三菱財閥の創業家出身である岩崎俊哉氏は、輸入品が大半を占めるガラスについて国産化を決意。同氏の出資によって明治40年9月に「旭硝子株式会社」を設立した。この経緯から、旭硝子は三菱財閥のガラス部門として位置付けられた。
明治42年4月には海外から技術導入(ベルギー式手吹法)を図り、尼崎において6.6万m2の敷地を確保し、尼崎工場を新設した板ガラスの製造を開始した。尼崎を選定した理由は、水運による利便性が高く、原料の仕入れ(ソーダ灰の輸入)、製品の出荷に適した土地と判断したためであった。
なお、明治時代を通じて、日本国内においては各地で板ガラスの製造会社が誕生したが、いずれも量産に失敗していた。このため、三菱財閥によるガラスの生産が軌道に乗るかは未知数であった。
旭硝子は、海外から技術導入を図ることで量産体制の構築を狙った。尼崎工場の新設にあたっては、ベルギーから5人の工員を招き入れ、手吹法による板ガラスの生産技術を習得した。
1914年には福岡県戸畑に「牧山工場」、1916年には神奈川県に「鶴見工場」を新設して国内における生産増強を図った。創業時は手吹法を採用したが、牧山工場の建設に際してラバース式機械吹法を米エンパイア・マシン社より導入し、安定的な量産体制を構築した。
この結果、国内の量産メーカーとして旭硝子は先駆者となり、戦前の1937年には板ガラス生産量において「世界1位」を記録した。国内におけるシェアもトップをキープし、1970年に至っても「六十有余年間、業界トップを独創している」(『東邦経済』1970/9)と表され、国内トップ企業として認知された。
今後、生活の近代化とともに、その需要はますます増加するはずである。にもかかわらず、いつまでも海外からの輸入にまつのは、国家経済上の不利もさることながら、工業人としていかにも情けない。目前の利害・得失は関知するところではない。困苦はもとより覚悟の上である。是が非でも、板ガラス工業を、立派に独立したわが国の産業として完成させたい。これこそ、私の生涯に課せられた仕事である。
第一次世界大戦(1914年〜1919年)によって、板ガラス原料である「ソーダ灰」の輸入が途絶したことを受け、旭硝子は原料内製化を開始。牧山工場において「アンモニア法によるソーダ灰の生産」を開始。ソーダ工業を通じて、化学事業に参入した。
1942年には大阪晒粉を合併して淀川工場として運営し、電解法による苛性ソーダの生産を開始。ソーダ工業における「アンモニア法」と「電解法」の両方を兼ね備える形となった。
戦後の財閥解体を受けて、三菱化成の3社分割が決定。レーヨン事業は「三菱レーヨン」、ガラス事業は「旭硝子」、化学事業は「三菱化成」にそれぞれ分割された。これを受けて、1950年に旭硝子株式会社が再度発足した。
1956年にインドへの進出を決定して「インド旭硝子」を設立した。日本企業としては「日本とインドの本格的合弁第1号」(『合弁会社は儲かっているか』・1965年)と言われ、注目を集めた。
進出の経緯は、インド政府の要請であった。現地メーカーのソデブール社が板ガラスの製造に従事していたものの、ストライキによって経営状況が悪化。インド政府は閉鎖工場を再生するために、日本で実績のある旭硝子に合弁会社の設立を依頼していた。ただし、インド国内で事業者を見つけることはできず、インド政府は旭硝子に経営を一任することを決定し、旭硝子はインドへの進出を決断した。
旭硝子は旧ソデブール社の閉鎖工場「ブルクンダ工場」を引き継いで生産を再開。現地で技術者を育成しつつ、設備投資を実施することによって、1962年までに日産1500箱の量産体制を確立。進出5年目の1961年度より現地法人は黒字に転換した。
1981年6月にベルギーのガラスメーカー「グラバーベル」を約100億円で買収。同社はガラスの名門企業であったが、日本企業の板ガラスの輸出によって経営難に陥っていた。そこで、旭硝子は現地生産を通じて貿易摩擦を避けるために、経営難に陥ったクラバーベル社の買収を決定した。
不採算事業を整理するために、1998年に旭硝子(石塚社長)は、経営方針「Shrink to Grow」を策定。ガラスにおける余剰設備の廃棄や、化学事業における不採算部門の縮小を実施。
2000年代を通じて、旭硝子は液晶ディスプレイ(TV向け)のガラスに対して積極投資を実施。2000年時点においては、プラズマ方式(PDP)と液晶方式(TFT)のいずれかがデファクトを取るかは不明瞭であったため、旭硝子は両方の技術方式に投資した。
なお、2000年代後半に液晶方式が優勢なことが明らかになると、TFTへの設備投資に注力した。
旭硝子はTFT向けのパネルにおいて「ヒ素・アンチモン」を含まないガラスとして、フロート法による生産体制を確立。通常の生産方法では、これらの物質を含まない場合、ガラス生産の歩留まりが低下すると言われ、2000年代の旭硝子はこの点を「競争優位性」として訴求した。
ピーク時の2006年度には、設備投資額の大半を液晶向けに振り分ける(年間投資額1460億円)など、生産増強に積極投資した。
展開地域については、2000年代を通じて「台湾・韓国」における液晶向けガラスの生産拠点を新設し、2010年には「中国」での現地生産を開始。アジアにおける液晶ディスプレイメーカーに対しても供給することで、グローバルな部材メーカーとしての地位を確保した。
ブラウン管TVの需要減少を受けて、CRT用ガラスバルブ生産に従事していた船橋工場(千葉県船橋市北本町1-10-1)の閉鎖を決定
新経営方針「JIKKOU」を策定。FPDパネルへの投資継続、新興国を中心としたグローバルにおける生産投資を行う方針を固めた。経営数値目標としては、売上高営業利益率10%を設定。
2008年のリーマンショックにより、旭硝子の「ガラス事業(建築用・自動車用)」および「化学事業」がそれぞれ低収益の基調になる中、「電子事業」が液晶向けガラスの好調により高収益を確保した。
電子事業では、液晶ディスプレイの普及機に直面したことで販売が好調に推移し、2010年度における電子事業のセグメント業績は、売上高4338億円・営業利益1899億円を確保。電子事業の営業利益率は43.7%という高水準を達成した。
この結果、2010年12月期に旭硝子は過去最高益を達成し、リーマンショックで苦境にあえぐ製造業が多い中で、異例の好業績を達成して注目を集めた。
2012年度以降、液晶の需要が一巡したことを受けて、液晶向けガラスの需要が低迷。旭硝子は電子事業において黒字は確保するものの、2010年度のような高収益の確保が難しい状況に陥った。