日本製鉄 の歴史

更新:

1901年操業の官営八幡製鐵所に始まり、1970年に八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日本製鐵が発足。住友金属工業との統合、USスチール買収までの沿革と経緯を執筆。

創業

1970年

創業者

※官営八幡製鐵所

創業地

東京都千代田区

直近売上高(2026/3)

100,632億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1970年に八幡製鐵と富士製鐵は再統合したのか
A 1970年3月の再統合は、戦後の集中排除法で旧日本製鐵が八幡製鐵と富士製鐵に割られた寡占の歪みを、四半世紀を経て逆転で解消するためだった。通商産業省の後押しを受けた両社合併で粗鋼生産は世界最大級へ達し、翌1971年6月稼働の大分製鉄所は臨海立地と連続鋳造を備え、伸びる自動車・建設の内需へ高付加価値鋼板を供給した。内陸の老朽設備と硬直した労使に苦しむ米鉄鋼業を生産性で追い越し、国内の高炉で高級鋼を磨く成長モデルがこの時期に定着した。
Q なぜ1999年以降に半導体・新素材から撤退し鉄鋼本業へ回帰したのか
A 1984年以降の半導体・シリコンウエハーへの多角化は、石油危機後に鉄鋼本業の成長性が構造的に細るとの危機感から、鉄鋼で培った品質管理を他分野へ応用しようとした試みだった。だが専業メーカーとの競争で相乗効果は乏しく、1999年4月にLSI事業部を廃止、2004年4月にシリコンウエハー事業部も廃して撤退した。約20年の遠回りの末に、国内の高炉で高級鋼を磨く路線が選び直された。歩留と操業練度に支えられた高炉材の品質は、自動車用鋼板で電炉材を寄せつけない優位となった。
Q なぜ2025年に約2兆円で米USスチールを買収したのか
A 2023年12月に公表し2025年6月18日に完了した米USスチールの買収は、国内粗鋼需要の構造的な縮小を海外で埋めるためだった。日本製鉄は米国市場を、先進国で唯一人口が長期的に増加し、関税で輸入品から保護され、高級鋼需要の伸びが見込める市場と位置づけた。北米日本製鉄が約141億ドルを投じて完全子会社化し、両社合算の粗鋼生産能力は年8,600万トン規模へ拡大した。バイデン前政権の差し止めをトランプ大統領が再審査で覆し、1970年の合併以来の国内主体の事業構造を再定義する決断となった

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1857年〜 釜石の高炉から官営製鉄所へ、日本製鐵の成立と解体

  1. 1857年 日本初の洋式高炉が火入れ
  2. 1896年 政府が官営八幡製鉄所を創設
  3. 1901年 官営八幡製鐵所が操業を開始
  4. 1934年 官営八幡製鉄所と民間5社の合同により日本製鐵を設立

官営八幡製鉄所と、大合同を求め続けた答申

日本の近代製鉄は、1857年に釜石で洋式高炉へ火が入った[1]ところから始まる。しかし民間の製鉄業は自立せず、政府は1896年(明治29年)に官営の八幡製鉄所を創設した[2]。操業開始は1901年、鋼材の年産能力は9万トン[3]だった。以後も政府は鉄鋼業を確立するため手厚い育成策をとり、しばしば調査委員会を設けて方策を審議したが、根本策として一大合同会社の設立を答申するもの[4]が多かった。大正12年の関東大震災の復興策としてとられた輸入鋼材への無税措置が、かえって国内の製鉄業を圧迫した[5]ためである。

  • 日本製鉄公式サイト ヒストリー
    • [1]1857年 釜石で洋式高炉に火入れ
    • [3]明治34年 操業開始 鋼材年産9万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [2]明治29年 政府が官営八幡製鉄所を創設
    • [4]政府の手厚い育成策と調査委員会 答申の多くが一大合同会社の設立を根本策に
    • [5]大正12年 関東大震災後の輸入鋼材無税措置が鉄鋼業を圧迫

大正14年の製鉄鋼調査会の答申[6]は、日本で製鉄業が経済的に成立する可能性は十分あるとしたうえで、業態が不安定なのは官営八幡製鉄所以外に基盤の強固な銑鋼一貫メーカーが少なく、各社が無益の競争に走って経営不振に陥っている[7]ためだと分析した。その処方箋として示されたのが、八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営[8]である。もっとも合同構想は消費者側の反対もあり、その後も長く実現しなかった[9]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [6]大正14年 製鉄鋼調査会の答申
    • [7]答申の分析 銑鋼一貫メーカーの少なさと無益の競争による経営不振
    • [8]答申の処方箋 八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営
    • [9]合同構想は消費者側の反対で長く実現せず
  • 日本製鉄公式サイト ヒストリー
    • [1]1857年 釜石で洋式高炉に火入れ
    • [3]明治34年 操業開始 鋼材年産9万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [2]明治29年 政府が官営八幡製鉄所を創設
    • [4]政府の手厚い育成策と調査委員会 答申の多くが一大合同会社の設立を根本策に
    • [5]大正12年 関東大震災後の輸入鋼材無税措置が鉄鋼業を圧迫
    • [6]大正14年 製鉄鋼調査会の答申
    • [7]答申の分析 銑鋼一貫メーカーの少なさと無益の競争による経営不振
    • [8]答申の処方箋 八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営
    • [9]合同構想は消費者側の反対で長く実現せず

一所五社の合同による日本製鐵の発足

転機は昭和5年の臨時産業審議会の答申[10]だった。昭和7年5月に斎藤実内閣が成立して商工大臣に中島久万吉氏が就く[11]と、日本製鉄株式会社法が議会に上程されて成立し、翌8年4月に公布された[12]。これを受けて1934年(昭和9年)1月29日、官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鉄・釜石鉱山・三菱製鉄・富士製鋼・九州製鋼の一所五社が合同[13]し、日本製鐵が発足した。創立総会は東京丸の内の日本工業倶楽部で開かれ、設立委員長の中島久万吉氏が経過を報告したのち、中井励作氏が初代社長に選ばれている[14]。営業開始は2月1日[15]だった。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [10]昭和5年 臨時産業審議会の答申
    • [11]昭和7年5月 斎藤実内閣成立 商工大臣に中島久万吉
    • [12]昭和8年4月 日本製鉄株式会社法の公布
    • [13]昭和9年1月29日 一所五社の合同で日本製鐵が発足
    • [14]創立総会 日本工業倶楽部 設立委員長 中島久万吉 初代社長 中井励作
    • [15]昭和9年2月1日 営業開始

発足時の従業員は4万5847人[16]、銑鉄は約118万トンで国内シェア96%、粗鋼は201万トンで52%、普通鋼材は143万トンで45%[17]を占めた。ただし所期の合併効果は、大合同構想が具体化したころに景気が回復したことで薄まっている[18]。参加を予定していた日本鋼管・浅野造船製鉄所・浅野小倉製鋼・東海鋼業・大阪製鉄の5社が、中島商工相の強い説得にもかかわらず参加をしぶった[19]からである。加えてインド銑や満州の鞍山銑が流入し、世間の景気回復のなかで鉄の市況だけが好転しない[20]状態が続いた。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [16]発足時の従業員 4万5847人
    • [17]銑鉄約118万トン シェア96%・粗鋼201万トン 52%・普通鋼材143万トン 45%
    • [18]景気回復により所期の合併効果が薄まる
    • [19]参加予定5社が中島商工相の説得にもかかわらず辞退
    • [20]インド銑・満州の鞍山銑の流入で鉄の市況が好転せず

寄り合い世帯となった日鉄の内部は、必ずしもしっくりいっていなかった[21]。昭和15年には、平生釟三郎会長が秘書として連れてきた藤井丙午氏と、原料課長の永野重雄氏らが日鉄改革を要求[22]し、官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げて全役員を辞任へ追い込んだ[23]。日鉄クーデター事件と呼ばれるこの騒動の結果、役員は総入れ替えとなり、平生釟三郎氏が社長に就いた[24]。昭和16年4月に鉄鋼統制会が発足すると日鉄社長が会長を兼ねる[25]仕組みがとられ、統制会の要職は満州系の人脈で占められた。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [21]寄り合い世帯の日鉄内部はしっくりいかず
    • [22]昭和15年 日鉄クーデター事件 藤井丙午・永野重雄らが日鉄改革を要求
    • [23]官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げ全役員が辞任
    • [24]役員総入れ替えの結果 平生釟三郎が社長に就任
    • [25]昭和16年4月 鉄鋼統制会発足 日鉄社長が会長を兼務
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [10]昭和5年 臨時産業審議会の答申
    • [11]昭和7年5月 斎藤実内閣成立 商工大臣に中島久万吉
    • [12]昭和8年4月 日本製鉄株式会社法の公布
    • [13]昭和9年1月29日 一所五社の合同で日本製鐵が発足
    • [14]創立総会 日本工業倶楽部 設立委員長 中島久万吉 初代社長 中井励作
    • [15]昭和9年2月1日 営業開始
    • [16]発足時の従業員 4万5847人
    • [17]銑鉄約118万トン シェア96%・粗鋼201万トン 52%・普通鋼材143万トン 45%
    • [18]景気回復により所期の合併効果が薄まる
    • [19]参加予定5社が中島商工相の説得にもかかわらず辞退
    • [20]インド銑・満州の鞍山銑の流入で鉄の市況が好転せず
    • [21]寄り合い世帯の日鉄内部はしっくりいかず
    • [22]昭和15年 日鉄クーデター事件 藤井丙午・永野重雄らが日鉄改革を要求
    • [23]官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げ全役員が辞任
    • [24]役員総入れ替えの結果 平生釟三郎が社長に就任
    • [25]昭和16年4月 鉄鋼統制会発足 日鉄社長が会長を兼務

賠償指定の回避と、集排法による解体

日本の鉄鋼生産は昭和18年の約770万トンを戦前の頂点として、19年に690万トン、終戦の20年には200万トン[26]へ落ち込んだ。敗戦直後に重くのしかかった賠償問題では、昭和20年12月のポーレー中間報告が年産250万トンの製鋼能力を超える設備の全面撤去を求め[27]、そのまま実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を失う[28]内容だった。極東委員会の報告では鉄鋼22工場が賠償指定を受け、日鉄では釜石を除く4工場が対象[29]となった。決定権が連合国側にある以上[30]、手の施しようがなかった。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [26]鉄鋼生産 昭和18年 約770万トン→19年690万トン→20年200万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [27]昭和20年12月 ポーレー中間報告 年産250万トン超の製鋼設備の全面撤去
    • [28]実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を撤去
    • [29]極東委員会報告で鉄鋼22工場が賠償指定 日鉄は釜石を除く4工場
    • [30]決定権が連合国側にあり手の施しようがなかった

昭和22年春にアメリカの対日方針が変わる[31]と、賠償問題も動いた。ストライク報告は日本の経済自立のために鉄鋼業から賠償物件を撤去すべきではないとし[32]、昭和28年の需要として鋼材488万トンという数字[33]を掲げた。国内では昭和21年5月に八幡製鉄所長の三鬼隆氏が社長へ就き[34]、同年12月末の閣議決定で石炭と鉄鋼の傾斜生産方式が正式に決まって[35]いる。占領政策の転換によって原料輸入も再開し、鉄鋼業は生気を取り戻した[36]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [31]昭和22年春 アメリカの対日方針が転換
    • [32]ストライク報告 鉄鋼業から賠償物件を撤去せず
    • [33]ストライク報告が掲げた昭和28年の需要 鋼材488万トン
    • [34]昭和21年5月 八幡製鉄所長の三鬼隆が社長に就任
    • [35]昭和21年12月末 閣議決定で石炭・鉄鋼の傾斜生産方式
    • [36]占領政策の転換で原料輸入が再開し鉄鋼業が回復

日鉄は財閥ではないものの、傘下に多くの子会社を持ち持株会社の性格を帯びていたため、昭和21年12月の第二次指定40社に加えられた[37]。分割は日本経済の自立にかえって不利になると反論したが容れられず[38]、GHQのアンチ・トラスト課からは、八幡と釜石・輪西をそれぞれ一本とする二社分割案[39]が示される。昭和22年12月に過度経済力集中排除法が公布されると、日鉄は翌23年2月に指定企業となり[40]、同年12月付で再編成計画の決定指令を受けた[41]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [37]昭和21年12月 持株会社の第二次指定40社に日鉄
    • [38]日鉄は分割が経済自立に不利と反論したが容れられず
    • [39]GHQアンチ・トラスト課の解体案 八幡と釜石・輪西の二社分割
    • [40]昭和22年12月 過度経済力集中排除法の公布・昭和23年2月 日鉄が指定企業に
    • [41]昭和23年12月付 再編成計画の決定指令
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [26]鉄鋼生産 昭和18年 約770万トン→19年690万トン→20年200万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [27]昭和20年12月 ポーレー中間報告 年産250万トン超の製鋼設備の全面撤去
    • [28]実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を撤去
    • [29]極東委員会報告で鉄鋼22工場が賠償指定 日鉄は釜石を除く4工場
    • [30]決定権が連合国側にあり手の施しようがなかった
    • [31]昭和22年春 アメリカの対日方針が転換
    • [32]ストライク報告 鉄鋼業から賠償物件を撤去せず
    • [33]ストライク報告が掲げた昭和28年の需要 鋼材488万トン
    • [34]昭和21年5月 八幡製鉄所長の三鬼隆が社長に就任
    • [35]昭和21年12月末 閣議決定で石炭・鉄鋼の傾斜生産方式
    • [36]占領政策の転換で原料輸入が再開し鉄鋼業が回復
    • [37]昭和21年12月 持株会社の第二次指定40社に日鉄
    • [38]日鉄は分割が経済自立に不利と反論したが容れられず
    • [39]GHQアンチ・トラスト課の解体案 八幡と釜石・輪西の二社分割
    • [40]昭和22年12月 過度経済力集中排除法の公布・昭和23年2月 日鉄が指定企業に
    • [41]昭和23年12月付 再編成計画の決定指令

1950年〜 八幡・富士の分立と、設備調整の行き詰まり

日本製鉄の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1950年 過度経済力集中排除法により日本製鐵が解散
  2. 1950年 日本製鐵の現物出資により八幡製鐵が発足
  3. 1955年 光製鉄所が稼働
  4. 1957年 八幡で19日間のストライキが発生
  5. 1958年 公開販売制度が発足
  6. 1959年 公開販売制度が生産指示を廃した好況公販に移行
  7. 1961年 名古屋製鉄所が稼働

二社への分割と、民営会社への転換

1950年4月1日、八幡製鐵と富士製鐵は、会社経理応急措置法および企業再建整備法の適用を受けた日本製鐵から資産等の現物出資を受けて設立[42]された。日本製鐵は資産を譲渡したうえで解散し、清算会社へ移行[43]している。鉄鋼部門は八幡製鉄所と、釜石・輪西・広畑・富士の四作業所とに二分され、前者が八幡製鐵、後者が北日本製鉄[44]となった。広畑は当時なお賠償指定を受けていたため、いったん北日本が賃借し、賠償解除後に一本化する[45]扱いとされた。八幡製鐵の発足時の資本金は8億円、粗鋼生産量は138万トンだった。

  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1950年4月 当社設立 日本製鐵から資産等の現物出資
    • [43]日本製鐵は資産譲渡後に解散し清算会社へ移行
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [44]鉄鋼部門を八幡製鉄所と釜石・輪西・広畑・富士の四作業所に二分
    • [45]広畑は賠償指定のため北日本が賃借 賠償解除後に一本化

半官半民でありながら実質は政府機関に近かった日本製鐵に対し、新会社は八幡が約2万2000人、富士が約1万8000人の民間株主によって構成され、純然たる民営方式へ切り替わった[46]。1950年3月31日、解散にあたって三鬼隆社長は社員を前に[47]「八幡、富士の二社は今後互いに競争関係に立つことになるのですが、もともと血を分けた兄弟であり、望んで別れるわけではないのでありますから、末永く友情の交流を図り互いに切磋琢磨して、いい意味の競争、いわゆる公正なる競争を通じて鉄鋼業の合理化に寄与致したいものであります」と述べている。分割後の業界は、八幡・富士に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた大手6社[48]が牽引した。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [46]八幡 約2万2000人・富士 約1万8000人の民間株主による純然たる民営方式
    • [47]1950年3月31日 三鬼隆社長の訣別の挨拶
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [48]分割後は八幡・富士に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた大手6社が業界を牽引
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1950年4月 当社設立 日本製鐵から資産等の現物出資
    • [43]日本製鐵は資産譲渡後に解散し清算会社へ移行
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [44]鉄鋼部門を八幡製鉄所と釜石・輪西・広畑・富士の四作業所に二分
    • [45]広畑は賠償指定のため北日本が賃借 賠償解除後に一本化
    • [46]八幡 約2万2000人・富士 約1万8000人の民間株主による純然たる民営方式
    • [47]1950年3月31日 三鬼隆社長の訣別の挨拶
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [48]分割後は八幡・富士に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた大手6社が業界を牽引

相次ぐ合理化投資と、公開販売制度の設計

八幡製鐵は老朽設備の更新を狙う第一次合理化計画に着手し、続く第二次合理化計画で戸畑地区の銑鋼一貫化を進めた。1955年には光製鉄所が稼働[49]し、1961年には名古屋製鉄所と堺製鉄所が相次いで動き出して[50]いる。さらに第三次合理化計画では阪神工業地帯に堺製鉄所を築き、1967年7月には世界最大級の高炉2基・粗鋼年産480万トンの能力で完成させている[51]。1965年には君津製鉄所も稼働[52]した。合併直前の1970年3月の時点で、旧八幡の陣容は八幡製鉄所が2万2699名で投下資本1573億円、名古屋が8518名で1819億円、君津が3819名で1644億円、堺が3431名で896億円、光が3092名で213億円[53]だった。

  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
    • [49]1955年 光製鉄所が稼働
    • [50]1961年 名古屋製鉄所と堺製鉄所が稼働
    • [52]1965年 君津製鉄所が稼働
    • [53]1970年3月時点の旧八幡5製鉄所の従業員数と投下資本
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)
    • [51]1967年7月 堺製鉄所が世界最大級の高炉2基・粗鋼年産480万トンの能力で完成

1957年に八幡で19日間のストライキが起きたものの会社側が屈しなかったことから、以後は一発回答が定着[54]した。一方で市況は1957年から1958年にかけて大きく下げ、深刻な不況[55]が業界を覆う。稲山嘉寛氏は横田正俊公正取引委員長を訪ね、戦前の共同販売組織を実質的に復活させる公開販売制度[56]の必要性を訴えた。1958年6月、通商産業省が鉄鋼市況対策要綱を策定し、公開販売制度が発足[57]した。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [54]1957年 八幡で19日間のストライキ 以後は一発回答が定着
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [55]1957年から1958年にかけて鉄鋼市況が大きく下落し深刻な不況
    • [56]稲山嘉寛が横田正俊公正取引委員長に公開販売制度の必要性を要請
    • [57]1958年6月 通産省が鉄鋼市況対策要綱を策定し公開販売制度が発足

公開販売制度では、参加メーカーが一堂に会し、通産省の生産指示量に基づく販売数量と販売価格を品種別に自社の系列問屋へ公開して取引する[58]。メーカー相互の横の連絡は行わないため独禁法には触れない[59]という建て付けだった。売れ残った分は一定の買取商社が買い上げ、その数量を次期の減産指示へ反映させる[60]仕組みも組み込まれている。発足時の参加メーカーは32社[61]にのぼった。もっとも1959年に景気が急回復すると価格の急騰が懸念され、制度は同年5月から生産指示を廃した好況公販へ姿を変えた[62]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [58]公開販売制度の仕組み 販売数量と価格を系列問屋へ公開
    • [59]メーカー相互の横の連絡をしないため独禁法に触れないという建て付け
    • [60]売れ残りは買取商社が買い上げ次期の減産指示へ反映
    • [61]発足時の参加メーカー32社
    • [62]1959年5月 生産指示を廃した好況公販へ移行
  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
    • [49]1955年 光製鉄所が稼働
    • [50]1961年 名古屋製鉄所と堺製鉄所が稼働
    • [52]1965年 君津製鉄所が稼働
    • [53]1970年3月時点の旧八幡5製鉄所の従業員数と投下資本
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)
    • [51]1967年7月 堺製鉄所が世界最大級の高炉2基・粗鋼年産480万トンの能力で完成
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [54]1957年 八幡で19日間のストライキ 以後は一発回答が定着
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [55]1957年から1958年にかけて鉄鋼市況が大きく下落し深刻な不況
    • [56]稲山嘉寛が横田正俊公正取引委員長に公開販売制度の必要性を要請
    • [57]1958年6月 通産省が鉄鋼市況対策要綱を策定し公開販売制度が発足
    • [58]公開販売制度の仕組み 販売数量と価格を系列問屋へ公開
    • [59]メーカー相互の横の連絡をしないため独禁法に触れないという建て付け
    • [60]売れ残りは買取商社が買い上げ次期の減産指示へ反映
    • [61]発足時の参加メーカー32社
    • [62]1959年5月 生産指示を廃した好況公販へ移行

住金事件が示した設備調整の限界と、合併への傾斜

1960年以降、所得倍増計画のもとで景気が好転すると各社は揃って設備増強に走った[63]。供給は設備の稼働とともに一挙に増えるのに需要は徐々にしか伸びないため、1962年には鉄鋼業が再び不況に見舞われる。稲山嘉寛氏が八幡製鐵の社長に就いたのはこの年だった。業界は粗鋼減産を重ねて最終的に20%の減産まで実施し、相互の減産監視制度や特定商社買上制度まで導入[65]している。1965年には戦後最大とされた不況が訪れ、鉄鋼業界では山陽特殊鋼が会社更生法の適用を受けた[66][64]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [63]1960年以降の所得倍増計画下で各社が設備増強に狂奔
    • [64]1962年 鉄鋼業が再び不況に・稲山嘉寛が八幡製鐵社長に就任
    • [65]20%の減産・相互の減産監視制度・特定商社買上制度
    • [66]1965年 戦後最大の不況・山陽特殊鋼が会社更生法の適用

不況下でも各社の高炉建設意欲は衰えず、通産省は着工を半年から1年ずらす案でまとめかけた[67]。これに同調しなかったのが住友金属工業の日向方斉社長[68]で、「企業の自己責任でやるのだし、計画を変更するつもりはない」と述べている。1965年11月、第3四半期の粗鋼減産指示をめぐって住金と通産省は全面衝突[69]した。輸出枠を別扱いにしなかったため輸出比率の高い住金が不利になる[70]構図もあり、通産省は原料炭の輸入枠を削減する構えを高炉9社の常務会で表明する。政、財、官を巻き込んだ末、住金は減産体制に復帰した。 [71]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [67]通産省が高炉着工を半年から1年ずらす案でまとめかけた
    • [68]住友金属工業の日向方斉社長が計画変更を拒否
    • [69]1965年11月 第3四半期の粗鋼減産指示をめぐり住金と通産省が全面衝突
    • [70]輸出枠を別扱いにせず輸出比率の高い住金が不利になる構図
    • [71]通産省が原料炭の輸入枠削減を高炉9社の常務会で表明・住金は減産体制へ復帰

稲山氏はこの一件で、通産省の設備調整が悪平等に立っている[72]と考えた。八幡は10万人の従業員を抱えながら溶鉱炉の増設は1基しか認められず[73]、規模の小さいメーカーにも同じく1基が割り当てられる。行政や大勢に勝てないのであれば、合併によって会社を大きくし、悪平等に起因する競争を排除するほかない[74]。稲山氏は後年、新日鉄誕生の伏線はこのときすでに芽ばえていた[75]と振り返っている。1966年度の売上高は八幡が3708億円で粗鋼シェア18.8%、富士が3107億円で17.2%[76]であり、両社を合わせれば業界の3分の1を超える規模だった。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [72]通産省が悪平等論に立っていたとの認識
    • [73]通産省の設備調整が悪平等 八幡は従業員10万人でも溶鉱炉の増設は1基のみ
    • [74]合併で会社を大きくし悪平等に起因する競争を排除するという発想
    • [75]新日鉄誕生の伏線が住金事件時に芽ばえたとの回想
  • 鉄鋼戦争 : 自由競争かカルテルか(1968年)
    • [76]1966年度 八幡3708億円・粗鋼シェア18.8%/富士3107億円・17.2%
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [63]1960年以降の所得倍増計画下で各社が設備増強に狂奔
    • [64]1962年 鉄鋼業が再び不況に・稲山嘉寛が八幡製鐵社長に就任
    • [65]20%の減産・相互の減産監視制度・特定商社買上制度
    • [66]1965年 戦後最大の不況・山陽特殊鋼が会社更生法の適用
    • [67]通産省が高炉着工を半年から1年ずらす案でまとめかけた
    • [68]住友金属工業の日向方斉社長が計画変更を拒否
    • [69]1965年11月 第3四半期の粗鋼減産指示をめぐり住金と通産省が全面衝突
    • [70]輸出枠を別扱いにせず輸出比率の高い住金が不利になる構図
    • [71]通産省が原料炭の輸入枠削減を高炉9社の常務会で表明・住金は減産体制へ復帰
    • [72]通産省が悪平等論に立っていたとの認識
    • [73]通産省の設備調整が悪平等 八幡は従業員10万人でも溶鉱炉の増設は1基のみ
    • [74]合併で会社を大きくし悪平等に起因する競争を排除するという発想
    • [75]新日鉄誕生の伏線が住金事件時に芽ばえたとの回想
  • 鉄鋼戦争 : 自由競争かカルテルか(1968年)
    • [76]1966年度 八幡3708億円・粗鋼シェア18.8%/富士3107億円・17.2%

1968年〜 世界最大の製鉄会社の誕生と、四次にわたる合理化

日本製鉄の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1968年 稲山嘉寛氏が旧日鉄関係者の新年会で合併を示唆
  2. 1969年 富士製鐵との合併を正式発表
  3. 1969年 公正取引委員会が合併中止を勧告
  4. 1970年 八幡製鐵と富士製鐵の合併・新日本製鐵の誕生(1970年成立) なぜ「世紀の合併」は公正取引委員会との2年がかりの攻防を経て成立したのか?
  5. 1970年 八幡・富士合併後の内部統合と「双頭の巨人」の摩擦 世界最大の鉄鋼会社は、旧二社の「水と油」の企業文化をどう束ねようとしたか
  6. 1970年 粗鋼1割の減産を打ち出す
  7. 1987年 第4次合理化と管理職への「能力賃金」導入 構造不況下の新日鉄は、日本的経営の年功・平等にどこまで手を入れたか

合併の公表と、公正取引委員会による審判

合併構想が最初に動いたのは1966年[77]である。稲山嘉寛氏と永野重雄氏の間で基本的な合意ができ、永野氏は赤坂の料亭で別室にいた三木通産大臣のもとへ稲山氏を連れて行き[78]、「二人で合併を決めましたから、よろしくお願いします」と頼んだ。ただし日本興業銀行の中山素平氏は「独禁法があるからムリだろう。まだ時期尚早ではないか」と慎重だった。1968年1月5日、稲山氏は旧日鉄関係者の新年会で「両虎相戦っては傷つく」と述べて合併を示唆[80]した。同年4月初め、中山氏の手配により日本銀行内で山田精一公正取引委員長と会い[81]、国家的な立場からの検討を求めた。 [79]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [77]1966年 八幡・富士の間で合併の基本合意
    • [78]永野重雄が赤坂の料亭で三木通産大臣へ合併を報告
    • [79]日本興業銀行の中山素平は時期尚早と慎重論
    • [80]1968年1月5日 旧日鉄関係者の新年会で稲山嘉寛が合併を示唆
    • [81]1968年4月初め 日本銀行内で山田精一公取委員長と会談

1968年4月16日、大阪から次の出張先へ向かう車中で永野氏が同乗の記者に合併の可能性をほのめかし[82]、翌17日の毎日新聞朝刊が一面でこれを報じた[83]。確認に訪れた記者に対し、稲山氏は「三味線弾きは一緒でなければいけないね」と応じて[84]いる。公正取引委員会は4月30日に事前審査を開始[85]した。同年6月には内田忠夫東大教授ら近代経済学者90人が大型合併についての意見書を発表[86]し、企業間の競争こそが資源の最適配分と技術・経営の革新を促すとして反対の論陣[87]を張った。国会でも取り上げられ[88]、野党からの追及が続いた。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [82]1968年4月16日 永野重雄が記者に合併の可能性をほのめかす
    • [84]記者の確認に対する稲山嘉寛の応答
    • [87]競争が資源の最適配分と技術・経営の革新を促すという反対論の骨子
    • [88]国会でも取り上げられ野党の追及が続いた
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [83]1968年4月17日 毎日新聞朝刊が一面で合併をスクープ
    • [85]1968年4月30日 公取委が事前審査を開始
    • [86]1968年6月 近代経済学者90人が大型合併についての意見書で反対

公取委が問題としたのは、鉄道用レール・食缶用ブリキ・鋳物用普通銑・鋼矢板の4品種[89]だった。1969年2月に独禁法15条に抵触する問題点が内示され[90]、5月1日に両社長が共同記者会見で合併を正式発表[91]すると、公取委は5月7日に合併中止を勧告し、19日には審判手続きの開始を決めて[92]いる。問題の4品種のうち3品種を生産していたのは釜石製鉄所である。永野氏は釜石の分離に絶対反対の線を譲らず、結果として完全分離は避けられた。決着はレールの圧延設備を日本鋼管へ、鋳物用普通銑については八幡製鉄所の高炉1基を神戸製鋼所へ譲渡[94]する措置で、10月30日に条件付きの同意審決が下りた[95][93]

  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [89]公取委が競争制限のおそれを認定した4品種
    • [90]1969年2月 独禁法15条抵触の問題点を内示
    • [92]1969年5月7日 合併中止勧告・5月19日 審判手続き開始
    • [94]レール圧延設備を日本鋼管へ・八幡製鉄所の高炉1基を神戸製鋼所へ譲渡
    • [95]1969年10月30日 条件付き承認の同意審決
  • 渡部行「八幡、富士製鉄『世紀の合併』を追う ―難産だった新日鉄の誕生―」日本記者クラブ 取材ノート(2014年)
    • [91]1969年5月1日 両社長が共同記者会見で合併を正式発表
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [93]4品種のうち3品種を釜石製鉄所が生産・永野重雄は分離に絶対反対
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [77]1966年 八幡・富士の間で合併の基本合意
    • [78]永野重雄が赤坂の料亭で三木通産大臣へ合併を報告
    • [79]日本興業銀行の中山素平は時期尚早と慎重論
    • [80]1968年1月5日 旧日鉄関係者の新年会で稲山嘉寛が合併を示唆
    • [81]1968年4月初め 日本銀行内で山田精一公取委員長と会談
    • [82]1968年4月16日 永野重雄が記者に合併の可能性をほのめかす
    • [84]記者の確認に対する稲山嘉寛の応答
    • [87]競争が資源の最適配分と技術・経営の革新を促すという反対論の骨子
    • [88]国会でも取り上げられ野党の追及が続いた
    • [93]4品種のうち3品種を釜石製鉄所が生産・永野重雄は分離に絶対反対
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [83]1968年4月17日 毎日新聞朝刊が一面で合併をスクープ
    • [85]1968年4月30日 公取委が事前審査を開始
    • [86]1968年6月 近代経済学者90人が大型合併についての意見書で反対
    • [89]公取委が競争制限のおそれを認定した4品種
    • [90]1969年2月 独禁法15条抵触の問題点を内示
    • [92]1969年5月7日 合併中止勧告・5月19日 審判手続き開始
    • [94]レール圧延設備を日本鋼管へ・八幡製鉄所の高炉1基を神戸製鋼所へ譲渡
    • [95]1969年10月30日 条件付き承認の同意審決
  • 渡部行「八幡、富士製鉄『世紀の合併』を追う ―難産だった新日鉄の誕生―」日本記者クラブ 取材ノート(2014年)
    • [91]1969年5月1日 両社長が共同記者会見で合併を正式発表

世界最大の製鉄会社の発足と、統合がもたらした摩擦

1970年3月31日、八幡製鐵と富士製鐵は合併して商号を新日本製鐵に変更し、東京をはじめ全国8証券取引所に株式を上場[96]した。資本金は2293億6000万円、従業員8万2000名、粗鋼生産能力4160万トン[97]である。生産拠点は北から室蘭・釜石・君津・名古屋・堺・広畑・光・八幡と、当時なお建設中だった大分を加えた9製鉄所[98]となった。粗鋼生産はUSスチールを抜いて自由世界第一位となり、売上高1兆2970億円[99]も国内の首位に立っている。旧富士側の陣容は広畑が1万588名、室蘭が7843名、釜石が4761名[100]だった。経営陣は永野氏が会長、稲山氏が社長に就いた[101]

  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [96]1970年3月 八幡製鐵と富士製鐵が合併し商号を新日本製鐵に変更・全国8証券取引所に上場
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [97]発足時 資本金2293億6000万円・従業員8万2000名・粗鋼生産能力4160万トン
    • [98]発足時の9製鉄所 室蘭・釜石・君津・名古屋・堺・広畑・光・八幡・建設中の大分
    • [99]粗鋼生産でUSスチールを抜き自由世界第一位・売上高1兆2970億円
  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
    • [100]旧富士側の陣容 広畑1万588名・室蘭7843名・釜石4761名
  • 渡部行「八幡、富士製鉄『世紀の合併』を追う ―難産だった新日鉄の誕生―」日本記者クラブ 取材ノート(2014年)
    • [101]永野重雄が会長・稲山嘉寛が社長に就任

巨大化は摩擦を伴い、旧八幡は国家的意識と義理人情、旧富士はコスト意識と利益追求を重んじて、両社の体質は水と油と評された[102]。人の和と平等を建前に同一ラインへ旧二社の人材を交互に配置した結果、それぞれの持ち味が生かせない体制[103]となり、会議が30人以上に膨らんで結論が出ない状態[104]も生じている。1970年5月末には資金部のコンピューター入力の手違いで月末の資金繰りが80億円ショート[105]し、経営計画の一本化では原料炭見積もりの1ドル差などから500億円近い狂いが生じた。月商1000億円の資金調達難にも直面し、首脳部は組織の手直しが人心不安を招くとみて合議による融和を優先[106]した。

  • 日経ビジネス 1970年9月号(日経マグロウヒル社)
    • [102]旧八幡は国家的意識と義理人情 旧富士はコスト意識と利益追求で体質は水と油
    • [103]旧二社の人材を交互配置した結果それぞれの持ち味が生かせない体制に
    • [104]会議が30人以上に膨らんで結論が出ない状態
    • [105]1970年5月末 資金繰り80億円ショート・経営計画一本化で500億円近い狂い
    • [106]月商1000億円の資金調達難・首脳部は合議による融和を優先

合併の効果は数字にも表れ、合併後6カ月の1970年9月期で約58億円の合理化効果が出て、翌3月期には2倍以上が見込まれ、コークス使用量は500キロ弱から400キロ強へ下がって[107]いる。1970年11月に新日鉄が粗鋼1割減産を打ち出すと業界が自主減産で追随[108]し、その影響力は精神的なものと評された。1971年4月には富士三機鋼管と合併[109]し、6月に大分製鉄所を新設[110]している。ただし粗鋼シェアは合併前の35%から28%へ下がった[111]。1976年度の上場企業従業員ランキングでは7万7489人で第1位となり、関連・下請けを含めて約21万人[112]を擁した。

  • 日経ビジネス 1971年3月22日号(日経マグロウヒル社)
    • [107]合併後6カ月の1970年9月期で約58億円の合理化効果・コークス使用量が500キロ弱から400キロ強へ
    • [108]1970年11月 新日鉄の粗鋼1割減産に業界が自主減産で追随
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [109]1971年4月 富士三機鋼管と合併
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [110]1971年6月 大分製鉄所を新設
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [111]粗鋼シェアが合併前の35%から28%へ低下
  • 「ケーススタディ 新日本製鉄——功罪問われる"株式公社"」(日経ビジネス 1977年11月7日号、No.200)
    • [112]1976年度 上場企業従業員数7万7489人で第1位・関連下請け含め約21万人
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [96]1970年3月 八幡製鐵と富士製鐵が合併し商号を新日本製鐵に変更・全国8証券取引所に上場
    • [109]1971年4月 富士三機鋼管と合併
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
    • [97]発足時 資本金2293億6000万円・従業員8万2000名・粗鋼生産能力4160万トン
    • [98]発足時の9製鉄所 室蘭・釜石・君津・名古屋・堺・広畑・光・八幡・建設中の大分
    • [99]粗鋼生産でUSスチールを抜き自由世界第一位・売上高1兆2970億円
    • [111]粗鋼シェアが合併前の35%から28%へ低下
  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
    • [100]旧富士側の陣容 広畑1万588名・室蘭7843名・釜石4761名
  • 渡部行「八幡、富士製鉄『世紀の合併』を追う ―難産だった新日鉄の誕生―」日本記者クラブ 取材ノート(2014年)
    • [101]永野重雄が会長・稲山嘉寛が社長に就任
  • 日経ビジネス 1970年9月号(日経マグロウヒル社)
    • [102]旧八幡は国家的意識と義理人情 旧富士はコスト意識と利益追求で体質は水と油
    • [103]旧二社の人材を交互配置した結果それぞれの持ち味が生かせない体制に
    • [104]会議が30人以上に膨らんで結論が出ない状態
    • [105]1970年5月末 資金繰り80億円ショート・経営計画一本化で500億円近い狂い
    • [106]月商1000億円の資金調達難・首脳部は合議による融和を優先
  • 日経ビジネス 1971年3月22日号(日経マグロウヒル社)
    • [107]合併後6カ月の1970年9月期で約58億円の合理化効果・コークス使用量が500キロ弱から400キロ強へ
    • [108]1970年11月 新日鉄の粗鋼1割減産に業界が自主減産で追随
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [110]1971年6月 大分製鉄所を新設
  • 「ケーススタディ 新日本製鉄——功罪問われる"株式公社"」(日経ビジネス 1977年11月7日号、No.200)
    • [112]1976年度 上場企業従業員数7万7489人で第1位・関連下請け含め約21万人

鉄冷えと、第4次合理化が踏み込んだ賃金慣行

1973年の石油危機を境に鉄鋼需要の拡大は終わり、新日鉄は1978年に第1次合理化案を発表して高炉休止と人員削減に着手した。以後1987年の第4次まで、約10年にわたって構造調整を繰り返している。並行して事業の裾野を広げる動きも始まり、1974年6月にエンジニアリング事業本部を設置[114]したのに続いて、1984年7月には新素材事業開発本部[115]を、1986年7月にはエレクトロニクス事業部を置いた[116]。鉄鋼本業の成長性が構造的に低下するという認識[117]が、鉄以外の収益源を求めさせた。 [113]

  • 日経ビジネス 1987年3月2日号(日経マグロウヒル社)
    • [113]1973年の石油危機以降 1978年第1次から1987年第4次まで約10年の構造調整
    • [117]鉄鋼本業の成長性低下の認識が鉄以外の収益源を求めさせた
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [114]1974年6月 エンジニアリング事業本部を設置
    • [115]1984年7月 新素材事業開発本部を設置
    • [116]1986年7月 エレクトロニクス事業部を設置

1987年3月期は営業段階で200億円の赤字[118]となった。ホワイトカラーの平均年齢は10年で34.3歳から43.7歳へ上がり、主務職比率も29%から36%へ高まって[119]人件費を押し上げていた。同年2月に発表した第4次合理化計画は、4年間で1万9000人を削減し、生産能力を年3400万トンから2400万トンへ縮小して、1人当たり粗鋼生産量を520トンから880トンへ引き上げる[120]内容である。武田豊社長は希望退職を避け、釜石や室蘭を完全に切り捨てることもしない[121]道を選んだ。

  • 日経ビジネス 1987年8月3日号(日経マグロウヒル社)
    • [118]1987年3月期 営業赤字200億円
    • [119]ホワイトカラー平均年齢が10年で34.3歳から43.7歳へ・主務職比率29%から36%へ
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号(日経マグロウヒル社)
    • [120]第4次合理化 4年間で1万9000人削減・生産能力3400万から2400万トンへ・1人当たり粗鋼520から880トンへ
    • [121]武田豊社長は希望退職を避け釜石や室蘭の完全な切り捨ても避ける道を選択

合理化とあわせて賃金制度にも手が入り、1987年4月には管理職約1万1000人へ能力主義の新給与制度を導入し、短期業績賞与でプラス約10万円からマイナス数万円の格差をつけて[122]いる。理事補の年功給は廃止して能力給100%とし、参事・参事補の年功給の頭打ち年齢を50歳から45歳前後へ引き下げた[123]。年功人事は格差を意識させない日本的経営の仕掛けだったが、高齢化と経済環境の変化を受けて、年功削減を容認する意見が社内で大勢を占める[124]に至った。1988年2月には釜石製鉄所の高炉を停止[125]している。

  • 日経ビジネス 1987年8月3日号(日経マグロウヒル社)
    • [122]1987年4月 管理職約1万1000人へ能力主義の新給与制度・短期業績賞与でプラス約10万円マイナス数万円
    • [123]理事補の年功給を廃止し能力給100%へ・参事参事補の頭打ち年齢を50歳から45歳前後へ
    • [124]高齢化と経済環境の変化で年功削減を容認する意見が社内の大勢に
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [125]1988年2月 釜石製鉄所の高炉を停止
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号(日経マグロウヒル社)
    • [113]1973年の石油危機以降 1978年第1次から1987年第4次まで約10年の構造調整
    • [117]鉄鋼本業の成長性低下の認識が鉄以外の収益源を求めさせた
    • [120]第4次合理化 4年間で1万9000人削減・生産能力3400万から2400万トンへ・1人当たり粗鋼520から880トンへ
    • [121]武田豊社長は希望退職を避け釜石や室蘭の完全な切り捨ても避ける道を選択
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [114]1974年6月 エンジニアリング事業本部を設置
    • [115]1984年7月 新素材事業開発本部を設置
    • [116]1986年7月 エレクトロニクス事業部を設置
  • 日経ビジネス 1987年8月3日号(日経マグロウヒル社)
    • [118]1987年3月期 営業赤字200億円
    • [119]ホワイトカラー平均年齢が10年で34.3歳から43.7歳へ・主務職比率29%から36%へ
    • [122]1987年4月 管理職約1万1000人へ能力主義の新給与制度・短期業績賞与でプラス約10万円マイナス数万円
    • [123]理事補の年功給を廃止し能力給100%へ・参事参事補の頭打ち年齢を50歳から45歳前後へ
    • [124]高齢化と経済環境の変化で年功削減を容認する意見が社内の大勢に
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [125]1988年2月 釜石製鉄所の高炉を停止

1989年〜 多角化の挫折と本業回帰、そして世界再編への対応

日本製鉄の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1993年 ミネベアの半導体事業を買収
  2. 1993年 第三次中期経営計画を開始
  3. 2007年 アルセロール・ミタルへの対抗——ミタルとの提携覚書と3社連合の資本防衛 世界最大の鉄鋼メーカーに、対抗軸で抗うか、実利で歩み寄るか
  4. 2012年 新日本製鐵と住友金属工業の経営統合(2012年成立・新日鉄住金の誕生) なぜ国内首位と3位の高炉メーカーは合併し、粗鋼世界2位の鉄鋼会社を生んだのか?
  5. 2017年 国内4位・日新製鋼の子会社化——鋼材デフレ下の高炉再編 「なぜ今なのか」——世界的な供給過剰のなかで、進藤孝生社長はなぜ同業の取り込みに動いたか
  6. 2025年 USスチールの完全子会社化——約2兆円のクロスボーダー買収を政治の壁を越えて完遂 縮む国内から離れるために、日本製鉄はなぜ大統領令と訴訟を越えてまで米名門を手にしたか
  7. 2025年 3Dのコングロマリットディスカウント批判と社長再任反対キャンペーンへの対峙 時価総額を超える10兆円の投資と上場子会社の保有は正当化できるか——PBR0.5倍の鉄鋼最大手に向けられた資本規律の問い

複合経営の誤算と、世界一の座の明け渡し

多角化は収益を生まなかった。1993年6月にLSI事業部が設置され、1997年4月にはシリコンウェーハ事業部を置いた[127]が、エレクトロニクス・LSI部門は高炉大手5社がそろって赤字で、なかでも新日鉄の赤字幅193億円は最大[128]だった。1998年4月に8代目社長へ就いた千速晃[129]は、就任間もなく台湾の聯華電子グループへ日鉄セミコンダクター株を売却し、館山半導体製造の解散とあわせて国内LSI事業からの撤退を決める。譲渡額は15億円余だった。1993年初めにミネベアから買収した際の355億円に対し、前期には1152億円の撤退損[131]を計上している。千速社長は「半導体は他事業とはあまりにかけ離れた世界だった」[132]と述べた。 [126][130]

  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [126]1993年6月 LSI事業部を設置
    • [127]1997年4月 シリコンウェーハ事業部を設置
  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号
    • [128]エレクトロニクス・LSI部門は高炉大手5社とも赤字 新日鉄の赤字幅193億円が最大
    • [129]1998年4月 千速晃が8代目社長に就任
    • [130]日鉄セミコンダクター株を聯華電子グループへ売却し国内LSI事業から撤退 譲渡額15億円余
    • [131]買収時355億円に対し撤退損1152億円
    • [132]千速晃社長の半導体撤退についての発言

本業でも1998年度は節目になり、全国の粗鋼生産は1億280万トンから9098万トンへ11.5%減って、1971年度以来27年ぶりの低水準[133]となった。新日鉄の粗鋼生産は12.8%減の2320万トンで、1970年度の発足以来の最低[134]に落ち込んだ。粗鋼シェアも25.5%となり、発足時の35.7%から10ポイント以上後退[135]している。永く維持してきた粗鋼生産世界一の座は、1968年設立の韓国・浦項綜合製鉄へ明け渡された[136]。1998年12月にはPOSCOの米国預託証券を約38.6万口取得し、翌年には両社が1%ずつ株式を持ち合う関係[137]に入っている。

  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号
    • [133]1998年度 全国粗鋼生産が1億280万トンから9098万トンへ11.5%減 27年ぶりの低水準
    • [134]新日鉄の粗鋼生産が12.8%減の2320万トンで発足以来の最低
    • [135]粗鋼シェア25.5% 発足時の35.7%から10ポイント以上後退
    • [136]粗鋼生産世界一の座を1968年設立の浦項綜合製鉄へ明け渡す
    • [137]1998年12月 POSCOの米国預託証券を約38.6万口取得・両社が1%ずつ持ち合いへ

合理化も続き、1987年に12基あった高炉は、八幡・釜石・堺・広畑での休止を経て8基体制へ集約[138]されている。1993年度の赤字転落を受けて始めた第三次中期経営計画では3000億円のコスト削減を掲げ、5年間で1万3000人余を減らした[139]。累計の特別退職金は2900億円余[140]に達している。組織面では2001年4月に新日鉄ソリューションズが発足して2002年10月に東証へ上場[141]し、2006年7月にはエンジニアリング事業本部と新素材事業部の事業を会社分割で新日鉄エンジニアリングと新日鉄マテリアルズへ承継[142]した。2004年4月にはシリコンウェーハ事業部も廃止[143]している。

  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号
    • [138]1987年に12基あった高炉が8基体制へ集約
    • [139]第三次中期経営計画で3000億円のコスト削減・5年間で1万3000人余を削減
    • [140]累計の特別退職金2900億円余
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [141]2001年4月 新日鉄ソリューションズが発足・2002年10月 東証上場
    • [142]2006年7月 会社分割で新日鉄エンジニアリング・新日鉄マテリアルズへ事業承継
    • [143]2004年4月 シリコンウェーハ事業部を廃止
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [126]1993年6月 LSI事業部を設置
    • [127]1997年4月 シリコンウェーハ事業部を設置
    • [141]2001年4月 新日鉄ソリューションズが発足・2002年10月 東証上場
    • [142]2006年7月 会社分割で新日鉄エンジニアリング・新日鉄マテリアルズへ事業承継
    • [143]2004年4月 シリコンウェーハ事業部を廃止
  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号
    • [128]エレクトロニクス・LSI部門は高炉大手5社とも赤字 新日鉄の赤字幅193億円が最大
    • [129]1998年4月 千速晃が8代目社長に就任
    • [130]日鉄セミコンダクター株を聯華電子グループへ売却し国内LSI事業から撤退 譲渡額15億円余
    • [131]買収時355億円に対し撤退損1152億円
    • [132]千速晃社長の半導体撤退についての発言
    • [133]1998年度 全国粗鋼生産が1億280万トンから9098万トンへ11.5%減 27年ぶりの低水準
    • [134]新日鉄の粗鋼生産が12.8%減の2320万トンで発足以来の最低
    • [135]粗鋼シェア25.5% 発足時の35.7%から10ポイント以上後退
    • [136]粗鋼生産世界一の座を1968年設立の浦項綜合製鉄へ明け渡す
    • [137]1998年12月 POSCOの米国預託証券を約38.6万口取得・両社が1%ずつ持ち合いへ
    • [138]1987年に12基あった高炉が8基体制へ集約
    • [139]第三次中期経営計画で3000億円のコスト削減・5年間で1万3000人余を削減
    • [140]累計の特別退職金2900億円余

アルセロール・ミタルの脅威と、住友金属工業との統合

2006年、世界首位のミタルが2位のアルセロールを買収し、新日鉄の3倍の規模を持つアルセロール・ミタルが発足[144]した。敵対的買収が身近になるなかで、新日鉄は企業防衛と規模の確保を同時に迫られる[145]。2007年7月、アルセロール・ミタルと提携拡大の覚書を締結[146]する一方、10月には住友金属工業・神戸製鋼所との3社連合を強化[147]した。住金和歌山製鉄所の高炉増強に約900億円を投じ、半製品供給を拡大[148]することで、規模の追求と鉄源不足の解消をはかっている。

  • 週刊東洋経済 2006年2月25日号
    • [144]2006年 ミタルがアルセロールを買収し新日鉄の3倍の規模のアルセロール・ミタルが発足
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号
    • [145]敵対的買収が身近になり企業防衛と規模の確保を同時に迫られる
  • 週刊東洋経済 2007年7月28日号
    • [146]2007年7月 アルセロール・ミタルと提携拡大の覚書を締結
  • 週刊東洋経済 2007年11月17日号
    • [147]2007年10月 住友金属工業・神戸製鋼所との3社連合を強化
    • [148]住金和歌山製鉄所の高炉増強に約900億円

2011年2月3日、新日本製鐵と住友金属工業は経営統合を発表[149]した。同年9月22日に合併比率が住金1株に対し新日鉄株0.735株と決まり[150]、2012年10月1日、新日本製鐵が住友金属工業を吸収合併して商号を新日鐵住金に変更[151]した。粗鋼生産で世界2位の鉄鋼メーカー[152]となっている。公正取引委員会の審査では、無方向性電磁鋼板と高圧ガス導管エンジニアリングについて問題解消措置が講じられた[153]。円高・原料高と新興国の鉄鋼需要拡大を背景に、規模による生き残りが迫られた[154]末の統合である。

  • M&A Online 2011年2月3日
    • [149]2011年2月3日 新日鐵と住友金属工業が経営統合を発表
  • Bloomberg 2011年9月22日
    • [150]2011年9月22日 合併比率は住金1株に対し新日鉄株0.735株
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [151]2012年10月1日 住友金属工業と合併し商号を新日鐵住金に変更
  • 公正取引委員会(平成23年度:事例2)「新日本製鐵株式会社と住友金属工業株式会社の合併」(2011年12月14日 排除措置命令を行わない旨の通知)
    • [152]粗鋼生産で世界2位の鉄鋼メーカーに
    • [153]公取委審査で無方向性電磁鋼板と高圧ガス導管エンジで問題解消措置
  • 東洋経済オンライン 2011年
    • [154]円高・原料高と新興国需要の拡大を背景とする規模による生き残り

国内の高炉再編も進み、2016年2月1日には新日鉄住金が国内4位の日新製鋼を子会社化すると発表[155]した。TOB価格は1株1620円、投資額は約760億円で、ブランドと上場を当面維持するため取得比率は51%[156]にとどめた。世界粗鋼生産の5割を占める中国で内需が減退し、余剰鋼材が安値で輸出されてアジア市況が急落[157]するなかでの決断である。2017年3月に子会社化が完了し、2019年1月には完全子会社[158]とした。2018年6月にはスウェーデンのOVACO ABを517億円で買収[159]し、2019年3月に山陽特殊製鋼を子会社化、同年4月に商号を日本製鉄へ変更[160]している。

  • 週刊東洋経済 2016年2月20日号
    • [155]2016年2月1日 日新製鋼の子会社化を発表
    • [156]TOB価格1株1620円・投資額約760億円・取得比率51%
  • 週刊東洋経済 2016年6月4日号
    • [157]中国の内需減退と余剰鋼材の安値輸出でアジア市況が急落
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [158]2017年3月 日新製鋼を子会社化・2019年1月 完全子会社化
    • [160]2019年3月 山陽特殊製鋼を子会社化・2019年4月 商号を日本製鉄へ変更
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [159]2018年6月 OVACO ABを517億円で買収
  • 週刊東洋経済 2006年2月25日号
    • [144]2006年 ミタルがアルセロールを買収し新日鉄の3倍の規模のアルセロール・ミタルが発足
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号
    • [145]敵対的買収が身近になり企業防衛と規模の確保を同時に迫られる
  • 週刊東洋経済 2007年7月28日号
    • [146]2007年7月 アルセロール・ミタルと提携拡大の覚書を締結
  • 週刊東洋経済 2007年11月17日号
    • [147]2007年10月 住友金属工業・神戸製鋼所との3社連合を強化
    • [148]住金和歌山製鉄所の高炉増強に約900億円
  • M&A Online 2011年2月3日
    • [149]2011年2月3日 新日鐵と住友金属工業が経営統合を発表
  • Bloomberg 2011年9月22日
    • [150]2011年9月22日 合併比率は住金1株に対し新日鉄株0.735株
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [151]2012年10月1日 住友金属工業と合併し商号を新日鐵住金に変更
    • [158]2017年3月 日新製鋼を子会社化・2019年1月 完全子会社化
    • [160]2019年3月 山陽特殊製鋼を子会社化・2019年4月 商号を日本製鉄へ変更
  • 公正取引委員会(平成23年度:事例2)「新日本製鐵株式会社と住友金属工業株式会社の合併」(2011年12月14日 排除措置命令を行わない旨の通知)
    • [152]粗鋼生産で世界2位の鉄鋼メーカーに
    • [153]公取委審査で無方向性電磁鋼板と高圧ガス導管エンジで問題解消措置
  • 東洋経済オンライン 2011年
    • [154]円高・原料高と新興国需要の拡大を背景とする規模による生き残り
  • 週刊東洋経済 2016年2月20日号
    • [155]2016年2月1日 日新製鋼の子会社化を発表
    • [156]TOB価格1株1620円・投資額約760億円・取得比率51%
  • 週刊東洋経済 2016年6月4日号
    • [157]中国の内需減退と余剰鋼材の安値輸出でアジア市況が急落
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [159]2018年6月 OVACO ABを517億円で買収

国内需要の縮小と、USスチールの完全子会社化

2020年3月期、日本製鉄は営業損失4061億円、親会社株主に帰属する当期純損失4315億円を計上[161]した。国内の鉄鋼需要は1990年代の年9000万トン規模から5000万トン台へ縮み[162]、価格も適正水準に達して国内での大きな利益成長は見込みにくくなっていた。2020年4月に日鉄日新製鋼を合併し、2023年4月には日鉄物産を子会社化[163]している。同年9月には旧日新製鋼の呉製鉄所を閉鎖[164]した。2022年3月期には売上高6兆8088億円・当期純利益6373億円まで回復[165]したものの、国内設備を集約する方向は変わらなかった。

  • 日本製鉄 有価証券報告書(2020年3月期・連結)
    • [161]2020年3月期 営業損失4061億円・当期純損失4315億円
  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号
    • [162]国内鉄鋼需要が1990年代の年9000万トンから5000万トン台へ縮小
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [163]2020年4月 日鉄日新製鋼と合併・2023年4月 日鉄物産を子会社化
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [164]2023年9月 旧日新製鋼の呉製鉄所を閉鎖
  • 日本製鉄 有価証券報告書(2022年3月期・連結)
    • [165]2022年3月期 売上高6兆8088億円・当期純利益6373億円

2023年12月18日、日本製鉄はUSスチールを1株55ドル・取得総額約2兆円で買収すると発表[166]した。発表前の株価に約40%のプレミアムを乗せた価格[167]である。完全子会社化にこだわったのは、電磁鋼板など先端技術を惜しみなく移植するには過半出資では足りないと判断[168]したためだった。人口増が続き高級鋼材の需要が厚い米国市場に、生産拠点ごと入り込む狙い[169]である。しかし全米鉄鋼労組が買収に反対し、大統領選を控えて計画は政治問題化[170]した。2025年1月にバイデン大統領が買収禁止命令を出すと、日本製鉄は米政府を提訴[171]している。

  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号
    • [166]2023年12月18日 USスチールを1株55ドル・取得総額約2兆円で買収すると発表
    • [167]発表前株価に約40%のプレミアム
  • 週刊東洋経済 2024年12月28日号
    • [168]完全子会社化の理由 先端技術の移植には過半出資では足りない
    • [169]人口増と高級鋼材需要の厚い米国市場へ生産拠点ごと参入する狙い
  • 週刊東洋経済 2025年1月18日号
    • [170]全米鉄鋼労組の反対と大統領選を控えた政治問題化
  • 日本経済新聞(2025年1月)
    • [171]2025年1月 バイデン大統領の買収禁止命令を受け日本製鉄が米政府を提訴

決着はトランプ政権下でつき、米国政府への黄金株発行と2028年までの約110億ドルの投資を条件に承認[172]を得て、2025年6月18日、日本製鉄は約141億ドルの払い込みを終えてUSスチールを完全子会社とした[173]。一方で株式市場からの視線は厳しく、PBRは1倍割れが常態化して、2025年5月末の時点で約0.5倍[174]にとどまっていた。シンガポールの3Dインベストメント・パートナーズは同年6月10日、コングロマリットディスカウントと資本規律の欠如を批判するプレゼンテーションを公表して今井正社長らの再任反対を推奨[175]する。6月24日の総会で再任は可決されたが、今井社長の賛成率は87.11%と他の候補を約10ポイント下回った[176]

  • 週刊東洋経済 2025年7月5日号
    • [172]米国政府への黄金株発行と2028年までの約110億ドル投資を条件に承認
  • 日本経済新聞(2025年6月)
    • [173]2025年6月18日 約141億ドルの払い込みを終えUSスチールを完全子会社化
  • 3Dインベストメント・パートナーズ「日本製鉄の企業価値最大化に向けて」(2025年6月10日)
    • [174]PBRが1倍割れで常態化 2025年5月末で約0.5倍
  • 日本経済新聞(2025年6月10日)
    • [175]2025年6月10日 3Dがコングロマリットディスカウントと資本規律を批判し社長再任反対を推奨
  • 日本製鉄 臨時報告書(第101回定時株主総会 議決権行使結果・2025年6月26日提出)
    • [176]2025年6月24日 総会で再任可決も今井正社長の賛成率は87.11%
  • 日本製鉄 有価証券報告書(2020年3月期・連結)
    • [161]2020年3月期 営業損失4061億円・当期純損失4315億円
  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号
    • [162]国内鉄鋼需要が1990年代の年9000万トンから5000万トン台へ縮小
    • [166]2023年12月18日 USスチールを1株55ドル・取得総額約2兆円で買収すると発表
    • [167]発表前株価に約40%のプレミアム
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [163]2020年4月 日鉄日新製鋼と合併・2023年4月 日鉄物産を子会社化
  • 日本製鉄 有価証券報告書
    • [164]2023年9月 旧日新製鋼の呉製鉄所を閉鎖
  • 日本製鉄 有価証券報告書(2022年3月期・連結)
    • [165]2022年3月期 売上高6兆8088億円・当期純利益6373億円
  • 週刊東洋経済 2024年12月28日号
    • [168]完全子会社化の理由 先端技術の移植には過半出資では足りない
    • [169]人口増と高級鋼材需要の厚い米国市場へ生産拠点ごと参入する狙い
  • 週刊東洋経済 2025年1月18日号
    • [170]全米鉄鋼労組の反対と大統領選を控えた政治問題化
  • 日本経済新聞(2025年1月)
    • [171]2025年1月 バイデン大統領の買収禁止命令を受け日本製鉄が米政府を提訴
  • 週刊東洋経済 2025年7月5日号
    • [172]米国政府への黄金株発行と2028年までの約110億ドル投資を条件に承認
  • 日本経済新聞(2025年6月)
    • [173]2025年6月18日 約141億ドルの払い込みを終えUSスチールを完全子会社化
  • 3Dインベストメント・パートナーズ「日本製鉄の企業価値最大化に向けて」(2025年6月10日)
    • [174]PBRが1倍割れで常態化 2025年5月末で約0.5倍
  • 日本経済新聞(2025年6月10日)
    • [175]2025年6月10日 3Dがコングロマリットディスカウントと資本規律を批判し社長再任反対を推奨
  • 日本製鉄 臨時報告書(第101回定時株主総会 議決権行使結果・2025年6月26日提出)
    • [176]2025年6月24日 総会で再任可決も今井正社長の賛成率は87.11%

日本製鉄の沿革1857〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
日本初の洋式高炉が火入れ
政府が官営八幡製鉄所を創設★★
官営八幡製鐵所が操業を開始★★
官営八幡製鉄所と民間5社の合同により日本製鐵を設立★★
三鬼隆過度経済力集中排除法により日本製鐵が解散★★
三鬼隆日本製鐵の現物出資により八幡製鐵が発足★★
渡邊義介光製鉄所が稼働
小島新一八幡で19日間のストライキが発生
小島新一公開販売制度が発足★★
小島新一公開販売制度が生産指示を廃した好況公販に移行
小島新一名古屋製鉄所が稼働
小島新一堺製鉄所が稼働
稲山嘉寛君津製鉄所が稼働
稲山嘉寛稲山嘉寛氏が旧日鉄関係者の新年会で合併を示唆★★
稲山嘉寛毎日新聞が八幡・富士の合併構想を報道
稲山嘉寛富士製鐵との合併を正式発表★★
稲山嘉寛公正取引委員会が合併中止を勧告★★
稲山嘉寛八幡製鐵と富士製鐵の合併・新日本製鐵の誕生(1970年成立)なぜ「世紀の合併」は公正取引委員会との2年がかりの攻防を経て成立したのか? 詳細を読む★★★
稲山嘉寛全国8証券取引所に上場
稲山嘉寛八幡・富士合併後の内部統合と「双頭の巨人」の摩擦世界最大の鉄鋼会社は、旧二社の「水と油」の企業文化をどう束ねようとしたか 詳細を読む★★★
稲山嘉寛合併後6カ月で58億円の合理化効果を計上
稲山嘉寛粗鋼1割の減産を打ち出す★★
稲山嘉寛富士三機鋼管を合併
稲山嘉寛大分製鉄所を新設
平井富三郎エンジニアリング事業本部を設置★★
斎藤英四郎第1次合理化案を発表★★
武田豊新日鐵化学が発足
武田豊新素材事業開発本部を設置
武田豊エレクトロニクス事業部を設置
斎藤裕第4次合理化と管理職への「能力賃金」導入構造不況下の新日鉄は、日本的経営の年功・平等にどこまで手を入れたか 詳細を読む★★★
斎藤裕営業損失200億円を計上★★
斎藤裕管理職に能力主義の新給与制度を導入★★
斎藤裕釜石製鉄所の高炉を停止★★
今井敬ミネベアの半導体事業を買収★★
今井敬第三次中期経営計画を開始★★
今井敬LSI事業部を設置
千速晃粗鋼生産の世界首位から転落★★
千速晃千速晃氏が社長に就任
千速晃浦項綜合製鉄の米国預託証券を取得
千速晃LSI事業部を廃止し半導体から撤退★★
千速晃品種事業部制を導入★★
千速晃新日鉄ソリューションズを設立
千速晃新日鉄ソリューションズが東京証券取引所に上場
三村明夫シリコンウェーハ事業部を廃止
三村明夫ミタルがアルセロールを買収★★
三村明夫エンジニアリング・新素材事業を会社分割で承継
三村明夫アルセロール・ミタルへの対抗——ミタルとの提携覚書と3社連合の資本防衛世界最大の鉄鋼メーカーに、対抗軸で抗うか、実利で歩み寄るか 詳細を読む★★★
三村明夫住友金属工業・神戸製鋼所との3社連合を強化★★
宗岡正二住友金属工業との経営統合を発表★★
宗岡正二公正取引委員会が排除措置命令を行わない旨を通知
宗岡正二新日本製鐵と住友金属工業の経営統合(2012年成立・新日鉄住金の誕生)なぜ国内首位と3位の高炉メーカーは合併し、粗鋼世界2位の鉄鋼会社を生んだのか? 詳細を読む★★★
進藤孝生日新製鋼の子会社化を発表★★
進藤孝生国内4位・日新製鋼の子会社化——鋼材デフレ下の高炉再編「なぜ今なのか」——世界的な供給過剰のなかで、進藤孝生社長はなぜ同業の取り込みに動いたか 詳細を読む★★★
進藤孝生OVACO ABを買収
橋本英二山陽特殊製鋼を子会社化
橋本英二日本製鉄に商号変更★★
橋本英二親会社株主に帰属する当期純損失4315億円を計上★★
橋本英二日鉄日新製鋼を合併
橋本英二国内の製鉄所を6製鉄所体制へ再編★★
橋本英二日鉄物産を子会社化
橋本英二呉製鉄所を閉鎖★★
橋本英二USスチールの買収を発表★★
今井正米大統領がUSスチールの買収禁止命令を発出★★
今井正米国政府を提訴★★
今井正USスチールの完全子会社化——約2兆円のクロスボーダー買収を政治の壁を越えて完遂縮む国内から離れるために、日本製鉄はなぜ大統領令と訴訟を越えてまで米名門を手にしたか 詳細を読む★★★
今井正3Dのコングロマリットディスカウント批判と社長再任反対キャンペーンへの対峙時価総額を超える10兆円の投資と上場子会社の保有は正当化できるか——PBR0.5倍の鉄鋼最大手に向けられた資本規律の問い 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 日本製鉄公式サイト ヒストリー
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
  • 鉄鋼戦争 : 自由競争かカルテルか(1968年)
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
  • 渡部行「八幡、富士製鉄『世紀の合併』を追う ―難産だった新日鉄の誕生―」日本記者クラブ 取材ノート(2014年)
  • 日経ビジネス 1970年9月号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1971年3月22日号(日経マグロウヒル社)
  • 日本製鉄 有価証券報告書
  • 「ケーススタディ 新日本製鉄——功罪問われる"株式公社"」(日経ビジネス 1977年11月7日号、No.200)
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1987年8月3日号(日経マグロウヒル社)
  • 週刊東洋経済 1999年7月17日号
  • 週刊東洋経済 2006年2月25日号
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号
  • 週刊東洋経済 2007年7月28日号
  • 週刊東洋経済 2007年11月17日号
  • M&A Online 2011年2月3日
  • Bloomberg 2011年9月22日
  • 公正取引委員会(平成23年度:事例2)「新日本製鐵株式会社と住友金属工業株式会社の合併」(2011年12月14日 排除措置命令を行わない旨の通知)
  • 東洋経済オンライン 2011年
  • 週刊東洋経済 2016年2月20日号
  • 週刊東洋経済 2016年6月4日号
  • 日本製鉄 有価証券報告書(2020年3月期・連結)
  • 週刊東洋経済 2024年1月6日号
  • 日本製鉄 有価証券報告書(2022年3月期・連結)
  • 週刊東洋経済 2024年12月28日号
  • 週刊東洋経済 2025年1月18日号
  • 日本経済新聞(2025年1月)
  • 週刊東洋経済 2025年7月5日号
  • 日本経済新聞(2025年6月)
  • 3Dインベストメント・パートナーズ「日本製鉄の企業価値最大化に向けて」(2025年6月10日)
  • 日本経済新聞(2025年6月10日)
  • 日本製鉄 臨時報告書(第101回定時株主総会 議決権行使結果・2025年6月26日提出)

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