歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1923年、戦時統制を前にした地方紡績の再編のなかで、福島紡織が片倉製糸の岩代紡績所を買収し、福島県内の絹糸紡績2社が統合して日東紡績が生まれた。当時の絹糸・絹織物は欧米輸出向けの製糸問屋に納めて商いが成り立つ地方産業だった。初代社長の片倉三平は祖業の絹糸にとどまらず、レーヨン、綿、そしてガラス繊維へと扱う素材を次々に乗り換え、1938年には米社と並ぶ世界2番手として日本初のグラスファイバー工業化に成功した。
決断日東紡を決めたのは、祖業を守らずに事業そのものを入れ替え続ける選び方だった。1965年の最終赤字を境に、片倉が始めた化学繊維も戦後に広げた建材も後年の飲料も順に手放し、最後に残したのはガラス繊維だけだった。プリント配線板向けのガラスクロス、高機能のNEガラスと、電子産業の世代交代に合わせて素材を作り替え、絹糸紡績の会社は半導体パッケージ基板を支える素材メーカーへと変わっていった。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1938年に絹糸紡績会社が日本初のグラスファイバー工業化に挑んだのか
- A 1923年に福島県内の絹糸紡績2社が合併して発足した日東紡績は、初代社長の片倉三平氏が祖業の絹糸を守らず、レーヨン・綿・無機素材へ扱う材料を入れ替え続ける経営を選んだ。その延長で1938年12月、片倉社長の主導により日本初のグラスファイバー工業化に成功した。米国オーエンスコーニング社が同時期に達成しており、日東紡は世界2番手として位置付けられる。翌1939年2月には富久山工場で量産を始めた。
- Q なぜ1965年の赤字を境に祖業の紡績や建材を捨ててガラス繊維1本へ絞ったのか
- A 1965年3月期の最終赤字を境に、日東紡績は祖業を守らず収益の劣る事業から順に退出する選び方を採った。1986年6月に1937年から49年続いたレーヨン・化繊糸を撤収し、2008年8月にメラミン化粧板、2010年3月に不燃吸音天井板から撤退、2023年1月には飲料のニットービバレッジを譲渡した。残したガラス繊維をプリント配線板用ガラスクロスやNEガラスへ作り替え、電子材料の専門メーカーへ変えた。
- Q なぜ2024年からAI半導体向けガラスクロスに800億円規模を投じるのか
- A 生成AIの普及でデータセンター向けサーバー基板の高速化・微細化が進み、超極細・超薄のスペシャルガラスクロス需要が急増したためである。日東紡績はFY24(2025年3月期)に電子材料セグメントで売上409億円・営業利益138億円と連結営業利益の8割超を稼いだ。2024年4月就任の多田弘行社長は同年5月の新中計(2024〜2027年度)で4年間800億円の投資を掲げ、2025年10月に福島工場へ150億円の新工場棟建設を発表した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1898年〜1965年 福島の絹糸紡績2社合併と世界第2位グラスファイバー工業化
郡山絹糸紡績と福島精練製糸の合併で福島県内紡績企業として発足
日東紡績の前史は、1898年2月に郡山市で設立された郡山絹糸紡績株式会社と、1918年4月に福島市で設立された福島精練製糸株式会社(後の福島紡織)の2社にさかのぼる[1][2][3]。両社はともに福島県内に拠点を置く絹糸紡績会社で、明治末期から大正期にかけての地方紡績業の典型的な姿だった。1923年4月、福島紡織が片倉製糸紡績の岩代紡績所(旧郡山絹糸紡績)を買収する形で両社が統合し、商号を日東紡績株式会社に変更した[4]。福島県内の絹糸紡績2社が合併して福島県発祥の紡績企業として発足した経緯で、設立から100年を超えた現在も福島県内の主力生産拠点(福島・郡山)は同社の中核に位置する。
初代社長として片倉三平氏が就任した。片倉社長は祖業の絹糸紡績にとどまらず、当時最先端の化学繊維(レーヨン・スフ)やガラス繊維への参入を主導し、日東紡の経営を多角化した。1936年11月には福島県郡山市に富久山工場を新設し、1937年3月にはレーヨンステープルの量産を開始した[6][7]。1937年9月には兵庫県伊丹市に織物染色加工工場、同年10月には名古屋紡績株式会社(郡山絹糸工場・郡山工場・名古屋工場・新潟工場)を合併し、新潟工場を取得してこのとき綿紡績に進出した[5][8][9]。これにより福島・愛知・新潟・兵庫にまたがる工場群を擁する規模に拡張した。
1923年から1944年までの戦前期、日東紡績は単なる絹糸紡績会社にとどまらず、繊維素材を軸とする総合素材メーカーへの脱皮を始めた。1942年1月には泊紡績株式会社(富山県)を合併し、1944年2月にはトヨタ自動車(旧中央紡績)から和歌山県の海南・広2工場を買収した[10][11]。太平洋戦争中の企業統合のなかで日東紡績は昭光紡績・日東毛糸・泊紡績を合併するなど拡張を続け、1944年2月には社名を「日東城工業株式会社」に変更したが、戦後の1946年5月に「日東紡績株式会社」へ復帰した[12][13]。戦時統制経済下で繊維各社の合併・統合が進むなかで、日東紡績は東日本(福島・新潟)と西日本(兵庫・和歌山)にまたがる工場網を整え、戦前期の地方紡績会社としては異例の地理的分散を実現した。
1938年グラスファイバー工業化 ── 世界2位の同時成功
日東紡績の事業展開のなかで、ガラス繊維(グラスファイバー)への参入は、後の主力事業につながる決断だった。1938年12月、片倉社長の主導で日本初のグラスファイバー工業化に成功した[14]。世界では米国オーエンスコーニングファイバーグラス社が1938年に工業化を達成しており、日東紡は世界第2位のグラスファイバー工業化企業として位置付けられる[15][16]。1939年2月には富久山工場でグラスファイバーの量産を開始し、絹糸紡績会社が当時の素材イノベーションの最先端である無機素材分野に踏み込んだ[17]。同年11月には東京にロックウール工場を新設し、断熱材分野にも進出した[18]。
グラスファイバーは戦時下では軍需用途(航空機の電気絶縁材・電波装置)として需要が伸び、戦後は電子材料(プリント配線板用ガラスクロス)の素材として用途が広がった。1957年4月には福島工場でグラスファイバーの量産を開始し、1969年8月にはグラスファイバー織物工場を福島工場に新設した[19][20]。同年、プリント配線板向けのガラスクロスを発売し、電子材料市場への本格参入を果たした[21]。当時はカラーテレビの普及期で、ガラスクロスは家電製品の基板向け素材として需要が伸びた。1938年の工業化から30年余を経て、日東紡のグラスファイバー事業は電子産業の発展に直接連動する素材メーカーとしての地位を固めた。
戦後の1949年5月、日東紡は東京・大阪・名古屋・新潟の証券取引所に株式上場を果たした[22]。1950年10月には静岡県に綿紡織工場、1956年10月には郡山工場で合繊紡績の生産、1958年11月には富久山工場で合繊紡績の生産を開始した[23][24][25]。1962年4月には千葉工場で不燃吸音天井板ミネラートン、同年8月には鈴鹿工場でメラミン化粧板の生産を開始し、建材分野への参入を果たした[26][27]。1965年9月には千葉・東京両工場を分離して日東紡建材株式会社を設立し、建材事業を別法人として運営する体制を取った[28]。同年、初代社長の片倉三平氏は会長を退任した。1923年の創業から42年、片倉氏が築いた「絹糸紡績+化学繊維+ガラス繊維+建材」の多面的な事業ポートフォリオは、日東紡績の戦後の経営の基盤となった。
1965年最終赤字転落と建材事業の自立化
1965年3月期、日東紡績は最終赤字に転落した[29]。戦後復興期の繊維需要を捉えて拡張した工場群と、新規参入した建材事業の立ち上げコストが重なり、収益性が悪化した時期である。同年に片倉社長が退任した直接の契機にはこの赤字計上があったとされる。1923年の創業から戦後20年を経て、日東紡は経営体制と事業ポートフォリオの両面で再編を迫られる局面に至った。
1969年8月のグラスファイバー織物工場新設と同年のガラスクロス発売は、日東紡が繊維事業中心の経営から電子材料への転換を本格化させる第一歩だった。1971年4月には千葉工場で不燃吸音天井板ソーラトン、1975年9月には泊第二工場を新設し、建材分野での生産能力を拡張した[30][31]。同年10月には日東紡建材株式会社と日東紡不動産株式会社を本体に合併し、建材事業を再び本体内に取り込んだ[32]。1977年12月には伊丹工場を分離して日東紡伊丹加工株式会社を設立した[33]。子会社の設立・統合・分離を組み合わせる事業ポートフォリオの組み替えが、1960年代から1970年代を通じて続いた。1923年から1975年までの約半世紀、日東紡は紡績本業から派生した繊維・化学繊維・ガラス繊維・建材・不動産という5領域の事業を抱える総合素材メーカーとなった。
1965年〜2010年 繊維撤退と建材縮小 ── グラスファイバー1本への絞り込み
紡績工場の段階的閉鎖と1986年レーヨン事業撤収
1986年6月、日東紡績はレーヨンステープル・化繊糸の事業を撤収した[34]。1937年から49年間続いたレーヨン事業からの撤退は、創業期に片倉社長が踏み込んだ化学繊維分野からの実質的な退出を意味する[35]。日本繊維業界全体で化学繊維事業の構造調整が進んだ1980年代の動きに沿った決定だった。同年、米International Immunology Corporation(IIC社)を買収し、免疫系体外診断薬の事業展開を開始した[36]。ライフサイエンス事業への新規参入であり、繊維事業の縮小と並行して新規事業領域を開拓する方針が明確化した時期である。1987年12月には富久山工場に診断用医薬品製造所を新設し、医薬品(体外診断試薬)の生産体制を整えた[37]。
1989年8月には東京都中央区に日東紡ビルディングが完成し、9月から賃貸ビルとして営業を開始した[38]。バブル景気の終盤期に都心の不動産物件を取得・運営する形で、不動産事業の本格化を進めた。1990年9月には郡山工場の合繊紡績を閉鎖して富久山事業センターに統合、1991年11月には和歌山工場の綿紡績を建材事業に転換するためニットーボー和歌山を設立した[39][40]。1992年1月には和歌山工場の綿紡績操業を終了し、1993年9月には富久山事業センターでの合繊紡績の操業を終了した[41][42]。1995年2月には静岡工場の綿紡織操業を終了し、跡地はジャスコが入居するショッピングセンターとして開発した(2003年に土地を売却)[43][44]。
1998年1月には泊工場の綿紡績操業を終了し、ニットービバレッジ株式会社を設立して飲料生産に転換した[45][46]。同年4月にはニットーボー和歌山を本体に合併した[47]。1923年の創業から75年を経た1998年、日東紡績の祖業である絹糸・綿・合繊の紡績事業は終焉を迎えた。創業社名に残る「紡績」の文字が示す事業領域は、グラスファイバーを中心とする無機繊維とライフサイエンス・建材という多角化領域に置き換わった。残存する繊維事業はガラス繊維由来のものに事実上限定された。
1998年NEガラス開発とフラットファイバーの新規市場開拓
1998年、日東紡績は高付加価値のスペシャルガラス「NEガラス」を開発した[48]。NEガラスはデータセンターやスマートフォン向けアンテナパッケージ用途で活用される素材で、後年の電子材料事業の中核製品となった。同年、スマートフォン筐体や自動車向けのグラスファイバー「フラットファイバー」を発売した[49]。フラットファイバーは樹脂強化用の繊維強化材として、自動車部品やスマートフォン筐体に組み込まれる素材で、機能材事業の成長エンジンとなった。
2000年11月には郡山第2工場(郡山駅前に立地)の跡地を活用し、商業施設「ザ・モール郡山」を開業した[50]。中核テナントとして西友が入居し、紡績工場跡地を商業施設として収益化する手法が郡山でも展開された。2001年10月には住友ベークライト株式会社との合弁でデコラニット株式会社を設立し、メラミン化粧板事業を移管した[51]。建材分野の収益悪化を合弁事業による事業統合で対応する判断だった。2005年3月にはカネボウからテキストグラス事業を日東グラステックスが譲り受け、ガラス繊維関連事業の拡張を続けた[52]。2006年7月には和歌山工場の操業を終了し、戦時中(1944年)のトヨタ自動車からの工場買収以来62年間続いた和歌山県内の生産拠点を閉じた[53]。
2005年7月、日東紡績は過去に販売したロックウール製品でアスベスト利用があったことを公表した[54]。日東紡を含む建材メーカー各社のアスベスト健康被害に関する社会的責任が問われた時期である。同社は被害者への補償と過去製品の回収対応を進め、建材事業の収益性悪化と並行してアスベスト関連負担も負った。2008年8月には住友ベークライトとの合弁を解消し、メラミン化粧板事業から撤退した[55]。2008年12月には早期退職者の募集を実施し、約560名が退職に応じた[56]。2009年3月期には91億円の最終赤字に転落し(主に早期退職特別加算金の影響)、建材事業を含むリストラの本格化が必要となった[57]。
2010年建材事業部廃止 ── 内装建材からの完全撤退
リーマンショック後の2009年から2010年にかけて、日東紡績は建材事業の段階的撤退を決定した。1962年の千葉工場でのミネラートン生産開始から約半世紀続いた内装建材事業の整理である。2009年7月には会社分割により、メディカル事業をニットーボーメディカル株式会社が承継し、ライフサイエンス事業を独立した子会社で運営する体制に移行した[58]。2009年10月には株式会社日東紡マテリアル(内装建材の営業会社)の全株式を野原産業に譲渡し、内装建材の営業機能を手放した[59]。2010年3月には不燃吸音天井板事業から撤退し、建材事業のうち天井材分野からも完全撤退した[60]。
2010年に策定した中期経営計画(FY2010-FY2012)では、リーマンショック後の連結業績悪化を踏まえて建材事業部を廃止し、環境事業部として再編した。同事業部では「グリーンビジネス」「断熱材」「エンジニアリング・工事」「スペシャリティケミカル等」を担当組織として位置付け、内装建材から撤退した後の残存事業群を統合する役割を持たせた。1923年の創業から87年、日東紡績の事業構造は紡績本業の終焉と建材事業の撤退を経て、グラスファイバー(電子材料・機能材)とライフサイエンス(体外診断薬)を主力とする素材メーカーへの変貌を遂げた。
2010年〜2025年 電子材料の急成長とAI半導体向けガラスクロス150億円投資
スマホ向けフラットファイバーの急成長と原繊材事業の到達点
2010年代前半、スマートフォンの普及に伴い、日東紡績のグラスファイバー事業の業績が伸びた。フラットファイバーは樹脂強化材としてスマートフォン筐体に組み込まれ、グローバルなスマホ市場の拡大に伴って需要が急増した。FY15(2016年3月期)の連結営業利益は108億円、FY16(2017年3月期)は111億円、FY17(2018年3月期)は108億円と100億円超の水準を維持した[61][62][63]。原繊材事業セグメントはFY17にセグメント利益65億円を計上し、過去最高水準を記録した[64]。1923年の創業から94年を経て、日東紡績は電子材料・機能材を主軸とする素材メーカーとして連結業績のピークを迎えた局面である。
2017年からの中期経営計画「Go for Next 100」(FY2017-FY2020)では、営業利益の継続的成長とROE 10%以上を重視指標として設定し、電子材料事業を成長ドライバーに位置付けた[65]。2019年5月には日東紡(中国)有限公司の全持分を浙江銀瑜新材料に譲渡し、中国国内の生産体制を整理した[66]。同年6月には台湾のBaotek Industrial Materials Ltd.を連結子会社化し、台湾でのガラス繊維関連の生産・販売拠点を確保した[67]。2019年には米国の診断薬メーカー2社(Capricorn Products・International Immunology Corporation)を相次いで買収し、ライフサイエンス事業の販売網と薬事承認ノウハウを米国市場で拡張した[68]。
2021年4月には日東紡アドバンテックス株式会社を設立し、グラスファイバー関連の事業会社として再編した[69]。2021年7月には台湾にグラスファイバー量産工場を竣工し、機能材事業におけるスペシャルガラス(NEヤーン)の量産体制を整えた[70]。投資額は約120億円で、台湾を電子材料の生産拠点として位置付ける布石となった[71]。FY17をピークに原繊材事業の収益性は低下し、FY22(2023年3月期)にはセグメント赤字16億円に転落した[72]。コロナ禍によるスマホ需要の鈍化と中国メーカーとの競争激化が要因となり、原繊材事業は構造調整局面に入った。
2022年中計と「2年遅れ」の業績推移
2021年5月、日東紡績は長期ビジョン「Big VISION 2030」と中期経営計画(2021〜2023年度)を策定した[73]。グラスファイバー事業を中核に据え、半導体・5G向け高付加価値化を加速させる方針を示した。当時の辻裕一社長は変化への柔軟性を経営上の重要課題と位置付け、2030年度のビジョン実現に向けた継続的な取り組み方針を表明した[74]。しかし2022年度はコロナ禍とIT不況の影響を受け、辻社長は中期経営計画2年目の2022年度を、策定時点では想定できなかった事象が相次いだ1年と振り返っている。
2022年度の上期は半導体向け高付加価値グラスファイバーが好調に推移し、辻社長が過去最高水準の営業利益を計上したと説明したとおり、半導体向けスペシャルガラスは堅調な需要を維持した。FY22の連結営業利益は48億円とFY16・FY17の100億円超水準から低下したが、半導体・5G向けの電子材料事業は底堅さを示した[75]。2023年1月にはニットービバレッジ株式会社(1998年設立)の全株式をライフドリンクカンパニーに譲渡し、飲料事業から撤退した[76][77]。1998年に泊工場の綿紡績転換で始まった飲料生産事業は、25年で本体から離れた。
2023年は日東紡績の創業100周年で、辻社長は過去から積み重ねた基盤整備が急激な需要増加への対応を可能にしたと振り返り、生成AIによるデータセンター向け高付加価値ガラスクロス採用の増加を業績の追い風として挙げた[78]。データセンター向けの超極細・超薄スペシャルガラスクロスは、生成AIの計算負荷の増大に伴うサーバー基板の高速化・微細化要求に伴って需要が急増した素材であり、日東紡績の電子材料事業の主力製品として位置付けられた。
2024年新中計800億円投資とAI半導体ガラスクロス150億円増産
2024年4月、辻社長から多田弘行氏に社長交代が行われ、辻氏は代表執行役会長に移った[79]。多田社長は2024年5月に新中期経営計画(2024〜2027年度)を策定し、長期ビジョン「Big VISION 2030」達成に向けた4年計画とした[80]。事業ポートフォリオは複合材・電子材料・資材ケミカル・メディカル・断熱材・その他事業の6セグメント体制に再編し、営業利益200億円を最終年度(2027年度)目標として設定した[81][82]。4年間で800億円規模の投資を計画し、不採算事業の改善と並行して成長分野への投資を進める方針を示した[83]。
FY23(2024年3月期)の連結業績は売上高932億円・営業利益83億円・純利益72億円と回復基調を示した[84]。電子材料事業セグメントは売上298億円・営業利益53億円と、データセンター・生成AI向けスペシャルガラスクロスの需要拡大を反映した[85]。FY24(2025年3月期)には連結売上高1,090億円・営業利益164億円・純利益128億円と過去最高益を更新し、電子材料事業セグメントは売上409億円・営業利益138億円と単独で連結営業利益の8割超を稼ぐ構造に至った[86][87]。多田社長は2024年6月のインタビューで、創業100周年を機に次の100年に向けて新中期計画に基づく収益レベル引き上げを重要課題として説明し、今期営業利益予想125億円で過去最高益、最終年度目標200億円という計画を提示した[88]。
2025年10月、日東紡績は福島工場へのガラスクロス新工場棟建設(投資額150億円)を発表した[89][90]。AI半導体向け・データセンター向けの超極細・超薄スペシャルガラスクロスの増産を目的とし、生成AI市場の拡大に対応する設備投資の決定である。1938年12月の片倉社長による日本初のグラスファイバー工業化から87年、日東紡績の祖業から派生したグラス事業は、AI時代の半導体パッケージ基板向け素材という最先端用途で連結業績の主軸となった。1923年の福島県内2社合併で発足した地方紡績企業が、創業100年を経て電子材料の専門メーカーへと事業の重心を移し終えた段階にある。