三井金属 の歴史

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創業 1892年
母体 三井財閥
創業地 東京都
創業 1874年9月、三井組が飛騨の神岡鉱山蛇腹平坑を明治政府から払い下げられ、鉱山経
1874年9月、三井組が飛騨の神岡鉱山蛇腹平坑を明治政府から払い下げられ、鉱山経営に参入した。1892年6月に三井鉱山合資会社を設立して鉱山と炭鉱を一体で運営し、1913年8月には大牟田に亜鉛製錬工場を新設して、神岡で採った精鉱を電気亜鉛地金まで自社で仕上げる体制を構築した。戦後の財閥解体で三井鉱山の金属部門が切り離され、1950年5月、財閥商号を使えないまま神岡鉱業として資本金6億円で発足する。同年10月に東京証券取引所へ上場し、1952年12月に三井金属鉱業へ商号を変更した。
決断 掘る場所は手放したが、金属を精製する工程だけは手放さなかった。1950年に三井鉱
掘る場所は手放したが、金属を精製する工程だけは手放さなかった。1950年に三井鉱山から金属部門を分離して上場した後も原料は神岡に依存したが、1972年8月にイタイイタイ病の控訴審で敗訴し、上告せず賠償と土壌復元を受け入れた。補償と円高で神岡の競争力は失われ、1978年から採掘を段階的に縮小し、1981年の再建計画を経て、23年かけて2001年に止めた。同じ期間に1976年の米Oak-Mitsui設立で銅箔へ、1989年には半導体向けTABテープへ進んでいる。銅を電解して薄い箔に延ばす工程は製錬の延長にあり、鉱山を閉じても製錬所と技術者は社内に残った。
現況 利益の出どころは、製錬で回収する貴金属と、AIサーバー向けの極薄銅箔にある。20
利益の出どころは、製錬で回収する貴金属と、AIサーバー向けの極薄銅箔にある。2026年3月期は売上高7,585億円・営業利益1,309億円。機能材料が売上3,196億円・セグメント利益665億円、金属が売上2,902億円・利益751億円で、この2部門が全社の利益をほぼ占める。金属の利幅は亜鉛・鉛の製錬で回収する金・銀・ビスマスが支え、機能材料は電解銅箔がAIサーバー向けに伸びた。一方、自動車部品は2025年度に三井金属アクトを譲渡し、売上512億円・8億円の損失に縮んでいる。1976年に始めた銅箔は、2001年の神岡鉱山の縮小と電子材料への転換でコア事業に据えられ、四半世紀を経て製錬と並ぶ規模に育った。
競合 非鉄各社が海外鉱山を買い増した時期に、三井金属は自山鉱を持たない側へ回った。住友
非鉄各社が海外鉱山を買い増した時期に、三井金属は自山鉱を持たない側へ回った。住友金属鉱山は2011年にチリのシエラゴルダ銅鉱山を取得し10年で譲渡しDOWAは1971年に臨海の秋田製錬を建てて輸入鉱へ切り替えた。三井金属も1964年にペルーのワンサラ、2014年にチリのカセロネスを操業したが、2021年2月にカセロネスの権益を譲渡している。原料は輸入精鉱とリサイクル原料で賄い、地金価格の変動そのものより、製錬の手数料と副産物の回収量で採算が決まる構成へ寄せた。足尾を閉じて機械へ移った古河機械金属と違い、製錬という工程だけは国内7カ所に残したことが、銅箔と触媒の原料と技術をつないでいる。
長期業績の推移 1952〜2026年
三井金属:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1874年〜 三井財閥の鉱山事業と神岡鉱山を核とし非鉄一貫体制の形成

1874年〜神岡払い下げから一貫製錬へ至る構造化

神岡鉱山は西暦708年の和銅年間に開坑して銅を産出し、奈良・平安から戦国・江戸の各時代を通じて金・銀・銅・鉛が掘り継がれてきた古い鉱山で、三井金属鉱業はみずからの源流をこの長い採掘の歴史にさかのぼって位置づけてきた。1874年に三井組は神岡鉱山の蛇腹平坑を明治政府から払い下げを受け、非鉄金属の鉱山経営に参入した。神岡鉱山は国内最大の亜鉛産出量を誇り、カナダのサリバン、オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山として三井財閥の鉱業部門を支える収益源となった。1892年6月には三井鉱山合資会社を設立して鉱山と炭鉱を一体で運営し、1913年8月には大牟田に亜鉛製錬工場を設けて、神岡で採掘した亜鉛精鉱を自社の製錬所で電気亜鉛地金まで仕上げた。鉱石を掘る工程と地金にする工程を一社で抱えるこの形が、後年まで引き継がれる事業の原型となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
    • [1]神岡鉱山は西暦708年和銅年間に開坑・銅を産出したと伝えられ、三井金属鉱業はその源流をここにさかのぼると位置づけている
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1874年(明治7年)三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を明治政府から払い下げ・鉱山経営に参入
    • [4]1892年6月 三井鉱山合資会社を設立(鉱山・炭鉱の一体運営)
    • [5]1913年8月 大牟田に亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入
  • 新日本経済(1956年6月)
    • [3]神岡鉱山は国内最大級の亜鉛産出鉱山で、カナダのサリバン・オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山とされた

三井鉱山が1913年8月に大牟田へ開いた三池製錬所は、レトルト工場と亜鉛蒸溜工場の操業から始まった日本でもっとも古い亜鉛製錬設備であった。それまで日本産の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツとベルギーへ送られ、国内には地金まで仕上げる工程が存在しなかった。第一次世界大戦が始まると、欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の航路が絶たれ、日本国内で製錬能力を増やすよう求められた。三池製錬所は能力を二倍に引き上げてこれに応じ、鉱石を輸出する国から鉱石を輸入して製錬する国へと日本の立場が入れ替わった。三井鉱山はその後も製錬設備を買い集め、1935年5月に三成鉱業から彦島製錬所を取得して亜鉛蒸溜設備を加え、1943年2月には昭和鉱業から日比製錬所と竹原製錬所を買収して銅の製錬にも参入した原料を握る会社が工程の下流を買い足していく順序は、この時期に定まった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
    • [6]1913年8月 三井鉱山が大牟田に三池製錬所を開設し、レトルト工場・亜鉛蒸溜工場の操業を開始した
    • [11]1935年5月 三成鉱業から彦島製錬所を買収し、亜鉛蒸溜設備を加えた
    • [12]1943年2月 昭和鉱業から日比製錬所・竹原製錬所を買収し、銅の製錬を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [7]三池製錬所の操業開始前、日本の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツ・ベルギーへ輸出されていた
    • [8]第一次世界大戦で欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の輸送が不可能になり、日本の製錬能力の増強が要請された
    • [9]三池製錬所は製錬能力を二倍に増強して需要に応えた
    • [10]三池製錬所の操業開始後、日本は鉱石を輸出する側から鉱石を輸入して製錬する側へ転じた

戦後の財閥解体の過程を経て、三井鉱山の金属部門は1950年5月1日に企業再建整備法によって神岡鉱業として独立し、戦後再編史の節目を迎えた。発足当初は財閥商号の使用が許されず神岡鉱業の商号を用いて資本金6億円で出発し、同年には東京証券取引所への上場を実現して独立企業としての歩みを開始した。分離にあたって引き継いだ事業所は、神岡鉱業所、串木野鉱業所、三池製錬所、彦島製錬所、日比製錬所、竹原製錬所、目黒研削砥石工場であった。翌1951年10月には資本金を12億円へ増資し、同年12月には東京研究所を設置するなどして体制を整備強化し、1952年12月に商号を三井金属鉱業へと変更した。三井財閥の一員として蓄積されてきた鉱山経営と製錬技術のノウハウは、独立後の事業拡大の基礎としてそのまま継承された。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
    • [13]1950年5月1日 企業再建整備法により三井鉱山の金属部門が神岡鉱業として独立発足(資本金6億円)
    • [14]発足当初は財閥商号が使えず「神岡鉱業」の商号を用い、資本金6億円で出発
    • [17]1951年10月 資本金を12億円に増資、同年12月 東京研究所を設置
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1950年10月 東京証券取引所に株式上場(発足と同年)
    • [18]1952年12月 商号を三井金属鉱業株式会社に変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
    • [16]分離時に引き継いだ事業所は神岡鉱業所・串木野鉱業所・三池製錬所・彦島製錬所・日比製錬所・竹原製錬所・目黒研削砥石工場であった
参考文献[1]-[18]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
    • [1]神岡鉱山は西暦708年和銅年間に開坑・銅を産出したと伝えられ、三井金属鉱業はその源流をここにさかのぼると位置づけている
    • [13]1950年5月1日 企業再建整備法により三井鉱山の金属部門が神岡鉱業として独立発足(資本金6億円)
    • [14]発足当初は財閥商号が使えず「神岡鉱業」の商号を用い、資本金6億円で出発
    • [17]1951年10月 資本金を12億円に増資、同年12月 東京研究所を設置
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1874年(明治7年)三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を明治政府から払い下げ・鉱山経営に参入
    • [4]1892年6月 三井鉱山合資会社を設立(鉱山・炭鉱の一体運営)
    • [5]1913年8月 大牟田に亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入
    • [15]1950年10月 東京証券取引所に株式上場(発足と同年)
    • [18]1952年12月 商号を三井金属鉱業株式会社に変更
  • 新日本経済(1956年6月)
    • [3]神岡鉱山は国内最大級の亜鉛産出鉱山で、カナダのサリバン・オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山とされた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
    • [6]1913年8月 三井鉱山が大牟田に三池製錬所を開設し、レトルト工場・亜鉛蒸溜工場の操業を開始した
    • [11]1935年5月 三成鉱業から彦島製錬所を買収し、亜鉛蒸溜設備を加えた
    • [12]1943年2月 昭和鉱業から日比製錬所・竹原製錬所を買収し、銅の製錬を開始した
    • [16]分離時に引き継いだ事業所は神岡鉱業所・串木野鉱業所・三池製錬所・彦島製錬所・日比製錬所・竹原製錬所・目黒研削砥石工場であった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [7]三池製錬所の操業開始前、日本の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツ・ベルギーへ輸出されていた
    • [8]第一次世界大戦で欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の輸送が不可能になり、日本の製錬能力の増強が要請された
    • [9]三池製錬所は製錬能力を二倍に増強して需要に応えた
    • [10]三池製錬所の操業開始後、日本は鉱石を輸出する側から鉱石を輸入して製錬する側へ転じた

1953年〜海外資源と需要開発が支えた独立後の拡張

独立後の三井金属鉱業はまず直轄事業所の拡充に注力し、1953年6月の神岡鉱業所金木戸発電所完成を皮切りに、1954年1月の三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期工事、1956年6月の日比製錬所転炉廃瓦斯回収工事、1957年6月の神岡工業所フローソリッド炉と、製錬設備を相次いで近代化した。1962年4月には伸銅事業部とダイカスト事業部を新設して川下の加工へ踏み出し、同月に子会社の王子金属工業と昭和ダイカストを吸収合併した。1965年6月には三鷹工場を新設した。資本金は1954年11月の24億円から1958年6月に48億円、1962年5月に72億円、1965年2月には108億円へと増えた掘って地金にするだけの会社から、地金を加工して売る会社へ重心を移す動きが、この十年で形になった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
    • [19]1953年6月 金木戸発電所完成、1954年1月 三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期、1956年6月 日比製錬所転炉廃瓦斯回収、1957年6月 神岡工業所フローソリッド炉と製錬設備を近代化
    • [21]1962年4月 子会社の王子金属工業・昭和ダイカストの両社を吸収合併
    • [22]1965年6月 三鷹工場を新設
    • [23]資本金は1954年11月24億円→1958年6月48億円→1962年5月72億円→1965年2月108億円と増加
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1962年4月 伸銅事業部・ダイカスト事業部を新設

亜鉛の生産を増やしても、用途が育たなければ地金は在庫になる。三井金属鉱業は1951年12月に目黒へ東京研究所を設け、神岡鉱業所とともに亜鉛の新しい需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を始めた。ついで米国からダイカスト機械を輸入し、大崎に昭和ダイカストを子会社として設立した。当時の国内のダイカスト各社は数こそ多いが方式が原始的であったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術を指導し、機械の貸与と購入資金の貸付まで行った。ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年の時点で月1万トン近くに達した。乾電池に使う電解二酸化マンガンも、終戦直後に長期貯蔵に耐える電池を求めた進駐軍の命令で生産を始めたもので、1969年には月産1,500トンとなり、鉄興社との二社で世界市場をほぼ占め、40数カ国へ輸出していた地金を売るだけなら値決めは市況に委ねるほかないが、用途を自ら開けば需要の側に立てる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
    • [24]1951年12月 目黒に東京研究所を設立し、神岡鉱業所とともに亜鉛の新需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [25]米国から亜鉛ダイカスト機械を輸入し、大崎に子会社・昭和ダイカストを設立して操業を開始した
    • [26]当時の国内ダイカストメーカーは方式が原始的だったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術指導を行い、機械の貸与・購入資金の貸付も行った
    • [27]ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年時点で月1万トン近くに達した
    • [28]電解二酸化マンガンは終戦直後に進駐軍の命令で生産を開始し、1969年に月産1,500トン、鉄興社との2社で世界市場をほぼ独占して40数カ国へ輸出していた

製錬能力の増強は、原料をどこから取るかという問題を先鋭にした。1950年代前半までは銅でも製錬所が使う鉱石の半分は国内産で足り、鉛は6割から7割、亜鉛にいたってはほとんどが国内鉱石であった。ところが銅は1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%へ達し、同年には鉛も55%、亜鉛も51%が海外鉱石になった。三井金属鉱業は1964年8月にペルーのワンサラ鉱山の権益を取得して海外資源開発に加わり日本鉱業を中心とする産銅六社の一社としてザイールのムソシ銅鉱山の探査権獲得に参加し三菱金属を幹事とする七社の一社としてマレーシアのマムート銅鉱山の開発にも加わった。鉱山業から出発した各社には、単純な輸入や融資買鉱よりも自ら鉱山の開発に携わりたいという体質的な傾向が強かった買う相手を探すのではなく掘る場所を持つという発想が、そのまま海を越えて延びた。

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [29]1950年代前半までは銅で製錬所の使う鉱石の約半分、鉛で6〜7割、亜鉛はほとんどが国内鉱石で賄えていた
    • [30]銅は1964年に海外鉱石比率が6割を超え1967年に75%、同年に鉛55%・亜鉛51%が海外鉱石となった
    • [32]ザイールのムソシ銅鉱山は1966年に探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山・三菱金属・三井金属・同和鉱業・古河鉱業の産銅6社が参加した
    • [33]マレーシアのマムート銅鉱山は1967年に探査権を得て、三菱金属を幹事社に日鉱・住友・三井・同和・古河・日鉄鉱業の7社が参加した
    • [34]鉱山業育ちのため、単純な輸入や融資買鉱よりも直接鉱山開発に携わりたいという意識が体質的に強かった
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1964年8月 ペルー・ワンサラ鉱山の権益を取得
参考文献[19]-[34]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
    • [19]1953年6月 金木戸発電所完成、1954年1月 三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期、1956年6月 日比製錬所転炉廃瓦斯回収、1957年6月 神岡工業所フローソリッド炉と製錬設備を近代化
    • [21]1962年4月 子会社の王子金属工業・昭和ダイカストの両社を吸収合併
    • [22]1965年6月 三鷹工場を新設
    • [23]資本金は1954年11月24億円→1958年6月48億円→1962年5月72億円→1965年2月108億円と増加
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1962年4月 伸銅事業部・ダイカスト事業部を新設
    • [31]1964年8月 ペルー・ワンサラ鉱山の権益を取得
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
    • [24]1951年12月 目黒に東京研究所を設立し、神岡鉱業所とともに亜鉛の新需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [25]米国から亜鉛ダイカスト機械を輸入し、大崎に子会社・昭和ダイカストを設立して操業を開始した
    • [26]当時の国内ダイカストメーカーは方式が原始的だったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術指導を行い、機械の貸与・購入資金の貸付も行った
    • [27]ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年時点で月1万トン近くに達した
    • [28]電解二酸化マンガンは終戦直後に進駐軍の命令で生産を開始し、1969年に月産1,500トン、鉄興社との2社で世界市場をほぼ独占して40数カ国へ輸出していた
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [29]1950年代前半までは銅で製錬所の使う鉱石の約半分、鉛で6〜7割、亜鉛はほとんどが国内鉱石で賄えていた
    • [30]銅は1964年に海外鉱石比率が6割を超え1967年に75%、同年に鉛55%・亜鉛51%が海外鉱石となった
    • [32]ザイールのムソシ銅鉱山は1966年に探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山・三菱金属・三井金属・同和鉱業・古河鉱業の産銅6社が参加した
    • [33]マレーシアのマムート銅鉱山は1967年に探査権を得て、三菱金属を幹事社に日鉱・住友・三井・同和・古河・日鉄鉱業の7社が参加した
    • [34]鉱山業育ちのため、単純な輸入や融資買鉱よりも直接鉱山開発に携わりたいという意識が体質的に強かった

1967年〜製錬能力の積み上げと公害責任の顕在化

1960年代後半の増設は、一社単独ではなく同業との共同出資で進んだ。三井金属鉱業は1967年2月に亜鉛製錬6社の共同出資で八戸製錬を設立し、自らは50%を出資した。英国が特許を持つISP法を導入して鉛と亜鉛を同時に製錬する方式で、1969年2月に運転を開始し、月産は亜鉛4,500トン、鉛2,500トンに達した。導入したのは炉の技術だけで、前処理と後処理は国内の機器メーカーとの共同研究によっていた。銅では日鉄鉱業と組み、三井金属鉱業が70%、日鉄鉱業が30%を出資して日比共同製錬を設立し、フィンランドのオートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した臨海の大型設備が競争の条件になるにつれ、一社で抱えきれる投資額を超えはじめていた。

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [35]1960年代の非鉄各社は小名浜製錬所・八戸製錬所など共同出資による大型製錬所の建設を相次いで進めた
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [36]1967年2月 亜鉛製錬6社(三菱・同和・日鉱・東邦亜鉛・日曹金属・三井金属)の共同出資で八戸製錬を設立し、三井金属は50%を出資した
    • [37]八戸製錬は英国が特許を持つISP法で鉛・亜鉛を同時製錬し、1969年2月に運転開始、月産は亜鉛4,500トン・鉛2,500トン
    • [38]八戸製錬が導入したのは炉の技術だけで、前処理・後処理は国内の機器メーカーと三井金属の共同研究によった
    • [39]日比共同製錬を三井金属70%・日鉄鉱業30%の共同出資で設立し、オートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した

神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トンとされ、年に120万から130万トンを採掘してなお、新しく見つかる鉱量が採掘量を上回っていた。国内にこれに匹敵する大鉱床はほかになかった。規模が大きいために採れる方法もあり、山中の鉱石を発破で崩して底から自然に取り出すブロックケイビング法は、日本では神岡だけが採用していた。坑道を大きく取れるため軌道を敷かず運搬車で鉱石を運ぶトラックレスマイニングも併用し、坑内で働く一人あたりの一日の採鉱量は10トンに届こうとしていた。選鉱では、鉱石の変化に応じて薬品を変えなければならないのに分析が追いつかないという共通の制約を、自社開発のX線分析法で分析と薬品投入を連動させることで解いた。国内鉱山の出鉱量が最後の頂点を記録したのもこの時期であった

  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [40]神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トン、年産120〜130万トンを採掘してなお新規発見鉱量が採掘量を上回っていた
    • [41]神岡の4,000万トンに匹敵する大鉱床は国内に存在しなかった
    • [42]鉱石を発破で崩し底から自然に取り出すブロックケイビング法を、日本では神岡だけが採用していた
    • [43]軌道を使わず運搬車で鉱石を搬出するトラックレスマイニングを採用し、坑内夫1人1日あたりの採鉱量は10トンに近づいていた
    • [44]自社開発のX線分析法で鉱石分析と薬品投入装置を連動させるオンラインシステムを選鉱場で稼働させていた
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [45]国内鉱山は比重を下げながらも出鉱量を伸ばし、国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した

富山県の神通川流域では、高齢の女性の骨が軟化し腎臓に障害が出る症状が長く見られていた。1961年に萩野昇氏と吉岡金市氏がその原因をカドミウムに求める説を発表し、1967年には調査に当たった学者らが神岡鉱山の排水に含まれるカドミウムを原因とする説を公表した。1968年3月、被害者と遺族28名が三井金属鉱業を提訴し、同年5月に厚生省はイタイイタイ病を公害病と認定した。1970年には農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウムなどで汚染された農地の改良事業の費用の一定割合を関連事業者が負担することになった。1971年6月の富山地裁の一審は被害者の全面勝訴で、三井金属鉱業は控訴した世界有数の鉛・亜鉛鉱山という強みは、この時点で最大の負債にも変わりつつあった。

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [46]神通川流域で高齢の女性の骨が軟化し腎臓障害を起こすイタイイタイ病が見られていた
    • [48]1967年 調査に当たった学者らが、原因を三井金属の神岡鉱山排水に含まれるカドミウムに求める説を発表した
    • [51]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
  • 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
    • [47]1961年 萩野昇氏・吉岡金市氏がイタイイタイ病のカドミウム説を発表
    • [49]1968年3月 被害者・遺族28名が三井金属鉱業を提訴(一次訴訟)
    • [50]1968年5月 厚生省がイタイイタイ病を公害病と認定(主因はカドミウム)
    • [52]1971年6月 富山地裁の一審で被害者が全面勝訴、三井金属鉱業は控訴した
参考文献[35]-[52]
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [35]1960年代の非鉄各社は小名浜製錬所・八戸製錬所など共同出資による大型製錬所の建設を相次いで進めた
    • [45]国内鉱山は比重を下げながらも出鉱量を伸ばし、国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
    • [46]神通川流域で高齢の女性の骨が軟化し腎臓障害を起こすイタイイタイ病が見られていた
    • [48]1967年 調査に当たった学者らが、原因を三井金属の神岡鉱山排水に含まれるカドミウムに求める説を発表した
    • [51]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [36]1967年2月 亜鉛製錬6社(三菱・同和・日鉱・東邦亜鉛・日曹金属・三井金属)の共同出資で八戸製錬を設立し、三井金属は50%を出資した
    • [37]八戸製錬は英国が特許を持つISP法で鉛・亜鉛を同時製錬し、1969年2月に運転開始、月産は亜鉛4,500トン・鉛2,500トン
    • [38]八戸製錬が導入したのは炉の技術だけで、前処理・後処理は国内の機器メーカーと三井金属の共同研究によった
    • [39]日比共同製錬を三井金属70%・日鉄鉱業30%の共同出資で設立し、オートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した
    • [40]神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トン、年産120〜130万トンを採掘してなお新規発見鉱量が採掘量を上回っていた
    • [41]神岡の4,000万トンに匹敵する大鉱床は国内に存在しなかった
    • [42]鉱石を発破で崩し底から自然に取り出すブロックケイビング法を、日本では神岡だけが採用していた
    • [43]軌道を使わず運搬車で鉱石を搬出するトラックレスマイニングを採用し、坑内夫1人1日あたりの採鉱量は10トンに近づいていた
    • [44]自社開発のX線分析法で鉱石分析と薬品投入装置を連動させるオンラインシステムを選鉱場で稼働させていた
  • 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
    • [47]1961年 萩野昇氏・吉岡金市氏がイタイイタイ病のカドミウム説を発表
    • [49]1968年3月 被害者・遺族28名が三井金属鉱業を提訴(一次訴訟)
    • [50]1968年5月 厚生省がイタイイタイ病を公害病と認定(主因はカドミウム)
    • [52]1971年6月 富山地裁の一審で被害者が全面勝訴、三井金属鉱業は控訴した

第2章 1972年〜 イタイイタイ病補償と無配、神岡鉱山の縮小と銅箔、再建計画の人員削減

1972年〜賠償の受諾が経営へ組み入れた費用

1972年8月、名古屋高裁金沢支部は控訴審でも原告の主張を認め、総額1億4,820万円の支払いを三井金属鉱業に命じた。会社側はこれを受諾し、上告しなかった。判決の翌日には賠償の誓約書に加え、被害者による毎年の立入調査を認める公害防止協定と、汚染田の土壌を入れ替える復元の誓約書を結んだ。引き続き提訴された第二次訴訟以降の原告とは和解が成立した。賠償の総額そのものは、1973年3月期の売上高1,293億円と並べれば大きな数字ではない重いのは、発生源である神岡鉱業所の操業を被害者に点検させ続ける枠組みを、期限を切らずに引き受けた点であった。

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [53]1972年 名古屋高裁は原告の主張を認め、総額1億4,820万円の支払いを三井金属に命じた
    • [54]会社側は控訴審判決を受諾し、上告しなかった
    • [56]引き続き提訴した第二次訴訟以降の原告とは和解が成立した
  • 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
    • [55]1972年8月の判決翌日、賠償の誓約書・毎年の立入調査を認める公害防止協定・汚染田の土壌復元の誓約書を締結した
  • 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
    • [57]1973年3月期の売上高は1,293億円(単体)

1973年3月期の三井金属鉱業は、売上高1,293億円に対し経常利益9億円、当期は5億円の純損失であった。前期は5億円の純利益を計上していたから、賠償と公害対策の費用が円高と重なって損益を反転させたことになる。同期は無配に転落した。汚染田を客土で入れ替える復元は着手から約33年を要し、完了したのは2012年3月であった。神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決の文書を交わしたのは、控訴審判決から41年後の2013年12月である公害の責任は一度の賠償として処理できるものではなく、神岡鉱業所に払い続ける操業費として経営へ組み込まれていった。

  • 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
    • [58]1973年3月期は売上高1,293億円・経常利益9億円・当期純損失5億円(単体・JGAAP)
    • [59]前期(1972年3月期)は当期純利益5億円で、賠償負担と円高が重なり純損失に転じた
    • [60]1973年3月期は無配となった
  • 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
    • [61]汚染田の客土復元は着手から約33年を要し、2012年3月に完了した
    • [62]2013年12月 神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決した

農用地土壌汚染防止法は1970年に成立し、カドミウムなどで汚染された農地の改良事業の費用の一定割合を関連事業者に負担させる仕組みを作った。対象は三井金属鉱業に限らず、東邦亜鉛、日本鉱業三菱金属同和鉱業など多くの非鉄金属会社に及んだ。鉱山と製錬所を国内に抱える経営そのものに、公害の費用が制度として貼り付いたことになる。三井金属鉱業の副社長は1969年12月の講演で神岡を、埋蔵鉱量4,000万トンを擁し『活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である』と語っていた『活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である』。その3年後には、同じ鉱山が毎年の立入調査を受け入れ、流域の農地を33年かけて入れ替える発生源になっていた国内に資源を持つことの価値は、掘れる量ではなく後始末の重さで測られるように変わった。

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [63]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
    • [64]費用負担の対象は三井金属に限らず、東邦亜鉛・日本鉱業・三菱金属・同和鉱業など多くの非鉄金属会社に及んだ
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [65]1969年12月5日の企業分析第1部会における講演で、三井金属鉱業副社長の尾本信平氏は神岡鉱山の埋蔵鉱量を4,000万トンとし「活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である」と述べた
  • 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
    • [66]判決翌日に結んだ公害防止協定は被害者による毎年の立入調査を認め、汚染田の客土復元は約33年を要した
参考文献[53]-[66]
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [53]1972年 名古屋高裁は原告の主張を認め、総額1億4,820万円の支払いを三井金属に命じた
    • [54]会社側は控訴審判決を受諾し、上告しなかった
    • [56]引き続き提訴した第二次訴訟以降の原告とは和解が成立した
    • [63]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
    • [64]費用負担の対象は三井金属に限らず、東邦亜鉛・日本鉱業・三菱金属・同和鉱業など多くの非鉄金属会社に及んだ
  • 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
    • [55]1972年8月の判決翌日、賠償の誓約書・毎年の立入調査を認める公害防止協定・汚染田の土壌復元の誓約書を締結した
  • 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
    • [57]1973年3月期の売上高は1,293億円(単体)
    • [58]1973年3月期は売上高1,293億円・経常利益9億円・当期純損失5億円(単体・JGAAP)
    • [59]前期(1972年3月期)は当期純利益5億円で、賠償負担と円高が重なり純損失に転じた
    • [60]1973年3月期は無配となった
  • 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
    • [61]汚染田の客土復元は着手から約33年を要し、2012年3月に完了した
    • [62]2013年12月 神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決した
    • [66]判決翌日に結んだ公害防止協定は被害者による毎年の立入調査を認め、汚染田の客土復元は約33年を要した
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [65]1969年12月5日の企業分析第1部会における講演で、三井金属鉱業副社長の尾本信平氏は神岡鉱山の埋蔵鉱量を4,000万トンとし「活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である」と述べた

1973年〜石油ショックが露わにした市況依存

銅、鉛、亜鉛はロンドン金属取引所の外貨建て相場で値が決まり、国内価格はそれを円に換算して決められる。円高になればその分だけ国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石の仕入れ値も下がる代わりに、収入となる製錬費も同じ比率で目減りする。1971年のニクソンショックによる円高と、1973年の石油ショックが続けて到来したとき、この構造がそのまま損益に出た。非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は、1950年代前半まで毎年およそ30万メートルに達していたが、1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで減少した。海外の大型開発も、ザイールが1972年、マムートが1975年と、もっとも悪い時期に生産を始めていた。1969年に運転を始めたばかりの八戸製錬も、能力を引き上げる計画を抱えたまま市況の底に入った

  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [67]銅・鉛・亜鉛などはロンドン金属取引所(LME)で外貨建てで相場が決まり、国内価格はLME価格を円換算して決められる
    • [68]円高になると国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石価格も下がるが収入となる製錬費もスライドして減る
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [69]1973年の石油ショックで非鉄金属産業は絶頂から反転し、以後長いリストラクチャリングへ向かった
    • [70]非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1950年代前半まで毎年約30万メートルだったが1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで落ち込んだ
    • [71]ザイールの銅鉱山は1972年、マムート鉱山は1975年に生産を開始し、ニクソンショック・石油ショックとぶつかった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [72]八戸製錬は1969年2月に運転を開始し、月産を亜鉛6,000トン・鉛3,000トンへ引き上げる計画を持っていた

1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円で、前年度より161億8,387万円、7.9%の減収であった。金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品と建材品の増販、前年度に続く第2回の備蓄買付けがあってなお、銅と亜鉛の地金価格の大幅な下落がそれらを打ち消した。営業利益は前年度の123億円から14億円へ落ち、経常損益は82億1,770万円の損失、当期損失は45億9,307万円となり、無配であった営業段階でわずかに黒字を残しながら経常段階で82億円の損失へ転じたのは、増設のために積み上げた借入の利息が重かったためである。同期の従業員は男6,649名、女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年であった

  • 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
    • [73]1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円、前年度比161億8,387万円(7.9%)の減収
    • [74]金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品・建材品の増販、第2回備蓄買付けがあったが、銅・亜鉛地金の価格の大幅な下落で減収となった
    • [75]営業利益は前年度の123億円から14億円へ減少した
    • [76]1978年3月期は経常損益で82億1,770万円の損失、当期損失45億9,307万円、無配
    • [77]1978年時点の在籍人員は男6,649名・女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年

1973年、三井金属鉱業の資金課長がアイルランドへ渡った。電解二酸化マンガンの製造会社である三井デンマンを設立するプロジェクトチームの一員で、資本金以外の資金は現地で調達するという前提が先に決まっていた。当時の英国の公定歩合は13%台と高く、高利の資金導入には抵抗があった。調査の末に見つけたのは、英国輸出信用保証局による年利6〜8%台の長期銀行融資制度と、アイルランドの優先株を抱き合わせた融資制度の二つで、それぞれ360万ポンドと400万ポンドの借り入れの道が開いた。海外での設備投資資金は現地通貨で調達するという原則を守ったことで、200万ドルにのぼる為替損失を未然に防ぎ、年間50万ポンド近い支払利息を節約した。1978年の会社紹介はペルーのワンサラ鉱山、カタンガ鉱山と並べてこのアイルランドの工場を挙げている市況と為替に晒される事業では、調達の通貨を選ぶこと自体が損益の一部であった。

  • 日経ビジネス 1977年11月21日号
    • [78]1973年 三井金属鉱業の小松忠三郎資金課長がアイルランドへ渡った
    • [79]電解二酸化マンガンの製造会社・三井デンマン設立のプロジェクトチームの一員で、資本金以外の資金は現地調達との前提が決められていた
    • [80]当時の英国公定歩合は13%台と高く、高利の資金導入には抵抗感があった
    • [81]英国輸出信用保証局(ECGD)の年利6〜8%台の長期銀行融資制度から360万ポンド、アイルランドの優先株抱き合わせ融資制度から400万ポンドの借り入れの道が開いた
    • [82]海外での設備投資資金は現地通貨で調達するという原則を守り、200万ドルにのぼる為替損失を未然に防ぎ年間50万ポンド近い支払利息を節約した
  • 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
    • [83]1978年時点の会社概況はペルーのワンサラ鉱山・カタンガ鉱山・アイルランドの電解二酸化マンガン工場を挙げ、海外進出に意欲的と紹介している
参考文献[67]-[83]
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [67]銅・鉛・亜鉛などはロンドン金属取引所(LME)で外貨建てで相場が決まり、国内価格はLME価格を円換算して決められる
    • [68]円高になると国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石価格も下がるが収入となる製錬費もスライドして減る
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [69]1973年の石油ショックで非鉄金属産業は絶頂から反転し、以後長いリストラクチャリングへ向かった
    • [70]非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1950年代前半まで毎年約30万メートルだったが1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで落ち込んだ
    • [71]ザイールの銅鉱山は1972年、マムート鉱山は1975年に生産を開始し、ニクソンショック・石油ショックとぶつかった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
    • [72]八戸製錬は1969年2月に運転を開始し、月産を亜鉛6,000トン・鉛3,000トンへ引き上げる計画を持っていた
  • 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
    • [73]1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円、前年度比161億8,387万円(7.9%)の減収
    • [74]金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品・建材品の増販、第2回備蓄買付けがあったが、銅・亜鉛地金の価格の大幅な下落で減収となった
    • [75]営業利益は前年度の123億円から14億円へ減少した
    • [76]1978年3月期は経常損益で82億1,770万円の損失、当期損失45億9,307万円、無配
    • [77]1978年時点の在籍人員は男6,649名・女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年
    • [83]1978年時点の会社概況はペルーのワンサラ鉱山・カタンガ鉱山・アイルランドの電解二酸化マンガン工場を挙げ、海外進出に意欲的と紹介している
  • 日経ビジネス 1977年11月21日号
    • [78]1973年 三井金属鉱業の小松忠三郎資金課長がアイルランドへ渡った
    • [79]電解二酸化マンガンの製造会社・三井デンマン設立のプロジェクトチームの一員で、資本金以外の資金は現地調達との前提が決められていた
    • [80]当時の英国公定歩合は13%台と高く、高利の資金導入には抵抗感があった
    • [81]英国輸出信用保証局(ECGD)の年利6〜8%台の長期銀行融資制度から360万ポンド、アイルランドの優先株抱き合わせ融資制度から400万ポンドの借り入れの道が開いた
    • [82]海外での設備投資資金は現地通貨で調達するという原則を守り、200万ドルにのぼる為替損失を未然に防ぎ年間50万ポンド近い支払利息を節約した

1980年〜鉱山を切り離し電子材料へ重心を移す

1980年12月23日、三井金属鉱業は三井金属箔製造と三金レア・アースの2社を吸収合併した。銅箔はプリント基板に張り合わせる素材で、コンピューター産業に欠かせない。1988年には日本鉱業が世界シェア約4割を握る米国の銅箔メーカー、グールドを10億5,000万ドルで買収しており、市況で値の決まる商品とは違う電子材料の分野で業績の安定を図ろうとする動きが非鉄各社にあった。1981年3月期の三井金属鉱業の売上高は2,738億1,157万円で、前年度比108億円、3.8%の減収、経常損益は43億9,801万円の損失であった。地金部門の販売不振に加え、円高の持続による目減り、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的な不足から生じた買鉱条件の悪化が重なった

  • 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
    • [84]1980年12月23日 三井金属箔製造・三金レア・アースの2社を吸収合併した
    • [87]1981年3月期の売上高は2,738億1,157万円、前年度比108億円(3.8%)の減収、経常損益は43億9,801万円の損失
    • [88]地金部門の販売不振、円高の持続に伴う目減り、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的不足による買鉱条件の悪化が重なった
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [85]銅箔はプリント基板に張り付ける素材で、コンピューター産業には欠かせない
    • [86]1988年 日本鉱業が世界シェア約40%の米国の銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収し、市況商品と違う電子材料分野で業績の安定を図ろうとした

1981年3月期の事業構成は、亜鉛地金12%、鉛3%、銅23%、銅加工品10%、亜鉛加工品5%、化成品9%、建材品4%、その他34%であった地金の3部門を合わせても3分の1をわずかに上回るにすぎず、会社の名が掲げる鉱業はすでに売上高の一部でしかなくなっていた。1985年9月のプラザ合意を引き金とする円高は、この構造に最後の圧力を加えた。日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第一位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の従業員の合理化を伴う整理であった。1985年4月に59を数えた稼働中の金属鉱山は、1988年4月には29まで減った。三井金属鉱業は1986年に岡山県の日比製錬所を閉め、銅の製錬を日本鉱業の佐賀関製錬所へ委託した

  • 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
    • [89]1981年3月期の事業構成は亜鉛地金12%・鉛3%・銅23%・銅加工品10%・亜鉛加工品5%・化成品9%・建材品4%・その他34%
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [90]1985年9月のプラザ合意を引き金とする円高が非鉄金属鉱業の本格的な国際化の時代を開いた
    • [91]日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第一位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の従業員の合理化を伴った
    • [92]1985年4月に59あった稼働中の金属鉱山は1988年4月には29まで減少した
    • [93]三井金属は1986年に岡山県の日比製錬所を閉鎖し、日本鉱業の佐賀関製錬所へ銅の製錬を委託した

1986年、三井金属鉱業は東洋一といわれた亜鉛鉱山の神岡を別会社として本体から切り出した同和鉱業も小坂と花岡を分離しており、国内鉱山の整理は業界に共通する動きであった。海外でも同じことが起きた。日本鉱業を中心とする産銅六社の一社として加わったザイールのムソシ銅鉱山は、周辺国の政情不安で鉱石の輸送ルートの確保に苦労し、1983年に現地鉱山会社をザイール政府へ譲渡して、参加各社は総額約530億円の損失を出して全面撤退した三菱金属を幹事とする七社の一社として加わったマレーシアのマムート鉱山も、円高のなかで1987年に経営権を現地側へ委ねた。海外での探鉱費と開発費は、1971年から1975年の1,317億円をピークに、1981年から1985年には約3割の416億円まで縮小した資源を自ら持つことを競争力の源としてきた会社にとって、これは前提そのものの喪失であった。

  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [94]1986年 三井金属は東洋一といわれた亜鉛鉱山の神岡を別会社化した
    • [95]同和鉱業も小坂・花岡を分離し、1986年から1987年にかけて国内鉱山の閉山・分離が集中した
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [96]ザイールのムソシ銅鉱山は輸送ルート確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡、総額約530億円の損失を出して全面撤退した
    • [97]マムート鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
    • [98]海外での探鉱費・開発費は1971〜1975年の1,317億円をピークに、1981〜1985年にはピーク時の約3割の416億円へ落ち込んだ
参考文献[84]-[98]
  • 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
    • [84]1980年12月23日 三井金属箔製造・三金レア・アースの2社を吸収合併した
    • [87]1981年3月期の売上高は2,738億1,157万円、前年度比108億円(3.8%)の減収、経常損益は43億9,801万円の損失
    • [88]地金部門の販売不振、円高の持続に伴う目減り、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的不足による買鉱条件の悪化が重なった
    • [89]1981年3月期の事業構成は亜鉛地金12%・鉛3%・銅23%・銅加工品10%・亜鉛加工品5%・化成品9%・建材品4%・その他34%
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
    • [85]銅箔はプリント基板に張り付ける素材で、コンピューター産業には欠かせない
    • [86]1988年 日本鉱業が世界シェア約40%の米国の銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収し、市況商品と違う電子材料分野で業績の安定を図ろうとした
    • [90]1985年9月のプラザ合意を引き金とする円高が非鉄金属鉱業の本格的な国際化の時代を開いた
    • [91]日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第一位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の従業員の合理化を伴った
    • [92]1985年4月に59あった稼働中の金属鉱山は1988年4月には29まで減少した
    • [93]三井金属は1986年に岡山県の日比製錬所を閉鎖し、日本鉱業の佐賀関製錬所へ銅の製錬を委託した
    • [94]1986年 三井金属は東洋一といわれた亜鉛鉱山の神岡を別会社化した
    • [95]同和鉱業も小坂・花岡を分離し、1986年から1987年にかけて国内鉱山の閉山・分離が集中した
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [96]ザイールのムソシ銅鉱山は輸送ルート確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡、総額約530億円の損失を出して全面撤退した
    • [97]マムート鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
    • [98]海外での探鉱費・開発費は1971〜1975年の1,317億円をピークに、1981〜1985年にはピーク時の約3割の416億円へ落ち込んだ

第3章 1990-2008 (気が向いたら執筆します!) 排ガス浄化触媒の海外生産とパンパシフィック・カッパー、MAP500による電子材料集中

第4章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) 赤字からカセロネス銅山の開発と譲渡、過去最高益と三井金属への改称

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歴史年表 1874〜2025年

三井金属の沿革1874〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1874〜1971年三井財閥の鉱山事業と神岡鉱山を核とし非鉄一貫体制の形成三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を取得・鉱山経営を開始★★
三井鉱山を設立★★
大牟田亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入
鈴木商店経営の彦島亜鉛製煉工場を買収★★
昭和鉱業から日比製煉工場・竹原電煉工場を買収★★
佐藤久喜三井鉱山からの金属部門の切り離しと、東京証券取引所への上場

1950年5月1日、財閥解体にともなう企業再建整備法の決定整備計画にもとづき、三井鉱山の金属部門を分離して神岡鉱業株式会社(資本金6億円)が創立された。同年10月に東京証券取引所第一部へ上場し、1952年12月に商号を三井金属鉱業へ改めた。現在の三井金属鉱業の直接の出発点にあたる。

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★★★
佐藤久喜東京証券取引所に株式上場
佐藤久喜商号を三井金属鉱業に変更
高口正俊伸銅事業部・ダイガスト事業部を新設
高林敏巳ペルー・ワンサラ鉱山の権益取得
高林敏巳八戸製錬を設立
高林敏巳日比共同製錬を設立
1972〜1989年イタイイタイ病補償と無配、神岡鉱山の縮小と銅箔、再建計画の人員削減尾本信平控訴審敗訴を受けた責任の全面的な引き受けと、公害防止協定・土壌復元の締結

1972年8月9日、名古屋高裁金沢支部はイタイイタイ病訴訟の控訴審で被害者を全面勝訴とし、三井金属鉱業は上告せず賠償に応じた。翌日には賠償の誓約書・公害防止協定・土壌復元の誓約書を結び、賠償と公害対策の負担が円高と重なって同社は無配へ転落した。神岡鉱業所のカドミウムがもたらした公害の責任を、経営再建と並行して引き受けた判断。

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★★★
尾本信平Oak-Mitsui, Inc.を設立・銅箔の現地生産を開始
高島節男神岡鉱山で段階的に規模縮小★★
高島節男三井金属箔・三金レアアースを吸収合併・上尾銅箔工場を新設
高島節男再建計画を策定・大規模な人員削減へ
真島公三郎希望退職者を追加募集
真島公三郎GECOM Cori.を設立・自動車部品の海外生産を開始
川北徹半導体向けTABテープの製造子会社を設立
1990〜2008年排ガス浄化触媒の海外生産とパンパシフィック・カッパー、MAP500による電子材料集中川北徹TKR事業部・パーライト事業部を設置
宮村眞平排ガス浄化触媒の海外生産を本格化
宮村眞平本社を移転
宮村眞平日鉱金属と共同でパンパシフィック・カッパーを設立★★
宮村眞平鉱山の段階的縮小と、銅箔・TABを柱とする事業への転換

三井金属鉱業は、円高とイタイイタイ病補償で競争力を失った神岡鉱山を1978年から段階的に縮小し、2001年に約130年続いた自山からの採掘を止めた。並行して1976年の米Oak-Mitsui設立を皮切りに銅箔・TABなど電子材料へ軸を移し、2001年の中期経営計画"MAP500"で電子材料をコア事業と定めた。

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★★★
宮村眞平大井製作所を完全子会社化
槇原紘ペルー・パルカ鉱山を操業開始
2009〜2026年赤字からカセロネス銅山の開発と譲渡、過去最高益と三井金属への改称竹林義彦最終赤字に転落
仙田貞雄チリのカセロネス鉱山の権益を共同取得・PPCを共同設立
仙田貞雄伸銅事業を住友金属鉱山と統合
仙田貞雄三井金属アクトを設立(自動車機器事業統合)
仙田貞雄ダイカスト事業を分離・三井金属ダイカストを設立
仙田貞雄チリ・カセロネス銅鉱山が本格操業開始★★
西田計治チリ・カセロネス銅鉱山の権益を譲渡★★
納武士三井金属エンジニアリングをTOBにより完全子会社化
納武士過去最高益を達成
納武士日本イットリウムを完全子会社化
納武士商号を三井金属に変更
出典・参考 13件
出典・参考
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
  • 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
  • 日経ビジネス 1977年11月21日号
  • 新日本経済(1956年6月)
  • 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
  • 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
  • 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
  • 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)

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