三井鉱山合資会社を設立
神岡鉱山の取得
1874年(明治7年)に三井組は岐阜県の神岡鉱山(蛇原平坑)を明治政府から払い下げを受けて、鉱山経営に参入した。神岡鉱山は日本国内で「亜鉛」を産出する最大の鉱山であり、1970年代までは優良鉱山として知られて三井金属の経営を支えた。
三井鉱業合名会社を設立
三井財閥では、金属鉱山(神岡など)と炭鉱(三池など)の鉱業について同一会社で運営するために、1892年6月(明治25年)に三井鉱業合名会社を設立。三井財閥における国内の資源開発(鉱山経営)に従事した。
大牟田亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入
東京証券取引所に株式上場
財閥解体により神岡鉱業(三井金属鉱業)を発足
終戦後の財閥解体を受けて、旧三井鉱業において「炭鉱部門(石炭)」と「非鉄金属」の事業分離を決定。1950年に炭鉱部門については三井鉱業(旧三井鉱業)、非鉄金属鉱山については三井金属鉱業を発足した。なお、分離直後は財閥商号の利用が許可されなかったため、1952年までの三井金属鉱業は「神岡鉱業」の商号を用いた。
商号を三井金属鉱業株式会社に変更
伸銅事業部・ダイガスト事業部を新設
ペルー・ワンサラ鉱山の権益取得
八戸製錬株式会社を設立
イタイイタイ病補償が発生・無配転落
米Oak-Mitsui, Inc.を設立・銅箔の現地生産を開始
神岡鉱山で段階的に規模縮小
円高ドル安による競争力低下
1971年のニクソンショックにより円高ドル安(360円/ドル)が進行し、日本国内における鉱山経営の国際競争力が低下。三井金属鉱業も国内における非鉄鉱山の採掘・製錬について採算が悪化する経営課題に直面した。
ところが、三井金属は世界有数の亜鉛産出量を記録する神岡鉱山を保有しており、国内の競合他社(住友金属工業の別子銅山など)の非鉄金属鉱山と比べて優位であったため、結果として神岡鉱山の縮小に関する意思決定が数年遅れた。1975年3月末時点において神岡鉱業所に従事する社員数は2284名であり、これら人員の移動ないし削減が経営上の重要課題となった。
神岡鉱山の段階的縮小・労使関係に配慮
1978年に三井金属鉱山は神岡鉱山の縮小を決定。この時点では閉鎖を決定せず、採掘量の減産および人員削減を実施した。このため、数年おきに数百人規模の人員削減を実施した。
ところが、削減は不十分であり、1985年のプラザ合意によって円高ドル安がさらに進行したことで経営状況が悪化。1986年に三井金属鉱業は神岡鉱山を完全子会社「神岡鉱業」として分離した。以降も、1994年に鉱石からの鉛精錬中止、1996年に人員20%の削減など、生産および人員の規模縮小を継続した。
神岡鉱山の閉山・製錬所として事業所は存続
2001年6月に三井金属は神岡鉱業における「神岡鉱山」の閉山を決定。約130年にわたる三井における鉱山経営に終止符を打った。閉山後の神岡鉱業は「リサイクル製錬・水力発電・地下施設利用等」に事業転換した。
閉山に至る意思決定が遅れた理由は、当時社長(尾本氏)が雇用維持を優先したことや、労働組合からの解雇反対(三井財閥系の企業は歴史的に労使関係が悪い)や、神岡周辺の自治体への配慮(神岡鉱山の周辺には雇用を吸収できる産業が存在しない)であったと推察される。
神岡鉱業の現況・市況高騰による利益貢献
2024年3月期において神岡鉱業(社員数525名)は三井金属の完全子会社として製錬業などに従事し、売上高435億円・営業利益61億円を確保。鉛リサイクルや、製錬による非鉄金属の製造販売に従事しており、金属市況の高騰によって業績好調を維持している。