1906年〜 製糖帝国の形成と三源流への分裂がはじまった時代
- 1906年明治製糖を台湾に創立
- 1916年東京菓子を設立(明治製菓の前身)
- 1917年極東煉乳を設立(明治乳業の前身)
- 1924年明治製菓株式会社に社名変更
- 1925年川崎工場を建設(明治製菓初の近代的菓子工場)
- 1926年明治ミルクチョコレートを発売
- 1945年川崎工場が空襲で全焼・海外資産を喪失
明治ホールディングスの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
製糖会社が菓子会社と乳業会社を生んだ理由
1906年12月、糖業家の相馬半治が台湾台南に資本金500万円で明治製糖を設立した。日本統治下の台湾は蔗糖の産地として理想的な立地であり、明治製糖は大正から昭和初期にかけて産糖高500万ピクル以上を誇る事業体へ成長した。しかし相馬家氏は製糖業だけにとどまらなかった。1916年には国内の砂糖消費を増やす目的で濱田録之助が菓子会社「東京菓子」(後の明治製菓)を設立し、相馬家氏もこれに参画して、さらに乳業分野にも進出した。砂糖を大量に消費する菓子事業と乳業事業を自社で育てることで、製糖事業の需要基盤を内製化するという垂直統合の発想が根底にあった。需要側まで囲い込む発想が、のちのグループの基本構造を形作った。 [1][2][3][4][5][6]
- 明治ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1906年12月に相馬半治が明治製糖を設立した
- [2]明治製糖の創業者は糖業家の相馬半治である
- [3]明治製糖の設立時資本金は500万円だった
- [4]明治製糖は台湾台南で設立された
- [5]1916年に菓子会社「東京菓子」(後の明治製菓)が設立された
- [6]東京菓子を設立したのは濱田録之助で、相馬半治は参画した
1940年には乳業部門が「明治乳業」として独立し、製糖・製菓・乳業という三つの柱が揃う明治グループが一応の完成を見た。しかし1945年の敗戦でこの三社体制の完成は崩れた。財閥解体によってグループ内の資本関係は断ち切られ、台湾に保有していた膨大な外地資産は戦後処理のなかで失われた。製糖・製菓・乳業の三社はそれぞれ独立した企業として戦後復興の再出発を強いられ、親元の明治製糖は1984年の解散まで細々と製糖事業を続けながら子会社たちの成長を見続けた。相馬家氏が構想した垂直統合の輪は、外地資産と資本関係を同時に失った敗戦の衝撃で分断されたまま、戦後の国内市場で別個の道を歩み始めた。ここに60年以上にわたる三社分裂の時代の起点があった。 [7]
- 明治ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1940年に乳業部門が「明治乳業」として独立(発足)した
- 明治ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1906年12月に相馬半治が明治製糖を設立した
- [2]明治製糖の創業者は糖業家の相馬半治である
- [3]明治製糖の設立時資本金は500万円だった
- [4]明治製糖は台湾台南で設立された
- [5]1916年に菓子会社「東京菓子」(後の明治製菓)が設立された
- [6]東京菓子を設立したのは濱田録之助で、相馬半治は参画した
- [7]1940年に乳業部門が「明治乳業」として独立(発足)した
廃墟の発酵タンクでペニシリンを始めた判断
1945年1月の空襲で明治製菓の川崎工場は全焼した。廃墟のなかで経営陣が選んだのは、菓子の復興ではなかった。1946年11月、同社は戦争末期から取り組んできたペニシリンの製造を正式に開始した。背景には実務的な根拠があった。発酵で菓子素材を大量培養していた技術と設備が、抗生物質の生産にそのまま転用できた。戦後の物資不足のもとで、砂糖などの菓子原料を調達するよりも、高い付加価値をもつ抗生物質を作るほうが事業として成立した。1950年にはストレプトマイシン、1958年には梅沢浜夫博士が発見した国産初の抗生物質カナマイシンの商業化に成功し、自社研究開発型の製薬メーカーとしての地位を固めた。 [8][9][10]
- 日経ビジネス 1980/8/25
- [8]1946年11月に明治製菓がペニシリンの製造を開始した
- [9]1950年にストレプトマイシンの製造を開始した
- 明治製菓の歩み:創立から50年(明治製菓)
- [10]1958年に梅沢浜夫博士が発見した国産初の抗生物質カナマイシンを商業化した
1958年の「カナマイシン明治」発売は、国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士が研究室で見出した新抗生物質「KJ」を、明治製菓が工業化まで担うという産学連携の帰結だった。川崎工場の薬品部長と工場長が1955年秋から3年がかりで動物実験・臨床試験・量産工程設計までを一貫して担当し、約2億円を先行投資して原末から製剤までの内製化を達成した。菓子と抗生物質をつなぐ発酵技術の共通性は、発売から7年後の1965年、細井徳次郎社長が業界誌インタビューで明言している。 [11][12]
- 明治製菓の歩み:創立から50年(明治製菓)
- [11]カナマイシンの工業化に1955〜1958年で約2億円を先行投資した
- 経済時代 1965年12月号(30巻12号)
- [12]1965年当時の明治製菓社長は細井徳次郎である
この医薬品参入経路の独自性は小さくない。食品製造で培った発酵技術を医薬品領域へ本格転用したメーカーは世界的にも珍しく、発酵技術を生かして原末から製剤まで一貫して手がける独特の製薬メーカーとして、業界紙でも特筆された(日経ビジネス 1980/8/25)。後年に繰り返し語られる「食と医の融合」という経営スローガンの歴史的な根拠は、戦後復興期の廃墟で下された一つの経営判断のなかにはっきりと見てとれる。当時の抗生物質市場の多くが外資からの製剤購入に依存していたなかで、菓子メーカーが発酵プラントの余力を使って国産抗生物質の一貫生産に踏み込んだ事例は例外的であり、食品と医薬品という二つの主軸を持つ経営モデルはここで骨格を得た。他社には真似のできない独自の出自を、明治グループはこのとき手に入れた。
- 日経ビジネス 1980/8/25
- [8]1946年11月に明治製菓がペニシリンの製造を開始した
- [9]1950年にストレプトマイシンの製造を開始した
- 明治製菓の歩み:創立から50年(明治製菓)
- [10]1958年に梅沢浜夫博士が発見した国産初の抗生物質カナマイシンを商業化した
- [11]カナマイシンの工業化に1955〜1958年で約2億円を先行投資した
- 経済時代 1965年12月号(30巻12号)
- [12]1965年当時の明治製菓社長は細井徳次郎である
東洋一の抗生物質工場が意味するもの
1963年、明治製菓は抗生物質の原末を製造する足柄工場を開設した。抗生物質培養タンクの総容量は4,500トンに達し、国内最大かつ世界でもトップ5位以内に入る規模だった。原末製造から製剤までを一貫で手がける内製型メーカーとしての投資の本気度を、業界内外に示した。競合の多くが外資から製剤を仕入れて販売する形態を取っていた当時の日本市場で、明治製菓は原末から一貫生産する重い道をあえて選んだ。これは固定費負担と引き換えに、原価面での競争力と品質の一貫管理を同時に手に入れる戦略的な決断だった。他社との差別化の源泉が、この工場投資のなかに埋め込まれていた。 [13][14]
- 日経ビジネス 1980/8/25
- [13]足柄工場の抗生物質培養タンク総容量は4,500トンに達した
- [14]抗生物質培養タンク容量は国内最大かつ世界トップ5位以内の規模だった
当時の明治製菓の売上構成は食料部門60%、薬品部門40%と食料部門のほうが大きかったが、研究開発費の配分はおよそ80%が薬品部門に集中していた。菓子部門が生み出す安定収益で薬品部門の研究開発を支えるという特異な構造は、高齢化で医薬品需要が伸び続けた1970〜80年代まで成立した。薬品売上に対する研究開発費比率は7.3%であり、製薬業界の平均を上回る水準を維持した。足柄工場の建設はこの独特な経営構造の起点であり、カナマイシン(1958)、ホスホマイシン(1980)、カルベニン(1987)と続く国産抗生物質の開発拠点としても役割を担った。収益の柱は食品で、投資の柱は医薬品という、一つの企業に二つの論理が同居するねじれた構造が、以後およそ四半世紀にわたってグループの基本設計を規定した。 [15][16]
- 日経ビジネス 1980/8/25
- [15]ホスホマイシンは1980年に発売された
- 明治ホールディングス 有価証券報告書
- [16]カルベニンは1987年に発売された
1963年時点の明治製菓は国内に11工場・従業員約4,000人の製造網を展開しており、川崎工場(1,349人)は菓子と薬品を併産するグループ最大の拠点、淀川工場(286人)は薬品専業と、抗生物質事業は足柄の新設を待たずに複数拠点で既に稼働していた。戦前に明治製糖の垂直統合の輪に組み込まれていた製造・販売の体制は、敗戦を経ても現場の生産能力としては残り、各事業所が独立企業としての土台を支える形で稼働し続けた(ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版)。 [17][18][19]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(ダイヤモンド社)
- [17]1963年時点の明治製菓は11工場・従業員約4,000人だった
- [18]1963年の川崎工場は従業員1,349人でグループ最大だった
- [19]1963年の淀川工場は従業員286人の薬品専業拠点だった
- 日経ビジネス 1980/8/25
- [13]足柄工場の抗生物質培養タンク総容量は4,500トンに達した
- [14]抗生物質培養タンク容量は国内最大かつ世界トップ5位以内の規模だった
- [15]ホスホマイシンは1980年に発売された
- 明治ホールディングス 有価証券報告書
- [16]カルベニンは1987年に発売された
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(ダイヤモンド社)
- [17]1963年時点の明治製菓は11工場・従業員約4,000人だった
- [18]1963年の川崎工場は従業員1,349人でグループ最大だった
- [19]1963年の淀川工場は従業員286人の薬品専業拠点だった