神岡鉱山は西暦708年の和銅年間に開坑して銅を産出し、奈良・平安から戦国・江戸の各時代を通じて金・銀・銅・鉛が掘り継がれてきた古い鉱山で、三井金属鉱業はみずからの源流をこの長い採掘の歴史にさかのぼって位置づけてきた。1874年に三井組は神岡鉱山の蛇腹平坑を明治政府から払い下げを受け、非鉄金属の鉱山経営に参入した。神岡鉱山は国内最大の亜鉛産出量を誇り、カナダのサリバン、オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山として三井財閥の鉱業部門を支える収益源となった。1892年6月には三井鉱山合資会社を設立して鉱山と炭鉱を一体で運営し、1913年8月には大牟田に亜鉛製錬工場を設けて、神岡で採掘した亜鉛精鉱を自社の製錬所で電気亜鉛地金まで仕上げた。鉱石を掘る工程と地金にする工程を一社で抱えるこの形が、後年まで引き継がれる事業の原型となった。
三井鉱山が1913年8月に大牟田へ開いた三池製錬所は、レトルト工場と亜鉛蒸溜工場の操業から始まった日本でもっとも古い亜鉛製錬設備であった。それまで日本産の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツとベルギーへ送られ、国内には地金まで仕上げる工程が存在しなかった。第一次世界大戦が始まると、欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の航路が絶たれ、日本国内で製錬能力を増やすよう求められた。三池製錬所は能力を二倍に引き上げてこれに応じ、鉱石を輸出する国から鉱石を輸入して製錬する国へと日本の立場が入れ替わった。三井鉱山はその後も製錬設備を買い集め、1935年5月に三成鉱業から彦島製錬所を取得して亜鉛蒸溜設備を加え、1943年2月には昭和鉱業から日比製錬所と竹原製錬所を買収して銅の製錬にも参入した。原料を握る会社が工程の下流を買い足していく順序は、この時期に定まった。
戦後の財閥解体の過程を経て、三井鉱山の金属部門は1950年5月1日に企業再建整備法によって神岡鉱業として独立し、戦後再編史の節目を迎えた。発足当初は財閥商号の使用が許されず神岡鉱業の商号を用いて資本金6億円で出発し、同年には東京証券取引所への上場を実現して独立企業としての歩みを開始した。分離にあたって引き継いだ事業所は、神岡鉱業所、串木野鉱業所、三池製錬所、彦島製錬所、日比製錬所、竹原製錬所、目黒研削砥石工場であった。翌1951年10月には資本金を12億円へ増資し、同年12月には東京研究所を設置するなどして体制を整備強化し、1952年12月に商号を三井金属鉱業へと変更した。三井財閥の一員として蓄積されてきた鉱山経営と製錬技術のノウハウは、独立後の事業拡大の基礎としてそのまま継承された。
独立後の三井金属鉱業はまず直轄事業所の拡充に注力し、1953年6月の神岡鉱業所金木戸発電所完成を皮切りに、1954年1月の三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期工事、1956年6月の日比製錬所転炉廃瓦斯回収工事、1957年6月の神岡工業所フローソリッド炉と、製錬設備を相次いで近代化した。1962年4月には伸銅事業部とダイカスト事業部を新設して川下の加工へ踏み出し、同月に子会社の王子金属工業と昭和ダイカストを吸収合併した。1965年6月には三鷹工場を新設した。資本金は1954年11月の24億円から1958年6月に48億円、1962年5月に72億円、1965年2月には108億円へと増えた。掘って地金にするだけの会社から、地金を加工して売る会社へ重心を移す動きが、この十年で形になった。
亜鉛の生産を増やしても、用途が育たなければ地金は在庫になる。三井金属鉱業は1951年12月に目黒へ東京研究所を設け、神岡鉱業所とともに亜鉛の新しい需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を始めた。ついで米国からダイカスト機械を輸入し、大崎に昭和ダイカストを子会社として設立した。当時の国内のダイカスト各社は数こそ多いが方式が原始的であったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術を指導し、機械の貸与と購入資金の貸付まで行った。ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年の時点で月1万トン近くに達した。乾電池に使う電解二酸化マンガンも、終戦直後に長期貯蔵に耐える電池を求めた進駐軍の命令で生産を始めたもので、1969年には月産1,500トンとなり、鉄興社との二社で世界市場をほぼ占め、40数カ国へ輸出していた。地金を売るだけなら値決めは市況に委ねるほかないが、用途を自ら開けば需要の側に立てる。
製錬能力の増強は、原料をどこから取るかという問題を先鋭にした。1950年代前半までは銅でも製錬所が使う鉱石の半分は国内産で足り、鉛は6割から7割、亜鉛にいたってはほとんどが国内鉱石であった。ところが銅は1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%へ達し、同年には鉛も55%、亜鉛も51%が海外鉱石になった。三井金属鉱業は1964年8月にペルーのワンサラ鉱山の権益を取得して海外資源開発に加わり、日本鉱業を中心とする産銅六社の一社としてザイールのムソシ銅鉱山の探査権獲得に参加し、三菱金属を幹事とする七社の一社としてマレーシアのマムート銅鉱山の開発にも加わった。鉱山業から出発した各社には、単純な輸入や融資買鉱よりも自ら鉱山の開発に携わりたいという体質的な傾向が強かった。買う相手を探すのではなく掘る場所を持つという発想が、そのまま海を越えて延びた。
1960年代後半の増設は、一社単独ではなく同業との共同出資で進んだ。三井金属鉱業は1967年2月に亜鉛製錬6社の共同出資で八戸製錬を設立し、自らは50%を出資した。英国が特許を持つISP法を導入して鉛と亜鉛を同時に製錬する方式で、1969年2月に運転を開始し、月産は亜鉛4,500トン、鉛2,500トンに達した。導入したのは炉の技術だけで、前処理と後処理は国内の機器メーカーとの共同研究によっていた。銅では日鉄鉱業と組み、三井金属鉱業が70%、日鉄鉱業が30%を出資して日比共同製錬を設立し、フィンランドのオートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した。臨海の大型設備が競争の条件になるにつれ、一社で抱えきれる投資額を超えはじめていた。
神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トンとされ、年に120万から130万トンを採掘してなお、新しく見つかる鉱量が採掘量を上回っていた。国内にこれに匹敵する大鉱床はほかになかった。規模が大きいために採れる方法もあり、山中の鉱石を発破で崩して底から自然に取り出すブロックケイビング法は、日本では神岡だけが採用していた。坑道を大きく取れるため軌道を敷かず運搬車で鉱石を運ぶトラックレスマイニングも併用し、坑内で働く一人あたりの一日の採鉱量は10トンに届こうとしていた。選鉱では、鉱石の変化に応じて薬品を変えなければならないのに分析が追いつかないという共通の制約を、自社開発のX線分析法で分析と薬品投入を連動させることで解いた。国内鉱山の出鉱量が最後の頂点を記録したのもこの時期であった。
富山県の神通川流域では、高齢の女性の骨が軟化し腎臓に障害が出る症状が長く見られていた。1961年に萩野昇氏と吉岡金市氏がその原因をカドミウムに求める説を発表し、1967年には調査に当たった学者らが神岡鉱山の排水に含まれるカドミウムを原因とする説を公表した。1968年3月、被害者と遺族28名が三井金属鉱業を提訴し、同年5月に厚生省はイタイイタイ病を公害病と認定した。1970年には農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウムなどで汚染された農地の改良事業の費用の一定割合を関連事業者が負担することになった。1971年6月の富山地裁の一審は被害者の全面勝訴で、三井金属鉱業は控訴した。世界有数の鉛・亜鉛鉱山という強みは、この時点で最大の負債にも変わりつつあった。
1972年8月、名古屋高裁金沢支部は控訴審でも原告の主張を認め、総額1億4,820万円の支払いを三井金属鉱業に命じた。会社側はこれを受諾し、上告しなかった。判決の翌日には賠償の誓約書に加え、被害者による毎年の立入調査を認める公害防止協定と、汚染田の土壌を入れ替える復元の誓約書を結んだ。引き続き提訴された第二次訴訟以降の原告とは和解が成立した。賠償の総額そのものは、1973年3月期の売上高1,293億円と並べれば大きな数字ではない。重いのは、発生源である神岡鉱業所の操業を被害者に点検させ続ける枠組みを、期限を切らずに引き受けた点であった。
1973年3月期の三井金属鉱業は、売上高1,293億円に対し経常利益9億円、当期は5億円の純損失であった。前期は5億円の純利益を計上していたから、賠償と公害対策の費用が円高と重なって損益を反転させたことになる。同期は無配に転落した。汚染田を客土で入れ替える復元は着手から約33年を要し、完了したのは2012年3月であった。神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決の文書を交わしたのは、控訴審判決から41年後の2013年12月である。公害の責任は一度の賠償として処理できるものではなく、神岡鉱業所に払い続ける操業費として経営へ組み込まれていった。
農用地土壌汚染防止法は1970年に成立し、カドミウムなどで汚染された農地の改良事業の費用の一定割合を関連事業者に負担させる仕組みを作った。対象は三井金属鉱業に限らず、東邦亜鉛、日本鉱業、三菱金属、同和鉱業など多くの非鉄金属会社に及んだ。鉱山と製錬所を国内に抱える経営そのものに、公害の費用が制度として貼り付いたことになる。三井金属鉱業の副社長は1969年12月の講演で神岡を、埋蔵鉱量4,000万トンを擁し『活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である』と語っていた『活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である』。その3年後には、同じ鉱山が毎年の立入調査を受け入れ、流域の農地を33年かけて入れ替える発生源になっていた。国内に資源を持つことの価値は、掘れる量ではなく後始末の重さで測られるように変わった。
銅、鉛、亜鉛はロンドン金属取引所の外貨建て相場で値が決まり、国内価格はそれを円に換算して決められる。円高になればその分だけ国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石の仕入れ値も下がる代わりに、収入となる製錬費も同じ比率で目減りする。1971年のニクソンショックによる円高と、1973年の石油ショックが続けて到来したとき、この構造がそのまま損益に出た。非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は、1950年代前半まで毎年およそ30万メートルに達していたが、1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで減少した。海外の大型開発も、ザイールが1972年、マムートが1975年と、もっとも悪い時期に生産を始めていた。1969年に運転を始めたばかりの八戸製錬も、能力を引き上げる計画を抱えたまま市況の底に入った。
1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円で、前年度より161億8,387万円、7.9%の減収であった。金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品と建材品の増販、前年度に続く第2回の備蓄買付けがあってなお、銅と亜鉛の地金価格の大幅な下落がそれらを打ち消した。営業利益は前年度の123億円から14億円へ落ち、経常損益は82億1,770万円の損失、当期損失は45億9,307万円となり、無配であった。営業段階でわずかに黒字を残しながら経常段階で82億円の損失へ転じたのは、増設のために積み上げた借入の利息が重かったためである。同期の従業員は男6,649名、女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年であった。
1973年、三井金属鉱業の資金課長がアイルランドへ渡った。電解二酸化マンガンの製造会社である三井デンマンを設立するプロジェクトチームの一員で、資本金以外の資金は現地で調達するという前提が先に決まっていた。当時の英国の公定歩合は13%台と高く、高利の資金導入には抵抗があった。調査の末に見つけたのは、英国輸出信用保証局による年利6〜8%台の長期銀行融資制度と、アイルランドの優先株を抱き合わせた融資制度の二つで、それぞれ360万ポンドと400万ポンドの借り入れの道が開いた。海外での設備投資資金は現地通貨で調達するという原則を守ったことで、200万ドルにのぼる為替損失を未然に防ぎ、年間50万ポンド近い支払利息を節約した。1978年の会社紹介はペルーのワンサラ鉱山、カタンガ鉱山と並べてこのアイルランドの工場を挙げている。市況と為替に晒される事業では、調達の通貨を選ぶこと自体が損益の一部であった。
1980年12月23日、三井金属鉱業は三井金属箔製造と三金レア・アースの2社を吸収合併した。銅箔はプリント基板に張り合わせる素材で、コンピューター産業に欠かせない。1988年には日本鉱業が世界シェア約4割を握る米国の銅箔メーカー、グールドを10億5,000万ドルで買収しており、市況で値の決まる商品とは違う電子材料の分野で業績の安定を図ろうとする動きが非鉄各社にあった。1981年3月期の三井金属鉱業の売上高は2,738億1,157万円で、前年度比108億円、3.8%の減収、経常損益は43億9,801万円の損失であった。地金部門の販売不振に加え、円高の持続による目減り、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的な不足から生じた買鉱条件の悪化が重なった。
1981年3月期の事業構成は、亜鉛地金12%、鉛3%、銅23%、銅加工品10%、亜鉛加工品5%、化成品9%、建材品4%、その他34%であった。地金の3部門を合わせても3分の1をわずかに上回るにすぎず、会社の名が掲げる鉱業はすでに売上高の一部でしかなくなっていた。1985年9月のプラザ合意を引き金とする円高は、この構造に最後の圧力を加えた。日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第一位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の従業員の合理化を伴う整理であった。1985年4月に59を数えた稼働中の金属鉱山は、1988年4月には29まで減った。三井金属鉱業は1986年に岡山県の日比製錬所を閉め、銅の製錬を日本鉱業の佐賀関製錬所へ委託した。
1986年、三井金属鉱業は東洋一といわれた亜鉛鉱山の神岡を別会社として本体から切り出した。同和鉱業も小坂と花岡を分離しており、国内鉱山の整理は業界に共通する動きであった。海外でも同じことが起きた。日本鉱業を中心とする産銅六社の一社として加わったザイールのムソシ銅鉱山は、周辺国の政情不安で鉱石の輸送ルートの確保に苦労し、1983年に現地鉱山会社をザイール政府へ譲渡して、参加各社は総額約530億円の損失を出して全面撤退した。三菱金属を幹事とする七社の一社として加わったマレーシアのマムート鉱山も、円高のなかで1987年に経営権を現地側へ委ねた。海外での探鉱費と開発費は、1971年から1975年の1,317億円をピークに、1981年から1985年には約3割の416億円まで縮小した。資源を自ら持つことを競争力の源としてきた会社にとって、これは前提そのものの喪失であった。
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|---|---|---|---|---|
| 1874〜1971年三井財閥の鉱山事業と神岡鉱山を核とし非鉄一貫体制の形成 | 三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を取得・鉱山経営を開始 | ★★ | ||
| 三井鉱山を設立 | ★★ | |||
| 大牟田亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入 | ★ | |||
| 鈴木商店経営の彦島亜鉛製煉工場を買収 | ★★ | |||
| 昭和鉱業から日比製煉工場・竹原電煉工場を買収 | ★★ | |||
| 佐藤久喜 | 三井鉱山からの金属部門の切り離しと、東京証券取引所への上場 1950年5月1日、財閥解体にともなう企業再建整備法の決定整備計画にもとづき、三井鉱山の金属部門を分離して神岡鉱業株式会社(資本金6億円)が創立された。同年10月に東京証券取引所第一部へ上場し、1952年12月に商号を三井金属鉱業へ改めた。現在の三井金属鉱業の直接の出発点にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐藤久喜 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 佐藤久喜 | 商号を三井金属鉱業に変更 | ★ | ||
| 高口正俊 | 伸銅事業部・ダイガスト事業部を新設 | ★ | ||
| 高林敏巳 | ペルー・ワンサラ鉱山の権益取得 | ★ | ||
| 高林敏巳 | 八戸製錬を設立 | ★ | ||
| 高林敏巳 | 日比共同製錬を設立 | ★ | ||
| 1972〜1989年イタイイタイ病補償と無配、神岡鉱山の縮小と銅箔、再建計画の人員削減 | 尾本信平 | 控訴審敗訴を受けた責任の全面的な引き受けと、公害防止協定・土壌復元の締結 1972年8月9日、名古屋高裁金沢支部はイタイイタイ病訴訟の控訴審で被害者を全面勝訴とし、三井金属鉱業は上告せず賠償に応じた。翌日には賠償の誓約書・公害防止協定・土壌復元の誓約書を結び、賠償と公害対策の負担が円高と重なって同社は無配へ転落した。神岡鉱業所のカドミウムがもたらした公害の責任を、経営再建と並行して引き受けた判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 尾本信平 | Oak-Mitsui, Inc.を設立・銅箔の現地生産を開始 | ★ | ||
| 高島節男 | 神岡鉱山で段階的に規模縮小 | ★★ | ||
| 高島節男 | 三井金属箔・三金レアアースを吸収合併・上尾銅箔工場を新設 | ★ | ||
| 高島節男 | 再建計画を策定・大規模な人員削減へ | ★ | ||
| 真島公三郎 | 希望退職者を追加募集 | ★ | ||
| 真島公三郎 | GECOM Cori.を設立・自動車部品の海外生産を開始 | ★ | ||
| 川北徹 | 半導体向けTABテープの製造子会社を設立 | ★ | ||
| 1990〜2008年排ガス浄化触媒の海外生産とパンパシフィック・カッパー、MAP500による電子材料集中 | 川北徹 | TKR事業部・パーライト事業部を設置 | ★ | |
| 宮村眞平 | 排ガス浄化触媒の海外生産を本格化 | ★ | ||
| 宮村眞平 | 本社を移転 | ★ | ||
| 宮村眞平 | 日鉱金属と共同でパンパシフィック・カッパーを設立 | ★★ | ||
| 宮村眞平 | 鉱山の段階的縮小と、銅箔・TABを柱とする事業への転換 三井金属鉱業は、円高とイタイイタイ病補償で競争力を失った神岡鉱山を1978年から段階的に縮小し、2001年に約130年続いた自山からの採掘を止めた。並行して1976年の米Oak-Mitsui設立を皮切りに銅箔・TABなど電子材料へ軸を移し、2001年の中期経営計画"MAP500"で電子材料をコア事業と定めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮村眞平 | 大井製作所を完全子会社化 | ★ | ||
| 槇原紘 | ペルー・パルカ鉱山を操業開始 | ★ | ||
| 2009〜2026年赤字からカセロネス銅山の開発と譲渡、過去最高益と三井金属への改称 | 竹林義彦 | 最終赤字に転落 | ★ | |
| 仙田貞雄 | チリのカセロネス鉱山の権益を共同取得・PPCを共同設立 | ★ | ||
| 仙田貞雄 | 伸銅事業を住友金属鉱山と統合 | ★ | ||
| 仙田貞雄 | 三井金属アクトを設立(自動車機器事業統合) | ★ | ||
| 仙田貞雄 | ダイカスト事業を分離・三井金属ダイカストを設立 | ★ | ||
| 仙田貞雄 | チリ・カセロネス銅鉱山が本格操業開始 | ★★ | ||
| 西田計治 | チリ・カセロネス銅鉱山の権益を譲渡 | ★★ | ||
| 納武士 | 三井金属エンジニアリングをTOBにより完全子会社化 | ★ | ||
| 納武士 | 過去最高益を達成 | ★ | ||
| 納武士 | 日本イットリウムを完全子会社化 | ★ | ||
| 納武士 | 商号を三井金属に変更 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三井金属)