歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1900年、水車粉と輸入粉が国内消費の9割を占めるなか、正田貞一郎氏が群馬県館林で館林製粉を創業した。米穀商と醤油醸造を営む正田家の分家として家業で蓄えた資本を、米国製の機械式ローラーミルという高額設備に投じ、麦産地の上州で挽いた小麦粉を東武鉄道の延伸で全国へ送り出した。機械製粉がまだ1割に満たない市場で、後発の不利を資本の先行投資と機械化で飛び越え、規模を広げて稼ぐ道を選んだ。
決断1928年に稼働した鶴見の「海工場」が、その後の収益構造を決定づけた。岸壁に本船を直付けし真空吸引で輸入小麦を受け入れる港湾立地への先行投資で原料調達と処理の両面で他社を引き離し、不況のたびに経営難の同業を吸収して国内シェア約35%の寡占を築いた。戦後は食糧管理法の下で政府が標準価格を維持し、価格転嫁の慣行に守られた安定収益が、飼料・食品・医薬へ広げる多角化と海外製粉買収を賄った。
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1900年〜1948年 機械製粉導入と戦前拡張、空襲で失った5工場
水車粉9割の市場で起業した正田家の機械製粉
1900年に群馬県館林で正田貞一郎が館林製粉(現・日清製粉)を創業[1]。米国から最新鋭の機械式ローラーミルを輸入して製粉業に参入した新興企業であった。当時の国内市場は伝統的な水車粉と輸入粉が消費のおよそ9割を占めており、機械式製粉は1割未満にとどまっていた[2]。正田家は地元の館林で営んできた米穀商や醤油醸造業で培った財務基盤をもち、高額な機械輸入と自家発電設備の先行投資に耐えうる資本力を備えており、家業の多角化として機械製粉に新規参入を果たした。
正田貞一郎がどうして製粉事業を創めることになったかについては、その談話にも出ているが、貞一郎は醤油業をやりながら、自分は分家だから、本来醬油の方をやるべきではない。自分で自分の仕事をやろうという考えは一日も忘れたことがなかった。たまたま上州は麦の産地で、館林附近は水車粉の盛んなところであったので、それが一つの着想となった。当時わが国でも機械製粉がボツポツ起っていた頃であり、また貞一郎の高商の同窓の福井國太郎氏が、三井物産の機械係をしていたので、この人から外国の機械の話を聞いたこともあり、もともと自分でも小麦を取扱っていた関係から製粉事業への関心が高まって来た。
ボトルネックであった輸送については、東武鉄道の館林延伸(1907年)が製品出荷のボトルネックを解消して全国への出荷を開始。群馬地区における小麦粉を全国に出荷する事業をスタートさせた。
1908年に館林製粉は経営難に陥っていた横浜の日清製粉(旧会社)を合併し、日清製粉の社名を継承[3]。本社機能を群馬県館林から東京へ移し、地方の製粉会社から国内業界の再編を主導する立場へ転じた[4]。日露戦争後に各地で乱立した製粉会社が不況のたびに経営難に陥る業界構造をとらえ、"合理的経営"を社是に掲げたうえで、国内工場の合併吸収により生産規模を拡大した。大正年間には5工場を新設し4工場を合併し、生産能力を1万バーレル超まで拡大させ、国内製粉業界の集約を主導。業界再編による規模の経済の追求が、日清製粉における製粉業の成功体験となった。
鶴見海工場と輸出1,500万袋の到達点
1928年に第二期工事がほぼ完成した鶴見工場は能力7,000バーレルで当時の国内最大級であり、これにより同社の全能力は1万9,400バーレルに増加し全国第一位となった[5]。臨海の岸壁に直接本船を着岸させ、真空吸い上げ機で原料を自動受入する、いわゆる「海工場」として、輸入小麦の大量処理と品質管理を同時に成り立たせた拠点であった。投下した建設資金は800万円、資本金1,200万円の会社としては相応の決断を要した規模であった[6]。
鶴見工場は大正十二年末に工を起し、大正十五年二月第一期工事が完成、昭和三年第二期工事がほぼ完成して、日産能力七千バーレルとなり、これにより當社の全能力は一万九千四百バーレルに増加して、全国第一位となった。東洋最大の工場で、投下した建設資金は八百万円、今なら約二十四億円に相当する。資本金一千二百万円の會社としては、清水の舞台から飛下りるほどの決断を要したことであろう。専務取締役正田貞一郎の熟慮断行によるものであって、建設の理由は大正二年の外遊の際一寸触れたが、第一には、マンチェスターの製粉工場で、岸壁に大型汽船が横付けになって、ニューマチックポンプで原料を吸揚げるのを見たこと、第二には、日本の製粉業発展には輸出が必要であると判断したこと等である。
鶴見建設の狙いは専務取締役・正田貞一郎が1913年の外遊でマンチェスターの製粉工場を視察し、岸壁に汽船が横付けされニューマチックポンプで原料を吸い上げる光景に接した経験と、日本の製粉業発展には輸出が必要であるという判断による[7]。
鶴見工場の能力拡張は、小麦粉輸出をもう一本の成長の柱に育てる前提となった。カナダ産の下級小麦を高品質に仕立てる独自の製品化技術と鶴見工場の処理能力が国際競争力の源泉となり、1933年の小麦粉輸出量は1,500万袋の過去最高を記録した[8]。これは当年の国内販売量のおよそ半分に相当する輸出量で、日清製粉はグローバル市場でも頭角を表した。鶴見以降も汽船岸壁直付け方式の臨海工場を国内で先行整備し、原料の受入から製品の船積みまでを一拠点で完結させる「海工場」という事業構想により、製粉シェアの確保に注力した。
戦時統制下の不急産業指定と1945年5工場焼失
第二次世界大戦の勃発が製粉業界の状況を一変させた。軍の統制下で製粉業は「不急産業」として整備対象に指定され、工場の運転禁止処分が相次いで発令された。輸出を前提に積み上げた鶴見工場の能力は、原料輸入の途絶と統制経済への移行で稼働の機会を奪われ、戦前期に組み上げた業界首位の生産体制は、軍需に直接寄与しない産業として一律に縮小した。輸出の柱を失い、国内消費向けの稼働も統制で抑え込まれる二重の制約のもとで、戦前拡張の前提が崩れていった。
1945年の空襲により、日清製粉は岡山、宇都宮、鶴見、水戸、鳥栖という主力の5工場が相次いで焼失した[9]。終戦時点の残存能力は4,958バーレルと、戦前最高の5分の1以下まで低下[10]。臨海立地で輸出を支えた鶴見工場も焼失工場の中に含まれており、戦前30年余りで積み上げた設備資産の大部分が一年間の戦災で失われた。このため、残存設備のみで戦後復興を開始した。
1949年〜1974年 戦後復興と能力増強、5本柱体制への準備
援助小麦と食糧管理制度下の戦後製粉能力急回復
戦時中の空襲により製粉能力を低下させたが、戦後は政策的な後押しにより業容を拡大した。戦後の国内では食糧難の解消が最優先課題となり、政府の後押しにより食糧管理制度のもとで小麦の国内供給量を戦前の3倍規模まで拡大。加えて米国からの援助小麦、いわゆる"ガリオア・エロア援助"によってパン食の普及が後押しされ、日清製粉の売上を拡大する追い風となった。ただし、原料調達と販路は国の制度によって設計され、同業他社との差が生まれにくい構造を伴っていた。
焼失工場の再建は政府補助金と自己資本を組み合わせて資金調達されたが、その代償として創業正田家の株式持分は希薄化した。1962年3月末時点の筆頭株主は住友信託銀行(保有比率7.0%)であり、創業家は大株主上位10名の名簿には存在しなかった(出所:株式会社年鑑 昭和38年版)。資本的な裏付けが限定される一方で、社長としては正田英三郎氏が経営を担い続け、創業家の経営関与は形を変えて維持された。
ニューマチック方式導入と国内首位固め
1957年、日清製粉は鶴見と神戸の両工場に空気搬送方式すなわちニューマチック方式の製粉設備を国内で初めて導入した[11]。粉の搬送を機械式コンベヤから空気圧送に切り替えるこの方式は、異物混入の抑制と歩留まりの改善をもたらし、製粉品質と生産効率の両面で従来設備を上回った。新方式の採用は同社の技術的優位を内外に示す材料となり、設備投資の競争で他社の追随を促した。1960年代から1970年代にかけて、パン・パスタ・プレミックスといった加工食品の普及が進み、食生活の洋風化が小麦粉需要の拡大要因として作用した。この需要拡大が、ニューマチック方式に代表される高効率設備への投資回収を支える前提となった。
需要拡大の波を受け、日清製粉は1971年に神戸第二工場、1974年に千葉工場を相次いで稼働させ、輸入小麦の受入から製粉までを一貫処理できる港湾隣接の高能力拠点を整備した。この時期の国内製粉シェアは35%前後で推移し、業界首位の地位を固めた。原料となる小麦は8割以上が輸入であるため、港湾岸壁に船を直付けして真空吸引で受け入れる「海工場」型の高能力工場を持つ事業者ほど、原料物流コストと加工コストの両面で優位に立てる構造があった。立地と能力の組み合わせが直接的に勝敗を決める産業の性質が、上位数社の寡占構造をかたちづくった。日清製粉はこの寡占化の流れの中で、先行投資による規模の経済を最大限に活用する側に位置した。
製粉一本足リスクと5本柱多角化路線の整備
製粉本業で国内首位を固める一方、1960年代以降は単一事業依存のリスクを意識した多角化路線が本格化した。1961年の配合飼料事業への参入を皮切りに、1965年には医薬品分野で日清化学を設立し、グループ内で蓄積したビタミン合成技術を新薬開発へと振り向けた[12][13]。1972年にはプラント設計分野で日清エンジニアリングを立ち上げ、製粉設備の社内開発で培ったエンジニアリング機能を外販事業に振り向けた[14]。これらの取り組みを通じて、製粉・飼料・食品・医薬・エンジニアリングという5本柱の事業体制が、1970年代中に整えられた[15]。各事業はいずれも製粉本業との技術的・顧客的な親和性をもつ周辺領域から選ばれ、ゼロからの新規参入ではない形で多角化を組み立てた。
5本柱体制の整備は、食糧管理法の下の制度的な収益構造に対する経営側の対応という側面も持っていた。当時の国内小麦粉価格は、食糧管理法のもとで政府が一定の利益幅を織り込んだ標準価格を設定する仕組みで、国際小麦価格と比べて割高な水準に維持される一方、価格改定の自由度は低く抑えられていた。製粉部門の収益は制度的な天井に阻まれて構造的に圧迫されており、本業の利益率を引き上げる手段が限られていた。多角化は、この収益構造の限界を別事業の積み上げで補う対症療法の性格を帯びていた。ただし、新規事業の収益貢献は緩やかなものに留まり、グループ利益率の改善は数ポイント単位にとどまった。この時期の経営は、利益率の引き上げよりも売上規模の拡大を優先する方向に重心を置いていた。
1975年〜2007年 多角化の全盛期、北米進出と持株会社制への移行
NI-90計画と分社・統合・再分社を繰り返した20年
1980年代後半、グループ革新計画「エヌ・アイ90」のもとで日清フーズ・日清化学の両社を本社に吸収合併し、多角化した事業群を一元管理する体制へ再編した[16]。1989年にはカナダの製粉会社ロジャーズフーズを買収し、国内再編と海外展開を同時並行で進める体制を整えた[17]。医薬部門では1955年以降にグループ内で開発したビタミン合成技術を活用し、1992年に新薬ダイム錠(高血圧・狭心症の治療薬)を発売するなど、製粉技術の周辺応用による収益多様化を図った[18]。既存の製粉技術から派生した研究開発力が、グループ全体に新たな付加価値をもたらした。事業の幅を広げつつ、中核技術の応用先を探し続ける方針がはっきりと打ち出された。
2001年7月には全事業を再び分社化し、持株会社「日清製粉グループ本社」と事業会社(日清製粉・日清フーズ・日清飼料・日清ファルマなど)による新体制へ移行した[19]。エヌ・アイ90計画で子会社を本社へ統合したのとは逆の動きだが、「各事業会社がそれぞれの業界にベストフィットできる仕組みにする」(瀧原賢二社長、決算説明会 FY23-2Q)という事業運営の機動性向上の狙いが背景にあった。製粉首位という安定した収益基盤が、事業組織の大胆な変更を支える土台になっていた。分社と統合を繰り返す組織運営は、業界内でも異色の動きと受けとめられ、持株会社制の可否を巡る議論にも材料を提供した。
北米製粉の30年布石——ロジャーズ・タイ・NZ買収
1989年のカナダ・ロジャーズフーズ買収は、日本の製粉会社による初の海外製粉企業の買収であった[20]。当時の日本の製粉業界は国内市場の寡占構造の中で安定収益を享受しており、海外の製粉会社を取り込む発想自体が業界内では珍しかった。日清製粉は買収を通じて北米における現地小麦の調達ルートと工場運営ノウハウの蓄積に着手した。続いて1991年にはタイで合弁会社を設立し、東南アジア市場でも現地パートナーとの協業によって製粉事業の運営経験を広げた[21]。2010年代前半にはニュージーランドの製粉事業も取得し、太平洋圏の小麦産地を抑える布石とした[22]。海外拠点での現地運営ノウハウは、3案件を通じてグループ内に蓄積された。
1990年代から2000年代にかけての国内製粉市場は、人口減少の兆しと食生活の多様化のなかで小麦粉需要が頭打ちに転じつつあった。食パン・即席麺・パスタなどの加工食品向け需要が成熟段階に入り、業界全体で「国内シェア争い」だけでは成長を維持しにくい構造があらわになった。日清製粉は国内製粉シェア35%前後の業界首位という安定した収益基盤を活かしつつ、1990年代以降は海外を主戦場とする方針へ転じた[23]。ロジャーズ・タイ・ニュージーランドという3つの拠点で積み上げた30年がかりのノウハウが、後年の北米市場への買収を支える土台となった。
製粉キャッシュカウと食品・医薬の変動構造
1980年代から2000年代の連結業績では、製粉セグメントがキャッシュカウとして安定的に利益を稼ぎ、食品・医薬が業績の変動要因を担う収益構造が定着した。国内製粉は政府売渡価格を起点に小麦粉価格を改定する業界慣行が確立しており、小麦価格の上昇分を取引先への価格改定で転嫁するルールが機能していたため、業績への影響はおおむねニュートラルに保たれた。食品セグメントは家庭用パスタ、お好み焼粉、天ぷら粉などのリーディングカテゴリを擁し、製粉本業を補完する収益源として一定の貢献を続けた。製粉本業が業界寡占で安定収益を生み続け、食品・医薬・エンジニアリングが変動要因を担う構造が、この時期に明瞭になった。
医薬部門は1992年に新薬ダイム錠を発売し、製粉技術から派生した研究開発力の成果を示したが、連結業績への寄与は限定的な水準にとどまった。2000年代を通じて医薬部門の事業規模は製粉・食品の両セグメントに比べて小さい状態が続き、自社開発新薬以外の収益柱が育たないまま研究開発投資の重さと販売規模の小ささに苦しむ構造が継続した。新薬の上市から市場での収益化までに長い年月を要する医薬産業の特性が、グループ内での相対的なプレゼンス低下につながった。この医薬事業の収益貢献限界が、2008年に日清キョーリン製薬を杏林製薬へ合併する撤退判断の伏線となった[24]。
2008年〜2024年 選択と集中——医薬撤退から豪州買収、減損とV字回復
医薬撤退とミラー・ミリング買収、中食独立への動き
2008年、日清キョーリン製薬が杏林製薬に合併されたことで、グループの医薬部門は事実上の撤退となった[25]。1965年の日清化学設立以来およそ40年続いた医薬事業の撤退は、1970年代に整えた製粉・食品・飼料・医薬・エンジニアリングの5本柱体制からの明確な転換だった[26]。1992年に発売した高血圧・狭心症治療薬ダイム錠の販売規模は事業継続の経済性を支えるには至らず、ジェネリック医薬品の台頭と新薬開発の長期化・コスト増大が事業構造をさらに苦しくしていた。同年以降、経営方針として中核事業(製粉・食品)への経営資源集中と海外製粉拡大の両軸が前面に打ち出され、グループは「選択と集中」路線へ方針を変えた。
大枝宏之社長の下で、海外製粉の規模拡大が本格化した。中計期間中のM&A投資枠として2,000億円程度を充てる方針を業界に明言し、国内製粉業界では上位4社が約7割のシェアを握る一方で約90社もの製粉会社が併存するという業界構造認識のもと、国内市場の集約と海外買収の同時推進を掲げた[27][28]。2012年には米国ミラー・ミリング・カンパニーを買収し、北米最大級の小麦粉メーカーの取得によって日清の北米製粉事業は業界上位圏へ浮上した[29][30]。2014年5月には米国製粉4工場を追加で取得して規模を拡大し、1989年のカナダ・ロジャーズフーズ買収以来およそ25年かけて積み上げた海外展開ノウハウが、ここで形になった[31]。国内製粉需要が人口減で頭打ちになるなか、海外を主戦場とする軌道が定まった。
医薬撤退と海外拡大が並行するなか、食品セグメントは家庭用パスタ、お好み焼粉、天ぷら粉などのリーディングカテゴリを軸に2009年度の売上2,237億円・営業利益104億円の水準をおおむね維持し、グループ収益の安定要素となった。2016年に子会社化したジョイアス・フーズなどの企業買収を通じて中食事業の規模を積み上げ、2019年には中食・惣菜セグメントが食品から独立して、製粉・食品・中食の3区分体制へ移行した[32]。家庭内調理が外部委託化する中食消費トレンドの取り込みが、セグメント構成の組み換えを促した。中食事業は独立直後の437億円から1,300億円規模まで拡大し、新たな成長軸となった。
アライド・ピナクル買収とのれん427億・減損
2019年4月、日清製粉グループはオーストラリア最大の製粉会社アライド・ピナクル社を買収した[33]。この買収によって連結のれん残高は2018年度末の50億円から2019年度末に427億円へ膨らみ、製粉セグメントの資産規模が拡大し、資産効率の悪化を許容した[34]。米国・カナダ・豪州の三極で海外製粉網を構築するという長年の経営構想を完成させる戦略投資であり、アジア向け輸出拠点としての地政学的な価値と、人口増加が今後も続くと見込まれるオセアニア市場の長期的な成長性の両方が、買収の根拠として繰り返し説明された。日本の製粉会社としては異例の規模の海外投資であり、グループ全体のバランスシートを海外資産に傾ける決断でもあった。
しかし翌年に状況は一変した。コロナ禍が直撃して買収前に事業計画の核に据えていたインストアベーカリー向けの需要が落ち込み、加えて買収後のPMIの苦戦も重なり、収益改善に苦戦した。日本本社からの現地訪問自体も移動制限で制約され、経営管理上のコミュニケーションが十分にとれない状態が2年以上続き、2022年10月にはアライド・ピナクル社に対する減損損失を計上した[35]。2022年度は豪州製粉やエイコサペンタエン酸原薬事業の低迷に加え有価証券評価損が重なり、特別損失565億円が発生して創立以来初の親会社純損失104億円を計上した[36]。海外買収はのれん減損計上による帳簿上の修正に至った。
食糧インフレV字回復と価格転嫁慣行の変更
アライド・ピナクル買収後の3年間(2020年度から2022年度まで)は、国内外で同時多発のコスト上昇圧力にさらされた。ウクライナ情勢に起因する穀物や資源相場の急騰が2022年度も続き、豪州ではサプライチェーンの混乱と国境封鎖による人手不足がコストアップの要因として加わった。国内加工食品では原材料コストの取引先への転嫁が遅れ、食品セグメントの営業利益は2009年度比の半分以下の水準まで落ち込んだ。エイコサペンタエン酸原薬の主要供給先であるアマリン社が在庫過多に陥り、2023年度上期の下期出荷がほぼゼロになる打撃も重なった。買収直後の経営危機が、複数のセグメントで同時進行した。
一方、北米製粉事業は、同じ世界的な食糧インフレを販売マージン改善の機会として活用した。価格転嫁が業界全体で機能して競合他社にも同様の業績改善の動きが広く見られ、生産性改善と原料調達強化を組み合わせた北米製粉の利益率向上が他事業の損失を下支えした。2023年度の製粉セグメント利益は286億円と2022年度比で110億円増え、連結営業利益は328億円から478億円へと単年で150億円伸びた[37]。2023年1月に子会社化した熊本製粉の新規連結効果も加わり、グループ全社の利益水準がさらに押し上げられた[38]。同じインフレが地域によって逆の方向に効いた背景には、国ごとの価格転嫁慣行の違いと、現地経営陣の販売運営能力の差によるものと推定される。
2023年度の連結営業利益478億円のうち、製粉セグメント利益286億円がおよそ60%を占めた一方、食品セグメントは54億円、中食・惣菜セグメントは17億円と低調な水準にとどまった。2024年度は営業利益464億円と高水準を保ったが、国内製粉と国内加工食品でのコスト転嫁の遅れが新たな減益要因として表面化した[39]。小麦粉価格は2025年7月改定から人件費を含む転嫁へと制度が変更され、価格改定慣行の転換点となった。豪州製粉はコスト削減・主力製品の売上拡大・収益市場選択・ブランド化の4本柱で2023年度に8億円増益、計画値を達成した。一方、2022年度稼働のインドイースト事業は現地コストインフレが想定を超えて業績が目標未達となり、2026年度上期に2例目の海外事業減損を計上した[40]。多角化で支えるはずの収益構造は、結果として製粉本業への依存度をむしろ高めた。