1968年4月16日に毎日新聞は1面トップ記事において「八幡・富士鉄合併へ」「両社長が基本的に合意」と報道。公式発表を前に毎日新聞が合併を報道する形となり、鉄鋼業界におけるトップ2社が合併計画を策定していることが世間に知らされた。この報道を受けて、富士製鐵(永野重雄・社長)と、八幡製鉄(稲山嘉寛社長)は、合併に向けて本格的に調整に動き始めた。
すでに、1966年に富士製鉄の永野重雄社長は「東西2大製鉄論」を展開して、国内における鉄鋼メーカーの集約を議論していた。1960年代を通じて鉄鋼業界では「八幡製鉄・富士製鐵・日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼」の大手6社が高炉を複数備える製鉄所の新設競争を講じており、この結果として過当競争になる恐れが存在していた。このため、永野社長は業界再編のチャンスを伺っており、独禁法など、世間からの反応を伺うジャブを打っていた。
一方、八幡製鐵の稲山社長は毎日新聞によるスクープの裏取りに際して、富士製鐵の永野社長による合併構想を肯定。これにより、1968年の時点で富士製鐵と八幡製鉄は合併に対して肯定的となり、合併への計画を本格始動させるに至った。
なお、富士製鐵と八幡製鉄は、戦時中までは「日本製鐵」として経営され、戦後に会社分割された経緯があり、両者の出自が同じである点も合併に至る1つの理由となった。
1966年7月に東西2大製鉄論を唱えてみたが、実は八幡との合併を頭においてのことだった。八幡・富士合併という代わりに、二大製鉄という言葉を使ってみたのだ。鉄鋼の設備調整は年中行事のように揉める。そして、片端から高炉を建てて市況は下がる。なんとかしなくてはならないという気持ちから発言した。世間がどんな反応を示すかみてみたかったのだ。(略)
(注:戦時中の)日鉄当時、同じカマのメシを食った連中が大勢いる間でないと合併はできない。私か、稲山くんのどちらかが欠ければ、この合併はできなかっただろう。
合併における最大のボトルネックが、経済学者を中心として「独禁法に抵触する」という議論が勃発した点であった。1968年4月21日に富士製鐵と八幡製鉄は、公正取引委員会に対して「合併趣意書」を提出。両社を合算した鉄鋼のシェアは35%であり、寡占状態では無いことから当初はスムーズに受理されると思われていた。
ところが、1968年6月15日に、内田忠夫氏などの近代経済学者(合計90名が署名。うち86名が合併に懸念表明)が「大型合併についての意見書」を提出し、大型合併について「黙って見過ごすにはあまりにも重大なものを感じさせる」として、独禁法の観点から合併に反対して横槍を入れた。
これに対して、富士製鐵の永野社長は「病理学者と臨床医の意見の違い」と発言して、近代経済学者の提言を一蹴したものの、合併の推進が一時的に妨げられる形となった。
後述の通り合併は実現したため、近代経済学者による合併妨害の意見は通らず、逆に経済学者における政治的影響力の低下を象徴する転換点となった。すなわち、終戦直後の傾斜生産方式の方針策定など、経済学者の意見が政治を動かした時代も存在したが、1968年までに相対的に影響力が低下したことを意味した。
新日鐵の合併発足を受けて、近代経済学者の内田忠夫氏(東京大学・教授)は「正直言って敗北感を感じないわけにはいかない」と吐露したという。(出所:『新日鉄誕生す』より)
館竜一郎、小宮隆太郎、内田忠夫、建元正弘氏ら現役で活躍中の近代経済学者90人が八幡・富士など最近の大型合併に反対する意見書を発表。合併の当事者ばかりでなく、政府、財界、公正取引委員会など各方面に波紋を呼んでいる。
意見書は合併に反対という言葉こそ使っていないが、その内容やアンケートの結果はきびしい批判で貫かれている。そして最も強調しているのが「企業間の競争は戦後の日本経済発展の原動力の役割を果たしてきたが、もし仮に独禁法を変更あるいは有名無実化して競争を制限したり、私的独占を認めるならば、日本経済の原動力がついには衰退し、今後の健全で民主的な発展は重大な障害に直面する」と警告、日本経済の将来に危機感を強めている。(略)
政府、財界あるいは政府諮問機関から出てくる意見は全て合併支持一色というわけだが、これでは大型合併が日本経済の将来に及ぼす重要性と、公取委の公正な判断を誤らす恐れが強いため「やむに止まれず行動を起こした」と、世話人たちは意見書発表に至った動機を語っている。
1969年5月に公正取引委員会は、東京高裁に対して合併差し止めの緊急停止命令を申し立て、合併は暗礁に乗り上げた。差し止めの理由は、鉄鋼全般におけるシェアは30%であるものの、鉄道用レールなどの一部の品目で寡占が形成されることを拒絶の根拠とした。
これに対して、1968年8月に自民党経済調査会は現行独禁法の欠陥について意見を表明。独禁法が終戦直後の占領時代に策定されたものであり、自由競争の時代を迎えた現代には適合しないと判断し、現行独禁法の改正を示唆して富士製鐵と八幡製鉄の合併を支持した。
なお、自民党が公表した『現行独禁法体制の中間報告書』において「現行法の体制には多くの不備を生じている」と結論づけ、公正取引委員会を「閉鎖的」と痛烈に批判した。
これらの経緯もあり、1969年10月に公正取引委員会は「同意審決書」を提示して合併を認めた。一連の混乱を受けて、1969年11月に公正取引委員会の山田精一委員長は辞任した。なお、山田精一氏は公取委の委員長辞任の理由について、一切語ることなく、1991年に逝去した。
(1)企業の自由公正な競争理念を基礎として、日本経済の民主化と発展にこれまで貢献した役割は勿論評価すべきではあるが、
(2)他面、社会経済の実態および国際的環境が著しく変化した今日、資本自由化の進行、巨大な世界企業の出現、広汎な技術と産業力の総合を必要とするいわゆるシステム産業育成の必要性など、新事態に対応して、現行法の体制には多くの不備を生じていることは看過し得ないものがある。
(3)したがって、現行独禁法の体制をこのまま維持するときは、新しい時代の要請に適応しようとするわが国産業構造の新編成と今後の経済発展に障害となることが憂慮される。(略)
法の運用が公正取引委員会の閉鎖的判断に委ねられる場合が多いことは、重要な産業経済の指導指針が時として公正取引委員会の硬直的見解に左右されることとなり、国政上も問題があるのでこの建前は是正されなければならない
1970年3月31日に富士製鐵と八幡製鉄の合併が成立し、新日本製鐵株式会社が発足した。粗鋼生産量では世界一の企業となり、従業員数8.2万名の大企業が発足した。国内における銑鉄生産量ではシェア44%、粗鋼ではシェア35%となり、国内の製鉄業においてもトップ企業となった。
合併後の経営陣については、会長に永野氏(旧富士製鐵社長)、社長に稲山氏(旧八幡製鐵社長)が就任し、副社長6名、専務取締役6名、常務取締役14名、取締役12名の体制をとった。
戦後の経済問題で、八幡・富士合併ほど天下の耳目を集めた事件は少ない。昭和43年4月、稲山・八幡、永野・富士鉄社長が合併への意思表示を行なってから、合併の可否、あるいは独禁法の運用をめぐって世論は沸騰し、学者の論戦は火花を散らした。
財界は、この合併を通じて独禁法に挑戦し、産業再編成、大型合併、寡占経済移行の突破口にしようとすれば、政府は国際化時代における本格的な世界企業の誕生を歓迎する閣議申し合わせを行うなど、慰霊の支援態勢を取った。
一方、近代経済学者グループは、この合併実現が、独禁法の目指す競争維持政策にとどめを指し、日本経済の健全な成長力を損なうとして反対運動に立ち上がれば、公取委労組もまた独禁法番人の使命感から、独禁法の厳正運用を公正取引委員会に申し入れるといった、これまた異例の動きを見せた。マンモスの威力に恐れをなす中小企業の懸念や、巨大産業による管理価格の発生を恐れる消費者の声が、これらの間に交錯した。
国内の鉄鋼業界の再編の流れを受けて、大手鉄鋼メーカーである住友金属工業との経営統合を決定。2012年10月に新日本製鐵と住友金属工業が統合し、新日鉄住金を発足した。
子会社であった日新製鋼の買収を決定し、987億円で取得(完全子会社化)を決定。高炉を保有する鉄鋼メーカー(呉製鉄所)であり、完全子会社化による日新製鋼は上場廃止となった。狙いは、製鉄所の過剰生産の是正であり、完全子会社化によって拠点閉鎖をスムーズに行うことを計画。日新製鋼における呉製鉄所の高炉停止を示唆した。
スウェーデンの特殊鋼(ベアリング向け)メーカーであるOVACO社を517億円で買収。特殊鋼のグローバル展開を意図
特殊鋼の強化を受けて、山陽特殊鋼の株式を追加取得(取得後51.5%を保有)により子会社化。OVACO社を山陽特殊鋼の子会社とすることで、特殊鋼事業について山陽特殊鋼を通じて遂行する体制へ。なお、買収後も山陽特殊鋼は株式上場を継続した