かつての収益事業は、神岡鉱山(岐阜県)における亜鉛・鉛の採掘。世界有数の産出量を誇り、明治時代から三井財閥、戦後は三井金属の業績を支え続けた優良鉱山であった。それゆえに、国内の非鉄金属会社の中でも三井金属は一目を置かれる存在であり、明治時代以降に三井家が「三井財閥」として発展するうえで、重要な収益源であった。
しかし、1970年代以降は円高ドル安の進行による人件費の高騰により、労働集約的な鉱山業の採算が悪化。三井金属は、人員削減によって神岡鉱山(従事者数:2000名以上)を始めとする各事業所で従事者を減らし、数千人単位で発生した余剰人員は希望退職ないし、新規展開を図った多角部門(自動車部品や電子材料など)に異動させることで対応した。とはいえ、鉱山における人員縮小は、新しい職を求めて住み慣れた土地を捨てることを意味し、削減対象となった人員の家族も苦労を背負った。
したがって、労働組合は人員削減に反発、歴代社長は泥炭の苦労を味わっており、人員削減を告げる総務担当者は命の危険を晒す状況であった。加えて、三井グループ企業は、総じて労働組合との関係構築が苦手であり、その筋の過激派が紛れやすいことも三井金属に災いした。ゆえに、総務でリストラを推進した当事者が、社長として抜擢されるなど、1990年代まではリストラ推進の可否が、三井金属における「最重要経営課題」であった。
結果として、三井金属の経営陣は混乱を最小化するために、国内鉱山の段階的な縮小を選択。2001年に最大の懸案事項であった「神岡鉱山の閉山」に至り、三井金属の主力事業を製錬・自動車部品(ドアロック)・電子材料(基板向け銅箔)へと転換。ドラスティックな業態転換を成し遂げた。1978年に打ち出した国内鉱山の縮小決定から、約20年以上をかけた長期にわたる撤退戦であった。
ただし、国内鉱山に代わる新規事業の展開は、雇用吸収を目的として展開され、結果として事業競争力に課題感を伴った。これは、新規事業展開における第一義の目的が「雇用吸収」にあったためである。
現在の三井金属は、非鉄市況に左右(製錬事業の収益)に一喜一憂する状態であり、各事業における競争力に課題感があるが、背景を辿れば、雇用吸収を経営の優先事項として、事業展開を図った結果でもある。つまり、業態転換を完遂して企業存続を果たしつつ「ある程度の雇用維持」を図った点は「功」にあたるが、その結果として個別の事業採算に甘さが出たのは「罪」に相当する。
1874年(明治7年)に三井組は岐阜県の神岡鉱山(蛇原平坑)を明治政府から払い下げを受けて、鉱山経営に参入した。神岡鉱山は日本国内で「亜鉛」を産出する最大の鉱山であり、1970年代までは優良鉱山として知られて三井金属の経営を支えた。
三井財閥では、金属鉱山(神岡など)と炭鉱(三池など)の鉱業について同一会社で運営するために、1892年6月(明治25年)に三井鉱業合名会社を設立。三井財閥における国内の資源開発(鉱山経営)に従事した。
終戦後の財閥解体を受けて、旧三井鉱業において「炭鉱部門(石炭)」と「非鉄金属」の事業分離を決定。1950年に炭鉱部門については三井鉱業(旧三井鉱業)、非鉄金属鉱山については三井金属鉱業を発足した。なお、分離直後は財閥商号の利用が許可されなかったため、1952年までの三井金属鉱業は「神岡鉱業」の商号を用いた。
1971年のニクソンショックにより円高ドル安(360円/ドル)が進行し、日本国内における鉱山経営の国際競争力が低下。三井金属鉱業も国内における非鉄鉱山の採掘・製錬について採算が悪化する経営課題に直面した。
ところが、三井金属は世界有数の亜鉛産出量を記録する神岡鉱山を保有しており、国内の競合他社(住友金属工業の別子銅山など)の非鉄金属鉱山と比べて優位であったため、結果として神岡鉱山の縮小に関する意思決定が数年遅れた。1975年3月末時点において神岡鉱業所に従事する社員数は2284名であり、これら人員の移動ないし削減が経営上の重要課題となった。
1978年に三井金属鉱山は神岡鉱山の縮小を決定。この時点では閉鎖を決定せず、採掘量の減産および人員削減を実施した。このため、数年おきに数百人規模の人員削減を実施した。
ところが、削減は不十分であり、1985年のプラザ合意によって円高ドル安がさらに進行したことで経営状況が悪化。1986年に三井金属鉱業は神岡鉱山を完全子会社「神岡鉱業」として分離した。以降も、1994年に鉱石からの鉛精錬中止、1996年に人員20%の削減など、生産および人員の規模縮小を継続した。
2001年6月に三井金属は神岡鉱業における「神岡鉱山」の閉山を決定。約130年にわたる三井における鉱山経営に終止符を打った。閉山後の神岡鉱業は「リサイクル製錬・水力発電・地下施設利用等」に事業転換した。
閉山に至る意思決定が遅れた理由は、当時社長(尾本氏)が雇用維持を優先したことや、労働組合からの解雇反対(三井財閥系の企業は歴史的に労使関係が悪い)や、神岡周辺の自治体への配慮(神岡鉱山の周辺には雇用を吸収できる産業が存在しない)であったと推察される。
2024年3月期において神岡鉱業(社員数525名)は三井金属の完全子会社として製錬業などに従事し、売上高435億円・営業利益61億円を確保。鉛リサイクルや、製錬による非鉄金属の製造販売に従事しており、金属市況の高騰によって業績好調を維持している。