1900年〜 機械製粉導入と戦前拡張、空襲で失った5工場
- 1900年 館林製粉を創立
- 1908年 旧日清製粉を合併し社名を継承
- 1926年 鶴見工場が竣工
- 1931年 鶴見工場が火災で焼失
- 1933年 小麦粉輸出が過去最高を記録
- 1936年 朝鮮製粉を設立
- 1945年 空襲で5工場が焼失
水車粉9割の市場で起業した正田家の機械製粉
1900年に群馬県館林で正田貞一郎氏が館林製粉(現・日清製粉)を創業。米国から最新鋭の機械式ローラーミルを輸入して製粉業に参入した新興企業であった。創業当初の資本金は3万円、製粉能力は日産50バーレルで、原料挽砕量に直せば一日およそ6トンにとどまる小規模な出発だった。当時の国内市場は伝統的な水車粉と輸入粉が消費のおよそ9割を占めており、機械式製粉は1割未満にとどまっていた。正田家は地元の館林で営んできた米穀商や醤油醸造業で培った財務基盤をもち、高額な機械輸入と自家発電設備の先行投資に耐えうる資本力を備えており、家業の多角化として機械製粉に新規参入を果たした。 [1][2][3]
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書【沿革】
- [1]1900年に正田貞一郎が群馬県館林で館林製粉(現・日清製粉)を創業した
- [3]創業当時の国内市場は水車粉と輸入粉が消費の約9割を占め、機械式製粉は1割未満だった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [2]創業当初の資本金は3万円、製粉能力は日産50バーレル(原料挽砕量で一日約6トン)だった
ボトルネックであった輸送については、東武鉄道の館林延伸(1907年)が製品出荷のボトルネックを解消して全国への出荷を開始。群馬地区における小麦粉を全国に出荷する事業をスタートさせた。
1908年に館林製粉は経営難に陥っていた横浜の日清製粉(旧会社)を合併し、日清製粉の社名を継承。本社機能を群馬県館林から東京へ移し、地方の製粉会社から国内業界の再編を主導する立場へ転じた。日露戦争後に各地で乱立した製粉会社が不況のたびに経営難に陥る業界構造をとらえ、"合理的経営"を社是に掲げたうえで、国内工場の合併吸収により生産規模を拡大した。大正期の好況のもとで名古屋・水戸・岡山・神戸の各工場を新設し、上毛製粉など4社を合併して、生産能力を1万バーレル超まで拡大。業界再編による規模の経済の追求が、日清製粉における製粉業の成功体験となった。 [4][5][6][7]
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書【沿革】
- [4]1908年に横浜の旧・日清製粉を合併し社名「日清製粉」を継承した
- [5]合併を機に本社機能を群馬県館林から東京へ移した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]大正期の好況のもとで国内工場の新設・合併により生産能力を1万バーレル超まで拡大した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]大正期に名古屋・水戸・岡山・神戸の各工場を新設し上毛製粉など4社を合併した
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書【沿革】
- [1]1900年に正田貞一郎が群馬県館林で館林製粉(現・日清製粉)を創業した
- [3]創業当時の国内市場は水車粉と輸入粉が消費の約9割を占め、機械式製粉は1割未満だった
- [4]1908年に横浜の旧・日清製粉を合併し社名「日清製粉」を継承した
- [5]合併を機に本社機能を群馬県館林から東京へ移した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [2]創業当初の資本金は3万円、製粉能力は日産50バーレル(原料挽砕量で一日約6トン)だった
- [7]大正期に名古屋・水戸・岡山・神戸の各工場を新設し上毛製粉など4社を合併した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]大正期の好況のもとで国内工場の新設・合併により生産能力を1万バーレル超まで拡大した
鶴見海工場と輸出1,500万袋の到達点
1928年に第二期工事がほぼ完成した鶴見工場は能力7,000バーレルで当時の国内最大級であり、これにより同社の全能力は1万9,400バーレルに増加し全国第一位となった。臨海の岸壁に直接本船を着岸させ、真空吸い上げ機で原料を自動受入する、いわゆる「海工場」として、輸入小麦の大量処理と品質管理を同時に成り立たせた拠点であった。投下した建設資金は800万円、資本金1,200万円の会社としては相応の決断を要した規模であった。
鶴見建設の狙いは専務取締役・正田貞一郎氏が1913年の外遊でマンチェスターの製粉工場を視察し、岸壁に汽船が横付けされニューマチックポンプで原料を吸い上げる光景に接した経験と、日本の製粉業発展には輸出が必要であるという判断による。
鶴見工場の能力拡張は、小麦粉輸出をもう一本の成長の柱に育てる前提となった。カナダ産の下級小麦を高品質に仕立てる独自の製品化技術と鶴見工場の処理能力が国際競争力の源泉となり、1933年の小麦粉輸出量は1,500万袋の過去最高を記録した。これは当年の国内販売量のおよそ半分に相当する輸出量で、日清製粉はグローバル市場でも頭角を表した。鶴見以降も汽船岸壁直付け方式の臨海工場を国内で先行整備し、原料の受入から製品の船積みまでを一拠点で完結させる「海工場」という事業構想により、製粉シェアの確保に注力した。 [8]
- 会社銀行八十年史(1955)
- [8]1933年の小麦粉輸出量は1,500万袋の過去最高で、国内販売量の約半分に相当した
- 会社銀行八十年史(1955)
- [8]1933年の小麦粉輸出量は1,500万袋の過去最高で、国内販売量の約半分に相当した
戦時統制下の不急産業指定と1945年5工場焼失
第二次世界大戦の勃発が製粉業界の状況を一変させた。軍の統制下で製粉業は「不急産業」として整備対象に指定され、工場の運転禁止処分が相次いで発令された。輸出を前提に積み上げた鶴見工場の能力は、原料輸入の途絶と統制経済への移行で稼働の機会を奪われ、戦前期に組み上げた業界首位の生産体制は、軍需に直接寄与しない産業として一律に縮小した。輸出の柱を失い、国内消費向けの稼働も統制で抑え込まれる二重の制約のもとで、戦前拡張の前提が崩れた。
1945年の空襲により、日清製粉は岡山、宇都宮、鶴見、水戸、鳥栖という主力の5工場が相次いで焼失した。終戦時点の残存能力は4,958バーレルと、戦前最高の5分の1以下まで低下。臨海立地で輸出を支えた鶴見工場も焼失工場の中に含まれており、戦前30年余りで積み上げた設備資産の大部分が一年間の戦災で失われた。このため、残存設備のみで戦後復興を開始した。 [9][10]
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書【沿革】
- [9]1945年の空襲で岡山・宇都宮・鶴見・水戸・鳥栖の主力5工場が焼失した
- 会社銀行八十年史(1955)
- [10]終戦時点の残存能力は4,958バーレルで戦前最高の5分の1以下まで低下した
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書【沿革】
- [9]1945年の空襲で岡山・宇都宮・鶴見・水戸・鳥栖の主力5工場が焼失した
- 会社銀行八十年史(1955)
- [10]終戦時点の残存能力は4,958バーレルで戦前最高の5分の1以下まで低下した