三菱が長崎造船所で買ったのは、船を造る場所ではなく、官需の受け皿になれる規模であった。官営時代に113万円を投じた設備を45万9,000円で引き取ったこの造船所は、最初から同業者に対する優位を抱えていたが、その優位を保つには需要の側の都合へ設備を合わせ続けるほかなかった。1895年に海軍大臣へ差し出した願書の骨子は、船渠と工場の新設・改正にすでに着手したという説明と、御用の要請であった。仕事を得てから設備を足すのではなく、設備を持っていることを理由に仕事を求める順序である。和田岬の用地買収に13年、彦島に3年を費やし、1908年には造船部へ4部で最大の1,000万円を割り当てた。
この順序は、需要が続く限りは強い。1911年に起工した排水2万7,500屯の巡洋戦艦霧島は、同型艦の金剛を英国で建造した海軍に対して、民間造船所の技術が工廠にも先進国にも劣らないことを示した。だが需要の側が一枚の条約で消えると、先に持った設備はそのまま行き場を失う。1921年のワシントン会議が主力艦の比率を5・5・3と定めると、建造中の超弩級艦は止まり、八八艦隊のために2年前に建てた長崎製鋼所は開設2年で長崎造船所へ畳まれた。1932年上半期の創立以来はじめての赤字は、設備を先に持つという型が、官需の消滅をそのまま損益へ通す型でもあったことを示している。
三菱重工業は1884年7月7日を創立日としている。岩崎弥太郎氏が工部省から長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名した日である。その造船所の起源は幕府にさかのぼり、徳川幕府が1857年10月に長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所の建設に着手し、1861年3月に落成させた。1871年4月に明治政府工部省の所管へ移り、長崎造船所と改称されている。岩崎氏が1870年に設立した九十九商会は三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と社名を変更して海運で伸びたが、運航する船舶の修繕を英国まで持ち出す不便を抱えていた。借受から3年後の1887年6月、三菱は同造船所を政府から正式に買い受けた。
1893年7月の商法実施に伴い、三菱社は経営形態を会社組織へ改め、資本金500万円の三菱合資会社を組織した。鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務は一切が新会社へ譲渡され、造船所はその傘下で三菱合資三菱造船所となった。国内各社が外国航路を開設して外航船舶の需要が増え、日清・日露の両戦争を機に海軍艦艇の建造も相次いだ。設備の拡充は造船所の増設に及び、1905年7月に神戸三菱造船所、1914年12月に彦島三菱造船所が開設されている。1917年3月には長崎兵器製作所も設けられた。これら三造船所と兵器製作所が三菱合資の造船部を構成し、長崎・神戸・彦島という三拠点の配置が固まった。
払下げを受けた当時の長崎造船所は修理が主で、三菱社は直ちに造船工場の新設へ着手した。官営時代の同所には113万円の政府資本が投下されており、45万9,000円での払下げは三菱を最初から同業者間の優位に置いた。1890年に大阪商船の註文で建造した筑後川丸は、我国鋼製汽船の嚆矢であり、主機も国産最初の三聯成機関であった。当時の我国最大の商船となった須磨丸(総屯数1,590屯)は、1894年に始まった日清戦争のさなかに同所で完成した。戦時には船舶が軍隊と軍需品を運ぶために徴発され、力の乏しい国内の造船業は艦艇や御用船の修理だけで手一杯だった。1896年、政府は航海奨励法と造船奨励法を施行した。同所が1898年に完成させた日本郵船の常陸丸は、その大きさが6,172屯に及んだ。1,500屯級までしか手がけたことのなかった造船所が、これで6,000屯級へ一段跳んだことになる。
当時、近代的な軍艦はほとんど外国から輸入するほかなく、日清戦争を経て、海軍力を増やす必要と、それと裏表の関係にある造船業を保護し育てる必要が強く意識されていた。政府はすでに横須賀を海軍工廠として手元に置き、長崎は岩崎弥太郎に、兵庫は川崎正蔵に払い下げており、民間への建艦の下命はこの配置を前提としていた。こうしたなか、1895年12月に三菱合資会社は海軍大臣西郷従道あてに願書を出し、民間工場にも軍艦の建造を命じるよう求めた。願書は、船渠や各工場の新設・改正にすでに取りかかり、大艦巨舶を新しく造るにも直すにも支障はないと体制を説明したうえで、相当の御用を任されたいと願い出ていた。長崎造船所は1899年に水雷艇を建造して我国民間造船所における軍艦建造の端緒を為し、以後は駆逐艦や巡洋艦へ歩を進めた。海軍の需要は、受注を待つ相手ではなく設備を先に合わせる相手になった。
兵庫ではすでに川崎正蔵が造船所を経営しており、岩崎弥太郎とほぼ同じ時期に海運から造船へ移った競争相手だった。三菱合資会社はその兵庫の和田岬に新しい造船所を設けて造船事業を広げようと、1892年から93年にかけて準備に入ったが、必要な土地を買い終えたのは7年後の1900年だった。難点は和田岬の地質で、乾船渠を築けるかどうかが大いに疑われた。工学博士白石直治の調査では築造は不可能ではないとされたものの、岩崎弥之助監務が最終的に浮船渠を採ると決裁した。浮船渠の工事は工場建設と並んで進み、1905年7月に神戸三菱造船所が営業に入った。はじめは修理船が中心で、小型の補機や電機品をつくり、新船の建造は1907年に砂原に船台を設けてから始まった。
1905年、三菱合資会社は傘下事業の発展に即応して公称資本金を一躍三倍の1,500万円とし、業務組織へ新たに造船部を加えて庶務部・鉱業部・銀行部と併せた4部とした。翌1908年には各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円で4部のうち最大の割当を受けている。長崎造船所の業績は増進の一途をたどり、我国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけていた。同所は海軍当局の指示に基づいて大型戦艦建造のための設備拡張を進め、それが成るに及んで1911年に巡洋戦艦霧島を起工する。排水屯数2万7,500屯の同艦は、同型艦4隻のうち金剛が比較研究のため英国で建造されたなかで、同所の設備・能力・技術が海軍工廠はもちろん先進国と比べて遜色の無いことを証明するものであった。
三菱合資会社は各事業の発展で機構が膨らみ、事業部門を独立させる方針を採った。造船部門は1917年10月、三菱合資会社から造船部所属業務の一切を引き継いで三菱造船株式会社として設立された。資本金は5,000万円、初代会長には岩崎小弥太氏が就任している。所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所で、長崎造船所は1915年に三菱造船所から改称されたものであった。その4年前の1913年に長崎造船所で進水した2万7,500トンの巡洋戦艦霧島は、民間造船所として初の主力艦建造である。この造艦技術は、のちに6万9,600トンの巨艦武蔵の建造へつながった。
戦前の高速客船を代表する日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸も同社の建造にかかる。舶用主機の製作から始まった原動機部門は次第に陸用へも進出し、ボイラ・タービンは発電用と産業用で容量と性能を伸ばして国内外の発電所や大工場への納入を重ねた。車両では1917年に乗用車、1923年に日本最初の電気機関車を送り出している。1919年5月には自動車・航空機・内燃機関の製作を主とする神戸内燃機製作所を神戸造船所から分離独立させ、翌1920年5月に三菱内燃機製造として会社へ切り出した。1921年1月には米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡している。造船で培った素材と機械の技術は陸上の製品群へ横に広がり、その一部は別会社となって出て行った。
1921年にワシントンで開かれた海軍々備制限会議は、米英日の主力艦保有量の比率を5・5・3と決め、八八艦隊建造計画に当たっていた業界へ甚大な影響を与えた。三菱造船は1932年上半期、創立以来初の赤字決算を計上した。発端は、建造中の超弩級艦がすべて工事を止めたことにある。八八艦隊を見込んで1919年に設けた長崎製鋼所も、開設から2年しかたたずに規模を縮め、長崎造船所へ吸収された。造船界はその後も世界貿易の停滞と船腹の余剰に苦しみ、1930年には金解禁とロンドン軍縮会議による補助艦艇の建造制限が重なって、不況は深刻になった。新たに手がけた航空機でも、軍の予算は会社の数に対して小さく、1932年から33年ごろまでは各社とも受注の確保に苦労した。条約が海軍の建艦計画を止めると、その計画に合わせて整えてきた設備は、そのまま過剰となって残った。
岩崎小弥太が造船と航空機を一つの会社へ束ねたとき、反対は社内より軍から強く出た。海軍の艦政本部は航空機の介入を嫌い、航空本部は助成金が造船へ回ることを警戒したからである。それでも合併が通ったのは、両者の顧客が同じ軍だったからであり、同じ理由で三菱重工業の資本金は1934年の5,500万円から1945年の10億円まで10年余で18倍に伸び、従業員は1939年の約10万名から戦争末期の40万名へ膨らんだ。一社に束ねたことの利点も、束ねた規模の大きさも、どちらも軍需という単一の需要が支えていた。
だからその需要が消えた時、失われたのは受注ではなく会社の輪郭のほうであった。1945年10月の臨時株主総会は定款の営業目的から軍需を削り、受け取った軍需補償約24億円は二か月後に戦時補償特別税として没収され、資本金10億円の9割が切り捨てられた。分割案が三社から23社へ細分され、六社を経て1社案まで戻ったのは、会社がどの規模なら生き残れるかを決めかねていたからだろう。結局は総司令部が地域で三つに割ったが、新三菱重工業は自動車と航空機へ、三菱造船は大型船へと別々の柱を立て、15年後にその重複が再合併の理由になった。
三菱造船と三菱航空機の合併は、三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意に係るものであった。三菱が航空機に入ったのは1920年の発動機、1921年の機体からであった。両社の内部からは、合併後の厖大な機構をどう運営するか、割拠的な相互の調整をどうするかという反対が出た。造船と航空機の合併には、時代に逆らうにもほどがあるという非難が寄せられた。社外の反対は、それだけにとどまらず入り組んでいた。会社は陸軍と海軍の両方から製作を請け負っていたため、海軍の艦政本部は航空機が絡むことを嫌い、航空本部は民間工場に出した助成金が合併後に造船へ回されるおそれがあるとして、それぞれ異を唱えた。これに対し岩崎氏は、軍人であれ政治家であれ理由なく反対する者に取り合う必要はないとし、合併で受注ができなくなってもかまわないとまで言い切った。合併契約の締結は1934年3月20日、合併は6月13日である。
三菱重工業は資本金5,000万円で発足し、三菱航空機の合併で5,500万円となった。三菱航空機の航空機工場は名古屋航空機製作所、戦車工場は東京機器製作所として傘下へ加わっている。合併に際しての岩崎氏の告辞は、性質の相近似する事業を一統制下で経営することを進歩と基礎確立の根本の要諦とし、適当の時期を図った株式の一部公開を予告するものであった。1935年11月に横浜船渠を合併して資本金6,000万円、日華事変以降は軍需生産拡充計画に設備の拡張を合わせ、1937年5月に1億2,000万円、1940年3月に2億4,000万円、1942年7月に4億8,000万円と増えた。1943年12月に日立造船彦島造船所を買収し、1945年6月の三菱工作機械の合併で5億円、同年8月には10億円に達している。
三菱の工場は中部地方から西に広がり、機体6製作所と発動機11製作所を抱えて、従業員は約20万人まで増えた。太平洋戦争を遂行するため、産業全体を航空機の生産を中心に組み替える方針が取られ、各社はそろって官設民営の分工場を全国に急いで設けていた。機数で最も多かったのは零式艦戦の1万430機で、次が一式陸攻の2,440機である。発動機では火星1万5,900基、金星1万5,680基、瑞星1万3,540基を生産した。従業員数は1939年に約10万名だったのが戦争末期には40万名となり、その中の24〜5万人を徴用工が占め、終戦時には直系工場だけでも31あった。生産のピークは1944年6月の約2,900機で、その後はじりじりと落ち、1945年に入ると、空襲で最大の被害を受けた三菱の落ち込みが各社のなかで最もひどかった。
1945年9月2日に発せられた連合国軍総司令部一般命令第一号により、我国における一切の軍需生産は終止符を打たれた。三菱重工業は同年10月29日の臨時株主総会で定款中の営業目的から該当するものを削除し、1917年の創立以来の営業目的はここで180度の転回をした。同じ総会では、規模の縮小に伴う機構の改革と人事の刷新のため、先任役員が第一線から一斉に退任している。11月には14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたって過剰人員の整理を行った。整理は航空機に重点を置いて行われ、全従業員を4〜5万とすることが当時の目標であった。ただし名古屋だけは、何年か先に航空機の仕事もやり得るという見通しから、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残されている。
戦後の兵器生産の打切りに伴う損害賠償は政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた。決済はインフレ抑制のため現金によらず、主として政府特殊借入金証書という記名式無期限公債証書によっている。ところが同年10月に戦時補償特別措置法が公布施行されると、決済後いくらも経たない12月に、その全額が戦時補償特別税として没収された。軍需補償金と戦時保険金その他を合わせた額は約24億円に達し、これが特別損失の素因の大半となる。賠償指定も重なり、指定を受けなかったのは長崎・広島の両造船所と三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみであった。1949年1月1日現在で立案された特別損失は23億1,826万円で、資本金10億円の90%にあたる9億円の資本切捨と、14億1,826万円の債務切捨で補塡された。
分割案は、第二会社の安定性を考えてなるべく大きく分ける3社案から始まった。1948年3月の臨時株主総会で岡野保次郎社長は、総司令部の財閥解体の意向が強かったこと、三井物産・三菱商事の解体指令で強硬な態度が表面に現われたこと、従業員組合にも各工場単独独立の熱意が強かったことを挙げ、案が8社案から23社案へ細分化した経緯を説明した。その後は人件費と原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決している。6社案を経て1社案を持株会社整理委員会へ打診したものの、1949年6月4日の決定指令書は、新造船23%・発電用ボイラー68%という全国生産能力比を挙げて過度の経済力の集中と認定し、地域別三社への分割を指示した。1950年1月11日、東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業が発足し、旧三菱重工業は同日解散した。
中日本重工業は神戸造船所と名古屋製作所を含む五工場を譲り受け、資本金13億円で発足した。占領下で禁じられていた財閥商標と商号の使用が講和条約の発効で解除され、1952年5月に社名を新三菱重工業へ改めてスリーダイヤを復活させ、同時に許された艦艇・兵器・航空機を事業目的へ加えた。戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受けたが、戦後の国産第一号は三菱内部から生まれている。技術は提携でも取りに行き、1952年2月に米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月に米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携した。1952年12月に愛知県小牧へ機体修理工場を建設、1955年3月期の総生産高131億7,000万円のうち造船は16.4%で、自動車が37.5%を占めた。
西日本重工業は長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継し、1952年5月に三菱造船へ商号を変更した。1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンと全国の約2割で業界第一位であった。戦後の造船は1947年4月設立の船舶公団と計画造船に支えられ、造船所は運輸省の指定と枠の中に横並びで置かれている。そこへスエズ運河の閉鎖が重なって油送船の大型化が前倒しになり、1956年11月、三菱造船はマンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ。当時の話題は4万5,000重量トン級で、6万から8万重量トンが常態となるのは1960年ごろである。1961年の長崎造船所の進水実績は世界第1位となった。注文を取ってから設備を足すのではなく、設備の側を先に将来の船型へ合わせる順序が、この結果を用意した。
三社が別々に設備を積んだ結果、製品の重複が現れた。新三菱重工業と三菱日本重工業の間ではトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工業が米キャタピラー社と提携したブルドーザーは、既存の三菱日本重工業の製品と競合していた。造船と機械の双方で重複する研究投資も多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた。1962年9月、三重工の合併が本決まりとなったことが報じられ、国際的な信用力の向上、三菱商事を通じた輸出の一本化、EEC対策としての船舶の大型化が合併の利点として挙げられている。1963年には合併準備室が発足し、公正取引委員会の独占禁止法上の審査へ進んだ。競争の制限を理由に分けられた三社は、国際競争を理由に一つへ戻ることになる。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/7011/company.json https://the-shashi.com/api/7011/history.json https://the-shashi.com/api/7011/ceo.json https://the-shashi.com/api/7011/financials.json https://the-shashi.com/api/7011/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/7011/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/7011/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/7011/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/7011/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/7011/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/7011/financials.csv https://the-shashi.com/api/7011/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1884〜1933年官需に合わせた設備先行 | 工部省から長崎造船局を借り受け創立 | ★★★ | ||
| 三菱を設立し造船事業を承継 | ★★ | |||
| 三菱造船を設立 | ★ | |||
| 神戸造船所旧電気部を三菱電機として分離 | ★★ | |||
| 1934〜1963年軍需集中と強制分割 | 商号を三菱重工に変更 | ★ | ||
| 財閥解体により3社に会社分割 | ★★ | |||
| 戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産) | ★★ | |||
| 超大型船の建造に耐える設備の拡充と、大型化への舵切り 1956年11月、財閥解体で三分割された三菱重工系の一社である三菱造船が、スエズ運河の閉鎖を受けた油送船の大型化を見越し、マンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| YS-11の共同開発を開始 | ★ | |||
| 新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入 | ★ | |||
| 1964〜1985年3社合併の三菱重工業発足と原子力PWR、自動車部門の分離とボーイングとの共同事業 | 藤井深造 | 財閥解体で分割された三社の再合併による一体経営への復帰 1964年6月、財閥解体で三社に分割されていた三菱重工系(新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船)が公正取引委員会の審査を経て再合併し、売上規模で日立製作所に次ぐ日本有数の重機械メーカー三菱重工業が発足した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 河野文彦 | 長崎造船所で30万tドッグを新設 | ★ | ||
| 牧田與一郎 | 関西電力美浜1号にPWRを導入 | ★ | ||
| 牧田與一郎 | 戦闘機F-4EJを受注 | ★ | ||
| 牧田與一郎 | 自動車部門の切り出しと、独立会社としての新たな出発 1970年6月、三菱重工業が売上の28%を占める最大部門であった自動車の営業を三菱自動車工業へ譲渡し、100%出資の子会社として分離独立させた経営判断。クライスラーとの65対35の合弁を実現する前提として、まず完全子会社の形をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 守屋学治 | MU-300ビジネスジェットの開発開始 | ★ | ||
| 金森政雄 | ボーイング社とB767/777の事業契約を締結 | ★ | ||
| 1986〜2005年工場閉鎖と三菱原子力工業の合併、最終赤字とダイヤモンドプリンセス火災 | 飯田庸太郎 | 大幸工場を閉鎖(名古屋市大曽根) | ★ | |
| 飯田庸太郎 | 広島海洋機器工場を閉鎖 | ★ | ||
| 相川賢太郎 | 三菱原子力工業を合併 | ★★ | ||
| 西岡喬 | 最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 西岡喬 | Mitsubishi Power Systems, Inc.を設立 | ★ | ||
| 西岡喬 | 長崎造船所でダイヤモンドプリンセスが火災 | ★ | ||
| 佃和夫 | PBR1倍割れを問題視 | ★ | ||
| 2006〜2019年アレバとの原子炉共同開発とB787主翼、三菱日立パワーシステムズと客船の巨額損失 | 佃和夫 | ウェスチングハウス買収入札での敗退を受けた、中型炉共同開発への転進 2006年、米ウェスチングハウス社の買収入札で東芝に敗れた三菱重工業が、仏アレバとの中型原子炉の共同開発に合意し、2007年9月に合弁会社ATMEAをフランスに設立した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 佃和夫 | ボーイングB787向けに主翼出荷を開始 | ★ | ||
| 大宮英明 | キャタピラーとの合弁契約を解消 | ★ | ||
| 宮永俊一 | ニチユ三菱フォークリフトとして営業開始 | ★ | ||
| 宮永俊一 | 重電の中核事業を切り出した三菱日立パワーシステムズの発足 2012年11月29日、三菱重工業と日立製作所が、火力発電システム分野の事業統合で基本合意した経営判断。両社の開発・製造・販売・エンジニアリング機能を新設合弁へ移し、三菱重工が65%、日立が35%を出資する。合弁は2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズ(MHPS)として発足した。 詳細を読む | ★ | ||
| 宮永俊一 | 取締役会を監督に寄せ、重要な業務執行の決定を取締役社長へ委ねた統治の組み替え 2015年6月26日の第90回定時株主総会をもって、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。3名以上の取締役で構成しその過半数を社外取締役が占める監査等委員会を設置する形で、取締役会は14名(うち監査等委員である取締役5名)となり、うち5名(うち監査等委員3名)を社外から選任している。 移行前の2015年3月末は取締役11名中3名が社外、監査役5名中3名が社外監査役で、取締役会の外側にいた監視役は議決権を持つ取締役として内側へ入った。狙いは監督と執行の分離をより明確にすることと、重要な業務執行の決定を取締役に委任して迅速な意思決定を可能にすることにある。 詳細を読む | |||
| 宮永俊一 | Primetals Technologies, Limitedが営業開始 | ★★ | ||
| 宮永俊一 | 2隻で2,718億円の損失を積み、船舶海洋事業をガス船と艤装主体船へ寄せるまで 2011年11月にアイーダ・クルーズから受注した大型クルーズ客船2隻で、プロトタイプ客船の建造の困難さが顕在化し、大幅なコスト悪化が発生した。客船事業関連損失引当金繰入額は2014年3月期の641億26百万円に始まり、2015年3月期695億34百万円、2016年3月期1,039億11百万円、2017年3月期343億23百万円と積み上がり、4期の合計は2,718億94百万円に達した。 2017年3月期の交通・輸送セグメントは519億83百万円の営業損失で、前期の545億11百万円の黒字から1,064億95百万円悪化している。宮永俊一社長のもと、三菱重工業は大型客船から手を引いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2020〜2026年MHPSの完全子会社化とスペースジェット開発中止、防衛・宇宙の拡大と過去最高益 | 泉澤清次 | 三菱航空機が債務超過状態 | ★ | |
| 泉澤清次 | 火力発電事業の合弁からの離脱と、単独運営への切り替え 2014年に三菱重工65%・日立35%の出資で発足した三菱日立パワーシステムズ(MHPS)から日立が退き、2020年9月1日に三菱重工の完全子会社となった。議決権所有割合は65.0%から100%へ上がり、同じ日にMHPSは三菱パワー株式会社へ商号を変更している。日立の持分が動いた直接の理由は、統合の一環で引き継いだ南アフリカのボイラ建設プロジェクトの損失負担をめぐる係争であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 泉澤清次 | 国産ジェット旅客機の事業化断念と、民間機開発からの撤収 2023年2月7日、2022年度第3四半期決算の説明資料で、立ち止まりとしていたSpaceJet M90の開発活動を中止すると公表した経営判断である。開発再開に足る事業性を見出せないとしたもので、開発を担った三菱航空機は同年4月25日付でMSJ資産管理へ商号を変更し、2024年3月31日付で解散を決議した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 泉澤清次 | Concentric, LLCを子会社化 | ★ | ||
| 泉澤清次 | 防衛事業の急拡大——縮小産業を国策の成長事業へ 2022年12月の防衛3文書改定で政府が5年間43兆円・GDP比2%への防衛費増額を決めたのを受け、三菱重工業が防衛・宇宙事業を成長事業と定めて受注と生産能力を広げ、2026年3月期に同事業の売上収益を初めて1兆円超へ伸ばした経営判断。泉澤清次社長のもとで進めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 泉澤清次 | 過去最高益を達成 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三菱重工業)