [8]1893年7月 商法の実施に伴い資本金500万円で三菱合資会社を組織し、鉱山・造船所ほかの財産と業務一切を譲渡
    • [9]三菱社所属の鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務一切を三菱合資会社へ譲渡し、造船所は三菱合資三菱造船所となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [10]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
    • [11]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
    • [12]1917年3月 長崎兵器製作所開設
    • [13]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
修理の工場を新造の工場へ作り替える

払下げを受けた当時の長崎造船所は修理が主で、三菱社は直ちに造船工場の新設へ着手した。官営時代の同所には113万円の政府資本が投下されており、45万9,000円での払下げは三菱を最初から同業者間の優位に置いた。1890年に大阪商船の註文で建造した筑後川丸は、我国鋼製汽船の嚆矢であり、主機も国産最初の三聯成機関であった。当時の我国最大の商船となった須磨丸(総屯数1,590屯)は、1894年に始まった日清戦争のさなかに同所で完成した。戦時には船舶が軍隊と軍需品を運ぶために徴発され、力の乏しい国内の造船業は艦艇や御用船の修理だけで手一杯だった。1896年、政府は航海奨励法と造船奨励法を施行した。同所が1898年に完成させた日本郵船の常陸丸は、その大きさが6,172屯に及んだ。1,500屯級までしか手がけたことのなかった造船所が、これで6,000屯級へ一段跳んだことになる

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第一章 三菱創業時代」
    • [14]払下げ当時の長崎造船所は修理が主で、直ちに造船工場の新設に着手
    • [16]1890年 大阪商船註文の筑後川丸を建造、我国鋼製汽船の嚆矢で主機は国産最初の三聯成機関
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
    • [15]官営時代に113万円の政府資本が投下された長崎造船所を45万9,000円で払下げ、三菱は最初から同業者間で優位に立った
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [17]長崎造船所が総屯数1,590屯の須磨丸を建造し、我国最大の商船となった
    • [18]日清戦争で船舶が軍隊・軍需品の輸送に徴発され、造船業は艦艇と御用船の修理に追われた
    • [19]1896年 航海奨励法・造船奨励法の実施による海運・造船の一貫した保護政策
    • [20]1898年 長崎造船所が日本郵船の常陸丸(6,172屯)を建造、1,500屯級から6,000屯級への飛躍
参考文献[1]-[20]
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
    • [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
    • [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
    • [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
    • [10]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
    • [11]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
    • [12]1917年3月 長崎兵器製作所開設
    • [13]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
    • [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [8]1893年7月 商法の実施に伴い資本金500万円で三菱合資会社を組織し、鉱山・造船所ほかの財産と業務一切を譲渡
    • [9]三菱社所属の鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務一切を三菱合資会社へ譲渡し、造船所は三菱合資三菱造船所となった
    • [17]長崎造船所が総屯数1,590屯の須磨丸を建造し、我国最大の商船となった
    • [18]日清戦争で船舶が軍隊・軍需品の輸送に徴発され、造船業は艦艇と御用船の修理に追われた
    • [19]1896年 航海奨励法・造船奨励法の実施による海運・造船の一貫した保護政策
    • [20]1898年 長崎造船所が日本郵船の常陸丸(6,172屯)を建造、1,500屯級から6,000屯級への飛躍
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第一章 三菱創業時代」
    • [14]払下げ当時の長崎造船所は修理が主で、直ちに造船工場の新設に着手
    • [16]1890年 大阪商船註文の筑後川丸を建造、我国鋼製汽船の嚆矢で主機は国産最初の三聯成機関
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
    • [15]官営時代に113万円の政府資本が投下された長崎造船所を45万9,000円で払下げ、三菱は最初から同業者間で優位に立った

1899年〜海軍の建艦計画に合わせた設備の先行拡張

海軍に建艦の下命を求める

当時、近代的な軍艦はほとんど外国から輸入するほかなく、日清戦争を経て、海軍力を増やす必要と、それと裏表の関係にある造船業を保護し育てる必要が強く意識されていた。政府はすでに横須賀を海軍工廠として手元に置き、長崎は岩崎弥太郎に、兵庫は川崎正蔵に払い下げており、民間への建艦の下命はこの配置を前提としていた。こうしたなか、1895年12月に三菱合資会社は海軍大臣西郷従道あてに願書を出し、民間工場にも軍艦の建造を命じるよう求めた。願書は、船渠や各工場の新設・改正にすでに取りかかり、大艦巨舶を新しく造るにも直すにも支障はないと体制を説明したうえで、相当の御用を任されたいと願い出ていた。長崎造船所は1899年に水雷艇を建造して我国民間造船所における軍艦建造の端緒を為し、以後は駆逐艦や巡洋艦へ歩を進めた海軍の需要は、受注を待つ相手ではなく設備を先に合わせる相手になった。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [21]当時の近代化された軍艦は殆どを外国からの輸入に頼っていた
    • [22]日清戦争後に海軍力の増強と、表裏一体をなす造船業の保護助長が痛感された
    • [24]1895年12月 三菱合資会社が海軍大臣西郷従道へ願書を提出し、軍艦建造の民間工場への下命を要請
    • [25]願書は長崎造船所の船渠・各工場の新設改正に着手済みとして相当の御用を求めた
    • [26]1899年 長崎造船所が水雷艇を建造、我国民間造船所における軍艦建造の端緒となり、以後駆逐艦・巡洋艦へ進んだ
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
    • [23]政府は横須賀を海軍工廠として確保し、長崎造船所を岩崎弥太郎へ、兵庫造船所を川崎正蔵へ払い下げた
和田岬に13年かけて造船所を起こす

兵庫ではすでに川崎正蔵が造船所を経営しており、岩崎弥太郎とほぼ同じ時期に海運から造船へ移った競争相手だった。三菱合資会社はその兵庫の和田岬に新しい造船所を設けて造船事業を広げようと、1892年から93年にかけて準備に入ったが、必要な土地を買い終えたのは7年後の1900年だった。難点は和田岬の地質で、乾船渠を築けるかどうかが大いに疑われた。工学博士白石直治の調査では築造は不可能ではないとされたものの、岩崎弥之助監務が最終的に浮船渠を採ると決裁した。浮船渠の工事は工場建設と並んで進み、1905年7月に神戸三菱造船所が営業に入った。はじめは修理船が中心で、小型の補機や電機品をつくり、新船の建造は1907年に砂原に船台を設けてから始まった

  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
    • [27]川崎造船所の創立者川崎正蔵は岩崎弥太郎と相前後して海運業に従事し、のち造船業へ転じて互いに競争者の立場にあった
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [28]1892〜93年の交から神戸市和田岬での造船所新設の準備を開始
    • [29]1900年 和田岬の所要土地の買収を完了
    • [30]乾船渠の築造適否を工学博士白石直治が調査し、岩崎弥之助監務の決裁で浮船渠を採用
    • [31]1905年7月 神戸三菱造船所として営業開始
    • [32]当初は修理船が主で小型補機・電機品を製作、1907年に砂原へ船台を築造し新船建造に着手
造船部に4部で最大の資本を割り当てる

1905年、三菱合資会社は傘下事業の発展に即応して公称資本金を一躍三倍の1,500万円とし、業務組織へ新たに造船部を加えて庶務部・鉱業部・銀行部と併せた4部とした。翌1908年には各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円で4部のうち最大の割当を受けている。長崎造船所の業績は増進の一途をたどり、我国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけていた。同所は海軍当局の指示に基づいて大型戦艦建造のための設備拡張を進め、それが成るに及んで1911年に巡洋戦艦霧島を起工する。排水屯数2万7,500屯の同艦は、同型艦4隻のうち金剛が比較研究のため英国で建造されたなかで、同所の設備・能力・技術が海軍工廠はもちろん先進国と比べて遜色の無いことを証明するものであった

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [33]1905年 三菱合資会社が公称資本金を三倍の1,500万円とし、業務組織に造船部を加えて四部とした
    • [34]1908年 各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円
    • [36]長崎造船所が海軍の指示で大型戦艦建造のための設備拡張を行い、1911年に巡洋戦艦霧島を起工
    • [37]霧島は排水屯数2万7,500屯で、同型艦金剛は英国建造。長崎造船所の設備・能力・技術が海軍工廠・先進国に遜色ないことを示した
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
    • [35]三菱の長崎造船所は業績が増進の一途をたどり、わが国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけた
参考文献[21]-[37]
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
    • [21]当時の近代化された軍艦は殆どを外国からの輸入に頼っていた
    • [22]日清戦争後に海軍力の増強と、表裏一体をなす造船業の保護助長が痛感された
    • [24]1895年12月 三菱合資会社が海軍大臣西郷従道へ願書を提出し、軍艦建造の民間工場への下命を要請
    • [25]願書は長崎造船所の船渠・各工場の新設改正に着手済みとして相当の御用を求めた
    • [26]1899年 長崎造船所が水雷艇を建造、我国民間造船所における軍艦建造の端緒となり、以後駆逐艦・巡洋艦へ進んだ
    • [28]1892〜93年の交から神戸市和田岬での造船所新設の準備を開始
    • [29]1900年 和田岬の所要土地の買収を完了
    • [30]乾船渠の築造適否を工学博士白石直治が調査し、岩崎弥之助監務の決裁で浮船渠を採用
    • [31]1905年7月 神戸三菱造船所として営業開始
    • [32]当初は修理船が主で小型補機・電機品を製作、1907年に砂原へ船台を築造し新船建造に着手
    • [33]1905年 三菱合資会社が公称資本金を三倍の1,500万円とし、業務組織に造船部を加えて四部とした
    • [34]1908年 各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円
    • [36]長崎造船所が海軍の指示で大型戦艦建造のための設備拡張を行い、1911年に巡洋戦艦霧島を起工
    • [37]霧島は排水屯数2万7,500屯で、同型艦金剛は英国建造。長崎造船所の設備・能力・技術が海軍工廠・先進国に遜色ないことを示した
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
    • [23]政府は横須賀を海軍工廠として確保し、長崎造船所を岩崎弥太郎へ、兵庫造船所を川崎正蔵へ払い下げた
    • [27]川崎造船所の創立者川崎正蔵は岩崎弥太郎と相前後して海運業に従事し、のち造船業へ転じて互いに競争者の立場にあった
    • [35]三菱の長崎造船所は業績が増進の一途をたどり、わが国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけた

1917年〜三菱造船の分離独立と、軍縮が断った建艦の需要

造船部を切り出して会社にする

三菱合資会社は各事業の発展で機構が膨らみ、事業部門を独立させる方針を採った。造船部門は1917年10月、三菱合資会社から造船部所属業務の一切を引き継いで三菱造船株式会社として設立された。資本金は5,000万円、初代会長には岩崎小弥太氏が就任している。所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所で、長崎造船所は1915年に三菱造船所から改称されたものであった。その4年前の1913年に長崎造船所で進水した2万7,500トンの巡洋戦艦霧島は、民間造船所として初の主力艦建造である。この造艦技術は、のちに6万9,600トンの巨艦武蔵の建造へつながった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [38]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
    • [40]三菱造船の資本金 5,000万円
    • [41]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
    • [42]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
    • [43]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [44]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
    • [45]民間造船所として初の主力艦建造
    • [46]6万9,600トンの戦艦武蔵
造船の技術を陸の製品へ回す

戦前の高速客船を代表する日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸も同社の建造にかかる。舶用主機の製作から始まった原動機部門は次第に陸用へも進出し、ボイラ・タービンは発電用と産業用で容量と性能を伸ばして国内外の発電所や大工場への納入を重ねた。車両では1917年に乗用車、1923年に日本最初の電気機関車を送り出している。1919年5月には自動車・航空機・内燃機関の製作を主とする神戸内燃機製作所を神戸造船所から分離独立させ、翌1920年5月に三菱内燃機製造として会社へ切り出した。1921年1月には米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡している。造船で培った素材と機械の技術は陸上の製品群へ横に広がり、その一部は別会社となって出て行った。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [47]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
    • [48]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
    • [49]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
    • [50]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
    • [53]造船由来の技術が陸上製品群へ展開
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
    • [51]1919年5月 神戸内燃機製作所を神戸造船所より分離独立、1920年5月 三菱内燃機製造株式会社を設立して設備を譲渡
    • [52]1921年1月 米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機株式会社を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡
軍縮が建艦の需要を断つ

1921年にワシントンで開かれた海軍々備制限会議は、米英日の主力艦保有量の比率を5・5・3と決め、八八艦隊建造計画に当たっていた業界へ甚大な影響を与えた。三菱造船は1932年上半期、創立以来初の赤字決算を計上した。発端は、建造中の超弩級艦がすべて工事を止めたことにある。八八艦隊を見込んで1919年に設けた長崎製鋼所も、開設から2年しかたたずに規模を縮め、長崎造船所へ吸収された。造船界はその後も世界貿易の停滞と船腹の余剰に苦しみ、1930年には金解禁とロンドン軍縮会議による補助艦艇の建造制限が重なって、不況は深刻になった。新たに手がけた航空機でも、軍の予算は会社の数に対して小さく、1932年から33年ごろまでは各社とも受注の確保に苦労した条約が海軍の建艦計画を止めると、その計画に合わせて整えてきた設備は、そのまま過剰となって残った。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
    • [54]1921年 ワシントン海軍々備制限会議で米英日の主力艦保有量比率を5・5・3と決定、八八艦隊建造計画に当たった業界へ甚大な影響
    • [55]1932年上半期 三菱造船が創立以来はじめての赤字決算
    • [56]建造中の超弩級艦は工事中止となり、1919年5月設立の長崎製鋼所は開設後2年で縮小され長崎造船所へ合併
    • [57]造船界は世界貿易の不振と船腹過剰で不況が続き、1930年の金解禁の影響とロンドン軍縮会議の補助艦艇建造制限が重なって再び深刻な不況に陥った
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [58]航空機関係は会社数の割に軍の予算が少なく、昭和7〜8年まで各社は注文をとるのに苦心した
参考文献[38]-[58]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [38]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
    • [40]三菱造船の資本金 5,000万円
    • [41]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
    • [42]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
    • [43]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [44]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
    • [45]民間造船所として初の主力艦建造
    • [46]6万9,600トンの戦艦武蔵
    • [47]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
    • [48]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
    • [49]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
    • [50]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
    • [53]造船由来の技術が陸上製品群へ展開
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
    • [51]1919年5月 神戸内燃機製作所を神戸造船所より分離独立、1920年5月 三菱内燃機製造株式会社を設立して設備を譲渡
    • [52]1921年1月 米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機株式会社を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡
    • [54]1921年 ワシントン海軍々備制限会議で米英日の主力艦保有量比率を5・5・3と決定、八八艦隊建造計画に当たった業界へ甚大な影響
    • [55]1932年上半期 三菱造船が創立以来はじめての赤字決算
    • [56]建造中の超弩級艦は工事中止となり、1919年5月設立の長崎製鋼所は開設後2年で縮小され長崎造船所へ合併
    • [57]造船界は世界貿易の不振と船腹過剰で不況が続き、1930年の金解禁の影響とロンドン軍縮会議の補助艦艇建造制限が重なって再び深刻な不況に陥った
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [58]航空機関係は会社数の割に軍の予算が少なく、昭和7〜8年まで各社は注文をとるのに苦心した

第2章 1934年〜 軍需集中と強制分割三菱航空機の合併から東中西三社への分立へ

筆者考察y.sugiura, author

岩崎小弥太が造船と航空機を一つの会社へ束ねたとき、反対は社内より軍から強く出た。海軍の艦政本部は航空機の介入を嫌い、航空本部は助成金が造船へ回ることを警戒したからである。それでも合併が通ったのは、両者の顧客が同じ軍だったからであり、同じ理由で三菱重工業の資本金は1934年の5,500万円から1945年の10億円まで10年余で18倍に伸び、従業員は1939年の約10万名から戦争末期の40万名へ膨らんだ。一社に束ねたことの利点も、束ねた規模の大きさも、どちらも軍需という単一の需要が支えていた。

だからその需要が消えた時、失われたのは受注ではなく会社の輪郭のほうであった。1945年10月の臨時株主総会は定款の営業目的から軍需を削り、受け取った軍需補償約24億円は二か月後に戦時補償特別税として没収され、資本金10億円の9割が切り捨てられた。分割案が三社から23社へ細分され、六社を経て1社案まで戻ったのは、会社がどの規模なら生き残れるかを決めかねていたからだろう。結局は総司令部が地域で三つに割ったが、新三菱重工業は自動車と航空機へ、三菱造船は大型船へと別々の柱を立て、15年後にその重複が再合併の理由になった。

資本金の推移 三菱重工業の発足から解散まで(万円)

5,500 1934 6,000 1935 12,000 1937 24,000 1940 48,000 1942 100,000 1945 200,000 1949
  • 出所は株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」の備考欄。1949年11月の増資は第二会社三社の発足に先立つ事前増資。

1934年〜三菱航空機の合併による軍需生産への一本化

反対を押し切って航空機を合併する

三菱造船と三菱航空機の合併は、三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意に係るものであった。三菱が航空機に入ったのは1920年の発動機、1921年の機体からであった。両社の内部からは、合併後の厖大な機構をどう運営するか、割拠的な相互の調整をどうするかという反対が出た。造船と航空機の合併には、時代に逆らうにもほどがあるという非難が寄せられた。社外の反対は、それだけにとどまらず入り組んでいた。会社は陸軍と海軍の両方から製作を請け負っていたため、海軍の艦政本部は航空機が絡むことを嫌い、航空本部は民間工場に出した助成金が合併後に造船へ回されるおそれがあるとして、それぞれ異を唱えた。これに対し岩崎氏は、軍人であれ政治家であれ理由なく反対する者に取り合う必要はないとし、合併で受注ができなくなってもかまわないとまで言い切った。合併契約の締結は1934年3月20日、合併は6月13日である

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [59]三菱造船と三菱航空機の合併は三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意によるもの
    • [61]両社内部から合併後の機構の運営と割拠的な相互調整をめぐる反対が出た
    • [62]造船と航空機の合併は時代逆行も甚しいと非難された
    • [63]海軍の艦政本部は航空機の介入を、航空本部は助成金が造船へ融通される虞を理由にそれぞれ反対した
    • [64]岩崎小弥太は反対するものは軍人・政治家を問わず相手にする要なく、受注が不可能となっても差支えないと断言した
    • [65]1934年3月20日 合併契約成立、4月11日 社名を三菱重工業株式会社と改称、6月13日 合併
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [60]航空機会社の大部分は大正年間に発足し、三菱重工業は大正9年に発動機、大正10年に機体へ着手した
軍需に合わせて資本金を八倍にする

三菱重工業は資本金5,000万円で発足し、三菱航空機の合併で5,500万円となった。三菱航空機の航空機工場は名古屋航空機製作所、戦車工場は東京機器製作所として傘下へ加わっている。合併に際しての岩崎氏の告辞は、性質の相近似する事業を一統制下で経営することを進歩と基礎確立の根本の要諦とし、適当の時期を図った株式の一部公開を予告するものであった。1935年11月に横浜船渠を合併して資本金6,000万円、日華事変以降は軍需生産拡充計画に設備の拡張を合わせ、1937年5月に1億2,000万円、1940年3月に2億4,000万円、1942年7月に4億8,000万円と増えた。1943年12月に日立造船彦島造船所を買収し、1945年6月の三菱工作機械の合併で5億円、同年8月には10億円に達している

  • 株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」
    • [66]1934年4月 三菱造船を三菱重工業と改称し資本金5,000万円で発足、同年6月の三菱航空機合併で5,500万円
    • [69]1935年11月 横浜船渠を合併し資本金6,000万円
    • [70]1937年5月 資本金1億2,000万円、1940年3月 2億4,000万円、1942年7月 4億8,000万円へ増資
    • [71]1943年12月 日立造船彦島造船所を買収、1945年6月 三菱工作機械を合併し資本金5億円、同年8月 10億円
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [67]三菱航空機の航空機工場を名古屋航空機製作所、戦車工場を東京機器製作所として傘下に加えた
    • [68]岩崎小弥太の告辞は、性質の近似する事業の一統制下での経営を基礎確立の要諦とし、株式の一部公開を予告した
工場を分散して人を40万人まで集める

三菱の工場は中部地方から西に広がり、機体6製作所と発動機11製作所を抱えて、従業員は約20万人まで増えた。太平洋戦争を遂行するため、産業全体を航空機の生産を中心に組み替える方針が取られ、各社はそろって官設民営の分工場を全国に急いで設けていた。機数で最も多かったのは零式艦戦の1万430機で、次が一式陸攻の2,440機である。発動機では火星1万5,900基、金星1万5,680基、瑞星1万3,540基を生産した。従業員数は1939年に約10万名だったのが戦争末期には40万名となり、その中の24〜5万人を徴用工が占め、終戦時には直系工場だけでも31あった。生産のピークは1944年6月の約2,900機で、その後はじりじりと落ち、1945年に入ると、空襲で最大の被害を受けた三菱の落ち込みが各社のなかで最もひどかった

  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [72]三菱は中部地方以西に機体6製作所・発動機11製作所を持ち、従業員は約20万人に達した
    • [73]太平洋戦争下で全産業を航空機生産を軸に編成替えする方針が採られ、各社が全国各地に官設民営の分工場を設立
    • [74]機体の生産概数は零式艦戦1万430機・一式陸攻2,440機
    • [75]発動機の生産概数は火星1万5,900基・金星1万5,680基・瑞星1万3,540基
    • [78]航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落し、1945年の低落は空襲被害の最も大きかった三菱が最もはなはだしかった
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [76]三菱重工業の従業員は1939年の約10万名から戦争末期に40万名へ達し、うち徴用工が24〜5万人
    • [77]終戦時の当社工場は直系工場のみで31
参考文献[59]-[78]
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [59]三菱造船と三菱航空機の合併は三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意によるもの
    • [61]両社内部から合併後の機構の運営と割拠的な相互調整をめぐる反対が出た
    • [62]造船と航空機の合併は時代逆行も甚しいと非難された
    • [63]海軍の艦政本部は航空機の介入を、航空本部は助成金が造船へ融通される虞を理由にそれぞれ反対した
    • [64]岩崎小弥太は反対するものは軍人・政治家を問わず相手にする要なく、受注が不可能となっても差支えないと断言した
    • [65]1934年3月20日 合併契約成立、4月11日 社名を三菱重工業株式会社と改称、6月13日 合併
    • [67]三菱航空機の航空機工場を名古屋航空機製作所、戦車工場を東京機器製作所として傘下に加えた
    • [68]岩崎小弥太の告辞は、性質の近似する事業の一統制下での経営を基礎確立の要諦とし、株式の一部公開を予告した
    • [76]三菱重工業の従業員は1939年の約10万名から戦争末期に40万名へ達し、うち徴用工が24〜5万人
    • [77]終戦時の当社工場は直系工場のみで31
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [60]航空機会社の大部分は大正年間に発足し、三菱重工業は大正9年に発動機、大正10年に機体へ着手した
    • [72]三菱は中部地方以西に機体6製作所・発動機11製作所を持ち、従業員は約20万人に達した
    • [73]太平洋戦争下で全産業を航空機生産を軸に編成替えする方針が採られ、各社が全国各地に官設民営の分工場を設立
    • [74]機体の生産概数は零式艦戦1万430機・一式陸攻2,440機
    • [75]発動機の生産概数は火星1万5,900基・金星1万5,680基・瑞星1万3,540基
    • [78]航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落し、1945年の低落は空襲被害の最も大きかった三菱が最もはなはだしかった
  • 株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」
    • [66]1934年4月 三菱造船を三菱重工業と改称し資本金5,000万円で発足、同年6月の三菱航空機合併で5,500万円
    • [69]1935年11月 横浜船渠を合併し資本金6,000万円
    • [70]1937年5月 資本金1億2,000万円、1940年3月 2億4,000万円、1942年7月 4億8,000万円へ増資
    • [71]1943年12月 日立造船彦島造船所を買収、1945年6月 三菱工作機械を合併し資本金5億円、同年8月 10億円

1945年〜軍需生産の禁止から、集中排除法による三社分割へ

定款から軍需を削る

1945年9月2日に発せられた連合国軍総司令部一般命令第一号により、我国における一切の軍需生産は終止符を打たれた。三菱重工業は同年10月29日の臨時株主総会で定款中の営業目的から該当するものを削除し、1917年の創立以来の営業目的はここで180度の転回をした。同じ総会では、規模の縮小に伴う機構の改革と人事の刷新のため、先任役員が第一線から一斉に退任している。11月には14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたって過剰人員の整理を行った。整理は航空機に重点を置いて行われ、全従業員を4〜5万とすることが当時の目標であった。ただし名古屋だけは、何年か先に航空機の仕事もやり得るという見通しから、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残されている

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
    • [79]1945年9月2日 連合国軍総司令部一般命令第一号により一切の軍需生産が禁止
    • [82]1945年11月 14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたり過剰人員を整理
    • [83]整理は航空機に重点を置く方針で、全従業員数を4〜5万とする目標が置かれた(玉井喬介の回想)
    • [84]名古屋は将来の航空機再開を見込み、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残された(玉井喬介の回想)
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
    • [80]1945年10月29日 臨時株主総会で定款の営業目的から軍需関係を削除し、1917年の創立以来の営業目的が180度転回
    • [81]同総会で機構改革と人事刷新のため先任役員が第一線から一斉に退任
受け取った補償を課税で失う

戦後の兵器生産の打切りに伴う損害賠償は政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた。決済はインフレ抑制のため現金によらず、主として政府特殊借入金証書という記名式無期限公債証書によっている。ところが同年10月に戦時補償特別措置法が公布施行されると、決済後いくらも経たない12月に、その全額が戦時補償特別税として没収された。軍需補償金と戦時保険金その他を合わせた額は約24億円に達し、これが特別損失の素因の大半となる。賠償指定も重なり、指定を受けなかったのは長崎・広島の両造船所と三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみであった。1949年1月1日現在で立案された特別損失は23億1,826万円で、資本金10億円の90%にあたる9億円の資本切捨と、14億1,826万円の債務切捨で補塡された

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
    • [85]戦後の兵器生産打切りに伴う損害賠償を政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた
    • [86]決済はインフレ抑制のため現金によらず主として政府特殊借入金証書(記名式無期限公債証書)によった
    • [87]1946年10月 戦時補償特別措置法の公布施行により、同年12月に軍需補償の全額が戦時補償特別税として没収
    • [88]軍需補償金・戦時保険金その他を合わせ約24億円に達し、特別損失の素因の大半となった
    • [89]賠償指定を受けなかった工場は長崎・広島の両造船所、三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみ
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
    • [90]1949年1月1日現在で立案した特別損失は23億1,826万3,250円
    • [91]資本金10億円に対し90%の9億円を資本切捨、債務31億5,204万円に対し44.995%の14億1,826万円を債務切捨として補塡
分割案を23社から三社へ戻す

分割案は、第二会社の安定性を考えてなるべく大きく分ける3社案から始まった。1948年3月の臨時株主総会で岡野保次郎社長は、総司令部の財閥解体の意向が強かったこと、三井物産三菱商事の解体指令で強硬な態度が表面に現われたこと、従業員組合にも各工場単独独立の熱意が強かったことを挙げ、案が8社案から23社案へ細分化した経緯を説明した。その後は人件費と原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決している。6社案を経て1社案を持株会社整理委員会へ打診したものの、1949年6月4日の決定指令書は、新造船23%・発電用ボイラー68%という全国生産能力比を挙げて過度の経済力の集中と認定し、地域別三社への分割を指示した。1950年1月11日、東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業が発足し、旧三菱重工業は同日解散した

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
    • [92]第二会社の将来の安定性を考え、最初はなるべく大きく分割する三社案から折衝を始めた
    • [93]1948年3月 臨時株主総会で岡野保次郎社長が、GHQの財閥解体の強い意向・三井物産と三菱商事の解体指令・従業員組合の各工場単独独立の熱意を挙げ、八社案から二十三社案への細分化の経緯を説明
    • [94]人件費・原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決した
    • [95]六社案を経て一社案で持株会社整理委員会ほか関係方面の意向を打診した
    • [97]1950年1月11日 東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の三社が発足し、旧三菱重工業は同日解散
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
    • [96]1949年6月4日 決定指令書が新造船23%・発電用ボイラー68%等の全国生産能力比を挙げて過度の経済力集中と認定し、地域別三社への分割を指示
参考文献[79]-[97]
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
    • [79]1945年9月2日 連合国軍総司令部一般命令第一号により一切の軍需生産が禁止
    • [82]1945年11月 14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたり過剰人員を整理
    • [83]整理は航空機に重点を置く方針で、全従業員数を4〜5万とする目標が置かれた(玉井喬介の回想)
    • [84]名古屋は将来の航空機再開を見込み、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残された(玉井喬介の回想)
    • [85]戦後の兵器生産打切りに伴う損害賠償を政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた
    • [86]決済はインフレ抑制のため現金によらず主として政府特殊借入金証書(記名式無期限公債証書)によった
    • [87]1946年10月 戦時補償特別措置法の公布施行により、同年12月に軍需補償の全額が戦時補償特別税として没収
    • [88]軍需補償金・戦時保険金その他を合わせ約24億円に達し、特別損失の素因の大半となった
    • [89]賠償指定を受けなかった工場は長崎・広島の両造船所、三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみ
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
    • [80]1945年10月29日 臨時株主総会で定款の営業目的から軍需関係を削除し、1917年の創立以来の営業目的が180度転回
    • [81]同総会で機構改革と人事刷新のため先任役員が第一線から一斉に退任
    • [92]第二会社の将来の安定性を考え、最初はなるべく大きく分割する三社案から折衝を始めた
    • [93]1948年3月 臨時株主総会で岡野保次郎社長が、GHQの財閥解体の強い意向・三井物産と三菱商事の解体指令・従業員組合の各工場単独独立の熱意を挙げ、八社案から二十三社案への細分化の経緯を説明
    • [94]人件費・原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決した
    • [95]六社案を経て一社案で持株会社整理委員会ほか関係方面の意向を打診した
    • [97]1950年1月11日 東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の三社が発足し、旧三菱重工業は同日解散
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
    • [90]1949年1月1日現在で立案した特別損失は23億1,826万3,250円
    • [91]資本金10億円に対し90%の9億円を資本切捨、債務31億5,204万円に対し44.995%の14億1,826万円を債務切捨として補塡
    • [96]1949年6月4日 決定指令書が新造船23%・発電用ボイラー68%等の全国生産能力比を挙げて過度の経済力集中と認定し、地域別三社への分割を指示

1950年〜新三菱重工業と三菱造船が立てた別々の柱

提携を重ねて航空機へ戻る

中日本重工業は神戸造船所と名古屋製作所を含む五工場を譲り受け、資本金13億円で発足した。占領下で禁じられていた財閥商標と商号の使用が講和条約の発効で解除され、1952年5月に社名を新三菱重工業へ改めてスリーダイヤを復活させ、同時に許された艦艇・兵器・航空機を事業目的へ加えた。戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受けたが、戦後の国産第一号は三菱内部から生まれている。技術は提携でも取りに行き、1952年2月に米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月に米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携した。1952年12月に愛知県小牧へ機体修理工場を建設、1955年3月期の総生産高131億7,000万円のうち造船は16.4%で、自動車が37.5%を占めた

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [98]中日本重工業は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輛製作所を譲り受け、資本金13億円で1950年1月に設立
    • [99]講和条約の発効で財閥商標・商号の使用が解除され、1952年5月に新三菱重工業へ改称しスリーダイヤを復活、艦艇・兵器・航空機の生産加工を事業目的へ追加
    • [101]1952年2月 米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月 米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生および燃焼装置の技術提携
    • [102]1952年12月 愛知県小牧に航空機機体修理工場を建設
    • [103]1955年3月期の総生産高131億7,000万円の構成比は造船16.4%・自動車37.5%
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [100]三菱重工が戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受け、戦後の国産第一号が三菱内部から生まれたのは偶然ではない
船型に合わせて設備を先に持つ

西日本重工業は長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継し、1952年5月に三菱造船へ商号を変更した。1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンと全国の約2割で業界第一位であった。戦後の造船は1947年4月設立の船舶公団と計画造船に支えられ、造船所は運輸省の指定と枠の中に横並びで置かれている。そこへスエズ運河の閉鎖が重なって油送船の大型化が前倒しになり、1956年11月、三菱造船はマンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ。当時の話題は4万5,000重量トン級で、6万から8万重量トンが常態となるのは1960年ごろである。1961年の長崎造船所の進水実績は世界第1位となった注文を取ってから設備を足すのではなく、設備の側を先に将来の船型へ合わせる順序が、この結果を用意した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [104]1949年6月の三分割指令を受けて1950年1月に西日本重工業が発足し、長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継、1952年5月に三菱造船へ商号変更
    • [105]1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンで全国の約2割・業界第一位
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
    • [106]1947年4月 全額政府出資の船舶公団が設立され、計画造船では造船所を運輸省が指定した
  • 読売新聞(1956年11月22日)
    • [107]スエズ運河の閉鎖以降に油送船の大型化が強まり、1956年11月に三菱造船がマンモスタンカーの建造へ踏み切って設備の拡充に進んだ
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
    • [108]1955年前後は4万5,000重量トンのスーパータンカーが話題となる段階で、6万〜8万重量トンが常態化したのは1960年ごろ
  • 読売新聞(1962年1月9日)
    • [109]1961年の長崎造船所の進水実績が世界第1位
重なった投資が再合併を招く

三社が別々に設備を積んだ結果、製品の重複が現れた。新三菱重工業と三菱日本重工業の間ではトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工業が米キャタピラー社と提携したブルドーザーは、既存の三菱日本重工業の製品と競合していた。造船と機械の双方で重複する研究投資も多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた。1962年9月、三重工の合併が本決まりとなったことが報じられ、国際的な信用力の向上、三菱商事を通じた輸出の一本化、EEC対策としての船舶の大型化が合併の利点として挙げられている。1963年には合併準備室が発足し、公正取引委員会の独占禁止法上の審査へ進んだ競争の制限を理由に分けられた三社は、国際競争を理由に一つへ戻ることになる。

  • 日経新聞(1962年9月19日)
    • [110]新三菱重工と三菱日本重工の間でトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工が米キャタピラーと提携したブルドーザーは三菱日本重工の製品と競合した
    • [111]造船・機械の双方で重複する研究投資が多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた
    • [112]1962年9月 三重工の合併が本決まりとなり、国際的信用力の向上・三菱商事を通じた輸出の一本化・EEC対策としての船舶大型化が利点として挙げられた
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [113]1963年 合併準備室を発足し、公正取引委員会の独占禁止法審査へ進んだ
参考文献[98]-[113]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [98]中日本重工業は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輛製作所を譲り受け、資本金13億円で1950年1月に設立
    • [99]講和条約の発効で財閥商標・商号の使用が解除され、1952年5月に新三菱重工業へ改称しスリーダイヤを復活、艦艇・兵器・航空機の生産加工を事業目的へ追加
    • [101]1952年2月 米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月 米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生および燃焼装置の技術提携
    • [102]1952年12月 愛知県小牧に航空機機体修理工場を建設
    • [103]1955年3月期の総生産高131億7,000万円の構成比は造船16.4%・自動車37.5%
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [100]三菱重工が戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受け、戦後の国産第一号が三菱内部から生まれたのは偶然ではない
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [104]1949年6月の三分割指令を受けて1950年1月に西日本重工業が発足し、長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継、1952年5月に三菱造船へ商号変更
    • [105]1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンで全国の約2割・業界第一位
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
    • [106]1947年4月 全額政府出資の船舶公団が設立され、計画造船では造船所を運輸省が指定した
  • 読売新聞(1956年11月22日)
    • [107]スエズ運河の閉鎖以降に油送船の大型化が強まり、1956年11月に三菱造船がマンモスタンカーの建造へ踏み切って設備の拡充に進んだ
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
    • [108]1955年前後は4万5,000重量トンのスーパータンカーが話題となる段階で、6万〜8万重量トンが常態化したのは1960年ごろ
  • 読売新聞(1962年1月9日)
    • [109]1961年の長崎造船所の進水実績が世界第1位
  • 日経新聞(1962年9月19日)
    • [110]新三菱重工と三菱日本重工の間でトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工が米キャタピラーと提携したブルドーザーは三菱日本重工の製品と競合した
    • [111]造船・機械の双方で重複する研究投資が多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた
    • [112]1962年9月 三重工の合併が本決まりとなり、国際的信用力の向上・三菱商事を通じた輸出の一本化・EEC対策としての船舶大型化が利点として挙げられた
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [113]1963年 合併準備室を発足し、公正取引委員会の独占禁止法審査へ進んだ

第3章 1964-1985 (気が向いたら執筆します!) 3社合併の三菱重工業発足と原子力PWR、自動車部門の分離とボーイングとの共同事業

第4章 1986-2005 (気が向いたら執筆します!) 工場閉鎖と三菱原子力工業の合併、最終赤字とダイヤモンドプリンセス火災

第5章 2006-2019 (気が向いたら執筆します!) アレバとの原子炉共同開発とB787主翼、三菱日立パワーシステムズと客船の巨額損失

第6章 2020-2026 (気が向いたら執筆します!) MHPSの完全子会社化とスペースジェット開発中止、防衛・宇宙の拡大と過去最高益

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歴史年表 1884〜2024年

三菱重工業の沿革1884〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1884〜1933年官需に合わせた設備先行工部省から長崎造船局を借り受け創立★★★
三菱を設立し造船事業を承継★★
三菱造船を設立
神戸造船所旧電気部を三菱電機として分離★★
1934〜1963年軍需集中と強制分割商号を三菱重工に変更
財閥解体により3社に会社分割★★
戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産)★★
超大型船の建造に耐える設備の拡充と、大型化への舵切り

1956年11月、財閥解体で三分割された三菱重工系の一社である三菱造船が、スエズ運河の閉鎖を受けた油送船の大型化を見越し、マンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ経営判断。

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★★★
YS-11の共同開発を開始
新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入
1964〜1985年3社合併の三菱重工業発足と原子力PWR、自動車部門の分離とボーイングとの共同事業藤井深造財閥解体で分割された三社の再合併による一体経営への復帰

1964年6月、財閥解体で三社に分割されていた三菱重工系(新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船)が公正取引委員会の審査を経て再合併し、売上規模で日立製作所に次ぐ日本有数の重機械メーカー三菱重工業が発足した経営判断。

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★★★
河野文彦長崎造船所で30万tドッグを新設
牧田與一郎関西電力美浜1号にPWRを導入
牧田與一郎戦闘機F-4EJを受注
牧田與一郎自動車部門の切り出しと、独立会社としての新たな出発

1970年6月、三菱重工業が売上の28%を占める最大部門であった自動車の営業を三菱自動車工業へ譲渡し、100%出資の子会社として分離独立させた経営判断。クライスラーとの65対35の合弁を実現する前提として、まず完全子会社の形をとった。

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★★★
守屋学治MU-300ビジネスジェットの開発開始
金森政雄ボーイング社とB767/777の事業契約を締結
1986〜2005年工場閉鎖と三菱原子力工業の合併、最終赤字とダイヤモンドプリンセス火災飯田庸太郎大幸工場を閉鎖(名古屋市大曽根)
飯田庸太郎広島海洋機器工場を閉鎖
相川賢太郎三菱原子力工業を合併★★
西岡喬最終赤字に転落★★
西岡喬Mitsubishi Power Systems, Inc.を設立
西岡喬長崎造船所でダイヤモンドプリンセスが火災
佃和夫PBR1倍割れを問題視
2006〜2019年アレバとの原子炉共同開発とB787主翼、三菱日立パワーシステムズと客船の巨額損失佃和夫ウェスチングハウス買収入札での敗退を受けた、中型炉共同開発への転進

2006年、米ウェスチングハウス社の買収入札で東芝に敗れた三菱重工業が、仏アレバとの中型原子炉の共同開発に合意し、2007年9月に合弁会社ATMEAをフランスに設立した経営判断。

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★★★
佃和夫ボーイングB787向けに主翼出荷を開始
大宮英明キャタピラーとの合弁契約を解消
宮永俊一ニチユ三菱フォークリフトとして営業開始
宮永俊一重電の中核事業を切り出した三菱日立パワーシステムズの発足

2012年11月29日、三菱重工業と日立製作所が、火力発電システム分野の事業統合で基本合意した経営判断。両社の開発・製造・販売・エンジニアリング機能を新設合弁へ移し、三菱重工が65%、日立が35%を出資する。合弁は2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズ(MHPS)として発足した。

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宮永俊一取締役会を監督に寄せ、重要な業務執行の決定を取締役社長へ委ねた統治の組み替え

2015年6月26日の第90回定時株主総会をもって、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。3名以上の取締役で構成しその過半数を社外取締役が占める監査等委員会を設置する形で、取締役会は14名(うち監査等委員である取締役5名)となり、うち5名(うち監査等委員3名)を社外から選任している。 移行前の2015年3月末は取締役11名中3名が社外、監査役5名中3名が社外監査役で、取締役会の外側にいた監視役は議決権を持つ取締役として内側へ入った。狙いは監督と執行の分離をより明確にすることと、重要な業務執行の決定を取締役に委任して迅速な意思決定を可能にすることにある。

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宮永俊一Primetals Technologies, Limitedが営業開始★★
宮永俊一2隻で2,718億円の損失を積み、船舶海洋事業をガス船と艤装主体船へ寄せるまで

2011年11月にアイーダ・クルーズから受注した大型クルーズ客船2隻で、プロトタイプ客船の建造の困難さが顕在化し、大幅なコスト悪化が発生した。客船事業関連損失引当金繰入額は2014年3月期の641億26百万円に始まり、2015年3月期695億34百万円、2016年3月期1,039億11百万円、2017年3月期343億23百万円と積み上がり、4期の合計は2,718億94百万円に達した。 2017年3月期の交通・輸送セグメントは519億83百万円の営業損失で、前期の545億11百万円の黒字から1,064億95百万円悪化している。宮永俊一社長のもと、三菱重工業は大型客船から手を引いた。

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★★★
2020〜2026年MHPSの完全子会社化とスペースジェット開発中止、防衛・宇宙の拡大と過去最高益泉澤清次三菱航空機が債務超過状態
泉澤清次火力発電事業の合弁からの離脱と、単独運営への切り替え

2014年に三菱重工65%・日立35%の出資で発足した三菱日立パワーシステムズ(MHPS)から日立が退き、2020年9月1日に三菱重工の完全子会社となった。議決権所有割合は65.0%から100%へ上がり、同じ日にMHPSは三菱パワー株式会社へ商号を変更している。日立の持分が動いた直接の理由は、統合の一環で引き継いだ南アフリカのボイラ建設プロジェクトの損失負担をめぐる係争であった。

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★★★
泉澤清次国産ジェット旅客機の事業化断念と、民間機開発からの撤収

2023年2月7日、2022年度第3四半期決算の説明資料で、立ち止まりとしていたSpaceJet M90の開発活動を中止すると公表した経営判断である。開発再開に足る事業性を見出せないとしたもので、開発を担った三菱航空機は同年4月25日付でMSJ資産管理へ商号を変更し、2024年3月31日付で解散を決議した。

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★★★
泉澤清次Concentric, LLCを子会社化
泉澤清次防衛事業の急拡大——縮小産業を国策の成長事業へ

2022年12月の防衛3文書改定で政府が5年間43兆円・GDP比2%への防衛費増額を決めたのを受け、三菱重工業が防衛・宇宙事業を成長事業と定めて受注と生産能力を広げ、2026年3月期に同事業の売上収益を初めて1兆円超へ伸ばした経営判断。泉澤清次社長のもとで進めた。

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★★★
泉澤清次過去最高益を達成
出典・参考 19件
出典・参考
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第一章 三菱創業時代」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
  • 株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
  • 読売新聞(1956年11月22日)
  • 読売新聞(1962年1月9日)
  • 日経新聞(1962年9月19日)

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