1889年設立。尼崎紡績として創業し、日本レイヨンとの合併でユニチカに。ビニロン・PETフィルムなど化学繊維に展開するも、繊維不況と過剰設備に苦しみ、事業縮小を繰り返して2024年に繊維事業から完全撤退した。
1889
決断
尼崎紡績会社を設立
大阪紡績の実証が引き起こした装置産業型の模倣参入
1909
綿布の生産開始
1909綿布の生産開始
1918
大日本紡績株式会社に商号変更
1918大日本紡績株式会社に商号変更
1926
決断
日本レイヨンを設立
子会社の再統合ハードル
大日本紡績による出資比率
66
%
1933
羊毛紡績を開始
1933羊毛紡績を開始
1949
東京証券取引所に株式上場
1949東京証券取引所に株式上場
1950
決断
ビニロン繊維の生産開始
合理的判断の限界点
1964
商号をニチボー株式会社に変更
1964商号をニチボー株式会社に変更
1969
決断
ニチボーと日本レイヨンが合併(ユニチカ発足)
合併による「規模の確保」が生んだ調整コストの常態化
合併後人員数
2.2
1969
住宅・不動産事業に進出
1969住宅・不動産事業に進出
1971
決断
資産売却益の計上
資産売却による時間稼ぎが構造改革の先送りを固定化した構図
資産売却益
100
億円
1975
決断
国内3工場を閉鎖
「防衛的調整」にとどまった合併後初の構造改革の限界
1977
ビニロン事業およびレーヨン事業を子会社分離
1977ビニロン事業およびレーヨン事業を子会社分離
1977
決断
三和銀行が経営介入
銀行の経営関与が「管理重視の運営」を定着させた逆説
1980
決断
PETフィルムに参入
技術の連続性を活かした「隣接領域への参入」という現実解
1982
医療機器事業に参入
1982医療機器事業に参入
1983
合理化を発表
1983合理化を発表
1985
活性炭繊維の生産開始
1985活性炭繊維の生産開始
1989
子会社4社を吸収合併
1989子会社4社を吸収合併
1995
インドネシアに現地法人を設立
1995インドネシアに現地法人を設立
1997
タイに現地法人を設立
1997タイに現地法人を設立
2009
ナイロン長繊維から撤退
2009ナイロン長繊維から撤退
2009
希望退職者を募集
2009希望退職者を募集
2010
不採算事業の売却
2010不採算事業の売却
2012
寺田紡績を完全子会社化
2012寺田紡績を完全子会社化
2014
第三者割当増資を実施
2014第三者割当増資を実施
2014
佐賀工場の閉鎖決定
2014佐賀工場の閉鎖決定
2024
決断
繊維事業から撤退
延命は図れたが、永続はしなかった繊維事業
債権放棄の要請額
430
億円
業績を見る
売上ユニチカ:売上高
単体 | 連結(単位:億円)
1,183億円
売上高:2024/3
利益ユニチカ:売上高_当期純利益率
単体 | 連結(単位:%)
-4.6%
利益率:2024/3
業績を見る
区分売上高利益利益率
1950/4単体 売上高 / 当期純利益---
1951/4単体 売上高 / 当期純利益407億円69億円16.9%
1952/4単体 売上高 / 当期純利益575億円51億円8.8%
1953/4単体 売上高 / 当期純利益349億円16億円4.5%
1954/4単体 売上高 / 当期純利益367億円20億円5.4%
1955/4単体 売上高 / 当期純利益318億円10億円3.1%
1956/4単体 売上高 / 当期純利益342億円16億円4.6%
1957/4単体 売上高 / 当期純利益390億円30億円7.6%
1958/4単体 売上高 / 当期純利益363億円17億円4.6%
1959/4単体 売上高 / 当期純利益322億円2億円0.6%
1960/4単体 売上高 / 当期純利益443億円21億円4.7%
1961/4単体 売上高 / 当期純利益463億円20億円4.3%
1962/4単体 売上高 / 当期純利益478億円16億円3.3%
1963/4単体 売上高 / 当期純利益494億円12億円2.4%
1964/4単体 売上高 / 当期純利益604億円12億円1.9%
1965/4単体 売上高 / 当期純利益675億円8億円1.1%
1966/4単体 売上高 / 当期純利益682億円2億円0.2%
1967/4単体 売上高 / 当期純利益697億円5億円0.7%
1968/4単体 売上高 / 当期純利益751億円12億円1.5%
1969/4単体 売上高 / 当期純利益753億円10億円1.3%
1970/3単体 売上高 / 当期純利益1,335億円18億円1.3%
1971/3単体 売上高 / 当期純利益2,216億円14億円0.6%
1972/3単体 売上高 / 当期純利益2,138億円1億円0.0%
1973/3単体 売上高 / 当期純利益2,135億円-72億円-3.4%
1974/3単体 売上高 / 当期純利益2,617億円73億円2.7%
1975/3単体 売上高 / 当期純利益2,338億円8億円0.3%
1976/3単体 売上高 / 当期純利益2,697億円1億円0.0%
1977/3単体 売上高 / 当期純利益2,453億円-87億円-3.6%
1978/3単体 売上高 / 当期純利益1,842億円-9億円-0.5%
1979/3単体 売上高 / 当期純利益1,810億円1億円0.0%
1980/3単体 売上高 / 当期純利益1,962億円5億円0.2%
1981/3単体 売上高 / 当期純利益2,151億円8億円0.3%
1982/3単体 売上高 / 当期純利益2,145億円0億円0.0%
1983/3単体 売上高 / 当期純利益2,463億円-43億円-1.8%
1984/3単体 売上高 / 当期純利益2,821億円1億円0.0%
1985/3単体 売上高 / 当期純利益2,829億円6億円0.2%
1986/3単体 売上高 / 当期純利益---
1987/3単体 売上高 / 当期純利益---
1988/3単体 売上高 / 当期純利益---
1989/3単体 売上高 / 当期純利益---
1990/3単体 売上高 / 当期純利益---
1991/3単体 売上高 / 当期純利益---
1992/3連結 売上高 / 当期純利益3,915億円81億円2.0%
1993/3連結 売上高 / 当期純利益3,437億円5億円0.1%
1994/3連結 売上高 / 当期純利益3,282億円-69億円-2.2%
1995/3連結 売上高 / 当期純利益3,520億円-80億円-2.3%
1996/3連結 売上高 / 当期純利益3,429億円-66億円-2.0%
1997/3連結 売上高 / 当期純利益3,474億円-40億円-1.2%
1998/3連結 売上高 / 当期純利益3,525億円27億円0.7%
1999/3連結 売上高 / 当期純利益3,037億円-141億円-4.7%
2000/3連結 売上高 / 当期純利益2,931億円29億円0.9%
2001/3連結 売上高 / 当期純利益2,771億円37億円1.3%
2002/3連結 売上高 / 当期純利益2,588億円13億円0.5%
2003/3連結 売上高 / 当期純利益2,337億円-79億円-3.4%
2004/3連結 売上高 / 当期純利益2,169億円35億円1.6%
2005/3連結 売上高 / 当期純利益2,178億円42億円1.9%
2006/3連結 売上高 / 当期純利益2,159億円45億円2.0%
2007/3連結 売上高 / 当期純利益2,205億円25億円1.1%
2008/3連結 売上高 / 当期純利益2,347億円15億円0.6%
2009/3連結 売上高 / 当期純利益2,095億円-139億円-6.7%
2010/3連結 売上高 / 当期純利益1,822億円30億円1.6%
2011/3連結 売上高 / 当期純利益1,807億円24億円1.3%
2012/3連結 売上高 / 当期純利益1,746億円12億円0.6%
2013/3連結 売上高 / 当期純利益1,601億円-108億円-6.8%
2014/3連結 売上高 / 当期純利益1,626億円5億円0.3%
2015/3連結 売上高 / 当期純利益1,591億円-270億円-17.0%
2016/3連結 売上高 / 当期純利益1,464億円69億円4.7%
2017/3連結 売上高 / 当期純利益1,262億円73億円5.7%
2018/3連結 売上高 / 当期純利益1,283億円80億円6.2%
2019/3連結 売上高 / 当期純利益1,290億円52億円4.0%
2020/3連結 売上高 / 当期純利益1,195億円-21億円-1.8%
2021/3連結 売上高 / 当期純利益1,103億円38億円3.4%
2022/3連結 売上高 / 当期純利益1,147億円22億円1.9%
2023/3連結 売上高 / 当期純利益1,179億円1億円0.0%
2024/3連結 売上高 / 当期純利益1,183億円-54億円-4.6%
経営方針:2025年3月期2030年3月期
ユニチカグループ 事業再生計画(目指す姿:2029年3月期)

計画策定の背景

ユニチカは戦前に繊維事業を祖業として発展し、戦後は合成繊維や化学素材へと事業領域を広げてきた。高度成長期以降は、繊維に加えてフィルムや樹脂、機能資材といった分野へ展開することで事業の多角化を進め、売上規模の維持と雇用の確保を両立する経営を続けてきた。これらの判断は当時の産業構造や市場環境を前提とすれば合理的であり、事業の連続性を重視した意思決定が積み重ねられてきた。

しかし1990年代以降、素材産業全体の成熟化や国際競争の激化が進む中で、低収益事業を抱えたままの事業構造が固定化し、収益力の低下が慢性化した。2014年以降の構造改革においても踏み込んだ事業撤退には至らず、赤字事業が残存したまま投資が継続された結果、資金創出力は低下し、2020年代には自助努力のみでの再建が困難な状況に陥った。こうした経緯を踏まえ、ユニチカは2024年にREVICの支援を受け、繊維事業からの撤退を含む抜本的な事業再生計画の策定に至った。

経営の基本方針

本事業再生計画において最も非連続な点は、事業構造の見直しに先立ち、取締役全員が辞任し、経営体制を総入れ替えするという判断が行われた点にある。これは、従来の経営判断や延長線上では事業再生が困難であるとの認識に立ち、意思決定の前提そのものを切り替える必要があると判断した結果であった。

新たな経営体制のもとでは、過去の事業継続を前提とした判断から離れ、収益性と持続可能性を基準に事業を再定義することを基本方針としている。採算改善が困難と判断した繊維事業については縮小・撤退を進め、フィルム・樹脂を中心とする高分子事業および機能資材事業に経営資源を集中させることで、事業ポートフォリオの単純化と収益基盤の再構築を図る。

Author's Questions

  • なぜ、メインバンクは赤字事業を抱えたままユニチカの存続を許し続けたのか

    ユニチカでは1990年代以降、繊維事業をはじめとする低収益・赤字事業を抱えながらも、長期にわたり企業としての存続を維持してきた。その過程では、金融機関からの継続的な支援やリファイナンスが行われ、抜本的な事業整理は先送りされてきた。こうした状況において、銀行はユニチカのどの点を評価し、どの前提に基づいて企業存続を許容してきたと整理すべきなのか

  • なぜ、繊維事業からの撤退はここまで遅れたのか

    ユニチカにとって繊維事業は祖業であり、長年にわたり雇用や地域経済とも強く結びついてきた。一方で、1990年代以降は国際競争の激化と市場縮小により収益性の低下が明確になっていたにもかかわらず、事業の大幅な縮小や撤退は先送りされてきた。過去の構造改革や事業再編の局面において、繊維事業を継続するという判断を支えていた前提条件は何であり、それはどの時点まで有効だと考えられていたのか

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1889
6月

尼崎紡績会社を設立

大阪紡績の実証が引き起こした装置産業型の模倣参入

尼崎紡績の設立は、大阪紡績の好業績が後続企業の参入リスク認知を引き下げた装置産業の典型的構図を示している。設備投下により一定品質の綿糸を量産できるという産業構造のもとでは、技術蓄積よりも資本調達力が参入可否を決定づけた。この構造は紡績各社の設備増強を促し、後年の供給過剰と価格競争の遠因を形成した。参入時点での合理性が長期的な産業構造の安定を保証しない点を、この創業期の判断は端的に示している。

背景明治期の綿糸輸入依存と関西圏における紡績創業の条件

1880年代後半の日本では、工業化と人口増加を背景に綿糸の国内需要が拡大していたが、供給の大半はイギリスやインドからの輸入に依存していた。明治政府は殖産興業政策の一環として紡績業の国産化を推進し、1882年に設立された大阪紡績会社が近代紡績機による量産で好業績を上げたことで、民間資本の紡績業参入が各地で活性化していた。とりわけ関西地域は、港湾を通じた原綿輸入の利便性と問屋網を基盤とする国内販路の厚みを有しており、紡績工場の立地として優位な条件を備えていた。

尼崎は大阪市街に近接し、武庫川水系の工業用水と海上輸送路への接続が確保できる立地にあった。英国プラット・ブラザーズ社製の紡績機械を導入すれば量産体制の構築が技術的に可能であり、先行する大阪紡績の操業実績が設備選定と採算見通しの根拠を提供していた。紡績業は設備集約型の産業であり参入には一定の資本規模を要するが、国内需要の拡大局面では投下資本を比較的早期に回収できる産業構造を持っていた。こうした特性から、関西圏の資産家にとって紡績業への出資は合理的な投資機会として認識されていた。

決断関西財界の出資による尼崎紡績の設立と英国製設備での量産開始

1889年6月、兵庫県尼崎において有限会社尼崎紡績会社が設立された。発起人には関西財界の有力者が名を連ね、初代社長には実業家の広岡信五郎が就任した。出資者は大阪の商人層を中心とする地域の資産家で構成され、事業目的は国内向け綿糸の製造・販売に限定された。英国からの輸入綿糸を国産品で代替することが経営方針の中核に据えられ、設立時の事業範囲は紡績専業に絞り込まれた。多角化よりも単一事業での収益確立を優先する判断だった。

翌1890年には本社工場となる第一工場が竣工し、煉瓦造り二階建ての建屋に英国プラット・ブラザーズ社製の紡績機械が据え付けられた。機械は三井物産を経由して調達され、綿紡績による紡糸生産が開始された。設備投資と海外技術の移転を組み合わせた量産型の事業モデルにより、尼崎紡績は創業段階から一定の生産規模を備える体制で出発した。この初期の設備構成はその後の増錘と工場拡張の起点となり、1893年には株式会社への組織変更が行われて資本調達の枠組みが整えられた。

大阪紡績の実証が引き起こした装置産業型の模倣参入

尼崎紡績の設立は、大阪紡績の好業績が後続企業の参入リスク認知を引き下げた装置産業の典型的構図を示している。設備投下により一定品質の綿糸を量産できるという産業構造のもとでは、技術蓄積よりも資本調達力が参入可否を決定づけた。この構造は紡績各社の設備増強を促し、後年の供給過剰と価格競争の遠因を形成した。参入時点での合理性が長期的な産業構造の安定を保証しない点を、この創業期の判断は端的に示している。

年表尼崎紡績会社を設立に関する出来事
18896月尼崎紡績会社を設立
189012月綿糸の生産開始
18937月株式会社に組織変更
1909
綿布の生産開始
1918
大日本紡績株式会社に商号変更
1926
6月

日本レイヨンを設立

子会社の再統合ハードル

1926年の日本レイヨン設立は、化学繊維の不確実性を踏まえ投資負担を分散する合理的な判断だった。だが、戦後は技術革新が進み、大日本紡績と日本レイヨンは別法人のまま設備投資を拡大し、研究と生産で重複が生じた。結果として投資効率は低下し、1969年にユニチカとして合併したが、企業文化や運営慣行の差が統合を難しくしており、そもそも過去の日本レイヨンの設立そのものが、統合後の経営難度を高める要因であった。

背景大日本紡績の重役会で浮上したレーヨン事業化の投資リスク

1910年代半ば、大日本紡績は綿紡績を主力としながら、欧米で需要が拡大していたレーヨン繊維の工業化動向を注視していた。人絹と呼ばれたレーヨンは天然繊維とは異なる需要層を形成しつつあり、化学的製造プロセスによる繊維生産は新たな事業領域として関心を集めていた。一方で、製造工程は化学薬品と専用設備への投下資本を伴い、既存の紡績設備や人員構成との親和性は低かった。1915年7月の重役会ではレーヨン事業の検討が正式に議題に上がったが、本体事業に組み込んだ場合の投下資本集中リスクが論点となり、参入方法について慎重な整理が求められた。

当時の大日本紡績は綿紡績で一定の売上規模と雇用を維持しており、新素材事業の不確実性が全社損益に直接波及する構造は避ける必要があった。化学繊維は技術変化が速く、設備更新や品質改良に継続的な追加投資が見込まれていた。加えて、紡績業で培った技術や販売網がレーヨン事業にそのまま転用できる保証はなく、異なる事業特性を持つ領域への本体参入には経営資源の分散リスクが伴った。こうした事情から、事業化そのものは検討対象に含まれたものの、参入の枠組みについては本体損益への影響を遮断する設計が必要とされた。

決断出資比率66%の子会社方式によるレーヨン事業への参入判断

1926年6月、大日本紡績は子会社として日本レイヨン株式会社を設立した。出資比率は66%とし、経営関与を確保しつつも本体の損益から切り離した事業運営を可能とする方式が選択された。レーヨン事業に必要な設備投資と技術開発費は日本レイヨンの単体で管理され、綿紡績事業の収益構造を直接揺らさない枠組みが設計された。大日本紡績にとっては、新規事業のリスクを限定しながら化学繊維市場への参入機会を確保する資本配分上の折衷案だった。

日本レイヨンは設立後、レーヨン繊維の生産を開始し、戦後にはナイロンやポリエステルへと事業領域を拡張していった。この子会社方式は、事業撤退や追加投資といった将来の選択肢を保持する形であったが、同時に二法人間での重複投資や技術開発の分散を招く構造でもあった。結果として大日本紡績は、化学繊維への関与を段階的に深めつつ、事業間の資本配分を別法人の枠組みで調整するという意思決定の癖を、この時点で明確にしていた。

子会社の再統合ハードル

1926年の日本レイヨン設立は、化学繊維の不確実性を踏まえ投資負担を分散する合理的な判断だった。だが、戦後は技術革新が進み、大日本紡績と日本レイヨンは別法人のまま設備投資を拡大し、研究と生産で重複が生じた。結果として投資効率は低下し、1969年にユニチカとして合併したが、企業文化や運営慣行の差が統合を難しくしており、そもそも過去の日本レイヨンの設立そのものが、統合後の経営難度を高める要因であった。

年表日本レイヨンを設立に関する出来事
19266月レーヨン繊維の生産開始
195510月ナイロン繊維の生産開始
195812月ナイロン樹脂の生産開始
19642月ポリエステル繊維の生産開始
1933
羊毛紡績を開始
1949
東京証券取引所に株式上場
1950
10月

ビニロン繊維の生産開始

合理的判断の限界点

1950年10月に大日本紡績はビニロン繊維の生産を開始した。当時は合成繊維の将来像が定まらず、ナイロンやポリエステルの優位性も確立していなかった。限られた投下資本と外貨制約の中で、国産原料を用いるビニロンは差別化を図れる選択肢だった。結果として繊維用途としては開花しなかったが、当時の制約条件下では合理性を持つ技術選択だった。

背景戦後復興期の衣料不足と外貨制約が生んだ合成繊維への期待

終戦直後の日本では衣料品の不足が深刻化し、繊維製品に対する需要は急速に拡大していた。一方で、綿花や羊毛といった天然繊維は輸入に依存しており、外貨不足と貿易制限の影響で安定調達が困難な状況にあった。こうした環境のもとで、国内原料を活用して製造可能な合成繊維は、輸入代替と産業復興の両面から政策的な注目を集めていた。政府は化学工業の再建を重点課題に位置づけ、合成繊維の研究開発と工業化に対する支援を強化していた。

大日本紡績にとっても、戦前からの綿紡績事業は再開されていたが、原料価格の変動と輸入制約のもとで収益性は限定的だった。レーヨン事業は日本レイヨンとして別法人で展開していたものの、天然繊維に代わる新素材を自社事業として確立することは経営課題として残されていた。合成繊維分野ではナイロンやポリエステルの工業化が欧米で進みつつあったが、これらは海外技術の導入と外貨支出を伴う選択肢だった。国内原料で製造工程を完結できる素材があれば、事業拡張と外貨制約の回避を同時に実現できる可能性があった。

決断国産原料で製造可能なビニロン繊維の量産開始という技術選択

大日本紡績が着目したのは、ポリビニルアルコールを原料とするビニロン繊維だった。ビニロンは石灰石やカーバイドといった国内で調達可能な原料を起点とする製造プロセスを持ち、外貨支出を最小限に抑えて生産できる特性を備えていた。1950年10月、同社はビニロン繊維の量産を開始し、合成繊維分野への本格参入を果たした。この判断は、ナイロンなど海外技術に依存する素材を避け、原料調達の自律性を優先した選択だった。

生産体制の構築にあたっては、既存の繊維製造技術と化学工業の知見が組み合わされた。ビニロンは耐久性や耐薬品性に特徴を持ち、作業衣や産業資材、漁網といった用途を中心に展開が図られた。衣料品全般への汎用展開よりも、天然繊維では対応しにくい機能性需要の取り込みを狙った製品戦略がとられた。大日本紡績はレーヨンに続く合成繊維としてビニロンを成長領域に位置づけ、戦後復興期の旺盛な繊維需要を取り込む方針を明確にしていた。

結果繊維用途での市場拡大に限界が生じフィルム・樹脂分野への転用が進展

ビニロンは量産化に至ったものの、繊維製品としての市場拡大には制約が伴った。染色性や風合いの面でナイロンやポリエステルに及ばず、衣料用途での汎用性は限定的だった。1950年代後半以降、ナイロンとポリエステルが衣料繊維の主流に定着するにつれ、ビニロンは繊維分野で主力素材の地位を確立するには至らなかった。大日本紡績が当初想定した繊維事業としての大規模な市場形成は実現しなかった。

一方で、ビニロンの素材特性は繊維以外の領域での応用可能性を示した。高分子素材としての耐久性や成形性を活かし、フィルムや樹脂への転用が段階的に進められた。食品包装や工業用途など繊維とは異なる需要層への展開が拡大し、後年の高分子事業への発展につながった。ビニロンへの参入は繊維事業としては限界があったが、高分子素材を扱う技術基盤の蓄積という副次的効果を生み、1969年の日本レイヨンとの合併を経たユニチカ発足後の事業再構築に影響を及ぼすことになった。

合理的判断の限界点

1950年10月に大日本紡績はビニロン繊維の生産を開始した。当時は合成繊維の将来像が定まらず、ナイロンやポリエステルの優位性も確立していなかった。限られた投下資本と外貨制約の中で、国産原料を用いるビニロンは差別化を図れる選択肢だった。結果として繊維用途としては開花しなかったが、当時の制約条件下では合理性を持つ技術選択だった。

1964
商号をニチボー株式会社に変更
1969
10月

ニチボーと日本レイヨンが合併(ユニチカ発足)

1969/4期(単体)売上高 753億円当期純利益 10億円
合併による「規模の確保」が生んだ調整コストの常態化

ユニチカの合併は、兄弟会社体制では競合に後れを取るという認識から規模の確保を優先した判断だった。しかし旧二社の管理手法・労組慣行・事業文化の差異は統合後も解消されず、意思決定の重層化と調整コストの常態化をもたらした。規模は競争条件の一要素に過ぎず、統合後の組織運営コストが規模効果を相殺する構図は、同時期の他業種の大型合併にも通じる経営統合の構造的課題を示している。

背景兄弟会社の個社投資では合成繊維競争に後れを取る構造

1960年代後半、ニチボーと日本レイヨンは兄弟会社としてそれぞれ別法人の体制を維持していた。ニチボーは天然繊維を、日本レイヨンは化学繊維を主に担当していたが、ナイロンとポリエステルを中心とする合成繊維市場では東レや帝人が設備投資と販売網の拡充を進めていた。個社単位の投下資本には限界があり、研究開発費や設備更新費の確保に苦慮する局面が増えていた。業界では大型合併や資本提携を通じて規模拡大を図る動きが進んでおり、兄弟会社の分離体制は競争条件の面で制約として認識されつつあった。

また両社はいずれも従業員規模が大きく、設備集約度の高い事業構造を持っていた。合理化や人員整理には労使交渉を伴う調整負荷が発生し、経営判断は慎重にならざるを得なかった。繊維市場の成長鈍化と輸出環境の変化のなかで、二社の経営資源を統合して管理効率を高める選択肢が次第に現実味を帯びていった。業界再編が進む状況のもとで、兄弟会社体制の維持は自ら競争条件を制約する構造として位置づけられるようになっていた。

決断ニチボーと日本レイヨンの合併による売上高業界2位の規模確保

1969年10月、ニチボーと日本レイヨンは合併しユニチカ株式会社が発足した。統合後の売上高は1968年度実績で1,661億円となり、東レに次ぐ業界2位の規模に達した。合成繊維分野ではナイロンを軸とした設備投資を拡大し、規模を背景に原料調達と販売の両面で競争条件を改善する方針が掲げられた。合併の枠組みは対等統合とされ、旧ニチボーの天然繊維と旧日本レイヨンの化学繊維を一体運営する体制が目指された。

同時に非繊維分野への事業拡張も計画に含まれた。不動産、住宅、合成樹脂、医療機器といった複数分野への参入が構想され、将来的には繊維と非繊維の売上構成を均衡させることが中長期目標として示された。余剰人員は新規事業への配置転換で吸収する方針が取られ、合併時点では希望退職を実施しない判断がなされた。1968年度時点で両社合計の従業員数は約22,000名にのぼり、雇用維持を前提とした経営運営が初期段階から方針に組み込まれていた。

結果旧二社の管理手法と労組慣行の相違が統合後の意思決定を重層化

ユニチカ発足後、経営陣の意思決定は統合に伴う調整業務に多くの時間を割く形となった。旧ニチボーと旧日本レイヨンでは事業慣行や管理手法、予算編成の基準が異なり、投資配分や事業優先順位を巡る内部調整が長期にわたって続いた。繊維事業の維持と非繊維事業の拡張を同時に推進したことで投下資本は複数方面に分散し、特定事業への集中投資や不採算領域からの撤退判断は段階的に先送りされた。

労働組合においても統合に伴う混乱が生じた。合併前に存在した複数の労組は組織統合を迫られ、賃金体系や昇進基準の差異が交渉上の論点となった。旧会社別や学歴別の処遇格差を巡り意見集約に時間を要し、経営側は雇用維持を前提とした運営を続けた。調整を重ねながら段階的に進める関係が定着し、組織の安定は保たれたが、市場環境の変化に対する迅速な判断を難しくする構造がつくり出されていた。

国内繊維会社の概況(1968年度)
企業名売上高従業員数主な生産品目
東レ2,320億円19,000名ナイロン・ポリエステル・アクリル
ユニチカ1,661億円22,000名ナイロン・ポリエステル・天然繊維
東洋紡1,617億円28,000名ナイロン・ポリエステル・天然繊維
旭化成1,595億円17,000名ナイロン・アクリル
鐘紡1,572億円26,000名ナイロン・天然繊維
帝人1,540億円16,000名ナイロン・ポリエステル・アクリル
企業名
東レ
売上高
2,320億円
従業員数
19,000名
主な生産品目
ナイロン・ポリエステル・アクリル
出所野田経済(1080) | 1969/7
1969/4期(単体)売上高 753億円当期純利益 10億円
合併による「規模の確保」が生んだ調整コストの常態化

ユニチカの合併は、兄弟会社体制では競合に後れを取るという認識から規模の確保を優先した判断だった。しかし旧二社の管理手法・労組慣行・事業文化の差異は統合後も解消されず、意思決定の重層化と調整コストの常態化をもたらした。規模は競争条件の一要素に過ぎず、統合後の組織運営コストが規模効果を相殺する構図は、同時期の他業種の大型合併にも通じる経営統合の構造的課題を示している。

1969
住宅・不動産事業に進出
1971
10月

資産売却益の計上

1971/3期(単体)売上高 2,216億円当期純利益 14億円
資産売却による時間稼ぎが構造改革の先送りを固定化した構図

1971年のユニチカによる100億円規模の資産売却は、繊維事業の低収益を本業外の一過性利益で補填した判断であり、事業構造の見直しを伴わなかった。含み益の存在が経営判断の緊急度を低下させ、本業改革の着手を遅延させるメカニズムは日本の素材産業に広く見られるパターンである。保有資産の換金は短期の資金繰りを安定させるが、売却を重ねるほど将来の選択肢は狭まり、最終的には本業回復か外部支援かの二択に追い込まれる。

背景繊維事業の投下資本回収が停滞するなかで膨らんだ含み資産

1969年にニチボーと日本レイヨンが合併しユニチカが発足した後も、繊維事業の収益性は改善に至っていなかった。設備投資に伴う減価償却費と借入金の支払利息が固定的な負担として継続し、売上規模は維持されていたものの営業利益は限定的な水準にとどまった。1971年度時点で、本業のキャッシュフローのみで投下資本を順調に回収できる状態には達しておらず、財務上の余裕は縮小しつつあった。

一方、当時の日本経済はインフレ傾向と地価上昇が進行しており、企業が過去に取得した土地や遊休資産には帳簿価額と時価の間に大きな乖離が生じていた。ユニチカも工場用地や社宅用地として取得した不動産を複数保有しており、事業上の収益は直接生まないが売却すれば含み益を実現できる資産として存在していた。繊維事業の収益力では投下資本の回収に不十分な状況のもとで、含み資産は財務調整の手段として経営陣の視野に入っていた。

決断土地を中心とした100億円規模の資産売却による損益と資金繰りの補完

1971年度決算において、ユニチカは土地を中心とする保有資産の売却を実施し、資産売却益を計上した。日経ビジネス(1972年6月26日号)によれば、同年度の資産売却益は100億円規模に達し、営業段階の利益水準を上回る寄与となった。売却代金は借入金の返済と運転資金の確保に充当され、短期的な資金繰りの安定を図る対応だった。繊維事業の構造改革に踏み込むよりも、財務面の時間を確保することが優先された。

ただし資産売却益は一過性の収益であり、継続的な利益の源泉にはなり得なかった。保有資産を売却するほど将来の換金余地は縮小し、次年度以降の損益改善は営業利益率に依存する構造が残った。この判断は繊維事業を維持したまま財務面の猶予を確保する時間稼ぎとしての性格が強く、事業ポートフォリオの再設計や不採算領域からの撤退といった意思決定を先送りする形となった。本業の収益力改善に至らないまま資産を切り崩す構図は、その後のユニチカの経営判断にも繰り返し現れることになる。

1971/3期(単体)売上高 2,216億円当期純利益 14億円
資産売却による時間稼ぎが構造改革の先送りを固定化した構図

1971年のユニチカによる100億円規模の資産売却は、繊維事業の低収益を本業外の一過性利益で補填した判断であり、事業構造の見直しを伴わなかった。含み益の存在が経営判断の緊急度を低下させ、本業改革の着手を遅延させるメカニズムは日本の素材産業に広く見られるパターンである。保有資産の換金は短期の資金繰りを安定させるが、売却を重ねるほど将来の選択肢は狭まり、最終的には本業回復か外部支援かの二択に追い込まれる。

1975
4月

国内3工場を閉鎖

1975/3期(単体)売上高 2,338億円当期純利益 8億円
「防衛的調整」にとどまった合併後初の構造改革の限界

1975年の3工場閉鎖は、経常赤字185億円を受けた合併後初の生産能力圧縮だった。しかし対応は赤字幅の大きい拠点の閉鎖と資産売却にとどまり、繊維依存から脱却する事業ポートフォリオの再設計には踏み込んでいない。工場閉鎖は固定費の部分的削減にはなるが収益構造そのものを変えるものではなく、需要回復を待つのではなく事業転換を図るべき局面で防衛的調整を選んだこの判断は、その後の繊維事業縮小の起点となった。

背景オイルショック後の需要低迷と固定費負担の顕在化

1970年代半ば、ユニチカはオイルショック後の景気後退と繊維需要の減少に直面していた。合併以降の設備投資により固定費は高い水準にあったが、販売価格の下落と工場稼働率の低下が重なり、利益率は急速に悪化した。繊維産業全体が需要縮小局面に入るなかで、ユニチカの事業構造は売上減少に対する調整余地が乏しく、固定費と人員規模が経営の重荷となっていた。

1975年3月期の決算において、ユニチカは経常損益で185億円の赤字を計上した。当時の資本金229億円に対して赤字額は大きく、合併後初の深刻な業績悪化となった。資金繰りが直ちに逼迫する段階ではなかったが、投下資本の回収見通しが立たず、金融機関との関係維持のためにも具体的な対応策を示す必要が生じていた。1971年に続いて資産売却のみで対応する方法には限界が明らかであり、事業面での構造的な手当てが求められていた。

決断経常赤字185億円を受けた国内3工場の閉鎖と生産能力の圧縮

赤字決算を受けて、ユニチカは1975年4月に国内3工場の閉鎖を決定した。閉鎖対象は名古屋工場、犬山工場、桐生工場であり、いずれも繊維生産に関わる拠点だった。生産能力の圧縮により固定費を削減し損益分岐点を引き下げることが狙いとされた。並行して保有土地などの固定資産売却も進められ、資金確保と財務負担の軽減が図られた。

ただしこの対応は需要回復を前提としない防衛的な調整にとどまった。閉鎖対象は赤字幅の大きい拠点に限定され、事業ポートフォリオ全体の再設計や非繊維領域への集中投資には踏み込まなかった。雇用や取引先への影響に配慮しながら進められた結果、対応策は段階的かつ限定的な範囲に収まった。生産調整としての効果は一定程度あったものの、収益構造の根本的な改善には結びつかず、低収益事業を縮小しながら維持するという経営パターンがその後も長期にわたって続いていった。

1975/3期(単体)売上高 2,338億円当期純利益 8億円
「防衛的調整」にとどまった合併後初の構造改革の限界

1975年の3工場閉鎖は、経常赤字185億円を受けた合併後初の生産能力圧縮だった。しかし対応は赤字幅の大きい拠点の閉鎖と資産売却にとどまり、繊維依存から脱却する事業ポートフォリオの再設計には踏み込んでいない。工場閉鎖は固定費の部分的削減にはなるが収益構造そのものを変えるものではなく、需要回復を待つのではなく事業転換を図るべき局面で防衛的調整を選んだこの判断は、その後の繊維事業縮小の起点となった。

年表国内3工場を閉鎖に関する出来事
19753月経常赤字に転落
経常赤字-185億円
19754月国内3工場を閉鎖
1977
ビニロン事業およびレーヨン事業を子会社分離
1977

三和銀行が経営介入

1977/3期(単体)売上高 2,453億円当期純利益 -87億円
銀行の経営関与が「管理重視の運営」を定着させた逆説

三和銀行の経営介入は融資債権の保全を目的とした措置であり、経営改善の具体策を促す面では規律的な効果があった。しかし銀行との協議プロセスが意思決定に組み込まれたことで判断速度は低下し、事業ポートフォリオの抜本的な組み替えよりも現状維持と段階的調整を優先する経営スタイルが固定化された。経営規律の導入が結果として変革を遅延させるという逆説は、メインバンク制のもとでの企業再建に共通する構造的な論点を含んでいる。

背景繊維事業の業績低迷が続くなかで主力銀行が監視を強めた局面

1970年代半ば以降、ユニチカはオイルショックに端を発した需要低迷と固定費負担の重さに苦しんでいた。1975年には経常赤字185億円を計上し、国内3工場の閉鎖と資産売却を実施したが、収益の改善は限定的だった。繊維事業は売上規模こそ維持していたものの利益率の低迷が続き、合併時に構想された非繊維事業への展開も十分な収益を生むには至っていなかった。投下資本の回収見通しは不透明なままであり、追加融資の継続には経営改善の具体的な進捗を示すことが求められる状況にあった。

主力銀行であった三和銀行は、融資先としてのユニチカの経営状態を従来以上に注視する姿勢を強めていた。資金繰りが即座に破綻する段階ではなかったが、有利子負債の水準に対して営業キャッシュフローが不足する状態が続いており、融資債権の回収可能性に関する管理を厳格化する必要があった。繊維産業全体が構造不況業種と認識されるなかで、ユニチカの経営方針に対しても従来より踏み込んだ関与が検討されていた。

決断三和銀行による経営関与の強化と意思決定プロセスの複線化

1977年、三和銀行はユニチカに対する経営関与を明確に強化した。経営体制や事業計画に対して意見を述べ、収益改善策の策定と実行状況を継続的に確認する枠組みが導入された。この措置は経営権の移転ではなく、融資回収リスクを管理するための銀行側の対応だった。三和銀行としては、ユニチカの自主的な経営改善を促しつつ融資ポートフォリオの健全性を維持する立場から関与を深めた形だった。

この銀行関与により、経営陣は事業の見直しと不採算領域の整理を検討する一方、銀行との事前協議という新たなプロセスを意思決定に組み込む必要が生じた。労働組合との調整も引き続き必要であり、雇用維持を前提とした経営方針はそのまま維持された。事業構造の見直しは段階的に検討されたものの、意思決定の複線化は判断速度を抑制する方向に作用した。銀行関与は経営規律の面では一定の機能を果たしたが、管理重視の運営スタイルが定着し、市場環境の変化に機動的に対応する経営への転換は進まなかった。

1977/3期(単体)売上高 2,453億円当期純利益 -87億円
銀行の経営関与が「管理重視の運営」を定着させた逆説

三和銀行の経営介入は融資債権の保全を目的とした措置であり、経営改善の具体策を促す面では規律的な効果があった。しかし銀行との協議プロセスが意思決定に組み込まれたことで判断速度は低下し、事業ポートフォリオの抜本的な組み替えよりも現状維持と段階的調整を優先する経営スタイルが固定化された。経営規律の導入が結果として変革を遅延させるという逆説は、メインバンク制のもとでの企業再建に共通する構造的な論点を含んでいる。

1980
9月

PETフィルムに参入

1980/3期(単体)売上高 1,962億円当期純利益 5億円
技術の連続性を活かした「隣接領域への参入」という現実解

PETフィルムへの参入は、ナイロンフィルムで培った二軸延伸技術を転用することで追加投資を抑えた判断であり、技術的連続性のある隣接領域を選んだ現実的な選択だった。経営資源に制約のある企業が事業転換を図る際に、既存の技術資産との接続点を起点とする戦略は汎用性が高い。ユニチカにとってPETフィルムは後年の高分子事業の中核となったが、この参入は繊維事業の撤退判断を伴わない漸進的な重心移動であった点にも注意が要る。

背景繊維不振下で進められたフィルム事業の選択肢検討

1970年代後半、ユニチカは繊維事業の収益低迷と工場閉鎖を経験し、事業ポートフォリオの再構築が経営課題として認識されていた。一方で社内には、ナイロンフィルムの製造を通じて蓄積された二軸延伸技術と装置運転の知見が存在していた。包装資材市場ではプラスチックフィルムの需要が拡大しており、PETフィルムは耐熱性・寸法安定性・透明性に優れた素材として食品包装や電子部品向けの用途開拓が進んでいた。ユニチカにとってPETフィルムへの参入は、既存のナイロンフィルム設備と延伸技術を転用できる点で追加投資額を抑制しやすい選択肢だった。

繊維中心の事業構成から非繊維分野への転換を図るなかで、技術的連続性のある領域を選ぶことが現実的と判断された。フィルム事業は繊維と比較して製品単価の下落圧力が緩やかであり、一定の利益率を維持しやすい特性を持つと見込まれていた。三和銀行による経営関与のもとで収益改善に資する事業展開が求められていた時期でもあり、完全な新規事業への大型投資よりも、既存技術の延長線上にある隣接領域への参入が選択肢として優先された。

決断二軸延伸技術の転用によるPETフィルムの量産開始

1980年前後、ユニチカはPETフィルムの本格的な量産に踏み切った。既存のナイロンフィルム製造ラインの改造と二軸延伸技術の転用により、新規設備への投下資本を抑えながら生産体制を構築する方針が採られた。用途は食品包装用フィルムが中心に据えられ、品質の安定性と量産効率の確保が初期段階の経営課題とされた。繊維のように市場全体が縮小傾向にある領域ではなく、需要拡大が見込まれる産業用素材への参入という位置づけだった。

この決断により、ユニチカは繊維依存の事業構成から段階的に離れ、フィルム事業を非繊維領域の中核に位置づける方向に舵を切った。PETフィルムは参入後、食品包装にとどまらず電子材料や産業用途にも展開が広がり、後年の高分子事業拡大の起点となった。繊維事業からの撤退ではなく、収益を生む新領域を加えることで事業構成の重心を移す判断であり、ユニチカが非繊維分野で一定の競争力を持つ数少ない事業の出発点となった。

1980/3期(単体)売上高 1,962億円当期純利益 5億円
技術の連続性を活かした「隣接領域への参入」という現実解

PETフィルムへの参入は、ナイロンフィルムで培った二軸延伸技術を転用することで追加投資を抑えた判断であり、技術的連続性のある隣接領域を選んだ現実的な選択だった。経営資源に制約のある企業が事業転換を図る際に、既存の技術資産との接続点を起点とする戦略は汎用性が高い。ユニチカにとってPETフィルムは後年の高分子事業の中核となったが、この参入は繊維事業の撤退判断を伴わない漸進的な重心移動であった点にも注意が要る。

1982
医療機器事業に参入
1983
合理化を発表
1985
活性炭繊維の生産開始
1989
子会社4社を吸収合併
1995
インドネシアに現地法人を設立
1997
タイに現地法人を設立
2009
ナイロン長繊維から撤退
2009
希望退職者を募集
2010
不採算事業の売却
2012
寺田紡績を完全子会社化
2014
第三者割当増資を実施
2014
佐賀工場の閉鎖決定
2024
11月

繊維事業から撤退

2024/3期(連結)売上高 1,183億円当期純利益 -54億円
延命は図れたが、永続はしなかった繊維事業

ユニチカの繊維事業は、1969年のユニチカ発足以降、縮小と合理化を重ねることで事業の延命は図られてきた。一方で、収益構造の改善や競争力の再構築には至らず、低収益状態は長期化した。結果として、事業継続は可能でも永続性を持つ形にはならず、最終的に撤退判断へと収束した。

背景高分子事業の収益力低下と繊維赤字の吸収余力の喪失

ユニチカの繊維事業は長期にわたり収益性の低下が続いていた。衣料用繊維や不織布を含む事業領域は、海外製品との価格競争や市況変動の影響を受けやすく、安定的な利益創出が困難な状態が慢性化していた。一方で、食品包装用PETフィルムを中心とする高分子事業が一定の利益を確保しており、2020年頃までは繊維事業の低収益を全社損益のなかで吸収する構図が維持されていた。

しかし2021年度以降、高分子事業の利益率も低下に転じ、繊維事業の赤字を補填する余力は急速に縮小した。2014年には取引銀行から繊維事業の撤退を含む構造改革を進言されていたが、雇用維持と事業継続を優先し判断は先送りされた。この間にも有利子負債は高水準を維持し、自己資本比率の低下が進行した。低収益事業を抱えたままの経営が約10年にわたって続き、自力での財務改善は限定的なものにとどまっていた。

決断官民ファンドと銀行への870億円の金融支援要請と繊維事業からの撤退

2024年11月28日、ユニチカは記者会見を開き、祖業である繊維事業からの撤退を正式に発表した。撤退対象は衣料用繊維、不織布、産業繊維の一部であり、売上高の約4割に相当する事業規模だった。同時に、官民ファンドであるREVICおよび取引銀行に対し、総額870億円規模の金融支援を要請した。このうち約430億円については債権放棄を求める内容であり、自力再建が困難な財務状況を前提とした判断だった。

この撤退判断の背景には、自己資本比率の低下と有利子負債の増大により、事業継続を前提とした通常の資金調達が難しくなった事情があった。繊維事業を維持しながら財務改善を図る選択肢はすでに現実性を失っており、外部支援を受け入れたうえでの事業縮小が唯一の対応策として選ばれた。取締役全員の辞任も同時に発表され、金融支援を受けるための責任体制の明確化が図られた。

結果再成長戦略ではなく上場企業としての存続模索への局面転換

繊維事業からの撤退は、新経営体制のもとで再成長を目指す転換というよりも、事業の延命に長期間を費やしたうえでの縮小整理としての側面が強かった。1969年のユニチカ発足以来、繊維事業は収益性の低迷が続いてきたが、段階的な縮小にとどまり撤退判断は約55年間にわたって先送りされてきた。この間、資産売却や工場閉鎖といった対応は行われたが、事業ポートフォリオ全体を再構成する判断には踏み込まれなかった。

2024年に発表された取締役全員の辞任は、攻勢的な経営再建の姿勢を示すものではなく、金融支援を受けるにあたっての責任整理という性格が強かった。残された高分子事業も十分な収益力を回復できておらず、事業集中は自発的な選択というよりも制約条件として迫られた対応だった。ユニチカは成長戦略の再構築ではなく、上場企業としての存続自体を模索するフェーズに入ることとなった。

2024/3期(連結)売上高 1,183億円当期純利益 -54億円
延命は図れたが、永続はしなかった繊維事業

ユニチカの繊維事業は、1969年のユニチカ発足以降、縮小と合理化を重ねることで事業の延命は図られてきた。一方で、収益構造の改善や競争力の再構築には至らず、低収益状態は長期化した。結果として、事業継続は可能でも永続性を持つ形にはならず、最終的に撤退判断へと収束した。

証言上埜氏(ユニチカ社長)

われわれとしては、従業員の雇用を引き継いでもらえることが、1つ重要なポイントだと考えている。また、グループ内での再配置なども考えて、雇用にも最大限配慮した形で構造改革を進めたい