1889年〜 尼崎紡績の設立からニチボー商号変更までの発展
- 1889年尼崎紡績会社を設立
- 1890年綿糸の製造を開始
- 1918年大日本紡績に商号変更
- 1926年日本レイヨンを設立
- 1950年ビニロン繊維の生産開始
- 1955年日本レイヨンがナイロン繊維の製造を開始
- 1964年日本レイヨンがポリエステル繊維の製造を開始
ユニチカの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
尼崎紡績会社の設立と大日本紡績への発展
1889年6月、尼崎町の有力者と、その働きかけに応じて出資した大阪の財界人とが発起人となり、兵庫県尼崎の地に資本金50万円の有限責任尼崎紡績会社が設立された。設立の根拠には、尼崎が古くから鳴尾と並ぶ綿花の主産地で綿の自給に便利だったことに加え、旧尼崎藩主桜井家の士族たちの困窮を救うという地域的な事情も重なっていた。初代社長には広岡信五郎が就いたとされる。会社は翌1890年11月、英国プラット社製の精紡機6,528錘を据え付けて運転を開始し、醤油どころであった尼崎の町には煉瓦造り二階建ての工場と大煙突がそびえた。輸入綿糸の国産代替を会社の中核に据えた紡績専業の企業として、関西経済圏の発展と歩調を合わせる形で本格的な事業展開が始まった。1890年代の日本はまだ綿糸輸入国であり、尼崎紡績の設立は国産代替の先頭を走る挑戦だった。 [1][2][3][4]
- 企業の歴史 : 明治百年
- [1]尼崎紡績会社は資本金50万円で発足した
- [2]尼崎が鳴尾と並ぶ綿花の主産地であったことと旧尼崎藩主桜井家の士族救済が設立の根拠となった
- [3]英国プラット社製の精紡機6,528錘を据え付けて運転を開始した
- [4]1890年11月に運転を開始した
1893年7月、商法の施行に伴い社名を尼崎紡績へ改めた。1909年には綿布の生産を新たに始め、従来の綿糸中心の製品構成を拡大する方針へ転じた。その後は1914年の東京紡績、1916年の日本紡績、1918年の摂津紡績の合併を重ねて多くの工場を傘下に収め、日本の三大紡績の一つにまで業容を広げた。1918年には商号を大日本紡績株式会社へ改め、綿業中心から多角経営へと事業の幅を広げた。1926年には子会社として日本レイヨンを設立し、66%の出資比率でレーヨン事業分野への本格参入を果たした。本体の綿紡績事業への損益波及を防ぐために法人を分ける選択は、不確実性の高い化学繊維事業への参入にあたっての資本配分上の折衷案だった。1933年には羊毛紡績事業も始め、天然繊維と化学繊維の双方にまたがる事業基盤を築いた。綿・レーヨン・羊毛の3本柱を持つ総合繊維会社への道筋が、1930年代初頭にほぼ定まった。 [5][6][7]
- 企業の歴史 : 明治百年
- [5]1893年7月に商法の施行に伴い社名を尼崎紡績へ改めた
- [6]1914年の東京紡績・1916年の日本紡績・1918年の摂津紡績の合併で日本の三大紡績の一つとなった
- [7]1926年に子会社として日本レイヨンを設立した
- 企業の歴史 : 明治百年
- [1]尼崎紡績会社は資本金50万円で発足した
- [2]尼崎が鳴尾と並ぶ綿花の主産地であったことと旧尼崎藩主桜井家の士族救済が設立の根拠となった
- [3]英国プラット社製の精紡機6,528錘を据え付けて運転を開始した
- [4]1890年11月に運転を開始した
- [5]1893年7月に商法の施行に伴い社名を尼崎紡績へ改めた
- [6]1914年の東京紡績・1916年の日本紡績・1918年の摂津紡績の合併で日本の三大紡績の一つとなった
- [7]1926年に子会社として日本レイヨンを設立した
ビニロンへの挑戦と合成繊維時代の戦略選択
第二次大戦で膨大な海外資産を失い国内の工場も荒廃するなか、1949年4月、常務取締役であった原吉平が衆望を集めて七代社長に就任し、戦後の再建にあたった。1950年10月、大日本紡績は国産合成繊維であるビニロン繊維の量産を開始し、その第一号機は坂越工場で稼働した。ビニロンは石灰石やカーバイドをはじめとする国内で調達可能な基礎原料を起点とする独自の製造プロセスを特徴とし、外貨支出を抑えながら国内で自給的に生産できる合成繊維として位置する素材だった。ナイロンやポリエステルのように海外からの技術導入に依存する素材を避け、原料調達の自律性を最優先する戦略選択を経営陣は下した。戦後復興期の外貨不足という日本経済全体の制約条件に合致した方針であり、独自性を重視した技術戦略の典型例だった。京都大学の桜田一郎教授らによる国産技術を起点にした選択でもあった。 [8][9]
- 企業の歴史 : 明治百年
- [8]1949年4月に常務取締役の原吉平が七代社長に就任した
- [9]ビニロンの第一号機は坂越工場で稼働した
しかしビニロンは、染色性や風合いで衣料繊維としての重要指標がナイロンやポリエステルに及ばず、衣料用途での汎用性に構造的な限界を抱えた。1950年代後半以降、ナイロンとポリエステルが衣料繊維の主流として市場に定着するにつれて、大日本紡績が当初想定した衣料繊維市場としての成長シナリオは実現しなかった。もっともビニロンの素材特性はフィルムや樹脂への応用可能性を強く示唆し、後年に高分子事業へ主力を移す技術的起点となった。創立75周年にあたる1964年4月26日、大日本紡績は商号をニチボーへ改め、紡績専業からの脱皮を社名の面でも印象づけた。 [10]
- 企業の歴史 : 明治百年
- [10]創立75周年にあたる1964年4月26日に商号を大日本紡績からニチボーへ変更した
- 企業の歴史 : 明治百年
- [8]1949年4月に常務取締役の原吉平が七代社長に就任した
- [9]ビニロンの第一号機は坂越工場で稼働した
- [10]創立75周年にあたる1964年4月26日に商号を大日本紡績からニチボーへ変更した