歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1944年、京都の碍子屋に生まれた村田昭が、家業の碍子ではなく特殊磁器に可能性を見て、電気の知識を持たないまま京都市中京区に村田製作所を個人創業した。唯一の取引先だった三菱電機伊丹製作所から求められた軍用通信機向けのチタン酸化物セラミックコンデンサを、3カ月の試行錯誤で完成させて取引を開いた。「人と競争するのがいやだったから、一歩、人の先を行く」(日経ビジネス1980/3/10)と昭は語り、価格競争を避けて品質と技術で顧客を掴む方針を、創業期から掲げた。
決断1963年に完成したセラミックフィルターは世界シェア80%まで育ち、圧電体セラミックやマイクロ波フィルターでも50〜85%を握った。村田はこの高シェアを価格交渉力に変え、1979年に輸出取引の96%を円建てに統一する逆張りに踏み切った。海外生産を増やして為替リスクを薄める同業とは逆に、通貨の主導権を売り手側へ引き寄せた。顧客が他社に切り替える代替手段を持たない以上、円建ても通り、1994年には山一証券が「1ドル40円でも増益」と試算する為替耐性を備えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1944年〜1963年 碍子屋から電子部品の町工場へ産業を開拓
清水焼から碍子、そしてチタコンへ
村田昭氏は京都市東山区の碍子屋に生まれ、旧制商業学校を結核で中退した[2]。父親は堅実な職人気質で同業の下請けも厭わない人物であったが、昭氏は碍子ではなく特殊磁器の世界に可能性を見ていた。電気の知識は持たなかったが、焼き物の電子部品化に事業機会を見出し、1944年10月、京都市中京区四条大宮北に150平方メートルの工場を構えて村田製作所を個人創業した[1]。男性職人1名と女性約10名の町工場で、設備は手作りのガス炉と仕上げ用の裁縫机が並ぶだけの零細な出発であった。当時の京都には清水焼の職人基盤があり、焼き物の工程知識を電子部品へ転用する下地は揃っていた。
当初はステアタイトと呼ばれる高周波絶縁体に着目していたが、唯一の依頼先である三菱電機伊丹製作所から求められたのは、軍用通信機向けのチタン酸化物セラミックコンデンサ(チタコン)であった。電気の知識がないまま試行錯誤を繰り返し、3カ月後にサンプルを完成させた。学歴を理由に一度は断られた大企業との取引を、品質で開いた経緯である。「生まれつき、人と競争するのがいやだったから、一歩、人の先を行くようになった」(日経ビジネス 1980/3/10)という昭氏の姿勢が、人のやらない領域を選ぶという独自技術路線の原点になった。後年も「当社は安値商売はしない」(不思議な石ころ 1994)と昭氏は語り、価格競争ではなく品質と技術で顧客を掴む方針を創業期から一貫して掲げた。
終戦による民需転換と垂直統合の始まり
1945年の終戦で軍需は消滅し、昭氏は従業員の大半を解雇して電熱器販売で糊口をしのいだ。1946年頃、占領軍命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に切り替えられると、中間周波数の帯域制御に用いるチタコンの民需が立ち上がった。復員ブームでラジオが飛ぶように売れ、村田製作所は軍需から民需へ事業基盤を移した。1950年12月には資本金100万円で株式会社化し、家業から会社組織への足場を固めた段階に入る[3][4]。終戦直後の混乱期に民需向け部品のラインを持てたことが、ラジオ需要拡大の追い風を取り込む条件となった。軍需依存のまま戦後を迎えた同業が次々と姿を消すなか、村田製作所は早い段階で顧客の軸足を民生機器側に移し替えたことで、事業継続の道を残した形である。
京都大学工学部の田中哲郎教授との産学連携でチタン酸バリウム(チタバリ)の実用化に成功し、誘電率のとくに高いコンデンサを開発した。1952年に防衛庁の唯一の認定メーカーとなった。米国から輸入した調合済み原料では品質のばらつきが出るという経験から、原料の調合から成形・焼成・加工までを自社で一貫する垂直統合モデルが、芽生えた。「ラジオ用コンデンサーが1個5円ほどのところ、テレビ用コンデンサーは30円、50円と高く売れた」(不思議な石ころ 1994)と昭氏は回想しており、テレビ向けチタコンへの事業集中が初期の高収益を生んだ。1959年に大宮技術研究所を設立し、電子顕微鏡やX線解析装置を導入、正特性サーミスタ「ポジスタ」の世界初商品化とセラミックフィルターの開発につなげた。
セラミックフィルター世界シェア80%と東証上場への足掛かり
1963年にセラミックフィルターが完成し、のちに世界シェア80%を押さえる製品に育った。同年3月に大阪証券取引所市場第二部に上場し、1969年12月に東京証券取引所市場第二部にも上場、1970年2月に両取引所で市場第一部へ指定替えとなった[5][6]。創業から約20年で村田製作所は年率20%の成長を維持し、上場時の資本金は3億9,000万円、セラミックコンデンサの市場占有率はテレビ用で50%、通信機用で95%に達した[7]。1962年9月に本社を現在の京都府長岡京市に移し、同月に福井村田製作所に資本参加して地域分業型の生産体制の足がかりをつくった[8]。独立採算の関係会社群を核とする分社経営の原型が、ここから組み上がった。
昭氏はセラミックスを「セラミックは不思議な石ころ。今後、無限とも言える可能性を持つ商品」(日経ビジネス 1980/3/10)と呼び、その可能性に賭け続けた。部品専業を貫き、完成品メーカーと競合しないことで長期取引を築く方針が、固まった。1950〜60年代に入社した岡崎清氏、佐々利治氏、脇野喜久男氏ら技術者陣が、その後の製品多様化を支える布陣となった。碍子屋の息子が電気の知識なしに始めた町工場は、創業から20年足らずで日本のセラミックス電子部品産業の中核企業へ転換した。京都を地盤に材料研究と量産の両輪を備えた体制が、次の海外展開期を支える土台となった。チタコンから始まった事業領域は、コンデンサ・フィルタ・サーミスタへ横に広がり、電子部品のラインナップを積み上げた。
1964年〜2006年 世界シェアを武器にした円建て戦略の時代
米欧への拠点拡張とエリー社買収による北米・欧州の顧客基盤獲得
1965年に米Murata Electronics North Americaを設立し、戦後初の海外拠点を築いた[9]。1972年にシンガポール、1978年に欧州初の販売会社をドイツに置き、同年11月に台湾生産・販売会社を買収した[10][11][12]。1980年3月にカナダ拠点の多国籍企業Erie Technological Products(ETP)の株式3分の2を取得し、5年以内の完全子会社化を契約した。ETPは米国・カナダ・西独・メキシコに工場を持ち、フランス・イタリアに販売会社を擁しており、村田製作所は一挙に北米・欧州の拠点と顧客基盤を獲得した。米国進出の動機について昭氏は「これからは世界を相手にしなければダメだと決意」(不思議な石ころ 1994)と振り返り、創業期から国内2営業所に並ぶ第3の柱として外国係を育てる構想を持っていた。対米輸出だけに頼らない多極的な販売網が、後続の円建て戦略を支える基盤になった。
買収のきっかけは昭氏自身が語っている。「エリーが売りに出ているといううわさを聞き、翌年の夏、ブラッと行って一つぐらい工場を売ってくれと頼んだのがきっかけだが、その時は他に話があるというのでダメになった。その後、エリーは社長とマネジャーがオーナーから会社を買い取ったので、去年の5月に再度交渉しようと思ったら、それならいっそ全部買ってくれ、ということで話がスンナリまとまった」(日経ビジネス 1980/3/10)。1975〜76年のCBブーム期に高株価を利用して海外市場から調達した資金が、この買収原資となった。ETP買収の効果は売上規模に表れ、連結売上高は1984年度に2,100億円に達した[13]。昭氏は「他社は安い賃金を求めて海外進出したところが多いが、うちはそれをやらなかった」(日経ビジネス 1998/05/11)と述べ、低コスト志向ではなく同業との信頼関係が拠点拡張の原動力だったと説明した。
1ドル40円でも増益という円建て統一の逆張り戦略
1979年に村田昭氏は輸出取引の96%を円建てに統一する決断を下した[14][15]。背景には1977年度の円高差損10億円の計上と、売上高営業利益率が1976年度下期の20.8%から1977年度下期の6.7%へ急落した経験があった。同業他社の多くが海外生産比率を引き上げて為替リスクを減らすなか、村田製作所は逆に通貨の主導権を売り手側に引き寄せた。裏付けとなったのはセラミックフィルター世界シェア85%、マイクロ波フィルターや圧電体セラミックで50〜85%という市場占有率だった[16]。参入障壁の高さが価格交渉力に直結し、顧客が他社に切り替える代替手段を持たない以上、円建て切り替えも通った。1987年10月の業界メディアには「同社はライバルメーカーが輸出減で収益悪化に苦しむ中で、海外の生産、販売体制と輸出を巧みに組み合わせ円高を吸収している」(日経ビジネス 1987/10/12)と記された。
村田泰隆社長は後年、この決断について「円建ては、今回の円高のために手を打ったのではありません。15年ほど前の石油ショックの時代に、円建て、ドル建てに分かれていた取引形態を円建てに統一しました。為替によって収益が大きく変動しないようにすると同時に、営業の第一線にまで円でのコスト意識が徹底して伝わることが狙いでした」(日経ビジネス 1995/10/2)と語っている。効果は1990年代の円高局面で鮮明となり、1994年11月に山一証券経済研究所が「1ドル40円でも増益」と試算するまでになった。1995年3月期には連結純利益が前期比54%増で過去最高を更新した[17]。為替耐性の厚みは、海外生産比率の拡張と相まって、輸出依存と円高リスクを同居させない体質の基礎となった。
単品部品からモジュール部品事業への組織改革
1990年9月、村田製作所はFD(ファンクショナル・デバイス)事業部を新設し、モジュール部品への戦略シフトに着手した。モジュール部品は複数の電子部品を複合化した高付加価値製品であり、回路設計と部品複合化の工程が加わる分、単品部品より収益性が高い領域である。FD事業部は立ち上げ時の売上規模が小さかったため、偏向ヨークなど既存の安定売上製品を抱き合わせて事業部として成立させるという組織設計を取った。単品部品の強さを維持しながら、次の成長柱を社内で育てる狙いである。この内部育成型の新規事業スタイルは、以後の「第2の柱」模索の基本型となった。
1991年6月に2代目として社長に就任した村田泰隆氏は、1993年12月1日に組織改革を実行した[18]。創業者が育てた技術本部を廃止し、長期開発を担う技術開発本部と短期の生産支援本部に分離、国内外の生産拠点を事業部直轄に変更し、新規事業開発本部を新設した。泰隆社長は「当社の強みはシーズ志向の体質の中から作られた高性能、高品質、低価格の単品部品を持っていることだ。この力を衰えさせてしまったら、そうした単品部品を複合させるモジュール部品事業の根底が崩れてしまう」(日経ビジネス 1993/12/6)と改革の意図を説明した。1993年には滋賀県野洲に55億円でガリウムひ素半導体・薄膜処理ラインを持つ工場を建設し、モジュール部品の中核デバイスを内製化した。
2007年〜2024年 スマホMLCC依存と「第2の柱」模索が並走した時代
リーマンショックと村田恒夫期のM&A連打
2006年6月に創業者の子である村田恒夫氏が3代目社長に就任した直後、2008年秋のリーマンショックで村田は直撃を受けた[19]。2009年3月期(FY08)はUSGAAPベースで営業損失▲163億円を計上し、前期に113億円の営業利益を出していたMLCC主軸の収益が、世界金融危機の需要蒸発で一度に吹き飛んだ[20]。しかし売上はスマートフォン向けMLCC需要の拡大で短期間で戻り、2015年3月期(FY14)に売上1兆435億円、営業利益2,145億円へ到達した。2011年時点では業界メディアが、サムスン電子の先端開発を村田製作所など日本の大手メーカー出身者10人以上を含む日本人技術者が下支えしていると報じ、MLCCシェアで村田に次ぐ2位に立った韓国勢の台頭も表面化した[21]。海外スマホメーカーの台頭と1台あたり搭載数の増加がMLCCの単価下落を吸収する以上の数量効果をもたらし、村田の収益を押し上げた。
2012年1月、フィンランドのVTI Technologies(現Murata Electronics Oy)を約200億円で買収し、MEMS慣性力センサ事業に参入した[22][29]。同年3月にはルネサスエレクトロニクスのパワーアンプ事業を譲り受けて高周波事業を補強し、2014年12月には米Peregrine Semiconductor(現pSemi)を買収してRF-SOI技術を取り込んだ[23][24]。2016年10月にはフランスのMurata Integrated Passive Solutionsを、2017年10月には米Murata Vios, Inc.を買収した[25][26]。2013年8月には現在の岩手村田製作所を買収し、2014年3月には現在の埼玉村田製作所を連結子会社化して国内生産網も拡張した[27][28]。MLCC以外の第2の柱を育てる試みが、スマホMLCC需要の追い風のなかで、海外技術買収と国内生産拡張の両面で連続的に打たれた時期である。材料系の内部育成に加えて、外部技術の買収を新規事業の主軸に据えた転換点でもあった。
ソニー電池事業譲受と構造改革の長期化
2017年9月、村田製作所はソニーグループのリチウムイオン二次電池事業を譲り受けた[30]。電池事業への本格参入であり、素材から加工まで一貫するセラミックス事業とは異なる事業領域への踏み出しであった。ただし収益化は長期化し、構造改革費用の計上が続く状態に入った。2016年から村田恒夫氏は代表取締役会長兼社長を務め、2019年には創業家以外から初の社長として中島規巨氏が就任した[31][32]。2020年12月にはみなとみらいイノベーションセンター(横浜市西区)を開設し、研究開発拠点を集約している[33]。事業ポートフォリオの拡張と同時に、既存事業との距離の遠さが利益回収までの時間軸に現れる局面に入った。
2015年3月期に1兆円を超えた売上は、スマートフォン用MLCCのサイクルで振れ幅が大きかった。2019年3月期は売上1兆5,750億円・営業利益2,668億円、2022年3月期は売上1兆8,125億円・営業利益4,240億円と過去最高を更新したが、2023年3月期は売上1兆6,867億円・営業利益2,978億円へ反落した。2024年3月期はIFRS初年度で売上収益1兆6,401億円、営業利益2,154億円と低水準に沈み、コンポーネント事業とデバイス・モジュール事業の跛行色が出た。2代目社長の村田泰隆氏は2003年時点で「流出した人材が中国で教えるかもしれないし、技術流出を完全に防ぐことはできない」(週刊東洋経済 2003/04/19)と中国勢の追い上げを予見しており、その懸念がMLCC市況サイクルの振れとして20年後に実体化した[34]。
MTD2024未達と「第2の柱」の失速
2024年3月期末に終了した中期経営計画MTD2024について、中島規巨社長は「経済価値目標の未達」を反省として総括した(決算説明会 FY2025)[35]。民生市場のセット台数減少が主因で、内訳を見るとMLCCを中心とするコンポーネント事業は堅調だった。高周波モジュール、表面波フィルタ、リチウムイオン二次電池といったデバイス・モジュール事業群が軒並み収益性を落としていた。AIサーバー向けMLCCと自動車ADAS向けインダクタが伸び、スマートフォン向けの第二層事業が悪化するという二極化が数字に出た。中島社長はエレキ産業に約15年周期の波が訪れるとの見立てを示し、市況サイクルのなかで次の波の到来まで持ちこたえる構えを取った[36]。
2025年3月期には、2012年買収のVTI事業であるMEMS慣性力センサ事業で設備全額の減損104億円を計上した[37]。ADAS(先進運転支援)のレベル3以降で村田製作所のセンサが評価される前提で設備投資を行ったが、レベル3の普及が想定より遅れ、回収可能額が見通せなくなったためである。同じく電池事業では通期145億円の構造改革費用を計上し、円筒乾電池ラインの既発注設備を減損した[38]。2012年以降の「第2の柱」育成投資が、スマートフォン市況の反転とADAS普及の遅延という二つの外部要因を受け、次々と減損・構造改革費用として再評価された。買収後のシナジーや普及時期の前提が複数同時に崩れたことで、育成期間と回収期間の読み直しが経営課題として前景化した。