ファーストリテイリング(ユニクロなどを展開)の創業は終戦直後の1949年である。山口県宇部を地盤として主に土木業に携わっていた柳井等(やない・ひとし)氏が、1949年に宇部新川駅前の商店街(宇部中央銀天街商店街)にて紳士服店「メンズショップ小郡商事」を開業し、現在のファーストリテイリングを創業した。
なお、ユニクロが店舗展開を開始したのは1984年であり、それまでの35年間は、商店街の紳士服店として経営されていた。
当時は商店街の小さな紳士服を扱う店舗に過ぎず、ありふれた零細小売店舗の一つであったが、駅前商店街の発展によりそこそこ繁盛したと言われている。
小郡商事が拠点を構えた宇部新川駅前商店街は、宇部を代表する石炭会社であった宇部興産の本社拠点の最寄であり、1950年代の石炭産業の興隆にも支えられて商売を軌道に乗せた。
宇部新川駅前商店街の発展により、紳士服店も業容を拡大。1960年に柳井等氏は、それまで個人事業であった「小郡商事」を株式会社に改組することを決め、資本金600万円で小郡商事株式会社を設立した。
1969年には北九州市の小倉に「メンズショップOS小倉店」を出店するなど、創業の地である宇部以外にも店舗展開を開始した。
帝国銀行の調査によれば、1967年時点の小郡商事の業績は、年商は約8000万円・年間利益157万円・従業員数22名であり、商店街の小売業としては中規模の会社であった。また、取引先の金融機関は広島銀行宇部支店の1行のみであった。
なお、小郡商事の本店の所在地は、創業地である宇部新川駅前商店街(山口県宇部市中央町2-12-12)に設置した。なお、2022年現在、小郡商事の本店所在地は公園として整備されており、かつての店舗があった形跡は存在しない。
柳井等氏の息子である柳井正氏は、早稲田大学卒業後にイトーヨーカ堂で約1年就職したのちに、1972年に実家のある宇部に戻り、家業の紳士服店の経営に携わるようになった。この当時、柳井正氏は商店街の1店主として、小郡商事の店舗を運営した。
最初の約10年間は、商店街の衰退スピードが緩かったこともあり、小郡商事は商店街で複数店舗を運営することで発展していた。商店街の一等地に存在した中堅百貨店にも出店するなど、商店街の中では発展した店舗となった。
ところが、1980年代に入ると商店街の衰退が徐々に影響に現れるようになった。このため、柳井正氏は商店街に店舗を構える小郡商事のままでは未来がないと考え、この頃から経営改革に乗り出した。
1980年代を通じて、宇部新川駅前商店街は「宇部興産のリストラ」と「生活圏の郊外への移転」という時代の変化に直面した。
宇部興産のリストラは、石炭産業の衰退によるものであった。企業城下町として発展した宇部新川駅商店街は、宇部興産の従業員という大口顧客がこれ以上増えないという問題に直面した。
生活圏の郊外移転は、自動車の普及によるロードサイドの発展による。1970年代に入ると道路網が整備されたことで、宇部のような地方都市にもモータリゼーションの波が到来。顧客の購買行動は「徒歩による商店街での買い物」から「自動車によるショッピングセンターでの買い物」へと変化し、宇部新川駅前商店街の衰退が決定的となった。
ただし、宇部新川駅前の衰退は一夜にして突然到来したものではなく、1970年代から2000年代にかけて徐々に影響が出たことから、危機感を持つ商店主は少なかったと思われる。1980年代には宇部新川商店街の気鋭の若手店主たちが、街を盛り上げるために立ち上がり、9億円を投資して多目的施設「銀天プラザ」を1988年に開業するなど、希望の光も存在した。
その後、これらの活性化の試みは、いずれも効果を発揮せずに失敗に終わり、商店街はシャッター街と化した。2022年現在、宇部新川駅前の商店街は商業地としての役目を終えて、空き地ないし住宅地に転換されつつある。かつて宇部新川にて最も栄えていた百貨店「デパート大和(中央大和)」は2007年に閉鎖され、跡地には高層マンションが建設されるなど、かつての繁栄の面影は跡形もなく消滅した。
私は1949年に、山口県宇部市という炭鉱の町に生まれました。石炭の産出地ですから、戦後復興期に大変栄えていた記憶があります。しかし、石炭から石油へとエネルギー革命が起こり、炭鉱は閉山、人口は減少していきました。
...(中略)...
産業の衰退に伴い、あれほど賑わっていた商店街も多くの店舗が閉店していきました。現在では他の多くの商店街と同じようにシャッター通りとなっていて、われわれの店があった場所も更地になっています。本当に寂しい限りです。過去の話ですが、これが私の原点です
柳井正氏は斜陽化しつつある宇部新川駅前の商店街からの脱出を図るため、広島にカジュアルウェアのユニクロ1号店を新規出店した。広島随一の繁華街に出店し、若者の集客を図る。
ただし、この当時は「カジュアルウェア」に焦点を合わせていたものの、大量生産というコンセプトは具現化できておらず、都心店舗の展開は頓挫する。
その後、ロードサイドでの展開に集中したため、1991年8月にユニクロ袋町の閉店を決定した。
1984年に柳井正氏は家業の小郡商事の経営を引き継ぎ、代表取締役社長に就任した。
以後、柳井正氏は宇部商店街における紳士服店というビジネスから脱却するために、新規事業に注力する。
なお、家業に関しては、1984年にオーエス販売株式会社として分社化し、新事業を小郡商事の本業に据えた。家業の従業員を新事業に従事させないことによって、新事業の展開におけるボトルネックになることを回避したものと推察される。
広島の繁華街への出店から嗜好を変え、柳井正氏はロードサイドの郊外に着目。1985年に山口県下関市にロードサイド郊外店の1号となる「ユニクロ山の田店」を開業した。
当時は、西日本においてロードサイド店舗は珍しい存在であり、ユニクロは自動車を所有するファミリー層から支持され、順調に業容を拡大するきっかけを掴む。このロードサイド郊外店舗の展開が、ユニクロにとってのプロダクトマーケットフィット(PMF)となった。
1985年内には岡山県にて「ユニクロ岡南店」を開業し、中国地方におけるロードサイド店舗の集中展開を開始した。
なお、自動車を所有するファミリー層が、ユニクロで購入するアパレルは「高級品」や「個性的」なものではなく、年齢や性別関係なく着用できる普段着であった。1995年時点の客単価は、平日4000円、休日5000円であり、1商品あたりの単価は1000円前後が主流であった。対象商品は、トップスやボトムに加えて、下着類など幅広く取り揃えており、全てのカジュアルウェアをカバーした。
このため、顧客からは「コストと品質」がシビアに要求されることから、ユニクロにとっては「安くて品質が良い普段着」を、いかにして仕入れできるかが至上命題となる。
柳井正氏は、品質の良いカジュアルウェアを安価で確保するために、国内ではなく中国のアパレルメーカーに着目。1988年に香港に拠点を設置し、中国メーカーとの取引を模索した。
柳井正氏は、米国のGAPが香港を窓口して中国メーカーと協力しながらアパレル商品を作り上げる方式「SPA(製造小売業)」注目し、ユニクロでも中国メーカーから仕入れる方針を決めた。
ただし、中国メーカーは生産におけるスケールメリットを重視することから、ロードサイドに店舗数をまだ十分確保していなかったユニクロにとっては、中国メーカーとの取引は本格化できなかった。GAPなどの大企業が全米の店舗に商品を供給するという「大規模なロットで発注」するのに対して、ユニクロのわずかな店舗数では中国メーカーとしても取引するメリットに乏しかった。
このため、「品質の良いアパレル商品を仕入れる」ためには仕入れロット数の拡大が重要であり、すなわち「生産ラインを一定期間買い取る契約を締結できるか?」が重要な経営課題になった。このため、ユニクロは日本国内の店舗数の拡大を急ピッチに行う必要性が生じた。
暫定的な措置として、ユニクロは普段着の大半を国内のアパレルメーカーから仕入れる仕組みを持続して商品を確保した。1990年代前半におけるユニクロの主な仕入れ先は、水甚や美濃屋といった岐阜県に拠点を置くアパレルメーカーであり、国内メーカーとの取引による代償として、仕入れにおける高コストがボトルネックとなった。
柳井正氏は、ユニクロにおける「グローバルな調達体制」を確立するために、社名を小郡商事からファーストリテイリングに変更した。当時、日本国内にSPAを標榜する小売業は稀有な存在であり、ファーストリテイリングが国内企業としては最先発となった。
ただし、当時は業界内でさえ「SPA(製造小売業)」という概念は一般的ではなく、わかりにくい社名としてメディア記事が評したこともあった。裏を返せば、ユニクロが立脚していたSPAという概念は、それほど新しいものであり、誰も注目しないビジネスモデルであったと言える。
1991年以降、ファーストリテイリングはSPAを具現化するために、ユニクロ店舗の急速な拡大を志向。大量にカジュアルウェアを販売する仕組みを構築することで、中国メーカーからの大量ロットの仕入れを実現することを目論んだ。
当社は「ノンエイジ」「ノンセックス」というコンセプトに基づいたカジュアルウェアを、低価格かつ高品質で提供できるように努力してまいりました。具体的には商品の企画開発から販売まで一貫した商品政策の確立により流通経路の短縮をはかる一方、販売については店舗出店から運営まで徹底的な標準化を確立することにより、ローコスト経営を推し進めてまいりました。
1991年からファーストリテイリングは、借入調達によって得た資金をもとに、急速な店舗出店を開始した。1990年度内のユニクロ22店舗に対して、1991年度内に55店舗体制(+48店舗増加)を構築し、カジュアルウェアの大量販売を志向した。
1店舗あたりの新規開設に必要な資金は、人件費(正社員2名+パート4〜5名)と内装設備などで6000万円であった。出店コストを抑制するために、土地と建物をリース契約によって賃借することによって、固定資産の償却負担を回避する「持たざる経営」を志向した。
早期に出店による投資コストを回収するために、初年度から黒字が見込める立地に絞って、店舗を出店した。
ユニクロの店舗展開に当たっては、急速な全国展開を避けて、中国地方および東海地方に照準を絞って店舗を集中出店するドミナントを志向した。
ユニクロのターゲットであるカジュアルウェアはファミリー層が顧客の主体であり、自動車によってショッピングをするロードサイドの展開が前提であった。よって、自動車普及率の高い地域から優先的にユニクロの店舗出店を実施した。
1991年からファーストリテイリングは、借入調達を本格化した。政府系金融機関である日本長期信用銀行(広島支店)はファーストリテイリングを「老舗会社」ではなく「ベンチャー企業」として高く評価して融資を決定した。長銀の融資を受けて、従来は融資を渋っていた広島銀行や山口銀行といった地方銀行からも借り入れを実施した。この結果、ファーストリテイリングは、長銀の融資決定により、店舗展開のための人員採用および設備投資の費用を確保した。
ファーストリテイリングは資本ではなく借入金による巨額調達を志向したため、1991年から1994年にかけて自己資本比率が12%台で推移するなど、財務リスクを背負う形となった。ファーストリテイリングは未上場企業であったため、借入金の保証は柳井正氏(個人)が背負っていたものと推察される。
各年度における実際の借入金の調達額は不明であるが、ファーストリテイリングの株式上場前年度(1993年度)の時点における、借入金の期末残高は35億円であった。
銀行取引は、親父の代から40年、地方銀行1行でやってきて、急に店をぼんぼん出し、カネを貸してくれ、と言ったので、信用してもらえない。自主性を保ちながら融資を増やしてもらうのは大変だった。
銀行は横並びなので、後から取引するようになった銀行もメインがうんと言わないと支援してくれない。ある銀行は、決算毎に業績報告に行くと、褒めてくれるけど貸してはくれない。去年7月の上場前は、預金が貸し出しよりも多いのに貸してもらえないこともあった。
3年足らず前の一番苦しい時、日本長期信用銀行広島支店とお付き合いができるようになり、他の銀行と違い、われわれをベンチャー企業の1種として認めてもらい、見込みがあると貸してもらえた。これで非常に助かった。
急速な店舗拡大に対応するために、1992年4月にファーストリテイリングは社内コンピュータシステムを稼働した。
すでに、1988年の時点でユニクロの全店舗にPOSを導入していた経緯もあり、1992年からは販売数量や在庫の把握を社内システムで完結させる仕組みを作り上げたと推察される。
ユニクロの商品政策において、仕入れ面では「全量買取契約」というリスクを背負っていたため、過剰在庫を避ける仕組みを作り出すことは経営の必達課題であった。
情報システムを在庫削減につなげる取り組みが、1995年の時点でファーストリテイリングの社内で毎週月曜日に実施されていた「売価変更会議」である。POSからの販売データをもとに、柳井社長と経営陣が、現場の担当者とともに商品の値付けを変更する会議であり、在庫の消化をコントロールした。
売価変更会議は、各商品について全ての売値を決定するために、月曜日の朝から火曜日の夕方まで会議が続いたという。経営陣の時間を費やす会議であり、ファーストリテイリングにおいては、在庫のコントロールが重要な経営課題であったことが窺える。
1992年3月にファーストリテイリングは、祖業であるオーエス販売(紳士服店)の事業縮小を決定し、従業員のファーストリテイリングへの転籍を実施した。1992年4月にはオーエス本店の恩田店をユニクロに転換し、祖業からの撤退を完了する。
なお、ファーストリテイリングはユニクロへの転換に当たって、集客が見込めない創業の地の店舗(宇部新川商店街)を複数閉店しており、創業家が長年商売をしてきた宇部新川商店街での商売から撤退した。
1991年度内でユニクロの年間30店舗の出店を行うため、ファーストリテイリングは人材育成のための人事制度を整備した。柳井正氏は「人事制度こそ企業の生命線」と考え、年功序列ではなく実力主義による人事を基本方針に据えた。
店舗運営においての評価基準は「買いやすい売り場づくり」を行なっているかどうかで判断された。また、現場経験を半年から1年経て店長になった場合は、その後は実力主義によって昇格・昇給が決定され、年功序列を排除したシステムを導入した。このため、降格もあり得る人事制度であり、当時の日本企業としては異色の評価制度を導入した。
(注:人事制度を)明確にしないと社員は納得しないでしょうね。我々の新しい制度は、やっている仕事の内容と、職階、給料が完全にリンクしているのが特徴です。採用の時は、それを理解してもらってから入社してもらう。
人間の能力のピークは25歳くらいだと思うんです。歳をとっているからといって優秀になるとは限らない。四半期ごとに社員一人ひとりに対して日常の業務評価をやっています。業務評価と、日常の業務に関するペーパーテストの結果で、職階が上がります。一生懸命やれば、非常に早く一人前になるということですね。
まず店長がいて、5店舗くらいごとにエリアマネージャーが1人いて、エリアマネージャー5人あたりにブロックマネージャーが1人というのがうちの店舗運営システムです。ブロックマネージャーは20歳代がほとんどですね。その下に年長の30歳代のエリアマネージャーや店長がいるということが普通ですよ
ファーストリテイリングはユニクロの急速な多店舗展開によって、1994年に100店舗体制を確立した。わずか3年の間に80店舗を新設するスピード展開によって、カジュアルウェアの大量販売の仕組みを作り上げた。
ファーストリテイリングの売上高も、ユニクロの店舗数拡大に合わせて増大。1994年には売上高333億円(YoY+33%)の急成長を実現した。
1994年にファーストリテイリングは広島証券取引所に株式を上場し、約130億円の資本調達を実施した。この調達によって、自己資本比率を12%台から63%台へと改善し、財務体質の強化を図った。
株式上場に際して、ファーストリテイリングは売上成長と高収益を両立する会社として、市場関係者から注目を集めた。このため、広島のみならず国内や海外から買い注文が相次ぎ、当初は初値がつかない事態に陥った。最終的に、公募価格7200円に対して、初値14,900円となり、ファーストリテイリングの資金調達額は証券会社の値付けミスにより、過少となった。
なお、株式上場によってファーストリテイリングとユニクロの知名度が向上。バブル崩壊によってアパレル各社が苦戦する中で、急成長を遂げた異色企業として注目を集めた。
なお、柳井正氏は「上場して本当によかった」と述べたが、ファーストリテイリングの財務状況を改善し、安堵した気持ちが大きかったのだろうと推察される。
ファーストリテイリングは、全国的にも海外の投資家にも注目された。取引所としてはこの上場で特別うるおうということはないが、地域産業育成部銘柄制度をつくるなどして上場を働きかけており、広島を踏み石として、さらに大きくステップして欲しい
1994年にファーストリテイリングは株式上場によって、130億円の資金調達を実施した。この資金により、1995年度〜1997年度の3ヵ年において、年間50店舗のペースで出店する方針を固めた。
出店対象の地域は、ロードサイドの郊外であり、関東地方にも進出することで売上高の増大を目指した。なお、店舗を一定数確保できたことから、SPAにおける中国メーカーからの大量仕入れを実現するための販売量の確保に目処を立てた。
1994年にファーストリテイリングは、組織面において「開発・管理」と「店舗運営・商品本部」の2つの本部から構成される「本部制」を導入した。
業績の拡大によって従業員数が500名に迫ったことによる組織変更であり、各部署の責務を明確にする狙いがあったと推察される。
1995年までにファーストリテイリングは、中国に工場を抱える現地メーカー4社と契約を締結し、中国での生産委託を強化した。
契約締結に当たっては、東レ(日本のトップ繊維メーカー)を退職してコンサルタントとして独立した長谷川靖彦氏が、大きな役割を果たした。東レの輸出部を歴任して中国の生産事情に詳しい長谷川氏は、東レでは実現できなかった中国での現地生産に将来性を見出した。独立直後に、長谷川氏はファーストリテイリングとの取引を開始した。
長谷川氏はファーストリテイリングの委託先工場を探す手伝いをして、現地メーカーに対してユニクロの製造委託をするメリットを伝えるなど、契約締結に当たって大きな役割を果たした。ファーストリテイリングが上場したことで店舗拡大に目処がついたことから、大量ロットの受注が期待できることが、中国の現地メーカーにとって大きなメリットになった。
長谷川氏による仲介によって、1995年からファーストリテイリングは中国での委託生産を本格化し、宿願であったグローバルなSPAを構築した。
なお、中国の委託メーカーは、ユニクロとの取引が契機となり業容を拡大し、2000年代以降には株式上場を行う委託メーカーも現れた。このため、現地メーカーの経営者はファーストリテイリングの柳井正氏に心酔していったという。
ただし、委託先が4社程度に対して、生産拠点となる工場数は約80と非常に多く、中国の現地メーカーの生産性は悪かったと推察される。このため、1990年代後半にファーストリテイリングは委託先の工場の絞り込みを実施している。
また、ファーストリテイリングにおいて、中国における委託先の情報はトップシークレットとして扱われ、2017年に取引先を公表するまでは「委託工場での過酷な労働実態」が噂されるなど、様々な憶測を呼んだ。
(中国の委託メーカーに対して)私への報酬はいらないから、ぜひユニクロと付き合ってみてくれ、柳井というのは信用できる男だからと言って話をつけていきました。一方、柳井さんには、紹介する企業は、香港で長期にわたり欧米向けカジュアルウェアを主導してきた企業群で、ファッションに対する造詣も深く、特にアメリカンカジュアルの生産は品質や着心地など世界最高水準であるというプレゼンテーションを通して、提携を実現させてほしいとお願いしました
(注:柳井正氏と)知り合った当時のユニクロは年商250億円ほどの企業でしたが、みるみる1000億円、2000億円と成長していきました。柳井さんは、日々ベストを尽くすということを本当に毎日毎日限りなく続けている人です。だからこそ、一代でここまで来られた。柳井さんを紹介した中国の方々は皆、柳井さんに心酔していますよ
あの当時、世界の動きを見て私のような考えを持つ人は、私の周りには皆無でした。勝算などありませんでしたが、結果的に飛び出して良かったと思っています。自分をあちこち海外に行かせて学ばせてくれた東レを飛び出した時、私は会社に何も返せていないままでした。しかし今、東レの収益の少なくない部分をユニクロとの取引が占めています。結果的に東レにも恩返しができたと思っています。ほっとしていますよ(笑)
中国メーカーへの委託生産の本格化によって、ファーストリテイリングは仕入れに際して総合商社を通じて取引を実施。ニチメンを筆頭に、三菱商事、兼松、丸紅の各社と取引を行うことで、商品の仕入れ体制を整えた。
一方で、ファーストリテイリングは国内のアパレルメーカーとの取引を縮小した。支払手形の期末残高の推移を見ると、美濃屋や水甚など、それまで取引していた国内メーカーの問屋との取引額が減少しており、SPAの構築に合わせて国産商品の比率を大幅に低下させたものと推察される。
1994年から1998年にかけて、ファーストリテイリングは年間50店舗のハイペースでの出店を継続したものの、売上高の成長が鈍化した。1998年度には売上高の前年比YoYで+10%台へと低迷し、急成長企業としては成長の伸び悩みに直面した。
成長鈍化の理由としては、日本国内の目ぼしいロードサイド店舗への出店を完了してしまったことや、中国メーカーへの生産委託の品質向上には、依然として課題が多かったことが挙げられる。このため、ユニクロのブランドは依然として「品質が低い」として消費者に認知されていた。
組織面でも課題があり、小郡商事時代の経営陣が高齢ながらも長らく在籍していた。この結果、ファーストリテイリングが地方企業から全国企業へと発展する中で、一部の古参経営陣は価値観を転換できず、経営組織におけるボトルネックになっていた。
このため、柳井正氏は、ファーストリテイリングにおいて、非連続な改革の必要性を認識した。
ファーストリテイリングは1990年代を通じて西日本を中心とした郊外のロードサイド店を拡大してきたが、都心部における店舗展開の検討を開始。1998年11月に首都圏初の都心型店舗として「ユニクロ原宿店」を開業した。
ユニクロの都心型店舗の展開に合わせて、集客のための目玉商品としてフリースを準備。1着あたり1900円で売り出したところ、安くて品質が良いフリースとしてヒット。2001年度におけるファーストリテイリングの業績は「フリース旋風」によって高収益(売上高・当期純利益率15%)を叩き出した。
海外進出を本格化。郊外を中心に3年間で50店舗の出店を計画するが、ブランド認知の獲得に苦戦。最大21店舗の出店に至ったが、これを6店舗まで縮小するなど、海外展開で苦戦した。
2000年から2001年にかけてのフリース旋風が一巡すると、ファーストリテイリングは売上高が低迷。新規事業(シューズや野菜販売)も不発に終わり、本業である「ユニクロ」における事業の見直しに舵を切った。
2005年にファーストリテイリングは「事業構造改革」を開始。ユニクロの店舗について、従来は200坪が標準だった売場面積のルールを撤廃し、大型店や小型店など、最適な売場面積を試行錯誤した。
構造改革を通じて、売場面積の大型化が一定の業績成果を生み出した。これは従来のベーシック商品が中心だった小型店に比べて、大型店では品揃えが豊富となり、来客層が拡大したためであった。そこで、2006年からユニクロの店舗の大型化を志向。2010年までにユニクロの全店舗の売り場面積の1/3が大型店で構成する方針を策定した。
グローバル展開によって「ユニクロ」のブランドを高品質に寄せる方針が定まり、国内の「ユニクロ」は大型店舗における展開を軸となった。このため、空白地帯となる「国内・低価格衣料」の市場において、新しいブランドとして「ジーユー」の展開を開始。2006年10月にジーユー1号店を開業した。仕入れ面ではユニクロで培ったSPを活用。年間50店舗の出店を計画し、ショッピングセンターやロードサイドでの展開を目論んだ。
2006年にファーストリテイリングは「グローバル化」を宣言し、海外における「ユニクロ」の出店の積極化を決定した。
ただし、すでに2000年代前半にイギリスなどの海外に出店をしたものの、軌道に乗らず厳しい状況が続いていた。これは、2000年代前半までのユニクロの海外展開においては、郊外などの一等地ではない地域に出店したものの、認知確保の壁に直面し、結果として集客に苦戦したことが原因であった。
そこで、ファーストリテイリングでは、ユニクロの出店方針を練り直した上でグローバル化を志向。直前の2005年9月に出店した香港の大型店舗(売場面積300坪)が好調であったことを受けて、売場面積1000坪規模の大型店舗を進出国の一等地(日本における東京・銀座に相当する地域)に出店し、ブランド認知を一気に獲得する出店政策を採用した。
ファーストリテイリングはユニクロのグローバル旗艦店の1号店として、ニューヨークへの出店を決定。競争の厳しい米国進出を最初に行うことで、米国で通用したモデルを次の進出国に展開することを意図した。
2006年11月にグローバル旗艦店の1号店として米国のニューヨークのソーホー地区に出店。売場面積は1000坪であり、香港の3倍以上の規模であった。大型店の出店により、現地におけるブランド認知の獲得を目指した。
グローバル展開に合わせて、ファーストリテイリングは「ユニクロ」のシンボルマークの刷新を決定。クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏に依頼し、新たなシンボルマークを策定した。
なお、柳井正氏と佐藤可士和氏は共通の知り合いを通じて出会ったが、最初の段階で柳井正氏は、自称が可能な「クリエイター」という佐藤可士和氏の肩書きに疑念を抱き、最初は面会を断っていた。だが、佐藤可士和氏がテレビ番組で特集されたことを知り、柳井正氏は佐藤可士和氏を信頼し、仕事を依頼するに至ったという。
海外ユニクロ事業は従来の英国、中国に加え、2005年秋に米国、香港、韓国で出店を開始しました。海外ユニクロ事業で成功の兆しが見えたのは、2005年9月にオープンした香港の店舗です。香港ではすでにユニクロが認知されていたこと、そして売場面積が300坪と大型だったため、ユニクロ商品の良さやブランドコンセプトがきちんと伝わったことが成功の要因だったと考えています。一方、米国のショッピングモールへの出店を通じて認識したのは、「海外の新しい市場では知名度がないと簡単には売れない」ということです。これらの経験から、海外に進出して成功するためには、ブランドの認知が極めて重要であることを痛感し、現地におけるファッションの中心地に旗艦店を出店することで、知名度を飛躍的に高める戦略に転換しました。
この第一歩として、2006年11月にニューヨークに売場面積1,000坪の旗艦店をオープンしました。このソーホー ニューヨーク店は世界に向けたショーケースとなるグローバル旗艦店であり、今のユニクロで最高水準の商品、売場、サービスを表現しています。カジュアルウエアで最も競争の激しい市場である米国であえて出店するのは、そこで勝ち抜くことが、世界市場で戦っていく力をつけることになるからです。
ユニクロのグローバル展開のために、欧州・東南アジアを中心に主要国における出店を本格化