セイコーエプソン の歴史

更新:

1942年、山崎久夫氏が長野県諏訪で大和工業として創業。東京五輪の計時用プリンター、EPSONブランドの制定、プリンターと液晶プロジェクターまでの沿革と経緯を執筆。

創業

1942年

創業者

山崎久夫

創業地

長野県諏訪地域

直近売上高(2026/3)

14,133億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1985年に諏訪精工舎はエプソンを吸収合併し、時計部品の会社から情報機器企業へ姿を変えたのか
A 別々の会社が同じ製品で競い合う遠心力が、エレクトロニクス不況で重荷に変わったためである。諏訪精工舎と服部セイコーは液晶カラーテレビを『テレビアン』『マイチャンネル』として正面からぶつけ合うほど分散しており、不況下では人も物も金も二重投資になった。1975年に非時計分野のブランドとして制定した『EPSON』と独自の販売網で突出していたエプソンを、1985年11月に諏訪精工舎が吸収してセイコーエプソンへ商号を変えた。ブランド・販売網・製造資源を一社で束ね、米HPやキヤノンと戦える意思決定の速さを得る統合だった
Q なぜ2009年前後のリーマンショック後に、碓井稔氏は電子デバイスを切り離してプリンティングへ資源を絞ったのか
A 液晶・水晶・半導体は工場の固定費が重く、需要が一度引くと赤字を一気に膨らませる事業だったためである。世界金融危機が直撃した2009年3月期、電子デバイスの減損で特別損失963億円が出て、純損失1,113億円という統合以来最大の赤字を計上した。プリンターは相対的に持ちこたえており、多角化で収益を分散させるという前提が崩れた。インクジェットプリントヘッドの技術者出身である碓井稔氏は、2010年に中小型液晶、2013年に眼鏡レンズと非中核を順に手放し、自前で勝てるプリンティングへ経営資源を集めた
Q なぜ2024年に米Fieryを買収し、プリンター本体の販売から印刷ワークフローのソフトまで取り込んだのか
A 家庭用プリンターの需要が頭打ちになり、印刷機を売り切るだけでは伸びにくくなったためである。次の成長を商業・産業印刷に求めると、印刷機の前段で色管理やジョブ管理を担うソフト(デジタルフロントエンド)まで束ねた業務ソリューションが要るが、自社開発では時間が足りなかった。2024年12月にこの分野で世界首位の米Fieryを完全子会社化した。自社のインクジェットプリントヘッドとFieryのソフトを組み合わせ、ハードからワークフローまで一貫して提供できる体制と、Fieryの商業印刷顧客への接点を一度に取り込む買収だった

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1942年〜 時計部品の下請け工場が自社の名前を持つまで(1942〜1978)

  1. 1942年 大和工業設立
  2. 1959年 第二精工舎諏訪工場より営業譲受、諏訪精工舎に商号変更
  3. 1959年 諏訪精工舎に組織変更
  4. 1961年 信州精器(後のエプソン)設立
  5. 1964年 東京オリンピックで『クリスタル・クロノメーター』を提供
  6. 1968年 東京オリンピックの計時用プリンターの事業化と、『EPSON』ブランドの制定 時計部品の下請けが自分の名前で売るのか——五輪の印字装置から始まったプリンター事業
  7. 1978年 コンピュータ用プリンター事業開始

諏訪の時計部品工場と、部品・材料の内製化

1942年5月、長野県諏訪に有限会社大和工業が時計部品の加工を目的として設立[1]された。1959年5月には服部時計店系列の第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受けて有限会社諏訪精工舎へ商号を変え[2]、同年9月に株式会社へ組織を変更した[3]。1961年12月には傘下に信州精器株式会社を設立し[4]、時計部品の仕上げ加工を担わせた。実質的な創立者である山崎久夫元代表取締役は全国の大学を歩いて学卒者を集め[5]、大学の正門前に腰をおろして目当ての学生が現れるのを待った[6]と伝えられる。第二次大戦後に疎開先から引き揚げる第二精工舎の技術者へ、諏訪に残るよう説いたのも山崎氏[7]であった。

  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1942年5月、長野県諏訪で時計部品の加工を目的として有限会社大和工業が設立された
    • [2]1959年5月に第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受け、有限会社諏訪精工舎へ商号変更した
    • [3]1959年9月に株式会社へ組織変更した
    • [4]1961年12月に国内製造会社として信州精器株式会社を設立した
  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [5]実質的な会社創立者の山崎久夫元代表取締役は全国の大学を行脚し、無名に近かった諏訪精工舎に有能な学卒者を集めた
    • [6]時には大学の正門前に腰をおろし、めざす学生が現れるのを待って説得したと伝えられる
    • [7]第二次大戦後に疎開から引き揚げる第二精工舎の技術者に諏訪に残るよう説いたのも山崎氏だった

時計を作るために必要な部品は、当時ほとんど手に入ら[8]なかった。ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなく[9]、クオーツを開発したときも、低消費電力を特徴とするC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターは世の中に存在しなかった[10]。手に入る部品と材料で間に合わせる道を採らず、すべて自分達で苦しんで作ろうと決めたところから、部品と材料へさかのぼる内製化が始まった[11]。1980年の時点で時計部品の内製化率は、種類の単位でみるとほぼ100%[12]に達した。技術者の採用はエレクトロニクスと機械をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属に分け[13]、専門の偏りを避けていた。

  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [8]時計を作るために必要な部品が当時ほとんど手に入らず、ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
    • [9]ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
    • [10]クオーツ開発時にはC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターも生まれていなかった
    • [11]手に入る部品と材料で間に合わせず「すべて自分達で苦しんで作ろう」と考え、時計技術の川上遡及が始まった
    • [12]1980年時点で時計部品の内製化率は種類単位でみるとほぼ100%だった
    • [13]毎年エレクトロニクスと機械技術者をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属などに分けて採用していた

グループ全体の技術者は約1,000人で、うち大卒者は600人であった[14]が、入社6年目あたりからグループリーダーとして開発テーマを与えられ、以後は自力で勉強して問題を解くことを求められた[15]。エレクトロニクス出身のリーダーの下に機械出身者を置くというように専門を交差させ、学際・複合領域に強い技術者を育てる形[16]が定着した。当時取締役だった安川英昭氏は、学校で学んだ専門は入社5年もすれば分からなくなる[17]と述べた。中村恒也代表取締役は、時計王国スイスに負けない良い時計を作りたいという気持ちを、ぜんまいの時代から持ち続けてきた[18]と語った。

  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [14]グループ全体の技術者は約1000人、うち大卒者が600人だった
    • [15]技術者は入社6年目あたりから開発のグループリーダーとしてテーマを与えられ、すべて開発を委ねられた
    • [16]エレクトロニクス出身のグループリーダーの下に機械出身者を置くなど、学際・複合領域に強くなる「スワ型」の育成をとった
    • [17]安川英昭取締役は「学校の専門は入社5年もすれば電子や機械か化学なのかわからなくなってしまう」と述べた
    • [18]中村恒也・諏訪精工舎代表取締役は「なんとしても時計王国スイスに負けないような良い時計を作りたい。この気持ちをぜんまいの時代から持ち続けていました」と述べた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1942年5月、長野県諏訪で時計部品の加工を目的として有限会社大和工業が設立された
    • [2]1959年5月に第二精工舎諏訪工場から営業を譲り受け、有限会社諏訪精工舎へ商号変更した
    • [3]1959年9月に株式会社へ組織変更した
    • [4]1961年12月に国内製造会社として信州精器株式会社を設立した
  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [5]実質的な会社創立者の山崎久夫元代表取締役は全国の大学を行脚し、無名に近かった諏訪精工舎に有能な学卒者を集めた
    • [6]時には大学の正門前に腰をおろし、めざす学生が現れるのを待って説得したと伝えられる
    • [7]第二次大戦後に疎開から引き揚げる第二精工舎の技術者に諏訪に残るよう説いたのも山崎氏だった
    • [8]時計を作るために必要な部品が当時ほとんど手に入らず、ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
    • [9]ぜんまい式の時代には時計用の工作機械さえなかった
    • [10]クオーツ開発時にはC-MOSや水晶発振子、1秒ずつ時を刻むステッピングモーターも生まれていなかった
    • [11]手に入る部品と材料で間に合わせず「すべて自分達で苦しんで作ろう」と考え、時計技術の川上遡及が始まった
    • [12]1980年時点で時計部品の内製化率は種類単位でみるとほぼ100%だった
    • [13]毎年エレクトロニクスと機械技術者をそれぞれ35%ずつ、残りを物理・化学・金属などに分けて採用していた
    • [14]グループ全体の技術者は約1000人、うち大卒者が600人だった
    • [15]技術者は入社6年目あたりから開発のグループリーダーとしてテーマを与えられ、すべて開発を委ねられた
    • [16]エレクトロニクス出身のグループリーダーの下に機械出身者を置くなど、学際・複合領域に強くなる「スワ型」の育成をとった
    • [17]安川英昭取締役は「学校の専門は入社5年もすれば電子や機械か化学なのかわからなくなってしまう」と述べた
    • [18]中村恒也・諏訪精工舎代表取締役は「なんとしても時計王国スイスに負けないような良い時計を作りたい。この気持ちをぜんまいの時代から持ち続けていました」と述べた

東京オリンピックの印字装置とEP-101の発売

1964年の東京オリンピックで、セイコーはオフィシャルサプライヤーとしてクオーツ時計を開発し、同時にその時計で計時されたタイムを印字するミニプリンター[19]を開発した。東京五輪に使われた世界初の計時機械のプリンターで、開発の主役を務めたのは中村恒也氏と相澤進氏[20]であった[21]。時計という極限の空間に多くの機能を組み込む精密加工技術が、時計と関係のない事務機の側で生きた最初の場面である。1968年9月、信州精器はこの印字技術をもとにミニプリンター事業[22]を始めた。翌1969年11月に発売した『EP-101』は世界初の商品で、当時のコンピュータや電卓の出力装置はブラウン管しかなく高価であったため、需要は一気[23]に広がった。

  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [19]「エプソンストーリー、すべては昭和39年の東京オリンピックに始まったといっていい。この時にオフイシャルサプライヤーとしてセイコーは…クオーツ時計を開発し…そして同時にクオーツ時計で計時されたタイムを、敏速にプリントアウト(印字)するミニプリンタを開発していた」
    • [20]「東京五輪に使用された世界初の計時機械のプリンタ開発こそエプソンの原点である」「その主役が、のち信州精器でさらにプリンタの開発・商品化を手掛けることになる中村恒也…であり相澤進…であった」
    • [21]開発の主役は中村恒也氏と相澤進氏が務めた
    • [23]1969年11月に発売したミニプリンター「EP-101」は世界初の商品で、当時の出力装置はブラウン管しかなく高価だったため需要が一気に広がった
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1968年9月にミニプリンター事業を開始した

社名の EPSON は、この EP に息子を意味する SON を続けた語[24]である。相澤進専務は後年、EP-101 を時計のパーツ屋が情報機器メーカーへ走り出した記念碑的商品[25]と呼んだ。液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・各種ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェ[26]アを得た。1973年11月には半導体事業[27]、1976年7月には水晶デバイス事業を始めた[28]。1968年8月にはシンガポールに製造会社Tenryu(Singapore)Pte. Ltd.を[29]、1974年2月には香港にSuwa Overseas Ltd.を設けた[30]

  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [24]社名EPSONは「EP(Electric Printer)の息子(SON)」に由来する
    • [25]相澤進専務はEP-101を「時計のパーツ屋が情報機器メーカーへと走り出した記念碑的商品」と呼んだ
    • [26]液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェアを得た
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1973年11月に半導体事業を開始した
    • [28]1976年7月に水晶デバイス事業を開始した
    • [29]1968年8月にシンガポールへ製造会社Tenryu(Singapore)Pte.Ltd.(現Singapore Epson Industrial Pte.Ltd.)を設立した
    • [30]1974年2月に香港へ製造会社Suwa Overseas Ltd.(現Epson Precision(Hong Kong)Ltd.)を設立した
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [19]「エプソンストーリー、すべては昭和39年の東京オリンピックに始まったといっていい。この時にオフイシャルサプライヤーとしてセイコーは…クオーツ時計を開発し…そして同時にクオーツ時計で計時されたタイムを、敏速にプリントアウト(印字)するミニプリンタを開発していた」
    • [20]「東京五輪に使用された世界初の計時機械のプリンタ開発こそエプソンの原点である」「その主役が、のち信州精器でさらにプリンタの開発・商品化を手掛けることになる中村恒也…であり相澤進…であった」
    • [21]開発の主役は中村恒也氏と相澤進氏が務めた
    • [23]1969年11月に発売したミニプリンター「EP-101」は世界初の商品で、当時の出力装置はブラウン管しかなく高価だったため需要が一気に広がった
    • [24]社名EPSONは「EP(Electric Printer)の息子(SON)」に由来する
    • [25]相澤進専務はEP-101を「時計のパーツ屋が情報機器メーカーへと走り出した記念碑的商品」と呼んだ
    • [26]液晶表示体の開発と商品化はミニプリンターが市場を席巻する絶頂期に始動し、電卓・腕時計・ゲーム機へ用途を広げて世界首位のシェアを得た
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1968年9月にミニプリンター事業を開始した
    • [27]1973年11月に半導体事業を開始した
    • [28]1976年7月に水晶デバイス事業を開始した
    • [29]1968年8月にシンガポールへ製造会社Tenryu(Singapore)Pte.Ltd.(現Singapore Epson Industrial Pte.Ltd.)を設立した
    • [30]1974年2月に香港へ製造会社Suwa Overseas Ltd.(現Epson Precision(Hong Kong)Ltd.)を設立した

SEIKOを使わない『EPSON』というブランドの制定

1975年6月、『EPSON』が非時計分野のカンパニーブランドとして制定[31]された。同年4月にはアメリカに販売会社 Epson America を設け、同じ年に眼鏡レンズ事業[32]も始めた。部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、作り手の名前が客の目に触れるこ[33]とはない。ミニプリンターを商品化したときから、自社ブランドの製品を最終利用者へ届けることが会社の願いであったと、合併直後の記録に残[34]された。SEIKO を冠さずに別の名前を立てることは、時計を扱う服部時計店とは別に、販売網を自前で組むことを意味した。

  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [31]1975年6月に『EPSON』を非時計分野のカンパニーブランドとして制定した
    • [32]1975年4月に販売会社Epson Americaを設立し、同年に眼鏡レンズ事業を開始した
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [33]部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、EPSONという名前が客の目に触れることはなかった
    • [34]ミニプリンターの商品化を手がけた時から、自社ブランド製品をエンドユーザーへ届けることが会社の悲願だったと同時代の記録は伝える

ブランドを立てるだけでなく、売り方の狙いも他社と分けた。開発の方針は模倣をしないことに置かれ、大衆化と若者という二つの的[35]に絞られた。1978年12月にはコンピュータ用プリンター事業を始めており[36]、その前段では会計事務所向けのオフィスコンピュータを独自ブランドの第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った[37]。相澤進氏は、プリンタや液晶表示体では世界のエプソンであってもコンピュータ本体では無名であり、他社と同じことをやっていては勝負にならないと述べ[38]、汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた[39]

  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [35]開発の方針は「模倣はしない」であり、大衆化と若者という二つの的に集約された
    • [37]会計事務所向けオフィスコンピュータを独自ブランド第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った
    • [38]相澤進氏は「プリンタや液晶表示体では世界のエプソンも、コンピュータ本体に関してはまったくの無名。他社と同じことをやっていては勝負にならない」と述べた
    • [39]汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [36]1978年12月にコンピュータ用プリンター事業を開始した
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [31]1975年6月に『EPSON』を非時計分野のカンパニーブランドとして制定した
    • [32]1975年4月に販売会社Epson Americaを設立し、同年に眼鏡レンズ事業を開始した
    • [36]1978年12月にコンピュータ用プリンター事業を開始した
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [33]部品を作る限りは完成品の陰に隠れ、EPSONという名前が客の目に触れることはなかった
    • [34]ミニプリンターの商品化を手がけた時から、自社ブランド製品をエンドユーザーへ届けることが会社の悲願だったと同時代の記録は伝える
    • [35]開発の方針は「模倣はしない」であり、大衆化と若者という二つの的に集約された
    • [37]会計事務所向けオフィスコンピュータを独自ブランド第一号として送り出し、発売から1年でシェア40%を取った
    • [38]相澤進氏は「プリンタや液晶表示体では世界のエプソンも、コンピュータ本体に関してはまったくの無名。他社と同じことをやっていては勝負にならない」と述べた
    • [39]汎用機が常識だった市場に、あえて用途を限った専用機を並べた

1979年〜 プリンターで世界を取り、パソコンで他社の土俵に乗る(1979〜1989)

セイコーエプソンの業績推移:単体

売上高(億円)
  1. 1983年 エプソン販売設立
  2. 1985年 製造会社Epson Portland設立
  3. 1985年 エプソンを吸収合併しセイコーエプソンに商号変更
  4. 1988年 規制の削減日程に先立つフロン全廃の決定と、外注企業を含む洗浄工程の切り替え 自社の工場を直せば済むのか——200社の外注先にフロンレス洗浄装置を入れさせる費用は誰が負うのか
  5. 1989年 液晶プロジェクター事業開始

MP-80の世界シェアと諏訪精工舎によるエプソン吸収合併

1980年に発売したパソコン用ターミナルプリンター『MP-80』が、EPSON の名[40]を決めた。開発者たちは、オーディオのシステムコンポの発想をもとに、コンピュータの周辺機器としてのプリンターを本体から切り離して単独の商品にした[41]と語った。この機種は日本で60%、世界市場でも40%のシェアを取り、国内外のパソコンメーカーからOEMの申し出[42]が相次いだ。1980年の時点で信州精器は SEIKO を使わずに EPSON を確立し、そのプリンターで世界の約7割のシェア[43]を固めた。売上高480億円・従業員2,000人・プリンター生産量450万個で、親会社である諏訪精工舎の売上高1,000億円のおよそ半分に届い[44]ていた。

  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [40]1980年に発売したパソコン用ターミナルプリンター「MP-80」がEPSONの名を決定づけた
    • [41]開発者はオーディオのシステムコンポの発想をヒントに、プリンタを本体から離して単独の商品としたと語った
    • [42]MP-80は日本で60%、世界市場でも40%のシェアを取り、国内外のパソコンメーカーからOEMの申し出が殺到した
  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [43]信州精器はSEIKOブランドを使わずEPSONを確立し、そのプリンターで世界の約70%のシェアを確立した
    • [44]1980年の信州精器は売上高480億円・従業員2,000人・プリンター生産量450万個で、親会社諏訪精工舎の売上高1,000億円の約半分に達していた

1979年の諏訪精工舎グループ8社の申告所得は合計279億円[45]に達した。分社経営を採らずに1社で事業を展開していれば、申告所得の順位で56位に並んだ計[46]算になる。セイコーグループ全体の申告所得は545億8,100万円で、服部時計店グループが104億9,200万円、精工舎グループが39億1,100万円、第二精工舎グループが122億4,900万円であり[47]、諏訪精工舎グループが最も大きかった。グループの売上構成比はウオッチが63%、ウオッチ以外が37%で[48]、諏訪精工舎の中村恒也代表取締役は、拡ウオッチ分野の比率が50%に達するのは時間の問題だと読んでいる[49]

  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [45]グループ会社8社の1979年(昭和54年)申告所得の合計は279億円に達した
    • [46]仮に分社経営をとらず1社で事業を展開していれば申告所得ランキングで56位に顔を並べたはずだった
    • [47]SEIKOグループ全体の申告所得は545億8,100万円で、内訳は服部時計店グループ104億9,200万円、精工舎グループ39億1,100万円、第二精工舎グループ122億4,900万円だった
    • [49]中村恒也代表取締役は「拡ウオッチ分野のグループ全体の売り上げに占める比率が50%に達するのは時間の問題」と読んでいた
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [48]グループの売上高構成比はウオッチ63%に対しウオッチ以外が37%を占めた

1985年11月、諏訪精工舎はエプソン株式会社を吸収合併し、セイコーエプソン株式会社へ商号[50]を変えた。売上高約3,000億円・従業員約7,000人の会社[51]である。エプソンの売上高は1975年の282億円から1982年に1,000億円、1984年度には1,500億円を超えており[52]、独自ブランドと別の販売会社で突出した子会社にブレーキをかける意味があったという見方も当時からあった[53]。液晶カラーテレビでは諏訪グループとセイコー電子工業が『テレビアン』『マイチャンネル』として同じ商品を別の名で売り合っており[54]、新しい社名に落ち着くまでには曲折があったとも伝えられる。

  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]1985年11月にエプソン株式会社を吸収合併し、セイコーエプソン株式会社へ商号変更した
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [51]発足時の規模は売上高約3,000億円・従業員約7,000人だった
    • [52]エプソンの売上高は1975年の282億円から1982年に1,000億円、1984年度には1,500億円を超えた
    • [53]合併には独自ブランドと別の販売会社で突出したエプソンにブレーキをかける意味があったという見方が当時からあった
    • [54]液晶カラーテレビで諏訪グループとセイコー電子工業が「テレビアン」「マイチャンネル」として同じ商品を別の名で売り合っていた
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
    • [40]1980年に発売したパソコン用ターミナルプリンター「MP-80」がEPSONの名を決定づけた
    • [41]開発者はオーディオのシステムコンポの発想をヒントに、プリンタを本体から離して単独の商品としたと語った
    • [42]MP-80は日本で60%、世界市場でも40%のシェアを取り、国内外のパソコンメーカーからOEMの申し出が殺到した
    • [48]グループの売上高構成比はウオッチ63%に対しウオッチ以外が37%を占めた
    • [51]発足時の規模は売上高約3,000億円・従業員約7,000人だった
    • [52]エプソンの売上高は1975年の282億円から1982年に1,000億円、1984年度には1,500億円を超えた
    • [53]合併には独自ブランドと別の販売会社で突出したエプソンにブレーキをかける意味があったという見方が当時からあった
    • [54]液晶カラーテレビで諏訪グループとセイコー電子工業が「テレビアン」「マイチャンネル」として同じ商品を別の名で売り合っていた
  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
    • [43]信州精器はSEIKOブランドを使わずEPSONを確立し、そのプリンターで世界の約70%のシェアを確立した
    • [44]1980年の信州精器は売上高480億円・従業員2,000人・プリンター生産量450万個で、親会社諏訪精工舎の売上高1,000億円の約半分に達していた
    • [45]グループ会社8社の1979年(昭和54年)申告所得の合計は279億円に達した
    • [46]仮に分社経営をとらず1社で事業を展開していれば申告所得ランキングで56位に顔を並べたはずだった
    • [47]SEIKOグループ全体の申告所得は545億8,100万円で、内訳は服部時計店グループ104億9,200万円、精工舎グループ39億1,100万円、第二精工舎グループ122億4,900万円だった
    • [49]中村恒也代表取締役は「拡ウオッチ分野のグループ全体の売り上げに占める比率が50%に達するのは時間の問題」と読んでいた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]1985年11月にエプソン株式会社を吸収合併し、セイコーエプソン株式会社へ商号変更した

PC-98互換機への参入と日本電気による提訴

エプソンがパソコンの開発に取り組み始めたのは1980年[55]である。1985年には海外向けにIBM互換機を発売し、ライバルより安い価格を武器に一時は米国市場で第5位のシェ[56]アを得た。1984年度の売上高1,570億円のうち65%が輸出で、部品を除いた完成品だけに絞れば輸出比率は80%に達し、その7割近くが米国向け[57]であった。全米を12地域に分け、各地域に現地業者との共同出資会社であるディストリビューターを1社ずつ置き、その下に約2,000社のディーラーを配する販売網[58]が、この伸びを支えた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [55]エプソンがパソコン開発に取り組み始めたのは1980年である
    • [56]1985年に海外向け製品としてIBM互換機を発売し、安い価格を武器に一時は米国市場で第5位のシェアを得た
  • 日経ビジネス 1985年8月5日号
    • [57]1984年度はプリンターを中心に1,570億円を売り上げ、うち65%が輸出、完成品だけに絞ると輸出比率は80%、仕向け地は米国向けが7割近くを占めた
    • [58]全米を12地域に分けて1地域に1社ディストリビューターを置き、その下に合わせて約2000社のディーラーを配した

1987年3月、エプソンは日本電気の『PC-9801』シリーズと互換性を持つ『PC-286モデル1、2、3』[59]を発表した。日本電気は東京地方裁判所へ製造販売差し止めの仮処分を申請し、エプソンは4月にこの3機種の製造と販売の中止を発表して『PC-286モデル0』を出荷した[60]。両社は同年11月に和解した[61]。モデル0の価格は35万7,000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製品が39万8,000円から43万3,000円であったから、5万円[62]以上安い。同年12月にはラップトップ型の『PC-286L』を日本電気に先駆けて[63]発売した。1989年6月に出した『PC-286 NOTE EXECUTIVE』はA4判で厚さ35ミリ、重量2.2キログラム、価格は45万8,000円[64]である。当時の携帯用パソコンは重さ9キロ前後が中心[65]であった。

  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
    • [59]1987年3月にエプソンが「PC-286モデル1,2,3」を発表し、日本電気が東京地裁に製造販売差し止めの仮処分を申請した
    • [60]1987年4月に「PC-286モデル1,2,3」の製造・販売の中止を発表し、「PC-286モデル0」を出荷した
    • [61]1987年11月にエプソンと日本電気は和解した
    • [62]最初の「PC-286モデル0」は35万7000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製品が39万8000円から43万3000円だったため5万円以上安かった
    • [63]1987年12月に98互換機のラップトップ型「PC-286L」を日本電気に先駆けて発売した
    • [64]1989年6月発売の「PC-286 NOTE EXECUTIVE」はA4判サイズ、厚さ35ミリ、重量2.2キログラムで、価格は45万8,000円だった
    • [65]当時の携帯用パソコンは重さ9キロ前後が中心だった

互換機は本家に対して価格か機能のどちらかで先行しなければ立ち[66]行かない。エプソンの互換機は発売1年目に6万台、次の年に12万台と伸びたが、その後は3万台、9万台と振るわ[67]なかった。同じ期間に日本電気は40%前後の伸びを続け、1990年5月には累計販売台数300万台[68]を突破した。1987年ごろ、パソコンに載せるMPUがインテル286からより処理能力の高い386へ移ろうという時期に、286搭載機が好調だったことがかえって移行を遅らせ、在庫の山を築いた[69]。当時パソコン事業を立ち上げた木村登志男氏は、経営判断のミスが積み重なり勝ち馬に乗れなかった[70]と認めた。

  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
    • [66]上新電機の藤原睦期常務は「互換機メーカーにとって、本家に優位に立つには価格か機能かどちらかで先行していないと難しい」と述べた
    • [67]エプソンの互換機は1年目6万台、次の年12万台、その後は3万台、9万台と鳴かず飛ばずだった
    • [68]日本電気は40%前後の伸びを続け、1990年5月に累計販売台数300万台を突破した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [69]1987年ごろMPUがインテル286から386へ移行する時期に状況を見誤り、286搭載機が好調だっただけに移行が遅れて在庫の山を築いた
    • [70]パソコン事業を立ち上げた木村登志男氏は「経営判断のミスが積み重なり、勝ち馬に乗れなかった」と述べた
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [55]エプソンがパソコン開発に取り組み始めたのは1980年である
    • [56]1985年に海外向け製品としてIBM互換機を発売し、安い価格を武器に一時は米国市場で第5位のシェアを得た
    • [69]1987年ごろMPUがインテル286から386へ移行する時期に状況を見誤り、286搭載機が好調だっただけに移行が遅れて在庫の山を築いた
    • [70]パソコン事業を立ち上げた木村登志男氏は「経営判断のミスが積み重なり、勝ち馬に乗れなかった」と述べた
  • 日経ビジネス 1985年8月5日号
    • [57]1984年度はプリンターを中心に1,570億円を売り上げ、うち65%が輸出、完成品だけに絞ると輸出比率は80%、仕向け地は米国向けが7割近くを占めた
    • [58]全米を12地域に分けて1地域に1社ディストリビューターを置き、その下に合わせて約2000社のディーラーを配した
  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
    • [59]1987年3月にエプソンが「PC-286モデル1,2,3」を発表し、日本電気が東京地裁に製造販売差し止めの仮処分を申請した
    • [60]1987年4月に「PC-286モデル1,2,3」の製造・販売の中止を発表し、「PC-286モデル0」を出荷した
    • [61]1987年11月にエプソンと日本電気は和解した
    • [62]最初の「PC-286モデル0」は35万7000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製品が39万8000円から43万3000円だったため5万円以上安かった
    • [63]1987年12月に98互換機のラップトップ型「PC-286L」を日本電気に先駆けて発売した
    • [64]1989年6月発売の「PC-286 NOTE EXECUTIVE」はA4判サイズ、厚さ35ミリ、重量2.2キログラムで、価格は45万8,000円だった
    • [65]当時の携帯用パソコンは重さ9キロ前後が中心だった
    • [66]上新電機の藤原睦期常務は「互換機メーカーにとって、本家に優位に立つには価格か機能かどちらかで先行していないと難しい」と述べた
    • [67]エプソンの互換機は1年目6万台、次の年12万台、その後は3万台、9万台と鳴かず飛ばずだった
    • [68]日本電気は40%前後の伸びを続け、1990年5月に累計販売台数300万台を突破した

規制の削減日程に先立つフロン全廃の決定

1988年末、中村恒也社長は1993年までにフロンの使用を止める[71]と決めた。1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程よりも早い目標[72]である。半導体や液晶の歩留まりは洗浄の確かさに支えられ、人体に無害で洗浄力の高いフロンは精密部品の現場に広く行き渡っ[73]ていた。1988年度の使用実績は1,400トンで[74]、内訳は眼鏡用レンズなどの光学部門が約4割、液晶パネルなどの表示体部門が2割、時計部品やディスクドライブ部品などの精密部品部門が2割を占める[75]。用途では水切り乾燥が62%、洗浄が30%[76]であった。

  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [71]1988年末、中村恒也社長自ら93年までの脱フロンを決定した
    • [72]1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程より早い目標だった
    • [73]半導体や液晶の歩留まりは洗浄の確かさに支えられ、人体に無害で洗浄力の高いフロンは精密部品の現場に広く行き渡っていた
    • [74]1988年度のフロン使用量は1400トンだった
    • [75]1988年度使用量の部門別内訳は光学部門が約4割、表示体部門が2割、精密部品部門が2割だった
    • [76]用途別内訳は水切り乾燥用62%、洗浄用30%、その他8%だった

フロンは万能な溶剤で、コストも製品原価に大きく反映するほどではなかったため、問題が持ち上がるまで全社でどれだけの量を使っているかさえ把握されてい[77]なかった。1988年8月に社内調査委員会『フロンレス推進委員会』が動き[78]、同年12月には生産技術本部内の専従組織『フロンレス推進センター』が長野県茅野事業所に置かれた。専従者はわずか6人である[79]。洗浄工程の要否をTQCの手法で点検して6%、水切り乾燥をスピンドライヤーへ切り替えて26%、蒸散防止と回収の徹底で18%を削り[80]、1989年末には月次の使用量が年換算で700トンとピークの半分になった[81]。1990年度中にはさらに前年度から半減させ、年間300トン台に持っていく計画[82]であった。

  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [77]フロン問題が持ち上がるまでセイコーエプソンの洗浄溶剤への関心は薄く、万能な溶剤でコスト的にも製品原価に大きく反映するほどではなかったので、全社でどれだけの量を使用しているかさえ把握していなかった
    • [78]1988年8月にフロン使用実態に関する社内調査委員会「フロンレス推進委員会」がスタートした
    • [79]1988年12月に生産技術本部内に専従組織「フロンレス推進センター」が長野県茅野事業所に設けられ、専従者は6人だった
    • [80]洗浄工程の要否をTQC手法で点検して6%、スピンドライヤーへの切り替えで26%、蒸散防止と回収の徹底で18%を削減した
    • [81]1989年末の月次ベース使用量を年換算すると700トンで、ピーク時の半分になった
    • [82]1990年度中にさらに使用量を前年度から半減し、年間使用量300トン台にする計画だった

現場の管理による削減はここで限界に達し、代替技術の確立と、200社ほどある外注企業への導入という難所が残った[83]。フロンレス洗浄装置は外注先の付加価値や生産性に直接は寄与せず、純水洗浄に必要な排水処理装置まで含めれば負担は重い[84]。推進センターは外部の機械メーカーと組んでできるだけ安価な洗浄機械の共同開発に取り組み[85]、自社の脱フロン技術を公開する道を選んだ。中村恒也社長は、地球規模の問題に関しては競争よりも協調が第一であり、本当の競争は製品開発で行うべきだと語った[86]。セイコーエプソンは1993年に全世界でのフロン全廃[87]を達成した。

  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [83]200社ほどある外注企業にどうフロンレス技術を導入させるかが残された課題だった
    • [84]純水洗浄には排水処理装置の併用が不可欠で、高額の新規投資を必要とした
    • [85]推進センターは外部の機械メーカーと組み、できるだけ安価な洗浄機械の共同開発に取り組んだ
    • [86]中村恒也社長は「こうした地球規模の問題に関しては、競争よりも協調第一。本当の競争は製品開発で行うべきだ」と述べた
  • セイコーエプソン「エネルギーとエプソン」(公式採用サイト)
    • [87]1993年に全世界でのフロン全廃を達成した
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [71]1988年末、中村恒也社長自ら93年までの脱フロンを決定した
    • [72]1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程より早い目標だった
    • [73]半導体や液晶の歩留まりは洗浄の確かさに支えられ、人体に無害で洗浄力の高いフロンは精密部品の現場に広く行き渡っていた
    • [74]1988年度のフロン使用量は1400トンだった
    • [75]1988年度使用量の部門別内訳は光学部門が約4割、表示体部門が2割、精密部品部門が2割だった
    • [76]用途別内訳は水切り乾燥用62%、洗浄用30%、その他8%だった
    • [77]フロン問題が持ち上がるまでセイコーエプソンの洗浄溶剤への関心は薄く、万能な溶剤でコスト的にも製品原価に大きく反映するほどではなかったので、全社でどれだけの量を使用しているかさえ把握していなかった
    • [78]1988年8月にフロン使用実態に関する社内調査委員会「フロンレス推進委員会」がスタートした
    • [79]1988年12月に生産技術本部内に専従組織「フロンレス推進センター」が長野県茅野事業所に設けられ、専従者は6人だった
    • [80]洗浄工程の要否をTQC手法で点検して6%、スピンドライヤーへの切り替えで26%、蒸散防止と回収の徹底で18%を削減した
    • [81]1989年末の月次ベース使用量を年換算すると700トンで、ピーク時の半分になった
    • [82]1990年度中にさらに使用量を前年度から半減し、年間使用量300トン台にする計画だった
    • [83]200社ほどある外注企業にどうフロンレス技術を導入させるかが残された課題だった
    • [84]純水洗浄には排水処理装置の併用が不可欠で、高額の新規投資を必要とした
    • [85]推進センターは外部の機械メーカーと組み、できるだけ安価な洗浄機械の共同開発に取り組んだ
    • [86]中村恒也社長は「こうした地球規模の問題に関しては、競争よりも協調第一。本当の競争は製品開発で行うべきだ」と述べた
  • セイコーエプソン「エネルギーとエプソン」(公式採用サイト)
    • [87]1993年に全世界でのフロン全廃を達成した

1990年〜 初の減収減益からインクジェットによる立て直しへ(1990〜2002)

セイコーエプソンの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1990年 規制の削減日程に先立つフロン全廃の決定と、外注企業を含む洗浄工程の切り替え 自社の工場を直せば済むのか——200社の外注先にフロンレス洗浄装置を入れさせる費用は誰が負うのか
  2. 1990年 地域統括会社Epson Europe設立
  3. 1993年 エプソンダイレクト設立
  4. 1994年 P.T. Indonesia Epson Industry設立
  5. 1996年 Suzhou Epson Quartz Devices設立
  6. 1998年 中国地域統括会社Epson China設立

分社制の廃止とパソコン部門の半減

1991年3月期、セイコーエプソンは初の減収減益となった[88]。単体の売上高は前年度比3%減の4,569億円、経常利益は201億円[89]で、前期の1990年3月期に記録した過去最高の261億円から落ち込んだ[90]。情報機器事業の売上高は1989年度の2,380億円から1990年度に2,060億円[91]へ減った。安川英昭社長は後年、かつて分社化していたことが大失敗であったと述べ、分社した各社の社長の力の差によって業績が非常によいところとルーズなところに分かれてしまった[92]と振り返った。会社は1990年に分社制をすべて廃止し、1991年にもとの事業部制へ戻した[93]

  • 日経ビジネス 1992年11月9日号
    • [88]「エプソンは90年度に初の減収減益となり」と記された
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [89]1990年度の売上高は前年度比3%減の4,569億円、経常利益は201億円だった(同記事は経常利益を同40%減と記す)
    • [91]情報機器事業は1989年度の売上高2,380億円から1990年度は2,060億円に落ち込んだ
  • 日経ビジネス 1992年3月30日号
    • [90]90年3月期に261億円と過去最高の経常利益を記録した後、業績が低迷した
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号
    • [92]安川英昭社長は「実は当社はかつては分社化していたのですが、この分社化が大失敗でした。分社した各社長の力の差によって、業績が非常によいところとルーズなところに分かれてしまったのです」と述べた
    • [93]1990年に分社制をすべて廃止し、1991年にもとの事業部制に戻した

1991年1月にはコンピューター、プリンター、周辺機器の3事業本部を束ねる情報機器システム事業統括を新設し[94]、営業畑出身の土橋光広専務を充てて、情報機器事業に関する決裁を一人に集めた[95]。7月には副本部長や副事業部長、次長など権限のはっきりしない中間的な役職を原則として廃止した[96]。諏訪周辺に22カ所へ分散していた倉庫は、建屋の費用だけで25億円を投じた長野県塩尻市の広丘事業所[97]へ集約した。同年6月、安川英昭氏が中村恒也社長の後を継いで社長[98]に就任した。11月には土橋光廣専務がエプソン販売の社長へ移り、製造と販売の双方を土橋氏が取り[99]仕切った。

  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [94]1991年1月、コンピューター、プリンター、周辺機器の3事業本部を掌握する「情報機器システム事業統括」を新設した
    • [95]情報機器システム事業統括には営業畑出身の土橋光広専務が起用され、情報機器事業に関する限り一人で決裁できる体制とした
    • [96]1991年7月下旬の全社的組織改革で、副本部長や副事業部長、次長など権限のはっきりしない中間的な役職を原則廃止して組織を簡素化した
    • [97]諏訪周辺に22カ所分散していた倉庫を集約するため、建屋費用だけで25億円を投じ、長野県塩尻市の広丘事業所に在庫管理のためのEBLセンターを開設した
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [98]安川英昭氏は1991年6月に社長に就任し、前社長の中村恒也氏は副会長となった
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [99]エプソン販売は1991年11月20日付でセイコーエプソンの土橋光広専務を社長に迎え、土橋氏が製販ともにエプソングループの情報機器事業を取り仕切る形になった

1992年3月11日の労使交渉の席で、安川英昭社長は会社をめぐる環境が極めて厳しく、このままでは来期に11億円の赤字が出そうだと述べた[100]。赤字になれば創業以来初めてで、直接の原因は国内外の経営環境の悪化で収益源のパソコン事業が3割近く減収したことにあった[101]。1992年3月期の単体売上高は4,707億円、経常利益は58億円で、前期の201億円の3割[102]に満たない。安川英昭社長は前年にパソコン部門の陣容へ半減指令を出しており[103]、開発や設計など500人体制だったコンピュータ・システム事業部から200人をプリンターなど成長性の高い他事業部へ移して300人という枠を決め[104]、事業部内の7つの部を3つに統合した[105]。1991年度の国内パソコン出荷台数は前年度比2割減の約23万台で、パソコン事業は赤字[106]であった。

  • 日経ビジネス 1992年3月30日号
    • [100]安川英昭社長は3月11日の労使交渉の席上「当社をめぐる環境は極めて厳しい。このままでは来期に11億円の赤字が出そうだ」と述べた
    • [101]赤字決算になれば創業以来初めてで、直接の原因は国内外の経営環境の悪化で収益源のパソコン事業が3割近く減収したことだった
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号
    • [102]1992年3月期は売上高が前期比3%増の4,707億円、経常利益は58億円で前期の201億円から減少した
    • [103]「昨年、パソコン部門の陣容の『半減指令』を出したのは安川社長」と記され、指令は1991年に出された
    • [104]開発・設計など500人体制だったコンピュータ・システム事業部から200人をプリンターなど成長性が高い他事業部に移し、300人という枠を決めた
    • [105]事業部内の部を技術部や品質保証部など七つから三つに統合した
    • [106]1991年度の国内パソコン出荷台数は前年度比2割減の約23万台で、パソコン事業は赤字だった
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号
    • [88]「エプソンは90年度に初の減収減益となり」と記された
    • [102]1992年3月期は売上高が前期比3%増の4,707億円、経常利益は58億円で前期の201億円から減少した
    • [103]「昨年、パソコン部門の陣容の『半減指令』を出したのは安川社長」と記され、指令は1991年に出された
    • [104]開発・設計など500人体制だったコンピュータ・システム事業部から200人をプリンターなど成長性が高い他事業部に移し、300人という枠を決めた
    • [105]事業部内の部を技術部や品質保証部など七つから三つに統合した
    • [106]1991年度の国内パソコン出荷台数は前年度比2割減の約23万台で、パソコン事業は赤字だった
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
    • [89]1990年度の売上高は前年度比3%減の4,569億円、経常利益は201億円だった(同記事は経常利益を同40%減と記す)
    • [91]情報機器事業は1989年度の売上高2,380億円から1990年度は2,060億円に落ち込んだ
    • [94]1991年1月、コンピューター、プリンター、周辺機器の3事業本部を掌握する「情報機器システム事業統括」を新設した
    • [95]情報機器システム事業統括には営業畑出身の土橋光広専務が起用され、情報機器事業に関する限り一人で決裁できる体制とした
    • [96]1991年7月下旬の全社的組織改革で、副本部長や副事業部長、次長など権限のはっきりしない中間的な役職を原則廃止して組織を簡素化した
    • [97]諏訪周辺に22カ所分散していた倉庫を集約するため、建屋費用だけで25億円を投じ、長野県塩尻市の広丘事業所に在庫管理のためのEBLセンターを開設した
  • 日経ビジネス 1992年3月30日号
    • [90]90年3月期に261億円と過去最高の経常利益を記録した後、業績が低迷した
    • [100]安川英昭社長は3月11日の労使交渉の席上「当社をめぐる環境は極めて厳しい。このままでは来期に11億円の赤字が出そうだ」と述べた
    • [101]赤字決算になれば創業以来初めてで、直接の原因は国内外の経営環境の悪化で収益源のパソコン事業が3割近く減収したことだった
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号
    • [92]安川英昭社長は「実は当社はかつては分社化していたのですが、この分社化が大失敗でした。分社した各社長の力の差によって、業績が非常によいところとルーズなところに分かれてしまったのです」と述べた
    • [93]1990年に分社制をすべて廃止し、1991年にもとの事業部制に戻した
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [98]安川英昭氏は1991年6月に社長に就任し、前社長の中村恒也氏は副会長となった
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [99]エプソン販売は1991年11月20日付でセイコーエプソンの土橋光広専務を社長に迎え、土橋氏が製販ともにエプソングループの情報機器事業を取り仕切る形になった

ピエゾ方式インクジェットによる復調

インクジェットプリンターで、キヤノンはノズルの吹き出し口に取り付けたヒーターでインクを熱し、気泡にして噴射させる方式を採る[107]。エプソンはこの特許に触れないよう、電気を加えると拡張するピエゾ素子でインクに圧力をかけて噴射させる方式を開発した[108]。熱でインクが変質する心配がないため、インクの改良を進めやすいという性質[109]が伴った。1994年からカラー製品を開発し、1995年以降は消費者向けに『カラリオ』というブランド名で売り込[110]んでいる。1995年末の国内シェアはキヤノンと40%強で拮抗し、米ヒューレット・パッカードが約15%[111]で続いた。解像度は300〜600dpiが主流のなかで、中級機にいち早く720dpiを載せ、数年のうちに国内市場で首位[112]に立った。

  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [107]キヤノンはノズルの吹き出し口に取り付けたヒーターでインクを熱することで気泡にして噴射させる方式を採る
    • [108]エプソンはキヤノン方式の特許に触れないように、電気を加えると拡張するピエゾ素子によってインクに圧力をかけて噴射させる方式を開発した
    • [109]エプソン方式は熱でインクが変質する心配がないため、インクの改良が行いやすい
    • [111]1995年時点の国内シェアはキヤノンとセイコーエプソンが40%強で拮抗し、米ヒューレット・パッカードがOEM供給と自社ブランド販売を合わせて約15%で続いた
    • [112]300〜600dpiが主流の中で、エプソンは中級機でいち早く720dpiを実現し、消費者向けとオフィス向けを合わせたインクジェットプリンターの国内市場でシェアトップに躍り出た
  • 日経ビジネス 1998年3月30日号
    • [110]1994年からカラー製品を開発し、95年以降は消費者向けに「カラリオ」というブランド名で売り込んだ

1996年末に写真並みの品質で印刷できることをうたって発売した『PM-700C』[113]は、木村登志男専務がエプソン史上で空前の大ヒット商品と呼ぶ売れ行きとなり、後継機を含めてシェアは55%に達した[114]。1997年以降、国内のプリンター市場はエプソンの独り勝[115]ちが続く。業績も戻り、1997年度の単体売上高は前期比30%増の8,151億円、経常利益は同338%増の514億円で最高益を更新した[116]。1999年の年末商戦では10億分の1ミリリットルを指すピコリットルを単位にインク滴の細かさを競い[117]、エプソンとキヤノンが4ピコリットル、日本ヒューレット・パッカードが5ピコリットルの新製品を投入した[118]

  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [113]1996年末にセイコーエプソンが写真並みの品質で印刷できることをうたった「PM-700C」を発売した
    • [115]国内のプリンター市場は97年以降セイコーエプソンの独り勝ち状態が続いた
    • [117]ピコリットルとは10億分の1ミリリットルという容量を指す言葉で、インクジェットプリンターの画質を左右するインク滴の大きさを表す
    • [118]1999年はセイコーエプソンとキヤノンが4pl、日本HPが5plで印刷できる新製品を投入した
  • 日経ビジネス 1998年3月30日号
    • [114]木村登志男・セイコーエプソン専務は同機を「エプソン史上、空前の大ヒット商品」と呼び、後継機を含めてシェアは55%に達したと述べた
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号
    • [116]1997年度は売上高8,151億円(前期比30%増)、経常利益514億円(同338%増)と最高益を更新した

安川英昭社長は、利益が出なければ潤沢な試験研究も十分な投資もできないと管理者層に説き、最初は守銭奴ではないかと言われたと振り返った[119]。事業部長は業績の良し悪しにかかわらず原則5年で異動させ、他の事業部にどれだけ貢献したかを評価[120]に加えた。1993年には日本電気の98互換機による国内パソコン事業から撤退し[121]、同年11月にIBM互換パソコンの直販会社エプソンダイレクトを長野県松本市に設けた[122]。1995年からはパソコン事業を子会社のエプソン販売へ移し、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブなどの記録媒体事業から[123]撤退した。1997年末には、商品企画・設計開発・製造の順に仕上げる手順を改め、企画と設計開発と販売を一括りにしてオフィスや消費者など対象市場別に分ける事業センター制へ移した[124]。1998年3月末には59万8,000円のカラーレーザープリンター『LP-8000C』[125]を発売した。

  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号
    • [119]安川英昭社長は「利益が出ないと潤沢な試験研究や十分な投資もできない」と管理者層に説き、「最初は『守銭奴』ではないか、と言われましたよ」と述べた
    • [120]業績が悪いから替えるのではなく原則として5年たったら事業部長を定期的に異動させ、他の事業部にどれだけ貢献したかでも評価ポイントを与えるようにした
  • 日経ビジネス 2000年1月24日号
    • [121]93年にいったんパソコン事業から撤退した
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [122]1993年11月に国内販売会社エプソンダイレクト株式会社(長野県松本市、IBM互換パソコンの直販)を設立した
  • 日経ビジネス 1998年3月30日号
    • [123]エプソンは95年からパソコン事業を大幅に縮小して子会社のエプソン販売に移管し、フロッピーディスクドライブ、ハードディスクドライブなどの記録媒体事業からも撤退した
    • [124]1997年末に、商品企画・設計開発・製造の順に仕上げる手順を改め、企画、設計・開発、販売をひとくくりにし、オフィス、コンシューマーなど対象市場別に分けた事業センター制に変更した
    • [125]カラーレーザープリンター「LP-8000C」を1998年3月末に59万8,000円で発売した
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
    • [107]キヤノンはノズルの吹き出し口に取り付けたヒーターでインクを熱することで気泡にして噴射させる方式を採る
    • [108]エプソンはキヤノン方式の特許に触れないように、電気を加えると拡張するピエゾ素子によってインクに圧力をかけて噴射させる方式を開発した
    • [109]エプソン方式は熱でインクが変質する心配がないため、インクの改良が行いやすい
    • [111]1995年時点の国内シェアはキヤノンとセイコーエプソンが40%強で拮抗し、米ヒューレット・パッカードがOEM供給と自社ブランド販売を合わせて約15%で続いた
    • [112]300〜600dpiが主流の中で、エプソンは中級機でいち早く720dpiを実現し、消費者向けとオフィス向けを合わせたインクジェットプリンターの国内市場でシェアトップに躍り出た
  • 日経ビジネス 1998年3月30日号
    • [110]1994年からカラー製品を開発し、95年以降は消費者向けに「カラリオ」というブランド名で売り込んだ
    • [114]木村登志男・セイコーエプソン専務は同機を「エプソン史上、空前の大ヒット商品」と呼び、後継機を含めてシェアは55%に達したと述べた
    • [123]エプソンは95年からパソコン事業を大幅に縮小して子会社のエプソン販売に移管し、フロッピーディスクドライブ、ハードディスクドライブなどの記録媒体事業からも撤退した
    • [124]1997年末に、商品企画・設計開発・製造の順に仕上げる手順を改め、企画、設計・開発、販売をひとくくりにし、オフィス、コンシューマーなど対象市場別に分けた事業センター制に変更した
    • [125]カラーレーザープリンター「LP-8000C」を1998年3月末に59万8,000円で発売した
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [113]1996年末にセイコーエプソンが写真並みの品質で印刷できることをうたった「PM-700C」を発売した
    • [115]国内のプリンター市場は97年以降セイコーエプソンの独り勝ち状態が続いた
    • [117]ピコリットルとは10億分の1ミリリットルという容量を指す言葉で、インクジェットプリンターの画質を左右するインク滴の大きさを表す
    • [118]1999年はセイコーエプソンとキヤノンが4pl、日本HPが5plで印刷できる新製品を投入した
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号
    • [116]1997年度は売上高8,151億円(前期比30%増)、経常利益514億円(同338%増)と最高益を更新した
    • [119]安川英昭社長は「利益が出ないと潤沢な試験研究や十分な投資もできない」と管理者層に説き、「最初は『守銭奴』ではないか、と言われましたよ」と述べた
    • [120]業績が悪いから替えるのではなく原則として5年たったら事業部長を定期的に異動させ、他の事業部にどれだけ貢献したかでも評価ポイントを与えるようにした
  • 日経ビジネス 2000年1月24日号
    • [121]93年にいったんパソコン事業から撤退した
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [122]1993年11月に国内販売会社エプソンダイレクト株式会社(長野県松本市、IBM互換パソコンの直販)を設立した

携帯電話向けデバイスへの傾斜とITバブルの崩壊

1990年代に入って小型液晶パネルの用途はポケベルとパチンコ台向けにとどまり、ノートパソコン用の白黒大型液晶では1993年に大赤字[126]を出した。そこへ現れたのがノキアやエリクソンなど新興の携帯電話メーカーで[127]、1994年、エプソンは複数あった液晶の事業部を統合して携帯電話向け製品に開発の照準を絞った[128]。以後は設備投資額の半分以上、累計にして約2,000億円をこの分野へ振り向けた[129]。ドライバーICは自社の液晶パネルと相性を合わせて開発し、海外メーカーに採用されたことで、他社の液晶パネルの側がエプソンのドライバーICに相性を合わせる[130]ほどになった。1999年度のデバイス事業の売上高は前年度比約30%増で2,300億円に迫る見込みとなり[131]、携帯電話用のSTN型液晶パネル、パネル用のドライバーIC、時刻表示用の水晶振動子、プロジェクター用の高温ポリシリコン液晶パネルの4つで世界首位を取った[132]

  • 日経ビジネス 2000年1月24日号
    • [126]90年代に入り小型液晶の用途はポケベルとパチンコ台向けで、辛うじて踏みとどまっていたノートパソコン用の白黒大型液晶で93年に大赤字を出した
    • [127]デバイス開発者たちの前に現れた救世主が、ノキア、エリクソンなど新興の携帯電話メーカーだった
    • [128]94年、エプソンは複数あった液晶の事業部を統合し、携帯電話向け製品に開発の照準を絞った
    • [129]エプソンは94年以降、設備投資額の半分以上、累計にして約2,000億円をデバイス事業に振り向けてきた
    • [130]ドライバーICも自社の液晶パネルと相性を合わせて開発し、海外メーカーに採用されたことでいち早くディファクト・スタンダードの地位を確立、やがて他社の液晶パネルもエプソンのドライバーICに相性を合わせて開発せざるを得ないほどになった
    • [131]99年度のデバイス事業の売上高は前年度に比べ約30%伸び、2,300億円に迫る見込みだった
    • [132]エプソンは携帯電話用のSTN型液晶パネル、パネル用のドライバーIC、時刻表示用の水晶振動子、プロジェクター用の高温ポリシリコン液晶パネルの4つで世界トップシェアを持っていた

1999年3月期の単独売上高は8,247億円、連結では約1兆500億円、単独の経常利益は523億円で、売上規模なら石川島播磨重工業、利益額では京セラと並ぶ会社が非公開のまま[133]であった。海外での生産と販売は連結売上高の7割を超え、インクジェットプリンターをてこに年1,000億円以上の設備投資を続け[134]ていた。2001年の東証一部上場が有力とみられ、時価総額は1兆円を上回る[135]とも言われた。2001年4月、草間三郎氏が社長に就き、安川英昭氏は会長[136]へ退いた。ITバブルの崩壊で携帯電話向けは急に失速し、2001年度の電子デバイス部門は23%の減収となる[137]。ノキアへ納めた携帯電話向けの液晶パネルからは大量の不良品が見つかり、草間三郎社長は即座にフィンランド[138]へ飛んだ。同年秋に予定していた上場は市況の悪化で延期され[139]、2002年3月期の連結は経常利益193億円に対し当期純損失184億円に沈んだ[140]

  • 日経ビジネス 1999年9月20日号
    • [133]単独売上高は1999年3月期で8,247億円、連結ベースで1兆500億円、単独の経常利益は523億円で、売り上げ規模なら石川島播磨重工業、利益額では京セラと肩を並べた
    • [134]海外での生産・販売がすでに連結売上高の7割を上回り、インクジェットプリンター事業をてこに年間1,000億円以上の設備投資を続けていた
    • [135]2001年の東証1部上場が有力で、上場時の時価総額は1兆円を上回るとも言われた
  • 日経ビジネス 2001年6月11日号
    • [136]草間三郎氏は2001年4月に社長へ就任し、安川英昭氏は会長となった
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [137]エプソンの2001年度の電子デバイス部門は23%の減収だった
  • 日経ビジネス 2003年7月28日号
    • [138]2001年度にノキアへ納入した携帯電話向け液晶パネルで大量の不良品が見つかり、草間社長は即座にフィンランドのノキア本社へ飛んだ
  • 日経ビジネス 2001年12月24日・31日号
    • [139]2001年秋に予定していた株式上場を延期し、草間社長は理由として「今は市況が悪いですからね」と述べた
  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号
    • [140]2002年3月期の連結は経常利益193億円に対し当期純損失184億円だった

草間三郎社長は事業の残し方を購買の順位で説いた。大手企業は少なくとも3社購買、アメリカの会社は5社購買が普通で、成長にブレーキがかかると5社を3社にするため、1番手2番手につけていれば数はあまり減らないが、4番手5番手は完全に切られてゼ[141]ロになる。低温ポリシリコン液晶では自社が先行してソニーや三洋電機から特許料を得ていたが、追いついた会社と差がついていないとして着手を認め[142]なかった。2002年10月には、2000年に米テキサス・インスツルメンツから買収した液晶周辺ICの主力生産工場エプソン鳩ケ谷[143]を閉鎖した。2001年度は液晶を自社の完成品へ載せるシャープの方が電子デバイス全体で27%減とエプソンより落ち込みが大きかった[144]が、2002年度上期はシャープが18%の増収を確保する一方、エプソンは13%の減収で、全社でも単独29億円の経常赤字となった[145]

  • 日経ビジネス 2001年12月24日・31日号
    • [141]草間三郎社長は「大手企業は少なくとも3社購買、アメリカの会社は5社購買が普通なんです。成長にブレーキがかかると5社を3社にする。1番、2番手につけていれば、数はあまり減らない」「4番手、5番手は完全に切られてゼロになっています」と述べた
    • [142]低温ポリシリコン液晶パネルはもともとエプソンが圧倒的に先行し、ソニーと三洋電機から相当の特許料を受け取っていたが、草間社長は「後から追いついた会社と差がついていない」として担当者に着手させなかった
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [143]エプソンは2002年10月、2000年に米テキサス・インスツルメンツから買収したばかりの液晶周辺ICの主力生産工場エプソン鳩ケ谷(埼玉県鳩ケ谷市)を閉鎖した
    • [144]シャープの2001年度の液晶の売上高は前年比30%の減少で、電子デバイス全体でもエプソンの同時期の減収幅23%より大きく27%落ち込んでいた
    • [145]2002年度上期はシャープが電子デバイス事業全体で18%の増収を確保した一方、エプソンは13%の減収となり、全社でも単独ベースで29億円の経常赤字に転落した
  • 日経ビジネス 2000年1月24日号
    • [126]90年代に入り小型液晶の用途はポケベルとパチンコ台向けで、辛うじて踏みとどまっていたノートパソコン用の白黒大型液晶で93年に大赤字を出した
    • [127]デバイス開発者たちの前に現れた救世主が、ノキア、エリクソンなど新興の携帯電話メーカーだった
    • [128]94年、エプソンは複数あった液晶の事業部を統合し、携帯電話向け製品に開発の照準を絞った
    • [129]エプソンは94年以降、設備投資額の半分以上、累計にして約2,000億円をデバイス事業に振り向けてきた
    • [130]ドライバーICも自社の液晶パネルと相性を合わせて開発し、海外メーカーに採用されたことでいち早くディファクト・スタンダードの地位を確立、やがて他社の液晶パネルもエプソンのドライバーICに相性を合わせて開発せざるを得ないほどになった
    • [131]99年度のデバイス事業の売上高は前年度に比べ約30%伸び、2,300億円に迫る見込みだった
    • [132]エプソンは携帯電話用のSTN型液晶パネル、パネル用のドライバーIC、時刻表示用の水晶振動子、プロジェクター用の高温ポリシリコン液晶パネルの4つで世界トップシェアを持っていた
  • 日経ビジネス 1999年9月20日号
    • [133]単独売上高は1999年3月期で8,247億円、連結ベースで1兆500億円、単独の経常利益は523億円で、売り上げ規模なら石川島播磨重工業、利益額では京セラと肩を並べた
    • [134]海外での生産・販売がすでに連結売上高の7割を上回り、インクジェットプリンター事業をてこに年間1,000億円以上の設備投資を続けていた
    • [135]2001年の東証1部上場が有力で、上場時の時価総額は1兆円を上回るとも言われた
  • 日経ビジネス 2001年6月11日号
    • [136]草間三郎氏は2001年4月に社長へ就任し、安川英昭氏は会長となった
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [137]エプソンの2001年度の電子デバイス部門は23%の減収だった
    • [143]エプソンは2002年10月、2000年に米テキサス・インスツルメンツから買収したばかりの液晶周辺ICの主力生産工場エプソン鳩ケ谷(埼玉県鳩ケ谷市)を閉鎖した
    • [144]シャープの2001年度の液晶の売上高は前年比30%の減少で、電子デバイス全体でもエプソンの同時期の減収幅23%より大きく27%落ち込んでいた
    • [145]2002年度上期はシャープが電子デバイス事業全体で18%の増収を確保した一方、エプソンは13%の減収となり、全社でも単独ベースで29億円の経常赤字に転落した
  • 日経ビジネス 2003年7月28日号
    • [138]2001年度にノキアへ納入した携帯電話向け液晶パネルで大量の不良品が見つかり、草間社長は即座にフィンランドのノキア本社へ飛んだ
  • 日経ビジネス 2001年12月24日・31日号
    • [139]2001年秋に予定していた株式上場を延期し、草間社長は理由として「今は市況が悪いですからね」と述べた
    • [141]草間三郎社長は「大手企業は少なくとも3社購買、アメリカの会社は5社購買が普通なんです。成長にブレーキがかかると5社を3社にする。1番、2番手につけていれば、数はあまり減らない」「4番手、5番手は完全に切られてゼロになっています」と述べた
    • [142]低温ポリシリコン液晶パネルはもともとエプソンが圧倒的に先行し、ソニーと三洋電機から相当の特許料を受け取っていたが、草間社長は「後から追いついた会社と差がついていない」として担当者に着手させなかった
  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号
    • [140]2002年3月期の連結は経常利益193億円に対し当期純損失184億円だった

2003年〜 上場とデバイス事業の清算、プリンティング一本への集約(2003〜2024)

セイコーエプソンの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2003年 電子デバイス事業の縮小と、中小型液晶ディスプレイ事業資産の譲渡 世界で1位になれる事業だけを残すのか、部品と完成品の両輪を保つのか——8年をかけた電子デバイスの畳み方
  2. 2003年 東京証券取引所第一部への株式上場 銀行借り入れと内部資金で足りるのか——服部一族が6割を握る非上場企業が自前の資本調達に移るまで
  3. 2004年 液晶ディスプレイ事業を三洋エプソンイメージングデバイスとして分社
  4. 2008年 社長交代(花岡清二→碓井稔)
  5. 2009年 営業赤字▲16億円・純損失1,113億円
  6. 2010年 中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡
  7. 2024年 初の大型買収——米Fiery社の子会社化とソフトウェアへの投資 ハードで勝ってきた会社がソフトを買う——事務機に偏った事業構造を、上場来最大の買収で組み替えられるか

東証一部上場と、切れなかった電子デバイス

2003年1月、草間三郎社長就任後初の中期経営計画『SE07』を社内[146]に発表した。草間三郎社長はこれをデバイス戦略の180度の転換と呼び、これからはコア技術に忠実に製品を作る、落下傘型の事業はやらないと語った[147]。電子デバイス事業は、各種プリンターやビデオプロジェクター、プロジェクションテレビといった自社の完成品を生み、その市場競争力を高めるための役へ置き直され[148]、基幹デバイスにならないものは縮小・撤退の対象となった[149]。同年6月24日、セイコーエプソンは東京証券取引所第一部へ株式を上場した。公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値をつけた[150]。幹事証券が3週間かけて回った国内外150の機関投資家は、ほぼ全員[151]が参加した。

  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [146]「今年1月末、エプソンは草間社長就任後初となる中期経営計画『SE07』を社内向けに発表する」と2003年1月20日号が報じた
    • [147]草間社長は自ら「デバイス戦略の180度の転換」と表現し、「これからは、コア(中核)技術に忠実に製品を作る。落下傘型の事業はやらない」と述べた
    • [148]電子デバイス事業は、インクジェットやレーザーなどの各種プリンター、ビデオプロジェクター、プロジェクションテレビなどエプソンが独自の強みを持つ「完成品」を生み出し、その市場競争力を高めるためのサポートを主務とすることになった
    • [149]既存の完成品の競争力を高めたり全く新しい独自の製品開発につながったりといった「基幹デバイス」になるもの以外は縮小・撤退するのが草間社長の結論だった
  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号
    • [150]2003年6月24日、セイコーエプソンは東証一部に上場し、公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値をつけた
    • [151]日興シティグループ証券の林太郎エクイティ本部マネジングディレクターは「三週間かけて国内外一五〇の機関投資家を回ったが、ほぼ全員が参加した」と述べた

上場を視野に入れたのは、安川英昭氏が社長に就任した1991年[152]である。話が最初に持ち上がったのは1987年で、この年にグループ総帥の服部謙太郎氏とエプソン社長だった服部一郎氏が相次いで他界し、立ち消え[153]となっていた。上場時点の営業利益率は、2002年度で3.7%[154]であった。プリンターで競合するキヤノンが2003年度の第1四半期に16%を上げていた[155]のに対し、草間三郎社長は現状は最盛期の6割の回復にすぎないと述べ、2007年度に営業利益率7〜10%、2000年度の営業利益1,041億円の水準へ戻すことを掲げた[156]。2004年、エプソンは低温ポリシリコンTFT液晶やデジタルカメラ向けに強みを持つ三洋電機と自社の中小型液晶部門を統合し、事業規模を約3,600億円ま[157]で広げた。2005年4月、花岡清二氏が社長に就任し、草間三郎氏は会長[158]へ移った。

  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号
    • [152]公開を視野に入れたのは安川英昭会長が社長に就任した1991年のことで、草間社長も「1991年、前社長の安川が社長に就任した時に、上場の目標を掲げました」と述べた
    • [154]エプソンの営業利益率は02年度3.7%で、03年度は4.3%への改善を見込んでいた
    • [155]プリンタで競合のキヤノンは03年度の第1四半期に営業利益率16%を上げていた
    • [156]草間社長は「現状は最盛期の六割の回復にすぎない」「〇七年度には営業利益率七〜一〇%を目指す。二〇〇〇年度の営業利益一〇四一億円の水準に戻したい」と述べた
  • 日経ビジネス 1999年9月20日号
    • [153]最初にセイコーエプソンの上場が持ち上がったのは1987年で、この年にグループ総帥の服部謙太郎氏とエプソン社長だった服部一郎氏が相次いで他界し、上場話は立ち消えとなった
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号
    • [157]中小型液晶を有望事業と見定めたエプソンは04年、高性能の低温ポリシリコンTFT液晶やデジカメ向けに強みを持つ三洋電機と自社の中小型液晶部門を統合し、事業規模を約3,600億円まで拡大させた
  • 週刊東洋経済 2005年4月23日号
    • [158]花岡清二氏は2005年4月に代表取締役社長へ就任し、草間三郎氏は会長となった

統合の直後にあたる2005年と2006年、中小型液晶は年率2割を超える価格下落に見[159]舞われた。エプソンの中小型液晶の8割は携帯電話向けで、単価は1年で約30%下がり、期待した高価格製品の売れ行きも想定を下回って工場の稼働率[160]が落ちた。2006年3月期は1年間に4度の業績予想の下方修正を出し、近年5%程度を保ってきた営業利益率は1.7%[161]に急落した。半導体事業を中心に約450億円のリストラ損失を計上し、当期純損失は179億[162]円となる。花岡清二社長は、1年間に4度の業績下方修正はただただ自分の不徳の致すところだ[163]と述べた。2006年3月には財務全般を取り仕切ってきた木村登志男副社長らが辞任し[164]、2008年6月には碓井稔氏が社長に就いた[165]

  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号
    • [159]統合の直後の05年と06年、中小型液晶は年率2割超の価格下落に見舞われた
    • [160]エプソンの中小型液晶の8割は携帯電話向けで、液晶の単価はこの1年間で約30%下落し、期待した高価格製品の売れ行きが想定を下回って工場の稼働率が低下した
    • [161]2006年3月期にエプソンは1年間で4度も業績予想を下方修正し、近年5%程度を保ってきた営業利益率は1.7%に急落した
    • [162]半導体事業を中心に約450億円のリストラ損失を計上し、約180億円の最終赤字に転落した(有報の連結当期純損失は179億円)
    • [164]財務全般を取り仕切ってきた木村登志男副社長らが2006年3月に辞任した
  • 週刊東洋経済 2006年4月29日・5月6日合併号
    • [163]花岡清二社長は「1年間に4度の業績下方修正は、ただただ私の不徳の致すところ」と述べた
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [165]碓井稔氏は1979年に信州精器(現セイコーエプソン)へ入社し、研究開発本部長などを経て2008年から社長を務めた
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [146]「今年1月末、エプソンは草間社長就任後初となる中期経営計画『SE07』を社内向けに発表する」と2003年1月20日号が報じた
    • [147]草間社長は自ら「デバイス戦略の180度の転換」と表現し、「これからは、コア(中核)技術に忠実に製品を作る。落下傘型の事業はやらない」と述べた
    • [148]電子デバイス事業は、インクジェットやレーザーなどの各種プリンター、ビデオプロジェクター、プロジェクションテレビなどエプソンが独自の強みを持つ「完成品」を生み出し、その市場競争力を高めるためのサポートを主務とすることになった
    • [149]既存の完成品の競争力を高めたり全く新しい独自の製品開発につながったりといった「基幹デバイス」になるもの以外は縮小・撤退するのが草間社長の結論だった
  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号
    • [150]2003年6月24日、セイコーエプソンは東証一部に上場し、公募価格2,600円を大幅に上回る3,690円の初値をつけた
    • [151]日興シティグループ証券の林太郎エクイティ本部マネジングディレクターは「三週間かけて国内外一五〇の機関投資家を回ったが、ほぼ全員が参加した」と述べた
    • [152]公開を視野に入れたのは安川英昭会長が社長に就任した1991年のことで、草間社長も「1991年、前社長の安川が社長に就任した時に、上場の目標を掲げました」と述べた
    • [154]エプソンの営業利益率は02年度3.7%で、03年度は4.3%への改善を見込んでいた
    • [155]プリンタで競合のキヤノンは03年度の第1四半期に営業利益率16%を上げていた
    • [156]草間社長は「現状は最盛期の六割の回復にすぎない」「〇七年度には営業利益率七〜一〇%を目指す。二〇〇〇年度の営業利益一〇四一億円の水準に戻したい」と述べた
  • 日経ビジネス 1999年9月20日号
    • [153]最初にセイコーエプソンの上場が持ち上がったのは1987年で、この年にグループ総帥の服部謙太郎氏とエプソン社長だった服部一郎氏が相次いで他界し、上場話は立ち消えとなった
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号
    • [157]中小型液晶を有望事業と見定めたエプソンは04年、高性能の低温ポリシリコンTFT液晶やデジカメ向けに強みを持つ三洋電機と自社の中小型液晶部門を統合し、事業規模を約3,600億円まで拡大させた
    • [159]統合の直後の05年と06年、中小型液晶は年率2割超の価格下落に見舞われた
    • [160]エプソンの中小型液晶の8割は携帯電話向けで、液晶の単価はこの1年間で約30%下落し、期待した高価格製品の売れ行きが想定を下回って工場の稼働率が低下した
    • [161]2006年3月期にエプソンは1年間で4度も業績予想を下方修正し、近年5%程度を保ってきた営業利益率は1.7%に急落した
    • [162]半導体事業を中心に約450億円のリストラ損失を計上し、約180億円の最終赤字に転落した(有報の連結当期純損失は179億円)
    • [164]財務全般を取り仕切ってきた木村登志男副社長らが2006年3月に辞任した
  • 週刊東洋経済 2005年4月23日号
    • [158]花岡清二氏は2005年4月に代表取締役社長へ就任し、草間三郎氏は会長となった
  • 週刊東洋経済 2006年4月29日・5月6日合併号
    • [163]花岡清二社長は「1年間に4度の業績下方修正は、ただただ私の不徳の致すところ」と述べた
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [165]碓井稔氏は1979年に信州精器(現セイコーエプソン)へ入社し、研究開発本部長などを経て2008年から社長を務めた

1,113億円の損失とプリンティングへの資源集中

2009年3月期、売上高は前期の1兆3,478億円から1兆1,224億円へ落ち、営業損益は16億円の赤字、当期純損失は1,113億円に達した[166]。従業員数も8万8,925人から7万2,326人[167]へ減った。中小型液晶を担うエプソンイメージングデバイスは2006年12月に三洋電機との合弁から100%子会社へ変わり、全国に散っていた約200人を長野県松本市へ集めていた[168]。2010年4月、セイコーエプソンは中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部[169]を譲渡する。2003年1月に基準を掲げてから、中小型液晶を手放すまでに7年余り[170]を要した。水晶デバイス事業も2005年10月に会社分割してエプソントヨコムとし、2012年4月に営業機能を本体[171]へ戻した。2010年3月期も当期純損失197億円[172]を計上した。

  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)
    • [166]2009年3月期の連結売上高は1兆1,224億円(前期1兆3,478億円)、営業損益は16億円の赤字、当期純損失は1,113億円だった
    • [167]連結従業員数は2008年3月期の88,925人から2009年3月期は72,326人へ減った
    • [172]2010年3月期の連結当期純損失は197億円だった
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号
    • [168]エプソンイメージングデバイスは2006年12月に三洋電機との合弁からエプソンの100%子会社に変わり、全国に散らばっていた約200人の社員を長野県松本市に集結させた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [169]2010年4月に中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡した
    • [171]2005年10月に水晶デバイス事業を会社分割してエプソントヨコム株式会社(現宮崎エプソン株式会社)として営業開始し、2012年4月に水晶デバイス事業に関する営業機能などを吸収分割により当社が承継した
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [170]2003年1月の中期経営計画SE07で基準を掲げてから、2010年4月に中小型液晶ディスプレイの事業資産を譲渡するまで7年3か月を要した

2011年度は震災と円高で3度の業績下方修正を強[173]いられた。碓井稔社長は、成熟市場の国内ではオフィスプリンタ分野に本格進出し、新興国では大容量インクモデルなど独自品を投入して、2014年度に売上高1兆円を狙うと表明した。当時の見込みは8,800億円であった[174]。2013年2月には眼鏡レンズ事業[175]を譲渡した。碓井稔社長は後年、2012年までは毎年のように円高が進んで非常に苦しかったが、その中で新型プリントヘッドや大容量インクタンクモデルの開発を進め、その成果が2012年後半から出てきたことが高収益につながったと振り返った[176]

  • 週刊東洋経済 2012年3月31日号
    • [173]碓井稔社長は「2011年度は震災、円高などで3度の業績下方修正を強いられた」と述べた
    • [174]碓井社長は「成熟市場の国内ではオフィスプリンタ分野に本格進出し、新興国では大容量インクモデルなど独自品を投入する。14年度に売上高1兆円(今年度8800億円見込み)を狙う」と述べた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [175]2013年2月に眼鏡レンズ事業を譲渡した
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [176]碓井社長は「12年までは毎年のように円高が進み、非常に苦しかったが、その中で新型プリントヘッドや大容量インクタンクモデルなどの開発を進めてきた。そうした成果が12年後半から出てきたことが、今の高収益につながっている」と述べた

2014年3月期の売上高は1兆36億円、営業利益は850億円、2015年3月期は売上高1兆863億円、営業利益1,314億円[177]となった。エプソンのプリンターはピエゾ方式の独自のプリントヘッドを使っており、耐久性が高く、大量に印刷しても故障が起[178]きにくい。碓井稔社長は、最も障害になるのはプリンタを安く売ってインクやトナーで儲けるという既存の商売の形であり、印刷コストが安く済む大容量インクタンクプリンタへ移れば皆で市場を広げられると述べた[179]。競合の参入自体は悪い話ではないという判断[180]である。2017年2月にはエプソンイメージングデバイスを吸収合併して解散させ、中小型液晶の事業は社内か[181]ら消えた。2023年3月期の売上高は1兆3,303億円、営業利益は970億円[182]に達した。

  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)
    • [177]2014年3月期の連結売上高は1兆36億円・営業利益850億円、2015年3月期は売上高1兆863億円・営業利益1,314億円だった
    • [182]2023年3月期の連結売上高は1兆3,303億円、営業利益は970億円だった
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [178]碓井社長は「エプソンのプリンタは『ピエゾ方式』という、独自のプリントヘッドを使っている。このヘッドは耐久性が高く、大量に印刷しても故障が起きにくい」と述べた
    • [179]碓井社長は「われわれにとって最も障害になるのは、『プリンタを安く売って(消耗品の)インクやトナーで儲ける』という、既存のビジネスモデルだ」「印刷コストが安く済む大容量インクタンクプリンタに移行すれば、皆でマーケットを広げることができる」と述べた
    • [180]碓井社長は競合他社の大容量インクタンク市場への参入について「競合の参入自体は悪い話ではない」と述べた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [181]2010年4月に中・小型液晶ディスプレイ事業に関する事業資産の一部を譲渡したエプソンイメージングデバイスは、2017年2月に当社を存続会社とする吸収合併により解散した
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)
    • [166]2009年3月期の連結売上高は1兆1,224億円(前期1兆3,478億円)、営業損益は16億円の赤字、当期純損失は1,113億円だった
    • [167]連結従業員数は2008年3月期の88,925人から2009年3月期は72,326人へ減った
    • [172]2010年3月期の連結当期純損失は197億円だった
    • [177]2014年3月期の連結売上高は1兆36億円・営業利益850億円、2015年3月期は売上高1兆863億円・営業利益1,314億円だった
    • [182]2023年3月期の連結売上高は1兆3,303億円、営業利益は970億円だった
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号
    • [168]エプソンイメージングデバイスは2006年12月に三洋電機との合弁からエプソンの100%子会社に変わり、全国に散らばっていた約200人の社員を長野県松本市に集結させた
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [169]2010年4月に中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡した
    • [171]2005年10月に水晶デバイス事業を会社分割してエプソントヨコム株式会社(現宮崎エプソン株式会社)として営業開始し、2012年4月に水晶デバイス事業に関する営業機能などを吸収分割により当社が承継した
    • [175]2013年2月に眼鏡レンズ事業を譲渡した
    • [181]2010年4月に中・小型液晶ディスプレイ事業に関する事業資産の一部を譲渡したエプソンイメージングデバイスは、2017年2月に当社を存続会社とする吸収合併により解散した
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
    • [170]2003年1月の中期経営計画SE07で基準を掲げてから、2010年4月に中小型液晶ディスプレイの事業資産を譲渡するまで7年3か月を要した
  • 週刊東洋経済 2012年3月31日号
    • [173]碓井稔社長は「2011年度は震災、円高などで3度の業績下方修正を強いられた」と述べた
    • [174]碓井社長は「成熟市場の国内ではオフィスプリンタ分野に本格進出し、新興国では大容量インクモデルなど独自品を投入する。14年度に売上高1兆円(今年度8800億円見込み)を狙う」と述べた
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [176]碓井社長は「12年までは毎年のように円高が進み、非常に苦しかったが、その中で新型プリントヘッドや大容量インクタンクモデルなどの開発を進めてきた。そうした成果が12年後半から出てきたことが、今の高収益につながっている」と述べた
    • [178]碓井社長は「エプソンのプリンタは『ピエゾ方式』という、独自のプリントヘッドを使っている。このヘッドは耐久性が高く、大量に印刷しても故障が起きにくい」と述べた
    • [179]碓井社長は「われわれにとって最も障害になるのは、『プリンタを安く売って(消耗品の)インクやトナーで儲ける』という、既存のビジネスモデルだ」「印刷コストが安く済む大容量インクタンクプリンタに移行すれば、皆でマーケットを広げることができる」と述べた
    • [180]碓井社長は競合他社の大容量インクタンク市場への参入について「競合の参入自体は悪い話ではない」と述べた

大容量インクタンクとFiery社の買収

インクカートリッジの代わりに大容量インクタンクを載せたプリンターは、新興国で市場を作ったあと先進国[183]へ広がった。2018年度には販売台数に占める先進国の比率が10%を超え[184]、2019年度は1,020万台、2022年度は1,420万台を販売目標に置いた[185]碓井稔社長は、通常のインクジェットがヘッドを動かして紙にインクを塗るのに対し、複数のヘッドを1列に並べてそこへ紙を通すラインヘッドでは印刷速度が劇的に増すと説明した[186]。1分あたりの印刷枚数は従来のインクジェットが約24枚、レーザープリンターが約50枚で、ラインヘッドはさらにその倍[187]を可能にする。レーザープリンターをインクジェットへ置き換えてオフィスの印刷を変えることが、この時期の目標に据[188]えられた。2016年3月には長期ビジョン『Epson 25』を掲げ[189]、2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しで市場第一部からプライム市場へ移った[190]

  • 週刊東洋経済 2016年11月12日号
    • [183]カートリッジの代わりに大容量(2年分)インクタンクを搭載したプリンタを投入し、新興国をはじめ欧米、国内にも広げた
  • セイコーエプソン 2019年4月26日 決算説明会質疑応答
    • [184]2018年度は北米、西欧、日本などでも販売の増加が継続し、エプソンの大容量インクタンクモデル販売台数に占める先進国比率も10%を超えた
    • [188]エプソンはレーザープリンターからインクジェットプリンターへの置き換えを加速することにより、オフィスプリントの変革を目指していた
  • セイコーエプソン 2022年4月28日 決算説明会質疑応答
    • [185]2019年度は大容量インクタンクモデルの販売を1,020万台に伸ばす計画で、2022年度の販売台数目標は1,420万台だった
    • [189]長期ビジョン「Epson 25」は2016年3月に発表された
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [186]碓井社長は「通常のインクジェットプリンタはヘッドを動かして紙にインクを塗布するが、ラインヘッドは複数のヘッドを1列に配置して、そこに紙を通すことで印刷する。そのため、印刷速度は劇的に増す」と述べた
    • [187]従来型のインクジェットは1分当たり大体24枚の印刷が可能で、レーザープリンタは50枚程度、ラインヘッドはさらにその倍の印刷を可能にするポテンシャルがある
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [190]2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しにより、東京証券取引所の市場第一部からプライム市場に移行した

2020年4月、小川恭範氏が社長[191]に就任した。1月末に社長就任が発表された時点では、新型コロナウイルスの感染拡大がここまで広がるとは思っていなかっ[192]たという。在宅勤務と在宅学習で欧米や中国の販売台数は伸びた一方、大容量インクタンクモデルを中心に伸びてきた東南アジアや南米は、小売店の休業もあって販売が厳し[193]くなった。オフィス向けでは、インクジェットがレーザープリンターより消費電力が少なく、印刷が速く、メンテナンスの回数も減ることを売り物にした[194]。産業用ロボットのうちスカラロボットでは長年首位を保ってきたが、日本勢の半額に近い2万元割れで攻めた中国のイノバンスに2023年に逆転[195]された。

  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号
    • [191]小川恭範氏は2020年4月に社長へ就任した
    • [192]小川社長は「1月末に社長就任が発表されたときに、ここまで事態が拡大するとは思っていなかった」と述べた
    • [193]小川社長は「欧米や中国などで販売台数が伸びている」一方、「(東南アジアや南米などの)新興国では経済活動が制限されて小売店が休業した影響もあり、販売は厳しい状況だ。これらの地域はもともと大容量インクタンクモデルを中心に成長していた地域だ」と述べた
    • [194]小川社長は「インクジェットはレーザープリンターよりも消費電力が少なく、環境性能が高い。プリントスピードも速く、メンテナンスの回数も減る」と述べた
  • 週刊東洋経済 2026年4月18日・25日合併号
    • [195]エプソンはスカラロボットで長年トップシェアを維持してきたが、イノバンスが日本勢の半額に近い「2万元(約40万円)割れ」で攻勢をかけ、2023年にイノバンスがエプソンを逆転した

2024年9月19日、セイコーエプソンは米国のプリンター向けソフトウェアメーカーであるFiery社を約845億円で買収すると発表し、12月に手続き[196]を終えた。過去最大規模の買収[197]である。売上高の約7割はプリンティング事業が占め、その大部分は家庭やオフィス向けのインクジェットプリンター、残りが産業用印刷関連[198]であった。エプソンはインクジェットヘッドの外販を急速に伸ばす一方でソフトウェアの開発は弱点で、自社製品の一部にFiery社のシステムを購入して組み込ん[199]でもいた。Fiery社はキヤノンやリコーにもシステムを売っており、買収の狙いについてエプソンからの発信はほとんどなく、競合他社からは狙いがわからないという声[200]が上がった。発表から6週間後、エプソンは自社のプリントヘッドとFiery社の技術を組み合わせれば、ハードウェアに加えソフトウェアと印刷ワークフローまで含めた一貫した製品を提供できる[201]と説明した。

  • 週刊東洋経済 2024年10月26日号
    • [196]セイコーエプソンは2024年9月19日、約845億円を投じて米国のプリンター向けソフトウェアメーカーFiery社を買収すると発表し、12月に手続きを完了した
    • [197]「今回はエプソンにとって、過去最大規模の買収だ」と報じられた
    • [198]エプソンの売上高の約7割は印刷関連のプリンティング事業が占め、大部分は家庭やオフィス向けのインクジェットプリンターで、残りが産業用印刷関連だった
    • [199]エプソンは近年インクジェットヘッドの外販を急速に伸ばす一方でソフトウェアの開発が弱点で、エプソン製品の中には一部Fiery社からシステムを購入しているものもあった
    • [200]Fiery社はキヤノン、リコーといった大手プリンターメーカーを顧客に持ち、買収の狙いについてエプソンからの発信はほとんどなく、競合他社からは「エプソンの狙いがわからない」という声が上がった
  • セイコーエプソン 2024年11月1日 決算説明会質疑応答
    • [201]エプソンは「エプソンのプリントヘッドとFieryの技術を組み合わせることで、ハードウェアに加えてソフトウェア、印刷ワークフローまで含めた一貫した製品・サービスが提供できる。また、Fieryのソフトウェア開発力・開発体制などを活用することで、エプソンのソフトウェア開発基盤を強化できる」と説明した
  • 週刊東洋経済 2016年11月12日号
    • [183]カートリッジの代わりに大容量(2年分)インクタンクを搭載したプリンタを投入し、新興国をはじめ欧米、国内にも広げた
  • セイコーエプソン 2019年4月26日 決算説明会質疑応答
    • [184]2018年度は北米、西欧、日本などでも販売の増加が継続し、エプソンの大容量インクタンクモデル販売台数に占める先進国比率も10%を超えた
    • [188]エプソンはレーザープリンターからインクジェットプリンターへの置き換えを加速することにより、オフィスプリントの変革を目指していた
  • セイコーエプソン 2022年4月28日 決算説明会質疑応答
    • [185]2019年度は大容量インクタンクモデルの販売を1,020万台に伸ばす計画で、2022年度の販売台数目標は1,420万台だった
    • [189]長期ビジョン「Epson 25」は2016年3月に発表された
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
    • [186]碓井社長は「通常のインクジェットプリンタはヘッドを動かして紙にインクを塗布するが、ラインヘッドは複数のヘッドを1列に配置して、そこに紙を通すことで印刷する。そのため、印刷速度は劇的に増す」と述べた
    • [187]従来型のインクジェットは1分当たり大体24枚の印刷が可能で、レーザープリンタは50枚程度、ラインヘッドはさらにその倍の印刷を可能にするポテンシャルがある
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [190]2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しにより、東京証券取引所の市場第一部からプライム市場に移行した
  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号
    • [191]小川恭範氏は2020年4月に社長へ就任した
    • [192]小川社長は「1月末に社長就任が発表されたときに、ここまで事態が拡大するとは思っていなかった」と述べた
    • [193]小川社長は「欧米や中国などで販売台数が伸びている」一方、「(東南アジアや南米などの)新興国では経済活動が制限されて小売店が休業した影響もあり、販売は厳しい状況だ。これらの地域はもともと大容量インクタンクモデルを中心に成長していた地域だ」と述べた
    • [194]小川社長は「インクジェットはレーザープリンターよりも消費電力が少なく、環境性能が高い。プリントスピードも速く、メンテナンスの回数も減る」と述べた
  • 週刊東洋経済 2026年4月18日・25日合併号
    • [195]エプソンはスカラロボットで長年トップシェアを維持してきたが、イノバンスが日本勢の半額に近い「2万元(約40万円)割れ」で攻勢をかけ、2023年にイノバンスがエプソンを逆転した
  • 週刊東洋経済 2024年10月26日号
    • [196]セイコーエプソンは2024年9月19日、約845億円を投じて米国のプリンター向けソフトウェアメーカーFiery社を買収すると発表し、12月に手続きを完了した
    • [197]「今回はエプソンにとって、過去最大規模の買収だ」と報じられた
    • [198]エプソンの売上高の約7割は印刷関連のプリンティング事業が占め、大部分は家庭やオフィス向けのインクジェットプリンターで、残りが産業用印刷関連だった
    • [199]エプソンは近年インクジェットヘッドの外販を急速に伸ばす一方でソフトウェアの開発が弱点で、エプソン製品の中には一部Fiery社からシステムを購入しているものもあった
    • [200]Fiery社はキヤノン、リコーといった大手プリンターメーカーを顧客に持ち、買収の狙いについてエプソンからの発信はほとんどなく、競合他社からは「エプソンの狙いがわからない」という声が上がった
  • セイコーエプソン 2024年11月1日 決算説明会質疑応答
    • [201]エプソンは「エプソンのプリントヘッドとFieryの技術を組み合わせることで、ハードウェアに加えてソフトウェア、印刷ワークフローまで含めた一貫した製品・サービスが提供できる。また、Fieryのソフトウェア開発力・開発体制などを活用することで、エプソンのソフトウェア開発基盤を強化できる」と説明した

セイコーエプソンの沿革1942〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
大和工業設立★★
第二精工舎諏訪工場より営業譲受、諏訪精工舎に商号変更★★
諏訪精工舎に組織変更
信州精器(後のエプソン)設立
東京オリンピックで『クリスタル・クロノメーター』を提供
世界初の水晶式ポータブルプリンター
製造会社Tenryuを設立
東京オリンピックの計時用プリンターの事業化と、『EPSON』ブランドの制定時計部品の下請けが自分の名前で売るのか——五輪の印字装置から始まったプリンター事業 詳細を読む★★★
半導体事業開始
販売会社Epson America設立、眼鏡レンズ事業開始
『EPSON』ブランドを非時計分野のカンパニーブランドとして制定
水晶デバイス事業開始
コンピュータ用プリンター事業開始★★
エプソン販売設立
製造会社Epson Portland設立
エプソンを吸収合併しセイコーエプソンに商号変更★★
規制の削減日程に先立つフロン全廃の決定と、外注企業を含む洗浄工程の切り替え自社の工場を直せば済むのか——200社の外注先にフロンレス洗浄装置を入れさせる費用は誰が負うのか 詳細を読む★★★
液晶プロジェクター事業開始
地域統括会社Epson Europe設立
安川英昭エプソンダイレクト設立
安川英昭P.T. Indonesia Epson Industry設立
安川英昭Suzhou Epson Quartz Devices設立
安川英昭中国地域統括会社Epson China設立
草間三郎電子デバイス事業の縮小と、中小型液晶ディスプレイ事業資産の譲渡世界で1位になれる事業だけを残すのか、部品と完成品の両輪を保つのか——8年をかけた電子デバイスの畳み方 詳細を読む★★★
草間三郎東京証券取引所第一部への株式上場銀行借り入れと内部資金で足りるのか——服部一族が6割を握る非上場企業が自前の資本調達に移るまで 詳細を読む★★★
草間三郎液晶ディスプレイ事業を三洋エプソンイメージングデバイスとして分社
碓井稔社長交代(花岡清二→碓井稔)
碓井稔営業赤字▲16億円・純損失1,113億円★★
碓井稔当期純損失▲197億円
碓井稔中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡★★
碓井稔眼鏡レンズ事業譲渡
碓井稔エプソンイメージングデバイスを吸収合併
小川恭範社長交代(碓井稔→小川恭範)
小川恭範小川社長が『人員を増やさず』固定費削減方針を表明
小川恭範初の大型買収——米Fiery社の子会社化とソフトウェアへの投資ハードで勝ってきた会社がソフトを買う——事務機に偏った事業構造を、上場来最大の買収で組み替えられるか 詳細を読む★★★
吉田潤吉通期売上1兆3,629億円・営業利益751億円
吉田潤吉社長交代(小川恭範→吉田潤吉)
出典・参考
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
  • 日経ビジネス 1980年6月2日号
  • Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
  • 日経ビジネス 1985年8月5日号
  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
  • セイコーエプソン「エネルギーとエプソン」(公式採用サイト)
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号
  • 日経ビジネス 1992年3月30日号
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
  • 日経ビジネス 1995年12月4日号
  • 日経ビジネス 1998年3月30日号
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
  • 日経ビジネス 2000年1月24日号
  • 日経ビジネス 1999年9月20日号
  • 日経ビジネス 2001年6月11日号
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号
  • 日経ビジネス 2003年7月28日号
  • 日経ビジネス 2001年12月24日・31日号
  • 週刊東洋経済 2003年7月5日号
  • 週刊東洋経済 2007年3月3日号
  • 週刊東洋経済 2005年4月23日号
  • 週刊東洋経済 2006年4月29日・5月6日合併号
  • 週刊東洋経済 2016年1月30日号
  • セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)
  • 週刊東洋経済 2012年3月31日号
  • 週刊東洋経済 2016年11月12日号
  • セイコーエプソン 2019年4月26日 決算説明会質疑応答
  • セイコーエプソン 2022年4月28日 決算説明会質疑応答
  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号
  • 週刊東洋経済 2026年4月18日・25日合併号
  • 週刊東洋経済 2024年10月26日号
  • セイコーエプソン 2024年11月1日 決算説明会質疑応答

免責事項およびポリシー