直近の経営方針: 2025年3月期 2030年3月期
ユニチカグループ 事業再生計画(目指す姿:2029年3月期)

計画策定の背景

ユニチカは戦前に繊維事業を祖業として発展し、戦後は合成繊維や化学素材へと事業領域を広げてきた。高度成長期以降は、繊維に加えてフィルムや樹脂、機能資材といった分野へ展開することで事業の多角化を進め、売上規模の維持と雇用の確保を両立する経営を続けてきた。これらの判断は当時の産業構造や市場環境を前提とすれば合理的であり、事業の連続性を重視した意思決定が積み重ねられてきた。

しかし1990年代以降、素材産業全体の成熟化や国際競争の激化が進む中で、低収益事業を抱えたままの事業構造が固定化し、収益力の低下が慢性化した。2014年以降の構造改革においても踏み込んだ事業撤退には至らず、赤字事業が残存したまま投資が継続された結果、資金創出力は低下し、2020年代には自助努力のみでの再建が困難な状況に陥った。こうした経緯を踏まえ、ユニチカは2024年にREVICの支援を受け、繊維事業からの撤退を含む抜本的な事業再生計画の策定に至った。

経営の基本方針

本事業再生計画において最も非連続な点は、事業構造の見直しに先立ち、取締役全員が辞任し、経営体制を総入れ替えするという判断が行われた点にある。これは、従来の経営判断や延長線上では事業再生が困難であるとの認識に立ち、意思決定の前提そのものを切り替える必要があると判断した結果であった。

新たな経営体制のもとでは、過去の事業継続を前提とした判断から離れ、収益性と持続可能性を基準に事業を再定義することを基本方針としている。採算改善が困難と判断した繊維事業については縮小・撤退を進め、フィルム・樹脂を中心とする高分子事業および機能資材事業に経営資源を集中させることで、事業ポートフォリオの単純化と収益基盤の再構築を図る。

Author’s Questions

  1. なぜ、メインバンクは赤字事業を抱えたままユニチカの存続を許し続けたのか

    ユニチカでは1990年代以降、繊維事業をはじめとする低収益・赤字事業を抱えながらも、長期にわたり企業としての存続を維持してきた。その過程では、金融機関からの継続的な支援やリファイナンスが行われ、抜本的な事業整理は先送りされてきた。こうした状況において、銀行はユニチカのどの点を評価し、どの前提に基づいて企業存続を許容してきたと整理すべきなのか

  2. なぜ、繊維事業からの撤退はここまで遅れたのか

    ユニチカにとって繊維事業は祖業であり、長年にわたり雇用や地域経済とも強く結びついてきた。一方で、1990年代以降は国際競争の激化と市場縮小により収益性の低下が明確になっていたにもかかわらず、事業の大幅な縮小や撤退は先送りされてきた。過去の構造改革や事業再編の局面において、繊維事業を継続するという判断を支えていた前提条件は何であり、それはどの時点まで有効だと考えられていたのか

売上
ユニチカ:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
1,183億円
売上高:2024/3
利益
ユニチカ:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
-4.6%
利益率:2024/3
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1889
6月

尼崎紡績会社を設立

背景:明治期における国産紡績業の創業機会

1880年代後半の日本では、綿糸需要の拡大と輸入依存の高さが課題となっていた。明治政府の殖産興業政策を背景に、紡績業は有望な産業と認識され、各地で民間資本による参入が進んでいた。とくに関西地域は港湾と商業資本を背景に、原料調達と製品流通の両面で優位性を持っていた。

こうした環境のもと、尼崎は大阪に近接し、用地確保と輸送面で条件を備えていた。海外技術の導入による量産体制の確立が現実的となり、英国製紡績機械を用いた近代的工場の建設は、事業として成立する段階に入っていた。資本集約型産業としての紡績業は、一定規模での創業が前提となっていた。

決断:尼崎紡績会社の設立と近代設備の導入

1889年6月、兵庫県尼崎において有限会社尼崎紡績会社が設立された。関西の財界人が出資し、当時の有力実業家であった広岡信五郎が社長に就任した。事業目的は国内向け綿糸の安定供給であり、輸入品に代替する国産紡績の確立が掲げられた。

翌1890年には本社工場となる第一工場が竣工し、煉瓦造り二階建ての近代的設備が整えられた。紡績機械は三井物産を通じて英国ブラット・ブラザーズ社製を導入し、綿紡績による紡糸生産を開始した。設備投資と海外技術の採用により、尼崎紡績は創業段階から量産型事業として位置づけられ、その後の事業拡張の起点となった。

1889年
尼崎紡績会社を設立
1890年
綿糸の生産開始
1893年
株式会社に組織変更
1909
綿布の生産開始
1918
6月

大日本紡績株式会社に商号変更

1918年に尼崎紡績と摂津紡績が合併。合併後に商号を大日本紡績株式会社に変更

1926
6月

日本レイヨンを設立

背景:大日本紡績における化学繊維検討の進行

1910年代半ば、大日本紡績は綿紡績を主力としつつ、レーヨン繊維という新素材の工業化動向を注視していた。欧米では人絹用途が拡大し、天然繊維とは異なる需要層が形成されていた。一方、製造工程は化学薬品と設備投下を伴い、既存の紡績設備や人員構成との親和性は高くなかった。1915年7月の重役会では、事業ポートフォリオの拡張候補としてレーヨンが議題に上がったが、本体事業に直接組み込むことによる投下資本の集中リスクが論点となっていた。

当時の大日本紡績は、綿紡績で一定の売上規模と雇用を抱えており、新素材事業の不確実性が全社損益に波及することを避けたい局面にあった。化学繊維は技術変化が速く、設備更新や品質改良に継続的な資金が必要と想定されていた。そのため、参入は検討対象であったが、事業化の方法については慎重な整理が求められていた。

決断:子会社方式による日本レイヨン設立

1926年6月、大日本紡績は日本レイヨン株式会社を設立した。出資比率は66%とし、経営関与を確保しつつも、本体から切り離した事業運営を選択した。この方式により、化学繊維事業に必要な投下資本と技術開発を限定された範囲で管理できる体制が取られた。綿紡績と異なる収益構造を持つ事業を別法人とすることで、既存事業のROIを直接揺らさない判断だった。

日本レイヨンは設立後、レーヨン繊維の生産を開始し、その後ナイロンやポリエステルへと領域を拡張していった。この初期判断は、事業撤退や集中投資を含む将来の選択肢を保持する形でもあった。結果として、大日本紡績は化学繊維への関与を進めつつ、事業間の資本配分を調整する意思決定の癖を、この時点で明確に示していた。

概要
子会社の再統合ハードル

1926年の日本レイヨン設立は、化学繊維の不確実性を踏まえ投資負担を分散する合理的な判断だった。だが、戦後は技術革新が進み、大日本紡績と日本レイヨンは別法人のまま設備投資を拡大し、研究と生産で重複が生じた。結果として投資効率は低下し、1969年にユニチカとして合併したが、企業文化や運営慣行の差が統合を難しくしており、そもそも過去の日本レイヨンの設立そのものが、統合後の経営難度を高める要因であった。

1926年
レーヨン繊維の生産開始
1955年
ナイロン繊維の生産開始
1958年
ナイロン樹脂の生産開始
1964年
ポリエステル繊維の生産開始
1933
羊毛紡績を開始
1949
東京証券取引所に株式上場
1950
10月

ビニロン繊維の生産開始

背景:戦後復興期における合成繊維需要と原料制約

終戦直後の日本では、衣料不足が深刻化し、繊維需要は急速に拡大していた。一方で、綿花や羊毛などの天然繊維は輸入制約や外貨不足の影響を受け、安定調達が難しい状況にあった。こうした環境下で、国内資源を活用できる合成繊維は、政策面と産業面の双方から注目されていた。政府は化学工業の復興を通じた輸入代替を重視し、合成繊維の研究開発と量産化を後押ししていた。

大日本紡績にとっても、戦前からの紡績事業は再開していたが、価格競争と原料制約により収益性は限定的だった。レーヨン事業は日本レイヨンとして展開していたものの、天然繊維を代替する新たな素材の確立が課題として残っていた。このため、国内原料で生産可能な合成繊維への参入は、事業ポートフォリオの観点から現実的な選択肢として検討されていた。

決断:1950年のビニロン繊維量産開始という選択

大日本紡績は、ポリビニルアルコールを原料とするビニロンに着目した。ビニロンは石灰石やカーバイドを起点とする国産原料で製造でき、外貨依存度を抑えられる特性を持っていた。1950年10月、同社はビニロン繊維の生産を開始し、合成繊維分野への本格参入を果たした。この判断は、輸入原料に制約がある中で供給量を確保する狙いが大きかった。

生産開始にあたっては、既存の繊維技術と化学工業の知見を組み合わせ、量産体制の構築が進められた。ビニロンは耐久性に一定の特性を持ち、作業衣や産業用途を中心に展開が試みられた。大日本紡績は、レーヨンに続く合成繊維としてビニロンを位置づけ、戦後復興期の需要を取り込む方針を明確にしていた。

結果:繊維用途での制約と用途転換への展開

ビニロンは量産化に成功した一方で、繊維用途においては染色性や風合いの面で制約が残った。ナイロンやポリエステルと比較すると、衣料用途での汎用性は限定的となり、市場拡大は想定ほど進まなかった。この結果、ビニロンは主力素材としての地位を確立するには至らず、繊維分野での競争優位は限定された。

一方で、ビニロンの特性は樹脂やフィルム分野での応用可能性を示した。食品包装や工業用途への転用が進み、合成樹脂・フィルム事業の展開につながっていった。ビニロン参入は、繊維事業としては伸び悩んだが、後年の高分子事業への展開を促す経験となった。結果として、大日本紡績は合成繊維単独での競争に限界を認識し、1969年の日本レイヨンとの合併によるユニチカ発足へと進む判断を下すことになる。

概要
合理的判断の限界点

1950年10月に大日本紡績はビニロン繊維の生産を開始した。当時は合成繊維の将来像が定まらず、ナイロンやポリエステルの優位性も確立していなかった。限られた投下資本と外貨制約の中で、国産原料を用いるビニロンは差別化を図れる選択肢だった。結果として繊維用途としては開花しなかったが、当時の制約条件下では合理性を持つ技術選択だった。

1964
4月

商号をニチボー株式会社に変更

大日本紡績からニチボーに商号変更

1969
10月

ニチボーと日本レイヨンが合併(ユニチカ発足)

背景:兄弟会社体制の限界と合成繊維競争

1960年代後半、ニチボーと日本レイヨンは兄弟会社として別法人を維持しながら事業を展開していた。ニチボーは天然繊維、日本レイヨンは化学繊維を担っていたが、ナイロンを中心とする合成繊維市場では、東レや帝人が設備投資と販売拡大を進めていた。個社単位での投下資本には限界があり、研究開発や設備更新で後れを取る局面が増えていた。

また、両社は人員規模が大きく設備集約度も高かった。合理化による人員整理は調整負荷が大きく、経営判断は慎重になりやすかった。業界では大型合併による再編が進み、規模拡大で競争条件を整える動きが一般化していた。このため兄弟会社体制は次第に制約として認識されていった。

決断:1969年合併による規模拡張と事業拡張

1969年10月、ニチボーと日本レイヨンは合併しユニチカが発足した。統合により1968年実績で売上高は業界2位規模となり、合成繊維分野での存在感を高める狙いが示された。繊維事業ではナイロンへの設備投資を進め、規模を背景に競争条件の改善を図る方針が取られた。

同時に非繊維分野への展開も掲げられた。不動産、住宅、合成樹脂、医療機器など複数分野への参入を計画し、将来的に売上構成を繊維と非繊維で均衡させる構想が示された。余剰人員は新規事業で吸収する方針とされ、合併時点では希望退職を行わない判断が取られていた。

結果:経営陣と労働組合に生じた二重の混乱

ユニチカ発足後、経営陣の意思決定は統合調整に多くの時間を割く形となった。旧ニチボーと旧日本レイヨンで事業慣行や管理手法が異なり、投資配分や事業優先順位を巡る調整が継続した。繊維事業の維持と非繊維事業の拡張を同時に進めたことで投下資本は分散し、集中投資や事業撤退の判断は段階的に先送りされた。

一方、労働組合でも混乱が生じた。合併前に存在した複数の労組は統合調整を迫られ、賃金体系や昇進基準の差異が交渉論点となった。旧会社別や学歴別の処遇差を巡り意見集約に時間を要し、経営側が雇用維持を前提とした運営を続けた結果、調整を重ねながら進める関係が定着していった。

国内繊維会社の概況(1968年度)
企業名 売上高 従業員数 主な生産品目
東レ 2,320億円 19,000名 ナイロン・ポリエステル・アクリル
ユニチカ 1,661億円 22,000名 ナイロン・ポリエステル・天然繊維
東洋紡 1,617億円 28,000名 ナイロン・ポリエステル・天然繊維
旭化成 1,595億円 17,000名 ナイロン・アクリル
鐘紡 1,572億円 26,000名 ナイロン・天然繊維
帝人 1,540億円 16,000名 ナイロン・ポリエステル・アクリル
出所:野田経済(1080) | 1969/7
1969
住宅・不動産事業に進出
1971
10月

資産売却益の計上

背景:繊維投下資本の回収停滞と含み資産の存在

1969年にニチボーと日本レイヨンが合併しユニチカが発足した後も、繊維事業では設備投資に伴う減価償却と支払利息の負担が続いていた。1971年度は売上規模を維持した一方で、営業利益は限定的となり、本業のみで投下資本を回収する局面には至っていなかった。

当時の日本経済はインフレ傾向と地価上昇が同時進行しており、企業が保有する土地や遊休資産には含み益が発生していた。ユニチカも例外ではなく、過去の設備立地や社宅用地として取得した土地を複数保有しており、帳簿価格と時価の乖離が拡大していた。これらの資産は事業ポートフォリオ上、収益を生まない一方で換金余地を持つ存在として整理されていた。

決断:保有資産売却による損益補完の選択

1971年度決算において、ユニチカは土地を中心とした保有資産の売却を進め、資産売却益を計上した。日経ビジネス(1972年6月26日号)によれば、同年度の資産売却益は100億円規模に達し、営業段階の利益水準を上回る寄与となっていた。売却代金は借入金の返済や運転資金の確保に充当され、短期的な資金繰りの安定を優先した対応だった。

一方で、資産売却益は継続的な収益源ではなく、ROICの改善は本業の利益率に依存する状態が続いた。資産を売却するほど将来の換金余地は縮小し、次の資金源は営業キャッシュフローに移行する。1971年の判断は、繊維事業を維持したまま時間を確保するための選択であり、事業撤退や集中投資といった次の意思決定を先送りする形となっていた。

1975
4月

国内3工場を閉鎖

背景:オイルショック後の需要低迷と固定費負担の顕在化

1970年代半ば、ユニチカはオイルショック後の景気後退と繊維需要の減少に直面していた。売上規模は維持されていたものの、価格下落と稼働率低下が重なり、利益率は急速に悪化していた。設備投資によって形成された固定費と人員規模は、需要変動に対する調整余地を狭めていた。

1975年3月期、同社は経常損益で185億円の赤字を計上した。当時の資本金は229億円であり、赤字額は資本規模と比較して大きかった。資金繰りを直ちに逼迫させる状況ではなかったが、投下資本の回収見通しは悪化し、財務対応が避けられない局面に入っていた。

決断:1975年の工場閉鎖による生産能力調整

赤字計上を受けて、ユニチカは1975年4月に国内3工場の閉鎖を決定した。対象は名古屋工場、犬山工場、桐生工場であり、繊維生産能力の圧縮を目的とした判断だった。工場閉鎖と並行して、保有土地など固定資産の売却も進められ、資金確保と財務負担の軽減が図られた。

ただし、この対応は需要回復を前提としない防衛的な調整にとどまった。雇用や取引関係への影響を抑えながら進められたため、事業ポートフォリオ全体の再設計や集中投資には踏み込まなかった。結果として、生産調整は行われたが、収益力の回復には時間を要する状況が続いていった。

1975年
経常赤字に転落
経常赤字 -185 億円
1975年
国内3工場を閉鎖
1977
ビニロン事業およびレーヨン事業を子会社分離
1977

三和銀行が経営介入

背景:業績悪化と主力銀行による監視強化局面

1970年代半ば、ユニチカはオイルショック後の需要低迷と設備負担の重さに直面していた。繊維事業は売上規模を維持していたが、利益率は低下し、在庫と固定費の圧縮が課題となっていた。1975年には経常赤字を計上し、資産売却や工場閉鎖を進めたが、収益改善は限定的だった。

この局面で主力銀行であった三和銀行は、融資先管理の観点からユニチカの経営状況を注視する立場を強めた。資金繰りは即時の危機には至らなかったものの、投下資本の回収見通しは不透明で、追加融資には経営改善の具体策が求められる状況だった。銀行側は経営情報の開示と実行管理を重視し、従来より踏み込んだ関与が想定されていた。

決断:1977年の銀行主導による経営関与の明確化

1977年、三和銀行はユニチカに対して経営関与を強める判断を行った。具体的には、経営体制や事業計画に対する意見具申を通じ、収益改善策の実行状況を継続的に確認する枠組みが取られた。これは経営権の移行ではなく、融資回収リスクを抑制するための管理強化だった。

この関与により、経営陣は事業ポートフォリオの見直しや不採算事業の整理を検討する一方、労働組合との調整も同時に進める必要が生じた。雇用維持を前提とした従来の運営方針は維持されたが、意思決定には銀行との協議が加わり、判断プロセスは複線化した。結果として、経営改善は段階的に進められる形となり、スピードよりも管理重視の運営が定着していった。

1980
9月

PETフィルムに参入

背景:繊維不振下で進められたフィルム事業の選択肢検討

1970年代後半、ユニチカは繊維事業の収益低下と工場閉鎖を経験し、事業ポートフォリオの再構築を迫られていた。一方で、社内にはナイロンフィルムで蓄積した二軸延伸技術と装置運転の知見が存在していた。包装用途を中心に高分子フィルム需要は拡大しており、PETフィルムは耐熱性や寸法安定性の面で用途拡張が進んでいた。

同社は既存のナイロンフィルム設備や研究体制を活用できる点に着目し、巨額の新規投資を抑えながら参入可能な分野としてPETフィルムを検討した。繊維中心の事業構成からの転換を図る中で、非繊維分野における収益源の確立が経営課題として整理されていた。

決断:技術転用を前提としたPETフィルムへの本格参入

1980年前後、ユニチカはPETフィルムの本格生産に踏み切った。既存設備の改造と二軸延伸技術の転用により、生産立ち上げまでの期間短縮と投下資本の抑制を両立させる判断が取られた。用途は包装用フィルムを中心とし、品質安定性と量産性の確保が優先された。

この決断により、同社は繊維依存から段階的に離れ、フィルム事業を中核とする非繊維領域の比重を高めていった。PETフィルムはその後の高分子事業拡大の起点となり、事業再構築における現実的な選択肢として位置づけられていった。

1982
医療機器事業に参入
1983
合理化を発表
1985
活性炭繊維の生産開始
1989
子会社4社を吸収合併
1995
インドネシアに現地法人を設立
1997
タイに現地法人を設立
2009
ナイロン長繊維から撤退
2009
希望退職者を募集
2010
不採算事業の売却
2012
5月

寺田紡績を完全子会社化

ユニチカが株式を73%保有する寺田紡績(大阪証券取引所に株式上場)について、2012年5月に完全子会社化を実施。2011年3月期の寺田紡績の業績は、売上高28億円・営業利益0.7億円であった。ユニチカによる寺田紡績の取得原価は2.6億円(追加取得分)であり、負ののれん発生益として0.4億円を計上した。

2014
7月

第三者割当増資を実施

財務体質改善(有利子負債の圧縮)のために、メインバンクの三菱UFJ銀行などから第三者割当増資による調達を実施。調達額は375億円であり、うち275億円は借入金の返済に充当

2014
8月

佐賀工場の閉鎖決定

国内繊維事業の子会社である「ユニチカスピニング」について、佐賀工場の閉鎖を決定。従業員約100名については配置転換で対応

2024
11月

繊維事業から撤退

背景:高分子収益に依存した事業継続と繊維事業の低収益化

ユニチカの繊維事業は、長期にわたり収益性の低下が続いていた。衣料用繊維や不織布を含む事業は、市況変動や海外製品との競争の影響を受けやすく、安定的な利益創出が難しい状態にあった。一方で、食品包装用フィルムを中心とする高分子事業が一定の利益を生み、2020年頃までは全社利益を下支えしていた。

しかし2021年度以降、高分子事業の利益率も低下し、繊維事業の赤字を吸収する余力は縮小した。2014年には取引銀行から繊維事業の撤退を含む再編を進言されていたが、雇用維持や事業継続を優先し判断は先送りされた。この結果、低収益事業を抱えたままの経営が約10年続き、財務体質の改善は限定的なものにとどまっていた。

決断:金融支援を前提とした繊維事業からの撤退判断

2024年11月28日、ユニチカは記者会見を開き、祖業である繊維事業からの撤退を決定した。対象は衣料用繊維、不織布、産業繊維の一部で、売上高の約4割に相当する事業であった。同時に、官民ファンドおよび取引銀行に対し、総額870億円規模の金融支援を要請し、そのうち約430億円について債権放棄を求めた。

この判断は、自己資本比率の低下と有利子負債の増加により、自力再建が困難となった状況を踏まえたものであった。事業存続よりも財務の持続性を優先する選択であり、撤退は成長戦略の転換というより、資金繰りと債務超過回避を目的とした対応として位置づけられた。

結果:名門企業としての延命と時間をかけた事業撤退

繊維事業からの撤退は、経営体制の刷新によって再成長を目指す局面というより、名門企業としての存続を時間をかけて整理する局面に位置づけられた。1969年のユニチカ発足以降、繊維事業は低収益が常態化していたが、事業縮小にとどまり、撤退判断は長期間先送りされてきた。

2024年に示された取締役全員の辞任は、新体制による攻勢的な再建を示すものではなく、金融支援を前提とした責任整理の色合いが強かった。高分子事業も十分な収益力を回復できておらず、事業集中は選択というより制約条件として迫られた対応だった。結果として、ユニチカは成長戦略の再構築ではなく、上場企業としての存続を模索するフェーズに突入した。

証言
上埜氏(ユニチカ社長)

われわれとしては、従業員の雇用を引き継いでもらえることが、1つ重要なポイントだと考えている。また、グループ内での再配置なども考えて、雇用にも最大限配慮した形で構造改革を進めたい

概要
延命は図れたが、永続はしなかった繊維事業

ユニチカの繊維事業は、1969年のユニチカ発足以降、縮小と合理化を重ねることで事業の延命は図られてきた。一方で、収益構造の改善や競争力の再構築には至らず、低収益状態は長期化した。結果として、事業継続は可能でも永続性を持つ形にはならず、最終的に撤退判断へと収束した。

2025 (c) Yutaka Sugiura
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