1942年〜 時計部品の下請け工場が自社の名前を持つまで(1942〜1978)
- 1942年 大和工業設立
- 1959年 第二精工舎諏訪工場より営業譲受、諏訪精工舎に商号変更
- 1959年 諏訪精工舎に組織変更
- 1961年 信州精器(後のエプソン)設立
- 1964年 東京オリンピックで『クリスタル・クロノメーター』を提供
- 1968年 東京オリンピックの計時用プリンターの事業化と、『EPSON』ブランドの制定 時計部品の下請けが自分の名前で売るのか——五輪の印字装置から始まったプリンター事業
- 1978年 コンピュータ用プリンター事業開始
諏訪の時計部品工場と、部品・材料の内製化
1942年5月、長野県諏訪に有限会社大和工業が時計部品の加工を目的として設立[1]された。1959年5月には服部時計店系列の第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受けて有限会社諏訪精工舎へ商号を変え[2]、同年9月に株式会社へ組織を変更した[3]。1961年12月には傘下に信州精器株式会社を設立し[4]、時計部品の仕上げ加工を担わせた。実質的な創立者である山崎久夫元代表取締役は全国の大学を歩いて学卒者を集め[5]、大学の正門前に腰をおろして目当ての学生が現れるのを待った[6]と伝えられる。第二次大戦後に疎開先から引き揚げる第二精工舎の技術者へ、諏訪に残るよう説いたのも山崎氏[7]であった。
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1942年5月、長野県諏訪で時計部品の加工を目的として有限会社大和工業が設立された
- [2]1959年5月に第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受け、有限会社諏訪精工舎へ商号変更した
- [3]1959年9月に株式会社へ組織変更した
- [4]1961年12月に国内製造会社として信州精器株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [5]実質的な会社創立者の山崎久夫元代表取締役は全国の大学を行脚し、無名に近かった諏訪精工舎に有能な学卒者を集めた
- [6]時には大学の正門前に腰をおろし、めざす学生が現れるのを待って説得したと伝えられる
- [7]第二次大戦後に疎開から引き揚げる第二精工舎の技術者に諏訪に残るよう説いたのも山崎氏だった
時計を作るために必要な部品は、当時ほとんど手に入ら[8]なかった。ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなく[9]、クオーツを開発したときも、低消費電力を特徴とするC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターは世の中に存在しなかった[10]。手に入る部品と材料で間に合わせる道を採らず、すべて自分達で苦しんで作ろうと決めたところから、部品と材料へさかのぼる内製化が始まった[11]。1980年の時点で時計部品の内製化率は、種類の単位でみるとほぼ100%[12]に達した。技術者の採用はエレクトロニクスと機械をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属に分け[13]、専門の偏りを避けていた。
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [8]時計を作るために必要な部品が当時ほとんど手に入らず、ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
- [9]ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
- [10]クオーツ開発時にはC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターも生まれていなかった
- [11]手に入る部品と材料で間に合わせず「すべて自分達で苦しんで作ろう」と考え、時計技術の川上遡及が始まった
- [12]1980年時点で時計部品の内製化率は種類単位でみるとほぼ100%だった
- [13]毎年エレクトロニクスと機械技術者をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属などに分けて採用していた
グループ全体の技術者は約1,000人で、うち大卒者は600人であった[14]が、入社6年目あたりからグループリーダーとして開発テーマを与えられ、以後は自力で勉強して問題を解くことを求められた[15]。エレクトロニクス出身のリーダーの下に機械出身者を置くというように専門を交差させ、学際・複合領域に強い技術者を育てる形[16]が定着した。当時取締役だった安川英昭氏は、学校で学んだ専門は入社5年もすれば分からなくなる[17]と述べた。中村恒也代表取締役は、時計王国スイスに負けない良い時計を作りたいという気持ちを、ぜんまいの時代から持ち続けてきた[18]と語った。
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [14]グループ全体の技術者は約1000人、うち大卒者が600人だった
- [15]技術者は入社6年目あたりから開発のグループリーダーとしてテーマを与えられ、すべて開発を委ねられた
- [16]エレクトロニクス出身のグループリーダーの下に機械出身者を置くなど、学際・複合領域に強くなる「スワ型」の育成をとった
- [17]安川英昭取締役は「学校の専門は入社5年もすれば電子や機械か化学なのかわからなくなってしまう」と述べた
- [18]中村恒也・諏訪精工舎代表取締役は「なんとしても時計王国スイスに負けないような良い時計を作りたい。この気持ちをぜんまいの時代から持ち続けていました」と述べた
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1942年5月、長野県諏訪で時計部品の加工を目的として有限会社大和工業が設立された
- [2]1959年5月に第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受け、有限会社諏訪精工舎へ商号変更した
- [3]1959年9月に株式会社へ組織変更した
- [4]1961年12月に国内製造会社として信州精器株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [5]実質的な会社創立者の山崎久夫元代表取締役は全国の大学を行脚し、無名に近かった諏訪精工舎に有能な学卒者を集めた
- [6]時には大学の正門前に腰をおろし、めざす学生が現れるのを待って説得したと伝えられる
- [7]第二次大戦後に疎開から引き揚げる第二精工舎の技術者に諏訪に残るよう説いたのも山崎氏だった
- [8]時計を作るために必要な部品が当時ほとんど手に入らず、ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
- [9]ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
- [10]クオーツ開発時にはC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターも生まれていなかった
- [11]手に入る部品と材料で間に合わせず「すべて自分達で苦しんで作ろう」と考え、時計技術の川上遡及が始まった
- [12]1980年時点で時計部品の内製化率は種類単位でみるとほぼ100%だった
- [13]毎年エレクトロニクスと機械技術者をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属などに分けて採用していた
- [14]グループ全体の技術者は約1000人、うち大卒者が600人だった
- [15]技術者は入社6年目あたりから開発のグループリーダーとしてテーマを与えられ、すべて開発を委ねられた
- [16]エレクトロニクス出身のグループリーダーの下に機械出身者を置くなど、学際・複合領域に強くなる「スワ型」の育成をとった
- [17]安川英昭取締役は「学校の専門は入社5年もすれば電子や機械か化学なのかわからなくなってしまう」と述べた
- [18]中村恒也・諏訪精工舎代表取締役は「なんとしても時計王国スイスに負けないような良い時計を作りたい。この気持ちをぜんまいの時代から持ち続けていました」と述べた
東京オリンピックの印字装置とEP-101の発売
1964年の東京オリンピックで、セイコーはオフィシャルサプライヤーとしてクオーツ時計を開発し、同時にその時計で計時されたタイムを印字するミニプリンター[19]を開発した。東京五輪に使われた世界初の計時機械のプリンターで、開発の主役を務めたのは中村恒也氏と相澤進氏[20]であった[21]。時計という極限の空間に多くの機能を組み込む精密加工技術が、時計と関係のない事務機の側で生きた最初の場面である。1968年9月、信州精器はこの印字技術をもとにミニプリンター事業[22]を始めた。翌1969年11月に発売した『EP-101』は世界初の商品で、当時のコンピュータや電卓の出力装置はブラウン管しかなく高価であったため、需要は一気[23]に広がった。
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [19]「エプソンストーリー、すべては昭和39年の東京オリンピックに始まったといっていい。この時にオフイシャルサプライヤーとしてセイコーは…クオーツ時計を開発し…そして同時にクオーツ時計で計時されたタイムを、敏速にプリントアウト(印字)するミニプリンタを開発していた」
- [20]「東京五輪に使用された世界初の計時機械のプリンタ開発こそエプソンの原点である」「その主役が、のち信州精器でさらにプリンタの開発・商品化を手掛けることになる中村恒也…であり相澤進…であった」
- [21]開発の主役は中村恒也氏と相澤進氏が務めた
- [23]1969年11月に発売したミニプリンター「EP-101」は世界初の商品で、当時の出力装置はブラウン管しかなく高価だったため需要が一気に広がった
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1968年9月にミニプリンター事業を開始した
社名の EPSON は、この EP に息子を意味する SON を続けた語[24]である。相澤進専務は後年、EP-101 を時計のパーツ屋が情報機器メーカーへ走り出した記念碑的商品[25]と呼んだ。液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・各種ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェ[26]アを得た。1973年11月には半導体事業[27]、1976年7月には水晶デバイス事業を始めた[28]。1968年8月にはシンガポールに製造会社Tenryu(Singapore)Pte. Ltd.を[29]、1974年2月には香港にSuwa Overseas Ltd.を設けた[30]。
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [24]社名EPSONは「EP(Electric Printer)の息子(SON)」に由来する
- [25]相澤進専務はEP-101を「時計のパーツ屋が情報機器メーカーへと走り出した記念碑的商品」と呼んだ
- [26]液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェアを得た
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [27]1973年11月に半導体事業を開始した
- [28]1976年7月に水晶デバイス事業を開始した
- [29]1968年8月にシンガポールへ製造会社Tenryu(Singapore)Pte.Ltd.(現Singapore Epson Industrial Pte.Ltd.)を設立した
- [30]1974年2月に香港へ製造会社Suwa Overseas Ltd.(現Epson Precision(Hong Kong)Ltd.)を設立した
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [19]「エプソンストーリー、すべては昭和39年の東京オリンピックに始まったといっていい。この時にオフイシャルサプライヤーとしてセイコーは…クオーツ時計を開発し…そして同時にクオーツ時計で計時されたタイムを、敏速にプリントアウト(印字)するミニプリンタを開発していた」
- [20]「東京五輪に使用された世界初の計時機械のプリンタ開発こそエプソンの原点である」「その主役が、のち信州精器でさらにプリンタの開発・商品化を手掛けることになる中村恒也…であり相澤進…であった」
- [21]開発の主役は中村恒也氏と相澤進氏が務めた
- [23]1969年11月に発売したミニプリンター「EP-101」は世界初の商品で、当時の出力装置はブラウン管しかなく高価だったため需要が一気に広がった
- [24]社名EPSONは「EP(Electric Printer)の息子(SON)」に由来する
- [25]相澤進専務はEP-101を「時計のパーツ屋が情報機器メーカーへと走り出した記念碑的商品」と呼んだ
- [26]液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェアを得た
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1968年9月にミニプリンター事業を開始した
- [27]1973年11月に半導体事業を開始した
- [28]1976年7月に水晶デバイス事業を開始した
- [29]1968年8月にシンガポールへ製造会社Tenryu(Singapore)Pte.Ltd.(現Singapore Epson Industrial Pte.Ltd.)を設立した
- [30]1974年2月に香港へ製造会社Suwa Overseas Ltd.(現Epson Precision(Hong Kong)Ltd.)を設立した
SEIKOを使わない『EPSON』というブランドの制定
1975年6月、『EPSON』が非時計分野のカンパニーブランドとして制定[31]された。同年4月にはアメリカに販売会社 Epson America を設け、同じ年に眼鏡レンズ事業[32]も始めた。部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、作り手の名前が客の目に触れるこ[33]とはない。ミニプリンターを商品化したときから、自社ブランドの製品を最終利用者へ届けることが会社の願いであったと、合併直後の記録に残[34]された。SEIKO を冠さずに別の名前を立てることは、時計を扱う服部時計店とは別に、販売網を自前で組むことを意味した。
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [31]1975年6月に『EPSON』を非時計分野のカンパニーブランドとして制定した
- [32]1975年4月に販売会社Epson Americaを設立し、同年に眼鏡レンズ事業を開始した
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [33]部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、EPSONという名前が客の目に触れることはなかった
- [34]ミニプリンターの商品化を手がけた時から、自社ブランド製品をエンドユーザーへ届けることが会社の悲願だったと同時代の記録は伝える
ブランドを立てるだけでなく、売り方の狙いも他社と分けた。開発の方針は模倣をしないことに置かれ、大衆化と若者という二つの的[35]に絞られた。1978年12月にはコンピュータ用プリンター事業を始めており[36]、その前段では会計事務所向けのオフィスコンピュータを独自ブランドの第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った[37]。相澤進氏は、プリンタや液晶表示体では世界のエプソンであってもコンピュータ本体では無名であり、他社と同じことをやっていては勝負にならないと述べ[38]、汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた[39]。
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [35]開発の方針は「模倣はしない」であり、大衆化と若者という二つの的に集約された
- [37]会計事務所向けオフィスコンピュータを独自ブランド第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った
- [38]相澤進氏は「プリンタや液晶表示体では世界のエプソンも、コンピュータ本体に関してはまったくの無名。他社と同じことをやっていては勝負にならない」と述べた
- [39]汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [36]1978年12月にコンピュータ用プリンター事業を開始した
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [31]1975年6月に『EPSON』を非時計分野のカンパニーブランドとして制定した
- [32]1975年4月に販売会社Epson Americaを設立し、同年に眼鏡レンズ事業を開始した
- [36]1978年12月にコンピュータ用プリンター事業を開始した
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [33]部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、EPSONという名前が客の目に触れることはなかった
- [34]ミニプリンターの商品化を手がけた時から、自社ブランド製品をエンドユーザーへ届けることが会社の悲願だったと同時代の記録は伝える
- [35]開発の方針は「模倣はしない」であり、大衆化と若者という二つの的に集約された
- [37]会計事務所向けオフィスコンピュータを独自ブランド第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った
- [38]相澤進氏は「プリンタや液晶表示体では世界のエプソンも、コンピュータ本体に関してはまったくの無名。他社と同じことをやっていては勝負にならない」と述べた
- [39]汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた