部品が手に入らない会社は、部品を作る会社になるほかない。1942年に諏訪で時計部品の加工を始めたこの会社には、ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなく、クオーツを開発しようとした時にはC-MOSも水晶発振子もステッピングモーターもまだ世の中に存在しなかった。手に入るもので間に合わせる道を採らず、すべて自分たちで苦しんで作ると決めたところから、時計の川上へ遡る長い作業が始まる。良い時計を作るという一つの目標のために、機械と電気と化学の技術者を毎年決まった割合で採り続け、部品と材料を一つずつ自分の手に移していった。時計部品の内製化率は、やがて種類の単位でほぼ100%に達する。
川上へ遡った手は、いつか川下へ戻ってくる。ICを頼める先がどこにもなく、アメリカから届いた部品の半分が不良品だったために自分で作ると決めた半導体は、時計のミクロン加工と生産技術が似ていたおかげで、本職のメーカーより高い歩留まりに届いた。時計の針を動かすために作った極小のモータ、時間を正確に刻むために作ったC-MOSとLSI、時刻を読ませるために作った液晶。どれも時計のための部品だったが、時計の外でも売れる部品だった。1975年に非時計分野の看板としてEPSONの名を掲げたとき、この会社が売るものは既に時計だけではなくなっていた。
1942年5月、長野県諏訪に有限会社大和工業が時計部品の加工を目的として設立された。実質的な創立者の山崎久夫元代表取締役は、戦後に疎開先から諏訪へ戻った第二精工舎の技術者を説き伏せて同地にとどめた人物で、学卒者を求めて全国の大学を巡り、目当ての学生が校門の前に現れるまで待ち受けることさえあった。会社としては、1959年5月に服部時計店系列の第二精工舎諏訪工場の営業を引き継いで有限会社諏訪精工舎を名乗り、同年9月に株式会社となった。時計部品の仕上げを受け持つ信州精器株式会社は、1961年12月に子会社として設けられた。
時計に必要な部品は当時ほとんど入手できなかった。動力にぜんまいを使っていた時代は、時計向けの工作機械自体が存在しなかった。クオーツの開発に取り組んだ際も、低消費電力を特徴とするC-MOSや水晶発振子、1秒刻みで動くステッピングモーターはまだこの世に存在していなかった。入手できる部品や材料で妥協する道は採らず、苦労してでもすべてを自前で作り上げる方針を決めたことから、部品・材料の段階までさかのぼる内製化が始まった。1980年時点での時計部品の内製化率は、種類ベースでみるとほぼ100%に達していた。技術者採用の内訳はエレクトロニクスと機械にそれぞれ35%を割り当て、残る枠は物理・化学・金属系の出身者で埋めて、専門分野の偏りが出ないようにしていた。
諏訪精工舎は、部品や材料の開発がある程度育つと責任者を付けて別会社にし、本社を含むグループ8社のあいだに上下関係を置かなかった。1961年12月に設けた信州精器はその型の最初で、時計部品の仕上げ加工から出発している。子会社には製品の外部売りを奨励し、最大限、経営として独立できるようにするのが方針で、本社は全体の研究開発を総括して人の採用と資金の面倒をみる役に回った。親会社の服部時計店も、兄弟会社にあたる第二精工舎と諏訪精工舎の経営にほとんど口をはさまず、同じウオッチを作る両社のあいだに生産品目の垣根も設けなかった。水晶発振子のように、第二精工舎の栃木硬石と諏訪精工舎の松島工業が同じものを作る重なりも残った。
腕時計でない水晶時計の歴史は古く、1927年にアメリカのベル研究所で作られている。セイコーグループでも1958年には精工舎が放送局用の水晶時計を納めていたが、真空管を使ったたんす3棹分ほどの大きさだった。水晶時計を腕に着けられる大きさまで小さくすることについて、当時は学者や研究者の間でも無理だとみる声が多数だった。据え置きでも持ち運び用でも、装置としての水晶時計はすでに作れた。1964年10月の東京オリンピックで時計装置を請け負った際、水晶時計を受け持った諏訪精工舎は、乾電池で動く可搬型に仕上げている。同じ大会にはクリスタル・クロノメーターと、世界で初めての水晶式ポータブルプリンターも出品した。
諏訪精工舎が水晶腕時計で挑んだ相手は時計王国のスイスで、同社の水晶時計がスイスの時計コンクールで好成績を出し始めていたことも後押しになった。開発に全面的に乗り出したのは、オリンピックが閉幕した1965年のことである。越えるべき壁は、何としても超小型にすること、腕の上で受ける衝撃に耐え続けること、ごく小さな電池で足りるまで電力消費を抑えることの三つだった。針を電子的に動かすにはぜんまいに代えてモータが必要になるが、薄い時計に収まる極小のものには限界がある。その解決策としてモータ担当の技術者が考えたのは、部品を一つずつばらして時計内部の隙間に散らして収めるやり方で、歯車どうしの間に入り込ませる設計に着手した。
伝統や歴史の蓄積が浅かったことが、かえってクオーツのような新しい技術を社内で受け入れやすくした。1969年に世界で初めて売り出された水晶腕時計は、18金ケースの超高級品で45万円の値が付き、この「セイコークォーツ」がその後の世界の腕時計産業を大きく塗り替えていく。技術者の目標は二つに限られ、精度をさらに上げることと、大衆でも手の届く値段に収めることだった。取締役だった安川英昭は当時を「開発の方向がハッキリと定まり、しかも、開発テーマに全員が共鳴できたからこそ皆の力が結集でき、優れた技術開発に結び付いた」と振り返っている。電子ウォッチの時代にスイスとの差を決定づけたのは、分散型のステップモーターに加え、時計メーカーが自らICを作るようになったことだった。
諏訪精工舎にとって、ICづくりは技術の蓄えがほぼゼロの状態から挑むものだった。電子ウォッチの要はICだったが、機械式腕時計に電子部品は一切要らないため、社内には電子の技術者がほぼ皆無だった。消費電力の小さいC-MOSの開発を国内の大手電機メーカーに頼んで回ったものの、電子ウォッチに将来があるかどうか見通せないとして、色よい返答はもらえなかった。続いてアメリカのICメーカーに開発と生産を任せたが、1969年に届いたC-MOSのICは半数近くが不良品だった。この依頼の時点で、電子ウォッチの中核部品であるICはどうあっても社内で手がけるべきだという方針が固まっていた。
ICの技術開発で肝心なのは生産技術で、不良品をどう減らし歩留まりをどう高めるかが鍵だった。IC研究には社内から優れた技術者を選んで充てたが、ほぼ素人だったため、まず東京大学と電子技術総合研究所の指導を仰ぎ、電総研へは1年ごとに1人、合わせて3人を研修に送った。ここで生きたのが時計づくりで積み上げた精密加工の技術だった。回路の開発設計を除けば、ICの生産も時計と同じくミクロン単位の加工で、両者の生産技術は根本で似通っていた。1971年には自社製のC-MOSのICを製品に使えるところまで来ており、その歩留まりはアメリカ製を大きく上回った。1973年にはLSIを開発してデジタルウォッチに搭載し、同年11月に半導体事業へ乗り出した。
時計の外へ出る製品は、時計の部品を作るために身につけた技術から出てきた。1968年9月にミニプリンター事業を始め、1975年4月には米国に販売会社Epson Americaを設立して眼鏡レンズ事業を起こす。同年6月、非時計分野のカンパニーブランドとして「EPSON」を制定した。1976年7月には水晶デバイス事業、1978年12月にはコンピュータ用プリンター事業が続く。川上へ遡って育ったエレクトロニクス技術と機械技術がからみ合い、学際・業際の製品を生み出した形である。良い時計を作るために部品へ遡った手が、そのまま時計の外の市場を開いた。
主力を替えるのに最も良い時機は、いまの主力がまだ稼いでいるうちである。諏訪精工舎が1979年4月期に1,000億円を売り上げていた頃、デジタルウオッチの登場で時計の値段は落ち、分解掃除の要らない時計は町の時計店から収入源を奪い、明治以来の販売網を揺らしていた。時計はもう利益率の高い商品ではない。そこでグループは、時計が利益を出している間にプリンターと液晶と半導体へ人と金を寄せ、1985年に諏訪精工舎はエプソンを吸収してセイコーエプソンになる。時計が売上に占める割合は、100%から40%割れまで下がっていた。
借り物の規格で戦うかぎり、値段でも機能でも本家の一歩内側でしか動けない。1987年に日本電気のPC-9800互換機へ出たセイコーエプソンは、BIOSの著作権を争って差し止めの仮処分申請まで受け、和解の後も価格では日本電気に、携帯性では東芝のダイナブックに挟まれた。1990年度の初の減収減益はその帰結である。安川英昭が採った手は、パソコンの開発陣を500人から300人へ削り、記録媒体からも退いて、30年やってきたプリンターへ残りを賭けることだった。カラリオが国内シェア55%を取り、1999年3月期の連結売上高は1兆500億円に届く。捨てた事業の数だけ、残した一本が重くなった。
1979年4月期の諏訪精工舎は売上高1,000億円、従業員2,900人。子会社の信州精器は売上高480億円、従業員2,000人で、SEIKOブランドを使わず「EPSON」ブランドでプリンターを売り、世界の70%のシェアを確保していた。液晶表示パネルの生産量は年2,000万個でシャープと国内首位を争い、水晶発振子とC-MOSのLSIは香港などへの輸出が活発だった。グループ8社の申告所得を合計すると279億円になり、分社経営を採らず1社で事業を展開していれば申告所得の順位は56位に相当した。諏訪精工舎自身はC-MOSのLSIの大量生産工場へ100億円を投じたばかりで、作ったLSIの約半分は外へ売っていた。
C-MOSのLSIと液晶表示パネルの値下がりが急速に進むと、カシオ計算機を先頭とするデジタルウオッチ勢が本業のウオッチに攻め込み、競争の激化で店頭の売値はさらに下がった。分解掃除の要らないデジタルウオッチは町の時計店から大きな稼ぎ口を奪い、カメラ店や家電量販店の値引き販売も加わって、転業や廃業に追い込まれる時計店が増えた。こうして、服部時計店が明治以来作り上げてきた強固な販売網が揺らぎ出した。技術が進んだ結果、ウオッチはもはや高い利益を見込める商品ではないとみた服部時計店の服部謙太郎社長は、時計以外の商品が売上に占める割合を10%台から30%程度に高めたい考えを示した。
1983年5月、国内の販売会社としてエプソン販売を設立。1985年11月には信州精器の後身であるエプソンを吸収合併し、商号をセイコーエプソンへ変更した。昭和45年度にはセイコー電子工業と諏訪精工舎の売上高は100%がウオッチだったが、エプソンを加えた3社の売上高に占める時計は40%を割っていた。「時計産業は成熟期を迎える。これを見越し、時計が利益を上げている間にセイコーグループは次の成長分野に打って出た。引き金となったプリンタが独り立ちするのに6〜9年かかりましたが」と、2社を率いる服部一郎社長は語っている。年商1,000億円そこそこで知名度も低かったこの会社が、理工系学生の人気企業ランキングで新日本製鉄を上回ったのは、その少し前のことである。
松下電器製のIBM互換機は、BIOSの類似を指摘されて撤退を余儀なくされていた。1987年当時の市場では、日本電気が1982年に売り出した16ビットのPC-9800シリーズがシェアの90%超を押さえ、対応するソフトも5,000本に近かった。独自仕様のパソコンでこれを切り崩すのはまず無理で、同じソフトが動く互換機を本家より安い値で出すのが近道だった。壁になったのは基本ソフトのBIOSである。パソコンのソフトにも著作権が及ぶため自前で作る必要があるものの、手順をまるで変えて作っても結果は似通ってしまう。日本電気の互換機を考えていたメーカーは、最終的な判断を下せずにいた。
セイコーエプソンは当初3月9日に発表を予定していたが、著作権問題を考慮して10日と11日の両日、問題のパソコンを日本電気へ預けた。日本電気は検討の結果「BIOSなどで著作権を侵害している部分がある」として発売の延期を申し入れたが、エプソンは「侵害していない自信がある」として3月13日に発表へ踏み切る。日本電気は態度を硬化させ、東京地方裁判所へ製造販売差し止めの仮処分を申請した。エプソンは4月にPC-286のモデル1、2、3の製造と販売の中止を発表し、代わりにモデル0を出荷。両社は同年11月に和解している。ハードよりソフトが重い時代に入ったことを、この一件は日本の産業へ突きつけた。
互換機へ出た狙いは機械そのものではなかった。「システムメーカーに脱皮して、パソコンと一緒にプリンターなど周辺機器も売り込む」ためだと相澤進専務は言う。最初のPC-286モデル0は35万7000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製が39万8000円から43万3000円だったから5万円以上安い。1987年11月にはラップトップ型のPC-286Lを日本電気に先駆けて発売した。だが1989年6月に出した45万8000円のPC-286 NOTE EXECUTIVEは、東芝が19万8000円で出したダイナブックに価格で勝負にならなかった。台数は1年目の6万台から12万台へ伸びたあと、3万台、9万台と鳴かず飛ばずに終わる。それでもプリンターの販売は1988年3月期の年13万台から1990年3月期の20万台へ伸びており、船としての役目は果たしていた。
減収減益は初めてのことだった。1990年度は売上高4,569億円で前年度比3%減、経常利益は201億円で40%の減少となった。足を引っ張ったのは情報機器事業で、89年度の2,380億円が90年度には2,060億円に縮んだ。研究開発担当の相沢進専務は、その根に「肥大化した組織特有の意思決定の遅さ」があると見ていた。手当てとして1991年1月、コンピューター・プリンター・周辺機器の3事業本部を統べる情報機器システム事業統括を置いて土橋光広専務に決裁権を集め、同年7月には次長や副事業部長、副本部長など役割の曖昧な中間ポストを大半なくした。物流も見直され、完成品の置き場を諏訪周辺22カ所の倉庫に求めてトラックを走らせていた状態から、建屋だけで25億円をかけたEBLセンターへ一本化された。
国内のコンピュータ・システム事業部は開発と設計に500人を抱えていたが、1991年6月に社長となった安川英昭がパソコン部門の人員を半減させるよう命じ、そのうち200人をプリンターをはじめ伸びの見込める事業部へ移し、残った300人で製品の品ぞろえと生産の体制を作り直した。機種も前年度の約10から今年度は5前後まで減らし、CPU搭載基板を本体基板と別にして、使う側が部品を入れ替えれば性能を引き上げられるつくりに改めた。1992年3月期の売上高は4,707億円で前期比3%増に届いたのみで、経常利益は前期の201億円が58億円まで沈み、92年度の経営方針は第一項目に「ものづくりの原点に立ち返り、生産革新を起こす」を掲げた。新卒250人全員を1年間製造現場へ置き、非製造部門から1,000人を現場に近い部門へ動かす計画を立てた。
1995年からパソコン事業を大幅に縮小して子会社のエプソン販売へ移管し、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブなどの記録媒体事業からも撤退して、プリンター事業へ経営資源を集中させた。「エプソンの特徴が出せない事業は、売り上げが出ていても続ける意味がない。30年以上も取り組んでいるプリンター事業には技術とノウハウの蓄積がある」と安川社長は語る。1995年以降は消費者向けに「カラリオ」の名で売り込んでインクジェットプリンターの国内市場でシェア首位に立ち、1996年に初めて写真画質をうたった機種は空前の大ヒットとなって、後継機を含め55%のシェアを握った。1999年3月期の単独売上高は8,247億円、経常利益523億円、連結では1兆500億円。捨てた事業の数だけ、残した一本が重くなった。
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|---|---|---|---|---|
| 1942〜1978年時計部品の下請け工場が自社の名前を持つまで(1942〜1978) | 大和工業設立 | ★★ | ||
| 第二精工舎諏訪工場より営業譲受、諏訪精工舎に商号変更 | ★★ | |||
| 諏訪精工舎に組織変更 | ★ | |||
| 信州精器(後のエプソン)設立 | ★ | |||
| 東京オリンピックで"クリスタル・クロノメーター"を提供 | ★ | |||
| 世界初の水晶式ポータブルプリンター | ★ | |||
| 製造会社Tenryuを設立 | ★ | |||
| 東京オリンピックの計時用プリンターを起点とした印刷機事業の立ち上げ 1964年10月の東京オリンピックで、セイコーは計時されたタイムを印字するミニプリンターを世界初の水晶式ポータブルプリンター"クリスタル・クロノメーター"として供給した。諏訪の時計部品メーカーはこの印字技術を時計と関係のない事務機の側へ持ち出し、1968年9月にミニプリンター事業を始め、1975年6月には"EPSON"を非時計分野のブランドとして制定した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 半導体事業開始 | ★ | |||
| 販売会社Epson America設立、眼鏡レンズ事業開始 | ★ | |||
| "EPSON"ブランドを非時計分野のカンパニーブランドとして制定 | ★ | |||
| 水晶デバイス事業開始 | ★ | |||
| コンピュータ用プリンター事業開始 | ★★ | |||
| 1979〜1999年エプソン販売の設立とセイコーエプソン発足、フロン全廃と液晶プロジェクター、海外統括拠点 | エプソン販売設立 | ★ | ||
| 製造会社Epson Portland設立 | ★ | |||
| エプソンを吸収合併しセイコーエプソンに商号変更 | ★★ | |||
| 規制の削減日程に先立つ前倒しの決定と、外注企業まで含めた切り替え 1988年末、セイコーエプソンの中村恒也社長は1993年までにフロンの使用を止めると決めた。1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程よりも早い目標であった。同年12月に専従組織"フロンレス推進センター"を長野県茅野事業所に置き、1年後の1989年末には使用量をピークから半減させた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 液晶プロジェクター事業開始 | ★ | |||
| 地域統括会社Epson Europe設立 | ★ | |||
| 安川英昭 | エプソンダイレクト設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | P.T. Indonesia Epson Industry設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | Suzhou Epson Quartz Devices設立 | ★ | ||
| 安川英昭 | 中国地域統括会社Epson China設立 | ★ | ||
| 2000〜2019年中期計画SE07と東証一部上場、液晶ディスプレイの分社と碓井稔体制の赤字からの再建 | 草間三郎 | 電子デバイス事業の縮小と、中小型液晶ディスプレイ事業資産の譲渡 2003年1月、セイコーエプソンは中期経営計画"SE07"で電子デバイス事業の使命を置き替え、映像分野の完成品へ資源を集中する方針を社内に示した。世界で1位か2位を取れない事業から手を引くという1990年代からの基準を、部品事業そのものに当てはめた判断であった。液晶ディスプレイの分社を経て、2010年4月に中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡するまでに8年を要した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 草間三郎 | 非公開の会社から、市場の値付けに日々晒される会社への移行 2003年6月24日、セイコーエプソンは東京証券取引所第一部に株式を上場した。サントリー、竹中工務店と並んで三大未上場企業とも呼ばれた会社が資本市場に出た判断で、公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値をつけた。上場の話は1987年に最初に持ち上がってから16年を経ていた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 草間三郎 | 液晶ディスプレイ事業を三洋エプソンイメージングデバイスとして分社 | ★ | ||
| 碓井稔 | 社長交代(花岡清二→碓井稔) | ★ | ||
| 碓井稔 | 内部統制報告制度の初年度に重要な欠陥を開示し、海外子会社の管理を立て直した判断 2009年3月期、中南米の連結子会社で、当期を含む過去数年にわたり不適切な経理処理が行われていたことが発見された。発生原因の調査・究明と決算の適切な修正に時間を要したため、第67期第3四半期に係る四半期報告書および確認書は、金融商品取引法が定める提出期限までに提出できず、2009年2月26日の提出となった。 社内調査の結果、不適切な経理処理の発生原因とその発見が遅れた原因の一端は財務報告に係る内部統制の不備にあると判断し、2009年3月31日現在の財務報告に係る内部統制は有効でない旨を記載した内部統制報告書を、有価証券報告書と同時に提出している。 詳細を読む | |||
| 碓井稔 | 営業赤字▲16億円・純損失1,113億円 | ★★ | ||
| 碓井稔 | 当期純損失▲197億円 | ★ | ||
| 碓井稔 | 中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡 | ★★ | ||
| 碓井稔 | 眼鏡レンズ事業譲渡 | ★ | ||
| 碓井稔 | 監督の担い手を取締役会の内側へ移し、審議を重要議案に絞った機関設計の切り替え 2016年6月28日開催の定時株主総会において定款の変更が決議され、同日付で監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。取締役会の監督機能のさらなる向上、審議の一層の充実および経営の意思決定の迅速化を図るためには、監査等委員会設置会社がふさわしい機関設計であると考えたためである。 定款では監査等委員でない取締役を9名以内、監査等委員である取締役を5名以内と定めた。移行後の取締役会は社外取締役5名を含む12名、監査等委員会は社外取締役である監査等委員3名を含む4名で構成し、委員長は常勤の監査等委員が務める。 詳細を読む | |||
| 碓井稔 | エプソンイメージングデバイスを吸収合併 | ★ | ||
| 2020〜2026年小川恭範体制での固定費削減と米Fiery買収、吉田潤吉への社長交代 | 小川恭範 | 社長交代(碓井稔→小川恭範) | ★ | |
| 小川恭範 | 小川社長が"人員を増やさず"固定費削減方針を表明 | ★ | ||
| 小川恭範 | ソフトウェアへの初の大型投資と、翌期に生じたのれんの減損 2024年9月に公表し、12月2日にFiery, LLCの全持分を、株主であるSiris Capital Group,LLCの関連会社およびElectronics For Imaging, Inc.から取得した。取得対価は現金86,170百万円、取得関連費用は1,404百万円で、2003年の上場以来で最大の買収となる。 売上収益の約7割をプリンティングが占めるハード中心の会社が、弱点だったソフトウェアを外部から取り込む判断であった。受け入れた無形資産は56,004百万円、差額として計上したのれんは36,412百万円で、IFRSのため償却せず毎年減損テストにかける。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小川恭範 | 通期売上1兆3,629億円・営業利益751億円 | ★ | ||
| 吉田潤吉 | 社長交代(小川恭範→吉田潤吉) | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(セイコーエプソン)