1944年〜 碍子屋から電子部品の町工場へ産業を開拓
- 1944年 村田昭が京都市で村田製作所を創業
- 1950年 原料と生産設備の内製化による垂直統合の構築と、完成品分野への不参入 材料を外から買うか、自ら焼くか——不良品の続出が決めた部品専業の型
- 1961年 本社を移転
- 1962年 福井村田製作所に資本参加
- 1963年 大阪証券取引所市場第二部に上場
清水焼から碍子、そしてチタコンへ
村田昭氏は京都市東山区の碍子屋に生まれ、旧制商業学校を結核で中退した。父親は堅実な職人気質で同業の下請けも厭わない人物であったが、昭氏は碍子ではなく特殊磁器の世界に可能性を見ていた。電気の知識は持たなかったが、焼き物の電子部品化に事業機会を見出し、1944年10月、京都市中京区四条大宮北の染物工場のあとを借りて150平方メートルの工場とし、村田製作所を個人創業した。男性職人1名と女性約10名の町工場で、設備は手作りのガス炉と仕上げ用の裁縫机が並ぶだけの零細な出発であった。当時の京都には清水焼の職人基盤があり、焼き物の工程知識を電子部品へ転用する下地は揃っていた。 [1][2][3]
- 村田製作所 有価証券報告書 第86期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1944年10月 村田昭が京都市で村田製作所を個人創業(セラミックコンデンサ製造開始)
- [2]創業者の氏名は村田昭
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [3]創業時の工場は京都市内の染物工場のあとを借りたもの(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
当初はステアタイトと呼ばれる高周波絶縁体に着目していたが、三菱電機伊丹製作所の協力工場として求められたのは、通信機向けのチタン酸化物セラミックコンデンサ(チタコン)であった。電気の知識がないまま試行錯誤を繰り返し、3カ月後にサンプルを完成させた。学歴を理由に一度は断られた大企業との取引を、品質で開いた経緯である。「生まれつき、人と競争するのがいやだったから、一歩、人の先を行くようになった」(日経ビジネス 1980/3/10)という昭氏の姿勢が、人のやらない領域を選ぶという独自技術路線の原点になった。後年も「当社は安値商売はしない」(不思議な石ころ 1994)と昭氏は語り、価格競争ではなく品質と技術で顧客を掴む方針を創業期から一貫して掲げた。 [4]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [4]三菱電機伊丹製作所の協力工場として通信機用セラミックコンデンサ(チタコン)の製造に着手(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
- 村田製作所 有価証券報告書 第86期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1944年10月 村田昭が京都市で村田製作所を個人創業(セラミックコンデンサ製造開始)
- [2]創業者の氏名は村田昭
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [3]創業時の工場は京都市内の染物工場のあとを借りたもの(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
- [4]三菱電機伊丹製作所の協力工場として通信機用セラミックコンデンサ(チタコン)の製造に着手(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
終戦による民需転換と垂直統合の始まり
1945年の終戦で軍需は消滅し、昭氏は従業員の大半を解雇して電熱器販売で糊口をしのいだ。1946年頃、占領軍命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に切り替えられると、中間周波数の帯域制御に用いるチタコンの民需が立ち上がった。復員ブームでラジオが飛ぶように売れ、村田製作所は軍需から民需へ事業基盤を移した。1950年12月には資本金100万円で株式会社化し、家業から会社組織への足場を固めた段階に入る。終戦直後の混乱期に民需向け部品のラインを持てたことが、ラジオ需要拡大の追い風を取り込む条件となった。軍需依存のまま戦後を迎えた同業が次々と姿を消すなか、村田製作所は早い段階で顧客の軸足を民生機器側に移し替えたことで、事業継続の道を残した形である。 [5][6]
- 村田製作所 有価証券報告書 第86期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1950年12月 資本金1百万円の株式会社に改組し商号を株式会社村田製作所に変更
- [6]1950年12月の株式会社化時の資本金100万円(1百万円)
京都大学工学部の田中哲郎教授との産学連携でチタン酸バリウム(チタバリ)の実用化に成功し、誘電率のとくに高いコンデンサを開発した。1951年6月に福井工場、1952年2月に京都工場を相次いで設けて量産の足場を固め、防衛庁の磁器絶縁物認定許可工場、磁器蓄電器のJIS表示認可工場としても認められた。米国から輸入した調合済み原料では品質のばらつきが出るという経験から、原料の調合から成形・焼成・加工までを自社で一貫する垂直統合モデルが、芽生えた。「ラジオ用コンデンサーが1個5円ほどのところ、テレビ用コンデンサーは30円、50円と高く売れた」(不思議な石ころ 1994)と昭氏は回想しており、テレビ向けチタコンへの事業集中が初期の高収益を生んだ。1955年4月には研究部門を株式会社大宮技研として分離し、のちに正特性サーミスタ「ポジスタ」の世界初商品化とセラミックフィルターの開発につなげた。 [7]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]1951年6月 福井工場を設置・1952年2月 京都工場を設置(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
- 村田製作所 有価証券報告書 第86期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1950年12月 資本金1百万円の株式会社に改組し商号を株式会社村田製作所に変更
- [6]1950年12月の株式会社化時の資本金100万円(1百万円)
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]1951年6月 福井工場を設置・1952年2月 京都工場を設置(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
セラミックフィルター世界シェア80%と東証上場への足掛かり
1963年にセラミックフィルターが完成し、のちに世界シェア80%を押さえる製品に育った。同年3月に大阪証券取引所市場第二部に上場し、1969年12月に東京証券取引所市場第二部にも上場、1970年2月に両取引所で市場第一部へ指定替えとなった。創業から約20年で村田製作所は年率20%の成長を維持し、上場時の資本金は3億9,000万円、セラミックコンデンサの市場占有率はテレビ用で50%、通信機用で95%に達した。1962年9月に本社を現在の京都府長岡京市に移し、同月に福井村田製作所に資本参加して地域分業型の生産体制の足がかりをつくった。独立採算の関係会社群を核とする分社経営の原型が、ここから組み上がった。 [8][9][10][11]
- 村田製作所 有価証券報告書 第86期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1963年3月 大阪証券取引所市場第二部に上場(1970年2月 第一部指定)
- [9]1969年12月 東京証券取引所市場第二部に上場(1970年2月 第一部指定)
- [10]1963年3月上場時の資本金3億9,000万円
- [11]1962年9月 ㈱福井村田製作所に資本参加(地域分業型生産体制の端緒)
昭氏はセラミックスを「セラミックは不思議な石ころ。今後、無限とも言える可能性を持つ商品」(日経ビジネス 1980/3/10)と呼び、その可能性に賭け続けた。部品専業を貫き、完成品メーカーと競合しないことで長期取引を築く方針が、固まった。1950〜60年代に入社した岡崎清氏、佐々利治氏、脇野喜久男氏ら技術者陣が、その後の製品多様化を支える布陣となった。碍子屋の息子が電気の知識なしに始めた町工場は、創業から20年足らずで日本のセラミックス電子部品産業の中核企業へ転換した。1968年の概略書も、材料からの一貫生産体制をもつ独自メーカーと記し、セラミックコンデンサで世界第一位、生産は月産1億個に近づいたと伝えている。京都を地盤に材料研究と量産を備えた体制が、次の海外展開期を支える土台となった。チタコンから始まった事業領域は、コンデンサ・フィルタ・サーミスタへ広がり、電子部品のラインナップを積み上げた。 [12]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]1968年時点で材料からの一貫生産体制をもつ独自メーカーとされ、セラミックコンデンサで世界第一位・生産は月産1億個に近づいた(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)
- 村田製作所 有価証券報告書 第86期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1963年3月 大阪証券取引所市場第二部に上場(1970年2月 第一部指定)
- [9]1969年12月 東京証券取引所市場第二部に上場(1970年2月 第一部指定)
- [10]1963年3月上場時の資本金3億9,000万円
- [11]1962年9月 ㈱福井村田製作所に資本参加(地域分業型生産体制の端緒)
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]1968年時点で材料からの一貫生産体制をもつ独自メーカーとされ、セラミックコンデンサで世界第一位・生産は月産1億個に近づいた(概略書『企業の歴史:明治百年』1968)