日清製粉の創業者である正田貞一郎氏野生まれである「正田家」は、群馬県館林に拠点を置く米穀商と醤油醸造を経営する裕福な家柄であった。
正田貞一郎氏は正田家の分家の生まれということもあり、本家が営む醤油とは別の事業を起こすことを考え、群馬県の地元で産出される小麦に着眼。それまでの製粉業界では「水車動力」を用いた製粉が主流であったが、正田貞一郎氏は「機械」を活用した近代的な製粉業の起業を決めた。
1900年10月27日(明治33年)に館林製粉株式会社の創立総会を実施。本社は地元の群馬県館林町に設置し、製粉業の準備を開始した。
ただし、製粉機械「ローラーミル」を米国から三井物産経由で輸入することや、館林には電気が通っていないため自家発電設備を準備する必要があるなど、創業直後から順調に製粉を開始できたわけではなかった。
したがって、機械式製粉業の立ち上げにあたっては、輸入機械の購入や、工場の新設、小麦原料の確保など、相応の投資が必要な事業であった。この点に関しては、正田家が醤油業による事業基盤を持っており、製粉業の参入に際して先行投資に耐える財務基盤が支えになったと推定される。
これらの手配を完了し、創立総会から約10ヶ月が経過した明治34年8月25日に製粉工場の稼働を開始した。小麦粉の原料は、佐野・石岡・土浦・水戸などの周辺産地から買い付けを実施。完成した小麦粉は「製麺用」として供給した。
館林製粉の創業時において、鉄道が開通していなかったため、原料や製品の輸送に支障をきたす事態となっていた。
そこで、正田貞一郎氏は、東武鉄道の根津嘉一郎社長に相談。東武鉄道としては、利根川の架橋にあたって巨額投資が必要な状況であったが、正田氏の要請もあり館林に至る鉄道路線(足利市駅〜川俣駅)を一部開通させ、これに合わせて1907年に館林駅が開業した。
東武鉄道の開通と同時に、館林製粉は「東武鉄道館林駅前」に製粉工場を移転拡張する形で新設。加えて、館林製粉の取締役として東武鉄道の根津氏を迎え入れた。東武鉄道の開通により、館林製粉は製品輸送におけるボトルネックを解消し、全国への出荷が可能な体制となった。
旧日清製粉は明治39年に神奈川県の資産家によって設立された製粉会社であったが、新鋭工場を横浜に建設中であったが不況に直面して経営難に陥っていた。そこで、館林製粉は東京圏への進出のために、旧日清製粉の合併を決定。さらに、合併後の商号を「日清製粉」に変更し、本社を群馬県館林から東京都日本橋に移転。群馬県の製粉会社から、国内の大手製粉会社になるべく、東京への進出を意図した。
オーストラリアにおける製粉事業を拡大するため、2019年に現地の大手メーカーAllied Pinnacle(アライド・ピナクル)を買収。買収価格は468億円(取得原価)であり、日清製粉としては大型買収となった。すでに日清製粉は株式20%を保有していため、2019年の買収によって株式80%を追加取得する形をとった。
買収の狙いは豪州で製造した製粉を、アジア圏に向けて輸出する点にあった。また、Allied社は製菓・製パン向けのミックス粉の製造にも注力しており、日清製粉は、アジア圏の経済成長による食の洋風化を見据えて、買収に踏み切った。