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あさひ銀行・東海銀行・三和銀行の3行統合構想とあさひの離脱

2000年破談

なぜ3行による広域の銀行統合は、条件交渉に入る前に統合方式をめぐって崩れたのか?

経営統合 共同持株会社
公表日時 2000年3月
交渉期間 2000年3月〜
帰結 破談(部分)
論点 ガバナンス
概要
2000年3月、三和・東海・あさひの3行が共同持株会社方式による経営統合で基本合意したが、統合方式をめぐる対立からあさひがわずか3カ月で離脱し、3行構想は破談した案件である。
背景
1999年のみずほ構想や2000年前後のメガ再編が連鎖するなか、リテール特化のあさひと最大手都銀の三和では目指す銀行像が異なり、規模を急いだ広域再編の枠組みとして組まれた。
内容
当初は2001年4月の持株会社設立を掲げたが、合併か持株会社か、誰が主導権を握るかで折り合わず、2000年6月にあさひが離脱。三和・東海は東洋信託銀行を加えてUFJへと統合を続けた。
含意
条件交渉の前に統合方式と主導権の合意を欠くと破談に至る典型例。三和・東海はUFJ、あさひは大和銀行とりそなへ進み、みずほ・UFJ・りそな3極体制の分岐点となった前史にあたる。
筆者の見解

統合方式という土台

あさひ・東海・三和の3行構想は、条件交渉に入る前の、統合の枠組みそのものをめぐって崩れた案件である。持株会社方式で緩やかに束ねるのか、合併によって一体化を急ぐのか——その設計は、どの銀行がどれだけ主導権を握り、統合後にどんな銀行像を目指すのかという問いと表裏一体であった。規模で勝る三和と、リテールに独自色を持つあさひとでは、その答えが重ならなかったとみられる。比率や金額といった数字の交渉以前に、誰がどの方式で一つになるのかという土台で折り合えなければ、統合は前に進まない。みずほが対等統合の建前を抱えたまま発足後につまずいたことと併せて読めば、枠組みの設計こそが再編の成否を分けるという教訓が浮かぶ。

破談それ自体は、必ずしも失敗とは言い切れない。あさひは離脱の結果として大和銀行グループと組み、リテールと信託を軸とするりそなへとつながった。三和と東海は東洋信託を加えてUFJを生み、のちに三菱UFJの中核へと合流していく。一つの構想が崩れたことが、みずほ・UFJ・りそなという三つの再編の流れを分ける結節点になったともいえる。当事者の地盤や事業の色合いが異なるほど、統合の方式と主導権の合意は重くのしかかる。成立しなかった構想にも、その後の金融地図を読み解く手がかりは数多く残されているのだろう。

Yutaka Sugiura

統合の背景

マクロ環境——金融ビッグバンとメガ再編の連鎖

1990年代後半の邦銀は、バブル崩壊後の不良債権処理と金融ビッグバンと呼ばれる規制緩和の只中にあり、護送船団方式に守られてきた経営の組み替えを迫られていた。再編はすでに連鎖的に始まっていた。1999年8月には第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の3行が全面統合を発表し[1]、国内初のメガバンクとなるみずほの構想が動き出す。さくら銀行と住友銀行も合併へと進み、のちの三井住友銀行へ向かっていく。都市銀行が大型のグループへと束ねられていくなかで、単独での生き残りに限界を感じた各行が、規模を求めて相手を探す状況が広がっていた。

ミクロ環境——あさひ銀行のリテール特化戦略

統合の一角を占めることになるあさひ銀行は、首都圏に厚い基盤を持つリテール特化の都市銀行であった。協和銀行と埼玉銀行が1991年4月に合併して協和埼玉銀行となり、1992年9月にあさひ銀行へ改称した銀行で、「信頼のリテールトップバンク」を掲げ、個人および中堅・中小企業の取引に経営資源を重点配分する地域密着型の戦略を推進していた。個人預金残高は都市銀行12行中5位、国内の店舗網は443カ店で都市銀行2位の規模を持ち[2]、住宅ローンでも強みを発揮していた。規模では最大手に及ばないものの、リテールという独自の色合いを備えた銀行だったといえる。

統合の発端

発端——あさひ・東海の提携から三和を交えた3行構想へ

3行構想の芽は、あさひと東海の接近にあった。あさひ銀行は金融自由化への備えとして、1998年9月に中京圏を地盤とする東海銀行との戦略的提携を発表する[3]。地盤が重ならない都市銀行どうしが手を組み、システムや商品で連携する構図であった。その後、関西圏を地盤とする三和銀行を加えた3行統合に向けた協議が続けられ[4]、構想は関西・中京・首都圏を覆う広域の再編へと膨らんでいった。地域が補完し合う組み合わせは、規模と地理的な広がりの両面で理にかなっているとみられていた。

統合が公になったのは2000年3月14日である[5]。関西を地盤とする三和銀行、中部の東海銀行、そして埼玉銀行と協和銀行の合併でできたあさひ銀行の3行が、経営統合を発表した。3行は「新しい金融サービス業」の創造という理念のもとで経営統合に関する基本合意を行い[6]、共同で金融持株会社を設立する枠組みを描いた。掲げられた理念は、社会に新たな価値を提供する新しい金融サービス業を創造すること、そしてミドル・リテール分野を中心に本邦随一の総合金融グループを目指すことであった。リテールに軸足を置く点で、あさひの色合いを映した構想でもあった。

三和銀行の視点——最大手としての規模

3行のなかで最大の規模を持っていたのは三和銀行である。三和・東海・東洋信託の統合を伝える2000年7月のプレスリリースの付属資料によれば、2000年3月末時点の総資産は三和銀行が約45兆円、東海銀行が約29兆円であった[7]。大阪を地盤とする三和は大企業取引や国際業務にも厚みを持つ最大手都市銀行で、規模の点でほかの2行を上回っていた。広域の再編という同じ絵を描いても、最大手の三和とリテール色の濃いあさひとでは、統合後の主導権や目指す銀行像に温度差が生じる余地があった。

統合の経過

統合方式をめぐる対立とあさひの離脱

統合の枠組みは、当初は金融持株会社方式で構想されていた。3行が共同で持株会社を設立し、その傘下に各行が入るという、みずほと同じ発想である。ところが協議が進むにつれ、統合の方法をめぐる意見の相違が表面化した。あさひ銀行は、統合の方法に関する意見の相違などから、2000年6月に3行統合から離脱する[8]。発表からわずか3カ月後のことであった[9]。リテールに軸足を置くあさひと、規模で勝る三和とのあいだで、持株会社のもとでどこまで一体化を進めるか、誰が主導権を握るかという根幹の設計が折り合わなかったとみられる。

離脱を受けても、三和と東海は歩みを止めなかった。両行は3行統合を見直したうえで、2行で経営統合を一段とスピードを上げて成し遂げるべく協議を進める[10]。この姿勢には、統合の実効を急ぐという思想が色濃く出ていた。さらに2000年7月5日、両行は三和と提携関係にあった東洋信託銀行を加えた3行で、持株会社を活用した統合を行うことに基本合意したと発表する[11]。持株会社は2001年4月、傘下銀行の合併は2002年4月を目処とし、スピードと先進性を掲げる総合金融グループを目指すという枠組みであった。あさひが懸念したであろう合併を前提とする設計が、残った枠組みではむしろ前面に出た形である。

統合の帰結

三和・東海はUFJへ、あさひはりそなへ

残った枠組みは、ほどなくUFJという形に結実した。2001年3月、金融庁が公表した事業再構築計画は、3行が持株会社を活用した統合を行うことで合意したこと、新グループの名称をUFJグループとすること[12]を明らかにしている。プレスリリースの計画では、持株会社の設立は2001年4月、傘下銀行である三和と東海の合併は2002年4月を目処としていた[13]。あさひが離脱の一因とした合併方式は、残った枠組みのなかで実行に移されていく。UFJはのちに三菱東京フィナンシャル・グループと統合し、三菱UFJフィナンシャル・グループの中核を構成することになる。

いっぽう離脱したあさひ銀行には、大型の金融再編が続くなかで市場の厳しい目線が向けられ、新たな再編相手を探すことになった。行き着いた先が大和銀行グループである。2001年9月、大和銀行グループとあさひ銀行は「スーパー・リージョナル・バンク」構想のもとで経営統合に基本合意し、2002年3月に統合を実施した[14]。都市銀行の質の高い金融サービスと地域銀行の密着力を融合し、メガバンクでも地域銀行でもない新しい金融グループを目指す統合であった。2002年10月に持株会社はりそなホールディングスへ改称し、2003年3月には大和銀行とあさひ銀行が分割・合併して、りそな銀行と埼玉りそな銀行が営業を開始した[15]。あさひのリテール基盤は、形を変えてりそなへと受け継がれた。

出典・参考