歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1896年、電力と通信のインフラ整備が始まった明治期に、古河市兵衛の財閥は足尾銅山が産む銅の使い道として横浜電線製造を設立した。鉱山から仕入れた銅を電線に加工し、通信・電力事業者へ納める。上流の素材と下流の加工を同じ会社で抱える垂直統合が、創業時からの事業構造である。1920年には日光電気精銅所を取得して電気銅の生産から電線製造までを一貫させ、古河電気工業へ改称する。
決断2001年11月、本業の電線市場が成熟するなか、古河潤之助社長はJDSU株の2兆円規模の含み益を原資に、米ルーセントから光ファイバ事業OFSを約2,250億円で買収した。銅から光への素材転換に賭けたが、直後のネットバブル崩壊で原資も需要も同時に消え、2期連続1,000億円超の赤字と有利子負債910億円が残る。以後20年は軽金属・銅管・電池を売って負債の返済に充てたが、その間に光ファイバの特許と製造技術が温存され、後の情報通信事業を支えた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1896年に古河財閥は横浜電線製造を設立したのか
- A 足尾銅山が産む銅の使い道を社内で確保するためである。1896年6月、古河市兵衛氏の財閥は鉱山から仕入れた銅を電線に加工し、通信・電力事業者へ納める垂直統合の会社として横浜電線製造を設立した。1920年4月には古河鉱業から日光電気精銅所を取得して電気銅の生産から電線製造までを一貫させ、古河電気工業へ改称した。上流の素材と下流の加工を同じ会社で抱える事業構造が、創業時から定まった。
- Q なぜ2001年に古河潤之助社長はルーセントの光ファイバ事業を買ったのか
- A 本業の電線市場が成熟するなか、銅から光への素材転換に賭けたためである。2001年11月、古河潤之助社長は合弁JDSU株の2兆円規模の含み益を原資に、米ルーセントから光ファイバ事業OFSを約2,250億円で買収した。だが直後のネットバブル崩壊で原資も需要も同時に消え、2003年3月期1,140億円・2004年3月期1,401億円と2期連続の赤字と有利子負債910億円が残り、古河潤之助氏は買収失敗の責任を取り退任した。
- Q なぜ2020年代に非鉄子会社を売ってデータセンター向け光部品へ集中するのか
- A 2001年のOFS買収で温存した光ファイバの特許と製造技術が、生成AIによるデータセンター需要で再評価されたためである。森平英也社長は2025年4月に光ファイバ事業をLighteraへ統合し、水冷やCPOの量産能力へ資金を集中した。原資は1950年に分離した古河電池、アルミのUACJ持分、巻線のEssex Furukawaを相次いで手放して作った。財閥期の多角化で広げた非鉄子会社を売り切り、光部品の量産へ振り向ける選別を進めている。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1896年〜1989年 足尾銅山の銅加工から非鉄金属総合メーカーへの拡張期
足尾銅山の銅を電線に変えるために生まれた横浜電線製造
1896年6月、古河財閥は保有する足尾銅山で産出する銅を有効活用するため、横浜電線製造株式会社を設立した[1]。電線の製造は銅の加工用途として自然な選択であり、古河鉱業(現・古河機械金属)から銅を仕入れて電線に加工する垂直統合型のビジネスモデルで出発する[2]。1920年4月には古河鉱業から日光電気精銅所(現日光事業所)を取得し、商号を古河電気工業株式会社に変更した[3]。これにより電気銅の生産から電線の製造まで一貫して手がける体制が整い、古河財閥の非鉄金属事業の中核となった。創業者は鉱山王と呼ばれた古河市兵衛氏で、足尾銅山の鉱業収益と電線の加工収益を一体運営する財閥戦略が背景にあり、[4]同社は当初から垂直統合型のビジネスモデルを前提に運営される会社だった。
1921年12月に九州電線製造を買収して九州工場を設置、[5]1938年11月には兵庫県尼崎市に大阪伸銅所(後の銅管事業)を新設する[6]。戦後は1949年5月に東京証券取引所に株式上場、[7]1950年9月には電池部門を分離独立させて古河電池を設立した[8]。1958年には平塚工場、1961年には千葉工場、1971年には三重工場と、高度成長期を通じて拠点を拡張し、[9]電線・銅加工・電池・電装という複数の事業領域を抱える総合電機・非鉄メーカーへと成長していく。古河財閥の非鉄部門を担う存在として、戦後復興から高度成長期にかけての国内電力・通信インフラ整備を下支えする役割を果たし、製品レンジは銅線・電力ケーブル・電池・電装品・通信ケーブルへと多角化し、重電・通信の川上工程を支える基盤素材メーカーの顔を持つに至った。
非鉄金属総合メーカーからの複線化と光ファイバ研究の準備
1972年8月には子会社の古河電池を東京証券取引所市場第一部に上場させ、[10]1981年4月に古河金属工業を吸収合併して非鉄金属総合メーカーとしての事業基盤を強化する[11]。1987年2月には横浜市西区に横浜研究所を新設し、光ファイバなど次世代技術の研究開発体制を組んだ[12]。1990年には北米で光関連部品メーカーJDSU(後のJDS Uniphase)を合弁で設立する[13]。これが後にルーセント買収資金の原資となる投資である。光ファイバへの研究投資は1970年代から続いていたが、事業化は他の非鉄・電線事業の影に隠れて目立たない存在だった時期が長く、研究所と本体事業の距離感が以後の経営判断に影響を及ぼしていく構図となり、次の主力事業を光ファイバに据える布石が置かれていった。
1993年10月には軽金属事業を製販一本化するため古河アルミニウム工業と福井圧延を吸収合併した[14]。電線・電力ケーブル・非鉄金属・電池・軽金属・光関連部品という多角化した事業構造が1990年代前半に完成する。しかし売上規模は拡大する一方で、利益率は業界全体が直面する価格競争で圧迫されており、「次の柱」を模索する局面だった。1995年に古河家5代目当主の古河潤之助氏が社長に就任し、光ファイバ事業への傾注を打ち出していく[15]。銅線の会社が、光の会社への転換を賭ける局面が始まり、次の主役を光ファイバに定める経営判断が社内外に示されていく。本業の電線市場が成熟化する一方で、光関連市場の潜在力を信じる経営陣の方針が次第に明確化した。
1990年〜2010年 ルーセント光ファイバ買収という賭けと1,500億円規模の赤字計上期
ルーセントから約2,250億円で光ファイバ事業を買収する決断
1990年代後半、世界的なインターネット需要の爆発を受けて光ファイバ市場は急拡大していた。古河電工が1990年に合弁設立したJDSUは、光通信機器メーカーとしてナスダック市場で株価が暴騰し、古河電工は2兆円規模の含み益を抱える[16]。2000年2月時点で古河電工自身の時価総額も約1兆円に達した[17]。古河潤之助社長は光ファイバを次の主力事業と定め、従来の電線・銅加工中心の事業構造からの脱皮を具体化する決断を下す[18]。銅線からの脱却という長年の社内議論が、ようやく具体的な経営判断として俎上に載った局面である。世界の通信事業者が光ファイバを銅線に置き換え始めた時期であり、市場の見立ては強気に偏っており、古河電工もその楽観に乗った格好だった。
2001年11月、米ルーセント・テクノロジーの光ファイバ・ケーブル部門の買収を発表した[19]。ルーセント側は総額27億ドルで売却し、古河電工の取得負担額は約20億ドル(約2,250億円)に達する。資金は約1,100億円をJDS株の売却で、残り約900億円を銀行借入で手当てした[20]。「当社が狙っている光関連部品事業は、とてつもない潜在力を秘めている。どんな国でも今さら銅線は使わず、全部光ファイバーで通信回線を作るようになる」(古河潤之助・古河電工社長、日経ビジネス 2001/10/8)[21]。買収後の世界シェアはコーニングの30%に次ぐ19%となる見込みで、特許収入も狙えるとされた[22]。JDS株の含み益を原資に銀行借入で追加資金を作って買収というバブル最後の賭けは、直後のネットバブル崩壊で前提が崩れ落ちる。
2期連続1,000億円超の赤字と20年以上続くOFS買収の負債
買収の直後にネットバブルは崩壊した。OFS社の業績は急降下し、2003年3月期に古河電工は特別損失の計上などにより1,140億円の最終赤字に転落する。2004年3月期にはさらに1,401億円の赤字となった。2期連続で1,000億円超の赤字を出した古河電工は、買収に伴う有利子負債910億円を抱えて財務基盤が揺らぐ[23]。2003年、古河潤之助氏は社長を退任して代表取締役会長に退き、買収失敗の責任を取る形での人事となった[24]。以後の古河電工は、OFS買収で発生した負債と減損という採算上の負担を20年以上にわたって背負い続けることになり、「買収の失敗」という評価が長く同社を追いかける構造が形づくられていく局面で、資本市場からも厳しい目を向けられ続ける状態が長く継続した。
以後、古河電工は構造改革を続ける。2003年10月に軽金属事業を古河スカイ(後のUACJ)として会社分割、[25]2005年1月には電力事業部門をビスキャスへ営業譲渡し、本体のスリム化が進められた[26]。2008年9月のリーマンショックでは2009年3月期に再び▲374億円の最終赤字を記録する。2012年3月期には自動車向けワイヤーハーネスの価格操作・不正入札で米国反トラスト法違反の罰課金152億円を特別損失に計上し、関わった社員3名が米国で禁固刑を受けて収監された[27]。OFS買収失敗の尾を引きずりながら、新たな不祥事が重なる10年となって構造改革は常時進行の経営テーマとして定着し、抜本策の見えない停滞期として外部に映る局面が続き、経営の信頼回復には想像以上に長い時間を要した。
2011年〜2022年 非コア事業の切り離しと3セグメントへの事業ポートフォリオ絞り込み期
アルミ・電線・銅管・巻線・TOTOKUを次々に手放す
2012年4月に柴田光義氏、2017年4月に小林敬一氏と社長が交代しながら、古河電工は事業ポートフォリオの絞り込みを続けた[28]。2013年10月には古河スカイが住友軽金属工業を吸収合併しUACJに商号変更し、古河電工の持分法適用関連会社となる[29]。アルミ事業は本体から一層距離を置く構造へ進んだ。2015〜2016年にはビスキャスから電力ケーブル事業を順次譲り受けて本体に取り込む一方、非コア領域は切り出しを続ける方針を維持した[30]。2010年代の古河電工の経営は、OFS買収で膨らんだ有利子負債の返済と、非コア事業の資本関係整理をほぼ同時に進める10年間となり、事業の足し算ではなく引き算で構造を整える局面が続いた。成長投資の原資が慢性的に不足する中での難しい舵取りが続けられていた状況だった。
2018年3月期から2020年3月期にかけては、東海理化子会社との製品リコール関連訴訟で製品補償引当金繰入額を累計313億円計上する[31]。2020年4月には銅管事業をDaishin P&T(現奥村金属)として会社分割したうえで売却、太物巻線等の事業をEssex Furukawa Magnet Wire LLCへ承継して持分法適用関連会社化した[32]。2022年12月には2012年3月に子会社化していた東京特殊電線(現TOTOKU)をカーライルに売却(推定売却益153億円)[33]。古河電工の事業は情報通信・電装エレクトロニクス・機能製品という3セグメントへ収斂していき、非コア事業の売却益と本業の成長投資を組み合わせる構造が定着した。切り出しは戦後の多角化で築いた子会社群の大部分に及ぶ規模となり、本体の事業範囲は絞り込まれ、経営資源の集中が進められていく局面となった。
情報通信事業の赤字と電装セグメントの苦戦が続く構造
2020〜2022年の期間、セグメント別で見るとインフラ(旧情報通信+エネルギー)は黒字を維持したものの成長は見られず、電装エレクトロニクスは自動車ワイヤーハーネスの収益性低下で2022年3月期に営業利益がわずか1億円まで縮小した。2023年3月期には連結経常利益172億円まで落ち込み、2024年3月期にはインフラセグメントが▲112億円の営業損失を計上する。長年の構造改革にもかかわらず、成長エンジンはなかなか見えてこず、OFS買収の賭けは結局回収できていないと外部からは評価され続けた。自動車向け・電力インフラ向けの旧主力事業は、いずれも成熟市場で価格競争に直面する構図が続き、新しい成長の軸を立てる必要性が年々高まり、経営の関心は次第に光ファイバ事業の再評価へと傾いていく。
古河電工は2001年のOFS買収で得た光ファイバ関連特許と製造技術を、目立たない形で蓄積し続けていた。2025年4月の組織再編でLighteraとして再出発させる光ファイバ・ケーブル事業の土台は、この赤字事業として塩漬けにせざるを得なかった20年間に形づくられた[34]。2023年4月に森平英也氏が17代社長に就任し、[35]「データセンター市場」という新しい文脈で光ファイバ事業を位置づけ直す転換期を迎えた。2022年度には25中期経営計画(2022〜2025年度)のもとで①資本効率重視の既存事業収益最大化、②新規事業創出基盤整備、③ESG経営基盤強化の3方針が明示されて、[36]事業選択と集中の方向性が整理され、経営は守りから攻めへ重心を移していき、2020年代後半への助走が本格化した。