明治乳業は、牛乳を売りたい会社としてではなく、砂糖を売りたい会社の都合から生まれた。台湾の蔗糖で資本を蓄えた明治製糖は、その余剰を砂糖の出口となる産業へ向けた。菓子も煉乳も、当時は砂糖を大量に使う加工品である。1917年の房総煉乳への出資が投資ではなく川下の確保だったことは、明治製糖がその経営を自ら執らず、同じ年に手に入れた東京菓子へ委ねたことに表れている。製糖会社が牛乳を扱うより、菓子会社が煉乳を扱うほうが、原料の調達も販路も重なる。乳業は独立した事業として始まったのではなく、砂糖という一つの原料を軸にした事業群の一部として始まった。
この生まれ方は、半世紀のあいだに三度、事業の器を作り変えさせた。一度目は1940年で、臨時資金調整法が菓子と乳業を別の資金区分へ置いたため、明治製菓は乳業部門を切り出し、すでに系列下にあった極東煉乳をその器に使った。二度目は戦時で、北海道の9工場を国策会社へ、東京と千葉の事業所を統制会社へ現物出資し、名前だけを残して工場を失った。三度目は戦後で、供出先となった東京乳業と朝日乳業をそのまま合併し、手放した事業地を買い戻した。器がどう変わっても、房総の煉乳所から積み上げた工場と販路は残り、そこへ戻ることが再建の道筋になった。
1906年12月29日、糖業技術者の相馬半治氏を専務取締役として、資本金500万円の明治製糖が創立総会を開催した。台湾総督府との折衝を重ねて台南州に本社と蒜頭工場の設置許可を得た同社は、渋沢栄一氏を相談役に迎え、大日本製糖・台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ四大製糖会社へ育った。1914年に始まった第一次世界大戦で世界の産糖の半ばを占める甜菜糖の主産地が戦場となると糖価は高騰し、明治製糖の業績はいよいよ上がって資本が蓄積された。当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で、製菓・製乳・果実かん詰めといった砂糖の関連事業の発達も日本の比ではなかった。大戦前に諸外国が東南アジアと南洋へ輸出していた菓子類はおよそ1千万円に上ったが、日本からの輸出は5万円にすぎなかった。
明治製糖はまず製菓事業へ入り、1916年11月に相馬半治氏と有島健助氏を創立委員として資本金150万円の大正製菓を起こしたが、その直前の同年10月9日に別系の東京菓子が資本金100万円で設立されていた。同種事業が分立する不利を避けるため、翌1917年3月に大正製菓は東京菓子へ合併された。乳業への出資はその翌月で、千葉県安房郡の房総煉乳が増資するのに際して明治製糖が資本参加した。房総煉乳は前年9月に磯貝・玉川の煉乳所と平群・滝田の製酪所を併せて設立された資本金7万5千円の会社である。明治製糖はこの経営を自ら執らず、東京菓子に任せた。砂糖の出口を自ら育てる多角化であり、原料と販路が重なる菓子会社へ煉乳を預けるほうが理に適っていた。1920年12月、東京菓子は房総煉乳を合併して煉乳部とした。
1923年9月の関東大震災で煉乳部は少なからぬ被害を受け、翌年には100万円へ減資した。この際に勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移し、中心工場を一つに絞った。並行して東京へ出て、1924年4月から京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を始め、同年9月に東京菓子は明治製菓へ商号を改めた。1927年5月には本所区亀沢町に両国工場を開設し、1928年10月からびん装の明治牛乳の卸売を始めた。両国工場長となった国生義夫氏は近代的なミルクプラントを導入し、びん詰め牛乳の量産に成功している。1934年には大阪市乳販売購買組合が経営していたミルクプラントを合併し、東京・横浜・大阪という消費地に足場を得た。保存の利く煉乳から毎日運ばねばならない市乳へ主力を移す判断は、工場を原料の産地から消費地へ引き寄せる選択でもあった。
1930年前後、スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出しようとした。鷲印練乳のネッスル社は関東大震災の際に大量の無関税乳製品を持ち込んで以来これを企図し、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉を重ねた末に藤井煉乳と提携した。牧場を併営する無糖練乳のカーネーション社は伊豆畜産販売購買利用組合と組んだ。国産の煉乳は輸入の鷲印煉乳の販路を押し戻して国内需要のおよそ7割を占めるに至っており、業界は練乳の生産と販売の協定を結び、乳製品共同販売と共同国産煉乳の2社を設立して進出を防いだ。明治製菓は1930年4月に煉乳部を東京の本社へ移して製乳部と改称し、外資への対応と事業の拡張をいずれも本社の直轄に置いた。
1938年4月に市乳部が置かれ、同年7月には1日平均の市乳処理量が100石を超えた。乳業が製乳と市乳の2部に育った一方、臨時資金調整法は乳業と製菓を別々の資金の区分に置いていた。そこで明治製菓は乳業部門の独立分離を決め、器には1917年12月に馬越恭平氏を社長として資本金150万円で設立され、1935年から明治製菓が経営を担当していた極東煉乳を用いた。1940年12月6日に結んだ経営委任の仮契約は、極東煉乳が明治製菓の乳業に関する一切の事業場と設備、商標を自己の名で使って経営し、総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分を明治製菓へ支払うと定めた。契約は同時に、極東煉乳が可能な最短期間で商号を明治乳業へ変更することも定めていた。同月27日、明治乳業が発足した。
発足の翌1941年3月、有限会社北海道興農公社の設立に際して、明治製菓と極東煉乳は釧路・帯広・旭川・札幌ほか9つの乳製品工場を現物出資した。北海道の生産拠点を失った明治乳業は、1943年に明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲り受け、内地の事業へ専念した。この譲受には設備代金204万7,482円73銭を支払い、経営委任契約の解除補償金132万3,469円は1943年9月から1950年3月まで14回に分けて納めた。原資は350万円の増資で、資本金は500万円となった。1945年には東京牛乳乳製品統制会社の設立に東京都内のミルクプラント全部を、千葉県酪業の設立に千葉県内の事業所全部を現物出資した。統制は工場を国策会社と統制会社へ移して進み、発祥の地である安房の工場まで手元から離れた。
1950年、乳業の統制は3か月のうちに解けた。1月1日に配給規則が切符制から予約制へ改まり、バターの物品税が廃止された。2月22日には東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定が解除され、公定価格も同日廃止された。4月1日には食料品配給公団が廃止され、練粉乳の配給と価格の統制も撤廃された。10年の統制から解かれた市乳の需要は跳ね上がり、1950年下期の処理量は前年同期の5倍、1948年の20倍に達した。集乳量は1949年の時点ですでに戦前の記録を更新していた。明治乳業はこの需要に処理能力で応え、1952年5月に日平均300石の烏山工場を、1954年7月に日平均200石の戸田橋工場を新設し、京浜各工場の機械を最新式のものへ更新した。
事業地の回復は合併で進んだ。1950年12月、戦時に東京都内のミルクプラントを供出した相手である東京乳業を合併して両国・烏山・八王子・江戸川の4工場を取り戻し、同時に湘南牛乳を合併して鎌倉工場を加えた。これによって10数年ぶりに関東の市乳へ自由に進出できるようになった。翌1951年12月には千葉県内の事業所を供出した先である朝日乳業を合併し、勝山・滝田・館山・主基の4工場を回復した。創業の地である安房の事業地がここで戻った。北海道へは、過度経済力集中排除法の指令で北海道酪農協同から今金工場を譲り受けたのを足がかりに再進出し、1953年から54年にかけて帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設した。資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円まで、統制解除後の10年でおよそ9倍に膨らんだ。
戦後の明治乳業を支えたのは薬品だった。1946年に大阪工場へペニシリンの製造設備を新設し、1950年3月に30トンタンク3基で量産へ移った。1953年9月期には2兆5,000億単位を生産して全国占有率13%を記録し、以後も生産を伸ばして国内最大のペニシリンメーカーとなった。ところが1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合で市況は急に悪化し、総売上の1割前後を占めていた製薬部門の販売高比率は同年9月期に1%を割った。ショック死が体質に由来すると立証され市況は戻ったが、1957年から明治製菓との間でペニシリン事業の調整統合が話し合われ、1958年4月1日、大阪工場は明治製菓淀川工場として再発足した。乳業へ絞り直した明治乳業は同じ日に全国8営業所を設け、1968年度には年商1,000億円に迫った。
同じ源流を持つ二つの会社が、1980年前後に同じ形の問題へ突き当たった。明治製菓では菓子の需要が7年続けて減り、明治乳業では牛乳の乱売が止まらなかった。どちらも売る量が消えたわけではない。薄くなったのは、一単位に乗せられる利幅のほうである。明治乳業の売上高は1977年3月期の2,413億円から1980年3月期の2,933億円へ伸びたのに、経常利益は43億円から32億円へ減った。国内の市場が成熟し、原料も製品も他社と同じ土俵で値が決まる領域では、工場を増やしても答えにならない。
二社が出した答えは、市場を替えることではなく、扱う品の値決めを自分の側へ取り戻すことだった。明治製菓は菓子の人員を薬品へ移し、ホスホマイシンのような自社の新薬で利益を作った。明治乳業は20年続いた米ボーデンとの提携を解き、レディボーデンの6割のシェアを手放してまで自社ブランドへ戻り、1994年には栄養科学研究所を割って病態食や経腸栄養剤へ研究の的を移した。輸入自由化で他社の製品が同じ棚に並ぶなら、借りた看板ではなく自分で値を付けられる製品が要る。統合の8年前、二社はすでに同じ方向を向いていた。
1970年代の明治乳業は、売上を増やしながら利益を減らした。1977年3月期は売上高2,413億2百万円に対して経常利益43億40百万円、1980年3月期は売上高2,933億22百万円に対して経常利益32億54百万円で、3年間で売上が2割増える一方、経常利益は4分の1減った。売上高に対する経常利益の比率は1.8%から1.1%へ低下している。乳製品業界は原料が高く製品が安い状態に置かれ、とりわけ牛乳は乱売が続いていた。1980年3月期の純利益は14億55百万円にとどまり、配当は12%を据え置いた。量を積むほど一単位あたりの利幅が薄くなる構造であり、処理能力を増やしても手元に残るのは固定費と減価償却の負担だった。
設備の資金は増資でまかなった。1970年3月末に資本金40億円・発行済株式8,000万株だった同社は、1980年3月末に資本金95億5,083万円・1億9,101万6,594株となっている。株主数はこの間に2万6,702名から2万5,094名へわずかに減り、持ち株は法人へ寄った。1980年3月末の所有者別構成は、金融機関63名で47.30%、その他の法人194名で13.30%、一般株主2万4,784名で37.08%である。筆頭株主は第一勧業銀行の8.08%で、日本生命保険が6.24%、朝日生命保険が5.18%と続いた。同じ源流から出た明治製菓は2.80%を持つ第6位にすぎず、二社は資本の上でほとんど結ばれていなかった。
1980年3月期、明治製菓の食料部門は経常損益で30億円の欠損を計上し、薬品部門は61億円の黒字でこれを補った。国内の菓子需要は7年連続で減少し、原料となる砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格は国際価格の2〜2.5倍で高止まりしていた。中川赴社長は菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦を掲げ、退職者の不補充と薬品部門への配置転換を軸に3年間で500人の削減を計画した。同年10月に発売した大型新薬ホスホマイシンは月商10億円を超え、菓子の欠損を埋めた。中川赴社長は『菓子は生活必需品から嗜好品的の要素が強まってきました』と語った。菓子という祖業で稼げなくなった会社が、発酵という自社の技術を薬へ振り向けた判断であった。
乳業の側も同じ年に成熟の圧力を受けていた。1981年9月、副社長の島村靖三氏が前社長の病気入院に伴って社長に就任した。1947年9月に北海道大学農学部畜産科を出て同年11月に明治乳業へ入り、根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長となるまで、工場勤務が25年に及んだ人である。根室工場長の時代には、雪どけで道路が通れなくなった際に一晩でタンクを作らせ、1か月にわたって生乳の輸送をつないだこともあった。原料高と製品安が固定し、牛乳の乱売が続く局面で会社が立てたのは、販売でも財務でもなく生産の現場を長く見てきた人だった。原料高と製品安への対応策は、就任の時点では明かされなかった。
1989年6月、常務の中山悠氏が10代目の社長に就任した。常務の末席から8人を飛び越えた人事で、島村靖三前社長より13歳若い52歳、役員のなかで最年少だった。年功序列の慣行が強い業界で若返りを選んだ背景には、乳製品の輸入自由化によって乳業が国際化の局面へ入るという判断があった。中山氏は1960年に北海道大学農学部農芸化学科を出て入社し、生産部門が長く、1970年には会社の派遣で西ドイツへ留学している。1985年に東京副支社長兼東京支店長、1987年に常務東京支社長を務め、販売も経験した。就任後はまず常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設け、年齢差を置いた議論の場を作った。打ち出されたのは新しい路線ではなく、前社長の敷いた路線を引き継ぐ方針だった。
明治乳業は1970年から20年にわたり、アイスクリーム・チーズ・マーガリンの三事業で米ボーデンと提携し、ボーデンブランドの年間売上高は250億円に達していた。1990年の乳製品輸入自由化を機にボーデン側が日本での事業拡大と主導権を求めると、中山悠社長はこれを拒み、20年続いた提携の解消を決めた。明治乳業は家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェアを持つレディボーデンを手放した。福田耕作専務は『開発力のない会社に未来はない』と述べ、提携下で制約されていた競合品の開発を解いて自社ブランドの構築へ切り替えた。高級アイスクリーム"彩"が、ボーデン離脱後の自社ブランド戦略の第一弾となった。
1994年4月1日、明治乳業は中央研究所に集めていた食品分野の研究機関から技術開発研究部を切り出し、桑田有氏を所長として栄養科学研究所を開設した。栄養生理や免疫、病態代謝を扱う栄養研究部、乳児用の調製粉乳や経腸栄養剤を開発する応用技術研究部、安定性試験をGLPに準拠して行う試験分析センターの3部門で構成した。分割の理由は開発の周期の違いにあった。日持ちの短い飲用乳やヨーグルトは国内で作って間に合うが、バターと脱脂粉乳は輸入に頼らざるをえない。国内の乳業が食品の産業として残っていくには栄養を軸に据えるほかない、というのがこの読みから導かれた結論である。研究の側にも事情があった。3年に1つ商品を出す調製粉乳の研究室と、3つも4つもの案件を並行させるアイスクリームや飲料の研究室とでは、業績の評価を一つの研究所の中で揃えられなかった。
研究の対象も広げた。ガットウルグアイラウンドの合意で主要乳製品が段階的に自由化されると、国内の酪農と乳業は、飲用乳やヨーグルトのような日持ちのしない製品に専念するか、高付加価値・低コスト型の商品を開発して国際競争へ入るかの選択を迫られた。明治乳業が大きな市場を持つ調製粉乳では、極東や中東の市場ですでにネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーといった欧米勢と競合していた。ただし国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく、調製粉乳だけに拘っていては先がない。そこで糖尿病や腎疾患のように食事療法が重要な役割を果たす疾患へ向けた病態食や予防食、スポーツフードへ対象を広げ、乳児から高齢者までを射程に入れる方針を採った。提携の解消も研究所の分割も、他社の看板を借りずに値を付けられる製品を自前で作る布石であった。
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|---|---|---|---|---|
| 1906〜1969年垂直統合から統制下の分社へ | 明治製糖を台湾に創立 | ★ | ||
| 東京菓子を設立(明治製菓の前身) | ★ | |||
| 極東煉乳を設立(明治乳業の前身) | ★ | |||
| 明治製菓に商号変更 | ★ | |||
| 川崎工場を新設(明治製菓初の近代的菓子工場) | ★ | |||
| 明治ミルクチョコレートを発売 | ★★ | |||
| 明治乳業を発足 | ★★ | |||
| 川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失 | ★ | |||
| ペニシリンの製造を開始 | ★★ | |||
| ストレプトマイシンの製造を開始 | ★ | |||
| 国生義夫 | カナマイシンを発売 | ★ | ||
| 国生義夫 | 足柄工場(薬品原末)を開設 | ★ | ||
| 浅沼隆男 | スナック菓子「カール」を発売 | ★ | ||
| 1970〜2005年成熟市場での事業の入れ替え | 浅沼隆男 | ボーデンとのアイスクリーム提携を開始 | ★ | |
| 小野正則 | 明治ブルガリアヨーグルトを発売 | ★ | ||
| 小野正則 | きのこの山を発売 | ★ | ||
| 藤見敬譲 | 菓子部門が初の大幅赤字を計上 | ★★ | ||
| 藤見敬譲 | 大型新薬ホスホマイシンを発売 | ★ | ||
| 藤見敬譲 | 明治乳業がヘルスサイエンス研究所(MIH)を開設 | ★ | ||
| 藤見敬譲 | 果汁グミを発売 | ★ | ||
| 藤見敬譲 | ボーデンとの20年間の提携を解消 | ★ | ||
| 2006〜2011年明治製菓と明治乳業の経営統合による明治HD設立とMeiji Seikaファルマへの再編 | 藤見敬譲 | 取得企業を置かない共同株式移転と、菓子・乳業から食品・医薬品への事業区分の引き直し 2008年9月11日、明治製菓と明治乳業の両取締役会が株式移転計画書を作成し、経営統合に関する統合契約書を締結した。同年11月の臨時株主総会で承認を得て、2009年4月1日、共同株式移転により明治ホールディングスが発足する。 明治製菓1株に持株会社0.1株、明治乳業1株に0.117株を割り当て、交付した新株式は76,341,700株。企業結合後の議決権比率は明治製菓49.73%、明治乳業50.27%となった。両社の株式は同年3月26日に上場廃止となり、持株会社が同日付で東京証券取引所市場第一部に上場した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 佐藤尚忠 | 明治HDを設立・東京証券取引所一部に上場 | ★ | ||
| 佐藤尚忠 | 佐藤尚忠氏が社長に就任 | ★ | ||
| 佐藤尚忠 | グループ再編完了・明治製菓がMeiji Seikaファルマに商号変更 | ★★ | ||
| 2012〜2021年浅野・松尾・川村社長の時代、Medreich買収とKMバイオロジクスの子会社化 | 浅野茂太郎 | 浅野茂太郎氏が社長に就任 | ★ | |
| 松尾正彦 | 松尾正彦氏が社長に就任 | ★ | ||
| 松尾正彦 | Medreich Limitedを子会社化 | ★ | ||
| 川村和夫 | 川村和夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 川村和夫 | KMバイオロジクスを子会社化 | ★★ | ||
| 2022〜2026年原材料高とレプリコンワクチンの風評、26中期経営計画と松田克也社長 | 川村和夫 | 原材料高・エネルギー高が本格的に業績を圧迫 | ★ | |
| 川村和夫 | 2024〜2026年度中期経営計画(26中期経営計画)を策定 | ★ | ||
| 川村和夫 | コスタイベ(レプリコンワクチン)の風評被害が顕在化 | ★★ | ||
| 松田克也 | 松田克也氏が社長に就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(明治ホールディングス)