1857年〜 釜石の高炉から官営製鉄所へ、日本製鐵の成立と解体
- 1857年 日本初の洋式高炉が火入れ
- 1896年 政府が官営八幡製鉄所を創設
- 1901年 官営八幡製鐵所が操業を開始
- 1934年 官営八幡製鉄所と民間5社の合同により日本製鐵を設立
官営八幡製鉄所と、大合同を求め続けた答申
日本の近代製鉄は、1857年に釜石で洋式高炉へ火が入った[1]ところから始まる。しかし民間の製鉄業は自立せず、政府は1896年(明治29年)に官営の八幡製鉄所を創設した[2]。操業開始は1901年、鋼材の年産能力は9万トン[3]だった。以後も政府は鉄鋼業を確立するため手厚い育成策をとり、しばしば調査委員会を設けて方策を審議したが、根本策として一大合同会社の設立を答申するもの[4]が多かった。大正12年の関東大震災の復興策としてとられた輸入鋼材への無税措置が、かえって国内の製鉄業を圧迫した[5]ためである。
- 日本製鉄公式サイト ヒストリー
- [1]1857年 釜石で洋式高炉に火入れ
- [3]明治34年 操業開始 鋼材年産9万トン
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [2]明治29年 政府が官営八幡製鉄所を創設
- [4]政府の手厚い育成策と調査委員会 答申の多くが一大合同会社の設立を根本策に
- [5]大正12年 関東大震災後の輸入鋼材無税措置が鉄鋼業を圧迫
大正14年の製鉄鋼調査会の答申[6]は、日本で製鉄業が経済的に成立する可能性は十分あるとしたうえで、業態が不安定なのは官営八幡製鉄所以外に基盤の強固な銑鋼一貫メーカーが少なく、各社が無益の競争に走って経営不振に陥っている[7]ためだと分析した。その処方箋として示されたのが、八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営[8]である。もっとも合同構想は消費者側の反対もあり、その後も長く実現しなかった[9]。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [6]大正14年 製鉄鋼調査会の答申
- [7]答申の分析 銑鋼一貫メーカーの少なさと無益の競争による経営不振
- [8]答申の処方箋 八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営
- [9]合同構想は消費者側の反対で長く実現せず
- 日本製鉄公式サイト ヒストリー
- [1]1857年 釜石で洋式高炉に火入れ
- [3]明治34年 操業開始 鋼材年産9万トン
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [2]明治29年 政府が官営八幡製鉄所を創設
- [4]政府の手厚い育成策と調査委員会 答申の多くが一大合同会社の設立を根本策に
- [5]大正12年 関東大震災後の輸入鋼材無税措置が鉄鋼業を圧迫
- [6]大正14年 製鉄鋼調査会の答申
- [7]答申の分析 銑鋼一貫メーカーの少なさと無益の競争による経営不振
- [8]答申の処方箋 八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営
- [9]合同構想は消費者側の反対で長く実現せず
一所五社の合同による日本製鐵の発足
転機は昭和5年の臨時産業審議会の答申[10]だった。昭和7年5月に斎藤実内閣が成立して商工大臣に中島久万吉氏が就く[11]と、日本製鉄株式会社法が議会に上程されて成立し、翌8年4月に公布された[12]。これを受けて1934年(昭和9年)1月29日、官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鉄・釜石鉱山・三菱製鉄・富士製鋼・九州製鋼の一所五社が合同[13]し、日本製鐵が発足した。創立総会は東京丸の内の日本工業倶楽部で開かれ、設立委員長の中島久万吉氏が経過を報告したのち、中井励作氏が初代社長に選ばれている[14]。営業開始は2月1日[15]だった。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [10]昭和5年 臨時産業審議会の答申
- [11]昭和7年5月 斎藤実内閣成立 商工大臣に中島久万吉
- [12]昭和8年4月 日本製鉄株式会社法の公布
- [13]昭和9年1月29日 一所五社の合同で日本製鐵が発足
- [14]創立総会 日本工業倶楽部 設立委員長 中島久万吉 初代社長 中井励作
- [15]昭和9年2月1日 営業開始
発足時の従業員は4万5847人[16]、銑鉄は約118万トンで国内シェア96%、粗鋼は201万トンで52%、普通鋼材は143万トンで45%[17]を占めた。ただし所期の合併効果は、大合同構想が具体化したころに景気が回復したことで薄まっている[18]。参加を予定していた日本鋼管・浅野造船製鉄所・浅野小倉製鋼・東海鋼業・大阪製鉄の5社が、中島商工相の強い説得にもかかわらず参加をしぶった[19]からである。加えてインド銑や満州の鞍山銑が流入し、世間の景気回復のなかで鉄の市況だけが好転しない[20]状態が続いた。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [16]発足時の従業員 4万5847人
- [17]銑鉄約118万トン シェア96%・粗鋼201万トン 52%・普通鋼材143万トン 45%
- [18]景気回復により所期の合併効果が薄まる
- [19]参加予定5社が中島商工相の説得にもかかわらず辞退
- [20]インド銑・満州の鞍山銑の流入で鉄の市況が好転せず
寄り合い世帯となった日鉄の内部は、必ずしもしっくりいっていなかった[21]。昭和15年には、平生釟三郎会長が秘書として連れてきた藤井丙午氏と、原料課長の永野重雄氏らが日鉄改革を要求[22]し、官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げて全役員を辞任へ追い込んだ[23]。日鉄クーデター事件と呼ばれるこの騒動の結果、役員は総入れ替えとなり、平生釟三郎氏が社長に就いた[24]。昭和16年4月に鉄鋼統制会が発足すると日鉄社長が会長を兼ねる[25]仕組みがとられ、統制会の要職は満州系の人脈で占められた。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [21]寄り合い世帯の日鉄内部はしっくりいかず
- [22]昭和15年 日鉄クーデター事件 藤井丙午・永野重雄らが日鉄改革を要求
- [23]官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げ全役員が辞任
- [24]役員総入れ替えの結果 平生釟三郎が社長に就任
- [25]昭和16年4月 鉄鋼統制会発足 日鉄社長が会長を兼務
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [10]昭和5年 臨時産業審議会の答申
- [11]昭和7年5月 斎藤実内閣成立 商工大臣に中島久万吉
- [12]昭和8年4月 日本製鉄株式会社法の公布
- [13]昭和9年1月29日 一所五社の合同で日本製鐵が発足
- [14]創立総会 日本工業倶楽部 設立委員長 中島久万吉 初代社長 中井励作
- [15]昭和9年2月1日 営業開始
- [16]発足時の従業員 4万5847人
- [17]銑鉄約118万トン シェア96%・粗鋼201万トン 52%・普通鋼材143万トン 45%
- [18]景気回復により所期の合併効果が薄まる
- [19]参加予定5社が中島商工相の説得にもかかわらず辞退
- [20]インド銑・満州の鞍山銑の流入で鉄の市況が好転せず
- [21]寄り合い世帯の日鉄内部はしっくりいかず
- [22]昭和15年 日鉄クーデター事件 藤井丙午・永野重雄らが日鉄改革を要求
- [23]官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げ全役員が辞任
- [24]役員総入れ替えの結果 平生釟三郎が社長に就任
- [25]昭和16年4月 鉄鋼統制会発足 日鉄社長が会長を兼務
賠償指定の回避と、集排法による解体
日本の鉄鋼生産は昭和18年の約770万トンを戦前の頂点として、19年に690万トン、終戦の20年には200万トン[26]へ落ち込んだ。敗戦直後に重くのしかかった賠償問題では、昭和20年12月のポーレー中間報告が年産250万トンの製鋼能力を超える設備の全面撤去を求め[27]、そのまま実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を失う[28]内容だった。極東委員会の報告では鉄鋼22工場が賠償指定を受け、日鉄では釜石を除く4工場が対象[29]となった。決定権が連合国側にある以上[30]、手の施しようがなかった。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [26]鉄鋼生産 昭和18年 約770万トン→19年690万トン→20年200万トン
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
- [27]昭和20年12月 ポーレー中間報告 年産250万トン超の製鋼設備の全面撤去
- [28]実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を撤去
- [29]極東委員会報告で鉄鋼22工場が賠償指定 日鉄は釜石を除く4工場
- [30]決定権が連合国側にあり手の施しようがなかった
昭和22年春にアメリカの対日方針が変わる[31]と、賠償問題も動いた。ストライク報告は日本の経済自立のために鉄鋼業から賠償物件を撤去すべきではないとし[32]、昭和28年の需要として鋼材488万トンという数字[33]を掲げた。国内では昭和21年5月に八幡製鉄所長の三鬼隆氏が社長へ就き[34]、同年12月末の閣議決定で石炭と鉄鋼の傾斜生産方式が正式に決まって[35]いる。占領政策の転換によって原料輸入も再開し、鉄鋼業は生気を取り戻した[36]。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
- [31]昭和22年春 アメリカの対日方針が転換
- [32]ストライク報告 鉄鋼業から賠償物件を撤去せず
- [33]ストライク報告が掲げた昭和28年の需要 鋼材488万トン
- [34]昭和21年5月 八幡製鉄所長の三鬼隆が社長に就任
- [35]昭和21年12月末 閣議決定で石炭・鉄鋼の傾斜生産方式
- [36]占領政策の転換で原料輸入が再開し鉄鋼業が回復
日鉄は財閥ではないものの、傘下に多くの子会社を持ち持株会社の性格を帯びていたため、昭和21年12月の第二次指定40社に加えられた[37]。分割は日本経済の自立にかえって不利になると反論したが容れられず[38]、GHQのアンチ・トラスト課からは、八幡と釜石・輪西をそれぞれ一本とする二社分割案[39]が示される。昭和22年12月に過度経済力集中排除法が公布されると、日鉄は翌23年2月に指定企業となり[40]、同年12月付で再編成計画の決定指令を受けた[41]。
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
- [37]昭和21年12月 持株会社の第二次指定40社に日鉄
- [38]日鉄は分割が経済自立に不利と反論したが容れられず
- [39]GHQアンチ・トラスト課の解体案 八幡と釜石・輪西の二社分割
- [40]昭和22年12月 過度経済力集中排除法の公布・昭和23年2月 日鉄が指定企業に
- [41]昭和23年12月付 再編成計画の決定指令
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
- [26]鉄鋼生産 昭和18年 約770万トン→19年690万トン→20年200万トン
- 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
- [27]昭和20年12月 ポーレー中間報告 年産250万トン超の製鋼設備の全面撤去
- [28]実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を撤去
- [29]極東委員会報告で鉄鋼22工場が賠償指定 日鉄は釜石を除く4工場
- [30]決定権が連合国側にあり手の施しようがなかった
- [31]昭和22年春 アメリカの対日方針が転換
- [32]ストライク報告 鉄鋼業から賠償物件を撤去せず
- [33]ストライク報告が掲げた昭和28年の需要 鋼材488万トン
- [34]昭和21年5月 八幡製鉄所長の三鬼隆が社長に就任
- [35]昭和21年12月末 閣議決定で石炭・鉄鋼の傾斜生産方式
- [36]占領政策の転換で原料輸入が再開し鉄鋼業が回復
- [37]昭和21年12月 持株会社の第二次指定40社に日鉄
- [38]日鉄は分割が経済自立に不利と反論したが容れられず
- [39]GHQアンチ・トラスト課の解体案 八幡と釜石・輪西の二社分割
- [40]昭和22年12月 過度経済力集中排除法の公布・昭和23年2月 日鉄が指定企業に
- [41]昭和23年12月付 再編成計画の決定指令