1917
10月

三菱造船株式会社を設立

明治政府から長崎の造船所を買収

1887年(明治20年)に三菱財閥は、旧徳川幕府が1857年に開設した長崎の造船所「長崎熔鉄所」について、明治政府から払い下げを受けて買収。三菱財閥にとっては初の造船所であり、名称を「三菱造船所」として運営した。三菱財閥としては、当時の収益源だった海運事業について、船舶をイギリスまで修繕に持ち出すことを不便に考えており、国内に造船所を設置することを狙いとした。

このため、三菱財閥が政府から造船所を買収して参入した経緯から、三菱重工業における祖業は「造船」であり、発祥の地は「長崎」とされる。

造船業による事業拡大(長崎・神戸・彦島)

明治時代を通じて長崎の三菱造船所においては、商船会社向けの外国航路に就航する船舶に加えて、日清戦争・日露戦争を機に需要が増大した海軍向け艦艇の建造に従事。1911年には海軍向けに巡洋戦艦霧島を長崎造船所にて浸水した。三菱財閥による政府への売り込みもあり、国内トップクラスの造船所として成長した。

三菱財閥では造船事業を拡大するために、長崎に次ぐ拠点として、1905年に神戸三菱造船所を新設。1914年には下関にて「彦島三菱造船所」を発足し、長崎・神戸・彦島の3拠点で造船業に従事した。1917年には三菱財閥において各事業を株式会社として運営する方針が決まり、造船部門として「三菱造船株式会社」を発足した。同社は1934年に商号を「三菱重工業」に変更しており、現在の三菱重工業の系譜に相当する。

1887年
三菱社が長崎造船所を取得(官営払い下げ)
1898年
長崎造船所で「常陸丸」を竣工
1905年
神戸三菱造船所を新設
1905年
三菱合資会社で造船部を設置
1911年
長崎造船所で巡洋戦艦霧島を進水
1914年
彦島造船所を新設
1917年
3月
長崎兵器製作所を新設
1917年
10月
三菱造船株式会社を設立
証言
三菱造船株式会社史

大規模な修理は横須賀海軍工廠へ依頼し、時には上海、あるいは遠くイギリスの造船所まで回航して修繕工事を行う状態であった。したがって、三菱会社にとっては、より大規模な自社船の修繕設備を確保することが急務であり、一方、政府としても単に資力のみでなく、開示事業に豊かな経験と識見を持つ岩崎弥太郎(三菱の創業家)に長崎造船所の経営を託することを強く望んでいた。

「貸下げ」は、いわば経営体制確立の準備過程であり、約3年の準備期間を経て、明治20年6月7日、三菱社は正式に長崎造船所の払い下げを受けたのである。(略)

三菱造船所はあらゆる点でわが国造船界の先駆者であり、開拓者であった。日本造船史上にその名をとどめる「夕顔丸」(略)が竣工したのは払い下げ直前の20年5月であったが、さらに23年に建造した「筑後丸」で鋼船時代の幕をひらき、「常陸丸」で大型航洋船の先鞭をつけ、義勇艦「桜丸」の主機では舶用蒸気タービン製作の先頭に立った。また、巡洋戦艦「霧島」の建造で民間伊野ける本格的な大型艦建造の道をひらいている。

出所
参考文献
三菱造船株式会社史, 1967年
下関造船所50年史, 1964年
1921
1月

神戸造船所旧電気部を三菱電機として分離

三菱造船が船舶電化に対応・発電機の製造を開始

長崎の三菱造船所において、明治31年(1898年)に欧州航路向け客船「常陸丸」を竣工。当時最先端の技術であった電気の活用を決定し、石油ランプではなく白熱灯を船内照明として採用し「船舶電化」の方向性が決定的となった。そこで、明治37年までに三菱造船所では、船で電気を使うために必要な機器である「船舶向け発動機」の生産を開始し、造船事業の派生事業として「電機事業」に参入した。

1905年に新設した神戸造船所においても「電気部」を設置し、長崎造船所の「電気課」と合わせて、造船所の1部門として電気機器の製造に従事した。

三菱造船から電機部門の独立計画

ところが、鉄鋼部材の組み立てによる「造船」と、電気技術が必要とする「電気」は、利用技術や開発体制も大きく異なることから、造船所の内部で電気事業を行うことが非効率であることが発覚した。そこで、三菱合資会社として、三菱造船における電気部門の独立を計画した。

1918年に名古屋に8万坪のよう土地を確保し、電機専門工場の新設を計画した。また、独立の準備として、1919年11月に神戸造船所の電気部を分離して、三菱造船(株)電気製作所を発足した。

三菱電機を発足・電機部門を分離

1921年1月15日に三菱電機株式会社を設立。三菱造船の電機事業を継承し、三菱財閥における電機事業として運営する方針が決まった。生産拠点については、神戸造船所内部の「三菱造船電機製作所」を神戸工場として発足。長崎造船所の電気課については造船向け機器の生産が主体だったため、三菱電機の発足から数年後の1924年に三、菱電機の長崎工場として移管および発足した。

神戸工場における生産品目は「直流発電機・勾留発電機・変圧器・配電盤・電気機関車」などであり、主に電力会社向けの電気機の製造に従事した。

1924年にはかねてから計画されていた名古屋製作所を新設。汎用電動機の量産工場として稼働した。

1897年
長崎造船所で船舶向け電気機器の製造開始
1905年
神戸造船所に電気部を設置
1919年
11月
三菱造船(株)電気製作所を発足
1921年
1月
三菱電機を設立・三菱造船神戸造船所の旧電気部を譲受
1923年
三菱電機:米WH社と業務資本提携を締結
1924年
三菱電機:三菱造船長崎造船所の旧電気課を譲受
1924年
三菱電機:名古屋製作所を新設
証言
三菱電機社史:創立60周年

長崎造船所に電気課、神戸造船所に電気部が設置され、しだいに電機部門の比重が高まり、製品の種類も量も増大するに至った。これに伴って、電機機器製造が造船所に所属することから生ずるいろいろな問題が意識され始めた。

まず体部分の工作設備が造船向きであるが、電動機をつくるのに不向きであった。精密機械に近い電機製品を造船所ないで製造することはもはや限界に近づきつつあった。造船の工作設備で電動機を作ることは「牛刀をもって鶏をさく」のたとえに等しかったのである。

材料でも電機部門の自由になるのは電機鉄板や絶縁材料など電機用特殊材料だけで、ボルトやナットをはじめ鉄棒などの各部品、資材も造船ように用意したものを使わなければならなかった。

人事的な悩みの深刻で、新しい技術者が入社してきても、機械科出身は造船部門に配属され、電機部門にくる技術者は電気科出身ばかりで機械技術者の不足に悩まされた。国産奨励など電気の国家的使命が高まるにつれて、造船所に属するゆえの悩みは深まっていった。

出所
参考文献
三菱電機社史:創立60周年, 1982年
1921年1月
1919年
5月
神戸内燃機製作所を新設
1920年
5月
三菱内燃機製造株式会社を設立・内燃機部門を移管
1928年
5月
三菱内燃機製造:商号を三菱航空機に変更
1934年4月
商号を三菱重工株式会社に変更

戦時下における軍需増強のため、三菱重工業を発足

1930年代を通じて三菱重工は、海軍・陸軍向けの軍需製品の増産を強化。1934年に三菱航空機と三菱造船が合併して、三菱重工業を発足することで「艦艇・航空機・戦略」を量産する日本有数の軍需企業となった。

造船では1938年に長崎造船所にて戦艦「武蔵」を竣工。航空機では1943年に零式艦上戦闘機の生産を開始。車両では1937年に丸子工場を神奈川県に新設して戦車の量産体制を構築した。

1934年
4月
三菱重工株式会社に変更
1934年
6月
三菱航空機を合併
1935年
横浜船渠会社設立を合併(横浜製作所を発足)
1935年
10月
潜水艦用95式酸素魚雷を開発
1937年
丸子工場を新設(自動車・戦車)
1942年
8月
長崎造船所で戦艦武蔵を竣工
1943年
三原車両製作所を新設
1943年
8月
零式艦上戦闘機の生産開始
1943年
9月
水島航空機製作所を新設
1950年1月
財閥解体により3社に会社分割

戦後の財閥解体による三菱重工の解体が決定。新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の3社に分割された

1953

戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産)

1953年に米国政府は日本政府に対して、航空機生産(軍需)の支援を表明。当時、米軍の主力戦闘機であったF-86F「Sabre」の国産化計画が立ち上がり、三菱重工では航空機生産の再開を決断した。戦時中に航空機生産を担った名古屋製作所が事業化を担当し、1953年に小牧工場を新設した。

1955年に日米の政府間で航空機の国内生産が正式に決定され、同年8月に防衛庁からF-86Fの採用決定と生産受注を受注した。これを受けて、三菱重工では製造元である米ノース社からの技術支援を受け、1956年からノックダウンによる組み立て生産を開始した。

F-86Fの契約は1961年までに3期に分けて実施して合計約180億円を受注。累計300機のF-86Fの生産に従事するとともに、以後、F-104Jなど、戦闘機の生産を本格化した。戦闘機のノックダウン生産の黎明期に参入したことで、防衛省(防衛庁)との関係性を構築。軍用航空機のライセンスによる国内生産市場は、三菱重工業と川崎重工業の2社による寡占となった。

1953年
航空機生産の再開を決定
1953年
小牧工場を新設
1955年
F-86Fの生産決定
1957年
第1期契約分を防衛庁に納入
F-86F納入数 70
1959年
第1期契約分を防衛庁に納入
F-86F納入数 110
1961年
第1期契約分を防衛庁に納入
F-86F納入数 120
出所
参考文献
三菱重工名古屋航空機製作所二十五年史, 1983年
1959年6月
YS-11の共同開発を開始
1959年
3月
日本航空製造を共同設立
1962年
7月
YS-11の試験飛行を開始(国産旅客機)
総開発費 58 億円
1973年
3月
日本航空製造の業績悪化
累積赤字 360 億円
1973年
4月
YS-11の量産打ち切り
総生産数 180
1963年
新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入
1963年
キャタピラー三菱を設立
1964年
相模事業所を新設
1986年
明石事業所を新設
1964
6月

新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の3社が合併(三菱重工業の発足)

旧三菱重工の再合同

財閥解体によって分離された旧三菱重工3社(新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船)は、再合併の検討を開始。1963年7月に3社の取締役会において合併に関する共同検討を行う方針を決議し、同年8月に合併準備室を発足した。

公正取引委員会による審議

合併によって売上高3,000億円規模の大企業が誕生することから、公正取引委員会が独占禁止法に抵触しないかの判断を実施し、1964年1月までに「付帯した要請書」を通じて抄紙機を除いて問題ない旨の回答をした。

新生・三菱重工業の合併発足

1964年6月1日に新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の3社が合併して、三菱重工業株式会社を発足した。

出所
参考文献
三菱造船株式会社史, 1967年
利潤への挑戦 : 代表50社にみる経営革新, 1965年
1965年
長崎造船所で30万tドッグを新設
1965年
長崎造船所で30万tドッグを新設
1965年
香焼建造ドックを竣工
1970年3月
戦闘機F-4EJを受注

1971年度から1981年度にかけて、1次〜6次にわたり合計140機のF-4EJを防衛庁から受注。合計受注額は約1700億円。

1970年6月
自動車部門を三菱自動車工業に移譲
1971年
三菱自動車:クライスラーの出資受入れ
1977年
8月
三菱自動車:岡崎工場を新設
1979年
12月
三菱自動車:滋賀工場を新設
1988年
12月
三菱自動車:東京証券取引所に株式上場
2005年
3月
三菱自動車:不正発覚で巨額赤字に転落
当期純利益 -4747 億円
1970年
関西電力美浜1号にPWRを導入
1975年9月
MU-300ビジネスジェットの開発開始
1975年
9月
MU将来機プロジェクトチームを発足
1978年
8月
ビジネスジェットMU-300が初飛行
1982年
1月
米国でMU-300の型式証明を取得
1982年
1月
MU-300の納入開始
1985年
販売不振により事業撤退
1978年9月
ボーイング社とB767/777の事業契約を締結
1986年
大幸工場を閉鎖(名古屋市大曽根)
1988年12月
広島海洋機器工場を閉鎖
2000年3月
最終赤字に転落

海外プラント案件における遅延で赤字転落

決算
三菱重工業の業績
2000年3月期(連結)
売上高
28750
億円
当期純利益
-1370
億円
2001年12月
中期経営計画を策定・成長分野に集中
2002年10月
長崎造船所でダイヤモンドプリンセスが火災
2004年1月
PBR1倍割れを問題視
2007年
ボーイングB787向けに主翼出荷を開始
2012年3月
キャタピラーとの合弁契約を解消
2014年
三菱日立パワーシステムズを設立
2012年
11月
日立製作所と三菱重工が火力発電システムの統合に基本合意
2014年
三菱日立パワーシステムズを設立
2016年3月
客船の納期遅れで巨額損失
2011年
大型客船2隻を受注
2016年
3月
1番船「アイーダ・プリマ」を引き渡し
2017年
5月
2番船「アイーダ・ベルラ」を引き渡し
2020年3月
三菱航空機が債務超過状態
2008年
4月
三菱航空機を設立
2019年
三菱航空機で特損計上
SpaceJet事業に関する損失 1158 億円
2020年
三菱航空機で債務超過
債務超過額 4646 億円
2020年
三菱航空機で特損計上
SpaceJet事業に関する損失 6316 億円
2024年3月
過去最高益を達成

GTCC・原子力・防衛宇宙を中心に受注好調で過去最高益を達成。特に防衛関連(航空機・艦艇など)も好調で、2023年度における防衛省向けの販売高は4,897億円(全社売上対比10.5%)

決算
三菱重工業の業績
2024年3月期(連結)
売上収益
46571
億円
当期利益
2220
億円
従業員数
77697
営業CF
3311
億円
投資CF
-1310
億円
財務CF
-1589
億円
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