1906年に台湾で誕生した製糖会社が、空襲で焼け落ちた工場でペニシリンを作り始めたとき、「食品製造」と「医薬品」を一つの企業に共存させる百年の歴史が動き出した。製糖・製菓・乳業という三事業に分裂したまま戦後を生き延びた明治グループは、103年後の2009年に統合という宿命を果たして売上1兆円超の食品・医薬コングロマリットとなった。
しかし「食と医の融合」という統合の本質的な価値は、持株会社化から16年が経った現在も実現しきれていない。コスタイベ(レプリコンワクチン)の風評被害による販売低迷と、工場閉鎖・人事制度改革という構造変革の課題が、現在の明治HDで並行して進んでいる。
歴史概略
1906年〜1963年製糖帝国と三つの源流
製糖会社が菓子会社と乳業会社を生んだ理由
1906年12月、糖業家の相馬半治が台湾台南に資本金500万円で明治製糖を設立した。日本統治下の台湾は蔗糖の産地として理想的な立地であり、明治製糖は大正から昭和初期にかけて産糖高500万ピクル以上を誇る大事業体に成長した。しかし相馬は製糖業だけに留まらなかった。1916年には国内の砂糖消費を増やす目的で菓子会社「東京菓子」(後の明治製菓)を設立し、さらに乳業にも進出した。砂糖を大量に消費する菓子・乳業を育てることで自社の製糖事業の需要基盤を内製化するという、垂直展開の発想だった。
1940年には乳業部門が「明治乳業」として独立分離し、製糖・製菓・乳業の三柱が揃う明治グループが完成した。ところが1945年の終戦がその頂点を根こそぎ奪う。財閥解体によりグループの資本関係は断ち切られ、台湾の外地資産は全て喪失した。製糖・製菓・乳業の三社はそれぞれ独立した企業として戦後の再出発を強いられ、親元である明治製糖は1984年の解散まで製糖事業を続けながら子会社の背中を見ることになった。
廃墟の発酵タンクでペニシリンを始めた判断
1945年1月の空襲で明治製菓の川崎工場は全焼した。廃墟の中で経営陣が選んだのは、菓子の復興ではなかった。1946年11月、同社は戦争末期から取り組んでいたペニシリンの製造を開始した。背景には実務的な根拠があった。発酵によって菓子素材を大量培養してきた技術と設備が、抗生物質の生産にそのまま転用できた。戦後の物資不足の中で、砂糖など菓子原料を調達するより、高い価値を持つ抗生物質を作る方が事業として成立した。1950年にはストレプトマイシン、1958年には梅沢浜夫博士が発見した国産初の抗生物質カナマイシンの商業化に成功し、自社研究開発型の製薬メーカーとしての地位を固めていく。
この参入経路の独自性は、後から見ると小さくない。食品製造で培った発酵ノウハウを医薬品に転用したメーカーは世界的にも珍しく、食品産業の長い伝統に根ざした発酵技術を生かして原末から製剤までを一貫して手がける製薬メーカーとして当時の業界紙でも特筆された(日経ビジネス 1980/8/25)。「食と医の融合」という後の経営スローガンの歴史的な根拠は、この廃墟での選択にある。
東洋一の抗生物質工場が意味するもの
1963年、足柄工場(薬品原末)が開設された。抗生物質培養タンクの総容量4,500トンは国内最大・世界トップ5位内の規模であり、原末製造から製剤まで一貫して手がける内製メーカーとしての投資の本気度を示した。競合他社が外資から製剤を仕入れて販売する形態を採る中で、明治製菓は原末から一貫生産する道を選んだ。これは固定費の重さと引き換えに、原価競争力と品質の一貫管理を得る選択だった。
この時点での売上高構成は食料60%・薬品40%と食料部門が大きかったが、研究開発費の約80%が薬品に向けられていた。菓子部門の収益で薬品部門の研究開発を支えるという構造は、高齢化社会が到来して医薬品需要が伸び続ける1970〜80年代まで機能し続けた。薬品売上に対する研究開発費比率は7.3%であり、業界平均を上回る水準を維持した。足柄工場の建設は、この構造が本格的に動き始めた起点であると同時に、カナマイシン(1958)・ホスホマイシン(1980)・カルベニン(1987)と続く国産抗生物質の開発拠点として機能した。
1963年〜2009年「菓子の明治」から「薬の明治」へ、そして統合
菓子部門▲30億円・薬品部門+61億円が逆転した1980年
1980年3月期に、明治製菓は歴史的な転換点を迎えた。食料部門が経常損益30億円の欠損を計上する一方、薬品部門は61億円の黒字を出した。菓子需要は7年連続で減少しており、農業保護政策により原料(砂糖・乳製品・小麦粉)の国内価格が国際価格の2〜2.5倍に高止まりするという構造的なコスト高が続いていた。伝統ある菓子部門の初の大幅欠損は経営陣に大きな衝撃を与えた。
中川赴社長はこの局面を「菓子部門の合理化と薬品部門への経営資源集中投資」という二方面作戦として明示的に打ち出した。菓子部門では退職者不補充と薬品部門への配転を基本に3年間で500人削減を計画し、不採算工場の閉鎖を進めた。薬品部門には売上の10%近い研究開発費投資を維持し続け、同年10月には大型新薬ホスホマイシンが発売されて月商10億円超を記録した。「菓子は生活必需品から嗜好品的な要素が強まってきました。現在のような大量生産・販売方式ではそぐわない商品になりつつあります」という中川社長の言葉は、構造転換の認識を率直に表していた(日経ビジネス 1980/8/25)。
ボーデンの「下請け化」要求を拒否した250億円の代償
一方、明治乳業も自主性が問われる局面を経験した。1970年から20年にわたり、アイスクリーム・チーズ・マーガリンの3事業で米ボーデン社と提携し、年間売上高250億円(アイスクリーム120億円・チーズ80億円・マーガリン50億円)のブランドを擁していた。1990年、乳製品輸入自由化を機にボーデン側が日本市場での主導権取得と事業拡大を要求してきたとき、中山悠社長はこれを拒否した。「明治が下請けになると受け止められてもしかたない提案」(日経ビジネス 1990/12/31)を断った結果、家庭用アイスクリームの市場シェア約60%を誇るブランド「レディボーデン」を含む年間250億円の事業を失った。
当時の業界評価は「両社にとりマイナス」で一致していた。しかし福田耕作専務は「開発力のない会社に未来はない。ボーデンブランド依存から脱却して自分たちのブランドをつくっていくのだという意欲と熱気が社内に感じられるようになった」(日経ビジネス 1990/12/31)と語った。この喪失は、提携下で制約されていた競合品開発の解禁と明治乳業独自ブランドの構築加速への転換点となった。
103年の分裂を経た宿命の統合
2008年9月、明治製菓と明治乳業は経営統合を合意した。1906年に製糖・製菓・乳業という三事業を生み出した明治製糖が財閥解体で解体されてから60年余り、分裂したままそれぞれ国内市場で成長してきた二社が合流した。統合の直接的な動機は国内食品需要の低迷という共通課題だった。明治製菓(売上高4,140億円・経常利益96億円)と明治乳業(同7,113億円・139億円)はともに国内市場への依存度が高く、統合による販路・流通の合理化と「明治ブランド」の共有活用を目指した。
統合比率は明治製菓対明治乳業が1.0対1.7と設定され、売上規模では乳業が大きいものの、利益率の高い製菓側が企業価値の上で対等に評価された形となった。2009年4月に持株会社「明治ホールディングス」が発足し、売上高1兆円を超える食品・医薬コングロマリットが誕生した。佐藤尚忠初代社長は「われわれは明治ブランドという共通の武器を持っている」(東洋経済オンライン 2008/9/30)と統合の意義を語ったが、旧製菓の薬品部門と旧乳業の食品部門という異質な二つの事業を、いかに一つのグループ戦略に統合するかという問いは、発足直後から積み残された。
2009年〜2021年売上1兆円の器で何を育てるか
「食品の明治」と「医薬品のMeiji Seika」に分けた理由
2011年4月、明治ホールディングスはグループ再編を完了させた。明治製菓の食品部門を新会社「明治」(旧明治乳業から改称)に移管し、明治製菓本体は「Meiji Seikaファルマ」として医薬品専業に転換した。この機能分離は、統合の表向きの論理(食品ブランドの統合シナジー)とは別の判断を反映していた。薬品事業を食品事業の損益から切り離すことで、製薬専業メーカーとしての研究開発投資を継続できる独立した体制を作るという意図があった。
この分離が機能したのは2010年代を通じてだった。食品セグメントの営業利益はFY14(2015/3期)に417億円、FY17(2018/3期)には842億円と成長を続け、FY19(2020/3期)には1,033億円に達した。2015年には乳価改定とプロバイオティクスの価格改定が利益率を押し上げ、食品事業が持株会社の収益の柱として機能し始めた。一方で医薬品では、2015年のインド後発医薬品メーカーMedreich買収、2018年のKMバイオロジクス子会社化(425億円)によってワクチンおよびCMO/CDMO領域への布石を打った。川村和夫社長が2018年に就任し、ROEとESGを同時追求する「ROESG経営」と長期ビジョン2036を打ち出した。
KMバイオとMedreich ── コスタイベへの15年の助走
2018年のKMバイオロジクス買収は、コスタイベ(レプリコンワクチン)という国産次世代ワクチン開発の伏線となった。KMバイオロジクスは一般財団法人化学及血清療法研究所の収益事業(ワクチン製造)を引き継いだ会社であり、明治製薬がこれを425億円で取得したことで、製薬パイプラインにワクチン・感染症領域が加わった。並行してインドのMedreichを後発医薬品の製造拠点として育成し、グローバルCMO/CDMOとしての受注基盤を構築した。
川村社長が2024年5月の26中計で「コスタイベを次世代ワクチンプラットフォームとして育成する」と宣言するまで、このワクチン戦略の準備には実に15年以上を要した。FY19(2020/3期)の全社営業利益は1,027億円に達しており、食品と医薬品の二頭体制が順調に見えた時期である。しかし食品の利益は主にブランド品の値上げ浸透と原材料安定に支えられており、海外展開の遅れ(中国事業の損失、欧米への本格参入の不在)も重なって、ROEが7〜8%前後に留まるという収益効率の低さは投資家から指摘され続けた。
低ROEという統合の持病
統合後の明治HDは売上高1兆円規模を確立したが、資産を活用して利益を生み出す効率の問題は燻り続けた。食品・乳業という二つの大規模ラインを抱える製造コングロマリットは、設備の稼働率を管理しながら多品種生産を維持するコストが重くなりやすい構造を持っていた。FY19の全社営業利益1,027億円は売上高1兆2,527億円の8.2%であり水準としては高いが、資産に対するリターンは低かった。
2020年代に向けて、川村社長は「ROESG経営」という言葉でROEとESGの同時追求を掲げ、3年間で300億円のESG投資枠を設定した。「企業としての永続性をもはや保てないのではないか」という危機意識が、バックキャスティング型の長期ビジョン2036策定を促した(ダイヤモンド・オンライン 2021/9/10)。しかし食品セグメントの数量回復と医薬品の収益性改善という実質的な課題は、経営フレームワークの刷新によって解決されるものではなかった。食品コングロマリットの固定費構造を変えるためには工場閉鎖・人員流動化というオペレーション上の決断が必要だったが、川村時代にはその踏み込みが後回しになった。コスタイベとMedreichという二つの成長投資が本格化する中で、2022年度の急激な原材料高という外部環境の変化が重なってきた。
直近の動向と展望
コスタイベの夢と、それが潰れた仕組み
2022年度(FY22)を境に、明治HDは複合的な逆風に直面した。急激な円安と資源高により年間295億円の原材料コストアップが発生し、食品セグメントの営業利益はFY19の1,033億円から559億円(FY22)へと急落した。プロバイオティクス(R-1・LG21)は価格改定後の消費者の数量減と感染症需要の沈静化が重なって低迷し、FY22全社営業利益は754億円(前年比▲19%)と大幅に悪化した。価格転嫁を先行実施した結果、競合が値上げを見送る中でブルガリアヨーグルトの販売数量が約9割に落ち込み、リーディングカンパニーとしての価格戦略の難しさを露呈した。
2024年5月に策定した26中計でコスタイベを医薬品戦略の柱と位置づけた直後、同年秋にSNSでの風評被害が急速に拡大した。レプリコンワクチン(mRNA自己増幅型)の安全性への不安がネット上で広まり、医療機関での接種控えが業界全体に波及した。当初3,200万回と見込んでいた接種回数は300〜600万回程度に落ち込み、コスタイベの棚卸評価損がFY24(2025/3期)の純利益を508億円に圧縮した。KMバイオロジクス買収(2018)から6年をかけて育てた国産ワクチン戦略の中核が、市場の受容という最後の関門で失速した。
「茹でガエル」宣言後の生産・人事改革
2025年6月、松田克也が第4代社長に就任した。川村前社長の積み残した課題──食品数量回復・中国事業の損失・コスタイベリスク──を引き継ぎながら、松田は「ROICマネジメント強化・生産統廃合加速・食と医のシナジー創出(売上1,000億円規模の新領域)」を改革の軸に据えた。2025年11月には四国明治の生産終了と「ネクストキャリア特別支援」(早期退職・キャリア転換支援)を発表し、特別損失11億円を計上した。ジョブ型人事制度の導入も同時に表明した。
松田社長は「歴史であったり、社員の強みであったり、医と食の知見・技術が強みだと考えています。しかしこの強みをここ数年で発揮できてきたかと言ったら、そうではない。その強みが逆に弱みになったのがこの数年だと思います」(決算説明会 FY25-2Q)と語り、組織の「茹でガエル」状態からの脱却を宣言した。FY25(2026/3期)は通期営業利益910億円達成の確度が高まっており、来期(FY26)には営業利益1,000億円を目指す方針を示している。ただし26中計の1,165億円目標については「非常にハードルが高い」と認め、食と医のシナジーを実際の新事業として形にする作業は現在進行形で続いている。