旭硝子が板ガラスの会社でありながらソーダと耐火煉瓦を抱えることになったのは、多角化を志したからではない。板ガラスを作り続けるために要る原料と炉材が、輸入でしか手に入らなかったからである。第一次大戦で欧州との取引が途絶したとき、道は二つしかなかった。ガラスの生産を落として耐えるか、原料と炉材そのものを作り始めるか。岩崎俊弥が選んだのは後者で、1916年に耐火煉瓦、1917年にソーダ灰へ手を伸ばした。この選択は、板ガラス一品の会社を、ガラスと化学と窯業の三本柱を持つ会社へ作り替える。創業から十年で決まった構えは、その後の百年にわたって変わらなかった。
三本柱の意味は、1920年代にソーダ灰の値が半分以下へ落ちたときに現れた。アフリカ産の天然ソーダと英国資本の争いに巻き込まれ、100ポンド6円だったソーダ灰は2円50銭まで下がる。ソーダだけを作っていた同業は作業を止めたが、旭硝子は止まらなかった。原料部門の赤字を、完成品であるガラスの利益が吸収したからである。垂直に連なった事業は、好況のときに変動を増幅する代わりに、一つの段が崩れたときには他の段が支える構造でもあった。1944年に社名が三菱化成工業へ変わり、1950年に旭硝子として戻るまでの六年は、その構えの上に積んだ技術と人が別の法人の内側で温存された期間だった。
1907年9月8日、岩崎俊弥は三菱財閥の支援を受け、資本金100万円で旭硝子株式会社を設立し、本社を兵庫県尼崎に置いた。当時の日本は窓用板ガラスをほぼ全量を海外からの輸入に頼っており、国内で工業的に生産できる技術を持つ企業はまだどこにも存在しない状況であった。1909年4月に尼崎工場を建設してベルギー式手吹法による窓硝子の製造を開始し、翌1910年1月には菱印の商標で製品の市販に踏み切り、日本で初めての板ガラスの工業生産にこぎつけた。輸入品との価格競争を覚悟したうえで、まず国産化そのものを目的に据えた事業設計であり、民族資本企業による輸入依存脱却への挑戦という色合いが強く打ち出された創業案件である。
創業から七年のあいだ、旭硝子は無配を続けた。初代社長の岩崎俊弥は三菱本家の岩崎小弥太の弟にあたり、第一高等学校を中途退学してイギリスへ留学し応用化学を学んだのち、帰国後に三菱で相応の地位に就く道を自ら放棄して独立した。明治末期の日本の板ガラス需要は年間4,000万円から5,000万円に上りながら、それを満たす国内生産は皆無で、全量が輸入で賄われていた。だが1910年に市場へ出した国産板ガラスは、人間の肺活量に頼る手吹き法で作られたため高度な熟練を要し、均一で良質な製品を安定して作ることが難しく、第一次大戦が始まるまで毎年の赤字計上を余儀なくされた。転機は戦争が運んできた。欧州からの輸入が途絶した間に国内市場を押さえ、それまで欧米製品に頼っていた東南アジアや中近東からも注文が殺到した。
国産化は、後工程や原材料の内製化へと連鎖していく流れへとつながった。1914年に北九州の牧山工場を設置して西日本に生産拠点を広げ、1916年にはガラス溶解窯の構造材である耐火煉瓦の自社生産を開始してセラミックス事業へと参入し、同年には横浜の鶴見工場も置いている。牧山・鶴見の両工場ではラバース式機械吹法を採り入れて手吹法から機械生産への転換を図り、翌1917年にはガラスの主原料であるソーダ灰の製造にも参入し、原料から最終製品までを自社で手掛ける一貫生産体制を構築し上げた。その後も1928年に尼崎の硝子工場をフルコール式に、1931年に鶴見の硝子工場をピッツバーグ式に改造して連続生産技術を取り込んでいき、後のセラミックス・化学品の事業群は、すべてガラスを作るための副資材内製から派生したものであり、創業期の自前主義が後年の多角化戦略の原点となる遺伝子を形づくったと位置づけることができる局面である。
アフリカのマガジ湖で豊富な天然ソーダが見つかり、神戸の鈴木商店系である太陽曹達がその輸入権を一手に握って安値で日本へ持ち込んだ。原料を自ら作る設計は、その原料の市況が壊れたときに最初の試練を迎えることになる。旭硝子は顧問の西川博士らを現地へ派遣し、処理加工に難点が多く品質も不純で用途は低級な方面に限られるという報告を得た。それでもマガジ産と英国ブラナー・モンド社の製品が日本市場で争奪戦を演じたため、100ポンド当たり6円だったソーダ灰は一挙に半値の3円へ落ち、1922年には3円を割り、翌1923年には2円50銭まで下がった。同業の一社は三年続いた苦境に耐えられず作業休止に追い込まれたが、旭硝子は塩化石灰や局方重曹といった副産物の製造を新たに起こしてソーダ事業を続けた。ガラスを兼業していたことが、原料部門の赤字を吸収する余地を与えていた。
戦前の旭硝子は、内地よりも外地に多くの工場を構える会社であった。1925年4月に南満州鉄道と折半出資で昌光硝子を設立して大連に板ガラス工場を建て、1936年9月には華北の秦皇島にある耀華玻璃のベルギー資本を肩代わりして日華共同経営に当たり、翌1937年9月には昌光硝子の子会社として奉天に満州昌光硝子を置いた。ソーダの主原料である塩に着目して1936年4月に満州塩業の創立へ参画し、同年5月には南満州鉄道らとの共同出資で満州曹達を設立している。耐火煉瓦でも1941年11月に三菱鉱業と折半出資で北朝鮮の清津へ工場を建て、朝鮮・満州向けの供給に当てた。板ガラスの市場はスエズより東が日本の商権とされており、敗戦によって外地の一切の資産と権益を失ったことは、工場を手放すと同時に多年培ってきた市場を明け渡すことでもあった。
板ガラスの製法はベルギーで開発されたフルコール法とアメリカで発達したコールバン法に大別され、旭硝子は前者を、日本板硝子は後者を採った。製法が限られればメーカーの数も自ずと限られ、各国の板ガラス工業は例外なく独占か寡占に収まる。日本板硝子の前身である日米板硝子は1918年に資本金300万円で設立され、その3分の1は特許と技術を出したアメリカのリビー・オウエンス社へ交付し、残りを住友や旭硝子など大阪財界が払い込んだ。若松に建てた工場は歩留まりが悪く経営が行き詰まり、住友は旭硝子へ経営を委任しようとしたが拒まれ、やむをえず自ら引き取っている。関東大震災による需要急増で経営は改善し、1931年には国産品奨励の風潮を受けて社名から米の一字を外した。ほかの参入者は両社に対抗できず、1941年には二社の独占へ戻った。
戦前の旭硝子は、板ガラスにソーダや耐火物を加えた事業群を軸に成長を遂げ、世界一級のガラスメーカーと呼ばれるまでになっていた。だが戦時統制が深まるなかで段階的な企業集約に組み込まれ、1939年に昭和化学工業を、1942年に大阪晒粉をそれぞれ合併して事業規模を拡大したうえ、1939年には兵庫県に伊保工場を新設して生産能力を積み上げた。その延長線上の1944年、旭硝子は日本化成工業と合併して三菱化成工業株式会社と改称し、資本金は1億1,079万円となった。創業から37年で旭硝子の名はいったん表舞台から消え、会社はガラス・セラミックス・化学品を併せ持つ巨大な戦時統合体の一部となった。軍需資材としてのガラスと化学品が同じ法人で運用される戦時経済特有の編成がここで成立し、生産技術と人材がこの統合体の内部に広く温存されたことが、後の多角化の素地ともなった。
かつての社名である旭硝子を名乗り、資本金2億5,000万円の会社としてガラス部門が再出発したのは1950年6月1日で、上場も同じ年のうちに果たした。その前提は、戦後の財閥解体と過度経済力集中排除法の下で、企業再建整備法による整備計画が同年1月に認められ、三菱化成工業が旭硝子・日本化成工業・新光レイヨンへと三社に分かれることが決まった点にある。再出発した時点の事業は、ガラス、セラミックス、ソーダ灰など創業以来の領域を出ていなかった。それでも戦時中に同じ社内にあった化学品の知見と技術者を手放さずに済んだことが、1964年のフッ素化学品参入、そして1965年以降にアジアで広げたクロールアルカリ事業へとつながった。社名がいったん消えて再び戻ってきたという経験は、後年にブランドを掛け替える判断を下すうえでの心理的な抵抗を薄くする役割をも果たしたと評価できる。
戦後の旭硝子は、外地の工場も市場も失ったうえで、戦前と同じ構えのまま再出発した。手元に残ったのは国内の工場と、ガラス・ソーダ・炉材を一つの工程に繋ぐ技術である。この会社が他社と違ったのは、その技術を守るのではなく、外から買い足すものと考えた点にある。ソ連製のドリルも米国のアンモニア合成も同じ天秤に載せ、自社で開発した電解槽は売りに出した。板ガラスの製法が世界に二つか三つしかないため、どの国でも二社か三社に収まる産業で、買える技術を全部買うことは、そのまま競争優位の幅を広げることだった。1971年に板ガラスで5割、ブラウン管用ガラスで7割を占めた地位は、その積み重ねの結果である。
垂直的多角経営には代償があった。原料から完成品まで自社の内側に抱えるため、景気が落ちれば全段が同時に落ちる。それでも旭硝子がこの形を捨てなかったのは、工程が長いほど合理化の余地が増え、各段の利益が最終製品に積み上がるからである。同じ理屈が海外でも働いた。印度旭硝子は15年にわたって赤字を出し続け、中印国境紛争と印パ戦争と長期ストライキに遭っても畳まれなかった。本体の板ガラスとソーダが、その赤字を抱え込める厚みを持っていたからである。テレビと自動車と住宅という三つの需要が同時に伸びた時期に、旭硝子はその三つ全部へ素材を出せる会社になっていた。
1950年6月に再発足した旭硝子が手にしていたのは、国内の工場と技術と人だけであった。終戦とともに外地の一切の資産と権益を失い、そのうえ財閥会社および過度経済力集中排除法の指定を受けて苦難に直面していたためである。資本金2億5,000万円で出直した会社は、戦後いち早く生産を再開して復興に力を注ぎ、欧米に対する立ち遅れを取り戻すため外国から新技術を導入して品質と生産性の向上に努めた。1950年には、日本のソーダ工業界に先がけて塩安とソーダ灰を併産するAC法の工業化に成功している。資本金は二度の増資を経て1954年7月に31億円となり、1955年3月期の売上高は81億8,000万円に達した。板ガラスとソーダはいずれも業界首位を占め、板ガラスは日本板硝子とともに業界の双璧と称された。
旭硝子は、自社技術の純潔を守るより外の技術を買うことを選んだ。技術の純潔性に固執したがゆえに経営へ失敗した会社が少なくないという読みのもと、優秀であればどの国の技術でも積極的に導入し、買い手があればどの国へも輸出する方針を採ったのである。千葉工場で天然ガスの井戸を掘る際には、大阪の国際見本市で見つけたソ連製のターボドリルを採り入れて工期を縮め、天然ガスからアンモニアを合成する技術はアメリカの技術コンサルタントから輸入した。逆に、自社で開発した回転式電解槽はアメリカ有数のソーダ会社へ技術輸出することが決まっていた。導入と輸出を同じ天秤に載せた結果、1967年には製板でフルコール式とピッツバーグ式の二方式を持ち、型板のロールアウト式と磨板のフロート式も併せ持つに至った。
イギリスではピルキントン一社が、フランスではサンゴバン一社が市場を押さえていた。ベルギーでも、EECの発足で規模を広げる必要に迫られたユニバーベルとグラベールの二社が1961年に合併してグラベーベルが生まれ、一社あたりの板ガラス生産能力は世界第一位となった。板ガラスが少数の企業に集約されるのは各国に共通する姿で、日本だけの事情から生じたわけではなかった。アメリカではPPGとLOFがほとんどの市場を占め、ドイツも二社が支配していた。日本では旭硝子と日本板硝子の二社体制に、1960年代へ入ってセントラル硝子が第三の会社として加わり、既存の二社にとって大きな刺激となった。それでも1971年の時点で旭硝子は板ガラス部門で5割を上回るシェアを占め、加工ガラスで6割、テレビブラウン管用ガラスで7割を超えていた。
敗戦で失った海外市場を取り戻す最初の足場となったのはインドで、戦前はスエズ以東の板ガラス市場を日本の商権として握っていた旭硝子が、その市場を外国の手へ明け渡したことが出発点にある。1956年8月、インド産業金融公社の担保に入っていた不振の米国系企業について、ソルデプール・ガラスの買収により印度旭硝子を立ち上げ、ビハール州の工場が生産に入ったのは翌1957年6月である。出資はインド側の要請により、合弁の外資比率が4割以下へ絞られつつあった中で珍しく100%を認められたが、自社の設計ではない工場の運営は難しく、国内なら三年から四年で出る利益が出るまでに八年かかった。
生産は1958年に24万箱、1961年に37万箱と伸び、配当も間近とみられていた。ところが1962年秋の中印国境紛争で貨車もトラックも軍事優先となり、原料は入らず製品は運び出せなくなった。1963年以降は英国系のヒンドスタン・ピルキントンなど四社が生まれて六社の過当競争へ変わり、1965年の印パ戦争と、賃上げ・解雇をめぐるストライキでどん底に落ち込んだ。社内外から撤退論が上がったが、従業員約1,200人と家族を含む5,000人の生活を支えている以上へこたれるわけにはいかないとして事業を続けた。1972年には初めて法人税100万ルピーを納めるところまでこぎつけ、年産能力40万箱・シェア3割で同国業界の首位に立った。15年の赤字に耐えられたのは、この事業が本体の板ガラスとソーダに支えられていたからである。
インドで得た足場は、1960年代を通じてアジア全域の生産網へ広がった。1964年にフッ素化学品の生産を始め、翌1965年にはタイ旭苛性曹達を設立してアジアでのクロールアルカリ生産に踏み出している。1967年の時点で海外子会社は印度旭硝子・タイ旭硝子・タイ旭苛性ソーダの三社を数え、台湾とインドネシアへは技術を輸出していた。インドネシア向けのソーダ電解プラント輸出は、同国が外国の技術によって設立した会社のうち最も利益を上げるものとなった。1971年にはインドネシアでの合弁設立を申請し、イランとフィリピンの板ガラス会社と技術提携を結んでいる。もっともインドでは自国資本の比率を高める政策が進み、印度旭硝子は1974年から出資比率を49%まで引き下げるよう要請を受けた。
旭硝子が一貫メーカーであり続けたのは、第一次大戦で原料と耐火炉材の輸入が止まり、その自給を迫られた経験に発している。1967年の時点でも、この垂直的多角経営は今後も守り続ける方針に置かれていた。縦につながった多角化は、横に広げる多角化と異なり、景気の波を和らげるどころか、かえって波を生む要因になる。千葉の構えはまさにこの型である。天然ガスでアンモニアを合成し、アンモニアから塩化アンモンとソーダ灰を併産し、そのソーダ灰でガラスを作って加工ガラスにまで仕上げていた。その代わり、原料から製品までの工程が長い分だけ合理化できる箇所も多く、各段階で得る利益が重なるので、売上高に比べた利益率は高い水準に届く。専業を貫いた日本板硝子と比べてどちらが得策かは、時の経過を待たなければ答えの出ない問題だった。
戦後の成長を運んだのは、テレビ工業と自動車工業と建設業であった。1963年の時点で生産能力はテレビブラウン管が月産50万個、自動車ガラスが月産17万平方メートルにとどまっていたが、1967年にはテレビ用管球ガラスが月産60万個、加工ガラスが月産40万平方メートルへ伸び、名古屋のトヨタ自動車に近い塚口工場豊田分工場と、横浜の旧研究所跡の分工場を建設していた。テレビ用ブラウン管ガラスはアメリカのコーニング社からライセンスを取って生産し、1970年にはテレビ用バルブの生産量でアメリカを追い越した。白黒からカラーへの転換が需要をさらに押し上げ、1970年末のカラーテレビ普及率はなお4割台にとどまっていた。
日本の衣食は世界水準に達した一方で住は著しく立ち遅れており、所得が増えれば家計の支出は最後に住宅へ向かう。旭硝子は1963年の時点でそう読み、建材部門の将来に賭けた。その読みに沿って、スウェーデンから技術を導入した軽量気泡コンクリートのシポレックスを住友金属鉱山と共同で、無機質の吹付材であるボンタイルを関連会社で事業化し、いずれも高層建築の外装や躯体へ採り入れられていった。売上構成は1967年時点でガラス関係が7割、化学関係が2割五分、耐火煉瓦が五分であったが、1976年12月期にはガラス59%・化学37%・セラミックス4%へ移り、売上高は2,920億円余、純利益は92億円余を計上した。同じ年、イオン交換膜を用いた苛性ソーダの新製法と、液晶表示装置を手掛ける子会社の設立に踏み出している。
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|---|---|---|---|---|
| 1907〜1949年板ガラスの国産化から戦時統合を経て再発足するまでの創業期 | 旭硝子を創立 | ★ | ||
| 尼崎工場を新設 | ★ | |||
| 日本で初めて板ガラスの工業生産を開始 | ★★ | |||
| 牧山工場を新設 | ★ | |||
| 耐火煉瓦の生産を開始しセラミックス事業に参入 | ★★ | |||
| 鶴見工場を新設 | ★ | |||
| ソーダ灰の製造を開始 | ★ | |||
| 伊保工場を新設 | ★ | |||
| 日本化成工業と合併し三菱化成工業に商号変更 | ★★ | |||
| 1950〜1979年垂直的多角経営とブラウン管・自動車ガラス、アジアでの生産展開 | 企業再建整備法により三菱化成工業が3分割され旭硝子として再発足し株式上場 | ★ | ||
| 森本貫一 | ブラウン管用ガラスの生産を開始 | ★ | ||
| 森本貫一 | 自動車ガラスの生産を開始 | ★ | ||
| 森本貫一 | 千葉工場を新設 | ★ | ||
| 森本貫一 | フッ素化学品の生産を開始 | ★ | ||
| 森本貫一 | タイ旭硝子社を設立 | ★ | ||
| 森本貫一 | 羽沢研究所を新設 | ★ | ||
| 森本貫一 | タイ旭苛性曹達社を設立しアジアでの化学品生産を開始 | ★ | ||
| 倉田元治 | 愛知工場を新設 | ★ | ||
| 倉田元治 | 相模事業所を開設 | ★ | ||
| 倉田元治 | PT Asahimas Flat Glass を設立 | ★ | ||
| 山下秀明 | 鹿島工場を新設 | ★ | ||
| 山下秀明 | タイ安全硝子社を設立しアジアでの自動車ガラス生産を開始 | ★ | ||
| 1980〜2001年アミーバ的多角化とグラバーベル買収、疑似分社制とTFT液晶ガラス基板 | 山下秀明 | 戦略型研究開発を核に置いた新規事業の相次ぐ立ち上げ 1980年前後、旭硝子は板ガラスを中核に周辺事業へ広がる"アミーバ的"多角化を進めた。研究開発部門を長期の事業創出へ振り向ける"戦略型研究開発"を組織の中心に据え、化学品・セラミックス・電子と事業を増やしていく方針を明確にした。"安定と進歩の両立"を掲げた山下秀明社長のもとでの経営方針である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 山下秀明 | ベルギーのグラバーベル社を買収 | ★★ | ||
| 坂部武夫 | APテクノグラス社を設立 | ★ | ||
| 坂部武夫 | 合成石英ガラスの生産を開始 | ★ | ||
| 古本次郎 | 板ガラス製造会社AFGインダストリーズ社に資本参加 | ★ | ||
| 古本次郎 | ベルギーのスプリンテックス社に資本参加 | ★ | ||
| 古本次郎 | 大連フロート硝子社を設立し板ガラス生産を開始 | ★ | ||
| 瀬谷博道 | 意思決定の遅さからの脱却を狙った事業単位への権限移譲 1994年4月、旭硝子は8つの事業本部に全社の資本金・資産・借入金を割り振って独立採算の"疑似分社"とし、事業担当役員に"疑似社長"として予算・投資・人事の権限を委ねる独立事業部制を導入した。瀬谷博道社長のもとで進めた意思決定機構の改革である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 瀬谷博道 | TFT液晶ガラス基板用無アルカリガラスの生産を開始 | ★★ | ||
| 石津進也 | ICIのフッ素樹脂事業を買収 | ★ | ||
| 石津進也 | 旭硝子ファインテクノ台湾社を設立しTFT液晶用ガラス基板生産を開始 | ★ | ||
| 2002〜2026年カンパニー制によるグローバル一体経営とAGCへの改称、バイオ医薬品CDMOへの参入 | 石津進也 | カンパニー制を導入しグローバル一体経営体制に移行 | ★ | |
| 石村和彦 | 石村和彦氏が社長に就任 | ★ | ||
| 石村和彦 | 旧北九州工場から自動車ガラス事業を撤退 | ★ | ||
| 石村和彦 | スマートフォン・タブレット用カバーガラス向け化学強化用特殊ガラスの生産を開始 | ★ | ||
| 島村琢哉 | 島村琢哉氏が社長に就任 | ★ | ||
| 島村琢哉 | バイオ医薬品CDMO事業に参入 | ★★ | ||
| 島村琢哉 | デンマーク・米国に拠点を有するCMC Biologics社の全株式を取得 | ★ | ||
| 島村琢哉 | 社名を旭硝子からAGCへ変更 | ★ | ||
| 島村琢哉 | Park Electrochemical社のエレクトロニクス事業を買収 | ★ | ||
| 島村琢哉 | Molecular Medicine社の全株式を取得し遺伝子・細胞治療領域のCDMO事業に参入 | ★ | ||
| 平井良典 | 平井良典氏が社長に就任 | ★ | ||
| 平井良典 | 北米建築用ガラス事業を米国Cardinal Glass Industriesに譲渡 | ★★ | ||
| 平井良典 | 建築用・自動車用ガラス事業を譲渡しロシア事業から撤退 | ★★ | ||
| 平井良典 | 社外取締役が過半を占める取締役会への組み替え 2026年3月27日の第101回定時株主総会で「定款一部変更の件」が賛成99.59%で可決され、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。掲げた目的は取締役会の監督機能の一層の強化で、同時に社外取締役が過半数を占める取締役会とすることを決めている。 移行にあわせ、取締役会の役割を「長期的視点で経営の大きな方向性を示す」「執行の適切なリスクテイクを後押しする」「価値創造の実現を監督し執行トップを評価・選任する」ことと改めて定義した。 詳細を読む |
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事実根拠:出所(AGC)