明治HD の歴史

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創業 1906年
創業者 相馬家
創業地 東京都中央区
創業 1906年12月、糖業家の相馬半治氏が台湾台南に資本金500万円で明治製糖を設立
1906年12月、糖業家の相馬半治氏が台湾台南に資本金500万円で明治製糖を設立した。台湾の蔗糖を中核とする会社で、砂糖の消費先を自ら育てるため菓子・農牧場・乳製品・食品へ傍系事業を広げ、1916年には菓子会社の東京菓子が生まれる。東京菓子は1924年に明治製菓へ改称した。1940年には明治製糖の乳業部門と極東煉乳の統合で明治乳業が発足し、明治製菓の乳製品部門も同社へ移されて、菓子と乳業の分担がここで固まった。以後およそ70年、二社は同じ明治の名を掲げながら別々の会社として歩む。現在の明治ホールディングスは、その二社が2009年4月に共同株式移転で設けた持株会社である。
決断 会社の区分を二度引き直し、二度目は事業の側で引いた。2008年9月、明治製菓と明
会社の区分を二度引き直し、二度目は事業の側で引いた。2008年9月、明治製菓明治乳業は合併ではなく共同株式移転を選び、持株会社・明治ホールディングスを設立することで合意した。どちらかが相手を吸収する形を取らず、両社の株式を新たに設ける持株会社へ移す段取りである。2009年4月に明治ホールディングスが発足して東証一部へ上場したが、傘下は菓子の会社と乳業の会社のままだった。2011年2月に吸収分割契約を締結し、同年4月、明治製菓のフード&ヘルスケア事業を明治乳業へ承継させて、明治乳業株式会社明治へ、明治製菓Meiji Seika ファルマへ商号を変更している。1940年に決めた菓子と乳業という分担を食品と医薬へ引き直したことが、連結営業利益を2012年3月期の202億円から2018年3月期の947億円へ押し上げた。
現況 営業利益は伸ばしたが、純利益は特別損失で3割減った。2026年3月期の連結売上高
営業利益は伸ばしたが、純利益は特別損失で3割減った。2026年3月期の連結売上高は1兆1,737億円、営業利益は933億円と前期から増えたが、特別損失427億円で純利益は508億円から351億円へ減った。食品は売上9,415億円・利益687億円、医薬品は2,322億円・利益305億円で、利益率は7.3%に対し13.1%である。損失の中身は食品側の減損225億円で、中国事業の見直しと2025年11月に発表した四国明治の生産終了による。医薬品でも、KMバイオロジクスと開発したレプリコンワクチンのコスタイベが風評で接種見通しを当初の10分の1へ落とし、棚卸評価損を招いた。2025年6月に就任した松田克也社長は、ROICによる管理と資産の圧縮を掲げている。
競合 先に値上げできる立場は、先に数量を失う立場でもあった。2022年度の原材料コスト
先に値上げできる立場は、先に数量を失う立場でもあった。2022年度の原材料コストは前年度から295億円増え、上期までの価格改定で198億円を回収したものの約100億円が残る。首位にあるブルガリアヨーグルトでは、競合が売価を上げないなかで先行して値上げを浸透させようとした結果、数量は約9割まで減り、R-1とLG21を含むプロバイオティクス全体も低迷した。2023年3月期の連結売上高は1兆621億円と前期を上回った一方、営業利益は754億円と18.8%減っている。乳業では日本ミルクコミュニティと統合して総合乳業へ戻った雪印メグミルク、菓子では乳業を分離せずに抱えた江崎グリコが同じ棚に並ぶ。棚で首位にあることは値上げの先行を可能にしたが、数量の維持までは保証せず、価格を戻さずに数量を取り返す作業が現在も続いている。
長期業績の推移 2009〜2026年
明治ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2010年3月期2026年3月期

第1章 1906年〜 垂直統合から統制下の分社へ明治製糖の房総煉乳出資から極東煉乳での分社へ

筆者考察y.sugiura, author

明治乳業は、牛乳を売りたい会社としてではなく、砂糖を売りたい会社の都合から生まれた。台湾の蔗糖で資本を蓄えた明治製糖は、その余剰を砂糖の出口となる産業へ向けた。菓子も煉乳も、当時は砂糖を大量に使う加工品である。1917年の房総煉乳への出資が投資ではなく川下の確保だったことは、明治製糖がその経営を自ら執らず、同じ年に手に入れた東京菓子へ委ねたことに表れている。製糖会社が牛乳を扱うより、菓子会社が煉乳を扱うほうが、原料の調達も販路も重なる。乳業は独立した事業として始まったのではなく、砂糖という一つの原料を軸にした事業群の一部として始まった。

この生まれ方は、半世紀のあいだに三度、事業の器を作り変えさせた。一度目は1940年で、臨時資金調整法が菓子と乳業を別の資金区分へ置いたため、明治製菓は乳業部門を切り出し、すでに系列下にあった極東煉乳をその器に使った。二度目は戦時で、北海道の9工場を国策会社へ、東京と千葉の事業所を統制会社へ現物出資し、名前だけを残して工場を失った。三度目は戦後で、供出先となった東京乳業と朝日乳業をそのまま合併し、手放した事業地を買い戻した。器がどう変わっても、房総の煉乳所から積み上げた工場と販路は残り、そこへ戻ることが再建の道筋になった。

資本金の推移 統制下の500万円から統制解除後10年の12億円まで(万円)

150 1917 500 1943 10,500 1949 14,500 1951 60,000 1953 120,000 1956
  • 1917年は極東煉乳としての設立時、1943年は明治製菓からの設備譲受に伴う増資後の額。
  • 1951年は朝日乳業の合併、1953年は戸田橋工場の新設、1956年は設備合理化資金の増資による。
  • 出所は明治乳業50年史および明治製菓40年小史。

1906年〜明治製糖の余剰資本による製菓と製乳への多角化

1906年12月29日、糖業技術者の相馬半治氏を専務取締役として、資本金500万円の明治製糖が創立総会を開催した。台湾総督府との折衝を重ねて台南州に本社と蒜頭工場の設置許可を得た同社は、渋沢栄一氏を相談役に迎え大日本製糖台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ四大製糖会社へ育った。1914年に始まった第一次世界大戦で世界の産糖の半ばを占める甜菜糖の主産地が戦場となると糖価は高騰し、明治製糖の業績はいよいよ上がって資本が蓄積された。当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で、製菓・製乳・果実かん詰めといった砂糖の関連事業の発達も日本の比ではなかった。大戦前に諸外国が東南アジアと南洋へ輸出していた菓子類はおよそ1千万円に上ったが、日本からの輸出は5万円にすぎなかった

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [1]1906年12月29日 明治製糖の創立総会 資本金500万円・専務取締役に相馬半治
    • [2]台湾総督府との折衝により台南州に本社と蒜頭工場の設置が許可された
    • [3]明治製糖の創立に際し渋沢栄一を相談役に委嘱
    • [4]明治製糖は大日本製糖・台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ当時の四大製糖会社
    • [5]第一次世界大戦で甜菜糖の主産地が壊滅し糖価が高騰・明治製糖の業績上昇と資本蓄積
    • [6]当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で製菓・製乳・果実かん詰め等の発達も日本の比ではない
    • [7]大戦前に諸外国が東南アジア・南洋へ輸出した菓子類は約1千万円・日本の輸出は5万円

明治製糖はまず製菓事業へ入り、1916年11月に相馬半治氏と有島健助氏を創立委員として資本金150万円の大正製菓を起こしたが、その直前の同年10月9日に別系の東京菓子が資本金100万円で設立されていた。同種事業が分立する不利を避けるため、翌1917年3月に大正製菓は東京菓子へ合併された。乳業への出資はその翌月で、千葉県安房郡の房総煉乳が増資するのに際して明治製糖が資本参加した。房総煉乳は前年9月に磯貝・玉川の煉乳所と平群・滝田の製酪所を併せて設立された資本金7万5千円の会社である明治製糖はこの経営を自ら執らず、東京菓子に任せた砂糖の出口を自ら育てる多角化であり、原料と販路が重なる菓子会社へ煉乳を預けるほうが理に適っていた。1920年12月、東京菓子は房総煉乳を合併して煉乳部とした

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [8]1916年11月 大正製菓の設立・資本金150万円・創立委員は相馬半治と有島健助
    • [9]1916年10月9日 東京菓子の設立・資本金100万円
    • [10]1917年3月 同種事業の分立を不利として大正製菓を東京菓子へ合併
    • [11]1917年4月 明治製糖が房総煉乳の増資に資本参加・乳業進出の初め
    • [12]房総煉乳は1916年9月設立・資本金7万5千円・磯貝と玉川の煉乳所、平群と滝田の製酪所を併合
    • [13]明治製糖は房総煉乳の経営を東京菓子に任せた
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
    • [14]1920年12月 東京菓子が房総煉乳を合併し煉乳部とする

1923年9月の関東大震災で煉乳部は少なからぬ被害を受け、翌年には100万円へ減資した。この際に勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移し、中心工場を一つに絞った。並行して東京へ出て、1924年4月から京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を始め、同年9月に東京菓子明治製菓へ商号を改めた。1927年5月には本所区亀沢町に両国工場を開設し、1928年10月からびん装の明治牛乳の卸売を始めた。両国工場長となった国生義夫氏は近代的なミルクプラントを導入し、びん詰め牛乳の量産に成功している。1934年には大阪市乳販売購買組合が経営していたミルクプラントを合併し、東京・横浜・大阪という消費地に足場を得た保存の利く煉乳から毎日運ばねばならない市乳へ主力を移す判断は、工場を原料の産地から消費地へ引き寄せる選択でもあった。

  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
    • [15]1923年9月の関東大震災で煉乳部が被災・翌年100万円へ減資
    • [20]国生義夫が両国工場長として近代的ミルクプラントを導入しびん詰め牛乳の量産に成功
    • [21]1934年 大阪市乳販売購買組合のミルクプラントを合併
  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [16]勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移管し中心工場を滝田に一本化
    • [17]1924年4月 京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を開始
    • [18]1924年9月 東京菓子が明治製菓へ商号変更
    • [19]1927年5月 両国工場開設・1928年10月 びん装明治牛乳の卸売開始
参考文献[1]-[21]
  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [1]1906年12月29日 明治製糖の創立総会 資本金500万円・専務取締役に相馬半治
    • [2]台湾総督府との折衝により台南州に本社と蒜頭工場の設置が許可された
    • [3]明治製糖の創立に際し渋沢栄一を相談役に委嘱
    • [4]明治製糖は大日本製糖・台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ当時の四大製糖会社
    • [5]第一次世界大戦で甜菜糖の主産地が壊滅し糖価が高騰・明治製糖の業績上昇と資本蓄積
    • [6]当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で製菓・製乳・果実かん詰め等の発達も日本の比ではない
    • [7]大戦前に諸外国が東南アジア・南洋へ輸出した菓子類は約1千万円・日本の輸出は5万円
    • [8]1916年11月 大正製菓の設立・資本金150万円・創立委員は相馬半治と有島健助
    • [9]1916年10月9日 東京菓子の設立・資本金100万円
    • [10]1917年3月 同種事業の分立を不利として大正製菓を東京菓子へ合併
    • [11]1917年4月 明治製糖が房総煉乳の増資に資本参加・乳業進出の初め
    • [12]房総煉乳は1916年9月設立・資本金7万5千円・磯貝と玉川の煉乳所、平群と滝田の製酪所を併合
    • [13]明治製糖は房総煉乳の経営を東京菓子に任せた
    • [16]勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移管し中心工場を滝田に一本化
    • [17]1924年4月 京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を開始
    • [18]1924年9月 東京菓子が明治製菓へ商号変更
    • [19]1927年5月 両国工場開設・1928年10月 びん装明治牛乳の卸売開始
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
    • [14]1920年12月 東京菓子が房総煉乳を合併し煉乳部とする
    • [15]1923年9月の関東大震災で煉乳部が被災・翌年100万円へ減資
    • [20]国生義夫が両国工場長として近代的ミルクプラントを導入しびん詰め牛乳の量産に成功
    • [21]1934年 大阪市乳販売購買組合のミルクプラントを合併

1930年〜ネッスルの進出と臨時資金調整法が決めた事業の器

1930年前後、スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出しようとした。鷲印練乳のネッスル社は関東大震災の際に大量の無関税乳製品を持ち込んで以来これを企図し、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉を重ねた末に藤井煉乳と提携した。牧場を併営する無糖練乳のカーネーション社は伊豆畜産販売購買利用組合と組んだ。国産の煉乳は輸入の鷲印煉乳の販路を押し戻して国内需要のおよそ7割を占めるに至っており、業界は練乳の生産と販売の協定を結び、乳製品共同販売と共同国産煉乳の2社を設立して進出を防いだ明治製菓は1930年4月に煉乳部を東京の本社へ移して製乳部と改称し、外資への対応と事業の拡張をいずれも本社の直轄に置いた。

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [22]1930年前後 スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出を企図
    • [23]ネッスル社は関東大震災時に無関税乳製品を大量に持ち込み、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉のうえ藤井煉乳と提携
    • [24]カーネーション社は牧場を併営する無糖練乳メーカーで伊豆畜産販売購買利用組合と提携
    • [25]国産煉乳が輸入鷲印煉乳の販路を駆逐し国内全需要高の7割を占めた
    • [26]業界は練乳の生産・販売協定を結び乳製品共同販売と共同国産煉乳を設立して外資の進出を防止
    • [27]1930年4月 煉乳部を本社内へ移し製乳部と改称

1938年4月に市乳部が置かれ、同年7月には1日平均の市乳処理量が100石を超えた。乳業が製乳と市乳の2部に育った一方、臨時資金調整法は乳業と製菓を別々の資金の区分に置いていた。そこで明治製菓は乳業部門の独立分離を決め、器には1917年12月に馬越恭平氏を社長として資本金150万円で設立され、1935年から明治製菓が経営を担当していた極東煉乳を用いた。1940年12月6日に結んだ経営委任の仮契約は、極東煉乳明治製菓の乳業に関する一切の事業場と設備、商標を自己の名で使って経営し、総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分を明治製菓へ支払うと定めた。契約は同時に、極東煉乳が可能な最短期間で商号を明治乳業へ変更することも定めていた。同月27日、明治乳業が発足した

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [28]1938年4月 市乳部の設置・同年7月 1日平均の市乳処理量が100石を突破
    • [29]臨時資金調整法で乳業は乙種、製菓は別の種に区分された
    • [30]明治製菓が乳業部門の独立分離を決定
    • [32]1940年12月6日の経営委任仮契約 第1条・第3条 事業場と商標の使用と総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分の支払い
    • [33]同仮契約第7条 極東煉乳は可能な最短期間に商号を明治乳業株式会社へ変更する
    • [34]1940年12月27日 明治乳業株式会社の発足
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [31]極東煉乳は1917年12月設立・資本金150万円・社長は馬越恭平/1935年から明治製菓が経営を担当

発足の翌1941年3月、有限会社北海道興農公社の設立に際して、明治製菓極東煉乳は釧路・帯広・旭川・札幌ほか9つの乳製品工場を現物出資した。北海道の生産拠点を失った明治乳業は、1943年に明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲り受け、内地の事業へ専念した。この譲受には設備代金204万7,482円73銭を支払い、経営委任契約の解除補償金132万3,469円は1943年9月から1950年3月まで14回に分けて納めた。原資は350万円の増資で、資本金は500万円となった。1945年には東京牛乳乳製品統制会社の設立に東京都内のミルクプラント全部を、千葉県酪業の設立に千葉県内の事業所全部を現物出資した統制は工場を国策会社と統制会社へ移して進み、発祥の地である安房の工場まで手元から離れた。

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [35]1941年3月 北海道興農公社の設立に明治製菓と極東煉乳が釧路・帯広・清水・旭川・札幌・豊平・伊達・八雲・木古内の9乳製品工場を現物出資
    • [37]1943年8月20日の設備譲渡仮契約 設備代金204万7,482円73銭・委任契約解除補償金132万3,469円を1943年9月から1950年3月まで14回分割
    • [38]1943年4月 350万円の増資により資本金500万円
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
    • [36]1943年 明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲受し内地の乳製品事業へ専念
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [39]1945年 東京牛乳乳製品統制会社へ東京都内のミルクプラント全部、千葉県酪業へ千葉県内の事業所全部を現物出資
参考文献[22]-[39]
  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [22]1930年前後 スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出を企図
    • [23]ネッスル社は関東大震災時に無関税乳製品を大量に持ち込み、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉のうえ藤井煉乳と提携
    • [24]カーネーション社は牧場を併営する無糖練乳メーカーで伊豆畜産販売購買利用組合と提携
    • [25]国産煉乳が輸入鷲印煉乳の販路を駆逐し国内全需要高の7割を占めた
    • [26]業界は練乳の生産・販売協定を結び乳製品共同販売と共同国産煉乳を設立して外資の進出を防止
    • [27]1930年4月 煉乳部を本社内へ移し製乳部と改称
    • [28]1938年4月 市乳部の設置・同年7月 1日平均の市乳処理量が100石を突破
    • [29]臨時資金調整法で乳業は乙種、製菓は別の種に区分された
    • [30]明治製菓が乳業部門の独立分離を決定
    • [32]1940年12月6日の経営委任仮契約 第1条・第3条 事業場と商標の使用と総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分の支払い
    • [33]同仮契約第7条 極東煉乳は可能な最短期間に商号を明治乳業株式会社へ変更する
    • [34]1940年12月27日 明治乳業株式会社の発足
    • [35]1941年3月 北海道興農公社の設立に明治製菓と極東煉乳が釧路・帯広・清水・旭川・札幌・豊平・伊達・八雲・木古内の9乳製品工場を現物出資
    • [37]1943年8月20日の設備譲渡仮契約 設備代金204万7,482円73銭・委任契約解除補償金132万3,469円を1943年9月から1950年3月まで14回分割
    • [38]1943年4月 350万円の増資により資本金500万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [31]極東煉乳は1917年12月設立・資本金150万円・社長は馬越恭平/1935年から明治製菓が経営を担当
    • [39]1945年 東京牛乳乳製品統制会社へ東京都内のミルクプラント全部、千葉県酪業へ千葉県内の事業所全部を現物出資
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
    • [36]1943年 明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲受し内地の乳製品事業へ専念

1946年〜東京乳業と朝日乳業の合併による事業地の復元

1950年、乳業の統制は3か月のうちに解けた。1月1日に配給規則が切符制から予約制へ改まり、バターの物品税が廃止された。2月22日には東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定が解除され、公定価格も同日廃止された。4月1日には食料品配給公団が廃止され、練粉乳の配給と価格の統制も撤廃された。10年の統制から解かれた市乳の需要は跳ね上がり、1950年下期の処理量は前年同期の5倍、1948年の20倍に達した。集乳量は1949年の時点ですでに戦前の記録を更新していた明治乳業はこの需要に処理能力で応え、1952年5月に日平均300石の烏山工場を、1954年7月に日平均200石の戸田橋工場を新設し、京浜各工場の機械を最新式のものへ更新した

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [40]1950年1月1日 配給規則の改正により切符制を予約制へ変更・バターの物品税を廃止
    • [41]1950年2月22日 東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定と公定価格を廃止
    • [42]1950年4月1日 食料品配給公団の廃止・練粉乳の配給と価格の統制を撤廃
    • [43]1950年下期の市乳処理量は前年同期の5倍・1948年の20倍
    • [44]1949年に集乳量が戦前の記録を更新
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
    • [45]1952年5月 日平均300石の烏山工場・1954年7月 日平均200石の戸田橋工場を新設し京浜各工場の機械を更新

事業地の回復は合併で進んだ。1950年12月、戦時に東京都内のミルクプラントを供出した相手である東京乳業を合併して両国・烏山・八王子・江戸川の4工場を取り戻し、同時に湘南牛乳を合併して鎌倉工場を加えた。これによって10数年ぶりに関東の市乳へ自由に進出できるようになった。翌1951年12月には千葉県内の事業所を供出した先である朝日乳業を合併し、勝山・滝田・館山・主基の4工場を回復した。創業の地である安房の事業地がここで戻った。北海道へは、過度経済力集中排除法の指令で北海道酪農協同から今金工場を譲り受けたのを足がかりに再進出し、1953年から54年にかけて帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設した。資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円まで、統制解除後の10年でおよそ9倍に膨らんだ

  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [46]1950年12月 東京乳業の合併により両国・烏山・八王子・江戸川の4工場、湘南牛乳の合併により鎌倉工場を取得
    • [47]東京乳業の合併により10数年ぶりに関東の市乳界へ自由に進出
    • [48]1951年12月 朝日乳業の合併により勝山・滝田・館山・主基の4工場を取得
    • [49]朝日乳業の合併により当社発祥の事業地を復元
    • [51]資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円へ・統制解除後10年で約9倍
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
    • [50]過度経済力集中排除法の指令により北海道酪農協同から今金工場を譲受・1953年から1954年に帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設

戦後の明治乳業を支えたのは薬品だった。1946年に大阪工場へペニシリンの製造設備を新設し、1950年3月に30トンタンク3基で量産へ移った。1953年9月期には2兆5,000億単位を生産して全国占有率13%を記録し、以後も生産を伸ばして国内最大のペニシリンメーカーとなった。ところが1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合で市況は急に悪化し、総売上の1割前後を占めていた製薬部門の販売高比率は同年9月期に1%を割った。ショック死が体質に由来すると立証され市況は戻ったが、1957年から明治製菓との間でペニシリン事業の調整統合が話し合われ、1958年4月1日、大阪工場は明治製菓淀川工場として再発足した。乳業へ絞り直した明治乳業は同じ日に全国8営業所を設け、1968年度には年商1,000億円に迫った

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [52]1946年 大阪工場にペニシリン製造設備を新設
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
    • [53]1950年3月 30トンタンク3基の完成により本格的なタンク培養による製造を開始
  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [54]1953年9月期 ペニシリン2兆5,000億単位・全国占有率13%/以後3兆6,200億単位、4兆875億単位と伸び国内最大
    • [55]1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合により製薬部門の販売高比率が総売上の1割前後から同年9月期に1%を割る
    • [56]ペニシリンのショック死は体質に由来すると立証され市況が回復
    • [57]1957年からの明治製菓との協議を経て1958年4月1日 大阪工場が明治製菓淀川工場として再発足
    • [58]1958年4月1日 全国8営業所の設置
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
    • [59]1968年度の年商は1,000億円に迫る水準・純益15億円強
参考文献[40]-[59]
  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
    • [40]1950年1月1日 配給規則の改正により切符制を予約制へ変更・バターの物品税を廃止
    • [41]1950年2月22日 東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定と公定価格を廃止
    • [42]1950年4月1日 食料品配給公団の廃止・練粉乳の配給と価格の統制を撤廃
    • [43]1950年下期の市乳処理量は前年同期の5倍・1948年の20倍
    • [44]1949年に集乳量が戦前の記録を更新
    • [46]1950年12月 東京乳業の合併により両国・烏山・八王子・江戸川の4工場、湘南牛乳の合併により鎌倉工場を取得
    • [47]東京乳業の合併により10数年ぶりに関東の市乳界へ自由に進出
    • [48]1951年12月 朝日乳業の合併により勝山・滝田・館山・主基の4工場を取得
    • [49]朝日乳業の合併により当社発祥の事業地を復元
    • [51]資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円へ・統制解除後10年で約9倍
    • [54]1953年9月期 ペニシリン2兆5,000億単位・全国占有率13%/以後3兆6,200億単位、4兆875億単位と伸び国内最大
    • [55]1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合により製薬部門の販売高比率が総売上の1割前後から同年9月期に1%を割る
    • [56]ペニシリンのショック死は体質に由来すると立証され市況が回復
    • [57]1957年からの明治製菓との協議を経て1958年4月1日 大阪工場が明治製菓淀川工場として再発足
    • [58]1958年4月1日 全国8営業所の設置
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
    • [45]1952年5月 日平均300石の烏山工場・1954年7月 日平均200石の戸田橋工場を新設し京浜各工場の機械を更新
    • [50]過度経済力集中排除法の指令により北海道酪農協同から今金工場を譲受・1953年から1954年に帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設
    • [53]1950年3月 30トンタンク3基の完成により本格的なタンク培養による製造を開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [52]1946年 大阪工場にペニシリン製造設備を新設
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
    • [59]1968年度の年商は1,000億円に迫る水準・純益15億円強

第2章 1970年〜 成熟市場での事業の入れ替え明治製菓の薬品集中に続く明治乳業のボーデン提携解消

筆者考察y.sugiura, author

同じ源流を持つ二つの会社が、1980年前後に同じ形の問題へ突き当たった。明治製菓では菓子の需要が7年続けて減り、明治乳業では牛乳の乱売が止まらなかった。どちらも売る量が消えたわけではない。薄くなったのは、一単位に乗せられる利幅のほうである。明治乳業の売上高は1977年3月期の2,413億円から1980年3月期の2,933億円へ伸びたのに、経常利益は43億円から32億円へ減った。国内の市場が成熟し、原料も製品も他社と同じ土俵で値が決まる領域では、工場を増やしても答えにならない。

二社が出した答えは、市場を替えることではなく、扱う品の値決めを自分の側へ取り戻すことだった。明治製菓は菓子の人員を薬品へ移し、ホスホマイシンのような自社の新薬で利益を作った。明治乳業は20年続いた米ボーデンとの提携を解き、レディボーデンの6割のシェアを手放してまで自社ブランドへ戻り、1994年には栄養科学研究所を割って病態食や経腸栄養剤へ研究の的を移した。輸入自由化で他社の製品が同じ棚に並ぶなら、借りた看板ではなく自分で値を付けられる製品が要る。統合の8年前、二社はすでに同じ方向を向いていた。

明治乳業の経常利益 売上が2割増えた3年間で経常利益は4分の1減った(百万円)

4,340 1977/3期 3,320 1978/3期 5,174 1979/3期 3,254 1980/3期
  • 同じ4期の売上高は2,413億2百万円、2,620億2百万円、2,837億86百万円、2,933億22百万円。
  • 出所は日本企業要覧 1980年版の明治乳業の項。

1970年〜売上の拡大に伴わなかった明治乳業の利益率

1970年代の明治乳業は、売上を増やしながら利益を減らした。1977年3月期は売上高2,413億2百万円に対して経常利益43億40百万円、1980年3月期は売上高2,933億22百万円に対して経常利益32億54百万円で、3年間で売上が2割増える一方、経常利益は4分の1減った。売上高に対する経常利益の比率は1.8%から1.1%へ低下している。乳製品業界は原料が高く製品が安い状態に置かれ、とりわけ牛乳は乱売が続いていた。1980年3月期の純利益は14億55百万円にとどまり、配当は12%を据え置いた量を積むほど一単位あたりの利幅が薄くなる構造であり、処理能力を増やしても手元に残るのは固定費と減価償却の負担だった。

  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)
    • [60]1977年3月期 明治乳業の売上高2,413億2百万円・経常利益43億40百万円
    • [61]1980年3月期 明治乳業の売上高2,933億22百万円・経常利益32億54百万円
    • [63]1980年3月期 明治乳業の純利益14億55百万円
    • [64]1977年3月期から1980年3月期まで配当は12%
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [62]乳製品業界は原料高の製品安であり牛乳は乱売が続いていた

設備の資金は増資でまかなった。1970年3月末に資本金40億円・発行済株式8,000万株だった同社は、1980年3月末に資本金95億5,083万円・1億9,101万6,594株となっている。株主数はこの間に2万6,702名から2万5,094名へわずかに減り、持ち株は法人へ寄った。1980年3月末の所有者別構成は、金融機関63名で47.30%、その他の法人194名で13.30%、一般株主2万4,784名で37.08%である。筆頭株主は第一勧業銀行の8.08%で、日本生命保険が6.24%、朝日生命保険が5.18%と続いた同じ源流から出た明治製菓は2.80%を持つ第6位にすぎず、二社は資本の上でほとんど結ばれていなかった。

  • 日本企業要覧 1970年版(明治乳業)
    • [65]1970年3月末 明治乳業の資本金40億円・発行済株式8,000万株・株主2万6,702名
  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)
    • [66]1980年3月末 明治乳業の資本金95億5,083万円・発行済株式1億9,101万6,594株
    • [67]1980年3月末 明治乳業の株主2万5,094名
    • [68]1980年3月末 所有者別は金融機関63名47.30%・その他の法人194名13.30%・一般株主2万4,784名37.08%
    • [69]1980年3月末 大株主は第一勧業銀行8.08%・日本生命保険6.24%・朝日生命保険5.18%
    • [70]1980年3月末 明治製菓は明治乳業株の2.80%を持つ第6位株主
参考文献[60]-[70]
  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)
    • [60]1977年3月期 明治乳業の売上高2,413億2百万円・経常利益43億40百万円
    • [61]1980年3月期 明治乳業の売上高2,933億22百万円・経常利益32億54百万円
    • [63]1980年3月期 明治乳業の純利益14億55百万円
    • [64]1977年3月期から1980年3月期まで配当は12%
    • [66]1980年3月末 明治乳業の資本金95億5,083万円・発行済株式1億9,101万6,594株
    • [67]1980年3月末 明治乳業の株主2万5,094名
    • [68]1980年3月末 所有者別は金融機関63名47.30%・その他の法人194名13.30%・一般株主2万4,784名37.08%
    • [69]1980年3月末 大株主は第一勧業銀行8.08%・日本生命保険6.24%・朝日生命保険5.18%
    • [70]1980年3月末 明治製菓は明治乳業株の2.80%を持つ第6位株主
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [62]乳製品業界は原料高の製品安であり牛乳は乱売が続いていた
  • 日本企業要覧 1970年版(明治乳業)
    • [65]1970年3月末 明治乳業の資本金40億円・発行済株式8,000万株・株主2万6,702名

1980年〜菓子の欠損と牛乳の乱売という同時の成熟

1980年3月期、明治製菓の食料部門は経常損益で30億円の欠損を計上し、薬品部門は61億円の黒字でこれを補った。国内の菓子需要は7年連続で減少し、原料となる砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格は国際価格の2〜2.5倍で高止まりしていた。中川赴社長は菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦を掲げ、退職者の不補充と薬品部門への配置転換を軸に3年間で500人の削減を計画した。同年10月に発売した大型新薬ホスホマイシンは月商10億円を超え、菓子の欠損を埋めた。中川赴社長は『菓子は生活必需品から嗜好品的の要素が強まってきました』と語った。菓子という祖業で稼げなくなった会社が、発酵という自社の技術を薬へ振り向けた判断であった。

  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [71]1980年3月期 明治製菓の食料部門 経常損益30億円の欠損
    • [72]1980年3月期 明治製菓の薬品部門 経常利益61億円
    • [73]菓子需要が7年連続で減少
    • [74]砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格が国際価格の2〜2.5倍
    • [75]中川赴社長 菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦
    • [76]3年間で500人の人員削減計画・退職者不補充と薬品部門への配置転換
    • [77]1980年10月発売のホスホマイシンが月商10億円超

乳業の側も同じ年に成熟の圧力を受けていた。1981年9月、副社長の島村靖三氏が前社長の病気入院に伴って社長に就任した。1947年9月に北海道大学農学部畜産科を出て同年11月に明治乳業へ入り、根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長となるまで、工場勤務が25年に及んだ人である。根室工場長の時代には、雪どけで道路が通れなくなった際に一晩でタンクを作らせ、1か月にわたって生乳の輸送をつないだこともあった。原料高と製品安が固定し、牛乳の乱売が続く局面で会社が立てたのは、販売でも財務でもなく生産の現場を長く見てきた人だった。原料高と製品安への対応策は、就任の時点では明かされなかった

  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [78]1981年9月 島村靖三が明治乳業社長に就任・前社長の病気入院による
    • [79]島村靖三 1947年9月 北海道大学農学部畜産科卒・同年11月 明治乳業入社
    • [80]島村靖三 根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長・工場勤務25年
    • [81]根室工場長時代 道路の不通に際し一晩でタンクを作らせ約1か月間の生乳輸送を確保
    • [82]乳製品業界は原料高の製品安で牛乳の乱売が続く厳しい時期の社長就任
    • [83]島村靖三は就任時に問題を解決する策はあるが今は言えないとして具体策を示さなかった
参考文献[71]-[83]
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [71]1980年3月期 明治製菓の食料部門 経常損益30億円の欠損
    • [72]1980年3月期 明治製菓の薬品部門 経常利益61億円
    • [73]菓子需要が7年連続で減少
    • [74]砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格が国際価格の2〜2.5倍
    • [75]中川赴社長 菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦
    • [76]3年間で500人の人員削減計画・退職者不補充と薬品部門への配置転換
    • [77]1980年10月発売のホスホマイシンが月商10億円超
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [78]1981年9月 島村靖三が明治乳業社長に就任・前社長の病気入院による
    • [79]島村靖三 1947年9月 北海道大学農学部畜産科卒・同年11月 明治乳業入社
    • [80]島村靖三 根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長・工場勤務25年
    • [81]根室工場長時代 道路の不通に際し一晩でタンクを作らせ約1か月間の生乳輸送を確保
    • [82]乳製品業界は原料高の製品安で牛乳の乱売が続く厳しい時期の社長就任
    • [83]島村靖三は就任時に問題を解決する策はあるが今は言えないとして具体策を示さなかった

1989年〜輸入自由化に向けた明治乳業の自社開発への転換

1989年6月、常務の中山悠氏が10代目の社長に就任した。常務の末席から8人を飛び越えた人事で、島村靖三前社長より13歳若い52歳、役員のなかで最年少だった。年功序列の慣行が強い業界で若返りを選んだ背景には、乳製品の輸入自由化によって乳業が国際化の局面へ入るという判断があった。中山氏は1960年に北海道大学農学部農芸化学科を出て入社し、生産部門が長く、1970年には会社の派遣で西ドイツへ留学している。1985年に東京副支社長兼東京支店長、1987年に常務東京支社長を務め、販売も経験した。就任後はまず常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設け、年齢差を置いた議論の場を作った。打ち出されたのは新しい路線ではなく、前社長の敷いた路線を引き継ぐ方針だった

  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
    • [84]1989年6月 中山悠が明治乳業の10代目社長に就任
    • [85]中山悠は常務の末席から8人を飛び越えて就任・前社長より13歳若い52歳・役員中最年少
    • [86]乳製品の輸入自由化により乳業界が国際化の局面へ入るとの判断
    • [87]中山悠 1960年 北海道大学農学部農芸化学科卒・同年入社/1970年 会社派遣で西ドイツへ留学
    • [88]中山悠 1985年 東京副支社長兼東京支店長・1987年 常務東京支社長
    • [89]社長就任後に常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設置
    • [90]中山悠は就任にあたり新しいことをやるのではなく前社長の敷いた路線の上を走ると表明

明治乳業は1970年から20年にわたり、アイスクリーム・チーズ・マーガリンの三事業で米ボーデンと提携し、ボーデンブランドの年間売上高は250億円に達していた。1990年の乳製品輸入自由化を機にボーデン側が日本での事業拡大と主導権を求めると、中山悠社長はこれを拒み、20年続いた提携の解消を決めた明治乳業は家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェアを持つレディボーデンを手放した。福田耕作専務は『開発力のない会社に未来はない』と述べ、提携下で制約されていた競合品の開発を解いて自社ブランドの構築へ切り替えた。高級アイスクリーム"彩"が、ボーデン離脱後の自社ブランド戦略の第一弾となった。

  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [91]1970年から20年 米ボーデンとアイスクリーム・チーズ・マーガリンで提携
    • [92]ボーデンブランドの年間売上高250億円
    • [93]1990年 乳製品輸入自由化を機にボーデンが日本での事業拡大と主導権を要求
    • [94]中山悠社長 ボーデンの要求を拒否し提携解消を決断
    • [95]レディボーデンは家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェア
    • [96]提携下で制約されていた競合品開発の解禁と自社ブランド構築への転換
    • [97]ボーデン離脱後の自社ブランド第一弾 高級アイスクリーム「彩」

1994年4月1日、明治乳業は中央研究所に集めていた食品分野の研究機関から技術開発研究部を切り出し、桑田有氏を所長として栄養科学研究所を開設した。栄養生理や免疫、病態代謝を扱う栄養研究部、乳児用の調製粉乳や経腸栄養剤を開発する応用技術研究部、安定性試験をGLPに準拠して行う試験分析センターの3部門で構成した。分割の理由は開発の周期の違いにあった。日持ちの短い飲用乳やヨーグルトは国内で作って間に合うが、バターと脱脂粉乳は輸入に頼らざるをえない。国内の乳業が食品の産業として残っていくには栄養を軸に据えるほかない、というのがこの読みから導かれた結論である。研究の側にも事情があった。3年に1つ商品を出す調製粉乳の研究室と、3つも4つもの案件を並行させるアイスクリームや飲料の研究室とでは、業績の評価を一つの研究所の中で揃えられなかった

  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
    • [98]1994年4月1日 中央研究所から技術開発研究部を独立させ栄養科学研究所を開設・初代所長は桑田有
    • [99]栄養科学研究所は栄養研究部・応用技術研究部・試験分析センターの3部門で構成
    • [100]フレッシュな製品は国内生産で賄えるがバター・脱脂粉乳は海外依存となる見通しから「栄養」をキーワードに据えた
    • [101]調製粉乳の研究室は3年に1つの商品、アイスクリームや飲料の研究室は同時に3つ4つを並行し、研究業績の評価が噛み合わない

研究の対象も広げた。ガットウルグアイラウンドの合意で主要乳製品が段階的に自由化されると、国内の酪農と乳業は、飲用乳やヨーグルトのような日持ちのしない製品に専念するか、高付加価値・低コスト型の商品を開発して国際競争へ入るかの選択を迫られた明治乳業が大きな市場を持つ調製粉乳では、極東や中東の市場ですでにネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーといった欧米勢と競合していた。ただし国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく、調製粉乳だけに拘っていては先がない。そこで糖尿病や腎疾患のように食事療法が重要な役割を果たす疾患へ向けた病態食や予防食、スポーツフードへ対象を広げ、乳児から高齢者までを射程に入れる方針を採った提携の解消も研究所の分割も、他社の看板を借りずに値を付けられる製品を自前で作る布石であった。

  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
    • [102]ガットウルグアイラウンドの結果、主要乳製品も徐々に自由化され、国内の酪農・乳業はフレッシュ製品への専念か国際競争への参入かの選択を迫られた
    • [103]調製粉乳では極東・中東の市場でネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーなど欧米勢と競合
    • [104]国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく調製粉乳だけでは企業の先がない
    • [105]病態食・予防食・スポーツフードへ対象を広げ乳児から高齢者までを射程に入れる
参考文献[84]-[105]
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
    • [84]1989年6月 中山悠が明治乳業の10代目社長に就任
    • [85]中山悠は常務の末席から8人を飛び越えて就任・前社長より13歳若い52歳・役員中最年少
    • [86]乳製品の輸入自由化により乳業界が国際化の局面へ入るとの判断
    • [87]中山悠 1960年 北海道大学農学部農芸化学科卒・同年入社/1970年 会社派遣で西ドイツへ留学
    • [88]中山悠 1985年 東京副支社長兼東京支店長・1987年 常務東京支社長
    • [89]社長就任後に常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設置
    • [90]中山悠は就任にあたり新しいことをやるのではなく前社長の敷いた路線の上を走ると表明
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [91]1970年から20年 米ボーデンとアイスクリーム・チーズ・マーガリンで提携
    • [92]ボーデンブランドの年間売上高250億円
    • [93]1990年 乳製品輸入自由化を機にボーデンが日本での事業拡大と主導権を要求
    • [94]中山悠社長 ボーデンの要求を拒否し提携解消を決断
    • [95]レディボーデンは家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェア
    • [96]提携下で制約されていた競合品開発の解禁と自社ブランド構築への転換
    • [97]ボーデン離脱後の自社ブランド第一弾 高級アイスクリーム「彩」
  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
    • [98]1994年4月1日 中央研究所から技術開発研究部を独立させ栄養科学研究所を開設・初代所長は桑田有
    • [99]栄養科学研究所は栄養研究部・応用技術研究部・試験分析センターの3部門で構成
    • [100]フレッシュな製品は国内生産で賄えるがバター・脱脂粉乳は海外依存となる見通しから「栄養」をキーワードに据えた
    • [101]調製粉乳の研究室は3年に1つの商品、アイスクリームや飲料の研究室は同時に3つ4つを並行し、研究業績の評価が噛み合わない
    • [102]ガットウルグアイラウンドの結果、主要乳製品も徐々に自由化され、国内の酪農・乳業はフレッシュ製品への専念か国際競争への参入かの選択を迫られた
    • [103]調製粉乳では極東・中東の市場でネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーなど欧米勢と競合
    • [104]国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく調製粉乳だけでは企業の先がない
    • [105]病態食・予防食・スポーツフードへ対象を広げ乳児から高齢者までを射程に入れる

第3章 2006-2011 (気が向いたら執筆します!) 明治製菓と明治乳業の経営統合による明治HD設立とMeiji Seikaファルマへの再編

第4章 2012-2021 (気が向いたら執筆します!) 浅野・松尾・川村社長の時代、Medreich買収とKMバイオロジクスの子会社化

第5章 2022-2026 (気が向いたら執筆します!) 原材料高とレプリコンワクチンの風評、26中期経営計画と松田克也社長

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歴史年表 1906〜2025年

明治ホールディングスの沿革1906〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1906〜1969年垂直統合から統制下の分社へ明治製糖を台湾に創立
東京菓子を設立(明治製菓の前身)
極東煉乳を設立(明治乳業の前身)
明治製菓に商号変更
川崎工場を新設(明治製菓初の近代的菓子工場)
明治ミルクチョコレートを発売★★
明治乳業を発足★★
川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失
ペニシリンの製造を開始★★
ストレプトマイシンの製造を開始
国生義夫カナマイシンを発売
国生義夫足柄工場(薬品原末)を開設
浅沼隆男スナック菓子「カール」を発売
1970〜2005年成熟市場での事業の入れ替え浅沼隆男ボーデンとのアイスクリーム提携を開始
小野正則明治ブルガリアヨーグルトを発売
小野正則きのこの山を発売
藤見敬譲菓子部門が初の大幅赤字を計上★★
藤見敬譲大型新薬ホスホマイシンを発売
藤見敬譲明治乳業がヘルスサイエンス研究所(MIH)を開設
藤見敬譲果汁グミを発売
藤見敬譲ボーデンとの20年間の提携を解消
2006〜2011年明治製菓と明治乳業の経営統合による明治HD設立とMeiji Seikaファルマへの再編藤見敬譲取得企業を置かない共同株式移転と、菓子・乳業から食品・医薬品への事業区分の引き直し

2008年9月11日、明治製菓と明治乳業の両取締役会が株式移転計画書を作成し、経営統合に関する統合契約書を締結した。同年11月の臨時株主総会で承認を得て、2009年4月1日、共同株式移転により明治ホールディングスが発足する。 明治製菓1株に持株会社0.1株、明治乳業1株に0.117株を割り当て、交付した新株式は76,341,700株。企業結合後の議決権比率は明治製菓49.73%、明治乳業50.27%となった。両社の株式は同年3月26日に上場廃止となり、持株会社が同日付で東京証券取引所市場第一部に上場した。

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佐藤尚忠明治HDを設立・東京証券取引所一部に上場
佐藤尚忠佐藤尚忠氏が社長に就任
佐藤尚忠グループ再編完了・明治製菓がMeiji Seikaファルマに商号変更★★
2012〜2021年浅野・松尾・川村社長の時代、Medreich買収とKMバイオロジクスの子会社化浅野茂太郎浅野茂太郎氏が社長に就任
松尾正彦松尾正彦氏が社長に就任
松尾正彦Medreich Limitedを子会社化
川村和夫川村和夫氏が社長に就任
川村和夫KMバイオロジクスを子会社化★★
2022〜2026年原材料高とレプリコンワクチンの風評、26中期経営計画と松田克也社長川村和夫原材料高・エネルギー高が本格的に業績を圧迫
川村和夫2024〜2026年度中期経営計画(26中期経営計画)を策定
川村和夫コスタイベ(レプリコンワクチン)の風評被害が顕在化★★
松田克也松田克也氏が社長に就任
出典・参考 11件
出典・参考
  • 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
  • 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
  • 日本企業要覧 1970年版(明治乳業)
  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)

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