三菱重工業 の歴史

創業

1887年

創業者

※三菱財閥

創業地

長崎県長崎市

直近売上高(2025/3)

50,271億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1887年の長崎熔鉄所払い下げが、三菱重工の閉じた顧客構造を決めたのか
A 自社の海運で使う船舶の修繕をわざわざ英国まで持ち出す非効率を解消するには、国内に自前の造船所を抱えるほうが速く安く済む。岩崎弥太郎氏以来の垂直統合の発想がここに働いた。1887年に三菱財閥が明治政府から長崎熔鉄所の払い下げを受け、最初から最大の顧客が自社グループという閉じた取引で造船事業を始めた。やがて海軍向け艦艇という別の身内顧客が加わり、限られた相手と深く長く組む取引の型が、戦前のうちに定着した。
Q なぜ三菱重工は防衛・原子力で寡占を築きながら、2023年にスペースジェットを中止したのか
A 防衛省や電力会社を相手にする事業では、参入障壁が純粋な技術ではなく関係と実績の長期蓄積に置かれ、市場で売れるかどうかの判断を迫られにくい。1953年のF-86Fライセンス生産や1970年の関西電力美浜1号機への原子炉供給で限られた顧客を囲い込み、安定収益を得た。だが顧客のいない民間機では事情が違った。三菱重工は約1兆円を投じた国産ジェット旅客機で型式証明を取り切れず、2023年に開発を中止し、泉澤清次社長は事業性を見いだせなかったと述べた
Q なぜ2022年末の防衛費倍増で、民間で裏目に出た関係性主導の稼ぎ方が強みへ反転したのか
A 限られた顧客と長く深く組む稼ぎ方は、民間市場では撤退判断を遅らせる弱みになったが、需要を国が決める防衛では国策の支出拡大をそのまま取り込む強みへ転じる。2022年12月に政府が5年で約43兆円・GDP比2%への防衛費増額を閣議決定すると、三菱重工は防衛装備の最大の調達先となり、防衛・宇宙事業を5,000億円から1兆円規模へ倍増する目標を掲げた。原子力やデータセンター向けガスタービンの需要回復も重なり、関係で囲い込む型が追い風を受けている

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1884年〜 官営長崎造船所の借受から、三菱造船の分離独立まで

海運の修繕を自前で担うための造船所取得

三菱重工業は1884年7月7日を創立日[1]としている。岩崎弥太郎氏が工部省から長崎造船局を借り受け[2]、長崎造船所と命名した日である。その造船所の起源は幕府にさかのぼり、徳川幕府が1857年10月に長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所の建設に着手[3]し、1861年3月に落成させた。1871年4月に明治政府工部省の所管へ移り[4]、長崎造船所と改称されている。岩崎氏が1870年に設立した九十九商会[5]は三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と社名を改めて海運で伸びたが、運航する船舶の修繕を英国まで持ち出す不便[6]を抱えていた。借受から3年後の1887年6月、三菱は同造船所を政府から正式に買い受けた[7]

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
    • [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
    • [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
    • [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
    • [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機

1893年12月、資本金1,500万円の三菱合資会社[8]が設立されると、造船所はその傘下に編入されて三菱合資三菱造船所となった。国内各社が外国航路を開設して外航船舶の需要が増え、日清・日露の両戦争を機に海軍艦艇の建造も相次いだ[9]。設備の拡充は造船所の増設に及び、1905年7月に神戸三菱造船所、1914年12月に彦島三菱造船所[10]が開設されている。1917年3月には長崎兵器製作所[11]も設けられた。これら三造船所と兵器製作所が三菱合資の造船部を構成[12]し、長崎・神戸・彦島という三拠点の配置が固まった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [8]1893年12月 資本金1,500万円の三菱合資会社設立、造船所を傘下へ編入
    • [9]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
    • [10]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
    • [11]1917年3月 長崎兵器製作所開設
    • [12]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
    • [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
    • [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
    • [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
    • [8]1893年12月 資本金1,500万円の三菱合資会社設立、造船所を傘下へ編入
    • [9]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
    • [10]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
    • [11]1917年3月 長崎兵器製作所開設
    • [12]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
    • [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機

三菱造船の分離独立と、民間造船所初の主力艦

三菱合資会社は各事業の発展で機構が膨らみ、事業部門を独立させる方針[13]を採った。造船部門は1917年10月、三菱合資会社から造船部所属業務の一切を引き継いで[14]三菱造船株式会社として設立された。資本金は5,000万円[15]、初代会長には岩崎小弥太氏[16]が就いている。所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所[17]で、長崎造船所は1915年に三菱造船所から改称[18]されたものであった。その4年前の1913年に長崎造船所で進水した2万7,500トンの巡洋戦艦霧島[19]は、民間造船所として初の主力艦建造[20]である。この造艦技術は、のちに6万9,600トンの巨艦武蔵[21]の建造へつながった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [13]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
    • [15]三菱造船の資本金 5,000万円
    • [16]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
    • [17]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
    • [18]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [19]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
    • [20]民間造船所として初の主力艦建造
    • [21]6万9,600トンの戦艦武蔵

戦前の高速客船を代表する日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸[22]も同社の建造にかかる。舶用主機の製作から始まった原動機部門[23]は、次第に陸用へも進出した。ボイラ・タービンはいずれも発電用と産業用で容量と性能を伸ばし、国内外の発電所や大工場への納入[24]を重ねている。内燃機関の製作も舶用大型ディーゼル[25]など広い範囲に及んだ。車両では1917年に乗用車、1923年に日本最初の電気機関車[26]を送り出し、1935年から翌年にかけてディーゼルバスとディーゼルトラック[27]を開発している。造船で培った素材と機械の技術が、陸上の製品群へ横に広がった[28]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [22]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
    • [23]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
    • [24]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
    • [25]舶用大型ディーゼルなど内燃機関製作の広がり
    • [26]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
    • [27]1935〜1936年 ディーゼルバス・ディーゼルトラックの開発製作
    • [28]造船由来の技術が陸上製品群へ展開
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [13]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
    • [15]三菱造船の資本金 5,000万円
    • [16]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
    • [17]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
    • [18]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [19]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
    • [20]民間造船所として初の主力艦建造
    • [21]6万9,600トンの戦艦武蔵
    • [22]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
    • [23]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
    • [24]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
    • [25]舶用大型ディーゼルなど内燃機関製作の広がり
    • [26]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
    • [27]1935〜1936年 ディーゼルバス・ディーゼルトラックの開発製作
    • [28]造船由来の技術が陸上製品群へ展開

航空機と電機の枝分かれ、そして三系統の並立

航空機は原動機部門から枝分かれし、発動機の製造は1916年、機体の生産は1921年[29]に始まっている。1920年には三菱内燃機製造が設立され[30]、これがのちの三菱航空機となった。当時のわが国の航空機工業は民需をほとんど対象とせず、もっぱら軍需に向けて発達[31]している。外国機の製作権購入や外国人技師の招聘に力が注がれ、1930年ごろまでは模倣の域を脱しなかった[32]。1931年の満州事変以後に需要が急激に高まり[33]、1932年4月に横須賀へ設けられた海軍航空廠[34]が民間会社への発注と技術指導を通じて自主設計を推し進めた。1928年には三菱航空機が設立されている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [29]1916年 発動機製造開始、1921年 機体生産着手
    • [31]日本の航空機工業は民需をほとんど対象とせず軍需向けに発達
    • [32]外国機の製作権購入・外国人技師招聘、1930年ごろまで模倣の域
    • [33]1931年 満州事変以後の航空機需要急増
    • [34]1932年4月 横須賀に海軍航空廠設立、民間への発注と技術指導で自主設計を推進
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [30]1920年 三菱内燃機製造設立(三菱航空機の前身)

電機部門も造船から分かれ、1921年には神戸造船所の電気部を分離して三菱電機[35]が独立会社として設立された。造船所の内部で電機事業を並行して運営することから生じる組織上の非効率が、分離の理由である。三菱電機は1921年1月に分離手続きを終えている。こうして1930年代の初頭までに、造船・原動機・航空機・電機という四つの系統[36]が三菱の重工業部門から出そろっている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [35]1921年 神戸造船所の電気部を分離し三菱電機を設立
    • [36]1930年代初頭までに造船・原動機・航空機・電機の四系統が成立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [29]1916年 発動機製造開始、1921年 機体生産着手
    • [31]日本の航空機工業は民需をほとんど対象とせず軍需向けに発達
    • [32]外国機の製作権購入・外国人技師招聘、1930年ごろまで模倣の域
    • [33]1931年 満州事変以後の航空機需要急増
    • [34]1932年4月 横須賀に海軍航空廠設立、民間への発注と技術指導で自主設計を推進
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [30]1920年 三菱内燃機製造設立(三菱航空機の前身)
    • [35]1921年 神戸造船所の電気部を分離し三菱電機を設立
    • [36]1930年代初頭までに造船・原動機・航空機・電機の四系統が成立

1934年〜 三菱重工業の発足と軍需の一貫生産、そして三社への分割

  1. 1934年 商号を三菱重工に変更
  2. 1950年 財閥解体により3社に会社分割
  3. 1953年 戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産)
  4. 1956年 マンモスタンカー建造への着手と、超大型船に向けた設備の拡充 計画造船の枠内で横並びに戻るか、まだ来ていない船型に設備を先に合わせるか——スエズ後の油送船大型化にどう構えたか
  5. 1959年 YS-11の共同開発を開始
  6. 1963年 新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入

三菱航空機との合併と、戦時の生産

1934年4月、三菱航空機と三菱造船が合併[37]し、商号が三菱重工業へ変更された。発足時の資本金は5,500万円[38]である。創業の母体である長崎造船所をはじめ、神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所[39]を傘下に置いた。艦船の建造はもとより、原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械[40]まで製作品目はすでに広い範囲へ及んでいる。本社は東京府麹町区丸ノ内に置かれた。造船から枝分かれした系統が、ふたたび一つの会社へ束ね直された[41]形であった。

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1934年4月 三菱航空機と三菱造船が合併、商号を三菱重工業へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [38]三菱重工業発足時の資本金 5,500万円
    • [39]傘下事業所は長崎造船所・神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所
    • [40]製作品目は艦船・原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械に及ぶ
    • [41]造船由来の各系統が一社へ再統合

長崎造船所は6万9,600トンの武蔵を建造[42]した。航空機では神風号、ニッポン号、九六式陸上攻撃機、零式艦上戦闘機[43]といった機体を送り出している。これらは同社の歴史を飾るだけでなく、国産技術の発展の各時期を画す製品[44]として評価された。1938年の航空機製造事業法の制定[45]は、航空機工業への保護政策をさらに推し進めている。太平洋戦争の開戦後は航空機の増産が至上命令となり、1943年から翌年にかけて生産は最盛期[46]を迎えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [42]長崎造船所が6万9,600トンの戦艦武蔵を建造
    • [43]神風号・ニッポン号・九六式陸上攻撃機・零式艦上戦闘機を製作
    • [44]国産技術発展の各時期を画す製品としての評価
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [45]1938年 航空機製造事業法の制定による保護政策の推進
    • [46]1943〜1944年 航空機生産の最盛期

戦争の末期には資材の不足と空爆による被害で生産能力が下がった[47]。終戦時の月産は空襲前と比べて機体が21%、発動機が16%の水準[48]まで落ちている。終戦時に31を数えた同社の事業所[49]は、その大部分が解体を迫られた。GHQの指令で航空機の生産は一切禁じられ[50]、航空機会社は他の民需品への転換を余儀なくされている。財閥解体と集中排除法による企業分割[51]も重なり、航空機工業は一時まったく終焉したかにみえた。その後はまず米軍航空機の修理から再開の道[52]が開かれている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [47]戦争末期の資材不足と空爆被害による生産能力低下
    • [48]終戦時の月産は空襲前比で機体21%・発動機16%
    • [50]GHQ指令による航空機生産の全面禁止と民需品への転換
    • [51]財閥解体と集中排除法による企業分割
    • [52]戦後は米軍航空機の修理から再開
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [49]終戦時31事業所、大部分が解体
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1934年4月 三菱航空機と三菱造船が合併、商号を三菱重工業へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
    • [38]三菱重工業発足時の資本金 5,500万円
    • [39]傘下事業所は長崎造船所・神戸造船所・下関造船所・名古屋航空機製作所・東京機器製作所
    • [40]製作品目は艦船・原動機・鉄道車両・自動車・航空機・産業機械に及ぶ
    • [41]造船由来の各系統が一社へ再統合
    • [42]長崎造船所が6万9,600トンの戦艦武蔵を建造
    • [43]神風号・ニッポン号・九六式陸上攻撃機・零式艦上戦闘機を製作
    • [44]国産技術発展の各時期を画す製品としての評価
    • [49]終戦時31事業所、大部分が解体
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [45]1938年 航空機製造事業法の制定による保護政策の推進
    • [46]1943〜1944年 航空機生産の最盛期
    • [47]戦争末期の資材不足と空爆被害による生産能力低下
    • [48]終戦時の月産は空襲前比で機体21%・発動機16%
    • [50]GHQ指令による航空機生産の全面禁止と民需品への転換
    • [51]財閥解体と集中排除法による企業分割
    • [52]戦後は米軍航空機の修理から再開

財閥解体と、三社への強制分割による再出発

1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行[53]され、財閥解体の対象となった制限会社から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割を指令する機関が置かれた。1947年12月には過度経済力集中排除法が制定・施行[54]され、非財閥系を含む巨大会社の再編成が進められている。三菱系では三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業など少なからぬ企業が持株会社の指定[55]を受けた。三菱重工業は三菱財閥のなかで圧倒的な地位を占めていたとして、持株整理委員会から三分割の指令案[56]を示された。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「大企業の分割相つぐ」
    • [53]1946年4月 持株整理委員会令の制定・施行
    • [54]1947年12月 過度経済力集中排除法の制定・施行
    • [55]三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業などが持株会社の指定を受ける
    • [56]三菱財閥内で圧倒的地位を占めたことを理由とする三分割の指令案

1950年1月、三菱重工業は中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割[57]された。中日本重工業は本社を神戸市に置き、資本金13億円、社長は藤井深造[58]である。静岡から三原までの間にあった神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所[59]を譲り受けた。東日本重工業と西日本重工業はいずれも本社を東京都中央区に置き、資本金はそれぞれ30億円と28億円[60]であった。3社は1950年5月に東京・大阪の各証券取引所へ株式を上場[61]している。

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1950年1月 中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割
    • [61]1950年5月 3社が東京・大阪各証券取引所へ上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [58]中日本重工業は本社神戸市・資本金13億円・社長藤井深造
    • [59]中日本重工業が譲り受けた工場は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [60]東日本重工業の資本金30億円、西日本重工業の資本金28億円

占領下では財閥の商標と商号の使用が禁じられていたが、1952年の対日講和条約の発効に伴って解除[62]された。中日本重工業は1952年5月に新三菱重工業へ、西日本重工業は同月に三菱造船へ、東日本重工業は同年6月に三菱日本重工業へ[63]商号を変更している。あわせてスリーダイヤモンドの商標も復活[64]した。同じく禁じられていた艦艇・兵器・航空機の生産加工も許され、1952年7月には航空機製造法が制定[65]されて航空機工業が再開へ向かった。新三菱重工業はこれらを新たに事業目的へ加えている[66]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [62]1952年 対日講和条約発効による財閥商標・商号の使用解除
    • [64]スリーダイヤモンド商標の復活使用
    • [66]新三菱重工業が艦艇・兵器・航空機を事業目的へ追加
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1952年5月 新三菱重工業・三菱造船へ、同年6月 三菱日本重工業へ商号変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [65]1952年7月 航空機製造法の制定と航空機工業の再開
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「大企業の分割相つぐ」
    • [53]1946年4月 持株整理委員会令の制定・施行
    • [54]1947年12月 過度経済力集中排除法の制定・施行
    • [55]三菱重工業・三菱商事・三菱鉱業などが持株会社の指定を受ける
    • [56]三菱財閥内で圧倒的地位を占めたことを理由とする三分割の指令案
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1950年1月 中日本重工業・東日本重工業・西日本重工業の3社へ分割
    • [61]1950年5月 3社が東京・大阪各証券取引所へ上場
    • [63]1952年5月 新三菱重工業・三菱造船へ、同年6月 三菱日本重工業へ商号変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [58]中日本重工業は本社神戸市・資本金13億円・社長藤井深造
    • [59]中日本重工業が譲り受けた工場は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所
    • [62]1952年 対日講和条約発効による財閥商標・商号の使用解除
    • [64]スリーダイヤモンド商標の復活使用
    • [66]新三菱重工業が艦艇・兵器・航空機を事業目的へ追加
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [60]東日本重工業の資本金30億円、西日本重工業の資本金28億円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [65]1952年7月 航空機製造法の制定と航空機工業の再開

技術導入と競合、そして合併の決議

分立した3社は、それぞれ先進技術の導入で製品の幅を広げた[67]。新三菱重工業は1950年11月に米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械[68]について技術提携を結び、1951年5月にはスイスのスルザー・フレール社と機関車用エンジン[69]で提携している。1951年7月には米国バタワース社と化学繊維機械で、1952年2月には米国ウェスチングハウス社と蒸気タービン[70]で提携した。1952年5月には米国コンバッション・エンジニアリング社[71]との間に蒸気発生装置の提携が加わっている。このうちウェスチングハウス社との関係は、のちの加圧水型原子炉の技術導入へつながる入口となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [67]分立3社による先進技術の導入
    • [68]1950年11月 米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械で技術提携
    • [69]1951年5月 スイス・スルザーフレール社と機関車用エンジンで提携
    • [70]1951年7月 米国バタワース社と化学繊維機械、1952年2月 米国ウェスチングハウス社と蒸気タービンで提携
    • [71]1952年5月 米国コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携

旧三菱重工業の分割は地域を基準に行われたため、3社は発足のときから製品分野が競合[72]した。各社が経営の多角化を進めるほど、競合はいっそう激しく[73]なっている。合併を求める声は三菱グループの内外から上がり、とりわけ主取引銀行の三菱銀行と共通の取引商社である三菱商事からの要望[74]が強かった。3社はいずれも大型ドックの建造や陸上機械部門の拡充で多額の設備投資資金[75]を必要としており、銀行はグループ内の重複投資を避けたいと考えた。商事の側も、電力会社からタービンやボイラの注文を取る際に3社のどこへ割り振るか[76]で苦慮し、注文の奪い合いが演じられていた。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [72]旧三菱重工業の分割が地域基準だったため3社の製品分野が競合
    • [73]各社の経営多角化に伴う競合の激化
    • [74]三菱銀行・三菱商事からの合併要望
    • [75]大型ドック建造・陸上機械部門拡充による設備投資資金需要と、銀行の重複投資回避意向
    • [76]電力会社向けタービン・ボイラ受注をめぐる3社間の奪い合い

3社合併が各社の役員会で具体的に話されたのは1962年の秋[77]である。同年9月には合併が本決まりとする新聞報道[78]が出たが、社内ではまだ決していなかった。新三菱重工業の藤井深造社長は1962年の暮れ、公正取引委員会がどう出るかを打診[79]するよう指示している。照会の結果は諾否いずれでもなかった[80]ため、ともかく申請する方針が固まった。1963年7月27日に3社の取締役会が共同検討への着手を決議し、8月2日には合併準備室[81]が置かれ、三菱日本重工業の織田淑夫常務が室長[82]に就いた。同年10月28日に合併契約書が調印され、11月27日の株主総会で承認[83]されている。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [77]1962年秋 3社の役員会で合併が具体的に議論
    • [79]藤井深造社長による公正取引委員会への打診指示(1962年暮れ)
    • [80]公取委への照会結果は諾否いずれでもなく、申請へ
    • [81]1963年7月27日 3社取締役会が共同検討に着手を決議、8月2日 合併準備室設置、室長は織田淑夫
    • [82]合併準備室長は三菱日本重工業の織田淑夫常務
    • [83]1963年10月28日 合併契約書調印、11月27日 株主総会承認
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)「三菱・三重工合併本決まり」
    • [78]1962年9月 日本経済新聞が三重工合併を本決まりと報道
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [67]分立3社による先進技術の導入
    • [68]1950年11月 米国レイヨンコンサルタント社と化学繊維機械で技術提携
    • [69]1951年5月 スイス・スルザーフレール社と機関車用エンジンで提携
    • [70]1951年7月 米国バタワース社と化学繊維機械、1952年2月 米国ウェスチングハウス社と蒸気タービンで提携
    • [71]1952年5月 米国コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [72]旧三菱重工業の分割が地域基準だったため3社の製品分野が競合
    • [73]各社の経営多角化に伴う競合の激化
    • [74]三菱銀行・三菱商事からの合併要望
    • [75]大型ドック建造・陸上機械部門拡充による設備投資資金需要と、銀行の重複投資回避意向
    • [76]電力会社向けタービン・ボイラ受注をめぐる3社間の奪い合い
    • [77]1962年秋 3社の役員会で合併が具体的に議論
    • [79]藤井深造社長による公正取引委員会への打診指示(1962年暮れ)
    • [80]公取委への照会結果は諾否いずれでもなく、申請へ
    • [81]1963年7月27日 3社取締役会が共同検討に着手を決議、8月2日 合併準備室設置、室長は織田淑夫
    • [82]合併準備室長は三菱日本重工業の織田淑夫常務
    • [83]1963年10月28日 合併契約書調印、11月27日 株主総会承認
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)「三菱・三重工合併本決まり」
    • [78]1962年9月 日本経済新聞が三重工合併を本決まりと報道

1964年〜 再合併と、防衛・エネルギーという政策連動事業の確立

三菱重工業の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1964年 財閥解体で分割された三社の再合併と三菱重工業の発足 財閥解体で三つに分けられた重工業を、国際競争の時代にどう一つへ束ね直したか
  2. 1965年 長崎造船所で30万tドッグを新設
  3. 1970年 関西電力美浜1号にPWRを導入
  4. 1970年 戦闘機F-4EJを受注
  5. 1970年 自動車部門の分離独立と三菱自動車工業の設立 売上の3割を占める最大部門を抱え続けるか、専業会社として外へ出すか——クライスラーとの合弁を前提にした切り出し
  6. 1975年 MU-300ビジネスジェットの開発開始
  7. 1995年 三菱原子力工業を合併

三社合併と、最大部門だった自動車の分離

1964年6月、新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の3社が合併[84]し、三菱重工業として発足した。分割から14年を経ての再統合[85]である。藤井深造社長は株主総会で、「三社が旧に復して一体となり、重複投資を避け、人材・技術・設備等を結集して生産の合理化、技術の向上、営業面の強化をはかり、国際市場において世界の巨大企業と競合しうる実力を備える[86]ため、合併を行なうのである」と述べている。合併直前の3社の売上高は合計で約3,194億円、内訳は新三菱重工業が1,668億円、三菱造船が831億円、三菱日本重工業が695億円[87]であった。

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1964年6月 新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船が合併し三菱重工業が発足
    • [85]分割から14年を経た再統合
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [86]藤井深造社長による合併目的の株主総会説明
  • 利潤への挑戦 : 代表50社にみる経営革新(中公新書)
    • [87]合併直前3社の売上高 合計約3,194億円(新三菱1,668億円・三菱造船831億円・三菱日本695億円)

合併から5年後の1969年、牧田與一郎社長は受注高が2.1倍、売上高が2倍、税引前利益が1.4倍[88]になったと説明した。1969年3月期の受注高は3,949億円、売上高は3,185億円、税引前利益は132億円、税引後利益は75億円[89]である。社内留保は特別償却や各種引当金を含めて90億円余[90]を積み、前期より大幅に増やしている。設備投資は1969年度に約300億円を予定し、前年度の約170億円[91]から拡大させた。この設備資金の一部に充てるため、4分の1増資に踏み切っている[92]。1969年9月期は受注高4,100億円、売上高3,380億円[93]を見込んでいた。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「三菱重工業の現状と将来」牧田與一郎
    • [88]牧田與一郎社長による合併5年後の実績説明(受注2.1倍・売上2倍・税引前利益1.4倍)
    • [89]1969年3月期 受注高3,949億円・売上高3,185億円・税引前利益132億円・税引後利益75億円
    • [90]社内留保90億円余を計上
    • [91]1969年度の設備投資約300億円(前年度約170億円)
    • [92]設備資金の一部に充てる4分の1増資
    • [93]1969年9月期見込み 受注高4,100億円・売上高3,380億円

1968年度の総売上高6,272億円の構成をみると、最大の部門は自動車で28%にあたる1,769億円[94]を占めた。受注生産を主とする機械第一事業部が24%の1,533億円、船舶が19%の1,209億円[95]、見込生産を主とする機械第二事業部が14%の846億円と続く。原動機は11%の677億円、航空機・特殊車両・宇宙関係は4%の238億円[96]であった。1965年度は船舶が26%で最大だった[97]から、3年で船舶の比重が下がり機械の比重が上がっている。その自動車部門は1970年6月、営業を三菱自動車工業へ譲渡[98]した。売上の3割近くを占める最大部門の切り離し[99]である。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「三菱重工業の現状と将来」牧田與一郎
    • [94]1968年度 総売上高6,272億円、自動車28%=1,769億円で最大部門
    • [95]1968年度 機械第一24%=1,533億円、船舶19%=1,209億円、機械第二14%=846億円
    • [96]1968年度 原動機11%=677億円、航空機・特殊車両・宇宙4%=238億円
    • [97]1965年度は船舶26%で最大、3年で船舶低下・機械上昇
    • [99]売上の3割近くを占める最大部門の分離
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [98]1970年6月 自動車部門の営業を三菱自動車工業へ譲渡
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1964年6月 新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船が合併し三菱重工業が発足
    • [85]分割から14年を経た再統合
    • [98]1970年6月 自動車部門の営業を三菱自動車工業へ譲渡
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
    • [86]藤井深造社長による合併目的の株主総会説明
  • 利潤への挑戦 : 代表50社にみる経営革新(中公新書)
    • [87]合併直前3社の売上高 合計約3,194億円(新三菱1,668億円・三菱造船831億円・三菱日本695億円)
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「三菱重工業の現状と将来」牧田與一郎
    • [88]牧田與一郎社長による合併5年後の実績説明(受注2.1倍・売上2倍・税引前利益1.4倍)
    • [89]1969年3月期 受注高3,949億円・売上高3,185億円・税引前利益132億円・税引後利益75億円
    • [90]社内留保90億円余を計上
    • [91]1969年度の設備投資約300億円(前年度約170億円)
    • [92]設備資金の一部に充てる4分の1増資
    • [93]1969年9月期見込み 受注高4,100億円・売上高3,380億円
    • [94]1968年度 総売上高6,272億円、自動車28%=1,769億円で最大部門
    • [95]1968年度 機械第一24%=1,533億円、船舶19%=1,209億円、機械第二14%=846億円
    • [96]1968年度 原動機11%=677億円、航空機・特殊車両・宇宙4%=238億円
    • [97]1965年度は船舶26%で最大、3年で船舶低下・機械上昇
    • [99]売上の3割近くを占める最大部門の分離

防衛とエネルギーで築いた長期取引の構造

1952年7月の航空機製造法の制定を受け[100]、新三菱重工業をはじめとする各社が航空機の製造を再開[101]した。1953年には戦闘機の国内ライセンス生産が始まり、F-86Fは1961年までに累計300機・約180億円分が防衛庁へ納入された。1970年3月にはF-4EJを受注し、以後もF-15J、F-2、F-35と後継機の生産を受け継いだ。早い時期に参入して製造の実績を積み上げたことが、戦闘機の国内生産を三菱重工業と川崎重工業がほぼ二社で担う形につながった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [100]1952年7月 航空機製造法制定を受けた航空機製造の再開
    • [101]新三菱重工業など各社による航空機製造の再開

エネルギーでも同じ型の事業が育ち、新三菱重工業が1952年2月に米国ウェスチングハウス社と結んだ蒸気タービンの技術提携[102]が、加圧水型原子炉の導入へつながっている。1970年には関西電力美浜1号機に加圧水型原子炉が採用された。1995年1月には三菱原子力工業を合併[103]し、原子力の設計と製造を自社へ取り込んでいる。火力では蒸気タービンとボイラの技術を土台に、発電設備の納入と長期の保守を組み合わせる収益の形が定着した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [102]1952年2月のウェスチングハウス社との蒸気タービン提携が加圧水型原子炉導入につながる
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [103]1995年1月 三菱原子力工業を合併

1978年9月にはボーイング社とB767およびB777の事業契約を結び、民間機の部品供給という三つ目の柱を得た。一方で1975年9月に自主開発へ着手したビジネスジェット機MU-300は、米国市場での販売が伸びず、1985年に撤退が決まった。1985年3月期の売上高は1兆9,997億円、経常利益は872億円[104]である。部門別では原動機が38%の7,665億円で最大となり、船舶・鉄構が17%の3,360億円[105]、量産品が14%の2,813億円と続いた。機械は13%の2,650億円、航空機・特殊車両も13%の2,608億円[106]、化学プラントは4%の899億円である。1968年度に最大だった自動車を切り離して以降、原動機が売上の柱として据わった[107]

  • 会社年鑑(1986年版)
    • [104]1985年3月期 売上高1兆9,997億円・経常利益872億円
  • 会社年鑑(1986年版)セグメント別売上高
    • [105]1985年3月期 原動機38%=7,665億円、船舶・鉄構17%=3,360億円、量産品14%=2,813億円
    • [106]1985年3月期 機械13%=2,650億円、航空機・特殊車両13%=2,608億円、化学プラント4%=899億円
    • [107]自動車分離後に原動機が売上の柱となる
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
    • [100]1952年7月 航空機製造法制定を受けた航空機製造の再開
    • [101]新三菱重工業など各社による航空機製造の再開
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [102]1952年2月のウェスチングハウス社との蒸気タービン提携が加圧水型原子炉導入につながる
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [103]1995年1月 三菱原子力工業を合併
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [104]1985年3月期 売上高1兆9,997億円・経常利益872億円
  • 会社年鑑(1986年版)セグメント別売上高
    • [105]1985年3月期 原動機38%=7,665億円、船舶・鉄構17%=3,360億円、量産品14%=2,813億円
    • [106]1985年3月期 機械13%=2,650億円、航空機・特殊車両13%=2,608億円、化学プラント4%=899億円
    • [107]自動車分離後に原動機が売上の柱となる

重厚長大への逆風と、アジア危機による高収益の崩壊

造船不況と重厚長大への逆風は人員に及び[108]、1978年11月、三菱重工業は2年間で1万人を削減する合理化案[109]を労働組合へ提示した。同じ月に石川島播磨重工業も3工場の閉鎖[110]を決めており、造船各社が同時に規模の縮小へ動いている。1980年3月期の売上高は1兆3,492億円、経常利益は225億円、当期純利益は116億円[111]にとどまった。受注の落ち込みは工場の統廃合にも及んだ。1986年には名古屋市大曽根の大幸工場を、1988年12月には広島海洋機器工場を閉鎖している。

  • 日本産業史 4(高村寿一・小山博之 編、日経文庫、1994年)年表
    • [108]造船不況と重厚長大への逆風による人員削減
    • [109]1978年11月 2年間で1万人削減の合理化案を労働組合へ提示
    • [110]同月 石川島播磨重工業が3工場閉鎖
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [111]1980年3月期 売上高1兆3,492億円・経常利益225億円・当期純利益116億円

1990年代に入ると、アジア諸国の工業化がもたらす発電プラントと機械プラントの需要[112]が業績を押し上げた。1996年度の経常利益は1,926億円で前期比15.6%増、純利益は1,106億円で同20.2%増[113]となり、いずれも過去最高を更新している。純利益が1,000億円台に乗ったのは初めてで、受注金額も3兆円強[114]と初の大台へ届いた。株主資本は1兆1,125億円、株主資本利益率は9.9%[115]である。海外受注1兆1,560億円のうち59%をアジア諸国[116]が占めており、この地域への偏りが収益構造の前提となっていた。

  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱重工業/“家長”企業の異変 アジア経済混乱で崩壊した高収益構造」
    • [112]アジア諸国の工業化による発電・機械プラント需要の拡大
    • [113]1996年度 経常利益1,926億円(前期比15.6%増)・純利益1,106億円(同20.2%増)でいずれも過去最高
    • [114]純利益の初の1,000億円台乗せと、受注金額3兆円強という初の大台
    • [115]1996年度 株主資本1兆1,125億円・ROE9.9%
    • [116]1996年度 海外受注1兆1,560億円のうち59%がアジア諸国

1997年度に入ると収益は急速に悪化[117]した。期初に1,950億円としていた経常利益の目標は中間期に1,600億円へ、翌年2月にはさらに1,200億円へ[118]と二度も引き下げられ、前期比37.7%の減益となる。資金繰りも悪化し、4,000億円規模の調達に追い込まれた[119]。原動機の海外受注は3,481億円から1,700億円へ半減以下となり、機械の海外受注も4,073億円から3,000億円[120]へ落ちている。津田義久副社長は「受注競争力が強いと思ったのが、結果として錯覚だった」[121]と語った。相川賢太郎会長の「ROEなど眼中にない」という発言[122]は、海外を含む批判の対象となっている。

  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱重工業/“家長”企業の異変 アジア経済混乱で崩壊した高収益構造」
    • [117]1997年度の収益急悪化
    • [118]1997年度 経常利益目標を1,950億円→1,600億円→1,200億円へ二度減額、前期比37.7%減
    • [119]資金繰り悪化により4,000億円規模の資金調達
    • [120]原動機の海外受注3,481億円→1,700億円、機械の海外受注4,073億円→3,000億円
    • [121]津田義久副社長の発言「受注競争力が強いと思ったのが、結果として錯覚だった」
    • [122]相川賢太郎会長の「ROEなど眼中にない」発言が批判の対象に
  • 日本産業史 4(高村寿一・小山博之 編、日経文庫、1994年)年表
    • [108]造船不況と重厚長大への逆風による人員削減
    • [109]1978年11月 2年間で1万人削減の合理化案を労働組合へ提示
    • [110]同月 石川島播磨重工業が3工場閉鎖
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [111]1980年3月期 売上高1兆3,492億円・経常利益225億円・当期純利益116億円
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱重工業/“家長”企業の異変 アジア経済混乱で崩壊した高収益構造」
    • [112]アジア諸国の工業化による発電・機械プラント需要の拡大
    • [113]1996年度 経常利益1,926億円(前期比15.6%増)・純利益1,106億円(同20.2%増)でいずれも過去最高
    • [114]純利益の初の1,000億円台乗せと、受注金額3兆円強という初の大台
    • [115]1996年度 株主資本1兆1,125億円・ROE9.9%
    • [116]1996年度 海外受注1兆1,560億円のうち59%がアジア諸国
    • [117]1997年度の収益急悪化
    • [118]1997年度 経常利益目標を1,950億円→1,600億円→1,200億円へ二度減額、前期比37.7%減
    • [119]資金繰り悪化により4,000億円規模の資金調達
    • [120]原動機の海外受注3,481億円→1,700億円、機械の海外受注4,073億円→3,000億円
    • [121]津田義久副社長の発言「受注競争力が強いと思ったのが、結果として錯覚だった」
    • [122]相川賢太郎会長の「ROEなど眼中にない」発言が批判の対象に

2000年〜 民間大型案件の連続した失敗と、防衛が支える最高益

三菱重工業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2000年 最終赤字に転落
  2. 2006年 ウェスチングハウス買収入札での敗退と、仏アレバとの中型炉共同開発合弁の設立 師匠筋を買うか、兄弟会社と組むか——縮む国内市場を前にした加圧水型の出口探し
  3. 2014年 日立との火力発電システム事業の統合と三菱日立パワーシステムズの設立 全社経営統合が破談した翌年、なぜ長年のライバルと基幹事業の火力だけを一体化する道を選んだのか
  4. 2016年 大型客船事業からの撤退——アイーダ社2隻で2408億円の損失 造船不況の起死回生を狙った高付加価値船戦略は、なぜ祖業の縮小を招いたか
  5. 2020年 三菱重工と日立の火力発電合弁「三菱日立パワーシステムズ」の解消(2020年) なぜ世界3強をめざした火力発電合弁は、海外プロジェクトの損失負担をめぐる係争の末に解消されたのか?
  6. 2023年 国産ジェット旅客機スペースジェット(MSJ/旧MRJ)の開発中止 1兆円を投じ半世紀ぶりの悲願をどこで断つか——型式証明の直前で撤退を選んだ判断
  7. 2023年 防衛事業の急拡大——縮小産業を国策の成長事業へ 5年で43兆円という防衛費増額を、三菱重工はどう成長機会へ変えたのか

三社合併以来の赤字と、再建計画「2000事計」

2000年3月期、連結の当期純損益は1,370億円の赤字[123]に転じた。1996年度に1,100億円超の黒字を出してから、わずか3年[124]での暗転である。赤字の計上は1964年の三社合併以来[125]のことであった。単独受注も3兆600億円から1兆9,200億円へ4割[126]落ちている。連結売上高は2兆8,750億円[127]である。国内需要が設備投資の停滞と電力自由化に伴う電力投資の削減で低迷するなか、輸出の拡大でこれを埋め合わせた結果、輸出比率はこの間に10ポイント以上も上がっていた[128]

  • 会社年鑑
    • [123]2000年3月期 連結当期純損益は1,370億円の赤字
    • [127]2000年3月期 連結売上高2兆8,750億円
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「危険水域は脱したがつかめぬ“復活”への展望 短期集中連載三菱グループ 最終回 三菱重工業」
    • [124]1996年度の1,100億円超の黒字から3年での暗転
    • [125]赤字計上は1964年の三社合併以来
    • [126]単独受注 3兆600億円→1兆9,200億円へ4割減
    • [128]設備投資停滞・電力自由化による国内需要低迷と、輸出比率の10ポイント以上の上昇

海外市場では価格が急落し[129]、顧客の要求する仕様も厳しさを増していた。そこで技術力とコスト競争力を過信して量的な拡大を追った[130]ことが、不採算工事と手直し工事の山を築く背景となる。中東のプラント入札で敗れた専業メーカーの役員は、「われわれ専業でさえ赤字覚悟で出した値段をさらに下回る無謀とも思える安値[131]でさらっていった」と述懐した。1999年度には主な未成工事について受注工事損失を計上して決着をつけ、その額は対象10件・契約金額3,300億円に対して920億円[132]に達している。

  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「危険水域は脱したがつかめぬ“復活”への展望 短期集中連載三菱グループ 最終回 三菱重工業」
    • [129]海外市場の価格急落と仕様条件の厳格化
    • [130]技術力・コスト競争力の過信による量的拡大が不採算工事と手直し工事を招く
    • [131]中東プラント入札で敗れた専業メーカー役員の証言
    • [132]1999年度 受注工事損失920億円(対象10件・契約金額3,300億円)

1999年11月、経営再建計画「2000事計」[133]が打ち出された。最終年度である2004年3月期に単独受注高2兆6,000億円、単独売上高2兆5,000億円、単独経常利益1,300億円[134]を掲げ、人員は5,000人を減らして3万5,000人とする計画である。成長の源泉にはガスタービン、航空宇宙、新交通システム、環境、分散型電源の5分野[135]を挙げ、27項目の重点開発テーマを設定した。ただし計画には整理・縮小事業や構造改革事業といった項目がない[136]。紺道樹義常務社長室長は「弱い事業は強くする」[137]が基本方針だとし、事業の買収も切り売りもしないと述べている。西岡喬社長が繰り返し掲げたのは「製造業の原点回帰」[138]であった。

  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「危険水域は脱したがつかめぬ“復活”への展望 短期集中連載三菱グループ 最終回 三菱重工業」
    • [133]1999年11月 経営再建計画「2000事計」の策定
    • [134]2004年3月期目標 単独受注2兆6,000億円・売上2兆5,000億円・経常利益1,300億円、人員5,000人減で3万5,000人
    • [135]成長5分野(ガスタービン・航空宇宙・新交通システム・環境・分散型電源)と27項目の重点開発テーマ
    • [136]再建計画に整理・縮小事業や構造改革事業の項目がない
    • [137]紺道樹義常務社長室長の方針「弱い事業は強くする」、事業の買収も切り売りもしない
    • [138]西岡喬社長が掲げた「製造業の原点回帰」
  • 会社年鑑
    • [123]2000年3月期 連結当期純損益は1,370億円の赤字
    • [127]2000年3月期 連結売上高2兆8,750億円
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「危険水域は脱したがつかめぬ“復活”への展望 短期集中連載三菱グループ 最終回 三菱重工業」
    • [124]1996年度の1,100億円超の黒字から3年での暗転
    • [125]赤字計上は1964年の三社合併以来
    • [126]単独受注 3兆600億円→1兆9,200億円へ4割減
    • [128]設備投資停滞・電力自由化による国内需要低迷と、輸出比率の10ポイント以上の上昇
    • [129]海外市場の価格急落と仕様条件の厳格化
    • [130]技術力・コスト競争力の過信による量的拡大が不採算工事と手直し工事を招く
    • [131]中東プラント入札で敗れた専業メーカー役員の証言
    • [132]1999年度 受注工事損失920億円(対象10件・契約金額3,300億円)
    • [133]1999年11月 経営再建計画「2000事計」の策定
    • [134]2004年3月期目標 単独受注2兆6,000億円・売上2兆5,000億円・経常利益1,300億円、人員5,000人減で3万5,000人
    • [135]成長5分野(ガスタービン・航空宇宙・新交通システム・環境・分散型電源)と27項目の重点開発テーマ
    • [136]再建計画に整理・縮小事業や構造改革事業の項目がない
    • [137]紺道樹義常務社長室長の方針「弱い事業は強くする」、事業の買収も切り売りもしない
    • [138]西岡喬社長が掲げた「製造業の原点回帰」

日立との火力発電合弁の設立と、その解消

2011年の夏、三菱重工業と日立製作所が社会インフラ全般にまたがる経営統合の協議[139]に入ったと報じられた。この構想は規模の差などを理由に三菱重工業が公式に否定し、破談[140]している。全社統合の枠組みが崩れたのち、対象を火力に絞る形で交渉が組み直された[141]。2012年11月29日、両社は火力発電システム分野の事業統合で基本合意[142]した。開発・製造・販売・エンジニアリングの各機能を新設の合弁へ移し、出資比率は三菱重工業が65%、日立が35%[143]と定められた。

  • 週刊東洋経済 2011年8月13日号「経営統合か、破談か 日立と三菱重工の決断」
    • [139]2011年夏 三菱重工業と日立製作所の全社的な経営統合協議の報道
    • [140]規模差などを理由とする三菱重工業の否定と破談
  • 三菱重工業 ニュースリリース 2012年11月29日「三菱重工と日立製作所が火力発電システム分野での事業統合に基本合意」
    • [141]全社統合の破談後、火力に絞った交渉の組み直し
    • [142]2012年11月29日 火力発電システム分野の事業統合で基本合意
    • [143]出資比率は三菱重工業65%・日立35%、開発/製造/販売/エンジニアリング機能を新設合弁へ移管

合弁は2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズとして営業を始めた[144]。国内9社・海外49社の計58社[145]からなる企業群が発足している。東日本大震災後の国内電力会社の財務悪化と競争入札の広がりで国内の火力市場が縮むなか、新興国の需要拡大を取りに行く判断[146]であった。2015年3月期の連結売上構成をみると、エネルギー・環境が41%の1兆5,890億円[147]を占めて最大であった。機械・設備システムが34%の1兆3,250億円、交通・輸送が13%の5,271億円、防衛・宇宙は12%の4,824億円[148]であった。

  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [144]2014年2月1日 三菱日立パワーシステムズが営業開始
  • 三菱重工業 ニュースリリース 2014年1月28日「三菱日立パワーシステムズのグループ会社について」
    • [145]国内9社・海外49社の計58社からなるグループの発足
  • 週刊東洋経済 2014年1月18日号「日立製作所 火力分離で事業急縮小 問われる祖業の成長戦略」
    • [146]震災後の国内火力市場縮小と新興国需要の拡大
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2015年3月期・連結セグメント情報)
    • [147]2015年3月期 エネルギー・環境41%=1兆5,890億円で最大
    • [148]2015年3月期 機械・設備システム34%=1兆3,250億円、交通・輸送13%=5,271億円、防衛・宇宙12%=4,824億円

合弁には日立が南アフリカで受注した石炭火力ボイラーの巨額損失[149]が持ち込まれ、その負担をめぐって親会社2社が対立した。三菱重工業は日立へ約7,743億円の支払いを求め、日本商事仲裁協会に仲裁を申し立てて[150]いる。2019年12月18日に和解が成立し、日立は保有する35%の株式すべてを三菱重工業へ譲渡[151]したうえで2,000億円の和解金などを負担した。日立は連結で3,780億円の費用を計上[152]し、火力発電機器事業から事実上退いている。合弁は2020年9月1日に解消され、会社は三菱重工業の完全子会社[153]となった。社名は同年4月に三菱パワーへ[154]改めている。

  • 東洋経済オンライン 2017年8月1日 山田雄大「好調日立を悩ます『南ア火力発電事業』の行方 三菱重工の請求額は7743億円、争いは仲裁へ」
    • [149]日立が南アフリカで受注した石炭火力ボイラーの巨額損失と親会社2社の対立
    • [150]三菱重工業が日立へ約7,743億円の支払いを求め日本商事仲裁協会へ仲裁申立
  • 株式会社日立製作所 2019年12月18日「MHPSの南アフリカプロジェクトに係る和解ならびに個別決算における特別損失および連結決算におけるその他の費用の計上に関するお知らせ」
    • [151]2019年12月18日 和解成立、日立が35%株式全部を譲渡し2,000億円の和解金を負担
    • [152]日立が連結で3,780億円の費用を計上し火力発電機器事業から実質撤退
  • 日本経済新聞 2020年7月31日「三菱重工、日立と共同出資の火力発電を9月完全子会社化」
    • [153]2020年9月1日 合弁解消により三菱重工業の完全子会社化
  • 三菱重工業 2020年4月24日「三菱日立パワーシステムズ(MHPS)が『三菱パワー』へ社名を変更」
    • [154]2020年4月 三菱パワーへの社名変更
  • 週刊東洋経済 2011年8月13日号「経営統合か、破談か 日立と三菱重工の決断」
    • [139]2011年夏 三菱重工業と日立製作所の全社的な経営統合協議の報道
    • [140]規模差などを理由とする三菱重工業の否定と破談
  • 三菱重工業 ニュースリリース 2012年11月29日「三菱重工と日立製作所が火力発電システム分野での事業統合に基本合意」
    • [141]全社統合の破談後、火力に絞った交渉の組み直し
    • [142]2012年11月29日 火力発電システム分野の事業統合で基本合意
    • [143]出資比率は三菱重工業65%・日立35%、開発/製造/販売/エンジニアリング機能を新設合弁へ移管
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [144]2014年2月1日 三菱日立パワーシステムズが営業開始
  • 三菱重工業 ニュースリリース 2014年1月28日「三菱日立パワーシステムズのグループ会社について」
    • [145]国内9社・海外49社の計58社からなるグループの発足
  • 週刊東洋経済 2014年1月18日号「日立製作所 火力分離で事業急縮小 問われる祖業の成長戦略」
    • [146]震災後の国内火力市場縮小と新興国需要の拡大
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2015年3月期・連結セグメント情報)
    • [147]2015年3月期 エネルギー・環境41%=1兆5,890億円で最大
    • [148]2015年3月期 機械・設備システム34%=1兆3,250億円、交通・輸送13%=5,271億円、防衛・宇宙12%=4,824億円
  • 東洋経済オンライン 2017年8月1日 山田雄大「好調日立を悩ます『南ア火力発電事業』の行方 三菱重工の請求額は7743億円、争いは仲裁へ」
    • [149]日立が南アフリカで受注した石炭火力ボイラーの巨額損失と親会社2社の対立
    • [150]三菱重工業が日立へ約7,743億円の支払いを求め日本商事仲裁協会へ仲裁申立
  • 株式会社日立製作所 2019年12月18日「MHPSの南アフリカプロジェクトに係る和解ならびに個別決算における特別損失および連結決算におけるその他の費用の計上に関するお知らせ」
    • [151]2019年12月18日 和解成立、日立が35%株式全部を譲渡し2,000億円の和解金を負担
    • [152]日立が連結で3,780億円の費用を計上し火力発電機器事業から実質撤退
  • 日本経済新聞 2020年7月31日「三菱重工、日立と共同出資の火力発電を9月完全子会社化」
    • [153]2020年9月1日 合弁解消により三菱重工業の完全子会社化
  • 三菱重工業 2020年4月24日「三菱日立パワーシステムズ(MHPS)が『三菱パワー』へ社名を変更」
    • [154]2020年4月 三菱パワーへの社名変更

客船とスペースジェットからの撤退、防衛の急拡大

2011年に欧州のアイーダ・クルーズから受注した大型客船2隻[155]が、造船事業の転機となった。リーマン・ショック後の発注減と韓国・中国勢の攻勢のなかで、三菱重工業は2012年に汎用商船から退き、技術の難度が高く競合の少ない船種へ集中[156]する方針を掲げていた。ところが1番船は基本設計だけで3年以上を要し、引き渡しは当初より1年遅れて2016年3月[157]となった。関連損失は受注額約1,000億円に対して1,872億円へ膨らみ、同年10月には累計2,408億円[158]まで拡大した。2016年10月18日、大型客船事業からの事実上の撤退[159]が表明されている。

  • 週刊東洋経済 2016年10月29日号「三菱重工が造船を縮小 期待の大型客船で頓挫」
    • [155]2011年 アイーダ・クルーズから大型客船2隻を受注
    • [157]1番船は基本設計に3年以上、引き渡しは1年遅れの2016年3月
    • [158]関連損失は受注額約1,000億円に対し1,872億円、2016年10月に累計2,408億円
    • [159]2016年10月18日 大型客船事業からの事実上の撤退を表明
  • 週刊東洋経済 2016年4月8日号「三菱重工が客船で大損 欧米の過剰注文で座礁」
    • [156]2012年の汎用商船撤退と、高難度・低競合船種への集中方針

2008年、三菱重工業は小型ジェット旅客機の事業化を決め[160]、開発子会社の三菱航空機を設けた。ボーイング787の主翼を供給するなど有力な部品供給者ではあったが、機体全体を設計して量産する経験は乏しい[161]。米国での型式証明の取得に手間取って納入は6度延期され、開発費は当初の1,500億円規模から1兆円超[162]へ膨らんだ。2020年10月に開発を事実上凍結[163]して事業性を検討したものの、再開しても販売開始まで毎年1,000億円規模の開発費が数年かかる見通し[164]であった。2023年2月7日、スペースジェット(SpaceJet)の開発中止[165]が発表され、三菱航空機は清算の方針が示されている。

  • 週刊東洋経済 2023年3月4日号「国産ジェットの開発失敗 三菱重工を襲う本当の危機」
    • [160]2008年 小型ジェット旅客機の事業化決定と三菱航空機の設立
    • [161]ボーイング787主翼の供給実績と、機体全体の設計・量産経験の不足
    • [162]型式証明取得の難航により納入6度延期、開発費は1,500億円規模から1兆円超へ
    • [164]再開しても販売開始まで毎年1,000億円規模の開発費が数年必要
  • 三菱重工業「当社SpaceJet開発活動の中止に関するお知らせ」(2023年2月7日)
    • [163]2020年10月 開発の事実上の凍結と、再開時に毎年1,000億円規模の開発費が数年必要との見通し
    • [165]2023年2月7日 スペースジェット開発中止の発表と三菱航空機の清算方針

2022年12月、政府は防衛3文書を改定し、2023年度から5年間の防衛費を43兆円[166]へ増やして反撃能力の保有を決めた。長く低採算で縮小が続いた防衛装備品の製造[167]が、国策の成長分野へ変わる。三菱重工業の防衛・宇宙事業は2015年3月期に4,824億円で全体の12%だったが、2025年3月期の航空・防衛・宇宙は1兆293億円と21%[168]を占めるまでになった。2025年3月期の売上収益は5兆271億円[169]で初めて5兆円を超えている。2026年3月期の親会社株主に帰属する当期純利益は3,321億円[170]で、過去最高を更新した。造船と民間航空機で繰り返した大型案件の失敗を、政策に支えられた事業の伸びが埋める[171]形である。

  • 日本経済新聞(2022年12月16日)「反撃能力保有を閣議決定 防衛3文書、戦後安保を転換」
    • [166]2022年12月 防衛3文書改定、5年間の防衛費43兆円と反撃能力保有の決定
  • 日本経済新聞(2023年11月22日)「三菱重工、防衛宇宙事業1兆円に倍増 予算増額が追い風」
    • [167]低採算で縮小が続いた防衛装備品製造の成長分野への転換
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2025年3月期・連結セグメント情報)
    • [168]防衛・宇宙 2015年3月期4,824億円(12%)→2025年3月期 航空・防衛・宇宙1兆293億円(21%)
    • [171]大型案件の失敗を政策連動事業の伸びが埋める収益構造
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2025年3月期・連結)
    • [169]2025年3月期 売上収益5兆271億円で初の5兆円超
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2026年3月期・連結)
    • [170]2026年3月期 親会社株主に帰属する当期純利益3,321億円で過去最高
  • 週刊東洋経済 2016年10月29日号「三菱重工が造船を縮小 期待の大型客船で頓挫」
    • [155]2011年 アイーダ・クルーズから大型客船2隻を受注
    • [157]1番船は基本設計に3年以上、引き渡しは1年遅れの2016年3月
    • [158]関連損失は受注額約1,000億円に対し1,872億円、2016年10月に累計2,408億円
    • [159]2016年10月18日 大型客船事業からの事実上の撤退を表明
  • 週刊東洋経済 2016年4月8日号「三菱重工が客船で大損 欧米の過剰注文で座礁」
    • [156]2012年の汎用商船撤退と、高難度・低競合船種への集中方針
  • 週刊東洋経済 2023年3月4日号「国産ジェットの開発失敗 三菱重工を襲う本当の危機」
    • [160]2008年 小型ジェット旅客機の事業化決定と三菱航空機の設立
    • [161]ボーイング787主翼の供給実績と、機体全体の設計・量産経験の不足
    • [162]型式証明取得の難航により納入6度延期、開発費は1,500億円規模から1兆円超へ
    • [164]再開しても販売開始まで毎年1,000億円規模の開発費が数年必要
  • 三菱重工業「当社SpaceJet開発活動の中止に関するお知らせ」(2023年2月7日)
    • [163]2020年10月 開発の事実上の凍結と、再開時に毎年1,000億円規模の開発費が数年必要との見通し
    • [165]2023年2月7日 スペースジェット開発中止の発表と三菱航空機の清算方針
  • 日本経済新聞(2022年12月16日)「反撃能力保有を閣議決定 防衛3文書、戦後安保を転換」
    • [166]2022年12月 防衛3文書改定、5年間の防衛費43兆円と反撃能力保有の決定
  • 日本経済新聞(2023年11月22日)「三菱重工、防衛宇宙事業1兆円に倍増 予算増額が追い風」
    • [167]低採算で縮小が続いた防衛装備品製造の成長分野への転換
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2025年3月期・連結セグメント情報)
    • [168]防衛・宇宙 2015年3月期4,824億円(12%)→2025年3月期 航空・防衛・宇宙1兆293億円(21%)
    • [171]大型案件の失敗を政策連動事業の伸びが埋める収益構造
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2025年3月期・連結)
    • [169]2025年3月期 売上収益5兆271億円で初の5兆円超
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2026年3月期・連結)
    • [170]2026年3月期 親会社株主に帰属する当期純利益3,321億円で過去最高

三菱重工業の沿革1884〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三菱重工業創業——岩崎弥太郎氏の長崎造船所借受に始まる重工業の系譜海運と造船の垂直統合に始まり、戦時の一貫量産・戦後の強制分割・1964年の再合併をどう越えたか 詳細を読む★★★
三菱を設立し造船事業を承継★★
三菱造船を設立
神戸造船所旧電気部を三菱電機として分離★★
商号を三菱重工に変更
財閥解体により3社に会社分割★★
戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産)★★
マンモスタンカー建造への着手と、超大型船に向けた設備の拡充計画造船の枠内で横並びに戻るか、まだ来ていない船型に設備を先に合わせるか——スエズ後の油送船大型化にどう構えたか 詳細を読む★★★
YS-11の共同開発を開始
藤井深造新三菱重工業:キャタピラーと合弁・建設機械に参入
河野文彦財閥解体で分割された三社の再合併と三菱重工業の発足財閥解体で三つに分けられた重工業を、国際競争の時代にどう一つへ束ね直したか 詳細を読む★★★
河野文彦長崎造船所で30万tドッグを新設
牧田與一郎関西電力美浜1号にPWRを導入
牧田與一郎戦闘機F-4EJを受注
牧田與一郎自動車部門の分離独立と三菱自動車工業の設立売上の3割を占める最大部門を抱え続けるか、専業会社として外へ出すか——クライスラーとの合弁を前提にした切り出し 詳細を読む★★★
守屋学治MU-300ビジネスジェットの開発開始
金森政雄ボーイング社とB767/777の事業契約を締結
飯田庸太郎大幸工場を閉鎖(名古屋市大曽根)
相川賢太郎広島海洋機器工場を閉鎖
増田信行三菱原子力工業を合併★★
西岡喬最終赤字に転落★★
西岡喬Mitsubishi Power Systems, Inc.を設立
佃和夫長崎造船所でダイヤモンドプリンセスが火災
佃和夫PBR1倍割れを問題視
佃和夫ウェスチングハウス買収入札での敗退と、仏アレバとの中型炉共同開発合弁の設立師匠筋を買うか、兄弟会社と組むか——縮む国内市場を前にした加圧水型の出口探し 詳細を読む★★★
大宮英明ボーイングB787向けに主翼出荷を開始
宮永俊一キャタピラーとの合弁契約を解消
宮永俊一ニチユ三菱フォークリフトとして営業開始
宮永俊一日立との火力発電システム事業の統合と三菱日立パワーシステムズの設立全社経営統合が破談した翌年、なぜ長年のライバルと基幹事業の火力だけを一体化する道を選んだのか 詳細を読む
宮永俊一Primetals Technologies, Limitedが営業開始★★
宮永俊一大型客船事業からの撤退——アイーダ社2隻で2408億円の損失造船不況の起死回生を狙った高付加価値船戦略は、なぜ祖業の縮小を招いたか 詳細を読む★★★
泉澤清次三菱航空機が債務超過状態
泉澤清次三菱重工と日立の火力発電合弁「三菱日立パワーシステムズ」の解消(2020年)なぜ世界3強をめざした火力発電合弁は、海外プロジェクトの損失負担をめぐる係争の末に解消されたのか? 詳細を読む★★★
泉澤清次国産ジェット旅客機スペースジェット(MSJ/旧MRJ)の開発中止1兆円を投じ半世紀ぶりの悲願をどこで断つか——型式証明の直前で撤退を選んだ判断 詳細を読む★★★
泉澤清次Concentric, LLCを子会社化
泉澤清次防衛事業の急拡大——縮小産業を国策の成長事業へ5年で43兆円という防衛費増額を、三菱重工はどう成長機会へ変えたのか 詳細を読む★★★
伊藤栄作過去最高益を達成
出典・参考
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「航空機」概説
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「大企業の分割相つぐ」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)「すんなり決まった三重工合併」渡辺聖二談
  • 日本経済新聞(1962年9月19日)「三菱・三重工合併本決まり」
  • 利潤への挑戦 : 代表50社にみる経営革新(中公新書)
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「三菱重工業の現状と将来」牧田與一郎
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 会社年鑑(1986年版)セグメント別売上高
  • 日本産業史 4(高村寿一・小山博之 編、日経文庫、1994年)年表
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱重工業/“家長”企業の異変 アジア経済混乱で崩壊した高収益構造」
  • 会社年鑑
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「危険水域は脱したがつかめぬ“復活”への展望 短期集中連載三菱グループ 最終回 三菱重工業」
  • 週刊東洋経済 2011年8月13日号「経営統合か、破談か 日立と三菱重工の決断」
  • 三菱重工業 ニュースリリース 2012年11月29日「三菱重工と日立製作所が火力発電システム分野での事業統合に基本合意」
  • 三菱重工業 ニュースリリース 2014年1月28日「三菱日立パワーシステムズのグループ会社について」
  • 週刊東洋経済 2014年1月18日号「日立製作所 火力分離で事業急縮小 問われる祖業の成長戦略」
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2015年3月期・連結セグメント情報)
  • 東洋経済オンライン 2017年8月1日 山田雄大「好調日立を悩ます『南ア火力発電事業』の行方 三菱重工の請求額は7743億円、争いは仲裁へ」
  • 株式会社日立製作所 2019年12月18日「MHPSの南アフリカプロジェクトに係る和解ならびに個別決算における特別損失および連結決算におけるその他の費用の計上に関するお知らせ」
  • 日本経済新聞 2020年7月31日「三菱重工、日立と共同出資の火力発電を9月完全子会社化」
  • 三菱重工業 2020年4月24日「三菱日立パワーシステムズ(MHPS)が『三菱パワー』へ社名を変更」
  • 週刊東洋経済 2016年10月29日号「三菱重工が造船を縮小 期待の大型客船で頓挫」
  • 週刊東洋経済 2016年4月8日号「三菱重工が客船で大損 欧米の過剰注文で座礁」
  • 週刊東洋経済 2023年3月4日号「国産ジェットの開発失敗 三菱重工を襲う本当の危機」
  • 三菱重工業「当社SpaceJet開発活動の中止に関するお知らせ」(2023年2月7日)
  • 日本経済新聞(2022年12月16日)「反撃能力保有を閣議決定 防衛3文書、戦後安保を転換」
  • 日本経済新聞(2023年11月22日)「三菱重工、防衛宇宙事業1兆円に倍増 予算増額が追い風」
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2025年3月期・連結セグメント情報)
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2025年3月期・連結)
  • 三菱重工業 有価証券報告書(2026年3月期・連結)

免責事項およびポリシー