歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1921年9月、第一次世界大戦でドイツからの体温計輸入が途絶え、医療現場が国産品を求めるなか、北里柴三郎ら医学者の後ろ盾を得て東京市下谷区に赤線検温器株式会社が設立された。翌年発売の体温計は医学者の信用と輸入代替の外需に支えられて医療現場へ広がった。だが自前で新製品を生む技術はまだ薄く、戦中戦後の統制下では検温器を作るほかなく、単一製品の量産に頼る体質が創業から40年以上にわたって残った。
決断会社の中身を変えたのは1963年のディスポーザブル注射筒である。ガラス注射器を煮沸して再利用する病院の慣行を、感染リスクという一点で覆し、何十年も使う耐久財から使い捨ての消耗品へ主力を移した。安定して積み上がる需要と量産ノウハウがここで生まれた。さらに1999年の米3M人工心肺買収を皮切りに、自前開発では何年もかかる治療領域を買って繋ぐ手法を常態化させ、心臓血管・血液血漿・ホスピタルの三領域へ広げていった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1921年〜1962年 検温器国産化から医療消耗品メーカーへの助走
北里柴三郎が関わった「国産化」の起点
1921年9月、東京市下谷区に資本金50万円で「赤線検温器株式会社」が設立された[1][2][3]。第一次世界大戦でドイツからの体温計輸入が途絶え、医療現場で国産品の供給体制を作る必要が生じたことが背景にある。ドイツ一国依存の脆弱性が戦時に露呈し、国内で代替供給源を立ち上げる動きが医学者を中心に広がった。北里柴三郎をはじめとする医学者の支援を受けて発足し、翌1922年2月に体温計を発売した[4]。検温器という単一製品の国産化が事業の出発点で、創業から40年以上にわたって同社の主軸であり続けた。輸入代替という外部要因に支えられた事業構造で、戦後も国産検温器メーカーとしての地位維持が経営の中心課題となった。
戦中・戦後を通じて、テルモの事業は体温計を中核とする計測器・医療消耗品の枠に収まっていた。戦時下の原材料不足と戦後の医療品統制により、新規製品の開発余力は限られ、海外展開や多角化に進む体力もなかった。国内医療市場の拡大に応じて生産を増やす時期が続き、社名は依然として赤線検温器のままで、創業から40年を経ても一医療消耗品メーカーの域を出ない時期が長く続いた。この長い助走期間が、次の転機を生む土壌を作った。国内の検温器需要だけでは事業規模の頭打ちが見えており、プラスチック成型という新技術を取り込んだ製品ラインの拡張は、経営上の不可避のテーマだった。
プラスチック注射筒への賭けと市場創出
1963年1月、テルモはプラスチック製ディスポーザブル注射筒を発売した[5]。当時の日本ではガラス製注射器を煮沸消毒して再利用するのが一般的で、使い捨て製品は「コスト高」「廃棄物が増える」と医療現場の抵抗が強かった。再利用を前提とする運用は病院側の慣行・設備・経済計算に深く組み込まれており、切り替えには強い外圧が必要だった。しかし注射筒の再利用は肝炎などの感染リスクを伴っており、欧米ではすでにディスポーザブル化が進んでいた。テルモは検温器で蓄積した医療消耗品の量産ノウハウをプラスチック成型に転用し、国内では先行者として市場創出に動いた。常識に反した使い捨て発想が、感染リスクという一点で合理性を獲得した判断である。
ディスポーザブル化は、単なる新製品ではなく事業構造の転換だった。検温器のように数十年使い続けられる耐久消費財から、使い捨てを前提とする消耗品へと主力製品を移したことで、需要は安定的かつ拡大基調に乗った。1964年に富士宮工場、1970年に愛鷹工場と量産拠点を相次いで開設し、注射筒・輸液セット等のプラスチック医療器具へ品揃えを広げた[6][7]。国産検温器メーカーから医療消耗品メーカーへの移行は、この10年で実態として完了した。ただし社名には「赤線検温器」が残ったままで、対外的には依然として検温器会社のイメージが強く、事業実態との乖離が年々広がった。次に必要なのは、社名と海外拠点の整備だった。
1963年〜2010年 海外拠点設置とM&Aで組み立てた総合医療機器会社
商号変更が追認した事業実態の拡大
1971年5月にベルギーでテルモヨーロッパNV、同年10月に米国でキンブルテルモ社を設立し、テルモは欧米市場への足がかりを同時に築いた[8][9]。輸出ではなく現地法人を置く判断は当時の日本中堅メーカーとしては早かったが、ディスポーザブル医療器具は各国の薬事規制・滅菌基準・物流の制約から、現地での販売・適合対応が欠かせなかったためである。欧州はベルギー、米国はキンブル社との合弁と、主要市場それぞれに現地拠点を配する構えを取った。1974年10月、社名を「テルモ株式会社」に変更した[10]。検温器一本を示す旧社名は事業実態と乖離しており、商号変更は総合医療機器メーカーへの転換宣言だった。
国内では1983年に甲府工場、1989年に研究開発センター、1991年に駿河工場を相次いで開設し、生産・研究の拠点整備を行った[11][12][13]。1985年5月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、資本市場での調達能力を得た[14]。検温器メーカーから医療機器メーカーへの移行を進める過程で、設備・上場・海外拠点という3つの基盤を同時に整えたことが、次の段階の海外M&Aを可能にする前提となった。いずれも単体では買収の資金と実行体力を支えきれない要素で、3つが揃ったタイミングが1990年代後半だった点は、1999年の3M案件がそこまで待たれた理由の一つでもある。事業拡大に必要な要素を順に積み上げる時期が、ここまで続いた。
3M人工心肺買収 ── 心臓血管領域への踏み込み
1999年6月、テルモは米3M社から人工心肺事業を買収し、テルモカーディオバスキュラーシステムズを設立した[15]。買収以前のテルモは輸液セット・注射器など汎用消耗品が中心で、心臓血管領域は未参入だった。人工心肺のような高難度・高付加価値領域は、自前で研究開発・臨床試験・規制対応を積み上げれば10年単位の時間と多額の費用を要する分野にあたる。3M側がヘルスケア事業の整理を進めるなかで出たこの案件は、テルモにとって自前開発では届かない治療領域を一括取得する機会となった。心臓血管事業はのちに、カテーテル等のインターベンショナル製品と組み合わせて、グループの主力カンパニーへ成長する基盤となる。
2000年代に入るとテルモは買収の頻度と規模を引き上げた。2002年に英バスクテック、2005年に米ミッションメディカル、2006年3月に米マイクロベンション(脳血管治療デバイス)を取得し、2007年にドイツ・コーラー社から人工心臓弁事業を譲り受けた[16][17][18][19]。対象はカテーテル、脳血管デバイス、人工心臓弁と、いずれも従来の消耗品路線とは異なる治療機器領域で、自前開発では届かない分野を個別に買い足す構図がなった。マイクロベンションはのちにニューロバスキュラー領域の中核となり、シークエントメディカル買収(2016)と合わせて成長ドライバーへ育った[20]。1999年の3M買収を起点に、テルモは「事業を買ってつなぐ」経営手法を常態化させた。
カリディアンBCT買収で血液システム事業を確立
2011年4月、テルモは血液成分採取・処理大手の米カリディアンBCTを買収した[21]。買収金額は当時のテルモにとって過去最大級で、自己資本比率の一時的な低下を伴うディールだった。カリディアンBCTの取得により、テルモは輸血・血液関連商品群を「血液システム事業」として独立カンパニー化し、ホスピタル・心臓血管領域と並ぶ三つの治療領域による事業体制を完成させた。それまで個別買収で領域を補完した手法から、既存事業の隣接領域を丸ごと取りにいく手法へと、買収のサイズ感そのものが変わった局面となる。検温器一本から始まった会社が心臓血管・血液血漿・ホスピタルという3つの治療領域を持つ企業へ事業ポートフォリオを組み替えたのが、この買収にあたる。
買収後の統合は容易ではなかった。FY11のセグメント情報では血液システム事業の売上718億円に対して利益35億円と低水準で推移し、FY15には利益▲14億円、FY16には利益▲29億円と赤字に転じた時期もあった[22][23][24]。三領域の体制を作ることと、その領域で利益を生むことは別の問題である。のれんの減価償却負担、現地組織の統合コスト、製品ラインの整理、需要地ごとの販売体制の作り直しなどが重なり、買収発表時点で見込んでいた統合の負担を当初想定以上に超えた。2017年のIFRS移行以降は利益150億円台へ回復したが、血液事業の収益化に10年近い時間を要した事実は、M&Aが即座に成果を生むものではないことを示している。
2011年〜2024年 買収で補完する成長領域と三極生産体制への組み替え
ニューロバスキュラーと大動脈 ── 買収で組み立てた成長領域
2016年6月に佐藤慎次郎が代表取締役社長CEOに就任し、グローバル経営体制の強化が経営の中心テーマとなった[25]。同年7月に米シークエントメディカル社(脳動脈瘤治療デバイス)、2017年1月に米アボット/セント・ジュードから止血デバイス事業、2017年3月に米ボルトンメディカル社(大動脈ステントグラフト)と、佐藤氏在任中には医療機器業界の事業切り出しを次々と取得した[26][27][28]。大手メディカル各社が事業ポートフォリオの選択と集中を進め、非中核領域を売却に回す動きが世界的に強まったタイミングで、テルモはその売り手側の整理を買い手として取り込む構図に立った。マイクロベンションを起点に育てたニューロバスキュラー領域、ボルトンを軸とする大動脈領域は、いずれも自前開発では参入が遅れていた分野だった。
買収で組み立てた成長領域は業績に直接表れた。連結売上高はFY10の3,282億円からFY17に5,877億円、FY23に9,218億円へ拡大し、営業利益はFY17に1,085億円(営業利益率18.5%)に達した[29][30][31][32]。IFRS移行による会計差を含むものの、心臓血管領域の高粗利製品が業績を牽引した構造は読み取れる。汎用消耗品中心だった時代の利益率水準から見れば、事業ミックスの変化が利益率の底上げに直接寄与したことが、FY17の営業利益率18.5%という数字から読み取れる。1999年の3M買収から数えて20年弱のあいだに、テルモはM&Aを成長戦略の定常手段として運用し、自前開発では届かない治療領域を買収で順に補完する経営パターンを定着させた。
「世界最適地生産」から三極体制へ
2023年度の決算説明会で、佐藤社長は従来の「世界最適地生産」を改め、日本・アジア、米国・コスタリカ、中国域内という三極体制へ生産配置を組み替える方針を明言した。「最適地」という言葉が前提にしていたのは、国境を越えて部材と完成品を自由に動かせる世界だった。背景にはCOVID-19で表面化したサプライチェーン分断、米中の地政学リスク、中国のVBP(ボリュームベース調達)拡大があり、需要地に近接した生産能力を確保する必要が高まった。2018年の中国エッセン・テクノロジー買収による中国域内生産強化、2020年代のコスタリカ拠点拡張は、いずれもこの三極体制の具体化にあたる[33]。
佐藤社長は「杭州工場は今も実質日本向け生産を続けている。ここを短期のうちに新しいポートフォリオに切り替えるのが最重要テーマ」(決算説明会 FY23-2Q)と述べ、生産配置の組み替えに伴う難度の高さも認めた。杭州工場の製品ポートフォリオ切替は、中国市場向けの新しい製品群を立ち上げるのと同義で、認可取得や顧客開拓の時間も含めた作業になる。1971年に欧米現地法人を置いた段階から続いた「海外生産」という発想は、FY20年代に「需要地生産」へ意味を変えた。海外売上比率が7割を超える事業構造のなかで、生産配置の地政学的最適化が経営課題の中心に据え直された時期と言える。
Rikaとプラズマイノベーションの長期戦
血液血漿カンパニーの中核製品である自動採血装置「Rika」は、2022年から限定上市が始まった。供給乱れと立ち上げ遅延で当初はマージンを圧迫し、FY22の決算説明会では「マージン悪化は今が底」と説明される状況だった。採血装置は顧客施設での運用トレーニング、認可、既存機からの置き換えといった工程が一件ごとに発生するため、センター展開のペースがそのまま売上の立ち上がりを規定する。2024年時点で展開センターは60、2025年春〜夏のCSL向け本格ロールアウトをもって独占期間が終了し、ほかの顧客への展開が始まる計画である。米テキサスのボーダーセンターでは1日16ドナーから採取できる施設も稼働した。投入から本格寄与までの時間軸の長さが、この製品の運用を特徴づけている。
Rikaは投入から本格寄与まで4年以上を要しており、医療機器の上市・量産・収益化のリードタイムの長さを示す事例となった。会社側は「Rikaの利益貢献は2025年度から。その時点で損益分岐に到達する見込み」(決算説明会 FY24-3Q)と説明し、FY25には血液血漿事業全体の伸長に半分以上寄与する計画である。カリディアンBCT買収からRikaの本格寄与まで14年あまりが経過した計算で、買収で取得した事業を自前の製品と量産プロセスで育て直し、10年近い時間軸で収益化する流れが、テルモの事業運営の標準的なパターンとして定着した。血液事業の再構築はこのパターンの典型で、3M人工心肺やマイクロベンションの統合過程と同じ時間軸を辿っている。